7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud
ポエトリーリーディングなどとカッコつけて横文字を使わずとも、詩の朗読と言ってしまえばいいのであるが、これは専ら読み手のためのもので、よほどの読み手でない限り、聞いているだけならあまり参加する意義は感じない。
アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックあたりの時から、イヴェントとしてあるようだ。自作の詩を読むのもいいけれど、それより、ある程度知られた他人様の詩を朗読する方が意義があるのではないかと思う時がある。何かを取り込むうえで。まぁ、感覚的に思うだけなんだけど。
或いは舞台演劇にも似る。言葉を、脳の中だけでなく、身体に、延いては魂に定着させる方法として有効であるように思う。これも感覚的に思うだけだけど。または「知らんけど」。
読経という行為はそれに似る。言霊などというが、いまいちオレにはふわっとしてあいまいだけど、そういうものなのかしら、古の、それなりに鍛錬を積んだ人の思想を体と魂に定着させる、そういう行為と解釈する。
ある女性の話だ。っていっても、どれだけいるかわからない、ウチのブログをすべて閲覧している読者にはわかるかもしれない、この前登場した、あの女性だ。挫折感いっぱいにこちらに戻ってきたはずだ、当時は。自己肯定感が極端に下がり、即ち自分自身に裏切られたような心持で、明日のめども立たず、今までの夢を放棄しなくてはいけない寂しさとか悲しさとか。泣きわめきたいけれど、いよいよその境地だとそれすらできなくなるような。
何の訓練も積み重ねもないと自分で思っていいた彼女が、安易に、夜の商売などにつくことが、一番考えやすいはずだけど、それだけ、割と見た目可愛らしいコだし、基本、明るい性格をしているので、いや、元女優だから、軽々とそう演じているだけなのかもしれないけれど、店に出てもそれなりに人気は出ただろう。
しかし、昼の務めを選んだ。職場の彼女は明るく有能で、打てば響く感じ、肝心、必要なところで素直だし。凛としてかっこいい。
本人の性格もあっただろうし、親兄弟、娘の果たした役割も大きいだろう。ただそれよりも彼女自身の人間としてのコアな部分の強さに、正直、いたら自分の娘ぐらいの歳の彼女を半ば尊敬したりもしていた。
彼女と彼女の高校時代の友人が目の前に並ぶ休日のファストフード店の席で、20の時、観月橋の前時代的な喫茶店でやはり女性二人に体面に座らされ、英会話教材の売り込みをかけられた時の事を思い出した。その時は、丁度大学のESSでチャップリンの「独裁者」の演説部分、いや、J.F.ケネディの就任演説だったかな? を暗唱していたので、それを目の前の二人の女性にかまして撃退した。
勧誘かよ、と。心の中で舌打ちをする。法華宗系の団体、らしい。何しろ職場ではぼーっとした感じのおっさんなので、扱いやすいと思われていたとしたら悔しいな、と。職場では若い彼女の足を引っ張ることも度々あり、少しは彼女の俺に対する心象も良くしたい、出来れば少しお近づきにもなりたい、なんて言うスケベ心がコレだ。まぁ、オレにはよくある事です。
と同時に、職場の彼女がどうして自分自身をしっかり保つ出来たのかその理由もわかった気がした。やはり古の人の言葉を体に取り込み、それによって彼女自身をしっかり立たせていたのだろう。聞けば、勤行のフォーマットをできるだけ厳格に守るのが彼女の団体の肝らしいし。朝夕、決められた形で今日を唱える。これは決してバカにできるものでないことは知っている。
体内時計的な生理的リズムを作っていくという効果、発声し、身体にダメージを与えない、特に声帯を頭蓋骨を振るわせて規則的に刺激を与えていくことで、思考と体のつながりの流れをよくすることができる、ような気がする、知らんけど。
それは、逆に言えば読経でなくても、妙法蓮華経でなくてもいいのだが、ある団体の下、その団体の規則としてそれを行う、というのは、我々はそれぞれは弱くいい加減な存在であるから、かなり有効であるようにも思う。
彼女は、この後、「確信」という言葉を使っているが、パッと目の前の霧が晴れる感覚、恐らく、それが強いものであれば、神秘体験とか啓示とかいう言い方をよそではするのだろう。脳と体が一定方向に一定以上の負荷がかかった時とかに、起こり得るものであるようだ。そのような効果を欲するならば、妙法蓮華経でなければならないことはない。般若心経でも、観経疏でも、念仏でも構わない。読経じゃなくてもよい。それでも、誰か著名な詩の朗読でも構わないし、歌を歌うのでも構わない。スポーツでその境地に至ることだってできるようだ。
そういえば、これを書いている今日の明日が命日となるアイルトン・セナ、フレディ・スペンサーはウチのブログではおなじみ。昔で言えばカール・ルイス、さらに昔のモハメド・アリ、ちょっと昔のウサイン・ボルト、最近では大坂ナオミに至るまでの「信仰の告白」とは、そういうところからきているように思う。
思想家であれば、フリードリヒ・ニーチェが自分の思想と形而下の自分の日常の悩みに疲れ果てた時、どこぞの湖のほとりを散歩していた時受けた啓示により、「ツァラトゥストラはかく語りき」を書きあげたはずだ。
オレにしても、今まで、中途半端なものであるならば、そういうの、何度か経験したこと、ないわけじゃない。
彼女には、妙法蓮華経があるところに、ぴたっとはまり、挫折に適切な手当てをして、それによって彼女自身をすくっと立たせさしめているのだと思った。無いこともないが、これで充分奇跡的なのだ。
充分奇跡的なのに、それを置いて、昔の、検証不可能な、ここでは彼女たちに合わせてこう言おう、日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々をオレに開陳されていくのを、うなづきつつも右から左に受け流しながら、職場ではあんなカッコいいのに、目の前の彼女はちょっと残念なコに見えてしまった。しかし、その次の日職場で彼女にあった時はいつものように凛々しくカッコよく可愛かったのだから、不思議なものだ。
彼女の同級生は、オレが気を使いながらも反論しようと試みても、それをさせじとばかりに言葉をかぶせてくる。勧誘時のノウハウの一つなのだろうか? こうやって勧誘することで団体の中での彼女の位階は上がることもあるのかもしれない。それに協力するのは、今後会社で円滑に彼女とコミュニケーション採るためにもやぶさかではなかった、この時点では。ただ、彼女が「普段はつかえねぇおっさんなんだから、こういうことぐらい私の役に立ちなさいよ」と思ってたとしたら、ちょっと辛い。
まぁ、会社での彼女との空気を悪くするのもはばかられたので、ままよ! そのファストフード店の近所の彼女たちの団体のスペースに連れていかれることになった。
緊張の次回に続く。