2026年4月28日火曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 3

La Motocyclette


9145 FLH1200 Electra Glide 1968

FLH1200 Electra Glide 1968 ‘Dionysus’
Rebecca (Marianne Faithfull)
“La Motocyclette”


 「La Motocyclette」について、何か書こうと思ったが、人の書いたエロについて、特に思うことが浮かばないことに気がついた。ペドフィリアこそ唾棄するべきと考えているが、それ以外他人様の性嗜好について、特に思うことはない、の延長で、やるのは好きだが聞くのは、又は視るのはそれほど好きと言うわけではない。
 というところで、エロ小説と言う側面で「La Motocyclette」を語ろうとしても、無理だと気がついた。


 そこでそれは一旦置いておいて、「マリアンヌ・フェイスフルとナンシー・スパンゲン、おまけにヨーコ・オノも加えちゃおう、この中で一番たちが悪いのは誰だ?」問題。これにいく。


 なんでこの3人かと言うと、マリアンヌ・フェイスフルは恋人だったミック・ジャガー以外の、ローリング・ストーンズのメンバーに、ナンシー・スパンゲンはシド・ヴィシャス以外のピストルズのメンバーに、ヨーコ・オノはジョン・レノン以外の、特にポール・マッカートニーにひどく嫌われていた、と言う共通点を持つ。


 少しだけ詳しく振り返る。


 マリアンヌ・フェイスフルは、**「耽美的な堕落と、底知れぬ生命力」**がある。ミック・ジャガー以外に嫌われていた、と言いつつ、ブライアン・ジョーンズやキース・リチャーズとも関係あったと言われてる。ストーンズのメンバーに嫌われたというよりは、「彼女がいることでミックが変質していくこと」への恐怖や、ドラッグ文化を加速させた触媒としての危うさがあった。 清楚な修道女のようなルックスでありながら、ミック・ジャガーという時代の寵児をドラッグとスキャンダルの渦中に引きずり込んだ点。有名な「バーズ・アイ・チョコレート・ロール」の事件に象徴される、退廃的な遊びのセンスがあった。ミックが彼女との関係でボロボロになり、周囲がハラハラしているのを尻目に、彼女自身は「ストリートの浮浪者」まで落ちぶれてもなお、低音のしゃがれ声を手に入れて不死鳥のように復活した。男を狂わせ、自分だけがその毒を養分にして生き残る**「猛毒の華」**のような質の悪さがある。男のキャリアや精神をボロボロに削りながら、自分はそれを伝説のスパイスに変えてしまう「貴族的な悪」だ。


 ナンシー・スパンゲンは、シド・ヴィシャス以外、ジョン・ライドン(ロッテン)には振られたけど、他のメンバーとも絡もうとして距離を置かれたり、バンド全体に煙たがられた。彼女は「嫌われる」という次元を超えて、バンドを物理的・精神的に解体してしまった。ある種、最も純粋な「破滅のアイコン」としての質の悪さがあった。 シド・ヴィシャスという、まだ何も持たない純粋で空っぽな少年に、ヘロインと「パンクの記号」を注入して、あっという間に地獄へ連れて行ってしまった。ピストルズのメンバー全員から「最低の女」と毛嫌いされ、バンドを空中分解させる決定打となった。救いがなく、短期間で全てを焼き尽くす**「爆薬」**のような質の悪さ。共依存による純粋な破壊。
 ナンシー・スパンゲンは、オタサーの姫のラスボスって感じがする。もっとぶっちゃけるなら、サイコパス。まさに、パンクという当時の「過激なサブカルチャー・コミュニティ」に舞い降りて、すべてを壊滅させた究極のクラッシャーだ。「至近距離でコミュニティの急所を突いてくる全滅呪文」のような趣がある。
 「シドを理解しているのは私だけ、他のメンバーは全員敵」という構図を作り上げ、バンド(サークル)の絆を内側から腐らせていく手口。これはまさに、閉鎖的なコミュニティを壊滅させる「姫」のムーブそのものじゃないか。
 ドラッグによる依存、精神的な不安定さ、そして「私がいなきゃこの人はダメになる(逆も然り)」という共依存の檻。シドという「コミュニティの看板(アイコン)」を完全に私物化して、外部の声を遮断する力は圧倒的だった。
 ラスボスが倒されるのではなく、ヒーロー(シド)を道連れに自爆して物語を強制終了させてしまう。あの、二ューヨーク、チェルシーホテルの結末は、最悪の形での「サークル解散」だった。


