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2022年5月24日火曜日

7499 RCB 1976 & 「公平・公正」?

7499 RCB 1976 

RCB 1976 
rider ;  Jean-Claude Chemarin & Alex George


 アゴラというサイトの、野口和彦氏という、群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部の教授、経歴を見れば、国際政治学者と一般人は認識してよい、方の文章、「ロシア・ウクライナ戦争で覚悟すべきリスクとは何か」について、思うことがあったので、書き記すこととする。

 要するにロシアによる核使用を回避するためにロシアに妥協せよ、ウクライナは諦めろととられかねないような論旨であると感じたが、結構多くの人も感じると思うが、オレは釈然としない思い、反感を感じた。

 一つには、この論法では、ロシア軍によって殺されてしまったウクライナの人々、ロシア軍が多くのウクライナの人を殺した事がなかったことにされてしまう事。多くの人が殺されたのは残念だが未来を見なければいけない、とでも言うのだろうか? そのような屈辱的な未来であれば要らない、という言い方もできるが、別の言い方をするならば、そういった無法によって殺された人々の事、その事についての残された人々の感情を一顧だにしない未来というのは有り得るのだろうか? ということである。まぁ、それですべてを決定してしまうのも問題多いのだが。

 関連してもう一つ。国際政治学者の口から、このような言葉が出てしまう事は、かつての政治学の学生だった者としては非常に残念だ、ということ。こういうことを言っていては政治学というものへの信頼は低下していくことだろう。本人は中立な所に立ったつもりなのだろうが、ロシアに利し、ウクライナに忍従を強いる論法というのは、伝え聞くウクライナの惨状を聞くに、とても公正な物言いとは思えない。
 文中、とにかく、彼が所属する学派というか、同じ考え方をする学者連中は、何はともあれ、今のコレを収めてしまえ、手段は問わんから、ということであるらしい。それが「現実的」であるらしい。如何にも、救いようがない今の世界の現実である。
 口を開かせて、その程度の事しか言わんのなら、黙ってろ、と思う人、結構多いような気がする。斯くして政治学者の言葉を聞いてくれる人が激減していく。

 印象として、ウクライナ、ロシア双方とも完全勝利は諦めているような気がする。停戦、終戦調停で、如何に自国に有利な条件を付けられるかというところで戦っているのだろう。それは確かに泥沼なんだが、

 世界のどこかで、ロシアの政変で劇的にこの動乱が終わるというシナリオを進行させているところがあるかもしれない。そして戦後は多大な人的損害、インフラなどの壊滅の賠償はロシアに求めない、国際社会でその辺は面倒を見る。その代わりロシア大統領以下戦争犯罪人には極刑も含めた厳しいペナルティを課す、と。
 まぁ、そうなるといいね、という妄想なのかもしれないが。

 政治学者に言ってもらいたいのは、戦争終結、戦後のあるべき姿と、その為の道筋であり、現状追認の言葉ではないのである。あいつ、怖いし面倒だからいうこと聞いとけ、じゃないのである。


 

2022年5月7日土曜日

7492 CB750four_40 retake & オレにとってはGW最後の日 

 

7492 CB750four_40 retake


 二週間ぐらい前の天気予報では、GW、雨にたたられるという話だったけれど、実際には当地の祭礼がある日に、よりによってその日だけ雨だったのだが、その他の日は結構快晴で、こう晴れの日が続けば、ウチの上長、釣りで海に出っぱなしだったろうな、と思う。オレより若く、見た目は、モロ土建屋のオヤジで声もダミ声だが、頭は柔らかく面倒見がいい、好人物である。SNSによれば、仕事でいろいろ技術的なコンサルティングをしてくださっている神村真さんは、ギターのエフェクターの虫干しをしておられた。引っ越しされて荷物整理とかなされていたのだろう。そういや、昔はギター少年だったと書いておられたか。
 人それぞれで面白いよね、別に遠くに出かけなくても。オレはというと、やりたいこといっぱいあるはずだったのが、結局、日蓮宗系内部抗争の件に気を取られてそれっきりでした。でも、まぁ、非常に面倒くさい反面、いろいろ考えたり、自分の思い違いが分かったり、楽しく思わなかったわけでもない。
 面倒ごとを引き連れてはきたけれど、姫には感謝していないこともない。っていうか、案外楽しんでいたのかもしれん。知らんけど。

