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2022年5月3日火曜日

7482 GSX1100S_28 & ランボゥに戻る前にキリンに立ち寄る

 

7482 GSX1100S_28


 考えてみたら、法華宗の事ばかり書いていて、ランボゥの事書いてないし、それなら、別にカワサキ空冷4発を合わせることもないのだ。んでもって、ランボゥに話題を引き戻す前に、東本昌平氏の「キリン」の事について少し、と思い、今回は刀。

 非常に稚拙な、という修飾語はつくが、プチ宗教論争、プチ思想哲学論争なんて、20代の時、げっぷが出るほどやったのだ。それもこれもすべてはマウントとるためなんだが、夜の酒を飲みながらのそれに備えて、昼間のうちに書籍でにわか知識の詰め込みなんかもやったりしたものさ。今更、同僚で顕正の彼女を、以降、ここでは姫と呼称するが、姫とは多分直接的な論争になることはないだろう。姫の同級生の方か、顕正会のもう少し上位の人が、こんなオレを、それでも、折伏弘通しようというなら、多少はあるのかもしれない。まぁ、オレが彼らの立場なら、こんな奴はごめんだがね。

 ざっくり整理するならば、妙法蓮華経と勤行の良さは充分理解できた。それだけで価値があることは分かった。しかし、顕正会の主張方針とは相いれることができず、会員として活動することもできない、ということだ。

 心が決まって、改めて思うのは妙法蓮華経の経文としての端正さである。そう感じるというのは一体どういうことなのか、生まれて初めて、じゃないわ、前に鈴木大拙氏の「歎異抄」を読んだことがあるんだった。臨済宗門徒の氏が、親鸞の教えが浄土宗門徒の間で変質することを嘆いた、なんていう、言ってみれば愚痴本だ。名著とは言われているが。仏教関係の書籍を買うのは、その「歎異抄」に次いで、ということになる。それが今回、3冊ほど仏教研究書籍、他に何冊か、まとめてお買い上げだ。
 
 
 法華経関連書籍が4冊と、佐藤優氏が母校の、氏は神学部であったから、多分その神学部で講義したその内容らしい、という本と、ガダリやデリダと並んで、オレが若い時スターだったドゥルーズの、これ、入門書みたいな内容らしい。

 ホントは土木の技術書買って読めばいいのだが、ついつい手が出るのは、単車とかクルマの本じゃなければこのあたりだったりする。GWとその後の2週間の出張の夜、コロナだし遊びに行けないので夜の御供として。

 若いころというと、美術部の後輩に、一時期幸福の科学に偉く傾倒した奴と、バイト仲間の他の大学の学生(っていうか百万遍のかの国立大学の奴)でオウム真理教に入信しちゃった奴がいた。それぞれから、結構熱心に勧誘されたりした。
 って思いだしたよ。なんか、オレ、勧誘しやすいのか、原理研の勧誘こそなかったけど、前に書いた通り、英会話の教材やら、高校の時新宿駅で自衛隊の勧誘を受けたし、渋谷から青山通り、表参道と歩いただけで2回、厚化粧のオバちゃんお姉さんに、シルクスクリーンやらリトグラフやら売りつけられそうになった。以来、クリズチャン・ラッセンが特に嫌いになったんだがな。
 そう思うと、オレって、そんな隙だらけに見える? って、少し落ち込んでしまう。

 そのあたりから、思ってたのさ。新宗教、新興宗教なんていうのは、組織として不安定な分、教祖が「烏の色は白」といってもそれに従わなければならないようなところがある。そうしないと組織を維持できない。壺とか怪しげなもの売られる以前に、そういうのが我慢できない。

 こうやって、オレは、良いと思ったりとか興味を持ったりしたら、その話の裏も取り、そのうえで受け入れるかどうか決める、なんて言うやり方をいつの間にかとるようになった。法華経との出会いはきっと悪くないものであるという予感がある。それをもたらしてくれた姫には感謝だ。心から。

