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2024年7月13日土曜日

8331 東名高速道 薩埵 2023 07

 

8331 東名高速道 薩埵 2023 07

NT0074

 あの時アクセルをもう少し開けていたら、とか、緩めさえしなければ、という後悔。大人ならば、な、それを正当化する理屈はいくつでも持ち合わせられるものだが、若い時の精神にとってはそういう訳にはいかない。大人になって、それ位開けられるようになっても意味はない。あの時開けなくてはいけなかった。大人になってから開けることが出来ても、薩埵峠あたりの高名高速から跳ぶはめになる。


 しかしそれでも開けなきゃならんのですよ。あの時ならあの時の必然で、今なら今の必然で。


 なかなかな、思う通りにはいかないものです。もしあの時思った通りになっていれば、とか、違う選択をしていたら、とか、そういうのをルサンチマンというのだろう。凡そ今の世では有害なものとされている。しかし、みんな、そういうものが一ミリもない人生もコクがなくてつまらないと思っている。


 そして、目の前に「アクセル」はいつも横たわっている。

2024年3月11日月曜日

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 今年の3.11は何やら殊更東日本大震災で亡くなった方のご遺族の話をネットやらテレビやらで目にする。実際この何年間のそれより多いのだろう。何しろ元旦から能登ででかいのあったわけだし、最近では千葉も何やら不穏だ。意識がどうしてもそういうところに向くところにはもってこいの素材ではあるに違いないが、そう、亡くなった方々にとっては13回忌にもあたる。

 13年早いのか短いのか。しかし、テレビで当時今のオレと同じ年で奥様をなくされた男性が70歳であるとテロップに出ていた。同世代くらいの夫婦の機微というのが自分事ではないので全くの想像でしかないが、そこそこケンカすることもあっても、基本信頼しあいお互い一緒に時間を過ごしていく掛け替えのない相手、であるはずで、そういう伴侶がいない、と。子供がいれば慰めにはなるが代わりにはならない。どこか決定的な欠落を抱え込む、そんな13年間というのはどういうものなのだろう?
 今から13年経てばオレも70になっている。ちょっとゾッとした。

 しかし、13年前である。前にもブログに書いたが、オレはその日は、高岡長慶寺のローソン建築のためのボーリング調査をやっていた。ボーリングの足場の上は絶えずディーゼルエンジンで振動しているし、おまけにこの敷地、すぐ横が片側2車線の国道で、大型車がよく通るわけだが、このあたり軟弱地盤で、それだけで地面がグワングワン揺れるのだ。地震があった時、当地には震度3が伝わったが全然それに気づくことはなかった。直帰すれば手っ取り早いのだが、一旦富山の会社に戻って調査内容を記録しなくてはいけない。会社への道すがらのラジオで、テレビと同時音声、「名取川を津波が遡上しております。畑の上を船が流されています!」などと言ってるではないか。
 名取川? どこ? 女優の名取裕子氏の顔が、別にファンではないけれど思い浮かんだきり。まぁ、日本国内には間違いないらしい。それにしても、畑の上を船が流されていく津波って、相当なもんだぞ?! しばらく聴いているとどうやらそこは仙台近郊らしい。そっちか!

 会社に戻ると社長以下社員一同テレビにかじりついて観ていた。阪神大震災や9.11WTCの事を思い出した。しばらくはテレに等はこれ一色になるのだろう。ひどいことになったものだ、と思っていた。

 一昨年か。仙台に出張に行った時の宿が、津波こそやってこなかったようだが、壊滅的な被害を受け多くの人が亡くなったときく閖上の山側数キロの道沿い、震災後より、仮設住宅や復興作業従事者の宿になっていただろうコンテナハウスをお色直ししてビジネスホテルに改装したところだった。夜、オレは、1人で閖上の方に行ってみようかとも思ったが、そういう度胸を持てなかった。ほんの少し走ればすぐだったんだが。何かに飲まれてしまうような気がしたのだ。津波じゃなくて。宿から見る海の方角は暗くライトもほとんど見られなかった。

 さて13年前オレがボーリング調査したコンビニだが、今の会社の通勤途中にある。朝、トイレを催すとそこで用を足し、缶コーヒーとタバコを買う、まぁ、普通に利用している。
 今年の元旦は、オレんちの事情で、そんなに晴れがましくはない地味な正月ではあったんだが、まぁ、平穏な日常であるはずだった。それを突き破るように地震はきたんだ。13年前も、オレはフツーに仕事していたし、多くの人にとっては何もなければ13年も経てば何をしていたか記憶に無くなってしまうような日常だったはずだ。

 そんな日常という、なんだろ? 幕かな? 何かな? そんな感じのものを突き破ってやってくるものだ、災いというものは。ということは、その幕の向こうにいつも災いは待機しているということになる。

2024年2月24日土曜日

8228 万代 2024年2月

 

