2021年4月7日水曜日
2021年3月28日日曜日
6399 E39A VR-4 & ぷれーとてくとにくす2
当地、富山というところは日本一地震被害の少ない所なんだそうだ。まぁ、そうタカをくくっていると、ある日ガツンとやられたりすることがあるのだが。古文書等を含め、記録に残る限り、域内に震源があり死者を出す以上の被害があった地震というのは、1586年の天正地震と1858年の安政飛越地震の2回きりである。
どちらも巨大地震で、天正地震については養老断層とともに庄川断層が一番最初に大きくずれたのではないか、と言われている。安政飛越地震は、同じく、大地震が集中して発生した時期に、安政東海地震に誘発されてという説が有力なんだとか。跡津川断層が震源である。
広告、グラフィッカーとしてゲーム制作をやって、何を思って地質調査の求人に飛びついたか、今となってはちょっとあいまい。当時付き合ってた女性と所帯持つにはそういう感じの仕事を、なんてことを考えていたことを薄っすら思い出す。ところが、そこに、つまり一個前の会社に就職したとたん、その女性には振られてしまうのだが。
何はともあれ、そうやって入った会社だが、ある日の事。暑くもなく寒くもなく、だから、せいぜい初夏の頃だったのではないかと思うが、神通川沿い、猪谷のアンカー工事、斜面の一番上あたりにいたりした。歩いて登れば、それだけで一日の仕事が終わってしまうが、すでに仮設してあるせいぜい50㏄の2ストロークエンジンで引っ張るモノレールで登ったのだから、さほど汗もかいていない。そこには何度か通ったが、一か所スイッチバックするところがあり、そこに、カモシカを心ならずも追い込んでしまい、進退窮まったカモシカは逆にこっちに突進してきて、結構の斜度の斜面、焦った、ということもあったのだが、それはそうと、そのアンカー工事をしている斜面の一番上でのことだ。
ちょうどそこは跡津川断層上(正確にはその周辺の茂住祐延断層)にあり、っていうか、この斜面の形成にはかの断層が少なからず作用していると思われるのだが、まあ、山々の緑のフラクタルノイズや谷筋稜線を乱暴に横断するするように一本、かすかにではあるけれど確実に、一本ズレの筋が見えた。
まぁ、そんなものをざらにあるのである。山がちな所での川なんて、かなりが断層伝いだったりするのだし、高校の地学の教科書にも載っていたし、専門書にも口絵にも使われる濃尾地震の時にできた、畑と道を見事に切断して見せた断層の写真やら、最たるものが衛星写真をつなぎ合わせた日本列島の写真の左下を横に走る中央構造線。
本当は霞ヶ浦のあたりかららしいが、オレがそうだと目に見えるのは諏訪のあたりから、最初は右に曲がるものの、渥美半島、伊勢湾くぐって紀伊半島を横断し、また海を潜って、四国を横断、海、九州は、阿蘇を通り、雲仙天草のあたりまで。
地球をリンゴに例えるなら、地殻というのは、いわば赤い表面の皮のようなもので、そこに何とかへばりつくように、人間も他の動物も植物もなんとかかんとか振り落とされないようにやっているのだけれど、まぁ、まったくそういうことに頓着せずに、時折バツンとずれてみたりするわけだ、地球様は。何たる理不尽さ!
リアルにそういうものを見て、ほんの少しばかり圧倒されていたオレの横で、当時の上司が言ったものである。
「俺たちは、こういう何万年の時間を相手に商売してるんだよなぁ。」と。まぁ、こういう意味のこちらの方言で、なんだけどな。
あぁ、そういうことなんだ、何がそういうことかはよくわからないが、妙に臓腑に落ち着くものがあった。子供の時から地面の下の事が妙に気になるのも、ダラダラ緩くこの業界の末席を汚し続けているのも、あの時の上司の言葉のようなことがあるからなのかもしれない。
ウチの79歳の母は、特撮物のゴジラとかジュラシックパークが大好きで、なぜかというと、どうやら、ビルとか踏みつぶしていく理不尽さに一種のカタルシスを感じているようなのだが、まぁ、似ていると言っちゃ、似ているのかな?