 まぁ、しかし、特に顕正会のような立ち位置の新宗教、そこの支部長あたりが仮に折伏にくるのだとしたら、そのような本では何も日蓮大聖人様の教えなどわからない、とか、間違いだ、とか言うのだろう。まぁ、それならお互い何が分かってるのか? って話なんだが、お互い何もわからないんだよ。なんて、少々乱暴か。主観も客観も必ず正しいことなんてない。一般に客観が正しいみたいな思われ方をしているが、そういうのはただ、外から見る分には、以上の意味はないから、中の事は分からないし、内側にこもっては外からの評価がわからない。信心が、他所の評価も気にならない。自分の信心で目いっぱいで、他人様の信心などどうでもいい、という立場を取らない、あくまで折伏にこだわるなら正しいものはまるで見えていないということになる。ただ、自分が絶対正しい、という料簡こそ、実は真っ先に間違いであると断ぜられるべきものであると思っている。その辺からして多分決して分かり合えない。

 まぁ、オレが思ってることだって正しいとはほぼ思っていない。特に万人にとっては。間違っているから常に正しいものを探すのだけど、正しいものを手に入れた瞬間に間違ったものになってしまうのだから、きりがない。しかし、そういうことの面白みが、何となくわかってきていたりしてな。


 限界超克の姿こそ男にはふさわしい
 それは一種永続的な闘争であるが
 その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい
 若さは性急に結論を欲し 問題を切断しようとする

 自身の有限を自覚しながらも
 再び立ち上がり走り出さなければならない
 初めてアクセルを握った時から
 何も変わってはいないのだ

 そらで覚えているのを書き出してみた。それぐらい若い時のオレには重要な一節だった。「キリン」が最初にMr.Bikeに連載されていた時に、東本氏によって、作中と、漫画とは別のページに書いてあったのを合わせて、こんな感じだったと思う。
 こめかみとその奥の脳髄の芯が随分と疲れたような感覚は取れなかったけれど、これはこれからこういうものだし、男ってこんなもんだ、なんて妙に腑に落ち、何か世界が変わったような気がした、これを読んだときは。
 因みに、「男には」なんて、「男」を振り回すなんて、随分昭和だが、しかしこの場合の男はつまり、例えば戦場で、恋人の写真を持参して「戦争が終わったらこのコと結婚するんです」なんて妙なフラグを立てることもなければ、そもそも、持って歩く写真に写す恋人などいないのに、いざ始まってしまえば、真っ先にヘルメットごと頭を撃ち抜かれてしまうような男、意を決して女性に愛の告白をして「君のためならなんだってできる」といったら、即座に「じゃぁ、私のために、私の前から今すぐ消えて」と言われてしまうような男である。いくら男女平等とはいえ、そういうのはごめんだろう、多分、女性の方々も。

 モチベーションが低いわけではないが、妙に疲れ果てた感覚があるし、それでいて変に覚醒していて、寄り添ってくれる人もなく脚に力は入りきらないのだが、寄り添ってくれる人がいなければ、前に行かないのか? 違うだろ? と、ゴーストが囁いてくれちゃったりなんかして、一度、丹田に力を込め、歯をほんの少しだけ食いしばり、食いしばりすぎると俺みたいに奥歯ボロボロになりますので。まぁ、そういう自己イメージだ。そうやってよろよろ前に進みだす。

 どこかの教えにおすがりすれば、それは間違いであると断じられ、なにか即席のお救いをあてがわれるのだろうが、そういうことは選ばない。

 で、自己陶酔と揶揄されるから人には言わないけれど、案外とこれが、居直ってしまえば楽しいと思えなくもない。そんな感じ。


 キリンが、何十年越しにポルシェに挑みかかるきっかけは若い女性だった。こちらも若い女性であることは変わりないが、あちらはイケオジで女性と懇ろになったりしていたが、こちらは、そういうことはほぼあり得ない。でも、な~んか (´・ω・`)人(´・ω・`)ナカーマ、とか、思ってしまった。

 
 ランボゥの詩というのは、そういうのが、そんな珍しくはないことで、ちょっとばかりしんどいかもしれないが、特別絶望的な孤独感を感じるほどの事もない、と、いい具合に教えてくれる。
 ような気がする。知らんけど。


