2025年8月13日水曜日

《創作》寝取られ幽霊 第2話 地獄巡り 上

8836 Burma 1944


  明晰夢とはこういうものの事を言うのだろう。蓮はそう思いながら、眼前に展開される、物語、なんだろうか、ある男、って、ぶっちゃけさっき目の前に現れた、自称守護霊、曾祖父だという坂本清彦の生涯を早回しで見せられていた。何倍速?


 九州帝国大学の医学部を出て、地元熊本の古田病院に勤務。のちに、それはそのまま知らされた曾祖母となる山岸春江を娶り、一男をもうける。

 そのふたりの間に生まれた男の子、蓮にとっては祖父にあたる清志郎が建て替えたのが現在の蓮の実家で、その建て替え前の家の縁側で、まだ2歳か3歳の清志郎が、清彦の膝で「とうちゃ」と甘えていたのが酷く印象に残った。


 招集、というより従軍と言うべきか、清彦は56師団の軍医としてビルマ、ミイトキイナに赴任していた。秩父出身ながら筑紫炭鉱で炭鉱夫見習いをしていた18師団の若い上等兵、大沢辰造を弟のように気にかけていたのだが、18師団の居残りになるほどの負傷をしたため、内地に返すこともできず、ずっとミイトキイナに留め置きになっていた。面倒を見ていた清彦もまた、1944年の7月末まで、辰造の面倒を見るために、ミイトキイナに居残っていたわけである。



 穴は浅かった。濡れた土は重く、シャベルは半ば柄が折れていた。

  それでも清彦と佐久間は黙々と穴を掘り続けた。大沢辰造はまだまだ漸く傷が塞がったところで、この後のことを思えば、ここで体力を使わせるわけにもいかず、横に荷物を持って立たされていた。


 強い雨だった。葉を打つ音が重なり、音の境界が消える。

  穴のそばには、一枚の破れた毛布に包まれた遺体が横たえられていた。


 石塚軍曹。

  数日前からマラリアにうなされ、水も口にせず、今朝方、息を引き取った。


 遺書もなければ、家族のことも何も語らなかった。

  ただ、写真らしいものを一枚、濡れた包みの中に忍ばせていたのみだった。


 「……石塚軍曹、失礼します」


 坂本が目を閉じて一礼し、佐久間がそっと毛布の端をかぶせた。

  誰も泣きはしなかった。泣けるほどの体力も、涙も残っていない。



 土を戻す音だけが、雨音に混ざって、静かに続いた。


 土をかぶせ終えたあと、しばし誰も動かなかった。

  静寂のなか、清彦が両手を合わせて口を開く。


 「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

  低く、短く、それだけ。

 佐久間がちらりと目を動かし、仕方なさそうに続けた。

  「……南無妙法蓮華経……なんまみょうほうれんげきょう……」

 少し間が空いて、大沢も慌てたように手を合わせる。

  「……南無大師遍照金剛……」

 妙な沈黙が落ちた。三人、それぞれ微妙に目を合わせかけ、そらした。

  誰も口にしなかったが、心のどこかで「ん?」という思いはあった。

 「……ま、気持ちだけでもな」

  と、誰かがぼそりと漏らし、他の二人はうなずきもしなかった。

 それ以上は何も言わず、再び雨の音に沈んだ。



 突然、甲高い声が響いた。


 「――整列ッ!」


 反射で数名の兵が体を起こした。何人かは顔をしかめた。

  声の主は、あの栗山曹長だった。一言で言えば、嫌われ物の上官。かつてはよく怒鳴り、下士官相手に威を張り、食料の配分をめぐって口論を繰り返した男。それでいて、上役には媚びへつらい、下士官たちにはうっすら軽蔑されていたのだが。


