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2024年8月11日日曜日

NT0078 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2

 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2


 要するに、非モテのハッカー達が開発し、すがったPUA=Pick Up Art=恋愛工学に基づいたナンパ術、は破綻したというのが、第一章の後半の話。

 前回、オレが「女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか?」と記述したことは、橘氏に


 女の脳も「生き延びること(Survive)」と「子孫を残すこと(Replicate)」という「SR価値」を最大化するよう進化したはずだ」


 と言い変えられているが、そこにつけこむのがPUAの肝だったんだそうだ。要は自分がSR価値を満たすことが出来る相手だと誤認させるのだと。


 さて、この「恋愛工学」的な言葉。「金融工学」もそう。一義的というか元来というか工学という言葉がさすものとはなじまないものに「工学」という言葉をつける料簡。可能な限り広く詳細に数値データ化し目に見える機構として物事をとらえそれに対しアクション、入力をしていく、という考え方なんだろう。それがクールと、特に若い奴は考えがちだ。

 ところが、これにどうしても入りきらないパラメーターが人間の精神ってやつで、結局のところPUAはそこをカバーできなかった。と。


 この度は、〇〇工学なんて名乗ってイキってはみたものの遭えなく破綻してしまった。一重に浅薄だったというしかないが、これは、長い歴史で、宗教や哲学が取り組んできたテーマだったんじゃないか? 則ち、一軒複雑怪奇なこの世と自分の精神の神羅万象をどう言う枠組みでとらえていくのか?答えはひとつではなく、極端な話、人数分だけ答えが在ったりする。


 なぜ、〇〇工学をクールと思い、そこに引き寄せられようとするのか?

 恋愛に関していえば、どの時代にも姿を変えて、何やらどこか湿ったフォークロアが存在し、通俗文学やテレビドラマ、映画に姿を変えて世に姿を現す。それに救われる、指針をもらう者もそれなりの数いるだろうが、どうしたって救われず、その湿り具合を嫌悪を持つものには、〇〇工学という言葉の響き、たたずまい、魅力的に考えるのだろう。


2024年4月27日土曜日

NT0057 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲

  岡田斗司夫氏に教えられるまでもなく、橘玲氏の書くものには、一定の共感というか、目から鱗というか、うん、尤もだ、がありまくりで、こういう物書きを知るというのも、20年に1回ぐらいじゃないかしら、と思うが、あまり持ち上げてもしょうがないか。


 最初に意識の中に入ってきたのは、彼のリベラルに対する深い失望を書いた文章だったように思う。決して、ネトウヨ的保守主義者ではなく、寧ろの反対の立ち位置に居たいのに、どうにもダメ~な奴しか、その界隈には見当たらない、的な文章だったように思う。オレは誠にそうだと膝を叩いた。ぽ~ん!と。



 さて不摂生でこの身にまとわりついた脂肪はいろいろ不都合を引き起こし、可及的速やかに、しかし無理をせず、取り除かねばならないわけで、GW初日だ。しゃこしゃこと部屋でエアロバイクを漕いでるわけなんだが、そのお供として、講談社現代新書の橘氏の「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」。


 うん。ディストピア。社会としてこの絶望的な状況を何とか出来る処方なんてないのだ、というのが橘氏の主張。だから何をしてもいい、というわけではなく、完全に諦めたわけではなく、現状認識としてそれはそれ、何か出来ることはないだろうか? 方向を探すために思考して、その中で生まれ出てくる、氏の著作群と捉えている。

 ならば、この状況で個は如何に動くか?、動くべきか? そういうことなのだろうか? タイトルだけを見て、そのように想像した。


 しゃこしゃこしゃこ。


 第1章は、非モテが如何に超絶ナンパ師になるか?という話。これはオレが何十年前から思っていたことだが、要するにだ。女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか? ということだが、これは、この分中にも書いてある通り、生物は遺伝子の乗り物である、という何十年前に聞いた説のオレなりの解釈以上のものではない。

 偶にこの基準が壊れた女の人の話も聞く。ダメンズとか。でも、まぁ、それは、次善に次善を重ねるうちに、基準が歪んでいったということで、そういうことで、少なくとも自分の当座の精神の安定は得られる、そういう選択と考えられないこともない。

 或いは、お眼鏡に叶う相手がいなければ、おひとりさまという選択もある。これは遺伝子の保存というよりは、個の安定が優越してしまった結果なんだろう。何はともあれ遺伝子の保存、という事ではないらしい。

 そういう基準、その為の行動原理を突いてやれば、ナンパもし放題、そういう男の話であるらしい、第一章。


 ちょっと思うことが増えたので、本はそこで閉じた。物思いに深けながら、汗かきつつペダルを動かすのであった。


 しゃこしゃこしゃこ。

2024年4月26日金曜日

NT0052~0055 次の大地震1 わが身に起こったことから始める

  何も元旦から来なくていいだろ、大地震、というようなこと、これで2度目?3度目? 文章にして打っている。そんな、何もこの日じゃなくたって、というやつが、よりによってわが身を掠って行った。

 自覚的に180度方向転換する、なんていうこともないのだけれど、この地震が、ひとつ、変る節目になるんじゃないかという予感がある。自分自身も、この社会も、だ。

 いろいろもやもやッと浮かんでは、消えずに何か堆積していってて、わが思考ながらウザい。でも、なぜ消えないかと言うと、それなりに大事なことなんじゃないかと、何処かで考えているからだ。


 いきなり、な、突拍子もなく政治、社会、経済、天下国家の転換を説いても、我ながら、あ~、はいはい、だし、かと言って今後一切そんなことを表に出さないつもりもまたなく、っていうか今じゃないが近いうちになんか言うつもり満々なんだが、綺麗に論理だてて申し上げることはひょっとしたら、っていうか、多分出来ない。せめて、自分の中の或る思考から、関連ある形で連ねるように考えていきたい。


 まずは、これ1月4日にもこの内容の事を書いたんだが、起点はやはりというか、我が身、という事にしたい。


 2024年、令和6年の元旦の夕方、オレは何をしていたかと言えば、中途半端に増えて壁に陳列しきれなくなったミニカーのコレクションを並べる棚の増設の工作をやっていた。

 今更、正月が特別めでたく感じるようなことも、正直言って無く。これで、子供や孫がいればかなり違っていたのかもしれない。老いた両親にはついに孫を抱かせてあげられなかった。毎度忸怩たる思いが胸を衝くが、まぁ、今更何を言っても仕方ない。そろそろ相当弱った両親を気遣い、西宮の妹が月一で帰ってきている。正月は正月だが、正月の帰省という感じは少々薄い。

 テレビも、昔、子供の頃は正月は特別感を感じられるものだったが、そんな感じも今や全くない。そもそも、食事の時にニュースを見る以外、テレビ何か観ない。あ、そうそう昨晩の紅白歌合戦、あとでYOUTUBEでyoasobiの「アイドル」の分だけ視聴したが、まぁ、日本のアイドル、韓国のアイドルがそろって、にぎにぎしく踊るという演出で、うん、最後の結果発表だけ見たんだけど、紅組勝利、ここまで昔の紅白の終盤を思わせるような盛り上がりがあれば、紅組勝つよな、と、まぁ、アンチ韓流からの批判はあったものの、よかったんじゃね?という感じで。

 閑話休題

 4時過ぎだ。確かサッカーの日本代表がタイと親善試合をしているはずで、1階の居間で両親と妹がぼーっとそれを見ているはずだ。子供部屋おじさんたるオレはそんなわけ2階の自室でネット覗きながら工作なんぞ。


 揺れた。まぁ、珍しいことではないが、少々いつもよりは大きかった。ネットで地震速報を確認し、ネットからツイッターに書き込もうとした瞬間、


 超デカいの来ました。今までにないくらい。机の下なんかに潜れない。本棚が倒れてきたら詰む。本当はやっちゃいけない対処だが、立ち上がり近くの本棚を抑えた。そんなわけで抑えた本棚からはそうでもなかったが、その他の本棚から、雪崩のように本が落ちる。たちまち膝上まで本に埋まった。

 東日本大震災の時に撮影された映像で、物に埋まりドアが開けられなくなり逃げられなくなって途方に暮れた、という内容の物があった。それを思い出し恐怖もしたが、やがて揺れは収まる。

 そのころには、うわぁ、これの片づけめんどくせぇ~、なんて思うようになっていた。

 そうこうしていると、これだけ揺れて1階に降りてこないオレの様子を見に妹が上がってきた。「あ、今行くから」と、言って、オレは脚を本の山から引き抜き、下に降りて、テレビを見た。さすがに地震速報をやっていた。これだけの揺れだものな。珠洲なんだそうだ、街並みと海岸を交互に映していたが、女性のアナウンサーが「津波警報です!」と絶叫した。


 当地、富山県で事前に想定されていた津波というのは、砺波平野頭部~呉羽断層の北東側の延長線上、日方江沖5キロが波の起点の物で、波高が最大5m。海岸線より8キロ以上離れている我が家にまで津波は来ることはないと、ハザードマップには書いてある。


 と、


 「大津波警報です!!」アナウンサーの声がひっくり返るくらいに更に切迫した声が更に切り替わる。津波警報で3m、大津波で5m。ハザードマップを信じるなら慌てることはない。のだが、のほほんとしてちゃダメなんじゃないかと考えたりもする。それくらいアナウンサー氏の声は切迫したものだった。


 車を止めてある場所の隣りがボロ屋で、倒壊したらオレの車も廃車である。外に出てそんなことはなかったことを確かめて、テレビではアナウンサー氏のほかに解説委員の人もしゃべっていて、「津波タワーに避難して・・・」なんて言ってるが、この辺、そういうものはないんだよ、と思いながら、二階に戻る。


 さ、オレはどうしよ? 途方に暮れる。PCもケータイも本に埋まっているのだが、会社からBCPの所在確認メールが来るはずで、それに答えなきゃいけない。まずはケータイの発掘かぁ・・・、気が遠くなるような気がした。まぁ、ね、家が倒壊した、その下敷きになった、津波で家が流された、という方々から比べたら、屁みたいなものだが。



 この地震で建物が壊れてしまった、全壊、半壊、様々なんだろうが、印象として、直接的に揺れによって破壊した家屋と、液状化によって地盤が変位したために壊れてしまった家屋に大きく分けられるような気がする。あと、津波によって、というものもあるか。

 とくに強い揺れに見舞われた地域、輪島市、珠洲市、能登町、志賀町、穴水町。完全に倒壊、倒壊しなくても全壊認定の家屋と、水道などのインフラが破壊されて不便はあるもののこのまま住み続けられるであろう家屋の違い。

 誤謬があれば正していくとして、これはこの期間、主にネットではあるが得た知識から言わせていただく。


 建物の耐震基準というものがあり、制定された年度により、3種に分けられるようだ。


 〇1981年度以前

 〇1982年から1999年まで

 〇2000年以降


 この3種で今回の地震、明らかに倒壊率に差が出たようでである。これから新築する分には自動的問答無用に2000年以降の基準が適用されるから良いとして、それ以前の家屋、我が家など竣工が1971年であるから、震度6の地震があったら一発だ。

 何が違うか。どうするか。この辺ちゃんと構造計算のできる建築士に確かめた方がいいが、ネットで得た知識として


 〇柱と梁の接続が切れないようにする。

 〇水平方向の力がかかってもゆがんだりたわんだりしないようにする


 こういったことが、2000年基準に盛り込まれているらしい。梁と柱、ほぞのみでつないでいるならば接続金具で補強するとか、可能な場、柱と柱の間に筋交いを入れるとか、そういう補強だ。

 あと、壁量。窓、開口部が多いとそこが弱くなる、という事らしい。


 阪神淡路大震災、東日本大震災、まだある、中越地震、熊本地震、胆振地震。度あるごとに耐震補強の重要性は説かれてきたが、特にこの地方、耐震化はなかなか進まなかった。



 土砂災害について。直接的に家屋が巻き込まれたというものもあった。発災直後、輪島市一ノ瀬で撮影された土石流のごとき地すべりの動画が広まった。幸いこの画像で土砂に巻き込まれた家屋の住人は避難していたようであるが、穴水では奥さんの実家に帰省していたまだ若い警察官の方、奥さんと3人の子供が裏の土砂が崩れたものに家屋が倒され家族を一瞬で亡くしてしまった悲劇とか他にもいろいろあったようだ。


 地震じゃなくても豪雨災害の土石流で同様のことが何やらこの何年か毎年起きている。


 家屋倒壊も人命に直接的に危険に晒すけれど、今回道路損壊も深刻であるという印象を持った。もともと奥能登の道路事情に対し道路の本数、舗装強度ともに貧弱なのではないかと感じていた。のと里山海道という高規格道路に区分されているようだが、地震や台風豪雨のたびにどこか崩れているような印象があるのだ。

2023年9月18日月曜日

NT0033,0034 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 3

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 またしても、古く据えた臭いをはなつようなダメな権力社会構造(のひとつ)は、外圧にしよってしか変わらなかった、と思ってしまうと、わずかに憂鬱な気分になるが、切実に何かを変えたいとき、もう、この国の野党的なものは全くあてにできない現状に、外圧を動かすという選択肢をとる者も現れてもおかしくないのではないか、と、ふと思った。


 そういえば、と、考える。なぜ、アメリカ系のメディアではない、イギリスのBBCだったんだろう? アメリカにはジャニーズは強いコネクションがあると聞いたことがある。喜多川擴自身アメリカに住んでいたこともあるそうだ。となれば、そこのメディア関係者を相手にしていたら、「計画」が漏れてしまう、そう考えたか?


 まだまだ、今までのこの方面の動きとは結構違う事があったことに気づく。


 イギリスメディアであったが、外国メディアであったからこそ、一連の喜多川擴性加虐疑惑が都市伝説レベルの信ぴょう性から一気に真実味を加えることに成功した。外国のメディアという事もあったかもしれないが、日本のメディアであっても断言する(当然裏付けをしっかりとって)ということが大事ということが分かる。

 黙殺はできない。SNSでの拡散。この段階ではしかし日本のメディアは反応しないが、外国人記者クラブで被害者が会見を行う。そろそろ日本のメディアも無視できない状況になる。

 そして日本記者クラブでの会見。


 注目するのは、これらの記者会見で、被害者が、揃いの印象の標準的なスーツにネクタイで登場していること。例えば北公次氏などわずかに残るインタビュー記事等を見るに、如何にも芸能人っぽいというか、要するにチャラい格好でインタビューを受けている。一般に向けて何かを訴えたいとき、どちらの格好の人の言葉がより受け取りやすいか?


