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2026年4月15日水曜日

キョンキョンという人

 

9104 小泉今日子

facebookで「知り合いかも」で出て来て、気まぐれで友達申請したら、受けてもらえてしまった。知り合いでもなんでもないんだが。何となく面白かったので、記念に。

小泉今日子氏は、学年で一個上、誕生日は2か月差。ほぼタメといっていい。
若い頃は、それほど好みでもなくスルーしていた。ところが今になって、むしろ「良い」と感じている。
あの頃の彼女は、「花の82年組」という完璧なアイドル像にパッケージングされていて、眩しすぎたのかもしれない。同世代として一緒に年齢を重ねてきた今だからこそ、彼女の放つ自然体な格好よさがリアルに響いてくる。
転機として印象的なのは、小林聡美氏との共演が増えてきた時期だ。『やっぱり猫が好き』のゲスト出演や、映画『マザーウォーター』のあたりから、彼女の中にあった「アイドルの記号性」がスッと抜けて、独特の「生活の匂いがするのに、どこか浮世離れした自由さ」が際立ってきた気がする。
小林聡美氏、もたいまさこ氏、そして市川実日子氏。あの面々と並んだときに生まれる空気感は特別だ。ベタベタした友情ではなく、「個」が確立した大人同士の程よい距離感。特別な事件が起きるわけでもなく、ただお茶を飲んだり料理を食べたりする場面でも、あの自然な佇まいは、表現者としての確固たる自信がないと成立しない。
……と言いたいところだが、実際にはドラマの中でパンチの効いた「事件」がひとつあった。横領して逃亡中の女を演じた作品で、市川実日子氏がアパートの住人として「察しているけれど、ズケズケ踏み込まない」絶妙な距離感で絡んでくるあの話だ。普通なら逃走サスペンスになりそうな設定を、あの面々が演じると「それもまた人生の一風景」に見えてしまうのが不思議で、じわじわくる可笑しみがあった。かつての「清純派アイドル」だったら絶対に許されなかったような役どころを、「まあ、そういうこともあるよね」と思わせる説得力で演じてしまう。
今の彼女が魅力的なのは、無理に若作りをするのでなく、今の自分を面白がっているような余裕があるからだ。「若く見られたい」という執着から解放された、潔い美しさ。自身の会社「株式会社明後日」を立ち上げ、舞台制作や執筆活動など裏方としてもクリエイティブな才能を発揮している。かつて「なんてったってアイドル」と歌った彼女が、今は「なんてったって一人の人間」として自由に生きている。その軽やかさが、同じ時代をサバイブしてきた者にとって、一種の希望のように見える。
思えば、この「忖度のなさ」は最初からそうだった。
1985〜86年当時のラジオ番組で、ゲストの吉川晃司氏がたじたじになっていたのを覚えている。あの頃の吉川氏といえば、肩パッドのスーツで逆立ちしたりプールに飛び込んだり、尖りに尖っていた「若き雄」だった。そんな彼をたじたじにさせる、二十歳前後の女の子。当時のアイドル界では異次元の存在感だ。相手が誰であれ、「私はこうおもう」という軸がブレない。彼女に圧倒されたのは、ルックスではなく、その「見透かされているような視線」と「自由さ」だったのではないだろうか。
今、彼女が政治や社会について発言すると「変わってしまった」と嘆く層がいる。でも実際は、最初からそうだったのだ。アイドルというシステムの中にいながら、そのシステムを客観的に面白がっているような、冷めた知性を当時から持っていた。
そういう人に限って、「左翼だから」とひとことラベルを貼って批判する。かつての大ファンだったりするから余計に始末が悪い。複雑な問題や彼女の真意を理解しようとせず、「サヨク」と言っておけば勝った気になれるという、思考の怠慢が透けて見える。彼女をいまだに「自分たちの都合の良い思い出のパッケージ」の中に閉じ込めておきたい。その変化を「成長」と捉えられず、レッテルを貼ることでしか自分の世界観を守れない。一言で言えば、頭わるそ〜、である。
同じ時代を生き、ほぼタメで、同じ空気を吸ってきたはずなのに、片や自分の言葉で今の時代を語り、片や昔の価値観で他人を裁こうとする。この「精神の鮮度」の差が、そのままカッコよさとダサさに直結している。
「吉川晃司をたじたじにさせたラジオ」から「横領逃亡女を軽やかに演じる今」まで、一本の線で繋がっている。若い頃の「鋭さ」をリアルタイムで知っているからこそ、今の成熟がより深く味わい深く感じられる。これぞ、同世代の醍醐味というものだろう。