2026年3月15日日曜日

ゾンビがくるりと輪を描いた、ほ~いのほい♪

 

9074 Dance of Sun-Set Zom-Bies 



  三橋美智也のヒット曲の名前が「夕焼けゾンビ」だったら、歴史はどうなっていただろう? などと、我ながら又アホなことを考えついてしまった。


  まず前提として、三橋美智也の大ヒット曲は夕焼けとんび(1958)である。歌い出しの「ゆうやけ空がまぁかっか〜♪」で有名な、昭和演歌の象徴みたいな曲だ。


  さて、これがもし 「夕焼けゾンビ」だった場合の歴史改変を考えてみると……。


① 昭和歌謡史がホラー寄りになる

  本来は郷愁の歌だが、タイトルが「夕焼けゾンビ」だと内容が完全に違う。これが大ヒットすると、日本の歌謡界に「哀愁ホラー演歌」という謎ジャンルが誕生。1960年代には、夕焼けゾンビ、月夜のミイラ、墓場の恋みたいなラインナップになる。まぁ、実際「骨まで愛して」っていう曲はあった。


② 日本のゾンビ文化が30年早く来る

  実際のゾンビ映画ブームは、ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968)以降だが、もし1958年に「夕焼けゾンビ」が国民的ヒットしていたら、日本では、「ゾンビ」が童謡レベルの語彙になるとか、子供が「ゾンビごっこ」をするとか、夕焼けを見るとゾンビを連想

という、世界最速ゾンビ文化国家になる可能性があった。

  案外「スリラー」なんて陳腐化していて見向き去れなかったりしてな。


③ 昭和の学校の音楽の授業が地獄

  全国の小学生が合唱でゾンビを呼ぶことになる。完全に怪談。


④ 三橋美智也のイメージが変わる

  現実では、民謡調の澄んだ歌声で、素朴で郷愁的だったのに、「夕焼けゾンビ」ヒット後のイメージが、演歌界の怪奇歌手で、墓場ステージこなしたりして、ライブでゾンビダンサーを組んだりしてたりして。マイケル・ジャクソンの30年まえに。結果、日本の演歌はゴシック演歌の方向に進化していたかもしれない。


⑤ たぶん一番変わるのはアニメ

  1970年代は、特撮、ロボットアニメではなく、夕焼けゾンビ、どろろ、妖怪人間が現実より大ブームになり、日本は世界最強のホラー文化国になっていたりして。


  すなわち、日本のゾンビ文化が20〜30年早く開花していた。そして昭和の子供たちは、夕焼けを見ると「ゾンビの時間だ!」と言って家に帰っていたかもしれぬ。


「ゾンビがくるりと輪を描いた。ほ~いのほい」


  妙な味があると思わない?

  「くるりと輪を描いた」といえば 本来は空を旋回するトンビの優雅さがあるが、「ゾンビ」だとふつうはよろよろ歩く存在なのに、ゾンビが空中で旋回してたらどうする? シュールの一言。そして、ホラーなのに牧歌的。完全に、日本的怪談童謡。


  「ほーいのほい」がなにしろ強い。この囃子詞のせいで、怖くならない、むしろのどか、という効果が出る。ジャンルとしてはホラー童謡。

  片耳が10年ほど前のインフルエンザをやった時にダメになって以来、時々こういう聞き間違いをするようになった。


  実際、インフルエンザのあとに片耳の聞こえが悪くなるケースは、医学的にもいくつか報告があるらしい。

  よくあるパターンはこのあたり。

1️⃣ ウイルスによる内耳のダメージ

インフルエンザなどのウイルス感染のあと、

内耳(蝸牛や聴神経)がダメージを受けて

片耳だけ聞こえにくい

音がゆがむ

高い音が聞き取りづらい

といった状態になることがある。

これはいわゆる感音性難聴の一種。

2️⃣ 突発的に起きた難聴

感染の前後で

突発性難聴が起きる場合もある。

これは

ある日突然片耳が聞こえなくなる

数日で固定してしまう

というタイプで、治療は早いほど回復率が高いと言われているとのこと。

3️⃣ 中耳炎が重症化したケース

  まれに、

急性中耳炎

内耳炎

などが絡むこともあるそうな。


 「空耳」が起きやすくなる理由としては、片耳が聞こえにくいと、音の定位(どこから聞こえるか)子音の聞き分けが難しくなり、その結果、音の近い言葉への置き換えが起きやすくなるんだとさ。かなり普通の現象らしい。