 これらが、結構短期間に電撃的に行われたこと。

 時間があれば、ネットの書き込み仕出し何かを利用したジャニーズ側の反撃もあったことだろう。無くはなかったが、組織化され、確実にヘッドクオーターがいるような感じで、結構な数のしかし無駄がない反撃というのが未だなされていない。喜多川擴は目先が利いた人であったようであるから、存命だったら、事が起こる前から、そういう事への準備もやっていたかもしれないが、


 よりによって、2023年のこの時期である。中枢にいたはずの滝沢何とか君が抜けるなど離脱が相次ぎ、ジャニーズ事務所は内部の引き締めに手一杯で、BBCの報道から始まるこの動きに反応しきれなかった。ネットの書き込み仕出しの用意もままならなかった。


 まるで何かの実験、検証を見ているような気分である。


 安倍晋三の、知っている人は知っていた統一教会とのずぶずぶ、というのと、喜多川擴の性加虐、知っている人は知っていたが、多くの場合都市伝説レベルのたわごとと捉えられていたり、そもそも知らなかったりというところで、相似である。


 安倍晋三と統一教会のつながり、初期には、これまであったファクトを並べるだけで、かなり追い詰めることができたが、やがて統一教会という一つの団体であるから組織だった、それに付随する形でネトウヨ、ネット仕出しによる反撃が始まる。論点をずらす、安倍晋三の功績を称えるというやり方。統一教会の事は正面から反論しない。

 一方追い落とそうとする側、これまでの統一教会の所業という手札、数はあったが、それだけ。組織だった戦略も何もない。個々が得意げにそれを披露していただけ。やがて、統一教会の追い落としから、被害者、二世信者の救済の方に論点がずらされていき、野党が国会でそれを持ち出した時点で、あ、負けたな、と思った。実際国葬何ていうものをまんまとされて、負けは確定した。


 あの時俺と同じように感じていた人がいて、あの時の失敗、こうしたらよかったんじゃないか? なんて考えたりして。そういう人物が今回の事を、これから何かをする為の実験なのか、自分なりに何かの落とし前をつけたいのか、それは分からないが、実際にそういう人物がいたのだとしたら、心から「お見事!」と言わせていただくことにする。

 ま、この先どうなるかはわからないがね。以前のように何もなかったように、ジャニーズ事務所が復活してしまう可能性も、まだ十分ある。

 



NT0031,0032 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 2

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 オレがこの問題についてジャニーズ事務所や被害者をさておき、一番問題視し糾弾されるべきのはマスメディアであると考えている。


 彼らのスタンダードでは、これが後ろ盾が特になければ頂点にいる芸能人であっても、覚せい剤や不倫と言った醜聞があれば徹底的に叩く。2,3か月、連日その報道をして芸能人として再起不能まで追い込むはずのところだ。

 喜多川擴(ひろむ)は、芸能人でこそなかったが、芸能界で最も影響力のある人物であり、その人物の性犯罪が裁判所で事実であると認定されたならば、芸能界は天地がひっくり返る。


 2003年の東京高裁での文春との名誉棄損を争った裁判で、文春の主張する未成年タレントへの性加虐が事実と認定され、翌年最高裁への上告が棄却されて確定する。民事裁判であり刑事裁判ではない。被害者が訴えれば刑事事件になり得たのかもしれない。そう望んだ被害者もいたのかもしれないが圧力がかかり出来なかったのかもしれない。一切が分からない。

 何しろ、これを伝えたのは、大手メディアでは新聞のベタ記事のみ。テレビは一切報じなかった。あれ程の影響力、権力を持った人物の所業を、である。


 まぁ、ジャニーズ事務所がタレントの出演決定権を盾に、メディアをコントロールしていたのは有名話ではあるが、他にもメディアへの圧力のかけ方は幾通りもあったことだろう。しかし容易にそれに屈してしまった、その過程を明らかにし、関係者が全て偽りのない証言をし、「再発防止策」が本当に必要なのは、ジャニーズ事務所ではなく、マスメディアではなかろうか?


 戦争の時のメディアの挙動について、それほど詳しいわけではないが、権力に付和雷同というのが、当時の挙動そのままという言を見たことがある。だとしたら、当事者ではないオレにとっては、変態爺の性犯罪よりも余程深刻な問題である気がしてしかたない。


 仮に、2003年時点、一社一局の現場でジャニーズに反旗を振りかざすことを決めたとする。理は我にある、というのが大きな強味。しかし、ジャニタレは一斉に引き上げられてしまう。視聴率は下がるが、このころ、ボチボチ聞かれるようになっていたコンプライアンスという言葉、CMのクライアントはどうするか? 2005年から2020年までネスレの社長をなさっていた高岡浩三氏は、喜多川擴の性癖について知っていて、社長在任中はCMには決してジャニタレを起用することはなかったというが、他の企業ならばどうしたことだろう?

 いや世論がジャニーズに対してどんなスタンスをとったことだろうか? 好ましくないまでも、許容してしまうのか? 今ほど厳しく当たることはなかったか? 企業のCMもそれによるだろう。


 それが男子であっても未成年性虐待絶対ダメ、という規範が強くなった今でこそ、野火のようにジャニーズ批判は広まったが、2003年当時判断を保留しなくてはいけないということが多々あったように思う。そして、この判断保留でできた時間の空白に、ジャニーズ側の反撃がある。あらゆる場面で自己アピールをしてきたことだろう。それで、まぁ、仕方ないんじゃない、そこまで厳しくしなくて良いんじゃない、とぐすぐすになり告発側は負けた可能性が結構ある。単に自分たちだけでもちゃんと報道するというのはだめかもしれない。ちゃんと多局多メディア横断的にキャンペーンを張れなくては。タレント出演決定権はジャニーズにあっても放送権はテレビ局が有している。それはなされなかった。マスメディアの再発防止策を考えるなら、その辺の機構上の問題の洗い出しも必要なのかもしれぬ。


 そ書いていて気が付いた。マスメディアの問題は別として、特にこの時代、判断保留、しかも、それでもちゃんと判断する前提で自分からその為の材料を集めるわけではない、他人の動向を見て自分の身のふりを決める的な判断保留は、社会にとって害毒になり得るのではないか?


NT0028~0030 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 1

  一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し、


1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 喜多川擴の少年に対する性嗜好とそれ起因するトラブルは、今回の事でネットでいろいろ見ていくうちに、ジャニーズ事務所が開設される1965年のほんの少し前に始まり、死ぬ直前の2010年台半ばまで続いたとされる。そんな昔から?! 訴訟で前た後のそんな時期まで?! 驚くよね、さすがにそれは。


 しかし、喜多川爺の性犯罪自体については、ジャニーズのファンでは断じてないこのオレが知っていたくらいのものだから、多く知られている事だと思っていた。実際、被害者の会の告発があった時も、その前のBBCの番組が世に出た時も、「うん、知ってた」という反応がそれなりにあったのだから、そのはずなんだが、思いのほかその数は少ない。ジャニヲタと呼ばれるような女性ファン、熱烈なコアファンから、普通に、ジャニーズの○○クンいいよね、っていってそうなゆるくジャニタレが好きだった層まで、が、しかし、案外このことを知らない。承知しないでファンをやっていたようだ。推しのダークサイドには目を瞑るのが流儀なんだろうか?


 しかし、オレが爺の所業を知ることになった、北公次氏の告発本が出た時も、糾弾されることはなく、芸能界は、普通の社会とは違う流儀で流れているのかもしれない、と、思うようになっていた。


 結果的に、っていうか最初から知っていたけれど、いる場所からしても容姿からしてもジャニタレ達とは別の生き物であるオレだから、爺がオレに覆いかぶさってくる心配など全くない、以上に、別世界の話のような感覚ではあったが、しかし、北公次告発本以前より、薄っすらとジャニーズ事務所とタレントには嫌悪感があった。オレに限らず当時の世の男性、男子の一定割合以上はそうであったように思う。


 片岡義男氏の「夕陽に赤い帆」という短編集だったと思うが、こういうのがあった。

 場所はある晴れた午後の高原の別荘の一室。テレビがついている。が、部屋には誰もいない。

 テレビでは男性アイドルグループのコンサートの生中継で、グループのメンバーは多忙なためヘリコプターで直接ステージに乗り込むという演出。しかしヘリコプターは着陸せず上空でホバリング。そこから、一人一人アイドルグループのメンバーが突き落とされるという話。テレビの中継のアナウンサー以外のセリフは一切ない。最初はそれも演出と思われていたが、がちの殺人シーンに会場はすぐに阿鼻叫喚、というところでその短編は終わっていた。

 アイドルグループとはビートルズのようなバンド系ではなく、ジャニーズのアイドルを思わせるようなそれであった。

 片岡氏にすれば、この短編について訊かれれば、苦笑しながら「若気の至りだった」というのだろうが、まぁ、そうなれば痛快だろうな、と思って書かれたと思って間違いないと思う。斯くの如く、ジャニーズ的なものへ嫌悪というは存在していたはずだ、絶対に。


 嫉妬のようなものより何より、北公次告発本以前、1965年の訴訟沙汰もそれなりに広まっていたことではあったからのようだ。

 おっさん→爺が少年に襲い掛かる絵図を悍ましい、と感じることは不自然ではないはずだ。


 かつてはそれすらとんでもなかったが、今日的基準で言うならば同性愛というもの自体はあり、ということになっている。しかし、それが「未成年に対し」、「非合意、またはパワハラ的状況で」行われたことが、まず直接的に問題視されていることであり、


 延いては、少女たちが熱を上げる陳列された商品が、実は爺の食べ残しであった、という、詐欺ではないのだろうが、芸能事務所として顧客(ファン)に対して極めて不誠実な姿勢を、言葉にはされていないようだが、ネガティブなイメージになっている、そういう事があるに違いない。


 しかし、オレの「許す-許さない」をここにかぶせる気にもなれない。問題が明らかになる前より、彼らが存在していることは、薄っすらイヤだったんだが、ファンの人も多きことだろうし、オレの所のタイムラインにさえ現れてくれなければそれでいいや、と思っていたし、これからもそう。



 喜多川擴が存命でない以上、件の「謝罪会見」もそんなに意味がある用には思えない。他の「謝罪会見」や「国会の証人尋問」と同じように、中身などあるように思えなかったし。


 喜多川擴が存命で、彼の社会的立場がリアルタイムにズタズタになるのを見ることができたならば意味があったかもしれないが、残った小悪党どもが、如何に困ろうが、如何に切り抜けようが・・・、いや、意味がないことはないのか。ある事のケースの研究としてかんさつしていくことは、ひょっとしたら意味があるかもしれない。


 今後ジャニーズ事務所が、消滅しようが、存続し様がどうでもいい。ただ、うちのfacebookやXなどのタイムラインに、オレが視たいなどちっとも思わないもない彼らのどうでもいい日常に関する記事が、並ぶことがなければそれでいい。



 被害者の方々に対しては、そっか、変態爺に掘られちゃったんだね、お気の毒に、以上の事は思えない。精神的苦痛に対する賠償をもとめるとかなんとかについては、まぁ、うまく分捕れたらいいね、とは思っても、特に応援する気も支援する気もなし。


 被害者に名乗り上げた人たちに限らず、ジャニタレに限らず、そして、ファンもそうだけど、本当にあなたたちは、喜多川擴の性嗜好の話や、ジャニーズ事務所の内部の話、知らずにいたのか?

 ジャニタレの皆さん、一生そこにいるのか、程々で独立するのか、引退するのか、先のことなどわからないだろうけれど、若い人生の大事な時間を過ごすところがどんなところか、事前に調べよう、知ろうとしなかったのか? それは親、家族に対しても同様の疑問。


 高尚な表現を目指して行くところじゃないだろう、ジャニーズ事務所は。女の子にモテたい、あわよくば美人芸能人と懇ろになりたいという動機で門を叩いた少年たちがほとんどだと思う。そこで目がくらんでいて、これでは、同情もそれほど湧いてこない。まぁ、残念だったな、の一言ぐらいは行ってあげても良い。


 正直、喜多川擴の性癖が、2004年、裁判で負けても収まっていなかったのが驚きではあるが、その爺も存命でなく、東山紀之氏が実は、何て言う疑惑はあるものの、ここまで騒ぎが大きくなれば、「再発防止策」なんていう「謝罪会見」につきものの常套句等必要であるとは思えない。

 ジャニーズ事務所がつるし上げられている、という事実以外、細かいことは本当にどうでもいい。そして、つるし上げているという事実、誰が、何を求めて、そして、このことがこの社会にどんな影響を及ぼすかが大事であって、本当に事務所も被害者もどうなったってオレとしては構わないのだ。


2023年8月27日日曜日

NT0021、NT0022 読書ノート「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-3 アイデンティティの問題? (加筆再掲)

  「アウトサイダー」という言葉、それ自体が持つ本来の意味から、反体制的なものとの親和性が高いようについ思ってしまう。

 確かに、ある精神がアウトサイドに追いやられるきっかけが、政治から土地の因習まで、広い意味での社会制度であることが多いことが想像できる以上、そういう面は否定できるものではない。が、社会に追いやられたかと言って、その時分を追いやったものと敢然と退治していくかと思えば、とっちらかってそれどころではないのである、アウトサイダーの内面は。


 一つ大きな要素として、アイデンティティというものがあるように思う。自分の精神の芯はどこに寄り添おうとしているのか、なにがよりそってくれるのか。

 体制に寄り添おうとする動きというのは、言い換えれば、存在の、精神の根拠を、生身以外、思想とか政治体制とかに、過激に求めるというのは、では、ツクミやまゆり園の植松某などはどうなのだ? という話になる。体制から距離を置く、沿わないで外側に行く、コリン・ウィルソン的アウトサイダーではないが、あれを決してインサイダーとも言えない。

 とはいえ、では、同じように考えていこう。easyriderのラスト、ビリーを、キャプテンアメリカを散弾銃で撃ったどこにでもいそうなアメリカの普通の農夫は? インサイダーか?アウトサイダーか? 植松某との違いは?


 前者が、脆弱ながらそういうところにいる自分の存在そのものを主張しているのに対し、後者は領域の防衛という意識がそうさせたような気がする。


 本人は限りなく体制側であると思っているようだが、植松某は、コリン・ウィルソン的な意味を離れれば、現在の秩序というものから限りなくアウトサイダーであるが、意識が自分の領域第一というところでの行動という意味でeasyriderのおっさんたちはインサイダーのような気がする。


 植松某においては、この2,30年、時々聞かれるようになった「承認欲求」だっけ? これのあたりを早い時期に拗らせている感じが凄くするのだが、現代において、度々、やや冷笑的に口にされるこの「承認欲求」だが、こうして考えると、ちょっと気を入れて考えていかないと相当深刻な問題だ。本人にとっては、伸るか反るかどころか文字通り生きるか死ぬかの大問題だったりすることが結構ありそうだ。


 そういう事も書いてあったかな? まぁ、追い追いだ。



 若いころのオレが、アウトサイダーという語感に惹かれたのは、どこか覚者のような意味合いを感じていたからであろうかと思う。この辺がいよいよこの本の内容にかかわってくるところである。

 若い子が、いや、大多数がそう感じていないのは、それが妄想であると思っているから、と、平たく言ってしまえばそうなのだが、それは、こっちのある種の熱に侵されていた人間のだらしなさが余計に、そう思わせていたのだろう。


 日本においてはそれは顕著だけど、多分世界的に人類社会というのは退潮局面にある。そこにおいて、そういう社会をどうするかという言及薄くして、「そんなこと」を言っていられる高みの見物的な呑気さというのはいかがなものか? ということにもまして、高じて、極端なものはすでにかなり昔にオウムなんていうものが日本にはあったけれど、どうしても、インサイダーと対置してしまうと、反体制の意味を帯び、やがては醜悪な何かに変化してしまう。インサイダーと対置してしまうということは、つまりはルサンチマンの発露であり、しかし、そこは普遍的にアウトサイダーのテーマではある。




 まぁ、別に「アウトサイダー」の授業ノートを作るつもりはなく、脱線、他人様には意味不明の記述も多くなるだろうが、まぁ、本を開く前の駄言はこの辺にこの辺にしておく。



The word "outsider", from its original meaning, seems to have a high affinity with anti-establishment things.

