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2025年7月9日水曜日

どう変えるか?4 外国人の参政権、外国の参政権

  外国人参政権というのを、かつての民主党の系統の一部などが時々持ち出しては、その度に右派が過剰に反応して叩きまくる。Xで周期的に視ることがある光景だ。まぁ、確かに、在日、訪日外国人に関する今の制度そのものと運用をきっちりしない現状で、行うべき議論ではないと思う。

 それとは別に、個人的な考えとして、その外国人参政権、くれてやってもいいのだが、オレたちにも、影響力が強い諸外国の参政権よこせ、という主張もあっていいと思うのだ。
 アメリカ大統領や中国国家主席、ロシア大統領、その他もろもろ、彼らの一挙手一投足が、大いに我々の生活に影響する、この理不尽、非対称性。 まぁ、実現するとしても最低100年はかかるんだろうが、基礎理論位立ててみてもいいのではないか思う。

 言い換えれば、「外国人参政権」の議論を、単なる国内の権利問題としてではなく、「対称性(symmetry)」や「相互性(reciprocity)」という観点から捉え返す提案、つまり 「我々にも諸外国の参政権を寄越せ」 というのは、国際政治の構造的不均衡を炙り出す問題提起のつもりでいる。
 外国人参政権の議論は、確かに周期的にXで炎上し、ともすれば感情的な対立に陥り、右派の過剰反応も含め、感情的な対立が先行しがちだ。しかし、その背景にある「我々の生活が、我々がコントロールできない外部の力によって大きく左右される」という感覚は、多くの人々が共有するものだと思う。


 これは政治哲学・法哲学・主権論の交差点にあるようなテーマになり得ると考えている。




以下、基礎理論を考える上でのポイントを整理してみる。


現状の外国人参政権議論の問題点

 日本の文脈では、在日外国人(特に韓国・朝鮮籍)の歴史的背景や、永住者の権利問題が絡む。地方参政権を認めるべきかという議論が中心だが、感情的な反発(「国籍に基づく権利の不可侵性」vs「人権としての参政権」)で停滞している。

 特に右派には、最近ではかつてのように標的が在日朝鮮人だけではない。クルド人、フィリピン人、何より中国人へのヘイトが強く、その背景に、当日本人から徴収した税金を不当な形で彼らのために使われているという印象が強い、と言うことがある。これは、日本にいる短期、長期に滞在する外国人についての諸制度の不備が理由にある。現在の在留資格制度や外国人登録の運用が曖昧であるとか、そこから派生し、様々な規則、法律の網を、そう言った外国人は容易にかいくぐることが出来、結果日本人に不利益なことが生じる事例が、結構バカにできないくらいに伝えられる。
 そういった現状では、外国人に参政権などというのは、とんでもない、と言う主張にはうなづかざるを得ない。参政権の問題云々がなくても、その辺の規定そのものや運用を見直すべきことではある。

 その上で、参政権付与の前提となる「誰が対象か」の定義が不明確であるため、これをクリアにしないと議論が進まない。

 右派の反応は、「国家主権の侵害」や「外国人による日本支配」といった極端なシナリオを想定し、議論を封殺する傾向がある。Xでは特にこのパターンが顕著だ。


 しかしながら、一応オレはここではより大きい問題を扱うつもりでいる。

 まず、何より非対称的な影響力構造を問題にしたい。
 国際社会では「他国の政治」が自国の国民生活に甚大な影響を与える一方で、その国に対する政治的関与は皆無だ。
 「超大国」による「選挙結果」「政策転換」が経済・軍事・気候変動・通商・為替などあらゆる形で波及する。それなのに、我々、そういったスーパーパワーの蚊帳の外の国の市民には発言権がゼロだ。アメリカの金融政策が日本の株価や為替を動かし、中国の環境政策が日本の大気汚染に影響し、ロシアの地政学的判断が世界のエネルギー価格を左右するという現実があるにもかかわらず、トランプに対してもプーチンに対しても習近平に対しても、我々は何もできないではないか。

 ウェストファリア主権体制(1648年以降)は国民国家を基礎とするが、現実にはグローバル化・超国家的経済連携・SNS時代により、主権の内実が拡散・浸食されている。
「主権は国家の内側で完結する」という前提はすでに破綻している。グローバル経済・地政学的構造は既に国境を越えて影響を及ぼしており、「国内にいる者のみが関与できる」という従来モデルは機能不全に陥っている。影響のあるところに権利があるべき、という「機能的主権論」へとシフトするべきじゃないだろうか? 日本人はその意思決定に一切関与できない。それは民主主義の原理(「影響を受けるならば、発言権を持つべき」)との矛盾を孕んではいないだろうか? 

