ラベル WGP/MotoGP の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル WGP/MotoGP の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年4月20日日曜日

8784 NSR500 1988

 

8784 NSR500 1988

NSR500 1988
for Wayne Gardner

1988年 NSR

 1988年のNSR500には、実のところこれと言った印象はない。前年チャンピオンを獲ったワイン・ガードナーはケガや何やで、エディ・ローソンにチャンピオンの座を奪われている。やはりというか、ワイン・ガードナーは目標を見上げてそこに向かっていくときにこそ力を発揮するが、一度それを獲ってしまうと、集中力をなくすタイプなのかもしれない、とも考えている。
 性能でこの年のNSR500がYZR500に負けていたのかどうなのかということまでは分からない。

 レプリカー模造、というより、同時進行で開発された公道モデル、NSR250R、MC18の話。っていうか、直接的にはレース用NSR250やRS250とほぼほぼ同時開発、ということらしいが。ミラーとか外せばそのままレースに出ることが出来た、公称自主規制45馬力でも、実際には70何馬力か出ていたのではないかという噂。時代だねぇ、イケイケ、ドンドンのバブル時代。景気のいい話だ。おかげで、カワサキのマッハIII500SS以来の「widow maker」なんていうありがたくない二つ名を頂戴したとかしなかったとか。

 この後のNSR250Rは、パワーは同等ながら、扱いやすさを身につけていったが、とにかくこのMC18は、TZR250には負けられね~、峠最速はオレのもんだ、とばかりに相当尖った物であったようだ。オレはついに、借りものであってもまたがることはなかったがな。

 あの頃の峠文化というものも不思議なものだった。まぁ、結構イキってるくせに下手糞な奴もいただろうし、最初はそもそもみんな下手糞だ。新車で峠に乗りつけて、いきなりコケてカウルバキバキにして涙目、なんてことはフツーにあったことだろう。

 あぁ、こんなことがあった。そいつの単車がNSRだったかTZRだったかは忘れた。見てないんで。当時学生でも普通に建設現場のバイトに行くことが出来た。今じゃ労働衛生法とか何とか縛りが厳しくてそういう訳にはいかないみたいだが。
 その日の仕事は滋賀のどこぞの小学校だったか中学校の体育館の断熱材のグラスウール張りのバイト。盛夏ではないにしてもそれなりに暑い季節だったと思う。そういう時にでもグラスウールを扱う時は合羽を着こんでゴムの手袋をし、完全防備で向かう。肌についたら、まして汗で広がった毛穴にグラスウールが入った日にゃあ、3日間は痒くて死ねる。
 そいつ、新しく入ってきたばかりで、聞いたところ単車のテールカウル新調したんだが、シートのウレタンゴムをケチっていて、その代わりにグラスウールの切れ端もっていっていいっすかね? って訊くもんだから、別に切れ端ぐらい惜しくはなかったけれど、そこにいたやつ全員「「「「「やめとけ!」」」」」といったものだ。

 エンジンとかブレーキとかって部分はそういう訳にもいかないが、バブルの時とは言え、如何に金を浮かすかに腐心する峠小僧。それが長じておかしな改造とかをし始めてそれが流行りになったりする。あと、あのころ流行ったヘルメットの角なのかアンテナなのか、あれ、何だったの? はたまた変なところにBOØWYの歌詞が貼ってあったりしてな。

 わらわらそういうのが峠に湧いて、んで、規制が始まるんだ。今思うとな、そういうのをガス抜きとしてお目こぼしもないから、今の若いコ、余計に変なところに入り込んでとんでもない犯罪に走るんじゃないかと思うことが偶にある。

 時は経ち、1年位前かな、MC18、88(ハチハチ)のロスマンズカラーのNSR250Rが近所のコンビニに停まっていた。どんな奴が乗ってんだろう?とみていたら、ほんのちょっと若いがほぼオレと同世代のおとっつぁんだった。当時、たくさん売ってたくさん廃車になったNSRだ。大事に乗ってくれたらいい。そう思った。