 多分現代の創価学会、顕正会については、そうそう思い違いはなさそうだが、日蓮宗ができたころのこと、オレの勝手な思い込みで書いてたことが多く、非常にダサかった、おれ。詳しく、新しく勉強したことについては、追い追い書いていくことにして、

 いろいろ思い出したことがある。まずは青木新門氏のこと。これもやはり、昔付き合ってた女性に教えてもらった、当地大手の葬儀屋さんに勤めておられた青木さんの「納棺夫日記」を教えられて読んでみた、という思い出。青木氏は当地入善町の在家の念仏者である。死に対する諦観。オレはその時まだ30代半ばだったか。自分の事として死はまだリアリティはなかったが、何やらかが染み入ってくる感覚があった。
 その中で、氏が納棺夫を始めたころと、最近のご遺体、少々様子が違ってきている、というようなことが書かれていたのではなかったと思う。昔は生活、仕事で、生前体を酷使し、その挙句骸として横たわるのは、黒く縮こまった密度の高いご遺体。最近(と言っても、もう20何年か前)のご遺体は、食事がよくなって、なんか白く少しむくんだ柔らかいご遺体へと変化してるのだそうだ。
 ふと姫が、顕正会の教えとして、地獄に堕ちる人の骸は、黒ずみ重くなる、というよなことを言ってた。って、それを聞いたとき、まさか顕正会の人、葬式でご遺体を見てご遺族の前でそんなこと言ってないだろうな、とか思ってしまった。言ってしまったら、なんだこいつ? ってことになりかねない。それにしても、顕正会の教え通りなら、ひたすら真面目に生きてきた人が挙句地獄に落とされるとか、何とも報われない教えだな、と思ったものだが。

 もう一つ思い出したのが、父方の祖父の事。父は8人兄弟の5番目。男3人女5人の兄弟である。本当は、長子にもう一人男がいたらしいが、早逝している。三男だが実質次男として育ってきた。さて、祖父のある時期の大きな悩みというか、心に大きな重しになっていたのが、嫁に出した娘たちのうち何人か、次々と戦後の新宗教に入信してしまったことだったらしい。生長の家とか創価学会とか。あともう一つあったような気がする。
 祖父は、オレには想像できないかったが、父たち子供に対しては、結構厳格な父親だったらしい。娘たちにも厳しくしすぎたかと酷く悩んだ時期もあったらしいのだが。娘たちが新宗教に入信したのもその反動ではないかと悩んでいたのだろう。
 さてオレが京都にいていよいよ主に精神的に立ちいかなくなっていた時、兵庫は三田で学校の校長先生をしていた父の兄弟の末っ子の叔父が訪ねてきてくれたことがあった。叔父が来て何かが解決するわけではなかったが、一言だけ何やら忘れられない言葉がある。
 祖父が、かなりの晩年、叔父に言ったには、「念仏とかお題目とか、結局はみんな同じなのだ」と。そうやって祖父は娘たちのそれぞれの信心を受け入れたのだろうと。
 そういえば、高校の時の事だ。結構、その頃から困難なものを抱えていたオレは、両親に相談するよりは、例えば土曜の午後の学校帰り、祖父母のところへ行って、何をするわけではない暗くなるまで時間つぶしをしていたような記憶がある。祖父の書棚には仏教関係の書籍がいっぱいあった。基本、この辺に多い真宗門徒だったか、若いころはそんな熱心な念仏者ではなかったのではないか? 真宗に関する本だけではなかった。真言、天台、法華経の本もちらほら見られた。祖父も祖父なりに、いろいろ勉強したのだろう。
 そういえば、オレは結構後で聞いたのだが、恐らくごく軽い気持ちで、祖父は幼かったオレを仏門に入れ、どこかの高名な僧侶に弟子入りさせてはどうか、と、父に言ったそうだ。祖父は、このオレが、あの子はなんか違う、と思っていたそうで。まぁ、しっかり今じゃ只の凡夫なんだがな。父は内心慌てふためきつつもやんわりと断ったそうで。
 そんな祖父が亡くなった時の事だ。やや緩めの念仏者として祖父はなくなった。そんな祖父の骸は、日蓮にすれば唾棄するべきで地獄に堕ちるとされるところであるが、白く、寧ろ奇妙なくらい柔らかかった。
 調べてみるに、日蓮自身はそんなことを言うはずはないような気がしている。どちらかというとそんなことは興味がなさそうな印象を持っている、今のところは。その認識はあとで改まるかもしれない。いずれにしろ、誰が言い出したか地獄に行く人間の骸は黒く縮こまる説、でたらめ認定である。
 祖父の魂はどこに行ったのだろう? 浄土か?地獄か? いや、ただ虚空に消えていったのだろう。その時からそう思っている。