 そのために「影響力の非対称性」を是正する発想に基づいている。



2025年7月1日火曜日

どう変えるか?3 制度再設計に向けた実践的アプローチ:未来を拓く五つの道筋

 

制度再設計に向けた実践的アプローチ:未来を拓く五つの道筋

 現代日本が直面する制度疲労の打開には、単なる部分修正ではなく、根本的な再設計が求められる。ここでは、その第一歩となる五つの重点分野と、それぞれの具体的アプローチを提示する。


❶ 中央と地方の関係性を再定義する

 まず着手すべきは、「中央集権か地方分権か」という二元論を乗り越えた、新たなガバナンスモデルの構築である。特に、地方交付税制度を見直し、地方自治体が独自の判断で施策を展開できる財源の確保と自由度の拡充が急務と考える。たとえば、消費税の地方分配率を高めることや、交付金の使途制限を緩和することが考えられる。
 一重に、現状の制度、構造の継続により、日本という国家、日本の社会の衰退が避けられないという事実が顕著になってきている現状において、その衰退が特によく現れてしまっているのは周縁部、つまり地方からであり、それはやがて中央へ、日本全体へと広がっていくと考えるのが、まず普通だろう。或いは、患部を切除するように、衰退した地方を切り捨てる、という料簡も存在するのかもしれないが、地方というものがなくなるということが果たして本当に中央の衰退につながっていくことはないのか?という問題。
 中央に人的、経済的、政治的資源を集中させ、地方を切り捨てるというアクションがよりはっきりした時、日本という国が果たして存在しているのだろうか? 分裂は本当にないと言えるか?

 とはいえ、無条件に地方を甘やかすというのも、先が見えない話ではある。「自己決定には自己責任を伴う」という原則を制度に組み込む必要がある。国による画一的な縦割り補助金行政からの脱却を図り、教育・福祉・インフラなどの政策分野においても、地域ごとの創意工夫を可能とする設計へと転換していくべきである。

 とはいえ、地方分権が進めば、地域間格差の顕在化は避けられない。ここにこそ、国民的な議論を巻き起こす覚悟が求められる。言い換えれば、今まで何となく徹底的な議論を避けてきたが、「格差」というものに我々の社会はどういうスタンスで臨むのか?
 「どの程度の差異を許容するのか」という、価値観のすり合わせを避けてはならない。


❷ 政治と制度の「正統性」を再構築する

 制度が信頼を失ったときに求められるのは、「正統性の物語」を再構築することだ。これは憲法改正の是非といった議論だけにとどまらず、現代日本における「社会契約」をどのように更新するか、という問いに接続する。

 そのために必要なのは、熟議型民主主義の場を制度として時代に合わせて整備することである。一例として、国会とは別に、市民が議題に応じて集い議論する「新・国民対話フォーラム」を常設し、政策形成の初期段階から広く社会の声を取り込む。アイスランドの「市民憲法会議」などがその参考になる。
 否、ネットとAIを使えば、もっと容易に国民の議論の中から妥当性を導き出すやり方はあるのではないか?

 また、戦後日本が長らく拠り所としてきた「経済成長=正統性」という価値観から脱却し、人間の尊厳、環境との調和、社会的包摂といった新たな共通善を中核に据える必要があるのではなかろうか? 別稿で考察している最中だが、個々の人間としての主体が失われつつある現状で、ここで、何かやらなければいけないのではないか、と、考えている。すっと頼ってきた資本主義経済も、いよいよ行き詰まりの行き詰まりに行き当たっているのでは、と、過去の成功体験ではなく、未来への物語が必要だ、と、強く感じる。

❸ 官僚制度を可視化し、時代に適応させる

 信頼される制度の前提は、プロセスの透明性にある。まず国会における政策議論のあり方を抜本的に見直すべきである。官僚が作成したQ&Aを読み上げる形式を廃し、政策責任者の記名制度と議事録の完全公開を義務化することで、「誰が」「なぜ」政策を進めているのかを追跡可能にする。
 さらに、官僚制度と政治の役割分担を明確化する一環として、局長級以上への政治任用制の導入を段階的に進める。政策判断が問われるポジションには、忠実な管理官よりも、戦略的思考を持つリーダーを登用する体制が望ましい。