2021年3月27日土曜日
6398 Jacky Ickx_1 retake & ぷれーとてくとにくす
言葉を覚えた幼児とその親に待っているのはなぜなに期で、しかし、それくらいの子供の親の年代は、せいぜいアラサー、まあ、20代が多数派なのかもしれない。母親は、一種使命感を持って、それに真摯に向き合おうとするのかもしれないが、それを台無しにするのが父親で、結構テキトーな事を子供に教え込む、なんてことも少なくないはずだ。
「『うらめしや』って何?」
という、幼児だったオレの問いに、ウチの父は
「それは、家の裏に飯屋があって、そこの飯が、酷く不味くてなあ」
などと言い、隣にいた、オレのイッコ下の娘(従妹)を持つ義叔父(母の妹の夫)は、
「飯粒をひっくり返すと、よく見ると一本筋があって、その両端が少し広がって、まるで弓矢の矢にみえるところが・・・」
などと、本当、アラサー(当時)の父親って仕方ない。
かと思えば、幼稚園児だった頃の事だ。多分、関西に住む結婚前の父の弟である当時教員をしていた叔父が、ウチに泊まりに来た時の朝、「マントルって何?」という問いに、台所のさっき食べた朝食の味噌汁の残りが入った鍋がかかったコンロの前に連れていき、火をかけ、地球の中心はものすごく温度が高いマグマ(厳密にいえば違うが幼児にはあえてそう言ったのだろう)があって、それはちょうど、この鍋の下の火のようなもので、その上、この地面の下に、このマントルというみそ汁のようなものが、ちょうど、こんな感じでうねうね動いている。これが対流というやつ、みたいな感じで教えてくれた。
いや、幼稚園児に言ってもわかんねーし、というようなことは実はなく、まぁ、マグマ大使は年代的にちょっと上の世代のもので、オレは「帰ってきたウルトラマン」ぐらいの世代で、それらに出てくる用語としてなじみがないわけではなく、まぁ、なんとなくは頭の中に思い浮かべることはできた。
しかし、長らく、マントルというと味噌汁のような液体というイメージが抜けなかった。本当はそれはそれで高温高圧にさらされている岩質のものであるというのに。
アニメ、特撮の影響もあったのだとは思う。それらのストーリーに合わせて虚構にすり替えられたものではないが、幼児、小学生ぐらいの子供に向けてかみ砕かれた内容ではあったとは思うが、しかし、そういう地面の下のこと、或いは宇宙の星のこと。そういうものは目にできる限りは一通りすべて目を通し見聞きする子供であったとは思う。
学校で話を合わせるために、長嶋が引退して監督になった巨人の話、1番柴田、又は高田、2番土井、3番張本、4番王、とか、何しろ、当地、正力松太郎の生地が近所にあり読売の本貫地的なところがあるし(ついでに言うなら、角川源蔵、春樹親子も当地出身。KADOKAWAは体制、ずいぶん変わってしまったが)、阪神ファンとか中日ファンとか広島ファンということはあまりない。パリーグ、何それ?である。話を仕入れたりはしたけれど、本当のところ、あまりその辺には興味はなく、地面の下のこと、星のこと、あと、車とか飛行機のことの方により興味を持っていたお子様だった。
ゴンドワナ大陸が、パンゲア大陸が・・・あまりの稀有壮大さに、それを思うと手が止まる。まれにだけどそんな感じでボーとしてたこともある子供ってどーよ?、て気もしないではない。
高校では文系理科で地学を選択した。今はよく知らないが、昭和60年ごろ理系に進んでいれば受験科目の関係でそういう選択はありえず、文系理科でも大多数は生物を選択するような時代だった。
今現在のオレの職業、かつては広告をやったりゲームの製作もをしたこともあったが、土木の、地耐力がうんたら、というようなことをやっている。フラグは幼児の時に立っていたのかな、とも思う。
2021年3月20日土曜日
6397 R380A-I_8 & 赤いレーシングカーの時代について
プリンス自動車のスカイライン、一年目は馬鹿正直に紳士協定を守ったら本当にバカを見て、二年目はゴリゴリのマシン作って国産車の中ではブッチギリ、ポルシェにあと少し、というところまで行って、三年目は市販車ベースではこれ以上いけないし、会社として最後の花、ということもあって、作り上げたのがR380とのことだ。終戦後、いや明治以来の、欧米に追いつけ追い越せというムーブの中で、この時代のこのレースにしろ、ホンダのF1や二輪のTTにしろ、報道の扱いは大きかったようだ。今でも、佐藤琢磨氏が「世界三大レースのうちのひとつ」インディ500に勝てば、テレビのゴールデンタイムのニュースに取り上げられるし、トヨタのルマンでの活躍も同様。次、角田選手がモナコGPで勝つことがあれば、おそらくその時も扱いはトップニュースであろう。