Certainly, as long as it can be imagined that social systems in a broad sense, from politics to local conventions, often trigger a certain spirit to be pushed to the outside, such an aspect cannot be denied. However, it is not possible to boldly exterminate them by saying that they have been driven out of society at that time. The inner side of the outsider is not a mess.


I think one big factor is the identity. Where is the core of his spirit trying to snuggle up to?

What about the movement to get close to the system, in other words, to radically seek the basis of existence, the spirit, in ideology and political systems, other than the physical body? What about Uematsu at Tsukumi Yamayurien? He is not a Colin Wilson-like outsider who keeps his distance from the system and goes outside without following, but I can't say that he is an insider either.

"Nevertheless, let's think in the same way." The last of easyrider, the run-of-the-mill American farmer who shot Billy and Captain America? "Are you an insider?" Are you an outsider? "What is the difference between Uematsu and a farmer?"


While the former is fragile and asserts his own existence in such a place, the latter seems to have been motivated by the consciousness of defending the territory.


He seems to think that he is infinitely on the side of the system, but Uematsu, if you leave the meaning of Colin Wilson, is an infinite outsider from the current order, but his consciousness is his own domain first. By the way, I feel like the old men of easyrider are like insiders in terms of their actions.


Regarding Uematsu, is it the ``need for approval'' that has been asked from time to time in the last 20-30 years? I have a strong feeling that this is something that has been brooding at an early stage, but in modern times, this "need for approval" is often said somewhat cynically. Otherwise, it's a serious problem. For the person himself, it seems quite likely that it will be a big problem of literally life or death, rather than stretching or curving.


"Did you write something like that?" "Well, I'm chasing after you."



I think the reason I was attracted to the word "outsider" when I was young was because I felt that it had some enlightened meaning. This is where the content of this book comes into play.

Young people, no, the majority of people don't feel that way because they think it's a delusion. Perhaps the sloppiness of a human being made me think that way.


This is remarkable in Japan, but perhaps the world's human society is in a phase of decline. In that case, how about a high spectator's carefreeness that can say "that kind of thing" without mentioning what to do with such a society? To top it all off, Japan already had something called Aum a long time ago, but when confronted with an insider, it takes on an anti-establishment meaning, and eventually it becomes ugly. change into something. Confronting the insider is, in other words, the manifestation of resentment, but that is universally the theme of the outsider.




Well, I don't intend to make "outsider" class notes, and there will probably be a lot of derailment and meaningless descriptions for others, but well, before opening the book, I'll leave the nonsense around here.



Le mot « outsider », de par son sens originel, semble avoir une grande affinité avec les choses contestataires.

Certes, tant que l'on peut imaginer que les systèmes sociaux au sens large, depuis la politique jusqu'aux conventions locales, déclenchent souvent un certain esprit de rejet vers l'extérieur, on ne peut nier un tel aspect. chassés de la société à cette époque.


Je pense qu’un facteur important est l’identité : où est le noyau de son esprit qui essaie de se blottir ?

Qu’en est-il du mouvement de rapprochement avec le système, c’est-à-dire de recherche radicale du fondement de l’existence, l’esprit, dans des idéologies et des systèmes politiques autres que le corps physique ? Qu’en est-il d’Uematsu chez Tsukumi Yamayurien ? Ce n’est pas un Colin Un outsider à la Wilson qui garde ses distances avec le système et sort sans le suivre, mais je ne peux pas non plus dire qu'il est un insider.

"Néanmoins, pensons de la même manière." Le dernier d'Easyrider, le fermier américain ordinaire qui a tiré sur Billy et Captain America ? "Es-tu un insider ?" Etes-tu un outsider ? "Quelle est la différence " entre Uematsu et un agriculteur ?"


Si le premier est fragile et affirme sa propre existence dans un tel lieu, le second semble avoir été motivé par la conscience de défendre le territoire.


Il semble penser qu'il est infiniment du côté du système, mais Uematsu, si l'on s'éloigne du sens de Colin Wilson, est un étranger infini à l'ordre actuel, mais sa conscience est d'abord son propre domaine. d'easyrider sont comme des initiés dans leurs actions.


Concernant Uematsu, est-ce le « besoin d’approbation » qui a été demandé de temps en temps au cours des 20-30 dernières années ? J’ai le fort sentiment que c’est quelque chose qui a été évoqué à un stade précoce, mais dans le monde moderne Parfois, ce "besoin d'approbation" est souvent exprimé de manière quelque peu cynique. Sinon, c'est un problème sérieux. Pour la personne elle-même, il semble très probable que ce sera un gros problème de vie ou de mort, plutôt que d'étirement ou de courbure.


" As-tu écrit quelque chose comme ça ? " " Eh bien, je te cours après. "



Je pense que la raison pour laquelle j'ai été attiré par le mot « étranger » quand j'étais jeune était parce que je sentais qu'il avait une signification éclairée. C'est là que le contenu de ce livre entre en jeu.

Les jeunes, non, la majorité des gens ne ressentent pas cela parce qu'ils pensent que c'est une illusion. Peut-être que la négligence d'un être humain m'a fait penser ainsi.


C'est remarquable au Japon, mais peut-être que la société humaine mondiale est dans une phase de déclin. Dans ce cas, que diriez-vous de l'insouciance d'un spectateur qui peut dire "ce genre de chose" sans dire que faire d'une telle société ? Le Japon avait déjà eu quelque chose qui s'appelait Aum il y a longtemps, mais lorsqu'il est confronté à un initié, cela prend un sens contestataire et finit par devenir laid, la manifestation du ressentiment, mais c'est universellement le thème de l'étranger.




Bon, je n'ai pas l'intention de faire des notes de cours "étrangers", et il y aura probablement beaucoup de déraillements et de descriptions dénuées de sens pour les autres, mais bon, avant d'ouvrir le livre, je laisse les bêtises par ici.



Das Wort „Außenseiter“ scheint in seiner ursprünglichen Bedeutung eine hohe Affinität zu Anti-Establishment-Dingen zu haben.

Solange man sich vorstellen kann, dass soziale Systeme im weitesten Sinne, von der Politik bis hin zu lokalen Konventionen, oft einen bestimmten Geist auslösen, der nach außen gedrängt wird, kann ein solcher Aspekt sicherlich nicht geleugnet werden. Sie können sie ausrotten, indem Sie sagen, dass dies der Fall war wurde damals aus der Gesellschaft vertrieben.


Ich denke, ein wichtiger Faktor ist die Identität. Wo ist der Kern seines Geistes, an den er sich zu schmiegen versucht?

Was ist mit der Bewegung, sich dem System zu nähern, mit anderen Worten, radikal nach der Grundlage der Existenz, dem Geist, in Ideologien und politischen Systemen zu suchen, die nicht der physische Körper sind? Was ist mit Uematsu bei Tsukumi Yamayurien? Er ist kein Colin Wilson-ähnlicher Außenseiter, der Abstand zum System hält und nach draußen geht, ohne ihm zu folgen, aber ich kann auch nicht sagen, dass er ein Insider ist.

„Trotzdem denken wir genauso.“ Das letzte von Easyrider, dem gewöhnlichen amerikanischen Bauern, der Billy und Captain America erschoss? „Sind Sie ein Insider?“ Sind Sie ein Außenseiter? „Was ist der Unterschied?“ „zwischen Uematsu und einem Bauern?“


Während Ersterer fragil ist und seine eigene Existenz an einem solchen Ort behauptet, scheint Letzterer von dem Bewusstsein motiviert gewesen zu sein, das Territorium zu verteidigen.


Er scheint zu denken, dass er unendlich auf der Seite des Systems steht, aber Uematsu ist, wenn man die Bedeutung von Colin Wilson außer Acht lässt, ein unendlicher Außenseiter der gegenwärtigen Ordnung, aber sein Bewusstsein ist zuerst seine eigene Domäne. Fühlen Sie sich wie die alten Männer von easyrider sind in ihrem Handeln wie Insider.


Ist es in Bezug auf Uematsu das „Bedürfnis nach Zustimmung“, das in den letzten 20 bis 30 Jahren von Zeit zu Zeit gefragt wurde? Ich habe das starke Gefühl, dass dies etwas ist, worüber schon in einem frühen Stadium, aber in der heutigen Zeit, nachgedacht wurde Manchmal wird dieses „Bedürfnis nach Zustimmung“ oft etwas zynisch ausgedrückt. Ansonsten handelt es sich um ein ernstes Problem. Für die Person selbst scheint es ziemlich wahrscheinlich, dass es sich um ein großes Problem handelt, bei dem es im wahrsten Sinne des Wortes um Leben oder Tod geht, und nicht um Dehnung oder Biegung.


„Hast du so etwas geschrieben?“ „Nun, ich bin hinter dir her.“



Ich glaube, der Grund, warum ich mich in jungen Jahren zu dem Wort „Außenseiter“ hingezogen fühlte, war, dass ich das Gefühl hatte, dass es eine erleuchtete Bedeutung hatte. Hier kommt der Inhalt dieses Buches ins Spiel.

Junge Leute, nein, die meisten Menschen denken nicht so, weil sie es für eine Täuschung halten. Vielleicht hat mich die Schlamperei eines Menschen dazu gebracht, so zu denken.


Das ist in Japan bemerkenswert, aber vielleicht befindet sich die menschliche Gesellschaft auf der Welt in einer Phase des Niedergangs. Wie wäre es in diesem Fall mit der Unbekümmertheit eines Zuschauers, der „so etwas“ sagen kann, ohne zu erwähnen, was mit einer solchen Gesellschaft zu tun ist? Alles Off, Japan hatte schon vor langer Zeit etwas namens Aum, aber wenn man es mit einem Insider konfrontiert, bekommt es eine Anti-Establishment-Bedeutung und wird schließlich hässlich. Die Manifestation von Ressentiments, aber das ist allgemein das Thema des Outsiders.




Nun ja, ich habe nicht vor, Notizen für „Außenstehende“ zu machen, und es wird wahrscheinlich eine Menge Entgleisungen und bedeutungslose Beschreibungen für andere geben, aber bevor ich das Buch aufschlage, lasse ich den Unsinn hier stehen.



La palabra "forastero", desde su significado original, parece tener una gran afinidad con cosas antisistema.

Ciertamente, mientras se pueda imaginar que los sistemas sociales en un sentido amplio, desde la política hasta las convenciones locales, a menudo desencadenan un cierto espíritu de ser empujados hacia el exterior, no se puede negar tal aspecto de exterminarlos diciendo que han sido expulsados ​​de la sociedad en aquella época.


Creo que un factor importante es la identidad: ¿dónde está tratando de acurrucarse el núcleo de su espíritu?

¿Qué pasa con el movimiento para acercarse al sistema, en otras palabras, para buscar radicalmente la base de la existencia, el espíritu, en la ideología y los sistemas políticos, distintos del cuerpo físico? ¿Qué pasa con Uematsu en Tsukumi Yamayurien? Él no es un Colin. Un outsider tipo Wilson que se mantiene alejado del sistema y sale sin seguirlo, pero tampoco puedo decir que sea un insider.

"Sin embargo, pensemos de la misma manera." ¿El último de Easyrider, el granjero estadounidense común y corriente que disparó a Billy y al Capitán América? "¿Eres un insider?" ¿Eres un outsider? "¿Cuál es la diferencia?" ?" entre Uematsu y un granjero?"


Mientras el primero es frágil y afirma su propia existencia en tal lugar, el segundo parece haber estado motivado por la conciencia de defender el territorio.


Parece pensar que está infinitamente del lado del sistema, pero Uematsu, si dejamos el significado de Colin Wilson, es un infinito ajeno al orden actual, pero su conciencia es su propio dominio primero. Los miembros de easyrider son como insiders en términos de sus acciones.


En cuanto a Uematsu, ¿es la "necesidad de aprobación" lo que se ha planteado de vez en cuando en los últimos 20 o 30 años? Tengo la fuerte sensación de que esto es algo que ha estado inquietante en una etapa temprana, pero en la actualidad A veces, esta "necesidad de aprobación" se dice a menudo con un poco de cinismo. De lo contrario, es un problema grave. Para la persona misma, parece bastante probable que sea un gran problema de vida o muerte, en lugar de estirarse o curvarse.


"¿Escribiste algo así?" "Bueno, te estoy persiguiendo".



Creo que la razón por la que me atrajo la palabra "forastero" cuando era joven fue porque sentí que tenía algún significado ilustrado. Aquí es donde entra en juego el contenido de este libro.

Los jóvenes, no, la mayoría de la gente no se siente así porque piensan que es un engaño, tal vez el descuido de un ser humano me hizo pensar así.


Esto es notable en Japón, pero tal vez la sociedad humana del mundo esté en una fase de declive. En ese caso, ¿qué tal la despreocupación de un gran espectador que puede decir "ese tipo de cosas" sin mencionar qué hacer con esa sociedad? Japón ya tenía algo llamado Aum hace mucho tiempo, pero cuando se enfrenta a un interno, adquiere un significado antisistema y eventualmente se vuelve feo. La manifestación del resentimiento, pero ese es universalmente el tema del externo.




Bueno, no pretendo hacer apuntes de clase "ajenos", y probablemente habrá muchos descarrilamientos y descripciones sin sentido para los demás, pero bueno, antes de abrir el libro, dejaré las tonterías por aquí.



“局外人”這個詞,從其本意來看,似乎與反建制的事物有著很高的親和力。

當然,只要可以想像,廣義的社會制度,從政治到地方習俗,往往會引發某種精神被推到外面,這樣的一面是不可否認的。當時被趕出了社會。


我覺得一個很大的因素就是身份,他想要依偎的精神核心在哪裡?

那麼,接近體制的運動呢?換句話說,就是在意識形態和政治體系中,從根本上尋求存在的基礎,即精神,而不是肉體?那麼津久見山百合園的植鬆呢?他不是科林。威爾遜式的局外人,與體制保持距離,不跟隨就往外走,但我也不能說他是局內人。

“儘管如此,我們還是以同樣的方式思考吧。” 最後的 Easyrider,槍殺了比利和美國隊長的普通美國農民?“你是局內人嗎?”你是局外人嗎?“有什麼區別? ?“植松和農民之間?”