 予算制度についても、財務省主導の歳出抑制型から脱却し、中期ビジョンに基づく予算編成と市民参加型の予算(Participatory Budgeting:PB)を導入することで、民主的正統性を強化する改革が必要である。

 「正統性の再構築とともに、政策の妥当性を、目に見える形で追及せねばなるまい。

❹ 外国モデルの部分導入から現場実装へ

 「制度は輸入できても文化は輸入できない」と言われる。また、こういう議論では必ず他国は他国、日本は日本、と頑なになる向きがいる。その主張の妥当性を明らかにしないままにだ。
 成功事例を参照しない理由が存在するようには思えない。たとえば、エストニアのように行政手続をすべてAPI化し、人口・土地・法人などのベースレジストリを整備することで、行政の“プラットフォーム化”を目指すことができる。また、台湾のvTaiwanに見られるように、デジタル空間上での市民参加とAIによる意見集約を試行自治体から導入し、熟議のコストと障壁を下げていく取り組みも有効であろう。

加えて、北欧諸国に学び、教育・福祉・自治を連動させた地域限定公共圏(ローカル・コモンズ)を制度として支援することで、小規模自治体であっても自律的な運営が可能となる。福祉を「投資」として捉える発想の転換が、日本にも必要ではあるまいか?

❺ 統治と文化の再接続:教育改革から始める

 最終的な制度変革は、文化の再定義なしには成し得ない。その第一歩として、主権者教育を義務化し、学校教育における模擬選挙、政策討議、合意形成の演習を中高段階で必修化すべきである。民主主義は自然には育たない。教え、育むべき技術である。
 また、メディアやNPOと連携し、事実に基づいた意見の違いを尊重する「公論の場」を戦略的に行政が用意する必要がある。議論を避ける文化から、議論を通じて信頼を育てる文化への転換が鍵となる。
 更には、地方で実践される市民協議会や公民館民主主義の成功事例を、単なる“ローカルの物語”で終わらせず、中央に逆輸入する制度的ルートを設計することが重要である。文化は一方向には流れない。双方向の循環こそが、成熟した統治の姿ではないか?


三段階の改革ステージ

制度再設計は、一挙に完結するものではない。以下のような三段階での進行が現実的かな、と思う。

段階

キーワード

主なアクション

第一段階

軸の再定義

中央と地方、官と民の役割を明確化

第二段階

制度の可視化と開放

官僚・政治の透明化、市民参加による政策形成

第三段階

文化の転換と育成

主権者教育、公共的価値の再構築、対話文化の醸成



制度とは「生き方の選択」である

 日本は、「うまくできた古い装置」が惰性で動き続けてきた国家であると思う。しかし、その装置はもはや時代の重力に耐えきれず、綻びを見せている。もうボロボロだ。

 制度の再設計とは、単なる行政の合理化ではない。それは、「誰が、どのように生きる社会を築くのか」という、私たち自身の意思表明にほかならない。

 「ゼロから作り直す」という選択は、絶望からの出発ではない。むしろ、希望と参加を取り戻すための試みとしてこそ、私たちはそれを選ぶべきである。


2025年6月30日月曜日

どう変えるか?2 「ゼロから作り直す」ためには何が必要なのか?

  前項では、石破政権に対して一定の意義を認めたうえで、それでもなお「次」が見えない日本政治の現在地について論じてきた。では、「ゼロから作り直す」ためには何が必要なのか。以下に、5つの観点からそのヒントを探っていく。


1. 制度の「二重化」を見直す:明治国家と戦後国家の混在をどうするか

 日本の統治機構には、しばしば「二重構造」ともいうべき歪みが存在している。たとえば中央官僚制度は明治国家の中央集権的モデルを色濃く残しており、官僚が政策の設計と実施の大部分を担う「技官国家」としての側面を保ち続けている。一方で、選挙で選ばれる政治家たちは、戦後民主主義の民意重視、地方分権、リベラル的価値を掲げながら活動している。しかしこの二つの軸は互いに調和しておらず、しばしば制度疲労と機能不全を引き起こしてきた。

 たとえば、地方自治が形式上は保障されていても、実際には財政の大部分が中央政府に依存しており、東京が地方の「首根っこ」を押さえた構図は変わらない。これは「分権」と「統制」の中間にある曖昧さを象徴している。さらに、官僚制度の強さが政治主導を阻み、政治は短命のリーダーシップの中で人気取りに終始するという悪循環がある。

