8514 Thruxton R _2
T0093,0094 ゆるキャン△、片岡義男、ヘミングウェイ、禅とオートバイ修理技術
ゆるキャン△アニメ第3期、断片的に観ることはあったが、NETFLIXに上がったのは9月に入ってからで、初めて通しで観ることが出来た。画面には山は映っているけれど、話に大きなヤマみたいなものは特にない日常系アニメは前からそうであった通りで、構えることなく観ることが出来るのもいつもの通り。
ただ、前2シリーズが晩秋から春の浅い時期だったのに対し、3月から4月の桜の時期の話となっている。また制作するアニメスタジオが替わったせいで、違和感こそなかったが、違いというのも色々感じられた。いや、制作会社が替わったのは関係ないのかな? 冬の冷たい空気と、身体と心の芯に微かだけど確実に存在する暖かいもの、なにか、意識というかが、一点に収斂していく感じというのが薄れた。うん、まぁ、描写される季節によるものだろう。
コロナ禍期に家に閉じ込められ孤独にさいなまれていた海外の若者達が、このアニメに随分と癒されたのだと、youtubeの動画で見た。ゆるキャン△の登場人物、志摩リンちゃんが内向的でぶっきらぼう、場合によっちゃ、人付き合いが得意じゃないのだろうけれど、そんな彼女も自然に振舞うことが出来ているところに随分と癒されたのだと。
孤独は悪いことじゃない、社会から孤立するというのは何かしら瑕疵を抱え込んでいるのだ、そういう考え方が強い、特にアメリカ何かで強いらしいのだが、孤独であること自体は決して悪いことではない、そういうお話に結構な数の人が引き込まれたのだそうだ。日本ではそれほどでもないので、そんなこと思いもしなかったが。
「時には星の下で眠る」では、空気感がゆるキャン△第1期第2期の者と似ているのだということは既に書いた。散発的にヤンチャをしたエピソードなど、散発的に回想シーンが挟まれるのだが、物語の本流の時間軸では、登場人物たちの丁々発止なやり取りが行われるわけではない、夜、寝袋に入って夜空を見上げる、その中で、登場人物達がそれぞれに思いにふける、そんな展開だったと思う。冷たく澄んだ凛とした夜の空気。それほど多くとは言えないオレの個人的な体験も照らし合わせつつ、ゆるキャン△や「時には・・・」での描写に思いをはせるというのは、とても楽しい。
確かにアメリカにおいては、孤独というものは何らかの精神的瑕疵を背負いこんでいるから、というのはその通りのようで、しかし、孤独であることで癒される事もあるのだ、という表現もないわけでもない。
アーネスト・ヘミングウェイのニック・アダムスもの、その中の「二つの心臓の大きな川」。原題は「Big Two-Hearted River」。ミシガンの山を歩く、アウトドアな話だった。
ニック・アダムスが主人公の短編群は、全体で、彼の人生のかなりの部分を描写する大河ドラマとなっている。日本で言えば「青春の門」みたいな感じか?と一瞬思うが、あまり比較することに意味はない。第一次大戦でトラウマを背負い人付き合いが苦手になったニック・アダムスの、「二つの心臓の大きな川」は、ただ淡々と、野山を歩きテントを設営し火をおこし、それらの行為を丹念な描写に終始する。殊更心理描写があるわけではないが、そう言った行為で、ニック・アダムスの精神が一点に収斂していくのがよくわかる。
ロバート・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」(原題「Zen and the Art of Motorcycle Maintenance: An Inquiry into Values」)も、まぁ、アウトドア描写はそれほどではないが、ないわけではなく、それらとオートバイのメンテナンス行為に精神を収斂させていくことで、まさしく壊れた精神に何かを得る話。
そう考えると、高校生の女の子達のアウトドアの話ではあるけれど、見る側の内的条件によって、行間からいろいろなものをくみ上げることが出来る、そういう作品なのであると。
それにしても男の子が出てこない。男の子、何をやってる? だが、あの話に同年代の男の子をねじ込むには無理がある。その代わりに、トライアンフ・スクラクストンに乗るおじいちゃんが出てくる。おじいちゃんの物語は語られることはない。想像するしかない。が、物語の重要な重石になっている。
そして、彼のキャンプ道具と、恐らくバイクもそうなんだろう、を受け継ぐ志摩リンちゃん。
9月になったというのにうんざりする暑さが続く日々だ。あの何回か自分でも経験した、冷たく凛とした空気が恋しくなる。
ふと、「嗚呼、星に願いを。もっと冷たい風の中へと」という歌のフレーズを思い出したところで、締める。