前者是脆弱的,並在這樣的地方主張自己的存在,而後者似乎是出於保衛領土的意識。


他似乎認為自己無限站在系統一邊,但植松,如果離開科林·威爾遜的意思,從當前的秩序來看是一個無限的局外人,但他的意識首先是自己的領域。感覺像老人們一樣Easyrider的行為就像內部人士一樣。


關於植松,是不是近20-30年來時不時被問到的“需要批准”?我有一種強烈的感覺,這是早期一直在醞釀的事情,但在現代有時,這種“需要認可”常常被說得有些憤世嫉俗。否則,這就是一個嚴重的問題。對於他自己來說,這似乎很可能是一個真正的生死存亡的大問題,而不是伸展或彎曲。


“你也寫過這樣的東西嗎?”“嗯,我追你。”



我想我小時候之所以被“局外人”這個詞所吸引,是因為我覺得它有一些啟蒙的意義,這就是這本書的內容髮揮作用的地方。

年輕人,不,大多數人不會有這樣的感覺,因為他們認為這是一種錯覺。也許是人的粗心讓我有這樣的想法。


這在日本已經很了不起了,但或許世界人類社會正處於衰退期。那麼,一個高高在上的旁觀者,可以說“那種事情”而不提如何處理這樣的社會,又如何呢?話說回來,日本很早以前就已經有一個叫做奧姆真理教的東西,但是當它面對內部人士時,它就帶有反建制的意義,最終變得醜陋,是怨恨的表現,但這卻是外部人士普遍的主題。




好吧,我不打算做“局外人”的課堂筆記,很可能會有很多出軌和對其他人來說毫無意義的描述,不過好吧,在開書之前,我先把廢話留在這裡。



Ordet "outsider", från sin ursprungliga betydelse, verkar ha en hög affinitet med anti-etableringar.

Förvisso, så länge man kan föreställa sig att sociala system i vid mening, från politik till lokala konventioner, ofta utlöser en viss anda för att pressas utåt, kan en sådan aspekt inte förnekas, utrota dem genom att säga att de har varit drevs ut ur samhället på den tiden.


Jag tror att en stor faktor är identiteten.Var är kärnan i hans ande som försöker mysa till?

Hur är det med rörelsen för att komma nära systemet, med andra ord att radikalt söka tillvarons grund, andan, i ideologi och politiska system, andra än den fysiska kroppen? Hur är det med Uematsu vid Tsukumi Yamayurien? Han är inte en Colin Wilson-liknande outsider som håller avstånd från systemet och går utanför utan att följa med, men jag kan inte heller säga att han är en insider.

"Ändå, låt oss tänka på samma sätt." Den sista av easyrider, den gängse amerikanska bonden som sköt Billy och Captain America? "Är du en insider?" Är du en outsider? "Vad är skillnaden "mellan Uematsu och en bonde?"


Medan den förra är bräcklig och hävdar sin egen existens på en sådan plats, verkar den senare ha motiverats av medvetandet om att försvara territoriet.


Han verkar tro att han är oändligt på sidan av systemet, men Uematsu, om du lämnar betydelsen av Colin Wilson, är en oändlig outsider från den nuvarande ordningen, men hans medvetande är hans egen domän först. känn dig som gubbarna av easyrider är som insiders när det gäller deras handlingar.


Angående Uematsu, är det ``behovet av godkännande'' som har ställts då och då under de senaste 20-30 åren?Jag har en stark känsla av att detta är något som har grubblat i ett tidigt skede, men i modern tid gånger sägs detta "behov av godkännande" ofta något cyniskt. Annars är det ett allvarligt problem. För personen själv verkar det ganska troligt att det blir ett stort problem med bokstavligen liv eller död, snarare än att sträcka sig eller kröka sig.


”Skrev du något sånt?” ”Jaha, jag jagar efter dig”.



Jag tror att anledningen till att jag attraherades av ordet "outsider" när jag var ung var för att jag kände att det hade någon upplyst mening.Det är här innehållet i den här boken kommer in i bilden.

Unga människor, nej, majoriteten av människor känner inte så för att de tror att det är en vanföreställning, kanske en människas slarv fick mig att tänka så.


Detta är anmärkningsvärt i Japan, men kanske befinner sig världens mänskliga samhälle i en nedgångsfas. Vad sägs i så fall om en hög åskådars sorglöshet som kan säga "sånt där" utan att nämna vad man ska göra med ett sådant samhälle? av, Japan hade redan något som hette Aum för länge sedan, men när det konfronteras med en insider får det en anti-etablissemanget innebörd, och så småningom blir det fult, manifestationen av förbittring, men det är universellt temat för outsidern.




Nja, jag tänker inte göra "utomstående" klassanteckningar, och det blir nog en hel del urspårning och meningslösa beskrivningar för andra, men ja, innan jag öppnar boken ska jag lämna nonsensen här.


2023年8月26日土曜日

NT0018~NT0020 読書ノート「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-2 映画のeasy riderを思い出したこと (加筆再掲)

 


 アウトサイダー、アウトサイドがあるなら、当然インサイダー、インサイドもあるわけなんだが、インサイド、内側にはなにがあるのか? っていうか、「アウトサイド」「インサイド」ってどう区分けするの? ってなる。なるよね?


 まぁ、思い浮かぶとすれば、政治的な話をすれば、インサイドとは与党、ということになるが、では野党はアウトサイドで野党議員はアウトサイダーかと言われると、そうではない。寧ろ日本ではその無能ぶりで結果的に与党を助ける準インサイダーであるともいえる。


 この本の「アウトサイダー」的な意味合いから外れるならば、アウトロー、テロリストもアウトサイダーの括りに入るのかもしれない。一義的には、社会の標準的なものの外側、標準的であるというなら内側、ということになる。

 社会の標準的なものの考え方、フィーリングからの疎外感が大きなテーマであったと思う。しかし、まぁ、「疎外感」と書いてしまうと、陳腐であり軽いものに感じられてしまうがそんな簡単ものではないから厄介だ。実際にそれはいかにも個人的なものであるが、「疎外感」の3文字はなにやらそれで、それぞれ個々人を全くの個別のものにしてしまい、いや、個人的なものであるから最初から連帯なんてありえないけれど、しかし、おのおのが自らを窓のない独房に放り込むようなことになってしまわないか?


 とはいえ、'90年代半ばごろより「適応障害」とか、なんとか、それは病であるという風に言われるようになってしまった。哲学や文学が敗北してしまったとその時思ったものだ。’90年代初めごろまでは、少なくともオレは、処方となる言葉を自分で探していたし、そういうものだと思っていた。その中でこの本も見つけたわけなんだけど。

 多分、今や、ある程度、神経内科的な治療法、処方は確立しているのかもしれない。知らんけど。それはそれできっといいことなんだろうが、病=本来有り得ないもの、医者に言わせたら勿論そんなことはないのだけれど、一般的なイメージはそんなところだ。疎外感なんてありえない、と。しかし、歴として疎外感は存在し、それを有り得ないものとされることで、更に奥に潜み深刻なものとなっていく。


 この医学的処方、感覚的には、どうにもそれには違和感があるし、アウトサイダーをインサイドに引き入れるということ自体、正しいのかどうか、ちょっと考えなおすべきなのかもしれないように思ったりもする。


 かつて単車乗り「あちら側」「こちら側」なんて言い方をしたそうな。単車乗りに限らず、急進的なサブカル人も言ってたらしいが、何しろリアルな会話の中でそれを聞いたことはない。因みに1966年生まれであるが。いや、あった。かつて京都にいた時、全共闘崩れのおっちゃんが、それっぽい言い草を口にしてたのを聞いたことがあるかもしれない。

 まさしく、アウトサイダー、インサイダーなんだが、しかし、如何にもイキった言い方で、今のコはそういうものをかなり極端に忌避する。非常にかっこ悪いと感じているようだ。


 しかしだ、むやみやたらと、「インサイド」「アウトサイド」と分けたがるのも、それはそれで落とし穴があるようにも思う。アウトサイダーは、・・・これから読むとして、自分がアウトサイドにいる事を感じてしまう、なんていうことはよくあるが、ではアウトサイドにいなければ、そこはインサイドなのかと言われると、それもまた現実味が薄い気がする。

 インサイダー取引なんていう、犯罪、証券用語があるが、社会機構を中心にそこにある程度人々の心理も交えた、なんとなく「社会」何ていうものを想定して、しかし本当にインサイドというと、お金と権限権力をもった一部の人たちのことであり、多くは、インサイドでもアウトサイドでもない中間のところに漂うようにいるという様子を想像したりしないだろうか?


 それで、さ。どう言うわけか、他の時代がそうではなかったとは言わないが、今のこの時代、特に、過激にインサイドを志向する向きが殊更多いような気がする。で、なんかその姿、暴力的というかなんというか。


 で、思い出したのが、「easy rider」でジャック・ニコルソン扮する若い酔いどれ弁護士ハンセンが言っていたセリフだ。


Course, don’t ever tell anybody that they’re not free…

‘cause then they gonna get real busy killin’ and maimin’…to prove to you that they are. 


 まぁ、見事に今流で言えば、このセリフがフラグだったんだが、あれ? と思う。アウトサイドと自由は親和性が高いものを、ふわっと思っていたけれど、なんか違うみたい。かの映画、キャプテンアメリことワイアットとビリーは、アウトサイダーでありfreeではなかったか? つまり、ワイアットとビリー、ハンセン弁護士も、だが、この3人は、「freedom」によって殺される。この場合、自由がインサイドとなる。自由=freedomがその状態を表すモノではなく、なんか価値を持つものとしたときに、別の不自由で奇怪な言葉に変貌する感じがした。が、


 今の日本人に言ってみよう、「freedom」を「インサイド、体制側にいること」と置き換えて。第一印象全く逆なはずなのに、結果だけは何か似たものになる気がする。

 で、そもそも、freedomとインサイドって本来対立するものなのか? というと、対立もくそもなく、別レイヤーの言葉ではないかと思えてくる。


 読み進めていくと分かるが、確か、アウトサイドは、「freedom」という言葉で想起されるような夢の楽園ではない。最初はそれを夢見た向きもいるかもしれないが、すぐそれは誤りだったと気づく。なのになぜそこにいるのか、というと、理由や必然は別にあるのだ。



If there are outsiders and outsides, of course there are insiders and insides, but what is there inside? I mean, how do we distinguish between "outside" and "inside"? What do you mean? Will it be?


Well, if you think about it, politically speaking, the inside means the ruling party, but if you say that the opposition party is the outside and the opposition party members are the outsiders, that's not the case. Rather, in Japan, it can be said that he is a quasi-insider who helps the ruling party because of his incompetence.


If you deviate from the "outsider" meaning of this book, outlaws and terrorists may also fall into the category of outsiders. Primarily, if it is not the standard of society, it is outside, and if it is standard, it is inside.

I think the major theme was the social standard way of thinking and the sense of alienation from feelings. However, well, if you write "a feeling of alienation", it will feel trite and light, but it's not that easy, so it's troublesome. In fact, it is very personal, but the three letters of "alienation" make each person completely separate from each other, no, because it is personal, solidarity from the beginning. No way, but wouldn't each of us end up throwing ourselves into a windowless cell?


However, since the mid-'90s, it has come to be called "adjustment disorder" or something like a disease. I thought then that philosophy and literature had been defeated. Up until the early '90s, at least for me, I was looking for prescription words for myself, and that's what I thought. It was in this situation that I found this book.

Perhaps now, to some extent, neurological treatment methods and prescriptions have been established. I don't know. I'm sure that's a good thing, but if you ask a doctor to say that illness is something that shouldn't be possible, of course that's not the case, but that's the general image. A sense of alienation is impossible. However, there is a genuine sense of alienation, and by making it impossible, it lurks deeper and becomes more serious.


Intuitively, this medical prescription feels strange. I also think that we should reconsider whether it is right to bring outsiders to the inside.


It seems that motorcycle riders used to say "that side" and "this side". It seems that not only motorcycle riders but also radical subculture people said it, but I've never heard it in a real conversation. By the way, I was born in 1966.

"No, there was." When I was in Kyoto when I was young, I may have heard a middle-aged man from the Zenkyoto generation saying something like that.

"He's definitely an outsider and an insider, but with such a forceful way of saying it, this girl extremely avoids such things." She seems to feel very uncool.


However, I also think that there are pitfalls in wanting to unnecessarily divide things into "inside" and "outside". The outsider is... as you read from now on, it often happens that you feel like you're on the outside. Then, if you are asked if you are not on the outside, are you on the inside?

There are terms for crime and securities called insider trading, but I have a vague idea of what a "society" is, centering on the social system and including people's psychology to some extent. Don't you imagine that there are some people who have a sense of purpose, and many of them are floating in the middle, neither inside nor outside?


"Well then." For some reason, I'm not saying that other times weren't like that, but in this day and age, I feel that there are a lot of people who are radically looking to the inside. And, somehow, that appearance is violent.


Then, I remembered a line spoken by a young drunken lawyer Hansen played by Jack Nicholson in "easy rider".


Course, don’t ever tell anybody that they’re not free…

'cause then they gonna get real busy killin' and maimin'...to prove to you that they are. 


"Well, to put it in modern terms, this line was the flag, huh?"  I think. I used to think that the outside and freedom had a high affinity, but it seems that something is wrong. Wasn't that movie, Captain America, Wyatt and Billy, outsiders and free? In other words, Wyatt, Billy, and Lawyer Hansen, but these three will be killed by "freedom". In this case, freedom is inside. When freedom is not something that expresses that state, but something that has value, it feels like it transforms into another inconvenient and bizarre word. but,


Let's say to Japanese people today, replace "freedom" with "inside, being on the side of the system." Although the first impression should be completely opposite, I feel that only the result will be something similar.

So, in the first place, are freedom and inside conflicting? When you say that, there's no conflict or shit, and it seems that the words are from another layer.


As you read on, you'll realize that Outside is certainly not the paradise of dreams that the word "freedom" evokes. Some may dream it at first, but soon realize it was a mistake. But why are you there? There are other reasons and inevitability.



S'il y a des extérieurs et des extérieurs, bien sûr il y a des intérieurs et des intérieurs, mais qu'y a-t-il à l'intérieur ? Je veux dire, comment fait-on la distinction entre « l'extérieur » et « l'intérieur » ? Que voulez-vous dire ? Est-ce que ce sera le cas ?


Eh bien, si vous y réfléchissez bien, politiquement parlant, l'intérieur signifie le parti au pouvoir, mais si vous dites que le parti d'opposition est l'extérieur et que les membres du parti d'opposition sont les étrangers, ce n'est pas le cas. On peut dire que c'est un quasi-initié qui aide le parti au pouvoir en raison de son incompétence.


Si vous vous écartez du sens « étranger » de ce livre, les hors-la-loi et les terroristes peuvent également tomber dans la catégorie des étrangers. Principalement, si ce n'est pas la norme de la société, c'est à l'extérieur, et si c'est la norme, c'est à l'intérieur.

Je pense que le thème majeur était la façon de penser socialement standard et le sentiment d'aliénation par rapport aux sentiments. En fait, c'est très personnel, mais les trois lettres d'« aliénation » rendent chaque personne complètement séparée les unes des autres, non, parce que c'est personnel, solidaire dès le début... Pas question, mais chacun de nous ne finirait-il pas par se jeter dans une cellule sans fenêtre ?


Cependant, depuis le milieu des années 90, on en est venu à appeler cela un « trouble d'adaptation » ou quelque chose qui s'apparente à une maladie. Je pensais alors que la philosophie et la littérature avaient été vaincues. Jusqu'au début des années 90, du moins pour moi, j'étais je cherchais des mots de prescription pour moi-même, et c'est ce que je pensais.

