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2022年4月30日土曜日

0002 ZII_1(再掲) & オレの中で起きているランボゥと空冷4気筒のキャラ被りについて。

0002 ZII_1


 強くしなやかで自分を支えてくれるような言葉を探していたのだと、今になって思う。何しろ、ガールフレンドに全霊かけて向かって、全力で彼女ファーストでいたのが、ちょっと息をついたその瞬間に逃げられるなんて言うのを繰り返していたから、ガールフレンドに支えられ、なんてこともなく、支えてくれるとすれば、どこか吊るしの言葉を探してきてそれをつっかえ棒にするしかなかったのだ。
 
 
 早熟の詩人と、その時すでに半ば骨董品、肉厚鋳鉄で重い空冷4気筒、しかしチューニングすればとんでもない馬力を出せるそういうのを積んだバイク。両者への憧れみたいなものは、オレの脳みその中ではお互いシナプスが隣り合ってたんじゃないかと思う。

 概ね突き抜けた早熟天才詩人という印象のランボゥだが、「地獄の季節」では、その"地獄"に炙られながらも目をそらさず、遂に克服したかどうかもわからないが、それでも対峙する執念を感じた。それがオレの中においては、突き抜けた強さに変換でもされたのか?

 
 排気量は少なくとも、同じカワサキでオレの400の方が年式は新しかったのだが、土砂降りの国道8号線、福井のあたり西行きの車線、四苦八苦するオレの横を抜いていったのはZIIで、奥さんか彼女と思われる女性をタンデムに乗せて。
 バイクの性能じゃない。専ら乗り手の練度の所為だったのだろう。そのZIIこそ、突き抜けていく意志そのものに見えた。

 ちょっとややっこしいぞ。ついてきて。そんな雨の国道8号線の事を思い出しながら、麩屋町錦の旅館での泊りがけのバイト明けの朝、通りに出たところで待ってたのは、京都盆地の朝だというのに蒸し暑く淀んだ熱気と呼ぶ一歩手前まで来ている重く分厚い大気で、で、土砂降りにの国道の事を思い出しながら頭の中をリフレインしているのは、中島みゆきの「あした」で。

 何もかも愛を追い越してく
 土砂降りの一車線の人生
 凍えながら二人ともが
 二人分傷ついている

 ってね。まぁ、何はともあれ二人でいられてよかったじゃないか。いよいよオレが突き抜けていかなければならない時、オレは多分一人だ、という予想はどうやら正しかったようだが、それにしても、その時は呑気にそんなことを思いながら、蛸薬師通を河原町に歩いて抜けていた。ま、今も結構呑気なんだがな。


 今になって、あの時の心の動きを、ちょっとだけ詳しく思い出さなきゃいけない羽目になっている。それについては稿を改めて。


 画像のZIIは、ちょうどその頃の、PCなんてない、全くの手描きで、こんなん描いてたオレ、すげぇ、と思ったりするが、結構息を止めてやってたので、今はできないし、やったら、リアルに死ねる。

2022年4月29日金曜日

7473 750RS-ZII_37 & ランボゥの名前なんて久々に思い出した件

 

7473 750RS-ZII_37


 Mr.Bike BGの2022年5月号に連載中の、東本昌平氏の「雨はこれから」の最後の方、
「思い出した 私はボードレールよりランボーになりたかったのだ」
とある。因みに、ランボーとは、フランスの詩人、ジャン・ニコル・アルチュール・ランボゥのことであって、シルベスタ・スタローンの銃器ドッカンドッカンのマッチョなアレではない、念のため。

 東本氏のボードレールの引用は覚えている。鈴木信太郎氏の訳による、岩波書店のものの引用であったはずで、これに思い立ち探してみるが、埋もれて見つからない。ま、いつもの事なんだがな。仕方がないので、ネットで見つけた明治38年の上田敏氏による該当箇所の翻訳を転載する。「アホウドリ=信天翁=アルバトロス」からの引用である。

 雲居の君のこのさまよ、世の歌人(うたびと)に似たらずや、
 暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌(しの)ぎ猟男(さつを)の弓をあざみしも、
 地(つち)の下界(げかい)にやらはれて、勢子(せこ)の叫に煩へば、
 太しき双(そう)の羽根さへも起居妨(たちゐさまた)ぐ足まとひ。

 「キリン」の中には、アホウドリではなく「かもめのジョナサン」からの引用もあったな。生きづらさと自由は紙一重、でも、決定的に違う。空と陸のようなものだ。で、悲壮そうに見えて、どこか何やらコミカル。喜びいっぱいという感じでもないが、まぁ、こんなもんだろうし、悲しんでてもしかたないべ? という、どこかほんのり突き抜けた感じ。

 東本氏の作品の他の個所で、あ、これランボゥの引用だ! と思った記憶はあるのだが、どこからだったかは覚えていない。

 ランボゥの引用と言えば、東本氏の作品でなく、原作オサム氏、脚色と作画が御厨さと美氏の「ケンタウロスの伝説」の中のこれだ。

 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が

 で、ついでに見つかったよ、東本氏が引用したところ。どこで使っていたかは忘れた。上の引用のすぐ前だった。

 ああ、時よ、来い
 陶酔の時よ、来い


 これも岩波文庫、小林秀雄訳による「地獄の季節」(ま、「イルミナシオン」も収められてるんだけど)。堀口大学氏には申し訳ないが、新潮文庫の「ランボー詩集」よりこちらの方が気分だ。

 山川健一氏、最近めっきり作品を見ないのは、多分、オレが読書をしないせいなんだろうけれど、氏も何かに書いてたな。青春の護符として、いつもポケットに入っていたと。オレの場合青春の護符というとコリン・ウィルソンの「The Outsider」なんだが、しかし、「地獄の季節」、大岡昇平編「中原中也詩集」は、ポケットにいつも入っているというわけではないにしろ、ボロボロになるまで読みつぶし、何度か買い替えている。

 マラルメもまぁ、読んだことはあるし、宮沢賢治も同様。でも、なんか、ピンとこなかった。かなり偏ってのかもしれない、いや、偏っていた。この辺の好み。ぶっちゃけ、今思うと漫画由来なのな(爆


 でも、一度だけというのを含めると、こうやってちゃんと出版社から出ているものから、街角(京都だったし結構いた)で書き手自身が手売りしている詩集まで、結構読んだ。詩集を開くときは、ロックのCDを買い込んできてスロットルに入れて再生ボタンを押すときと同じわくわく感があった。