 これから、いろいろ日蓮宗、法華経を調べていくに際し、仏教形而上学に触れなくてはならなくなる。若い時は、心の救済に、そんなあるかどうかわからないものの話、要る? とか思っていたし、今も結構そう思っている。
 上記、青木氏が、何かの文章で、般若心経は念仏者としては受け入れがたきものだと書いておられた。その不寛容に少々残念な思いをした記憶があるが、それについての文章の内容はまさしくそれで、日蓮も、法華経以外を否定した理由はその辺にあるので、理解しなければ次に進めない。
 まぁ、一般にはGW最終日の明日、オレは所沢に移動しなくてはいけないので、明日がGW明け。で、そこで待っているのが少々オレの手には余ってるプロジェクトで、がぶり四つで組まなきゃいけない以上、あんまり時間的精神的余裕もないはずだが、まぁ、ボチボチとやっていきます。

 

2022年5月6日金曜日

7490 CB750four_66 & なぜに内ゲバ?

 

7490 CB750four_66


 法華宗系、特に創価学会、顕正会、何が気に入らないか整理しておく。

 何が何でも折伏するという頑なさ。それぞれの心の問題に対して、何ともも物々しい。大きなお世話っすわ。そのために、言い負けることは死と同等と思っているのか、相手をいかに汚い言葉を使って罵倒することも厭わない。それって宗教家のすることか?
 もともと相手を言い負かして、というところはあったが、日蓮が教義を弘通する過程で受けた酷い弾圧に対して、というところで身につけてしまった宗門としての体質、形質のように、只今の所色々調べている過程であるが、そう感じている。それが身内にも向かって、とにかく自分と意見が違う奴が気に入らない、日蓮入滅後、いきなり高弟同士で分裂しているというのだから、何をかいわんや、である。
 宗教の態を取りながら、個々の心の機微よりも政治の方に力点を置こうとするのってどうなの? 戦前の軍国教育の如く、画一的に一方向に人々を教化するっていう考え方。そりゃぁ、立派な人間になるのも大切だが、それによって引き起こされた陥穽が随分見受けられるようになった今、悪いのは本当にブサヨ的なものの所為だけなのか? 個々の心を置き去りにしてきてはいないのか?
 よりよき人になることを目指していく事も生きていく上でも社会でも必要であるが、ただ、宗教にはそういう事は求めていない。そんな宗教を名乗るなにかは要らないのである。

 ただ、なぜ、他人のことは言い負かせて屈服させないと気が済まないという風になってしまったか、という点について、これは逆に今日的問題であるとも思う。ネット民に割とそういうのが多い。何しろうっぷんが溜まる現代社会だから、では済まない、そういう気質を獲得してしまうプロセスがあるはずで、そういえば、創価学会、顕正会らが嫌う共産党あたりとの類似性相似性について書いたが、それよりも、リアルに殺し合いにこそなっていないけれど、全学連→日本赤軍のセクト同士の内ゲバにも似ているかもしれない。本当に問題にしなきゃいけない相手よりも内輪の気に入らない奴に強烈な敵意が向いてしまう、宗教を名乗っているというのに、この救いようのなさ。そういうのは、今現在であっても、法華宗系内だけじゃなくても、そこかしこで見受けられる。これぞ問題にするべき、人間、人間社会の性質であると思うのだが、どうだろう?