2025年4月18日金曜日

8782 Wayne Gardner _25

8782 Wayne Gardner _25

Wayne Gardner
NSR500  1987

1987年のワイン・ガードナー

 モリワキに乗ってヨーロッパでも走っていた、日本と縁があった、律儀なオーストラリア人というのが当時の印象。特に、チーム、というか、HRCの中では優先順位の上にはフレディ・スペンサーがいたけれど、貪欲に、呼ばれれば8耐だって何度でも出走し、勝って見せた。当時、ホンダにとっては彼こそが頼りになるライダーだったことだろう。
 すぽんとフレディ・スペンサーがいなくなった頃には、HRCとの信頼関係も深く、しかし、マシンは残念ながらフレディスペシャルという出来で、それでも若く貪欲な彼は、87年のチャンピオンになった。
 HRC所属になった85年から、87年にかけて、彼の運気も最高潮だったのだろう。この間は多くの事でうまくいったように見える。

 ライディングテクニックも当然あるのだろうが、マシンなど必ずしも彼に最適化されて設えたものではなかったにもかかわらず、であるからこそ余計燃えた部分もあるのかもしれない。ワークスマシンから2段落ちのRS500での初出走以来、それを克服するようなアグレッシブな走りというのが、結果彼を支え続けたわけだが、

 果たして、そこをピークに、この後、やや運にも見放された部分もあったのではないか? ケガを負い後輩に抜かれ、引退。

 まぁね、アンラッキーな部分はあったのかもしれないが、一般のモブからすれば充分、幸せな人生である事だろう。

 さて、彼の現役時代など、日本車しか勝てんという頃であり、必然日本に近づこうとする。親日家と思われたが、2016年、息子絡みの暴行事件で江戸所払いと相成っている。 (´・ω・`) ショボーン。まぁ、何より彼も人の親であったという事だ。


 

2025年4月15日火曜日

8780 Freddie Spencer _57

 

8780 Freddie Spencer _57

Freddie Spencer
NSR500
Salzburg 1986

1986年のフレディ・スペンサー

 1983年のタイトルは、YZRにパワーで負けていて、それをハンドリングなどのNSの特性とシーズン通した戦略でもぎ取ったが、フレディ・スペンサー、マルク・マルケスが2013年に20歳266日で最年少タイトルを更新するまで、21歳258日で獲った最年少記録だった。
 それが1985年、無敵の完全勝利で、これからまだ若い彼の天下は続いていくものと思われた。

 が、どうだ、蓋を開ければ、そもそもレースに出走すらしない。ちょろちょろ予選を走ったりはする。何走り惜しみしてるんだ? と、段々と反感が高まっていく。
 ホンダの現場のエンジニアだったか、「世間知らずの天才様」と揶揄した。フレディ様の気紛れに振り回されてる気分だったのだろう。
 結局、この年、ろくにレースも走らず、その後、スポンサーのロスマンズが外れ、ヤマハに移籍し、フェイドアウトしていった。
 因みにNSR500だが、前年のマシンが傑作すぎたのか、見た目、小変更の熟成型に見えるのだが、よくわからん。

 さて、フレディ・スペンサーに何が起きていたのか? のちに聞いたのには、シーズンオフ、自分に死角があるとすれば、筋力不足のスタミナ不足だろうと考え、かなり入れ込んで筋トレをやったそうなのだが、肥大した筋肉が神経を圧迫し、激痛で何もできなくなっていたようだ。

 ネットの「クラブハウス」で知り合った、ある若い女性の話だ。青春前期、彼女は住んでいる地域では将来を嘱望された柔道選手だった。同じ年代の女子の中ではかなり強かったようだ。期待に応えようと頑張った。筋トレも相当したらしい。そしたら、だ、同じ筋肉が神経を圧迫する障害に罹り、選手生命を諦めざるをえなくなったそうな。知り合った時にはおじさんも舌を巻くモータースポーツヲタクになっていたが。
 