Peut-être que maintenant, dans une certaine mesure, des méthodes et des prescriptions de traitement neurologique ont été établies. Je ne sais pas. Je suis sûr que c'est une bonne chose, mais si vous demandez à un médecin de vous dire que la maladie est quelque chose qui ne devrait pas être possible, bien sûr, ce n'est pas le cas, mais c'est l'image générale : un sentiment d'aliénation est impossible.


Intuitivement, cette prescription médicale semble étrange. Je pense aussi que nous devrions reconsidérer s'il est juste d'amener les étrangers à l'intérieur.


Il semble que les motards disaient "ce côté-là" et "ce côté-ci". Il semble que non seulement les motards mais aussi les gens de la sous-culture radicale le disaient, mais je ne l'ai jamais entendu dans une vraie conversation. Au fait, je est né en 1966.

" Non, il y en avait. " Quand j'étais à Kyoto quand j'étais jeune, j'ai peut-être entendu un homme d'âge moyen de la génération Zenkyoto dire quelque chose comme ça.

" C'est définitivement un étranger et un initié, mais avec une façon si forte de le dire, cette fille évite extrêmement ce genre de choses. " Elle ne semble pas se sentir très cool.


Mais je pense aussi qu'il y a des écueils à vouloir diviser inutilement les choses entre "dedans" et "dehors". L'outsider est... comme vous lisez désormais, il arrive souvent qu'on ait l'impression d'être à l'extérieur. Alors, si on vous demande si vous n’êtes pas à l’extérieur, êtes-vous à l’intérieur ?

Il existe des termes pour le crime et les valeurs mobilières appelés délits d'initiés, mais j'ai une vague idée de ce qu'est une « société », centrée sur le système social et incluant dans une certaine mesure la psychologie des gens, un sens du but, et beaucoup d'entre eux sont flottant au milieu, ni à l'intérieur ni à l'extérieur ?


"Eh bien, alors." Pour une raison quelconque, je ne dis pas que d'autres fois n'étaient pas comme ça, mais de nos jours, je sens qu'il y a beaucoup de gens qui regardent radicalement vers l'intérieur. est violent.


Ensuite, je me suis souvenu d'une phrase prononcée par un jeune avocat ivre, Hansen, joué par Jack Nicholson dans "Easy Rider".


Bien sûr, ne dites jamais à personne qu’il n’est pas libre…

Parce qu'alors ils vont être très occupés à tuer et à mutiler... pour te prouver qu'ils le sont. 


"Eh bien, pour le dire en termes modernes, cette ligne était le drapeau, hein ? " Je pense. Je pensais que l'extérieur et la liberté avaient une grande affinité, mais il semble que quelque chose ne va pas. Captain America, Wyatt et Billy, étrangers et libres ? En d'autres termes, Wyatt, Billy et l'avocat Hansen, mais ces trois-là seront tués par la "liberté". Dans ce cas, la liberté est à l'intérieur. Quand la liberté n'est pas quelque chose qui exprime cela état, mais quelque chose qui a de la valeur, on a l'impression qu'il se transforme en un autre mot gênant et bizarre.


Disons aux Japonais d'aujourd'hui de remplacer « liberté » par « à l'intérieur, être du côté du système. » Même si la première impression devrait être complètement opposée, je pense que seul le résultat sera quelque chose de similaire.

Alors, en premier lieu, la liberté et l'intérieur sont-ils en conflit ? Quand vous dites cela, il n'y a pas de conflit ni de merde, et il semble que les mots viennent d'une autre couche.


En poursuivant votre lecture, vous vous rendrez compte que Outside n'est certainement pas le paradis des rêves qu'évoque le mot « liberté ». Certains en rêveront peut-être au début, mais se rendront vite compte que c'était une erreur. Mais pourquoi êtes-vous là ? raisons et fatalité.



Wenn es Außenseiter und Außenseiter gibt, gibt es natürlich auch Insider und Innenseiten, aber was ist da drinnen? Ich meine, wie unterscheiden wir zwischen „Außen“ und „Innen“? Was meinst du? Wird es so sein?


Nun, wenn man darüber nachdenkt, ist politisch betrachtet das Innere die herrschende Partei, aber wenn man sagt, dass die Oppositionspartei das Äußere und die Mitglieder der Oppositionspartei die Außenseiter seien, dann ist das nicht der Fall. Vielmehr ist es in Japan so Man kann sagen, dass er ein Quasi-Insider ist, der der Regierungspartei aufgrund seiner Inkompetenz hilft.


Wenn Sie von der „Außenseiter“-Bedeutung dieses Buches abweichen, fallen möglicherweise auch Gesetzlose und Terroristen in die Kategorie der Außenseiter. Wenn es nicht dem Standard der Gesellschaft entspricht, ist es in erster Linie draußen, und wenn es Standard ist, ist es drinnen.

Ich denke, das Hauptthema war die gesellschaftliche Denkweise und das Gefühl der Entfremdung von Gefühlen. Tatsächlich ist es sehr persönlich, aber die drei Buchstaben „Entfremdung“ trennen jeden Menschen völlig voneinander, nein, weil es so ist Persönlich, solidarisch von Anfang an. Auf keinen Fall, aber würde sich nicht jeder von uns am Ende in eine fensterlose Zelle werfen?


Seit Mitte der 90er Jahre spricht man jedoch von einer „Anpassungsstörung“ oder so etwas wie einer Krankheit. Ich dachte damals, dass Philosophie und Literatur besiegt seien. Bis Anfang der 90er Jahre war ich das, zumindest für mich, besiegt Ich suche nach Rezeptwörtern für mich selbst, und das habe ich mir auch gedacht.

Vielleicht sind inzwischen einigermaßen neurologische Behandlungsmethoden und Verordnungen etabliert. Ich weiß es nicht. Ich bin mir sicher, dass das eine gute Sache ist, aber wenn man einen Arzt bittet, zu sagen, dass Krankheit etwas ist, das nicht möglich sein sollte, Natürlich ist das nicht der Fall, aber das ist das allgemeine Bild. Ein Gefühl der Entfremdung ist unmöglich.


Intuitiv fühlt sich diese ärztliche Verordnung seltsam an. Ich denke auch, dass wir noch einmal darüber nachdenken sollten, ob es richtig ist, Außenstehende nach innen zu holen.


Es scheint, dass Motorradfahrer früher „diese Seite“ und „diese Seite“ gesagt haben. Es scheint, dass nicht nur Motorradfahrer, sondern auch radikale Subkulturleute das gesagt haben, aber ich habe es noch nie in einem echten Gespräch gehört. Übrigens, ich wurde 1966 geboren.

„Nein, das gab es.“ Als ich jung in Kyoto war, habe ich vielleicht einen Mann mittleren Alters aus der Zenkyoto-Generation so etwas sagen hören.

„Er ist definitiv ein Außenseiter und ein Insider, aber mit dieser eindringlichen Art, es auszudrücken, vermeidet dieses Mädchen solche Dinge extrem.“ Sie scheint sich sehr uncool zu fühlen.


Allerdings denke ich auch, dass es Fallstricke gibt, Dinge unnötig in „drinnen“ und „außen“ unterteilen zu wollen. Der Außenseiter ist... wenn man von nun an liest, kommt es oft vor, dass man das Gefühl hat, draußen zu sein Wenn Sie dann gefragt werden, ob Sie nicht im Außen stehen, sind Sie dann im Inneren?

Es gibt Begriffe für Kriminalität und Wertpapiere, die als Insiderhandel bezeichnet werden, aber ich habe eine vage Vorstellung davon, was eine „Gesellschaft“ ist, die sich auf das soziale System konzentriert und bis zu einem gewissen Grad die Psychologie der Menschen einbezieht. Ein Sinn für Ziele, und viele davon sind es In der Mitte schweben, weder drinnen noch draußen?


„Na dann.“ Aus irgendeinem Grund sage ich nicht, dass andere Zeiten nicht so waren, aber heutzutage habe ich das Gefühl, dass es viele Menschen gibt, die radikal nach innen blicken. , diese Erscheinung ist gewalttätig.


Dann erinnerte ich mich an eine Zeile, die von einem jungen, betrunkenen Anwalt Hansen gesprochen wurde, gespielt von Jack Nicholson in „Easy Rider“.


Sagen Sie natürlich niemals jemandem, dass er nicht frei ist ...

Denn dann werden sie wirklich damit beschäftigt sein, zu töten und zu verstümmeln ... um dir zu beweisen, dass sie es sind. 


„Nun, um es modern auszudrücken, dieser Satz war die Flagge, nicht wahr?“, denke ich. Früher dachte ich, dass das Äußere und die Freiheit eine hohe Affinität haben, aber es scheint, dass etwas nicht stimmt. War das nicht der Film? Captain America, Wyatt und Billy, Außenseiter und Freie? Mit anderen Worten, Wyatt, Billy und Anwalt Hansen, aber diese drei werden durch „Freiheit“ getötet. In diesem Fall ist Freiheit im Inneren. Wenn Freiheit nicht etwas ist, das das ausdrückt Zustand, aber etwas, das einen Wert hat, fühlt sich an, als würde es sich in ein anderes unbequemes und bizarres Wort verwandeln.


Sagen wir den Japanern heute: Ersetzen Sie „Freiheit“ durch „innerhalb, auf der Seite des Systems sein.“ Obwohl der erste Eindruck völlig gegensätzlich sein sollte, habe ich das Gefühl, dass nur das Ergebnis etwas Ähnliches sein wird.

Erstens: Stehen Freiheit und Inneres im Widerspruch? Wenn Sie das sagen, gibt es keinen Konflikt oder Scheiße, und es scheint, dass die Worte von einer anderen Ebene stammen.


Wenn Sie weiterlesen, werden Sie erkennen, dass Outside sicherlich nicht das Traumparadies ist, das das Wort „Freiheit“ hervorruft. Manche träumen es vielleicht zunächst, merken aber bald, dass es ein Fehler war. Aber warum sind Sie dort? Gründe und Unvermeidlichkeit.



Si hay afuera y afuera, por supuesto que hay adentro y adentro, pero ¿qué hay adentro? Quiero decir, ¿cómo distinguimos entre "afuera" y "adentro"? ¿Qué quieres decir? ¿Será?


Bueno, si lo piensas bien, políticamente hablando, el interior significa el partido gobernante, pero si dices que el partido de oposición es el exterior y los miembros del partido de oposición son los de afuera, ese no es el caso. Más bien, en Japón, puede Se puede decir que es un cuasi-insider que ayuda al partido gobernante debido a su incompetencia.


Si nos desviamos del significado de "forasteros" de este libro, los forajidos y los terroristas también pueden caer en la categoría de forasteros. Principalmente, si no es el estándar de la sociedad, está afuera, y si es estándar, está adentro.

Creo que el tema principal fue la forma social estándar de pensar y el sentimiento de alienación de los sentimientos. De hecho, es muy personal, pero las tres letras de "alienación" hacen que cada persona esté completamente separada entre sí, no, porque es Personal, solidario desde el principio, ni modo, pero ¿no terminaríamos cada uno de nosotros arrojándonos en una celda sin ventanas?


Sin embargo, desde mediados de los años 90 se le empezó a llamar "trastorno de adaptación" o algo parecido a una enfermedad. Entonces pensé que la filosofía y la literatura habían sido derrotadas. Hasta principios de los años 90, al menos para mí, estaba Buscando palabras recetadas para mí, y eso es lo que pensé.

Quizás ahora, hasta cierto punto, se han establecido métodos y prescripciones de tratamiento neurológico. No lo sé. Estoy seguro de que es algo bueno, pero si le preguntas a un médico que te diga que la enfermedad es algo que no debería ser posible, Por supuesto que no es así, pero esa es la imagen general: un sentimiento de alienación es imposible.


Intuitivamente, esta prescripción médica parece extraña. También creo que deberíamos reconsiderar si es correcto traer a los de afuera al interior.


Parece que los motociclistas solían decir "ese lado" y "este lado". Parece que no sólo los motociclistas sino también la gente de la subcultura radical lo decían, pero nunca lo había escuchado en una conversación real. Por cierto, yo Nació en 1966.

"No, lo hubo." Cuando estaba en Kioto cuando era joven, es posible que haya escuchado a un hombre de mediana edad de la generación Zenkyoto decir algo así.

"Definitivamente es un outsider y un insider, pero con una forma tan contundente de decirlo, esta chica evita en extremo esas cosas." Parece sentirse muy fuera de onda.


Sin embargo, también creo que hay peligros en querer dividir innecesariamente las cosas en "adentro" y "afuera". El afuera es... como leerás a partir de ahora, muchas veces sucede que te sientes como si estuvieras afuera. Entonces, si te preguntan si no estás afuera, ¿estás adentro?

Hay términos para delitos y valores llamados uso de información privilegiada, pero tengo una vaga idea de lo que es una "sociedad", centrada en el sistema social e incluyendo hasta cierto punto la psicología de las personas, un sentido de propósito, y muchos de ellos son flotando en el medio, ni dentro ni fuera?


"Bueno, entonces." Por alguna razón, no estoy diciendo que otros tiempos no fueran así, pero hoy en día, siento que hay muchas personas que están mirando radicalmente hacia adentro. , esa apariencia es violento.


Entonces, recordé una frase pronunciada por un joven abogado borracho, Hansen, interpretado por Jack Nicholson en "Easy Rider".


Por supuesto, nunca le digas a nadie que no es libre...

Porque entonces estarán muy ocupados matando y mutilando... para demostrarte que lo son. 


"Bueno, para decirlo en términos modernos, esta línea era la bandera, ¿eh?", pienso. Solía ​​pensar que el exterior y la libertad tenían una gran afinidad, pero parece que algo anda mal. ¿No era esa película? Capitán América, Wyatt y Billy, ¿forasteros y libres? O sea, Wyatt, Billy y el Abogado Hansen, pero estos tres serán asesinados por la "libertad". En este caso, la libertad está dentro. Cuando la libertad no es algo que exprese eso. estado, pero algo que tiene valor, se siente como si se transformara en otra palabra incómoda y extraña.


Digamos a los japoneses de hoy que reemplacen "libertad" por "adentro, estar del lado del sistema". Aunque la primera impresión debería ser completamente opuesta, siento que sólo el resultado será algo similar.

Entonces, en primer lugar, ¿están en conflicto la libertad y el interior? Cuando dices eso, no hay conflicto ni mierda, y parece que las palabras son de otra capa.


A medida que sigas leyendo, te darás cuenta de que Afuera no es ciertamente el paraíso de los sueños que evoca la palabra "libertad". Algunos pueden soñarlo al principio, pero pronto se dan cuenta de que fue un error. Pero ¿por qué estás ahí? razones e inevitabilidad.



如果有外者和外者,當然有內者和內者,但是裡面是什麼?我的意思是,我們如何區分“外”和“內”?你的意思是什麼?會是嗎?


那麼你想一想,從政治上來說,內部就是執政黨,但是如果說在野黨是外部,在野黨議員是外部的話,那就不是這樣了。相反,在日本,可以可以說,他是一個因為無能而幫助執政黨的準內部人士。


如果偏離了本書“局外人”的含義,亡命之徒、恐怖分子也可能屬於局外人的範疇。首先,如果不是社會標準,那就是外部的,如果是標準的,那就是內部的。

我覺得主題是社會標準的思維方式和感情的疏離感,其實是很個人化的,但是“疏離”三個字母讓每個人完全分離,不,因為它是從一開始就是個人的、團結的。不可能,但我們每個人最後不是都會把自己扔進沒有窗戶的牢房裡嗎?