8228 万代 2024年2月

 大学の英語サークルの先輩が撮られた写真よりイラスト化。何気なく程々にざわざわした感じが何となく好きな写真だったので掲載許可をいただいた。

2024年2月10日土曜日

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 米島にある中越パルプの工場は子供のころから恐ろしく凶暴な悪臭を周囲にはなっていた。今はこういう時代だ。そういうことは許されない時代なので、工場の外に出てしまえば向かいに普通に食品スーパーがあったりするほど普通だが、一度など前の会社の仕事で工場の構内に入った時など、一番コアなところで仕事をしたせいもあるが、かの臭いは健在で、工場で働く人の中でリアルに鼻が曲がってる人を何人か見かけて、ひぇ~! とか思った。

 昭和40年代、50年代、高岡市内の子が親に氷見や雨晴に、夏、海水浴に連れて行ってもらう時は、まぁ、今とは違う旧道の国道160号線で国泰寺に行くように途中で曲がって、何かきちんと認定をとった「日本モーターツーリストホテル協会(?)」の看板を掲げているけど、ぶっちゃけモーテルの前を通って、というルートもあるにはあったが、伏木の国分浜を横目に、この前投稿した廃墟の前の道を通って、というルートを使うことが多く、で、上記、中越パルプの前を通る時は、当時の父のクルマ、510ブルにはカーエアコンはついていなかったけど、窓を閉め切って、何分かサウナの気分を味遭わなければならなかった。熱中症の危険があったわけだ、今思うと。

 で橋を渡り、左に曲がる。

 10間道路なんて、昔はそれは当時なりの高規格道路として敷設されたのだろう。今となっては片側1車線幅18mの道なんて、普通の田舎の道なんだけど。
 ただ不思議な道だと子供心に思っていた。坂を上って下ってを何度か繰り返す。谷筋の川に沿っての道というのはいかにも普通で意識しないが、この道はいくつかの谷筋と低いなりにも段丘地形の尾根筋を串をぶっ刺したように横断する。登って下ってが何となく楽しかった。

 昔、空荷の当時としての大型トラックが、此処から港を目指す。荷を積んでいないのだから揺れたってかまわない。伏木港で原料を積んだトラックは今度は一本東側の平坦な道を走って市内の、日本曹達や前述中越パルプなどの工場にその原料を搬入する。出荷はこの逆回りで伏木駅前を通る平坦な道で港にもっていき、軽くなったトラックがこの道を使って高岡の町に戻る、そういうことを意図してこの道は作られたのだと小学校の先生に教わった記憶がある。

 なにはともあれだ。最後の坂を上り切った時に前に広がる海がオレは好きだった。

2024年1月28日日曜日

8192 高岡 伏木中央町 2023年11月 _2

 

8192 高岡 伏木中央町 2023年11月 _2

 2024年元旦の地震において、高岡では一番被害が出たところの在りし日の様子。幸いしないでは亡くなった方はいないが、液状化で例えばこの絵の中央の電信柱が黒と黄色の帯が地面についてしまうくらい、沈んでしまった。ひどく傾いて、建て直すしかないというお家もあるだろう。

2022年8月29日月曜日

7541 東へ2(高岡市蓮華寺地内02)& T1011 道の記憶001

 

7541 東へ2(高岡市蓮華寺地内02)

 地図を見たら「県道高岡青井谷線」となっているが、高岡はいいとして、もう一方の端が青井谷とはとても思えぬ。子供の時は「大野早川線」と言っていたが、オレの家族が1972年に今の住所に引っ越した時にはすでに大野以東大門までに延伸されていたし、西の端は結局早川ではなくその南の北島に至るがそれでも当時、そんなところまで行っていなかった。因みに、その北島のあたりでは、この道路「高岡羽咋線」という名前になっている。まぁまぁ何とか羽咋まで行っている。結構そういうわけで、道路の名前っていい加減。
 確かにまぁ、路側帯は広めにとられ、大型トラック同士も楽にすり抜けられるんだが、子供の時はもっと広い道路と感じていた。幸いなのかどうなのか、並行した片側2車線の道路とかこの道に関してはできていないので、子供の時とクルマの交通量はそう変わっていない。

 蓮華寺の神社とか寺とかは旧北陸道側を正面としているので、こちらは後ろ側ということになる。この木立を含め、もっと鬱蒼としていたような記憶がある。道路まで飛び出しはしなかったけれど、神社の敷地の中の公民館の書道教室に通っていて、書道教室が始まる時間まで、境内でかくれんぼとかしていた。そんなことを思い出した。


If you look at the map, it says "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", but I don't think the other end is Ao Valley even though Takaoka is good. When I was a child, we used to call it the ``Ono Hayakawa Line'', but when my family moved to our current address in 1972, it had already been extended from Ono to Daimon, and the west end was not Hayakawa, but south of it. However, at the time, it had not gone that far. By the way, around Kitajima, this road is called "Takaoka Hakui Line". Well, I managed to go to Hakui. That's why the name of the road is irrelevant.
It's true, the roadside strip is wide enough for large trucks to easily pass through each other, but when I was a child, I felt that the road was wider. Fortunately or not, parallel roads with two lanes on each side have not been created, so the traffic volume of cars has not changed much from when I was a child.

