8427 Ayrton Senna da Silva _28
Ayrton Senna da Silva
Toleman TG184 Hart
Mónaco 1984
NT0081 あの時何かが終わったと直感したのだ
タンブレロに激突しへし折られたファルスは何かの暗喩であると直感した。
セナという人は、強い意志の人であったと聞いていた。象徴的にこういう例えをしたのを目にしたことがある。
幅が1.2m程の水路があったとする。まぁ、普通の健康な成人であれば、飛び越えるまでもない、問題なくまたげるだろう。では、高さが100mある二つのビルが隣り合って建っている。隙間は1.2m。屋上から屋上へ飛び移れるか? 普通の人間では同じ幅なのに怖気づき躊躇するだろう。セナは何のためらいもなく渡ってしまう人間だ、と。
必要なら人の何倍の努力をすることも厭わない。自分自身に停滞することや逆行することは決して許さない。立ちふさがる障害も力技で乗り越える。って、停まったら死ぬって、サメかなんかみたいだな。そういう、なんというか、近現代というものの体現者のような人だったんじゃなかったか?
これは、彼の死後、いろいろ彼の事について読んだりして抱いた印象なのだが、まぁ、事故の翌日にすでにそんな感じの事を思ってはいた。
何が終わったと感じたか? セナをスターに据えた日本のF1ブームは多分終わるだろうとは思ったが、そういうことじゃない。
多少かぶれていた現代思想的な用語を使うならば、モダンが終わり、これからポストモダンが始まっていくのだ、みたいなこと、違う言葉ではあったが感じていたのかもしれない。それまでは個人にとって意志を貫きうる幸せな時代だった。が、以降、個人というのは負けていく、かなり抽象的だな。何に負けていくというのだ? 機械にか? 不可視な共同体の意思にか?
しかも、モダンは、自らの意思で幕引きをするのではない、なし崩し的に、しかし、二度と立ち直れない形で、でも、最初は見えないように、そんな感じでこれから負けはじめていくのだ、と、あの時は言葉に出来なかったが、今こうして言葉にしてみると、確かにそういうことを感じていたのだと思う。
妙な焦燥感だけが次第に肥大化していった。何かしなくちゃいけない。でも何をだ? そして何もできないまま今まで来てしまった。