 ヨーコ・オノは、ジョン・レノン以外、特にポール・マッカートニー(とジョージ・ハリスンも)に「スタジオにまでついてくる干渉者」として猛烈に嫌われた。良くも悪くも「愛と平和」とか「前衛芸術」という、彼女なりの強固なクリエイティブな大義名分があった。ジョンと一緒に何かを「創り出す」エネルギーもあった。


 この問題、判定基準で答えが180度変わるのが面白いところ。

 バンドへの破壊力で測るなら、ナンシー > ヨーコ > マリアンヌ。ナンシーはシドを道連れに心中未遂→殺人事件→ピストルズ空中分解。破壊完了まで半年。ヨーコは10年かけてジョンを吸い上げた。マリアンヌはミックを消耗させたがストーンズは死ななかった。

 自覚の無さで測るなら、ヨーコ > マリアンヌ > ナンシー。ヨーコは「芸術」で全部正当化した。マリアンヌは後年「あの頃の私はクズだった」と言える。ナンシーはそもそも病気と薬で自覚の埒外。
 世間のヘイトを一身に受けた量なら、ヨーコ > ナンシー > マリアンヌ。ヨーコは50年叩かれ続けてる。ナンシーは死んで伝説化。マリアンヌは『Broken English』で再評価された。

 だから「誰が一番?」って問い自体が、それぞれの倫理観を試す踏み絵になってる。


 wikipediaに、アラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルとミック・ジャガーの3ショットの写真が載っていて、スゲエと思った。かの写真は、まさに**「1960年代のポップカルチャーの頂点」**を一枚に凝縮したような凄みがある。
 アラン・ドロンの彫刻のような美貌、ミック・ジャガーの野生的なカリスマ、そしてその間にいるマリアンヌ・フェイスフルの危うい透明感。あの時代の空気を知らなくても、視線だけで火花が散っているのが伝わってくる「密度の濃い」写真だ。
 フランスの至宝にして映画界の帝王(ドロン)と、英国ロック界の反逆児(ミック)。この異種格闘技戦のような顔合わせは、今では考えられないほど豪華なクロスオーバーである。
 ドロンがマリアンヌを口説きにかかっているようにも、ミックがそれをどこか冷めた(あるいは挑発的な)目で見ているようにも見える。あの張り詰めた関係性が、そのまま映画のワンシーンのようだ。

 二人の巨星を従えているようでもあり、二人の間で揺れているようでもある。彼女が「ただの可愛い女の子」ではなく、男たちを狂わせる**「質の悪いミューズ」**であることを雄弁に物語っている。

 ひっくり返して見てみると、マリアンヌ・フェイスフルは、むしろ「被害者寄り」のイメージが強い。ミックとの関係でドラッグにハマり、Redlandsの麻薬捜査で裸に毛皮一枚で有名になったり、ストーンズの曲(Sister Morphineとか)に影響を与えたりしたけど、バンドの他のメンバーを積極的に「食い散らかした」感じはない。ブライアンやキースとの一夜や短い関係はあったみたいだけど、全体として「ミックの恋人として巻き込まれた華やかな犠牲者」みたいな立ち位置。後年は歌手として独自のキャリアを築いてるし、たちが悪いというより「60年代ロックの犠牲者像」の象徴だと思う。

 もっと言うならば、結局、この三人を並べると「バンドの結束を乱す女」として語られがちだが、背景にあるのは男たちの弱さやバンドの内側にある脆さの方が多い。ナンシーは破壊の触媒、ヨーコは異文化・異芸術の衝突、マリアンヌは時代の犠牲。誰が一番悪いかで言うと、状況と毒の強さでナンシーがトップに来やすいけど、全部「ロックのロマンスの暗部」を体現してる点で甲乙つけがたい。


 ふと、思ったのだ。不倫相手に会いに行くのに、どうして、革つなぎでハーレーだったんだ? そんな派手な乗り物じゃなくて、もっとこう・・・。
 あいびきが主目的で、ハーレーは手段だと思い込んでいないか? そうじゃない、あいびきは口実で、ハーレーこそが主目的だったんじゃないか? と。そこに、どんな自由奔放な振舞いをしても、男在りき、男に振り回されることへのアンチテーゼがあったんじゃないか?