The shrines and temples of Rengeji face the old Hokuriku Expressway side, so this is the back side. I have a memory that it was more dense, including this grove. I didn't run out to the street, but I attended a calligraphy class at the community center on the shrine grounds, and played hide-and-seek in the precincts until the calligraphy class started. I remember that.


Wenn Sie sich die Karte ansehen, steht dort "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", aber ich glaube nicht, dass das andere Ende Ao Valley ist, obwohl Takaoka gut ist. Als ich ein Kind war, nannten wir sie die „Ono Hayakawa Line“, aber als meine Familie 1972 an unsere jetzige Adresse zog, war sie bereits von Ono nach Daimon verlängert worden, und das West End war nicht Hayakawa, aber südlich davon. Damals war es jedoch noch nicht so weit gekommen. Übrigens heißt diese Straße in der Umgebung von Kitajima "Takaoka Hakui Line". Nun, ich habe es geschafft, nach Hakui zu gehen. Deshalb ist der Name der Straße irrelevant.
Der Fahrbahnstreifen ist zwar breit genug, dass große Lastwagen problemlos aneinander vorbeifahren können, aber als Kind hatte ich das Gefühl, dass die Straße breiter ist. Glücklicherweise oder nicht, Parallelstraßen mit zwei Fahrspuren auf jeder Seite wurden nicht angelegt, sodass sich das Verkehrsaufkommen der Autos seit meiner Kindheit nicht wesentlich verändert hat.

Die Schreine und Tempel von Rengeji blicken auf die Seite des alten Hokuriku Expressway, also ist dies die Rückseite. Ich habe eine Erinnerung, dass es dichter war, einschließlich dieses Hains. Ich rannte nicht auf die Straße, sondern besuchte einen Kalligraphiekurs im Gemeindezentrum auf dem Gelände des Schreins und spielte auf dem Gelände Verstecken, bis der Kalligraphiekurs anfing. Ich erinnere mich daran.


Si vous regardez la carte, elle indique "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", mais je ne pense pas que l'autre extrémité soit la vallée d'Ao même si Takaoka est bonne. Quand j'étais enfant, nous avions l'habitude de l'appeler la `` ligne Ono Hayakawa '', mais quand ma famille a déménagé à notre adresse actuelle en 1972, elle avait déjà été étendue d'Ono à Daimon, et l'extrémité ouest n'était pas Hayakawa, mais au sud de celui-ci. Cependant, à l'époque, cela n'était pas allé aussi loin. Au fait, autour de Kitajima, cette route s'appelle "Takaoka Hakui Line". Eh bien, j'ai réussi à aller à Hakui. C'est pourquoi le nom de la route n'a pas d'importance.
C'est vrai, la bande en bordure de route est assez large pour que les gros camions se croisent facilement, mais quand j'étais enfant, j'avais l'impression que la route était plus large. Heureusement ou non, des routes parallèles à deux voies de chaque côté n'ont pas été créées, de sorte que le volume de circulation des voitures n'a pas beaucoup changé depuis mon enfance.

Les sanctuaires et les temples de Rengeji font face à l'ancien côté de l'autoroute Hokuriku, c'est donc l'arrière. J'ai un souvenir que c'était plus dense, notamment ce bosquet. Je n'ai pas couru dans la rue, mais j'ai assisté à un cours de calligraphie au centre communautaire sur le terrain du sanctuaire et j'ai joué à cache-cache dans l'enceinte jusqu'à ce que le cours de calligraphie commence. Je me souviens que.


如果你看地图,上面写着“县道高冈葵溪谷线”,但我不认为另一端是青溪谷,尽管高冈很好。当我还是个孩子的时候,我们习惯称它为“小野早川线”,但当我的家人在 1972 年搬到我们现在的地址时,它已经从小野延伸到大门,西端不是早川,但在它的南边。然而,在当时,它还没有走那么远。顺便说一句,在北岛附近,这条路被称为“高冈白井线”。好吧,我设法去了Hakui。这就是为什么道路的名称是无关紧要的。
确实,路边的带子很宽,大货车可以轻松通过,但是小时候觉得路比较宽。幸好没有,两边各有两条车道的平行道路还没有建成,所以汽车的交通量与我小时候相比并没有太大的变化。

莲华寺的神社和寺庙面向旧北陆高速公路一侧,所以这是背面。我记得它更密集,包括这片小树林。我没有跑到街上,而是在神社场地的社区中心参加了书法课,并在院内玩了捉迷藏,直到书法课开始。我记得那个。

2022年8月28日日曜日

7540 東へ1(高岡市蓮華寺地内01)&  T1010 見ていたわけではないからわからない。 

 

7540 東へ1(高岡市蓮華寺地内01)