 ネットで調べてみた。恐らくはバーナ症候群と言われているのがそれであろう。1986年当時、それに対する知見はほぼなかったと思われる。誰もそれを指摘するものはいなかったようだ。それこそ、気分でレース出走をキャンセルしているように見えたのだろう。痛みと周囲の理解が得られない孤独に耐えなくてはならなかったのかもしれない。今でこそ治療法は確立しているようだ。

 良くも悪くも「世間知らずの天才様」というのはその通りだったのかもしれない。少年の頃から、レースを走り勝つこと以外何も考えていなかったようだ。誰も理解してくれない障害を抱え、ボロボロになり、GPから米国内のレースに追いやられ、それでも走らせてもらえるレースには出ようとしていたようだ。結果に繋がらなかったようだか。そうやってやがて消えていった。

 前にもこの話書いたな。アイルトン・セナと並べて。筋肉は裏切らない、なんて、この何年か、時々聞くが、フレディ・スペンサーは筋肉に裏切られたのだ。

 後もうひとつ書く。2010年代になって、ようやくサーキットに顔を見せるようになり、イベントでかつてのファンに囲まれて楽しそうに笑うフレディの写真を見て、なんとも言えない気分になった。
 これも前に書いた。キャリアのピークで、ふっと消えてしまったアイルトン・セナと、キャリアに裏切られ、それでも生き抜き、今笑っているフレディ・スペンサー、どちらが幸せなのだろう?
 


2025年4月13日日曜日

8778 NSR500 1985 _2

8778 NSR500 1985 _2

NSR500 1985
for Freddie Spencer

1985年の事

 果たして、燃料タンクと排気エキスパンジョンチャンバーの位置をオーソドックスな位置に修正した1985年のNSR500とフレディ・スぺンサーの組み合わせの快進撃ときたら他者には手が付けられなかった。勢い余ってこれのエンジンを半分に割ったRS250RW、実質初代のNSR250でスペンサーはシリーズダブルエントリー、ダブルウィン。あまりの圧勝具合に、以降一人のライダーが2つ以上のクラスを掛け持ちすることはできなくなった。これより前は、350㏄のクラスがまだあったときには、ジャコモ・アゴスチーニなんかも2クラスエントリーをやっていたみたいだが。

 他者に対し圧倒的なのに、それでも尖って前に向かっていく、この年からのロスマンズカラーのNSR。初期のNSR500といえば、84年型というよりはこの年のモデルを思い浮かべる人の方が圧倒的に多いだろう。

 坪内隆直氏が編集人をなさっていた「Grand Prix Illustrated」は、当時社会の事など全くわかっていなかった田舎から出てきた19歳にも、非常に手が込んでいるが商売の割には遭わないんだろうな、と想像させる、GP愛にあふれた月刊誌だった。
 第3号を板橋区蓮根の予備校の寮の近くの書店で手に入れて、何か非常に特別なものであるように思えた。世界が違う。
 間もなく、神田神保町に当時あった、今はどうなのかわからない、書泉グランデでバックナンバーが平積みされているのを観て、創刊号第2号をすぐに買い込んだ。この後1989年の月刊最終号まで買い続けることになった。

 そもそもが中学で部活をやっていたころから、テレビが必要ない人間になっていたこともある。ただでさえ2輪のレースの事などテレビでやらなかった時代に、今のように望めばほぼほぼリアルタイムでテレビ観戦などできるはずがない。情報はこうした雑誌から最速でも1か月が其処ら遅れで手に入れるしかなかった。

 であるから、すべては妄想だったのかもしれないけれど、もう他をぶっちぎってるのに、更に超然として先に向かっていく姿を幻視し、それが何か支えになっていた。その後この社会でわらわら湧いてきた似非宗教家たちの言葉より雄弁だったように思う。