  それはそうと、東京に行ったあんちゃんがゾンビになってしまう歌。ばかっちょよ、ほ~いのほい。

  筋としては完全に、昭和の民謡演歌の王道ストーリー。


  田舎から若者が都会へ行ってしまって、 何か変わって帰る、又は帰らない。「木綿のハンカチーフ」とかな。あ、民謡演歌じゃないな。完全に、高度経済成長のダークサイド。東京で人が変わる。夕焼け は郷愁。つまりテーマは、「出稼ぎとアイデンティティの喪失」

…なのにゾンビ。


  そういや、映画で「高慢と偏見とゾンビ」っていうのがあったな。「高慢と偏見」と言うヴィクトリア期の普通の恋愛小説にゾンビぶちこんだやつ。


  ホラーだけど、ある意味ギャグ要員。

  「ばかっちょよ」が東北・北海道系の方言っぽい響きで、

遠野物語みたいな民俗怪談の空気になったりしてな。


  この世界線だとたぶん昭和30年代の映画で

  「夕焼けゾンビ」

  主演

  三橋美智也

という農村ホラー歌謡映画が作られていた可能性すらある。🎬


  歳はとりたくないものだ。目は悪くは・・・なったかPC使うようになってから。「白い変人」と見えてぎょっとしたことがある。典型的な読み間違い(視覚的錯読)のパターン。

  北海道の定番のお菓子、「白い恋人」。作っているのは 石屋製菓。


  恋は上が「亦」+下が「心」、変は上が「亦」+下が「又」。つまり上半分が同じ形。脳が変な補完をしやがる。


  思わず、白虎社とか大駱駝館とか麿赤兒を想像した。暗黒舞踏と呼ばれる白塗りの前衛舞踏。

  大駱駝艦、その主宰の 麿赤兒、白虎社、山海塾などなど。あの系統の舞踏は、全身白塗り、奇妙なポーズ、異様にゆっくりした動き

なので、ぱっと見はまさに「白い変人」。街角で「白い恋人」が「白い変人」に見えた瞬間、脳内ではこんな絵になる。

  雪の北海道

   ↓

  箱を開ける

   ↓

  白塗りの舞踏家がぞろぞろ出てくる

  完全に前衛芸術。しかも麿赤兒の舞踏って、雰囲気が怪しく、神話的、ちょっと妖怪っぽくさえある。つまりは「夕焼けゾンビ」とも妙に同じ世界観に通じる。

  「白い恋人」って本来はロマンチックな名前なのに、一字ズレただけで、白い変人、白塗り舞踏団、前衛パフォーマンス、みたいな1960〜70年代アングラ文化に一気にワープするところ。日本語の一画、怖ええ。


  ライブで触れたのは、京都にいた時に一回きり。京都にいたら、そういうものに触れること自体はよくあった。あの系統の舞踏は、特に1970年代以降、京都、東京(新宿・中野)、横浜あたりに濃い拠点があったそうで。たとえば京都だと、大駱駝艦系の公演、あるいは舞踏の祖の流れの 土方巽 系譜の舞踏家が、小劇場やイベントで結構やっていたりした。

   麿赤兒なんて、巨大な身体で白塗りで原始的で妖怪みたいな動き

で、初めて見るとだいたいこれは何を見せられているのか、という感覚になるにちがいない。

  あの舞踏は、日本の土俗信仰、戦後のアングラ文化、西洋前衛芸術が混ざったものなんだそうだ。だから見ていると、神事っぽいし、妖怪っぽいし、どことなくおかしく、ちょっと怖い、という奇妙な感覚になる。