 家の近所、ぶっちゃけ引っ越してきてこちらの幼稚園に通ったのは半年だけだったが、その時からの付き合いであるから、幼馴染と言えるのか? カワイトシオ君の家の庭の木、旧北陸道である前の道からの風景である。今は高架橋がかけられた当たり、造園やの庭石とかおいてあったりで、子供の遊び場だった。まぁ、造園屋は嫌だっただろうけど。子供、アホみたいにわらわらそこら中駆け回ってたような気がする。今は日曜の昼間でもひっそりしている。

 さて、3年前facebookに投稿したものを再録する。別にカワイトシオ君とは何の関係もないことはお断りしておく。

It's only been half a year since I moved to the neighborhood of my house and went to the kindergarten inthis area, but since I've been dating since then, can I say that I'm a childhood friend? The trees in the garden of Toshio Kawai's house, the scenery from the former Hokuriku Expressway. Now it was a children's playground, with an elevated bridge, landscaping and garden stones. Well, I would have hated the landscaper. Child, I feel like I was running around like an idiot. Now it's quiet even on a Sunday afternoon.

Now, I'm going to reprint what I posted on Facebook three years ago. I would like to say that I have nothing to do with Kawai Toshio.


Cela ne fait que six mois que j'ai déménagé dans le quartier de ma maison et que je suis allé à l'école maternelle de ce quartier, mais puisque je sors depuis, puis-je dire que je suis un ami d'enfance ? Les arbres du jardin de la maison de Toshio Kawai, le paysage de l'ancienne autoroute Hokuriku. C'était maintenant une aire de jeux pour enfants, avec un pont surélevé, un aménagement paysager et des pierres de jardin. Eh bien, j'aurais détesté le paysagiste. Enfant, j'ai l'impression de courir partout comme un idiot. Maintenant c'est calme même un dimanche après-midi.

Maintenant, je vais réimprimer ce que j'ai posté sur Facebook il y a trois ans. Je voudrais dire que je n'ai rien à voir avec Kawai Toshio.


Es ist erst ein halbes Jahr her, seit ich in die Nachbarschaft meines Hauses gezogen bin und dort in den Kindergarten gegangen bin, aber da ich seitdem zusammen bin, kann ich sagen, dass ich ein Freund aus Kindertagen bin? Die Bäume im Garten von Toshio Kawais Haus, die Landschaft vom ehemaligen Hokuriku Expressway. Jetzt war es ein Kinderspielplatz mit einer erhöhten Brücke, Landschaftsgestaltung und Gartensteinen. Nun, ich hätte den Landschaftsgärtner gehasst. Kind, ich fühle mich, als wäre ich wie ein Idiot herumgerannt. Jetzt ist es sogar an einem Sonntagnachmittag ruhig.

Jetzt werde ich nachdrucken, was ich vor drei Jahren auf Facebook gepostet habe. Ich möchte sagen, dass ich nichts mit Kawai Toshio zu tun habe.


我搬到我家附近,上这片区的幼儿园才半年,但自从交往以来,我能说我是青梅竹马吗? 河合利夫家庭园的树木,旧北陆高速公路的风景。 现在它是一个儿童游乐场,有一座高架桥、景观和花园石。 好吧,我会讨厌园丁。 孩子,我觉得我像个白痴一样到处乱跑。 现在即使在周日下午也很安静。