 その栗山曹長、その立ち姿にはいつもにはない、静けさと緊張感があった。


 「坂本伍長、佐久間軍曹、大沢一等兵、前へ!」


 三名が静かに前へ出る。栗山は一歩進み、鋭く叫んだ。


 「敬礼ッ!」


 全員の右手が、一瞬、揃って額へと上がる。

 背後から足音。栗山が振り返り、一歩下がって姿勢を正す。


 水上少将が現れた。軍帽の庇の奥から鋭く光る眼差し。泥と疲労にまみれた軍服の上に、なお将官の風格があった。


 「……石塚軍曹の埋葬は終わったか。…貴官らが殿となった。本陣地より移動を命ずる。」


 それだけを口にすると、少将は三名の顔を順に見た。

 「栗山曹長、準備は?」

 「はっ。包帯、モルヒネ、乾パン一日分、弾薬三装填分。すでに配備済みです」


 少将はうなずいた。


 「坂本伍長、貴官に命ず。佐久間軍曹、大沢一等兵とともに、南方突破を実行せよ。

  敵前線を避け、後方陣地との連絡を図れ。……我らの記録と意志を、生かして届けよ」


 沈黙が落ちる。

 やがて坂本が、少将に向かってゆっくりと敬礼を返す。それに倣って、佐久間と大沢も静かに腕を上げた。


 栗山が再び前に出る。


 「なおれ!」


 三人の手が下がる。


 「――右、向けェ、右ッ!」


 三名の身体が揃って、東方のジャングルへと向き直る。湿った風が、倒れかけた遮蔽物の布を揺らした。


 「行軍、始め!」


 張り上げた声で言った後、栗山は呟いた。声は、誰にも届かぬほど小さかった。


 「……命令は、俺が出した。もし帰れたら、そう伝えろ」


 坂本は振り返らなかった。

 ただその背だけが、過去を背負い、密林へと消えていく。



  誰も声をかけなかった。足音も、枝のきしむ音も、やがて風に紛れて消えた。全員が、しばらくその方角を見ていた。だが、やがて一人、また一人と視線を落とす。


 そして、その直後だった。


 ――乾いた銃声が、一発。

 それから少し間をおいて、もう一発。


 音は遠く、だが明瞭だった。風が一筋、遮蔽物の布を静かに揺らす。


 誰も何も言わなかった。ただ、そこにいた者たちの背筋が、いくらか正された。



 夜明けと共に、三つの影が音もなく木々の隙間を縫うように進んでいた。

  空は鉛色。雲は重く垂れ込め、密林の奥まで湿った光が差し込んでいる。土はすでにぬかるみ、足元には無数の棘を孕んだツルや、濡れ落ち葉の層が積もる。呼吸を抑えながら、一歩ごとに脚を運ぶ。それでも、湿った空気が喉を焼くようにまとわりついた。


 先頭を行くのは坂本清彦。伍長。軍医部所属、医師をしているときに徴兵されたが正式な軍医ではない。かろうじて衛生兵としての訓練を受けただけの、いわば“臨時”の命を背負う者だった。

  彼の後を追うのは佐久間秀幸。軍曹。坂本と同じくらいか幾分若くで、軍医補佐として中隊の後方に常駐していたが、ミートキーナの崩壊後は逃げ延びる仲間を選ぶ暇などなかった。かつての整然とした陣形は、もう存在しない。

  最後尾、大沢辰造。一等兵。19歳。初年兵として合流してからわずか4ヶ月、階級章もまだ洗い立てのように白く、負傷の予後ではあったが無言の背中に必死でついている。


 銃を構えることなく、だが常に二手先を警戒しながら、彼らは歩いた。坂本は手信号で前方の茂みを指し示し、佐久間が一歩踏み込み、枝をかき分けて進む。大沢は振り返ることもなく背を守る。言葉は交わさない。声は死を呼ぶ。


 水を含んだ蔦が脚に絡む。蒸した泥が靴に食いつく。全員の装備は最小限に削られ、銃と弾薬、乾パン少量、そして包帯とモルヒネ。食料も医薬品もすでに配給は絶えて久しい。


 坂本はこの方向を選んだ。南東へ。ジャングルの尾根筋を伝ってバモーへ向かう。生きている部隊がいるかもしれない。彼らは誰からも命じられていないが、自分たちが戻らなければこの敗走の記録さえ残らない。

  それが、脱出前に水上少将から託された唯一の言葉でもあった。


 空が完全に明るくなった頃、三人は小さな沢を越えた。川幅はわずか一間。だが深さはある。佐久間が先に膝まで浸かって渡り、対岸で待つ。大沢が続き、最後に坂本。木の枝を杖にして体を支える。苔が滑る。慎重に、音を立てないように。

 そのとき、微かに何かの気配がした。

  佐久間の指が止まった。すぐに右手を下げて地面に伏せる動作。坂本と大沢も即座に従う。


 静寂。密林の息づかいだけが周囲を包む。

 その中に、革靴が濡れ枝を踏む乾いた音が一つ。さらに、小さく囁くような声。中国語だ。

  斥候部隊か。向こうも慎重に動いている。銃声はない。接敵距離が近い。目視すれば終わりだ。

  三人は泥に沈むように地面へ身体を預けた。全身の筋肉が緊張で硬直する。鼻腔に泥の匂いが満ちる。目の前を、三人編成の中国兵がゆっくりと通り過ぎていった。

  顔を見ずとも、肩にかけた装備と銃の形状で分かる。軽装の偵察隊。だが機関銃を背負っていた。発見されたら、逃げ場はない。


 やり過ごすまで、呼吸を止めるほどの時間が流れた。ようやく音が遠のくと、佐久間が小さく頷いて再び立ち上がった。

 坂本も無言で頷く。斥候がこのエリアを使っている。ということは、このルートは補給路か、監視線上にある。別の尾根筋へ移動しなければならない。

 東へ数百メートル迂回し、再び南下する道を選び直す。


 午後に入り、雨が降り出した。最初は、密林の葉が微かに擦れる音だけだった。葉の上に溜まった雫が一つ、また一つと滴り落ち、それが地面の泥を打つ。匂いは、急に濃くなる。湿った土に、腐りかけた落ち葉の甘酸っぱい匂い、どこか遠くで咲いている花のむせ返るような香りが混ざる。雨粒が頬や首筋に触れるたび、ひやりとした感覚と、すぐにぬるくなる温度変化が肌を這った。