 というようなところを、顕正会の件は、ブログでは、一応のまとめとしておく。新しい展開があって、それが面白いと思えば書くことにする。


 
 


2022年5月1日日曜日

7480 Z1-R_34 & 正しくないことを求める 又はロールモデルの不在

7480 Z1-R_34


 なまじ正しいもの、と言っても、この際は、人倫的に正しい、ということを指すよりは、最短距離を行く正解、という意味での正しい、を指すが、そう、なまじ正しいものを求めるから、解釈や考え方の違いを生み、時にはそれが深刻なものとなる。
 いっそ、間違ったものを目指してはどうか? ある時点で、オレはそんなことを考えてしまったのだと思う。今でも、より多くの事を知りたいならば間違ってみるべきだと思っている。

 そろそろランボゥの話に戻りたく、「地獄の季節」をほんの少しばかり音読してみた。気が付いた。こりゃぁ、宗教家には見せられないな。卒倒起こすぞって。宗教的には何一つ正しいものがない。権威にすがることも、権威を目指すことも、自分自身が権威になることも、最初から放棄している。今の時点で正しくはないし、正しいものを目指しているわけでもない。ただ、無防備に苦しみ、それを晒している。中原中也もそうだ。

 オレが若いころの昔には、イケメンに限り、そういうポーズもモテていたが、今は全面的にアウトなんだろうな、きっと。いつだったか、この十年以内の事だ、こういう感じの稚拙な模倣のロックバンドの曲を、真矢みき氏が「バランスが酷い悪い心をしている」とかなんとかで、斬って捨てていた。まぁ、そりゃあそうなんですがね。
 で、男の子は一本キリの価値観の線上に並べられ、ある所より下位は足切り、その後陽の目も視られなようなそんな感じになっていく。

 これを自ら進んでいくというのは、かなりのリスクがある。まず失敗してひどい目に遭う。オレも結構そんな感じ。稀に成功する奴もいるけれど。

 しかし、まぁ、一直線に並べられては、ずっと後ろの方に押し込められるぐらいなら、自分の思うところを目指して失敗したほうがマシという考え方はあるように思う。あとは自分の心臓が止まったのにも気が付かないぐらい集中して進んでいくだけだ。

 というような生き方も、なかなかできない時代、社会になってしまった。ロールモデルはきれいさっぱり片づけられ、最初からそんなものはなかったかのようにふるまわれ、ひたすら立ちすくむしかない。

 あとは、明らかに間違っている、模倣すれば苦しみしかないのが分かってしまっているような詩人の言葉しか残ってない。

 読み解け。解釈はそれぞれの流儀でいい。何かヒントがあるはずだ。

 

2022年4月30日土曜日

7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud & ランボゥ~妙法蓮華経

 

7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud


 ポエトリーリーディングなどとカッコつけて横文字を使わずとも、詩の朗読と言ってしまえばいいのであるが、これは専ら読み手のためのもので、よほどの読み手でない限り、聞いているだけならあまり参加する意義は感じない。
 アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックあたりの時から、イヴェントとしてあるようだ。自作の詩を読むのもいいけれど、それより、ある程度知られた他人様の詩を朗読する方が意義があるのではないかと思う時がある。何かを取り込むうえで。まぁ、感覚的に思うだけなんだけど。
 
 或いは舞台演劇にも似る。言葉を、脳の中だけでなく、身体に、延いては魂に定着させる方法として有効であるように思う。これも感覚的に思うだけだけど。または「知らんけど」。

 読経という行為はそれに似る。言霊などというが、いまいちオレにはふわっとしてあいまいだけど、そういうものなのかしら、古の、それなりに鍛錬を積んだ人の思想を体と魂に定着させる、そういう行為と解釈する。