60年代、カーレースというのはちょっとしたブームにはなりかけていたように思う。日本製品の性能の向上もあって、日本社会と経済のの明るい未来を投影できたのだろう。
しかし、それは定着することはなかった。なぜか想像してみた。
カーレース、モータースポーツが盛り上がりかけて、しぼんだタイミングというのは、リアルタイムで3回ばかり知っている。いずれも人死があってしぼんでしまった。富士の第一コーナーの観客とイモラのセナと加藤大治郎。または、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック。
60年代、そう思って思い出せば、といっても、モノの本で読んだ知識だが、浮谷東次郎、福澤幸雄。
浮谷東次郎氏と生沢徹氏は、上手くいけば彼らこそ日本最初のF1ドライバーになってもおかしくなかったが、浮谷氏は事故死で、生沢氏はよくわからないが多分相応のバックアップが得られなくて。多分、国内が盛り上がらなかったのとオイルショックもあったかもしれない。生沢氏は言うまでもなく現在御存命である。続いてF1参戦を期待された風戸裕氏も事故死しているが、70年代に入ってからの事。
福澤幸雄氏は、レーサーとモデルを兼業していて、芸能界、ファッション業界、文壇の友人も多く、絵にかいたようなセレブリティーであったわけだ。その非業の死の影響というのは、自然、日本社会に伝播していったことだろう。
レースでの出来事ではないが、その前には、撮影所で遊びでカートに乗っていた俳優の赤木圭一郎氏が事故死していることもあり、基本、そういうものは危険だ、という刷り込みを日本人にしてしまったのではないか、と感じている。
となると、あとは、特に戦後、高度経済期以降、現代の日本人の死生観の問題、ということにもなってくる。即ち、モータースポーツが日本でメジャーにならない、一部の好事家の供物以上のものにはならないのは、その辺と関わってくるということになりそうである。
ニーチェの「悲劇の誕生」とか、そうだな、ヨーロッパの戯曲における悲劇に関する考察は他にもいろいろあると思うが、不謹慎ではあるが、例えば、モナコGPとかが象徴的かもしれないが、上流階級の社交場で、2階席から悲劇の舞台を観劇するがごとく、高所から見下ろし、そこで時には悲劇も起こるけれど、どこかそれすら、生きていくエネルギーにしてしまうような人の業。
福澤幸雄氏の死、近代日本を形作ったキーパーソンの内の一人、福沢諭吉氏の曽孫でもある。それを消化し、または日本にそれを移植し醸成する試みはそこでとん挫した。それは、日本の思想は未熟だったのか、そもそもどこまでいっても異質のものなのか。
まぁ、無責任な事を書いた。何の裏付けも取っていない。当時の断片をいくつか読んだだけで、思いついた事を書いてみた。とりあえず、「悲劇の誕生」ぐらい、もう一度読み直してみたい。
2021年3月14日日曜日
6396 CB750F_19
6395 R380A-I_7 & 赤いレーシングカーのこと2
で、そのソフトビニルで包まれたボール紙でできたお絵描きセットのバッグにあしらわれた写真の赤いレーシングカーである。
まぁ、車種は一通り空で言えたようであるが、レーシングカーは、当時のプロトタイプカーも葉巻型のF1カーも一括りにレーシングカーだった。親父はオレに教えたとは言わないが、そういうことを教える大人がいないと、または、絵本などでも与えないと幼児に車の名前なんて言えるはずがない。が、仮に親父だとして、親父もレーシングカー、個別に名前なんか知らなかったのだろう。
右から左に疾走しているプロトタイプレーシングカーであった。それがプリントされたそのお絵描きセットのバッグは退院してからもしばらくお気に入りだったが、まぁ、幼児も持ち物だ。破損したのか、どうしたのか、いつの間にやら、どこかにやってしまった。
あの車はなんだったのだろう? 流線型のかっこいい車だったけど、決して日常的な場面で見られるような形ではなかった。
ある時、そのプリントされていた写真を別所で視ることができた。大人になってからだ。
プリンスR380A-I。1966年の5月初旬の富士スピードウェイ、衆人の目に現れたのはその一度きりで、「遂に」日本車が欧州車に勝った、そのレースでの一場面との事だったと思う。
オレが生まれたのは、大体その一か月前。6月の下旬にはビートルズが来日している。そんなころの写真であった。
モノの本や、wiki程度の知識であるが、日産に合併吸収されることが決定していたプリンス自動車技術陣の、最期の意地。
その2年前のレースで、スカイラインGT、B54は国産車では突出した性能であったにもかかわらず、レース専用車、ポルシェ904には、敵わず、レース中、一度はポルシェの前に出るも、結果的に後塵を拝する。確か、この話、テレビ、プロジェクトXとかでやってたよな、ちがうかな?