 日本においては、この相矛盾する要素が、しかし、表立って対立しているようには見えない。少なくとも国民には見えにくくなっている。しかしながら、特に首都圏以外の地方にいるものにとっては、法律上では認められているべき独立性が、実質あってないようなもの、と感じる場面が結構あるが、それは何より税制において強く感じてしまう。なぜ、中央からお金を引っ張ってこられる政治家が地方で重宝されるのか? 国会議員とは地方の代表ではなく国民全体の代表であるべきものであるはずだ。となれば、選挙制度などが、例えば具体的な問題にもなり得るが、

 この矛盾した統治構造を脱するには、「中央集権国家なのか、地方分権国家なのか」「技官国家なのか、民意国家なのか」といった根本的な問いに対し、明確な選択をする必要がある。制度を「改革」するというより、制度の「軸」を再定義する作業だ。これは非常に骨の折れるプロセスだが、それなくして次のステージへは進めない。




2. 「政治的正当性」のリセット:誰がなぜ統治するのかを問う

 戦後日本の統治体制は、GHQの占領と冷戦下の地政学的選択の中で形成された。自民党の長期政権は、経済成長を最優先に据え、「政治的無気力」すら正当化するほどの経済至上主義によって支えられてきた。だが、その正当性の根拠は、冷戦の終結、バブル崩壊、長期デフレ、社会の高齢化といった変化の中で、すでに失効しつつある。
 個人的には、自民党が正の意義を持っていた時代は、バブル崩壊とともに終了したと考えている。それ以前の社会では確かに、国の経済、社会に最適化された自民党として、多少の矛盾があったとはいえ、社会全体は前を向くことが出来た。そこで頑張った社会全体への報酬がかのバブル経済であった、と、ある意味言えると思う。
 生憎と、バブル経済の意味をそのように捉える向きはほぼ皆無であったし、あの時、落ち込みがあろうが、以前の継続で行けると考えた社会の成れの果てがこのざまだ。社会の根本からの構造変更はこのころから考えておくべきだった。
 これは経済の話ではなく、経済本位の社会の話である。

 石破茂氏が政権で打ち出そうとした、がたちまち曖昧になった「説明責任」や「政策議論」の重視は、本来ならば統治に新たな正当性を与える営為であった。しかし、それが「権力」として結実しなかったのは、統治の形式や内容以前に、「なぜ彼が、あるいは誰が統治するのか」という物語が存在しないからである。統治の正統性は、単なる手続き的な正しさ(民主的選挙、議会制)ではなく、その背後にある国民的合意や物語の力によって支えられる。

 したがって、「誰が統治するか」だけではなく、「なぜその統治が正当なのか」を国民自身が納得できるような社会契約の再設計が求められる。それは単なる制度変更ではなく、憲法の前文を書き換えるレベルの、象徴的な国民的物語の再構築に他ならない。

3. 官僚制の見える化と再構築:優秀さと不透明さの共存

 日本の官僚制度は、国際的に見てもきわめて優秀な部類に入る。しかしその一方で、極端な前例主義と責任回避的な文化が染みついており、現代の急速に変化する課題に対して柔軟に対応できていない。

 たとえば、デジタル化が進まないのも、予算編成が硬直化しているのも、中長期の国家戦略が描けないのも、それが「誰の責任でもない」という構造に起因している。政治家と官僚の役割分担、国会審議の形式、予算の使途と執行の透明性などを一度すべて「見える化」し、責任の所在と執行の原則を明確にしなければ、どれだけ制度をいじっても「実態」は変わらない。

 さらに、政策立案を行うエキスパートと、行政の執行を行うマネジメントの分離、あるいは融合のあり方についても検討が必要だ。既存の「省庁主義」「縦割り行政」を乗り越え、課題に即した「プロジェクト型行政」への転換を図ることが重要である。




4. 北欧型民主主義と台湾の実験:再設計のための他山の石

 日本が制度をゼロから再設計する際に、参考となるモデルは確かに存在する。たとえばエストニアや台湾は、デジタル行政や直接民主制の要素を巧みに導入し、国家の透明性と市民参加を飛躍的に高めている。台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンが推進する「vTaiwan」プロジェクトのように、政策立案において市民の声を直接的に反映させる試みは、従来の日本にはなかった発想である。