 ある女性の話だ。っていっても、どれだけいるかわからない、ウチのブログをすべて閲覧している読者にはわかるかもしれない、この前登場した、あの女性だ。挫折感いっぱいにこちらに戻ってきたはずだ、当時は。自己肯定感が極端に下がり、即ち自分自身に裏切られたような心持で、明日のめども立たず、今までの夢を放棄しなくてはいけない寂しさとか悲しさとか。泣きわめきたいけれど、いよいよその境地だとそれすらできなくなるような。
 何の訓練も積み重ねもないと自分で思っていいた彼女が、安易に、夜の商売などにつくことが、一番考えやすいはずだけど、それだけ、割と見た目可愛らしいコだし、基本、明るい性格をしているので、いや、元女優だから、軽々とそう演じているだけなのかもしれないけれど、店に出てもそれなりに人気は出ただろう。
 しかし、昼の務めを選んだ。職場の彼女は明るく有能で、打てば響く感じ、肝心、必要なところで素直だし。凛としてかっこいい。

 本人の性格もあっただろうし、親兄弟、娘の果たした役割も大きいだろう。ただそれよりも彼女自身の人間としてのコアな部分の強さに、正直、いたら自分の娘ぐらいの歳の彼女を半ば尊敬したりもしていた。

 彼女と彼女の高校時代の友人が目の前に並ぶ休日のファストフード店の席で、20の時、観月橋の前時代的な喫茶店でやはり女性二人に体面に座らされ、英会話教材の売り込みをかけられた時の事を思い出した。その時は、丁度大学のESSでチャップリンの「独裁者」の演説部分、いや、J.F.ケネディの就任演説だったかな? を暗唱していたので、それを目の前の二人の女性にかまして撃退した。
 勧誘かよ、と。心の中で舌打ちをする。法華宗系の団体、らしい。何しろ職場ではぼーっとした感じのおっさんなので、扱いやすいと思われていたとしたら悔しいな、と。職場では若い彼女の足を引っ張ることも度々あり、少しは彼女の俺に対する心象も良くしたい、出来れば少しお近づきにもなりたい、なんて言うスケベ心がコレだ。まぁ、オレにはよくある事です。

 と同時に、職場の彼女がどうして自分自身をしっかり保つ出来たのかその理由もわかった気がした。やはり古の人の言葉を体に取り込み、それによって彼女自身をしっかり立たせていたのだろう。聞けば、勤行のフォーマットをできるだけ厳格に守るのが彼女の団体の肝らしいし。朝夕、決められた形で今日を唱える。これは決してバカにできるものでないことは知っている。
 体内時計的な生理的リズムを作っていくという効果、発声し、身体にダメージを与えない、特に声帯を頭蓋骨を振るわせて規則的に刺激を与えていくことで、思考と体のつながりの流れをよくすることができる、ような気がする、知らんけど。
 それは、逆に言えば読経でなくても、妙法蓮華経でなくてもいいのだが、ある団体の下、その団体の規則としてそれを行う、というのは、我々はそれぞれは弱くいい加減な存在であるから、かなり有効であるようにも思う。

 彼女は、この後、「確信」という言葉を使っているが、パッと目の前の霧が晴れる感覚、恐らく、それが強いものであれば、神秘体験とか啓示とかいう言い方をよそではするのだろう。脳と体が一定方向に一定以上の負荷がかかった時とかに、起こり得るものであるようだ。そのような効果を欲するならば、妙法蓮華経でなければならないことはない。般若心経でも、観経疏でも、念仏でも構わない。読経じゃなくてもよい。それでも、誰か著名な詩の朗読でも構わないし、歌を歌うのでも構わない。スポーツでその境地に至ることだってできるようだ。
 そういえば、これを書いている今日の明日が命日となるアイルトン・セナ、フレディ・スペンサーはウチのブログではおなじみ。昔で言えばカール・ルイス、さらに昔のモハメド・アリ、ちょっと昔のウサイン・ボルト、最近では大坂ナオミに至るまでの「信仰の告白」とは、そういうところからきているように思う。
 思想家であれば、フリードリヒ・ニーチェが自分の思想と形而下の自分の日常の悩みに疲れ果てた時、どこぞの湖のほとりを散歩していた時受けた啓示により、「ツァラトゥストラはかく語りき」を書きあげたはずだ。
 オレにしても、今まで、中途半端なものであるならば、そういうの、何度か経験したこと、ないわけじゃない。