 60年代後半から80年台初めのロックカルチャーを眺めていると、女たちはどうしても「誰かの女」として語られがちだ。
 マリアンヌ・フェイスフルはミックの影、ナンシー・スパンゲンはシドの破滅の触媒、ヨーコ・オノはジョンという天才を引きずりながら、ビートルズの他の男たちを苛立たせる異物。彼女たちは常に男の物語の脇役か、ときには敵役として位置づけられ、男から独立した「自分の時間」は、なかなか表舞台に上がらない。

 そんな文脈で「La Motocyclette」のレベッカを改めて思い返すと、妙に鮮やかに浮かび上がってくるものがある。
 表層だけを見れば、これは紛れもないエロティック・エスケープの物語だ。新婚の夫レイモンド・ヌルのベッドを抜け出し、元恋人ダニエルから贈られたハーレー・ダビッドソンに跨がり、黒い革のスーツ(下は裸)を着て、恋人の待つ街へと疾走する。エンジンの低い振動が太ももから腰へ、腹へ、胸へと伝わり、速度が上がるにつれて彼女の肉体は熱を帯び、目的地での抱擁を予感させる昂ぶりへと導かれる——

 多くの読者や観客は、ここに「男に抱かれるための準備運動」を見て取るだろう。
 しかし、本当にそうだろうか。 レベッカにとって、真に「自分のもの」だった瞬間は、果たしてダニエルの腕の中や、夫の無機質なベッドの上だったのか。それとも、むしろハーレーに跨がり、風を切り裂き、誰の視線も、誰の所有権も届かない道を独りで疾走している、あの時間こそが、彼女のほんの一瞬の自律的な時間ではなかったか。

 夫の家では彼女は「ヌル夫人」——文字通り「無」の妻だ。ダニエルの元へ着けば、再び「男に抱かれる存在」として、ときにサドマゾ的な服従の役割すら演じる。だが、走っている間だけは違う。エンジンの振動は彼女自身の意志でコントロールされ(アクセルを捻るのは彼女自身だ)、その快楽は外部の男に依存しない。黒い革に包まれ、下は裸という倒錯的な装いは、男の視線を誘うように見えて、実は走っている限り「見られる対象」から「走る主体」へと彼女を変える鎧でもある。革の内側で彼女の肌が直接機械と触れ合い、速度と振動が彼女を満たす。その時間は、60年代のカウンターカルチャーが女性に与えがちだった「男の自由に寄り添う自由」とは、少し違う種類のものだ。

 マリアンヌ・フェイスフルがこの役を演じたことは、皮肉であり象徴的でもある。彼女自身がストーンズの男たちの中で「ミックの女」として消費され、傷つきながらも、後年は自分の声を取り戻していったように、レベッカもまた、ハーレーという「贈り物」を、男の意図を超えた自分の道具に変えているのかもしれない。少なくとも、走っている間だけは、彼女は誰のミューズでも、誰の敵でもなく、ただ疾走する一個の肉体と機械の融合体だ。
 思い浮かぶのは、15年前の1953年、マーロン・ブランドが演じた『乱暴者』のJohnnyだ。あの黒いレザーに身を包み、Triumphを駆って町を荒らす反逆者。Johnnyの自由は派手で集団的で、男らしい——社会への「何でもだ」という無差別な喧嘩だ。 レベッカのハーレーは、それとは違う。 彼女は一人で走る。エンジンの振動はギャングの咆哮ではなく、自分の太ももと腰を直接満たす。黒革の内側で肌が機械と触れ合い、速度が彼女を包む。目的地は恋人の腕かもしれないが、走っている「今」だけは、誰の所有物でもなく、誰の視線にも縛られない。
 Johnnyが仲間と共有する反逆なら、レベッカが味わうのは、ほとんど孤独で自己完結的な、危うい自律だ。

 60年代のロックカルチャーが女性に与えた「自由」は、往々にして男の影の中でしか成立しなかった。マリアンヌ、ナンシー、ヨーコがそうだったように。
 彼女たちが男たちの物語の中でしか自由を許されなかった時代に、レベッカはその物語の外側へ、ほんの数分だけ抜け出していたのかもしれない。 


 もちろん、その「自由」の行き着く先が、苛烈なクラッシュと死であるというのが、この小説(および映画)の冷たいユーモアであり、60年代的なロマンチシズムへの静かな嘲りでもある。レベッカの自律は、ほんの短い疾走の間だけ許された、危うい幻影だったのかもしれない。 それでも、エンジンを吹かして走り出すあの瞬間に、彼女は——少なくとも一瞬だけ——「自分の時間」を生きていたのではないか。



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