 また、ノルウェーやフィンランドといった北欧諸国では、分権型かつ合意形成型のガバナンスが実現されており、政治的リーダーシップのあり方が日本とは大きく異なる。これらの国々では、政治と行政、行政と市民の距離が近く、「共創」の思想が制度として組み込まれている。
 経済規模が違うので参考にならないという声も聞く。まぁ、かつての栄光が忘れられなくて、そういってしまうのだろうが、OECDあたりが出している今現在の諸指標を思い出してみるがよい。

 何より、日本がこうしたモデルを参考にすべき最大の理由は、同じ高さでとどまったままの「政高官低」と「官高政低」の無限ループを抜け出すためである。日本では政治と行政、行政と民間が常にどちらかが主導権を握る形で対立してきた。相克により状況が向上すればよかったのだが、相克ではなく脚の引っ張り合いでもしてたのか、結局毎回同じところでぐるぐるしていただけではなかったか。

 現代の複雑な課題に対応するには、官民の役割を明確に再定義し、行政を「オープンなプラットフォーム」として位置づける思想が不可欠ではないだろうか?。

5. 統治以前に「文化」を再設計する:空気と責任の病理

 最後に、もっとも根本的な問題に触れたい。それは「文化」である。

 現代日本社会の制度不全の背景には、「空気を読む」「責任を取らない」「自分からは動かない」といった文化的傾向が横たわっている。これらは一見すると非政治的な性格を帯びているが、実は制度を腐食させる温床である。たとえば、政策決定の遅延、行政の忖度、政治家の曖昧な物言いの根底には、こうした文化的土壌がある。

 したがって、「制度改革」とは別に、「文化改革」もまた必要である。市民ひとりひとりが「自分が主権者である」という感覚を持ち、それを日常的な言葉や行動に反映させること。これは法律の文言や制度設計では届かない領域だ。

 この文化的転換を支えるのは、教育・メディア・地域コミュニティといった「非政治的空間」である。これらを再編成し、民主主義のインフラとして再構築することは、制度改革以上に困難であるかもしれないが、避けて通れない課題である。




 制度を「ゼロから作り直す」とは、表層的な行政改革や選挙制度の変更ではなく、社会の深層にある「前提」を更新する作業であると考える。その作業は、明日の政治家だけでなく、今日の市民である私たち自身が担うべき課題でもあるのではないか?


2025年6月29日日曜日

どう変えるか?1 石破内閣レビュー

 

  石破政権は、その発足当初から保守層の一部から強い懸念を抱かれていた。「経済音痴」であるという批判がその最たるもので、アベノミクスを推進してきた層からすれば、石破茂という人物はあまりにも慎重すぎる、内向きすぎる政治家に見えたのだろう。しかしオレは、むしろそこにこそ石破政権の特異性と価値があったのだと考えている。

 アベノミクスとは、いわば「強行突破型」の経済政策であった。大胆な金融緩和、積極的な財政出動、成長戦略という三本の矢で構成されたその構想は、長く続いたデフレと閉塞感を打破するためには一定の妥当性を持っていた。事実、それにより株価は上昇し、失業率も低下した。だが同時に、この政策はあまりに一面的だった。特に金融緩和に依存する姿勢は、財政と金融の健全性を損ね、中長期的な経済構造の改革を後回しにするという副作用も孕んでいた。

 アベノミクスの最大の問題点は、結果が限定的であるにもかかわらず、それを是正する仕組みが制度的にも政治的にも用意されていなかったことにある。2013年からの数年間で確かに一部の指標は改善されたが、労働生産性の本格的向上や実質賃金の持続的上昇にはつながらなかった。むしろ、企業の内部留保が積み上がり、個人消費が低迷するという歪な構図が固定化されてしまった。にもかかわらず、この政策は10年近くも修正されることなく継続され、まるで「他に選択肢がない」かのように扱われた。その政治的惰性こそが、実はこの国の統治構造の弱点を象徴していたのではないか。

 その意味で、石破政権がアベノミクス路線を引き継がなかったこと、あるいは明確に距離を置いたことは、単なる政策選択の問題ではない。それは日本政治が「走り続ける」ことに中毒していた時代において、初めて「立ち止まる」という行為を選択したという意味で、極めて大きな意味を持っていたように思う。