 彼女には、妙法蓮華経があるところに、ぴたっとはまり、挫折に適切な手当てをして、それによって彼女自身をすくっと立たせさしめているのだと思った。無いこともないが、これで充分奇跡的なのだ。

 充分奇跡的なのに、それを置いて、昔の、検証不可能な、ここでは彼女たちに合わせてこう言おう、日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々をオレに開陳されていくのを、うなづきつつも右から左に受け流しながら、職場ではあんなカッコいいのに、目の前の彼女はちょっと残念なコに見えてしまった。しかし、その次の日職場で彼女にあった時はいつものように凛々しくカッコよく可愛かったのだから、不思議なものだ。

 彼女の同級生は、オレが気を使いながらも反論しようと試みても、それをさせじとばかりに言葉をかぶせてくる。勧誘時のノウハウの一つなのだろうか? こうやって勧誘することで団体の中での彼女の位階は上がることもあるのかもしれない。それに協力するのは、今後会社で円滑に彼女とコミュニケーション採るためにもやぶさかではなかった、この時点では。ただ、彼女が「普段はつかえねぇおっさんなんだから、こういうことぐらい私の役に立ちなさいよ」と思ってたとしたら、ちょっと辛い。

 まぁ、会社での彼女との空気を悪くするのもはばかられたので、ままよ! そのファストフード店の近所の彼女たちの団体のスペースに連れていかれることになった。

 緊張の次回に続く。


0002 ZII_1(再掲) & オレの中で起きているランボゥと空冷4気筒のキャラ被りについて。

0002 ZII_1


 強くしなやかで自分を支えてくれるような言葉を探していたのだと、今になって思う。何しろ、ガールフレンドに全霊かけて向かって、全力で彼女ファーストでいたのが、ちょっと息をついたその瞬間に逃げられるなんて言うのを繰り返していたから、ガールフレンドに支えられ、なんてこともなく、支えてくれるとすれば、どこか吊るしの言葉を探してきてそれをつっかえ棒にするしかなかったのだ。
 
 
 早熟の詩人と、その時すでに半ば骨董品、肉厚鋳鉄で重い空冷4気筒、しかしチューニングすればとんでもない馬力を出せるそういうのを積んだバイク。両者への憧れみたいなものは、オレの脳みその中ではお互いシナプスが隣り合ってたんじゃないかと思う。

 概ね突き抜けた早熟天才詩人という印象のランボゥだが、「地獄の季節」では、その"地獄"に炙られながらも目をそらさず、遂に克服したかどうかもわからないが、それでも対峙する執念を感じた。それがオレの中においては、突き抜けた強さに変換でもされたのか?

 
 排気量は少なくとも、同じカワサキでオレの400の方が年式は新しかったのだが、土砂降りの国道8号線、福井のあたり西行きの車線、四苦八苦するオレの横を抜いていったのはZIIで、奥さんか彼女と思われる女性をタンデムに乗せて。
 バイクの性能じゃない。専ら乗り手の練度の所為だったのだろう。そのZIIこそ、突き抜けていく意志そのものに見えた。

 ちょっとややっこしいぞ。ついてきて。そんな雨の国道8号線の事を思い出しながら、麩屋町錦の旅館での泊りがけのバイト明けの朝、通りに出たところで待ってたのは、京都盆地の朝だというのに蒸し暑く淀んだ熱気と呼ぶ一歩手前まで来ている重く分厚い大気で、で、土砂降りにの国道の事を思い出しながら頭の中をリフレインしているのは、中島みゆきの「あした」で。

 何もかも愛を追い越してく
 土砂降りの一車線の人生
 凍えながら二人ともが
 二人分傷ついている

 ってね。まぁ、何はともあれ二人でいられてよかったじゃないか。いよいよオレが突き抜けていかなければならない時、オレは多分一人だ、という予想はどうやら正しかったようだが、それにしても、その時は呑気にそんなことを思いながら、蛸薬師通を河原町に歩いて抜けていた。ま、今も結構呑気なんだがな。