但從90年代中期開始,它就被稱為“適應障礙”或者類似疾病的東西。我當時認為哲學和文學已經被打敗了。直到90年代初期,至少對我來說,我是為自己尋找處方的話,這就是我的想法。

或許現在,在某種程度上,神經科的治療方法和藥方已經確立了。我不知道。我確信這是一件好事,但是如果你問醫生說,疾病是不應該發生的事情,當然不是這樣,但總體形象就是這樣,疏離感是不可能的。


直觀上,這個藥方感覺很奇怪,我也覺得我們應該重新考慮一下,把外人帶到裡面是否正確。


好像摩托車騎手過去常常說“那邊”和“這邊”。似乎不僅摩托車騎手,甚至激進的亞文化人士也這麼說,但我從未在真正的對話中聽到過。順便說一句,我出生於1966年。

“沒有,有。”我小時候在京都的時候,可能聽過一位善京都一代的中年男子說過這樣的話。

“固然是個外人,也是個內人,但這麼強硬的說法,這丫頭卻極其迴避這種事情。”她似乎感覺很不爽。


然而,我也認為,想要不必要地將事物分為“內部”和“外部”是有陷阱的。局外人是……正如你從現在開始閱讀的那樣,你經常會覺得自己處於局外人的境地。那麼,如果問你,你不是在外面,那你是在裡面嗎?

犯罪和證券有術語叫內幕交易,但我對什麼是“社會”有一個模糊的概念,以社會制度為中心,某種程度上包括人們的心理、目的感,而且很多都是漂浮在中間,既不內也不外?


“那好吧。”不知為何,我並不是說其他​​時候不是這樣,但在當今這個時代,我感覺有很多人都在激進地向內看,那個樣子。是暴力的。


然後,我想起了《逍遙騎士》中傑克·尼科爾森飾演的年輕醉酒律師漢森說過的一句台詞。


當然,永遠不要告訴任何人他們不自由......

因為那時他們會真正忙著殺人和殘害......向你證明他們是。


“嗯,用現代的話來說,這條線就是旗幟吧?”我想。以前我以為外面和自由有很高的親和力,但似乎有些不對勁。那部電影不是,美國隊長、懷亞特和比利,局外人和自由?換句話說,懷亞特、比利和漢森律師,但這三個人會被“自由”殺死。在這種情況下,自由就在裡面。當自由不是表達的東西時狀態,但是有價值的東西,感覺就像變成了另一個不方便且奇怪的詞。


比如說今天的日本人,把“自由”換成“裡面,站在體制一邊”,雖然第一印象應該是完全相反的,但我覺得只有結果才會是類似的東西。

那麼,首先,自由和內心是衝突的嗎?當你這麼說的時候,沒有衝突,也沒有狗屎,而且似乎是從另一個層面說出來的。


當你繼續閱讀時,你會發現外面當然不是“自由”一詞所喚起的夢想天堂。有些人可能一開始夢想它,但很快意識到這是一個錯誤。但你為什麼在那裡? 原因和必然性。



Om det finns outsiders och outsiders så finns det förstås insiders och insides, men vad finns det inuti?Jag menar, hur skiljer vi på "outside" och "inside"? Vad menar du? Kommer det att bli det?


Tja, om du tänker på det, politiskt sett, betyder insidan det styrande partiet, men om du säger att oppositionspartiet är utsidan och oppositionspartiets medlemmar är utomstående, så är det inte fallet. Snarare, i Japan kan det sägs att han är en kvasi-insider som hjälper det styrande partiet på grund av sin inkompetens.


Om man avviker från den här bokens "utomstående" innebörd kan även fredlösa och terrorister hamna i kategorin outsiders.I första hand, om det inte är samhällets standard så är det utanför, och om det är standard så är det inuti.

Jag tror att huvudtemat var det sociala standardsättet att tänka och känslan av främlingskap från känslor. Det är faktiskt väldigt personligt, men de tre bokstäverna "alienation" gör att varje person är helt separat från varandra, nej, eftersom det är personlig, solidaritet från början.Ingen chans, men skulle inte var och en av oss hamna i en fönsterlös cell?


Men sedan mitten av 90-talet har det kommit att kallas "anpassningsstörning" eller något liknande en sjukdom. Jag trodde då att filosofin och litteraturen hade besegrats. Fram till början av 90-talet, åtminstone för mig, var jag letar efter receptbelagda ord för mig själv, och det var vad jag tänkte.

Kanske har man nu till viss del etablerat neurologiska behandlingsmetoder och recept.Jag vet inte.Jag är säker på att det är bra, men om man ber en läkare säga att sjukdom är något som inte borde vara möjligt. så är det förstås inte, men det är den allmänna bilden.En känsla av utanförskap är omöjlig.


Intuitivt känns det här läkarreceptet konstigt.Jag tycker också att vi ska ompröva om det är rätt att ta med utomstående till insidan.


Det verkar som att motorcykelförare brukade säga "den sidan" och "den här sidan". Det verkar som att inte bara motorcykelförare utan också radikala subkulturmänniskor sa det, men jag har aldrig hört det i ett riktigt samtal. Förresten, jag föddes 1966.

”Nej, det fanns.” När jag var i Kyoto när jag var ung, kanske jag hörde en medelålders man från Zenkyoto-generationen säga något sådant.

"Han är definitivt en outsider och en insider, men med ett så kraftfullt sätt att säga det, undviker den här tjejen extremt sådana saker." Hon verkar känna sig väldigt okey.


Däremot tycker jag också att det finns fallgropar i att i onödan vilja dela upp saker i "inne" och "utanför" Utomstående är... som man läser från och med nu händer det ofta att man känner att man är på utsidan Sedan, om du tillfrågas om du inte är på utsidan, är du på insidan?

Det finns termer för brott och värdepapper som kallas insiderhandel, men jag har en vag uppfattning om vad ett "samhälle" är, centrerat på det sociala systemet och inklusive människors psykologi till viss del. en känsla av syfte, och många av dem är flytande i mitten, varken inuti eller utanför?


"Jaha då." Av någon anledning säger jag inte att andra tider inte var så, men i dessa tider känner jag att det finns många människor som radikalt ser till insidan. , det utseendet är våldsam.


Sedan kom jag ihåg en replik som uttalades av en ung berusad advokat Hansen spelad av Jack Nicholson i "easy rider".


Självklart, berätta aldrig för någon att de inte är fria...

för då kommer de att bli riktigt upptagna med att döda och lemlästa...för att bevisa för dig att de är det. 


"Tja, för att uttrycka det i moderna termer, den här linjen var flaggan, va?" tror jag. Jag brukade tro att utsidan och friheten hade en hög affinitet, men det verkar som att något är fel. Var inte den filmen, Captain America, Wyatt och Billy, outsiders och fria? Med andra ord, Wyatt, Billy och Advokat Hansen, men dessa tre kommer att dödas av "frihet". I det här fallet är frihet inuti. När frihet inte är något som uttrycker det stat, men något som har värde, det känns som att det förvandlas till ett annat obekvämt och bisarrt ord.


Låt oss säga till japanerna idag, ersätt "frihet" med "inuti, att vara på sidan av systemet." Även om det första intrycket borde vara helt motsatt, känner jag att bara resultatet kommer att bli något liknande.

Så, i första hand, är frihet och inre motstridiga? När du säger det, finns det ingen konflikt eller skit, och det verkar som om orden kommer från ett annat lager.


När du läser vidare kommer du att inse att Outside verkligen inte är drömmarnas paradis som ordet "frihet" framkallar. Vissa kanske drömmer det först, men inser snart att det var ett misstag. Men varför är du där? skäl och oundviklighet.



2023年7月22日土曜日

T1123 何やら御大層に書いておられるが

  2023年7月20日付けの毎日新聞の、多分暇ネタかコラムかなんか、


「長すぎる3秒 容疑者撮影、写真記者の「絶対に負けられない戦い」https://onl.bz/qdrb3FE

なんて言う記事があって、日本の伝統的報道技法についての苦労自慢をだらだらと読ませる記事となっております?


 何か事件があったとして、クルマの中の容疑者の不鮮明な写真に全く意義を感じないんだが。まぁ、容疑者はこんな奴、ということで写真が必要というなら、どこかから写真ももらって来ればよい。


 後半有料記事で、課金してまで毎日新聞を見たいとも思わないので、記事の後半は読んでいない。


「勾留先から検察庁に送致される車両の容疑者を狙う「送検写真」、別名「透かし」。重大事件では必ず求められ、失敗は許されない、写真記者の「絶対に負けられない戦い」。その舞台裏です。」


 とのことである。まぁ新聞社とかマスコミのエラい人が下っ端に指示して撮らせてくるんだろうが、惰性になっていない? その辺どうなの? と源君(某新聞社で一旦閑職に追いやられてまたメインストリーム近い所に呼び戻された、そこそこエラい、高校の同級生)?


 いや、そういうのはいいから、もっと違う、我々が知りたいことを取材して報道してくれよ、と思うのが、首相官邸とかの、確か「ぶら下がり」とかいう奴な。通路に出てきた首相とか閣僚とかに殺到して、SPのガードの隙間からマイクを向けるアレ。政治家相手ならまだしも、芸能人とかに向けるそれって、多分マスコミの「仕事してます感」を出すためだけ、というか、彼らのアリバイ演出のためだけにあるもので、もう本当に要らなくて、新聞離れ、テレビ離れの、結構大きな要因のひとつになってる気がして仕方ない。こんなんまじめに視ろなんて、読者、視聴者を舐めてんの?って。


 facebookの毎日新聞の投稿に対し、寄せられたコメントというのは大体そんな感じで、で、毎日新聞のfacebook担当は、ちゃんと社にそういうコメントのフィードバックをしてるんだろうか?

 新聞社、マスコミに限らず、企業の公式SNSって投稿の投げっぱなしが多く、批判を一つ一つとまでは行かなくても、いくつか批判の論点を整理してでも、それに回答するというのは、知る限り皆無である。下手なことをすれば炎上するから慎重にもなるんだろうが、まぁ、その辺からも正の影響力が逆に漸減していってるに違いない。


 なんというかさ、ホント、ちゃんと回答返せよな。



Mainichi Shimbun daté du 20 juillet 2023, probablement une histoire libre ou une chronique,


``Trois secondes de trop. Fusillade suspecte, la ``bataille qui ne peut jamais être perdue'' du journaliste photo https://onl.bz/qdrb3FE

De quel genre d'article s'agit-il, et c'est un article qui vous fait lire les difficultés des techniques de reportage japonaises traditionnelles ?


"Je ne vois aucune signification dans les photos floues du suspect dans la voiture, même si quelque chose s'est passé." Eh bien, si le suspect est un tel type et qu'il a besoin d'une photo, il peut obtenir une photo quelque part.


Je n'ai pas lu la seconde moitié de l'article car la seconde moitié était un article payant et je ne voulais pas payer pour lire le quotidien.


Des « photos transférées », également appelées « filigranes », visant des suspects dans des véhicules envoyés de la détention au parquet. La "bataille qui ne peut jamais être perdue" d'un photoreporter, qui est toujours requise dans les cas graves et l'échec n'est pas autorisé. C'est dans les coulisses. ”


a dit. Eh bien, les personnes occupant des postes dans les journaux ou les médias de masse donneront probablement l'ordre aux sous-fifres de prendre des photos, mais n'est-ce pas simplement de l'inertie ? "Comment ça va?" et Minamoto-kun (un camarade de classe de lycée qui a été une fois forcé de travailler dans une entreprise de presse et a été rappelé dans un endroit proche du grand public) ?


Non, ça va, mais c'est plus différent, je pense que c'est la résidence officielle du Premier ministre, et si je ne me trompe pas, ça s'appelle "pendaison". Le Premier ministre et les membres de son cabinet qui sont apparus dans l'allée ont été précipités et ont pointé le microphone à travers les interstices de la garde du SP. Si vous avez affaire à des politiciens, c'est bien, mais c'est probablement juste pour donner aux médias un sentiment de "travail", ou plutôt, juste pour produire leur alibi. Êtes-vous en train de lécher les lecteurs et les téléspectateurs en prenant cela au sérieux? Quoi?


La plupart des commentaires reçus en réponse à la publication de Mainichi Shimbun sur Facebook sont comme ça, et je me demande si le personnel Facebook de Mainichi Shimbun renvoie correctement ces commentaires à l'entreprise ?

Non seulement les entreprises de presse et les médias de masse, mais aussi les messages SNS officiels des entreprises sont souvent laissés sans surveillance, et pour autant que je sache, même s'ils ne répondent pas aux critiques une par une, même s'ils organisent plusieurs points de critique, ils n'y répondent pas. S'ils font quelque chose de mal, ils s'enflammeront, alors ils seront probablement prudents, mais bon, leur influence positive doit également diminuer progressivement de ce côté-là.


"Je ne sais pas quoi dire, vraiment, donne-moi une réponse appropriée."



Mainichi Shimbun vom 20. Juli 2023, wahrscheinlich eine kostenlose Geschichte oder Kolumne,


„Drei Sekunden zu lang Verdächtige Schießerei, Fotoreporter-„Kampf, der niemals verloren gehen kann“ https://onl.bz/qdrb3FE

Was ist das für ein Artikel, und ist es ein Artikel, der Sie über die Schwierigkeiten traditioneller japanischer Berichterstattungstechniken informieren lässt?


„Ich sehe in den verschwommenen Fotos des Tatverdächtigen im Auto keine Bedeutung, selbst wenn etwas passiert wäre.“ Nun, wenn der Verdächtige so ein Typ ist und er ein Foto braucht, kann er sich irgendwo ein Foto besorgen.


Die zweite Hälfte des Artikels habe ich nicht gelesen, da es sich bei der zweiten Hälfte um einen kostenpflichtigen Artikel handelte und ich nicht für das Lesen der Tageszeitung bezahlen wollte.


„Übertragene Fotos“, auch „Wasserzeichen“ genannt, richteten sich an Verdächtige in Fahrzeugen, die aus der Haft an die Staatsanwaltschaft geschickt wurden. Der „nie verlorene Kampf“ eines Fotoreporters, der in schwerwiegenden Fällen immer erforderlich ist und ein Scheitern nicht erlaubt ist. Es ist hinter den Kulissen. ”


genannt. Nun, Leute mit Positionen in den Zeitungen oder den Massenmedien werden die Untergebenen wahrscheinlich anweisen, Fotos zu machen, aber ist das nicht nur Trägheit? "Wie geht's?" und Minamoto-kun (ein Klassenkamerad aus der Oberschule, der einst gezwungen war, bei einer Zeitungsfirma zu arbeiten und an einen Ort in der Nähe des Mainstreams zurückgerufen wurde)?


