アベノミクスとは、いわば「強行突破型」の経済政策であった。大胆な金融緩和、積極的な財政出動、成長戦略という三本の矢で構成されたその構想は、長く続いたデフレと閉塞感を打破するためには一定の妥当性を持っていた。事実、それにより株価は上昇し、失業率も低下した。だが同時に、この政策はあまりに一面的だった。特に金融緩和に依存する姿勢は、財政と金融の健全性を損ね、中長期的な経済構造の改革を後回しにするという副作用も孕んでいた。
アベノミクスの最大の問題点は、結果が限定的であるにもかかわらず、それを是正する仕組みが制度的にも政治的にも用意されていなかったことにある。2013年からの数年間で確かに一部の指標は改善されたが、労働生産性の本格的向上や実質賃金の持続的上昇にはつながらなかった。むしろ、企業の内部留保が積み上がり、個人消費が低迷するという歪な構図が固定化されてしまった。にもかかわらず、この政策は10年近くも修正されることなく継続され、まるで「他に選択肢がない」かのように扱われた。その政治的惰性こそが、実はこの国の統治構造の弱点を象徴していたのではないか。
その意味で、石破政権がアベノミクス路線を引き継がなかったこと、あるいは明確に距離を置いたことは、単なる政策選択の問題ではない。それは日本政治が「走り続ける」ことに中毒していた時代において、初めて「立ち止まる」という行為を選択したという意味で、極めて大きな意味を持っていたように思う。
実際、石破政権の政策は全体として慎重で、経済政策においても即効性よりも持続可能性を重視する姿勢が目立った。財政の再建、地域経済の底上げ、エネルギー政策の見直しなど、いずれも長期的課題に正面から向き合おうとする意志が見られた。ただし、それゆえに「地味」「分かりにくい」「成果が見えない」という批判が常につきまとったことも事実である。
石破政権が登場したことの意義は、ある種の「内省モード」へのスイッチであった。つまり、アベノミクスという巨大な推進力の時代が生んだ歪みや疲弊に対して、一度国家の構造そのものを問い直す契機を作った、という点においてだ。これまでの「進め、進め」という政治から、「本当にこの道でいいのか」と自問する政治へ。その変化は、短期的には不人気であっても、中長期的には日本社会に深い反省と再構築のきっかけを与えたのではないか。
ただし、ここで問題となるのは、その「問い直し」の先にある「次の構想」がいまだに見えてこないことである。石破政権が「立ち止まる」ことに成功したのは事実だとしても、次のビジョンを社会全体で共有し、実行可能な形で提示するには至っていない。その欠落こそが、現在の政治状況の最大の課題である。
この「次が見えない」という状況は、もはや石破茂という個人の資質によるものでもなく、自民党という政党の力学だけによるものでもない。もっと深く、もっと根源的な、統治機構全体の問題、社会構造全体の問題に根ざしているのではないかとオレは考えている。たとえば、官僚機構は制度的な硬直性により、新しい政策の企画・実行能力を失いつつある。地方自治体は財政的にも人材的にも逼迫しており、「国が決めたことを淡々と実行する」以上の動きが難しい。そして国民側もまた、長年の政策不信、政治不信の結果、変化への期待を抱きつつも、同時に失敗への恐怖から現状維持に傾きがちである。
こうした構造のなかで、誰が政権を担おうとも、大胆な改革や制度の再構築が極めて困難な状況に置かれている。その意味では、石破政権が「何もできていない」のではなく、「何もできない状況のなかで続いている」ことそのものが、いまの日本政治の病理を象徴しているのかもしれない。
興味深いのは、石破政権が実際には存続しているにもかかわらず、「すでに終わったかのように扱われている」という現象である。マスメディアは次期首相候補の話題に熱中し、与党内でも後継をめぐる動きが水面下で続いている。だが、現実として政権は続いている。これは、政治的には異常事態と言えるかもしれないが、むしろこの曖昧さ、不確定さこそが、ポスト・アベノミクス時代の政治のリアリズムなのだと感じる。
つまり、かつてのように「強いリーダー」が「明確なビジョン」を掲げて突き進むことなど不可能な時代になってしまったのだ。いま求められているのは、そうした明快さではなく、複雑な現実を複雑なまま受け止めながら、少しずつでも調整し、改善していくような「粘り強い政治」なのかもしれない。そして石破政権が体現しているのは、まさにそうしたタイプの統治なのだ。
だが、そうした粘り強さには時間がかかる。しかも成果が見えにくい。その結果、「何もしていない」「何も変わらない」という印象だけが残り、政治への不満がさらに募っていく。この悪循環を断ち切るには、やはり新たなビジョン、新たな物語が必要だ。その物語は、単に経済政策や社会保障の話にとどまらず、「この国をどういう場所にしたいのか」「どのような共同体を目指すのか」といった、より根源的な問いに答えるものでなければならない。
いま必要なのは、単なる政策転換や政権交代ではなく、「制度設計の再構築」である。つまり、民主主義の基本に立ち返り、「政治とは何か」「国民とは何か」「政府の役割とは何か」といった原点を再確認するところから始めなければならない。その作業には時間がかかるし、痛みも伴う。だが、それを怠る限り、日本は「誰がやっても同じ」と言われる政治の閉塞から抜け出すことはできないだろう。
石破政権は、その「手前」にいる政権である。すなわち、制度の再設計に着手する前に、一度立ち止まり、問い直し、熟慮するフェーズを担う政権である。その意味で、この政権に華やかさや劇的な変化を期待するのは筋違いだろう。だが、「本当にこのままでいいのか」と考えるきっかけを与えたという点において、この政権が残したものは決して小さくない。
そして、いまもまだ政権は続いている。その継続こそが、「次」がいまだ見つかっていないという現実の裏返しなのだ。石破政権が終わるときこそが、我々がようやく「次」の構想を描き始めることができるときなのかもしれない。