 
 妙法蓮華経=法華経、これがすべてで、後の教義めいた理論は要らない、法華宗としてはそれだけでいいと思うのだが、それにしても、日蓮は何をどうして、妙法蓮華経と他の経文との折衷を末法であるとしたのだろう? そして、他の経文を排斥しようとしたのだろう? まぁ、オレはお題目唱えて心地よいとは感じるものの、意味までは分からない。これ以外は必要ない、捨ててしまえとも思わない。まずは、そのあたりから調べて知ろうと思う。


2022年5月5日木曜日

7489 CB750four_65 & 内部抗争がお家芸

 

7489 CB750four_65


 年譜的に言えば、日蓮31歳の春、約13年の叡山、三井寺、高野山での遊学から故郷に帰り、天台宗清澄寺にて弟弟子たちに 妙法蓮華経=法華経こそが最勝の経であり、念仏や禅宗が、法華経とランクが下がる称名念仏を同等に扱ってしまっている間違いを犯していることを指摘し、法華経のお題目のみを唱えるべきと主張し、まぁ、ここから法華宗=日蓮宗が始まった、って感じのようだが、

 法華経が意味わからずとも大変端正な経文であることは、何となく理解できた。ウチの母の実家が門徒の真言宗衆徳山胎生院総持寺のFacebookのお友達でもある永田さん夫妻には申し訳ないが、般若心経よりお経読んでる、って手ごたえがある経文だった。般若心経、ちょっと短すぎのような感じで食い足りない部分があるって、本当は実はすごく長いお経なんだけど。法華経も般若心経も、鳩摩羅什が中国に持ち込んでいる。西遊記に出てくる三蔵法師というのは、水戸黄門の名の人物の如く、歴代何人もいる人の役職名みたいなもので、鳩摩羅什が最初の三蔵法師なんだそうだ。東アジアの仏教の広がりに多大な影響を与えた人物なんだが、だとすれば、この方現在の新疆ウィグル自治区あたりの出身ということで、仏教関係者、総力上げて、中国政府のウィグル弾圧非難しなきゃならないじゃないのか? と、ちらっと思ってみたり。日本に伝播したのもほぼ同時期だろう。
 法華経、最高! じゃなくて最勝! とするのはそれはそれでいい。しかし、他の経文を一切否定するのはいかがなものか? その疑問疑念に対する答えをまず見出すことにしようか。法華宗を除く他の宗派、宗門が、基本テキストを妙法蓮華経、般若心経あたりとするのは同じで違いはその解釈とするのに対し、法華宗は法華経オンリーワン。書き出してわかる。確かに異質だ。

 それに対する弾圧軋轢から日蓮宗が硬化していくのもわかるが、それで、日蓮入滅後、日蓮指名の六人の高弟、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持が、いきなりそれぞれの派閥を作ってしまった。内部分裂は日蓮宗のお家芸?
 このころから現代までどのような離合集散があったかはわからないが、頑なさというのが大きなネックになっているのは間違いないように思える。現在の派閥争いというのが、ただの信者獲得のみに終始していて、教義に関する論争が見えてこない。日蓮の直弟子、釈尊の直弟子を自称する顕正会だが、配られる冊子などを見るに、これではあれほど死ぬ思いをして法華経にこだわりぬいた日蓮大聖人様があまりに可哀そうだ、という内容である。

 法華経最優先、いや、オンリーワンでもいいが、本当に頑なに他を拒否、折伏しなければならなかったのか? その体質が今では同門他派へと向かっているというところで、その辺の寛容さがなければ、寧ろ自身が自壊するような気がしてならない。

 日蓮が、思い込みが並みならぬ強烈な人だったというのが想像できるが、どうしてそこに至ったのか、ぼちぼち研究していきたい、時間があるときに。