Nein, das ist in Ordnung, aber es ist anders. Ich glaube, es ist der offizielle Wohnsitz des Premierministers, und wenn ich mich nicht irre, nennt man das „Hängen“. Der Premierminister und seine Kabinettsmitglieder, die im Gang erschienen, wurden herbeigeeilt und richteten das Mikrofon durch die Lücken in der Wache der SP. Wenn man es mit Politikern zu tun hat, ist das in Ordnung, aber wahrscheinlich dient es nur dazu, den Massenmedien das Gefühl zu geben, zu „arbeiten“, oder besser gesagt, nur um ihr Alibi zu produzieren. Verärgern Sie die Leser und Zuschauer, indem Sie das ernst nehmen? Was?


Die meisten Kommentare, die als Reaktion auf den Facebook-Beitrag von Mainichi Shimbun eingehen, sind so, und ich frage mich, ob die Facebook-Mitarbeiter von Mainichi Shimbun diese Kommentare ordnungsgemäß an das Unternehmen weiterleiten?

Nicht nur Zeitungsunternehmen und Massenmedien, sondern auch offizielle SNS-Beiträge von Unternehmen bleiben oft unbeachtet, und soweit ich weiß, reagieren sie nicht darauf, selbst wenn sie nicht einzeln auf Kritik reagieren, selbst wenn sie mehrere Kritikpunkte organisieren. Wenn sie etwas schlecht machen, gehen sie in Flammen auf, also werden sie wahrscheinlich vorsichtig sein, aber nun ja, ihr positiver Einfluss muss auch von dieser Seite allmählich nachlassen.


„Ich weiß wirklich nicht, was ich sagen soll, gib mir eine richtige Antwort.“



Mainichi Shimbun con fecha del 20 de julio de 2023, probablemente una historia gratuita o una columna,


``Tres segundos de más Tiroteo sospechoso, ``batalla que nunca se puede perder'' del reportero gráfico https://onl.bz/qdrb3FE

¿Qué tipo de artículo es, y es un artículo que te hace leer acerca de las dificultades de las técnicas tradicionales japonesas de reportaje?


"No veo ningún significado en las fotos borrosas del sospechoso en el automóvil, incluso si algo sucedió". Bueno, si el sospechoso es un tipo así y necesita una foto, puede obtener una foto de algún lado.


No leí la segunda mitad del artículo porque la segunda mitad era un artículo pagado y no quería pagar para leer el diario.


``Fotos transferidas'', también conocidas como ``marcas de agua'', dirigidas a sospechosos en vehículos enviados desde la detención a la oficina del fiscal. La "batalla que nunca se puede perder" de un reportero gráfico, que siempre se requiere en casos graves y no se permite fallar. Está detrás de escena. ”


dicho. Bueno, la gente con cargos en los periódicos o los medios de comunicación probablemente instruirá a los subordinados para que tomen fotografías, pero ¿no es solo inercia? "¿Cómo estás?" y Minamoto-kun (un compañero de clase de la escuela secundaria que una vez fue obligado a trabajar en una empresa de periódicos y fue llamado de regreso a un lugar cercano a la corriente principal)?


No, eso está bien, pero es más diferente, creo que es la residencia oficial del Primer Ministro, y si no me equivoco, se llama "colgar". El primer ministro y los miembros de su gabinete que aparecieron en el pasillo fueron apresurados y apuntaron el micrófono a través de los huecos en la guardia del SP. Si se trata de políticos, está bien, pero probablemente sea solo para dar a los medios de comunicación una sensación de "funcionamiento", o más bien, solo para producir su coartada. ¿Estás lamiendo a los lectores y espectadores al tomar esto en serio? ¿Qué?


La mayoría de los comentarios recibidos en respuesta a la publicación de Mainichi Shimbun en Facebook son así, y me pregunto si el personal de Facebook de Mainichi Shimbun transmite adecuadamente esos comentarios a la empresa.

No solo las empresas de periódicos y los medios de comunicación, sino también los mensajes corporativos oficiales de SNS a menudo quedan desatendidos y, que yo sepa, incluso si no responden a las críticas una por una, incluso si organizan varios puntos de crítica, no responden. Si hacen algo mal, arderán en llamas, por lo que probablemente serán cautelosos, pero bueno, su influencia positiva también debe estar disminuyendo gradualmente desde ese lado.


"No sé qué decir, de verdad, dame una respuesta adecuada".



《每日新聞》,日期為 2023 年 7 月 20 日,可能是一個免費故事或專欄,


``三秒太長嫌疑人拍攝,攝影記者的``永遠不會輸的戰鬥''https://onl.bz/qdrb3FE

這是一篇什麼樣的文章,是一篇讓你了解到日本傳統報導技術之艱辛的文章?


“即使發生了什麼事,我也看不出車內嫌疑人的模糊照片有任何意義。” 好吧,如果嫌疑人是這樣的人並且他們需要照片,他們可以從某個地方獲取照片。


文章的後半部分我沒有看,因為後半部分是付費文章,我不想付費看日報。


“轉移照片”,也稱為“水印”,針對從拘留所送往檢察官辦公室的車輛中的嫌疑人。 攝影記者的“永遠不能輸的戰鬥”,情節嚴重的時候總是需要的,不允許失敗。 這是在幕後。 ”


說。 那麼,報紙或者媒體上有職位的人可能會指揮下屬拍照,但這不就是慣性嗎? “怎麼樣了?” 還有源君(曾被迫在報社工作,被召回接近主流的高中同學)?


不,那也好,但更不一樣的是,我想那是首相官邸,如果我沒記錯的話,那就叫“懸”。 出現在過道上的首相和他的內閣成員被沖了過去,並通過 SP 警衛的縫隙指向麥克風。 如果你面對的是政客,那很好,但這可能只是為了給大眾媒體一種“工作”的感覺,或者更確切地說,只是為了提供他們的不在場證據。 你認真對待這件事是在舔讀者和觀眾嗎? 什麼?


對於《每日新聞》Facebook帖子的回應,大部分評論都是這樣,不知道《每日新聞》Facebook工作人員是否妥善地將這些評論反饋給公司?

不僅是報業和大眾媒體,企業官方SNS帖子也常常無人理睬,據我所知,即使對批評沒有一一回應,即使整理了幾個批評點,也沒有回應。 如果他們做的不好,他們就會火上澆油,所以他們可能會很謹慎,但好吧,他們的積極影響力也一定會從這一方面逐漸減弱。


“我不知道該說什麼,真的,給我一個正確的答案吧。”



Mainichi Shimbun daterad 20 juli 2023, förmodligen en gratis berättelse eller en kolumn,


"Tre sekunder för lång Misstänkt skjutning, fotoreporterns "strid som aldrig kan förloras" https://onl.bz/qdrb3FE

Vad är det för typ av artikel, och det är en artikel som får dig att läsa om svårigheterna med traditionella japanska rapporteringstekniker?


"Jag ser ingen betydelse i de suddiga bilderna på den misstänkte i bilen, även om något hänt." Tja, om den misstänkte är en sådan kille och de behöver ett foto, kan de få ett foto någonstans ifrån.


Jag läste inte den andra hälften av artikeln eftersom den senare hälften var en betald artikel och jag ville inte betala för att läsa dagstidningen.


``Överförda bilder'', även känd som ``vattenstämplar'', riktade mot misstänkta i fordon som skickats från häktet till åklagarmyndigheten. En fotoreporters "kamp som aldrig kan förloras", vilket alltid krävs i allvarliga fall och misslyckande är inte tillåtet. Det är bakom kulisserna. ”


sa. Jo, personer med positioner i tidningarna eller massmedia kommer nog att instruera underhuggarna att ta bilder, men är det inte bara tröghet? "Hur är läget?" och Minamoto-kun (en gymnasieklasskamrat som en gång tvingades arbeta på ett tidningsföretag och kallades tillbaka till en plats nära mainstream)?


Nej, det är bra, men det är mer annorlunda, jag tror att det är statsministerns tjänstebostad, och om jag inte har fel så kallas det för "hängning". Premiärministern och hans regeringsmedlemmar som dök upp i gången skyndade sig till och riktade mikrofonen genom luckorna i SP:s vakt. Om du har att göra med politiker är det bra, men det är nog bara för att ge massmedia en känsla av att "arbeta", eller snarare, bara för att producera deras alibi. Slickar du läsarna och tittarna genom att ta detta på allvar? Vad?


De flesta av kommentarerna som mottagits som svar på Mainichi Shimbuns inlägg på facebook är sådana, och jag undrar om Mainichi Shimbuns facebookpersonal återkopplar dessa kommentarer till företaget på rätt sätt?

Inte bara tidningsföretag och massmedia, utan även företagens officiella SNS-inlägg lämnas ofta obevakade, och så vitt jag vet, även om de inte svarar på kritiken en efter en, även om de organiserar flera kritikpunkter, svarar de inte på dem. Om de gör något dåligt kommer de att gå upp i lågor, så de kommer förmodligen att vara försiktiga, men tja, deras positiva inflytande måste gradvis minska från den sidan också.


"Jag vet inte vad jag ska säga, ge mig ett ordentligt svar."



2023年7月17日月曜日

T1121 一生かけて証明するべきだったのに・・・

 一生かけて証明するべきだったのに・・・


 民主主義が素晴らしいことの核、根源にあるのは、結果として我々が受けている恩恵ではなく、先人がそのために流した血にこそある、と、オレは考えてる節がある。これは結果と過程の倒錯であるかもしれないが、その成れの果ての現在の社会状況を見るに、ついついそう考えてしまう。


 社会変革を訴える人が、まず自分こそその変わった結果の恩恵を受けたがる、真っ先に受益者になりたがる、然るに自分に降りかかるリスクが不当なものであると、まぁ、口で言う分にはどれだけ言っても構わないが、心の底からそう思い込んでいるところを見ると、何とも興ざめな気分になってしまう。まぁ、如何にも現代的ではあるのだが。


 大人になるってどういう事だろう、と、若いときは頻繁に、老いてきても尚考えることだが、「知らなかったじゃすまされない」という言い方が、ひとつ、できるんじゃないかと思っている。まぁ、いくつになっても知らないこと、わからないことはあるものだが、「知りませんでした。てへぺろ」って、まぁ、てへぺろぐらいは良いよ。知らなかったとむきになって怒ったり泣きわめいたりというのは、ちょっとあり得ないように思う。いや、ポーズとして戦略として怒ってみるのはいいさ。しかし、それによって感情を支配されてはならない。そういうことも想定のうちに入れ、できれば充分なリスクヘッジ、そうじゃなくても気構え、覚悟ぐらいは持ち合わせておくべきじゃないか?


 変革者として、反動勢力と対峙する場面というのは常に想定しておくべきだ。変革者と言わずとも、自分の考え、思いを世に発信するのであれば、そういう覚悟も必要だ。

 反動、対抗してくるものの形として、正々堂々として理知的なモノであるならまだしも、聞くに堪えないような罵詈雑言や極端な場合物理的な危険があるものまである。それらももちろん違法で、間違ったものではあっても、現に存在するものだ。

 そして、法に照らし合わせて、対抗、自らを守る手段はどれだけでもあるのだ、幸いなことにわが国では。


 地球が生まれてからこの方の時間を一日、24時間とするなら、その内人類が存在した時間はたった1分20秒にも満たないほどらしい。その内文明を持ちえた時間がたったの1秒だ。

 人一人として、70年ないし100年の寿命は、それは確かに長いが、そんなわけで瞬きの時間すら無いわけである、人の一生は。その中で、自分の思いつきとか、特に社会変革に関わることが、一生のうちに完成するかどうかもわからなければ、それが正解かどうかもわからない訳だ。今、それが正解に思えたとしても、後の自分にしてみたら、黒歴史そのもので、あの時(今この時)の自分を殴ってやりたい、なんて思うことも多々あるわけで。


 今、それが正しいと思うのであれば、一生かけて言葉以上に自分の行動でそれが正しかったと証明する義務があるとさえ考えるべきだ。それでさえ、年老いていよいよ仕舞う時間が来たときに、殊自分に関して正解だったと思えたならば、はじめてまぁなんとか正解になるものだ。


 もう、その人にはこの言葉は届かないが、今は若くて生物的に魅力的に見えても、やがて老い衰えたときにこそ、彼が元気だった時の主張が意味を持ったはずなのに、彼が一生かけて正しさを証明する覚悟がその時無くなってしまっていたことが残念だ。



You should have spent the rest of your life proving...


I believe that the core and roots of what makes democracy so wonderful is not the benefits we receive as a result, but the blood that our predecessors shed for that purpose. This may be a perversion of result and process, but looking at the current social situation as a result, I can't help but think so.


People who advocate social change want to benefit from the changed results first, they want to be the first beneficiary, and yet the risk that befalls them is unreasonable. It doesn't matter how much you say it with your mouth, but when you see him thinking that from the bottom of his heart, it makes me feel indescribably uninteresting. Well, it's modern nonetheless.


I often think about what it means to be an adult when I'm young, and even when I'm old, I think I can say, "I can't get over it if I don't know." Well, no matter how old you are, there are things you don't know or don't understand, but "I didn't know. Tehepero", well, Tehepero is good. I don't think it's possible to get angry or cry out loud because you didn't really know. No, it's good to be angry as a pose, as a strategy. But don't let it control your emotions. Shouldn't we include such things in our assumptions, and if possible, have sufficient risk hedging, or at least be ready and prepared?


As a reformer, you should always assume that you will face the reactionary forces. Even if you don't call yourself a reformer, if you want to convey your thoughts and feelings to the world, you need to be prepared to do so.

As for the forms of reaction and opposition, if they are fair and rational things, it is fine, but there are unbearable abusive words and even physical dangers in extreme cases. They are, of course, illegal, and even if they are wrong, they do exist.

And, in light of the law, there are any number of ways to oppose and defend yourself, fortunately in our country.


If the time of this person since the birth of the earth is 24 hours a day, it seems that humankind has existed for less than 1 minute and 20 seconds. Within that time, civilization lasted only 1 second.

A person's life expectancy of 70 to 100 years is certainly long, but that's why they don't even have time to blink. Among them, you don't know if your own ideas, especially those related to social change, will be completed in a lifetime, and you don't know if it's the right answer. Even if you think it's the right answer now, when you look at yourself later, there are many times when you want to punch yourself at that time (at this time) for black history itself.


If you think it's right now, you should even think that you have the obligation to prove it right with your actions, rather than your words, for the rest of your life. Even so, when the time finally comes to put it away in old age, if you can think that you were right about yourself, you will somehow get it right for the first time.


This word doesn't reach that person anymore, but even if he looks young and biologically attractive now, it's when he's old and fading that his claims when he was healthy should have meaning. It's a pity that he didn't have the resolve to prove his rightness for the rest of his life.



Tu aurais dû passer le reste de ta vie à prouver...


Je crois que le noyau et les racines de ce qui rend la démocratie si merveilleuse ne sont pas les avantages que nous en retirons, mais le sang que nos prédécesseurs ont versé à cette fin. situation en conséquence, je ne peux m'empêcher de le penser.


Les gens qui prônent le changement social veulent d'abord bénéficier des résultats modifiés, ils veulent être les premiers bénéficiaires, et pourtant le risque qui leur incombe est déraisonnable. Peu importe combien vous le dites avec votre bouche, mais quand vous voyez lui pensant que du fond du cœur, ça me fait me sentir indescriptiblement inintéressant. Eh bien, c'est quand même moderne.