现在,我将重印三年前我在 Facebook 上发布的内容。 我想说,我和河合利夫没有任何关系。



 二人の男性の話をする。共に故人で県内に住んでいた。A氏。団塊の世代で、少年期のやんちゃが過ぎて、中卒後普通の会社には入れず自衛隊に入隊して重機などの免許をとり、ほどほどに退官。一般企業、主に建築関係の仕事をしてきた、オレはこの方と知り合いであった。まあ、大方の予想通り、中国や韓国を書くのも憚れるぐらいの口汚い言葉で罵るようなそういう人物。B氏。富山の連隊から中国戦線に出征。戦後、県内のとある企業の創業社長になる。その会社の名前も伺ったが、ここでは書かない。
 ある時、A氏とB氏、共に酒を飲む事があったのだそうだ。しこたま酔って、B氏、A氏に対して、中国で行った略奪や強姦などを武勇伝の如く語ったのだと言う。A氏、すっかり酔いも覚めて意気消沈。A氏、皇軍は潔白な正義の軍隊だと思っていたようで、大きく裏切られた気持ちがしたようだ。オレにその話をした時、すっかりしょんぼりした感じで、「シナ公もチョンも、そりゃあ文句言ってくるよなあ」と寂しそうに言った。
 ここで、もう一人登場する。C氏。って、なんて事ない、オレの母方の祖父である。時代が時代だから、大学には行っていなかったが、高岡警察署の幹部候補で、推理小説を好むインテリ、多分使命感に燃えるイケメンだったようだ、写真を見る限り。母の実家には彼が妻、つまり祖母に宛てたハガキが6枚保存されている。宛名書きの面には「軍事郵便」「検閲済」のハンコが生々しく、手紙の面には、細かい字でビッシリ、妻や娘たち、つまり母と叔母を気遣う文章が綴られている。字の細かさや密度に、オレが若い時に書いたラブレターを思い出したりして、気恥ずかしくなったり、血筋を感じてしまったり。
 さて、そのC氏、祖父は中国戦線で戦死したことになっている。と言っても、実のところ軍事行動中の戦死ではなく、メチルアルコールに手を出して肝臓かなんかやられた病死なんだそうだが。今のオレより遥かに若い年でのことだ。何やってんだよ、爺ちゃん・・・。
 考えてみれば、祖父はB氏と同じ部隊だったのだ。やらかしたのが、B氏だけだったとは思えず、祖父もその所業を知るところであっただろう。身内として希望的なことを書くならば、内地では警察官で正義感に燃える祖父は、しかし、客地、戦地で同僚を咎め立てるわけにもいかず、ストレスを溜め込みメチルアルコールに手を出してしまったのではないか、とも、考えたりする。
 もう、みんな故人で、本当のところどうであったかわからない。B氏の言葉にしたって、酔った席での武勇伝、その方向の価値観ではあったのだろうけど、盛った話である可能性もある。
 だだ、そういうことを、普段は怯えながら隠して、言い換えれば何食わぬ顔で過ごし、「戦後の経済発展に貢献してきた」。これをどう捉えるか? 追及するか? 時効で無罪放免?
 国家の責任であり続けるのだろうか? 今となっては、実像がかなり曖昧になってしまっている話に。
 としても、物事を明らかにできるタイミングではそれを韜晦し、のさばったクラスタがいたのは確かなことであると思われる。戦争で何をしでかしたか、以上に、その事をごまかす事を許してしまった事実が、今の社会の重荷になっているように思う。



 Talk about two men. Both were deceased and lived in the prefecture. Mr. A. In the baby boomer generation, after graduating from junior high school, he could not enter a normal company and joined the Self-Defense Forces, obtained a license for heavy machinery, and retired moderately. I was acquainted with this person who had worked for a general company, mainly in construction. Well, as most people expected, he's the kind of person who curses with abusive language to the extent that he's hesitant to write about China or Korea. Mr. B. He was conscripted  in Toyama and went to the front in China. After the war, he became the founding president of a certain company in the prefecture. I heard the name of the company, but I won't write it here.
 Mr. A and Mr. B once drank together. It is said that he got drunk and Mr. B told Mr. A about the looting and rape he had done in China as if it were a heroic tale. Mr. A was completely sober and depressed. Mr. A seemed to think that the imperial army was an innocent and just army, and he felt greatly betrayed. When I told him about it, he felt completely dejected and sadly said, ``Chinese and Korean have good reason to complain, aren't they?''
 "At this point, another person appears." Mr. C. It's no big deal, he's my maternal grandfather. He didn't go to college because of the times, but I think he was a candidate for the Takaoka police station's executives, an intellectual who liked detective novels, and was probably a handsome man with a sense of mission. My mother's family home has six postcards that he addressed to his wife, namely my grandmother.   On the side of the address, the stamps of "military mail" and "censored" are vivid, and on the side of the letter, there is a sentence written in fine print that cares about his wife and daughters, that is, my mother and aunt. . The fineness and density of the handwriting reminded me of the love letters I wrote when I was young, and I felt embarrassed and felt my bloodline.
 Well, that Mr. C, my grandfather is supposed to have been killed in the Chinese front. Even though I say that, in reality, he didn't die in battle during a military campaign, but he died from an illness that caused his liver or something to get dabbled in methyl alcohol. He was at a much younger age than I am now. what did you do grandpa...
Come to think of it, my grandfather was in the same unit as Mr. B. I can't believe that Mr. B was the only one who did it, and my grandfather would have been aware of the deed. As a family member, I would like to say that my grandfather was a police officer in the mainland and had a strong sense of justice. I also think that it might have been.
 "They're all deceased now, and I don't really know what happened." According to Mr. B's words, it may have been a tale of bravery in a drunken seat, and although it was probably a sense of values ​​in that direction, it is also possible that it was a lively story.
 However, I usually hide such things while being frightened. How do you perceive this? pursue? Acquitted by statute of limitations?
 "Will it continue to be the responsibility of the state?" Now, in the story that the real image has become quite ambiguous.
 Even so, it seems certain that there was a cluttered cluster who hid it at the timing when things could be clarified. I think that what we did in the war, more than anything else, the fact that we were allowed to cover it up, is a burden on society today.