  ライブでは、背伸びして観に行ったが、まぁ、何のことやらと言う感じだった。もともと、わかりやすくするとか物語を伝えるという方向の芸術ではない。


  出発点になったのは 土方巽 の舞踏で、彼がやろうとしたのはむしろ、体を言葉の外に戻す、理屈で理解できない身体表現、不気味さ・滑稽さ・原始性みたいなもの。

  その流れを引く集団の一つが、大駱駝艦(主宰 麿赤兒)と言う感じ。


  実際、当時の舞踏は

アングラ演劇

前衛美術

学生運動後のカウンターカルチャー

の文脈の中で育ったので、背景を知らないと意味が掴みにくい。しかも演出が、白塗り、奇妙な動きと長い沈黙、ほぼ説明なし。「背伸びして見に行ったけど、よく分からなかった」という体験は、実はかなり多くの人が共有していると思うのだがどうか?


  あの世界は、その後、山海塾(海外で人気の舞踏カンパニー)やヨーロッパのコンテンポラリーダンスなどにかなり影響を与えていて、

日本発の前衛芸術としては世界的に珍しく成功した例なんだそうだ。

  まぁ、日本人の多くは「一度見たけど、よく分からん」という感想だったと思う。そうだよね?


  学生小劇場の延長で観に行ったんだがね。日本の学生小劇場と舞踏の世界は、文化圏がかなり重なっていたのではないか。1960〜80年代くらいだと、大学の演劇サークルや小劇場に関わっていると、アングラ演劇、前衛舞踏、実験音楽、パフォーマンスアートみたいなものをまとめて摂取する空気があったんだそうだ。

  その文脈の中心にいたのが、たとえば唐十郎(状況劇場)であり、寺山修司(天井桟敷)であり舞踏の 土方巽だったり、そういった人たちだった。のだという受け売り。学生劇団にいると、先輩や仲間から

「これ観とかないとダメだぞ」みたいな感じで小劇場、前衛舞踏、実験演劇を観に行く、という流れがよくあったんだそうだよ。


  しかし、実際に観ると、だいたい「……うーん、よくわからん」になる。当時はそれも含めて、背伸びながらも、文化的修行でアングラ教養みたいなものだっただろうなぁ。


  ちょろっとだけ付き合ってた女の子が、唐十郎の戯曲「ジャガーの眼」の主役だったことがあった。まぁ、オレはその時はとっくにフラれてしまっていたのだが。

  唐十郎の芝居は、強烈に詩的な台詞とか現実と幻想が混ざる世界、身体性の強い演技、ちょっとエロティックで暴力的な空気みたいな特徴があって、学生劇団がやるとかなりエネルギーのいる役が多い。

  特に『ジャガーの眼』は、密度の高い台詞、象徴的な人物、夢と現実が混ざる構造なので、主役やるとなると結構大変だったはずだ、と誰かが言っていた。


  当時の学生劇団だと、唐十郎の作品は、状況劇場の影響、アングラ演劇の憧れ、赤テント文化みたいな流れでよく上演されていたようだ。


  とか言いながら、唐十郎の赤だったか白だったか黒だったかテントのは、ライブでは観ていない。唐十郎の劇団といえば有名なのが

状況劇場の赤テント。1960年代から始まったもので、神社の境内とか公園とか河原みたいな場所に巨大な赤いテントを建てて公演するという、当時としてはかなり衝撃的なスタイルだった。

  その後、日本のアングラ演劇界では、赤テント(状況劇場)だの、黒テント(黒テント)だの、に色で呼ばれる劇団文化ができたりした。


  学生劇団だとよくあるのが、本家のテントは見てない、でも作品はやるというパターンだった。実際に見てから演った奴もいたとは思うが。唐十郎の戯曲は学生演劇にかなり影響があって、『ジャガーの眼』、『少女都市』、『腰巻お仙』あたりは学生劇団のレパートリーになっていた時期がある。オレが見たのもまさにそれ。


  1980年代後半の京都でオレの周辺の文化圏で、学生小劇場、唐十郎の戯曲 舞踏あたりは、つまり1970年代アングラ文化の余韻がまだ残っている空気だった感じだったのだろう。あの頃は大学の周辺に、小劇場、前衛舞踏、詩の朗読会、実験映画みたいなのが、普通に転がっていた時代でもあった。



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