その辺の企業根性物語、或いは本田宗一郎とその子分達が空冷エンジンでF1に挑んだり他にはない小排気量多気筒のバイクでTTに挑んだりした話、或いはそんなホンダに挑んだ更に小さな町工場の吉村秀雄が火事や詐欺に遭い何度かどん底につきおとされてもはそのたびに這い上がった物語、企業話と言わずとも、若いころの長嶋茂雄が当時ナイター設備がなかった立教大学の夜のグラウンドでボールに石灰を塗って苦手を克服すべく守備練習をした話、投手として芽が出そうになかった王貞治が荒川博の家に幾晩も泊まり込み畳を何枚もダメにして一本足打法を開眼した話など、豊臣秀吉の立身出世の物語の如く、日本人の男の子としては知ってしかるべき教養であると、何となく錯覚していたが、そうではなかったようだ。何よりオレ自身そういうのが苦手なんだが。
米英ではなく、旧同盟国ドイツ製のポルシェではあったけれど、舶来品に、欧米へのコンプレックスがまだまだ強い時代の事だったのだろう。
R380はポルシェに勝った。新聞のトップの見出しを飾った、そうである。現在のモータースポーツより格段に上の待遇であり、プリンスがポルシェがどの車がというより、日本製が勝ったという事実が当時の日本には大事だったのだろう。
新生児の時に同時的に起きていたそんなことを知る由もなかった5歳の幼児は、やはり、そんなことは全く知らない。でも、意識下に自動車というものが、時代の希望であったと、何となく知っていたのかもしれない。そうじゃないかもしれない。ただ、安い幼児向けのバッグにプリントされたR380がそれ自体かっこよくて好きだったのだろう。
2021年3月13日土曜日
6394 Giacomo Agostini_11
ジャコモ・アゴスチーニは、大藪春彦の「汚れた英雄」の原作に、実名、出てきたかな? どうだったかな? 1960年代から70年代に前世だったイタリアのグランプリライダーで、オレがリアルタイムでレースを追いかけだした頃は、ヤマハのチームディレクターだった。
日本よりはるかにその方面に熱心なイタリア人にとってレジェンド中のレジェンドみたいな人。
6393 R380A-I_6 & 赤いレーシングカーのこと。
多分5歳の頃だったと思う。同じころにあさま山荘事件、ずっとテレビでやってたのを覚えているから、寒い時期だったのではないかと思う。その頃は父の勤務地の都合で福井市に住んでいたのだが、特に身体に不都合を感じていた覚えはないのだが、「肺炎」で入院していたことがある。両親にすればその親、オレからすれば祖父母が近くにいるわけではない、不安も多々あっただろう。
福井駅にほど近い割と大きめの病院だった。
とにかく、身体に特に不都合、何らかの症状を感じていないお子様だったから、親の目を盗んでは病院の中、いろいろ歩いて回った、ような記憶がある。それほど大した病気ではなかったのだ。
両親の故郷の高岡から、母方の、だったかな、父方のだったかな、祖母が見舞いに来た。何しろ病院中ぺたぺた歩き回るくらい退屈していたお子様だったので、病院の売店でお絵描きセットを買い与えられた。お絵描き帳と何色かのカラーペンが、厚紙をビニールで包まれたバックに入ったヤツ。
オレのは、赤いレーシングカーが右から左に疾走中のやつで、入院もしていない妹にもなぜか、恐らくは細川智栄子氏の絵柄と思われる少女のキャラクターが描かれたもの。
脱線する。細川氏の「王家の紋章」、いまだ連載中というのを最近知った。びっくりした。その作品のほとんどは1970年代のもので、「王家の紋章」も連載開始が1976年とwikipediaには書いてある。どのようなペースでの連載化は知らぬ。よく長期連載で引き合いに出される「ゴルゴ13」「こち亀」「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」ほどの掲載頻度ではないのかもしれない。良く知らないのだけれど、wiki情報では氏も、ウチの両親と同世代。長生きしていただけますように。
で、「王家の紋章」ではなく、赤いレーシングカー。
教員を勤め上げた叔父によれば、教育心理学か発達心理学か、その辺の学問で、そういう事例について学ぶこともあるそうなのだが、物の全体像、あるいはほんの一部分を見てそれが何であるか正確に言い当てる幼児というのは、割といるそうで、オレの大学の名古屋出身の先輩もそうであったらしいのだが、人様の言葉を満足にしゃべる前から、クルマの形、全体像は勿論、ミラーやテールランプだけを見て車種を言い当てるお子様だったらしいですよ、オレは。
とにかく、自動車がそんな頃から好きだったらしい。
因みに、その「肺炎」なんだが、誤診であったと聞かされた。子供、幼児だったから詳しいことは聞かされてはいない。親は当然というか、釈然とした表情ではなかったと思う。
大人になって、今現在福井市に在住している方に聞いた話では、その病院、福井市民にはやはりというか藪医者との評判だっただそうだが、とっくに代替わりもしたはずで、でも、50年経った今もそれなりに結構の規模で営業しておられるらしいので、実際はそうではないのかもしれない。