Tu parles de deux hommes. Tous deux étaient décédés et résidaient à la préfecture. Monsieur A. Dans la génération des baby-boomers, après avoir obtenu son diplôme d'études secondaires, il n'a pas pu entrer dans une entreprise normale et a rejoint les Forces d'autodéfense, a obtenu une licence pour les machines lourdes et a pris une retraite modérée. Je connaissais cette personne qui avait travaillé pour une entreprise générale, principalement dans le bâtiment. Eh bien, comme la plupart des gens s'y attendaient, c'est le genre de personne qui maudit avec un langage abusif dans la mesure où il hésite à écrire sur la Chine ou la Corée. Mr. B. He a été enrôlé à Toyama et est allé au front en Chine. Après la guerre, il devient le président fondateur d'une certaine société de la préfecture. J'ai entendu le nom de l'entreprise, mais je ne l'écrirai pas ici.
M. A et M. B ont déjà bu ensemble. On dit qu'il s'est saoulé et M. B a raconté à M. A le pillage et le viol qu'il avait commis en Chine comme s'il s'agissait d'un récit héroïque. M. A était complètement sobre et déprimé. Monsieur A semblait penser que l'armée impériale était une armée innocente et juste, et il se sentait grandement trahi. Quand je lui en ai parlé, il s'est senti complètement découragé et a dit tristement : « Les Chinois et les Coréens ont de bonnes raisons de se plaindre, n'est-ce pas ?
"À ce stade, une autre personne apparaît." Monsieur C. Ce n'est pas grave, c'est mon grand-père maternel. Il n'est pas allé à l'université à cause de l'époque, mais je pense qu'il était candidat aux postes de direction du poste de police de Takaoka, un intellectuel qui aimait les romans policiers et était probablement un bel homme avec un sens de la mission. La maison familiale de ma mère possède six cartes postales qu'il a adressées à sa femme, à savoir ma grand-mère. Sur le côté de l'adresse, les timbres "courrier militaire" et "censuré" sont vifs, et sur le côté de la lettre, il y a une phrase écrite en petits caractères qui se soucie de sa femme et de ses filles, c'est-à-dire ma mère et tante. . La finesse et la densité de l'écriture me rappelaient les lettres d'amour que j'écrivais quand j'étais jeune, et je me sentais gêné et sentais ma lignée.
Eh bien, ce monsieur C, mon grand-père est censé avoir été tué sur le front chinois. Même si je dis qu'en réalité, il n'est pas mort au combat lors d'une campagne militaire, mais il est mort d'une maladie qui a plongé son foie ou quelque chose dans l'alcool méthylique. Il était beaucoup plus jeune que moi maintenant. qu'est-ce que tu as fait grand-père...
À bien y penser, mon grand-père était dans la même unité que MB. Je n'arrive pas à croire que MB était le seul à l'avoir fait, et mon grand-père aurait été au courant de l'acte. En tant que membre de la famille, je voudrais dire que mon grand-père était policier sur le continent et avait un sens aigu de la justice. Je pense aussi que ça aurait pu l'être.
"Ils sont tous décédés maintenant, et je ne sais pas vraiment ce qui s'est passé." Selon les mots de M. B, il s'agissait peut-être d'une histoire de bravoure dans un siège ivre, et même s'il s'agissait probablement d'un sens des valeurs dans ce sens, il est également possible que ce soit une histoire animée.
Cependant, je cache généralement de telles choses tout en ayant peur. Comment percevez-vous cela ? poursuivre? Acquitté par prescription ?
"Est-ce que cela continuera d'être la responsabilité de l'Etat?" Maintenant, dans l'histoire que l'image réelle est devenue assez ambiguë.
Même ainsi, il semble certain qu'il y avait un groupe encombré qui l'a caché au moment où les choses pouvaient être clarifiées. Je pense que ce que nous avons fait pendant la guerre, plus que toute autre chose, le fait que nous ayons été autorisés à le couvrir, est un fardeau pour la société d'aujourd'hui.