 今になって、あの時の心の動きを、ちょっとだけ詳しく思い出さなきゃいけない羽目になっている。それについては稿を改めて。


 画像のZIIは、ちょうどその頃の、PCなんてない、全くの手描きで、こんなん描いてたオレ、すげぇ、と思ったりするが、結構息を止めてやってたので、今はできないし、やったら、リアルに死ねる。

2022年4月29日金曜日

7473 750RS-ZII_37 & ランボゥの名前なんて久々に思い出した件

 

7473 750RS-ZII_37


 Mr.Bike BGの2022年5月号に連載中の、東本昌平氏の「雨はこれから」の最後の方、
「思い出した 私はボードレールよりランボーになりたかったのだ」
とある。因みに、ランボーとは、フランスの詩人、ジャン・ニコル・アルチュール・ランボゥのことであって、シルベスタ・スタローンの銃器ドッカンドッカンのマッチョなアレではない、念のため。

 東本氏のボードレールの引用は覚えている。鈴木信太郎氏の訳による、岩波書店のものの引用であったはずで、これに思い立ち探してみるが、埋もれて見つからない。ま、いつもの事なんだがな。仕方がないので、ネットで見つけた明治38年の上田敏氏による該当箇所の翻訳を転載する。「アホウドリ=信天翁=アルバトロス」からの引用である。

 雲居の君のこのさまよ、世の歌人(うたびと)に似たらずや、
 暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌(しの)ぎ猟男(さつを)の弓をあざみしも、
 地(つち)の下界(げかい)にやらはれて、勢子(せこ)の叫に煩へば、
 太しき双(そう)の羽根さへも起居妨(たちゐさまた)ぐ足まとひ。

 「キリン」の中には、アホウドリではなく「かもめのジョナサン」からの引用もあったな。生きづらさと自由は紙一重、でも、決定的に違う。空と陸のようなものだ。で、悲壮そうに見えて、どこか何やらコミカル。喜びいっぱいという感じでもないが、まぁ、こんなもんだろうし、悲しんでてもしかたないべ? という、どこかほんのり突き抜けた感じ。

 東本氏の作品の他の個所で、あ、これランボゥの引用だ! と思った記憶はあるのだが、どこからだったかは覚えていない。

 ランボゥの引用と言えば、東本氏の作品でなく、原作オサム氏、脚色と作画が御厨さと美氏の「ケンタウロスの伝説」の中のこれだ。

 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が

 で、ついでに見つかったよ、東本氏が引用したところ。どこで使っていたかは忘れた。上の引用のすぐ前だった。

 ああ、時よ、来い
 陶酔の時よ、来い


 これも岩波文庫、小林秀雄訳による「地獄の季節」(ま、「イルミナシオン」も収められてるんだけど)。堀口大学氏には申し訳ないが、新潮文庫の「ランボー詩集」よりこちらの方が気分だ。

 山川健一氏、最近めっきり作品を見ないのは、多分、オレが読書をしないせいなんだろうけれど、氏も何かに書いてたな。青春の護符として、いつもポケットに入っていたと。オレの場合青春の護符というとコリン・ウィルソンの「The Outsider」なんだが、しかし、「地獄の季節」、大岡昇平編「中原中也詩集」は、ポケットにいつも入っているというわけではないにしろ、ボロボロになるまで読みつぶし、何度か買い替えている。

 マラルメもまぁ、読んだことはあるし、宮沢賢治も同様。でも、なんか、ピンとこなかった。かなり偏ってのかもしれない、いや、偏っていた。この辺の好み。ぶっちゃけ、今思うと漫画由来なのな(爆


 でも、一度だけというのを含めると、こうやってちゃんと出版社から出ているものから、街角(京都だったし結構いた)で書き手自身が手売りしている詩集まで、結構読んだ。詩集を開くときは、ロックのCDを買い込んできてスロットルに入れて再生ボタンを押すときと同じわくわく感があった。