 三人は樹幹を縫いながら進む。足元の泥は、踏み込むたびに吸い付くように靴底を離さない。ぐっ、という重たい音とともに靴が引き抜かれるたび、泥が糸を引く。そこに細かい砂が混じり、指でこするとざらついた感触が残る。ときおり、足首にまとわりつくように細い蔦が巻きつき、それを手でほどくと、生温い水滴が掌を伝った。


 山の背をひとつ越えたあたりで、前方の竹藪から銃声が裂けた。乾いた破裂音が木霊し、すぐ近くの土がぱちりと跳ねた。反射的に三人は伏せた。耳の奥に、銃声の余韻がいつまでもこびりつく。雨音の層が、その上に薄く積もる。


 狙われている。胸の奥で心臓が一拍ごとに熱を持つ。姿は見えない。だが射手の位置は、葉の揺れ方と音の方向で分かった。坂本は右の潅木に滑り込もうとした瞬間、左脚膝に衝撃を感じた。石をぶつけられたような鈍い衝撃の直後、焼けるような痛みが遅れて押し寄せる。視界の端が赤く滲む錯覚があった。


 佐久間が無言で駆け寄り、坂本の腰の包帯を引きちぎって膝の上を縛る。指先は迷いなく動き、結び目が一瞬で締まる。その手は血と雨で滑っていたが、力強かった。大沢は背後を警戒し、反対側の斜面への退避を合図する。


 膝の痛みは脈打つたびに鋭くなり、坂本は歯を食いしばって立ち上がる。佐久間の肩を借りて斜面を下りる。泥と落ち葉が滑り台のように身体を押し出し、腕で幹を掴むたびに、樹皮の湿った匂いと、そこにこびりついた苔の匂いが鼻を満たした。


 銃声は追ってこない。奇襲ではなかったのか、それとも威嚇か。だが油断はできない。雨脚は強まり、視界の輪郭が白くにじむ。


 やがて三人は樹の陰に身を寄せ、坂本の脚を改めて確認した。弾は膝のすぐ下をかすめ、骨は砕かれていない。それでも歩行は難しい。雨水が包帯に染み込み、血と混ざって暗い色を帯びていく。


 今夜は移動できない。三人は、根元の開いたバナナの木の下に潜り込んだ。葉が幾重にも重なり、上から落ちる雨粒が葉を叩く音が、太鼓のように低く響く。下は湿った土で、手をつくと、指の間からぬるりとした冷たさが這い上がってくる。


 匂いは濃い。土、葉、雨、そして自分たちの汗と血の匂い。湿気が肺にまとわりつき、息を吸うたび、ぬるい空気が喉を擦る。遠くで何かが鳴いた。甲高い悲鳴のような声。鳥か猿か、あるいは人か、判別がつかない。すぐにまた別の音――葉がかすかにこすれる音。風か、それとも何かが移動しているのか。


 三人は声を出さずに耳を澄ました。時間が伸びる。音の一つ一つが、雨粒と同じくらい輪郭を持ち始める。水滴が落ちる音、葉の先から落ちる雫が泥に吸い込まれる音、湿った蔦が風で揺れるときの軋み。背後で大沢が息を呑む気配があったが、すぐに静まった。


 その夜は眠れなかった。まぶたを閉じても、音と匂いと湿気が、全ての感覚を塞いでくる。


 熟睡していたわけではない。三人とも、体は横たえていても意識は泥の底を漂うように重く、時折浮かび上がってはまた沈む。耳の奥で雨音が形を変える。遠雷のように響くかと思えば、次の瞬間には誰かの囁き声に聞こえた。その囁きの調子が、柳屋金語楼の軽口に似ていると一瞬思い、清彦は自分でも訳の分からない苦笑をこぼす。すぐにその笑みは引っ込み、今度は長谷川伸の浪曲の節回しが、湿った匂いと共に脳裏を過ぎった。夢と現実の境が曖昧になる。薄闇の中で、葉の影が人影に見え、幹の割れ目が眼のように光った気がした。胸の奥で不安が脈打ち、呼吸は浅く速くなる。ふとした気配にまぶたが開く。雨を背負って立ち並ぶ複数の影――囲まれていた。




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