Sprechen Sie über zwei Männer. Beide waren verstorben und lebten in der Präfektur. Herr A. In der Baby-Boomer-Generation konnte er nach dem Abschluss der Junior High School nicht in ein normales Unternehmen eintreten und trat den Selbstverteidigungskräften bei, erwarb eine Lizenz für schwere Maschinen und zog sich moderat zurück. Ich war mit dieser Person bekannt, die für eine allgemeine Firma gearbeitet hatte, hauptsächlich im Baugewerbe. Nun, wie die meisten Leute erwartet haben, ist er die Art von Person, die mit beleidigender Sprache so sehr schimpft, dass er zögert, über China oder Korea zu schreiben. Herr B. Er wurde in Toyama eingezogen und ging in China an die Front. Nach dem Krieg wurde er Gründungspräsident einer bestimmten Firma in der Präfektur. Ich habe den Namen der Firma gehört, aber ich werde ihn hier nicht schreiben.
Herr A und Herr B tranken einmal zusammen. Es wird gesagt, dass er betrunken war und Herr B. Herrn A von den Plünderungen und Vergewaltigungen erzählte, die er in China begangen hatte, als wäre es eine Heldengeschichte. Herr A. war völlig nüchtern und depressiv. Herr A schien zu denken, dass die kaiserliche Armee eine unschuldige und gerechte Armee sei, und er fühlte sich sehr betrogen. Als ich ihm davon erzählte, war er völlig niedergeschlagen und sagte traurig: „Chinesen und Koreaner haben guten Grund, sich zu beschweren, nicht wahr?“
"An diesem Punkt erscheint eine andere Person." Mr. C. Das ist keine große Sache, er ist mein Großvater mütterlicherseits. Wegen der Zeit ging er nicht aufs College, aber ich glaube, er war ein Kandidat für die Leitung der Polizeiwache von Takaoka, ein Intellektueller, der Kriminalromane mochte, und wahrscheinlich ein gutaussehender Mann mit Sinn für Mission. Im Haus der Familie meiner Mutter befinden sich sechs Postkarten, die er an seine Frau, nämlich meine Großmutter, adressiert hat. Auf der Seite der Adresse sind die Stempel „Militärpost“ und „Zensuriert“ lebhaft zu sehen, und auf der Seite des Briefs steht ein kleingedruckter Satz, der sich um seine Frau und seine Töchter kümmert, das heißt um meine Mutter und Tante. . Die Feinheit und Dichte der Handschrift erinnerte mich an die Liebesbriefe, die ich geschrieben habe, als ich jung war, und ich fühlte mich verlegen und spürte meine Blutlinie.
Nun, dass Mr. C, mein Großvater, an der chinesischen Front gefallen sein soll. Obwohl ich sage, dass er in Wirklichkeit nicht während eines Militärfeldzugs im Kampf gestorben ist, sondern an einer Krankheit, die dazu führte, dass seine Leber oder etwas anderes mit Methylalkohol verschmutzt wurde. Er war viel jünger als ich jetzt. was hast du gemacht opa...
Wenn ich darüber nachdenke, mein Großvater war in derselben Einheit wie Herr B. Ich kann nicht glauben, dass Herr B der einzige war, der es getan hat, und mein Großvater hätte von der Tat gewusst. Als Familienmitglied möchte ich sagen, dass mein Großvater auf dem Festland Polizist war und einen ausgeprägten Gerechtigkeitssinn hatte. Ich denke auch, dass es das gewesen sein könnte.
„Sie sind jetzt alle verstorben, und ich weiß nicht wirklich, was passiert ist.“ Nach den Worten von Herrn B. war es möglicherweise eine Geschichte über Tapferkeit in einem betrunkenen Sitz, und obwohl es wahrscheinlich ein Wertebewusstsein in dieser Richtung war, ist es auch möglich, dass es eine lebhafte Geschichte war.
Normalerweise verstecke ich solche Dinge jedoch, während ich Angst habe. Wie nehmen Sie das wahr? verfolgen? Freispruch wegen Verjährung?
"Bleibt es weiterhin in der Verantwortung des Staates?" Nun, in der Geschichte ist das wahre Bild ziemlich zweideutig geworden.
Trotzdem scheint es sicher, dass es eine überladene Gruppe gab, die es zu dem Zeitpunkt versteckte, als die Dinge geklärt werden konnten. Ich denke, dass das, was wir im Krieg getan haben, mehr als alles andere, dass wir es vertuschen durften, heute eine Last für die Gesellschaft ist.




说两个男人。两人均已去世,住在县城。 A先生,在婴儿潮一代,初中毕业后无法进入正常公司,加入了自卫队,取得重型机械执照,适度退休。我认识这个人,他曾在一家综合公司工作,主要从事建筑业。嗯,正如大多数人所预料的那样,他是那种用辱骂语言诅咒的人,以至于他对写中国或韩国的事情犹豫不决。 B先生,他在富山被征召入伍,去了中国前线。战后成为县内某公司的创始社长。听说过公司的名字,这里就不写了。
A 先生和 B 先生曾经一起喝酒。据说他喝醉了,B先生把他在中国发生的抢劫和强奸的故事告诉了A先生,仿佛这是一个英雄故事。 A 先生完全清醒而沮丧。 A先生似乎认为帝国军队是一支清白正义的军队,他感到被大大的背叛了。当我告诉他这件事时,他感到非常沮丧,并悲伤地说:“中国人和韩国人有充分的理由抱怨,不是吗?”
“此时,又出现了一个人。” C先生。没什么大不了的,他是我的外祖父。他因为时代原因没上过大学,但我认为他是高冈警察局干部的候选人,一个喜欢侦探小说的知识分子,大概是一个有使命感的帅哥。我母亲的家里有六张他写给他妻子的明信片,也就是我的祖母。地址的一侧,“军邮”和“审查”的印章栩栩如生,而信的一侧,还有一句关心妻子和女儿的小字,那就是我的母亲和阿姨。 .字迹的细腻和浓密,让我想起了小时候写的情书,怅然若失,感受着自己的血脉。
好吧,那个C先生,我的祖父应该是在中国前线被杀的。虽然我这么说,其实他不是在战争中死在战场上,而是死于肝脏之类的东西沾了甲醇的病。他比我现在小很多。爷爷你做了什么...
想想看,我爷爷和B先生在同一个单位。我不敢相信只有B先生这样做,而我的祖父会知道这件事。作为家人,我想说,我的祖父是内地的一名警察,有很强的正义感。我也觉得可能是这样。
“他们现在都死了,我真的不知道发生了什么事。”按照B先生的话说,这可能是一个酒后座上的勇敢故事,虽然可能是那个方向的价值观,但也有可能是一个生动的故事。
但是,我通常会在害怕时隐藏这些东西。您如何看待这一点?追求?是否因诉讼时效而无罪?
“它会继续是国家的责任吗?”现在,故事中的真实形象已经变得相当模糊。
即便如此,似乎可以肯定的是,在事情可以澄清的时候,有一个杂乱的集群将它隐藏起来。我认为我们在战争中所做的,最重要的是,我们被允许掩盖它的事实,是当今社会的负担。