 実際、石破政権の政策は全体として慎重で、経済政策においても即効性よりも持続可能性を重視する姿勢が目立った。財政の再建、地域経済の底上げ、エネルギー政策の見直しなど、いずれも長期的課題に正面から向き合おうとする意志が見られた。ただし、それゆえに「地味」「分かりにくい」「成果が見えない」という批判が常につきまとったことも事実である。

 石破政権が登場したことの意義は、ある種の「内省モード」へのスイッチであった。つまり、アベノミクスという巨大な推進力の時代が生んだ歪みや疲弊に対して、一度国家の構造そのものを問い直す契機を作った、という点においてだ。これまでの「進め、進め」という政治から、「本当にこの道でいいのか」と自問する政治へ。その変化は、短期的には不人気であっても、中長期的には日本社会に深い反省と再構築のきっかけを与えたのではないか。

 ただし、ここで問題となるのは、その「問い直し」の先にある「次の構想」がいまだに見えてこないことである。石破政権が「立ち止まる」ことに成功したのは事実だとしても、次のビジョンを社会全体で共有し、実行可能な形で提示するには至っていない。その欠落こそが、現在の政治状況の最大の課題である。

 この「次が見えない」という状況は、もはや石破茂という個人の資質によるものでもなく、自民党という政党の力学だけによるものでもない。もっと深く、もっと根源的な、統治機構全体の問題、社会構造全体の問題に根ざしているのではないかとオレは考えている。たとえば、官僚機構は制度的な硬直性により、新しい政策の企画・実行能力を失いつつある。地方自治体は財政的にも人材的にも逼迫しており、「国が決めたことを淡々と実行する」以上の動きが難しい。そして国民側もまた、長年の政策不信、政治不信の結果、変化への期待を抱きつつも、同時に失敗への恐怖から現状維持に傾きがちである。

 こうした構造のなかで、誰が政権を担おうとも、大胆な改革や制度の再構築が極めて困難な状況に置かれている。その意味では、石破政権が「何もできていない」のではなく、「何もできない状況のなかで続いている」ことそのものが、いまの日本政治の病理を象徴しているのかもしれない。

 興味深いのは、石破政権が実際には存続しているにもかかわらず、「すでに終わったかのように扱われている」という現象である。マスメディアは次期首相候補の話題に熱中し、与党内でも後継をめぐる動きが水面下で続いている。だが、現実として政権は続いている。これは、政治的には異常事態と言えるかもしれないが、むしろこの曖昧さ、不確定さこそが、ポスト・アベノミクス時代の政治のリアリズムなのだと感じる。

 つまり、かつてのように「強いリーダー」が「明確なビジョン」を掲げて突き進むことなど不可能な時代になってしまったのだ。いま求められているのは、そうした明快さではなく、複雑な現実を複雑なまま受け止めながら、少しずつでも調整し、改善していくような「粘り強い政治」なのかもしれない。そして石破政権が体現しているのは、まさにそうしたタイプの統治なのだ。

 だが、そうした粘り強さには時間がかかる。しかも成果が見えにくい。その結果、「何もしていない」「何も変わらない」という印象だけが残り、政治への不満がさらに募っていく。この悪循環を断ち切るには、やはり新たなビジョン、新たな物語が必要だ。その物語は、単に経済政策や社会保障の話にとどまらず、「この国をどういう場所にしたいのか」「どのような共同体を目指すのか」といった、より根源的な問いに答えるものでなければならない。

 いま必要なのは、単なる政策転換や政権交代ではなく、「制度設計の再構築」である。つまり、民主主義の基本に立ち返り、「政治とは何か」「国民とは何か」「政府の役割とは何か」といった原点を再確認するところから始めなければならない。その作業には時間がかかるし、痛みも伴う。だが、それを怠る限り、日本は「誰がやっても同じ」と言われる政治の閉塞から抜け出すことはできないだろう。

 石破政権は、その「手前」にいる政権である。すなわち、制度の再設計に着手する前に、一度立ち止まり、問い直し、熟慮するフェーズを担う政権である。その意味で、この政権に華やかさや劇的な変化を期待するのは筋違いだろう。だが、「本当にこのままでいいのか」と考えるきっかけを与えたという点において、この政権が残したものは決して小さくない。

 そして、いまもまだ政権は続いている。その継続こそが、「次」がいまだ見つかっていないという現実の裏返しなのだ。石破政権が終わるときこそが、我々がようやく「次」の構想を描き始めることができるときなのかもしれない。