 

2025年4月12日土曜日

8776 NSR500 1984 _3

 

8776 NSR500 1984 _3

NSR500 1984
for Freddie Spencer

1984年の事


 1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。


 なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。

 18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。


 空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。



 そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。


 奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。


2025年3月30日日曜日

2024年8月15日木曜日

8446 Jeremy McWilliams & NT0086,0087 ジェレミー・マクウィリアムスとブラフシュペリアの組み合わせから、ト―マス・エドワード・ロレンスを連想し、現在の中東情勢まで思いをはせてみる

 

8446 Jeremy McWilliams

Jeremy McWilliams
Brough Superior Moto2
Silverstone  2014

NT0086,0087 ジェレミー・マクウィリアムスとブラフシュペリアの組み合わせから、ト―マス・エドワード・ロレンスを連想し、現在の中東情勢まで思いをはせてみる

 2014年イギリスGPのワイルドカード、マクウィリアムスが乗ったブラフシュペリア。申し訳ないが、往年のSS100や現代にリブートされたものに比べて、なんともモッサリした形で、ちょっと残念な気がした。
 ジェレミー・マクウィリアムスは、オレより2つほど年上か。ワイルドカードならそれでもありだが、この時で50歳。顔は寧ろ、ピーター・オトゥールより、現在に残るT.E.ロレンスの肖像に似ている。
 ブラフシュペリアというと、まず思い浮かべるのが、そのT.E.ロレンスの愛車であったということ。現代のクルマで言えば、フェラーリどころではない、ブガッティやパガーニくらいのランクのブランドだったようだ。単車で言えばステータスという事では、RC213VとかNRとかになるのだろうか?ちょっと違う気もするな。ヘスケスとかだと性能がちょっと落ちるかな? ブラフシュペリアのSS100っていうと当時のスーパースポーツバイクだったらしいし。

 で、単車乗りのうちの一定割合、

 「スピードの中で精神は肉体を超越する」

 というT.E.ロレンスが、「知恵の七柱」の中で述べているとされる言葉を連想する。ところが、オレの高校の同級生によれば、そのような記述は原文の中には見当たらない、とのこと。意訳に意訳を重ねたりしたんだろうか? 原文を探してよく読み込むしかないか。

 日本に舞台を換えれば、トム・クルーズが「ラストサムライ」でやったような立場だったわけだ、「アラビアのロレンス」は。政治的に緩かったのか、ハリウッドが気骨を見せたのか、むしろ逆に政治的意図があったのか、ちょっと分からない。

 「サイクス・ピコ協定」と「バルフォア宣言」。大英帝国の2枚舌、3枚舌外交の中で翻弄されたか、T.E.ロレンス。そしてそれは世界中、末代まで祟る。
 うちのブログ、イスラエルからの閲覧数が、母国日本より多い。っていうか、日本人には見向きもされない? まぁ、それはこの際はいいとして、そういうイスラエルからの閲覧がそれなりにあるにもかかわらず、敢えて書くと

ナチスからされたことをパレスチナで行うイスラエルはナチスを批判する資格を失った。

Israel, which does in Palestine what the Nazis did to it, has lost its right to criticize the Nazis.

ישראל, שעושה בפלסטין את מה שהנאצים עשו לה, איבדה את זכותה לבקר את הנאצים.

Israël, qui fait en Palestine ce que les nazis lui ont fait, a perdu son droit de critiquer les nazis.

 ハマスに対して、と言っているが、やっていることはナチスがやったこと、或いはコソボ紛争で行われた民族浄化と何ら変わらぬように見える。

 とまぁ、ネットで書いてみても、何か変わるようにも思えぬ。とりあえず意見表明だけはしておくが、我々はその意見表明すら逆方向に利用されるような時代にいる。もっと深く考えてみないといけないと思っている。