2022年3月21日月曜日

7405 東御20321 & 2022年3月あたりの近況なんぞ

 

7405 東御20321


 あまりそういうことを声高に言うと、会社的に不味いのかもしれないが、50代も半ばで初めての経験でどこか面白がっているところがあるし、一応は再三会社の勤怠アプリからは警告が来ているのだから、会社は悪くない、と言っておこう。25連勤というのは生まれて初めての経験なんだが、睡眠時間を削っているというわけではないので、案外しんどくはない。まだ、少なくとも2、3か月はこんな感じなんだが、とりあえず、明日、明後日は休む。
 まぁ、今の会社に入るまで、結構サボってるような生き方してたので、それもありかな、と思わないでもないが、同世代は、そろそろ仕事的にはリタイヤも視野にソフトランディングの姿勢を取り始めているというのに、少々こんな告白も気恥しいし、関わっている方々には至らぬ私が申し訳ないことが多々あるのだが、実はそれほど気にしているわけでもなく

 そ ん な も ん だ と、諦 め て く だ さ い

だったりする。まぁ、至らぬなりに精一杯やってるので許してね、と。

 それはそうと、ずっと出張出ずっぱりということではないのだが、コロナのこんな時期なのに、というのもあるのだが、仕事柄、人のいないところめがけて、というような感じなので、あまり気にしていない。で、今日まで5日、武蔵野、最終日の今日は付随した形で信州に用があったのだが、とても慣れたものとは言えない4tダンプのステアリングを握りながら、ボーっと思ってたことを書き連ねてみようかと思う。


 沖積平野に広がる田園風景というのがデフォルトであるという感覚があったから、特にこちらの感覚で、水田が広がっているはずのところに畑が広がっている武蔵野というのは、なかなか不思議な感じ、というのも大げさだな、なんというのだろう、やはり不思議としか言いようがないか。都市化が進んでいる現代ではあるけれど、そうではなかったとき、いや、それは水田が広がるところでもそうか、狐狸が結構いたりして、って、あ~、そういえば、車に猪が突っ込んできたんだよ!って。案外、昔に戻っていくのかもな、って、そういうことじゃなくて。
 仕事場は、今の形になる前は畑ですらなく、少し小高い雑木林と脇を流れる水路だったんだそうな。

 武蔵野の町のでき方、道の付き方というのは、地形を模した培養基にプロットした粘菌が作る道筋、集約点の形に酷似してた、なんて読んだことがある。こちらでは、川とか谷筋とか、町のでき方に地形というのはかなりダイレクトに影響しているように思えるが、武蔵野に関してはあんまりそんなこと関係ないみたい。まぁ、良くは知らんのだが。

 無理やり通した道、ということでは、信州もなかなかのものだった。佐久から東御、上田にかけて、恐らく、地形的には若い地形なんだろうな、樹木とか建物とか取っ払ったらグランドキャニオンみたいな地形なんじゃないかしら? 侵食とかまだまだ途上で。なんで、こんなところに道通すよ? と、新幹線や高速道路からではわからなかった、下道走って、そんなことを思う道が結構あった。
 その脇、無造作に補強もされず、例えば上の方の樹木の根とかがよく見えてしまってる法面とかが結構あったのは、武蔵野も信州も同じ。これは行政の問題なんだろうか? それとも、思いのほか安定している? 信州なんか、2年前の台風の時も、千曲川が氾濫しても、そういう法面が崩れたみたいな話は、うっかりしていて聞かなかったなぁ。

 近代の遺構がこっちよりいっぱい残してあったな。とか、道で言えば、地元の方が絶対良い、とか、由無きことを由無き具合に考えながら、慣れないレンタカーの4tダンプのステアリングを握っていたわけでございます。

2021年7月9日金曜日

1994年11月6日日曜日

0189 ベース少女がドラム少女を巻き込んで転倒けた場所

 

0189 ベース少女がドラム少女を巻き込んで転倒けた場所

京都市左京区一乗寺木之本町付近_2