Je pense souvent à ce que cela signifie d'être un adulte quand je suis jeune, et même quand je suis vieux, je pense que je peux dire, "Je ne peux pas m'en remettre si je ne sais pas." Eh bien, non Peu importe votre âge, il y a des choses que vous ne savez pas ou ne comprenez pas, mais "je ne savais pas. Tehepero", eh bien, Tehepero est bon. Je ne pense pas qu'il soit possible de se mettre en colère ou de crier Fort parce que vous ne saviez pas vraiment. Non, c'est bien d'être en colère comme pose, comme stratégie. Mais ne la laissez pas contrôler vos émotions. Ne devrions-nous pas inclure de telles choses dans nos hypothèses, et si possible, avoir une couverture des risques suffisante, ou du moins être prêt et préparé ?


En tant que réformateur, vous devez toujours supposer que vous affronterez les forces réactionnaires. Même si vous ne vous appelez pas réformateur, si vous voulez transmettre vos pensées et vos sentiments au monde, vous devez être prêt à le faire.

Quant aux formes de réaction et d'opposition, si ce sont des choses justes et rationnelles, c'est bien, mais il y a des injures insupportables et même des dangers physiques à la limite, ça existe.

Et, au regard de la loi, il existe mille et une façons de s'opposer et de se défendre, heureusement dans notre pays.


Si le temps de cette personne depuis la naissance de la terre est de 24 heures sur 24, il semble que l'humanité existe depuis moins de 1 minute et 20 secondes. Pendant ce temps, la civilisation n'a duré que 1 seconde.

L'espérance de vie d'une personne de 70 à 100 ans est certes longue, mais c'est pour cela qu'elle n'a même pas le temps de cligner des yeux. Parmi elles, vous ne savez pas si vos propres idées, notamment celles liées au changement social, seront complétées en toute une vie, et vous ne savez pas si c'est la bonne réponse. Même si vous pensez que c'est la bonne réponse maintenant, quand vous vous regardez plus tard, il y a de nombreuses fois où vous voulez vous frapper à ce moment-là (à ce moment-là) pour l'histoire des Noirs elle-même.


Si vous pensez que c'est maintenant, vous devriez même penser que vous avez l'obligation de le prouver par vos actions, plutôt que par vos paroles, pour le reste de votre vie. âge, si vous pouvez penser que vous aviez raison sur vous-même, vous réussirez d'une manière ou d'une autre pour la première fois.


Ce mot n'atteint plus cette personne, mais même s'il a l'air jeune et biologiquement attirant maintenant, c'est quand il est vieux et s'estompe que ses affirmations lorsqu'il était en bonne santé devraient avoir un sens et prouver sa justesse pour le reste de sa vie.



Du hättest den Rest deines Lebens damit verbringen sollen, zu beweisen...


Ich glaube, dass der Kern und die Wurzeln dessen, was die Demokratie so wunderbar macht, nicht die Vorteile sind, die wir daraus ziehen, sondern das Blut, das unsere Vorgänger für diesen Zweck vergossen haben. Aufgrund dieser Situation kann ich nicht anders, als das zu glauben.


Menschen, die sich für gesellschaftliche Veränderungen einsetzen, wollen zuerst von den veränderten Ergebnissen profitieren, sie wollen die ersten Nutznießer sein, und doch ist das Risiko, das ihnen droht, unzumutbar. Es spielt keine Rolle, wie viel man mit dem Mund sagt, sondern wann man es sieht Er denkt, dass es mir aus tiefstem Herzen das Gefühl gibt, unbeschreiblich uninteressant zu sein. Nun, es ist trotzdem modern.


Ich denke oft darüber nach, was es bedeutet, erwachsen zu sein, wenn ich jung bin, und selbst wenn ich alt bin, denke ich, dass ich sagen kann: „Ich komme nicht darüber hinweg, wenn ich es nicht weiß.“ Nun, nein Egal wie alt man ist, es gibt Dinge, die man nicht weiß oder nicht versteht, aber „Ich wusste es nicht. Tehepero“, nun ja, Tehepero ist gut. Ich glaube nicht, dass es möglich ist, wütend zu werden oder zu schreien Laut, weil du es nicht wirklich wusstest. Nein, es ist gut, wütend zu sein, als Pose, als Strategie. Aber lass nicht zu, dass es deine Emotionen kontrolliert. Sollten wir solche Dinge nicht in unsere Annahmen einbeziehen, und wenn möglich, haben wir es getan? ausreichende Risikoabsicherung oder zumindest bereit und vorbereitet sein?


Als Reformer sollten Sie immer davon ausgehen, dass Sie sich den reaktionären Kräften stellen werden. Auch wenn Sie sich nicht als Reformer bezeichnen, müssen Sie darauf vorbereitet sein, wenn Sie der Welt Ihre Gedanken und Gefühle mitteilen möchten.

Was die Formen der Reaktion und des Widerstands angeht: Wenn es sich um faire und rationale Dinge handelt, ist das in Ordnung, aber es gibt unerträgliche Beleidigungen und im Extremfall sogar körperliche Gefahren. Sie existieren.

Und angesichts des Gesetzes gibt es zum Glück in unserem Land viele Möglichkeiten, sich zu widersetzen und sich zu verteidigen.


Wenn die Lebenszeit dieses Menschen seit der Geburt der Erde 24 Stunden am Tag beträgt, scheint es, dass die Menschheit weniger als 1 Minute und 20 Sekunden existiert hat. Innerhalb dieser Zeit hat die Zivilisation nur 1 Sekunde gedauert.

Die Lebenserwartung eines Menschen ist mit 70 bis 100 Jahren sicherlich lang, aber deshalb hat er nicht einmal Zeit zum Blinzeln. Unter anderem weiß man nicht, ob die eigenen Ideen, insbesondere solche im Zusammenhang mit gesellschaftlichem Wandel, in Erfüllung gehen ein Leben lang, und du weißt nicht, ob es die richtige Antwort ist. Selbst wenn du jetzt denkst, dass es die richtige Antwort ist, wenn du dich später selbst betrachtest, gibt es viele Male, in denen du dir zu diesem Zeitpunkt (zu diesem Zeitpunkt) selbst einen Schlag versetzen möchtest. für die schwarze Geschichte selbst.


Wenn Sie denken, dass es jetzt richtig ist, sollten Sie sogar daran denken, dass Sie die Pflicht haben, es für den Rest Ihres Lebens durch Ihre Taten und nicht durch Ihre Worte zu beweisen. Selbst dann, wenn die Zeit gekommen ist, es endlich beiseite zu legen Wenn du im Alter denken kannst, dass du mit dir selbst Recht hattest, wirst du es irgendwie zum ersten Mal richtig machen.


Dieses Wort erreicht diesen Menschen nicht mehr, aber selbst wenn er jetzt jung und biologisch attraktiv aussieht, sollten seine Behauptungen, als er gesund war, eine Bedeutung haben, wenn er alt ist und verblasst. Sie sollten für den Rest seines Lebens beweisen, dass er Recht hat.



Deberías haber pasado el resto de tu vida demostrando...


Creo que el núcleo y las raíces de lo que hace que la democracia sea tan maravillosa no son los beneficios que recibimos como resultado, sino la sangre que nuestros predecesores derramaron con ese propósito. situación como resultado, no puedo evitar pensar que sí.


Las personas que abogan por el cambio social quieren beneficiarse primero de los resultados modificados, quieren ser los primeros beneficiarios y, sin embargo, el riesgo que les sobreviene no es razonable. No importa cuánto lo digas con la boca, pero cuando veas él pensando eso desde el fondo de su corazón, me hace sentir indescriptiblemente poco interesante Bueno, sin embargo, es moderno.


A menudo pienso en lo que significa ser un adulto cuando soy joven, e incluso cuando soy viejo, creo que puedo decir: "No puedo superarlo si no sé". No importa la edad que tengas, hay cosas que no sabes o no entiendes, pero "yo no sabía. Tehepero", bueno, Tehepero es bueno. No creo que sea posible enojarse o gritar. En voz alta porque realmente no lo sabías. No, es bueno estar enojado como una pose, como una estrategia. Pero no dejes que controle tus emociones. ¿No deberíamos incluir esas cosas en nuestras suposiciones y, si es posible, tener suficiente cobertura de riesgo, o al menos estar listo y preparado?


Como reformador, siempre debe asumir que se enfrentará a las fuerzas reaccionarias. Incluso si no se llama a sí mismo reformador, si quiere transmitir sus pensamientos y sentimientos al mundo, debe estar preparado para hacerlo.

En cuanto a las formas de reacción y oposición, si son cosas justas y racionales, está bien, pero hay insultos insoportables y hasta peligros físicos en casos extremos.

Y, a la luz de la ley, hay infinidad de formas de oponerse y defenderse, afortunadamente en nuestro país.


Si el tiempo de esta persona desde el nacimiento de la tierra es de 24 horas al día, parece que la humanidad ha existido por menos de 1 minuto y 20 segundos. Dentro de ese tiempo, la civilización duró solo 1 segundo.

La esperanza de vida de una persona de 70 a 100 años es ciertamente larga, pero por eso ni siquiera tiene tiempo para parpadear, entre ellos, no sabes si tus propias ideas, especialmente las relacionadas con el cambio social, se completarán en toda la vida, y no sabes si es la respuesta correcta. Incluso si crees que es la respuesta correcta ahora, cuando te mires a ti mismo más tarde, hay muchas veces en las que quieres golpearte en ese momento (en este momento) para la propia historia negra.


Si crees que es ahora mismo, deberías incluso pensar que tienes la obligación de demostrarlo con tus acciones, en lugar de tus palabras, por el resto de tu vida. Aun así, cuando finalmente llegue el momento de guardarlo en el viejo edad, si puedes pensar que tenías razón acerca de ti mismo, de alguna manera lo harás bien por primera vez.


Esta palabra ya no le llega a esa persona, pero incluso si se ve joven y biológicamente atractivo ahora, es cuando envejece y se desvanece cuando sus afirmaciones cuando estaba saludable deberían tener significado para probar su rectitud por el resto de su vida.



你應該用你的餘生來證明......


我認為,民主之所以如此美好,其核心和根源並不是我們由此獲得的利益,而是我們的前輩為此而流的血。因此,我不禁這樣認為。


主張社會變革的人都想先從變革的結果中受益,想成為第一個受益者,但降臨在他們身上的風險卻是不合理的,嘴上說多少不重要,但當你看到的時候他從心底里想,這讓我覺得無趣。嗯,雖然很現代。


我年輕時經常思考作為一個成年人意味著什麼,即使我老了,我想我可以說,“如果我不知道,我就無法克服它。”嗯,不不管你多大,有些事情你不知道或不明白,但是“我不知道。Tehepero”,嗯,Tehepero很好。我認為不可能生氣或哭出來大聲,因為你真的不知道。不,作為一種姿勢、一種策略,生氣是件好事。但不要讓它控制你的情緒。我們是否應該將這些事情納入我們的假設中,如果可能的話,足夠的風險對沖,或者至少做好準備?


作為一個改革者,你應該永遠假設你將面對反動勢力,即使你不稱自己為改革者,如果你想向世界傳達你的想法和感受,你需要這樣做的準備。

至於反動和反對的形式,如果是公平合理的事情是可以的,但令人難以忍受的謾罵,甚至極端情況下的人身危險,是確實存在的。

而且,根據法律,有很多方法可以反對和捍衛自己,幸運的是在我們國家。


如果以這個人自地球誕生以來的時間為一天24小時的話,似乎人類存在的時間還不到1分20秒。在這段時間內,文明只持續了1秒。

人的壽命70到100歲固然很長,但正因如此,他們連眨眼的時間都沒有。一輩子,你也不知道這是否是正確的答案,即使你現在認為這是正確的答案,當你以後再看自己時,有很多時候你想打自己當時(此時)對於黑歷史本身。


如果你認為現在是正確的,你甚至應該認為你有義務在你的餘生中用你的行動而不是你的言語來證明它是正確的。即便如此,當最終到了把它收起來的時候年齡,如果你能認為你對自己的看法是正確的,你就會第一次做對。


這個詞已經不再傳到那個人那裡了,但即使他現在看起來很年輕,在生理上也很有吸引力,但當他老了、褪色時,他健康時的主張才應該有意義。在他的餘生中證明他的正確性。



Du borde ha ägnat resten av ditt liv åt att bevisa...


Jag tror att kärnan och rötterna till det som gör demokratin så underbar inte är de fördelar vi får som ett resultat, utan det blod som våra föregångare utgjutit för det syftet.. situation som ett resultat kan jag inte låta bli att tro det.


Människor som förespråkar social förändring vill först dra nytta av de förändrade resultaten, de vill vara den första förmånstagaren, och ändå är risken som drabbar dem orimlig.Det spelar ingen roll hur mycket du säger det med munnen, utan när du ser det. han tänker att det från djupet av sitt hjärta får mig att känna mig obeskrivligt ointressant, men det är ändå modernt.


Jag tänker ofta på vad det innebär att vara vuxen när jag är ung, och även när jag är gammal tror jag att jag kan säga: "Jag kan inte komma över det om jag inte vet." Oavsett hur gammal du är så finns det saker du inte vet eller inte förstår, men "jag visste inte. Tehepero", ja, Tehepero är bra. Jag tror inte det går att bli arg eller gråta ut Högt för att du inte riktigt visste. Nej, det är bra att vara arg som en pose, som en strategi. Men låt det inte styra dina känslor. Borde vi inte inkludera sådana saker i våra antaganden, och om möjligt ha tillräcklig risksäkring, eller åtminstone vara redo och förberedd?


Som reformator bör du alltid utgå från att du kommer att möta de reaktionära krafterna, även om du inte kallar dig själv reformator, om du vill förmedla dina tankar och känslor till världen, måste du vara beredd att göra det.

När det gäller formerna av reaktion och opposition, om de är rättvisa och rationella saker, är det bra, men det finns outhärdliga kränkande ord och till och med fysiska faror i extrema fall, de existerar.

Och i ljuset av lagen finns det hur många sätt som helst att motsätta sig och försvara sig själv, lyckligtvis i vårt land.


Om tiden för denna person sedan jordens födelse är 24 timmar om dygnet, verkar det som om mänskligheten har funnits i mindre än 1 minut och 20 sekunder. Inom den tiden varade civilisationen bara 1 sekund.

En människas förväntade livslängd på 70 till 100 år är förvisso lång, men det är därför de inte ens har tid att blinka. Bland dem vet du inte om dina egna idéer, särskilt de som rör social förändring, kommer att fullbordas i en livstid, och du vet inte om det är rätt svar. Även om du tror att det är rätt svar nu, när du tittar på dig själv senare, finns det många gånger när du vill slå dig själv vid den tiden (vid den här tiden) för själva den svarta historien.


Om du tror att det är rätt nu, bör du till och med tro att du har en skyldighet att bevisa att det är rätt med dina handlingar, snarare än dina ord, för resten av ditt liv. Ändå, när det äntligen är dags att lägga undan det i det gamla ålder, om du kan tro att du hade rätt om dig själv, kommer du på något sätt att få det rätt för första gången.


Detta ord når inte den personen längre, men även om han ser ung och biologiskt attraktiv ut nu, så är det när han är gammal och bleknar som hans påståenden när han var frisk borde ha mening, bevisa hans rätt för resten av livet.