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2025年7月2日水曜日

ダイワハウスのCM考

 松坂桃李氏が出てるダイワハウスのCMで、
「おいおい、この段階で偏った方向に結論付けるのは危険だぞ。もっと柔軟に考えてみるんだ。AかBかじゃなくて、AよりのBとか、BよりのAとか、たとえば中トロ寄りの大トロとか、大トロ寄りの中トロとか、つまり、ウナギ寄りのアナゴとか、アナゴ寄りのウナギとか、あるいはカニよりのかまぼことか、かまぼこ寄りのカニとか、そういう絶妙なバランスが・・・」
というのがあって、注文住宅のCMにこれ? と結構謎なんだけど、なんか時代に対してもメッセージのような気もしている。ちょっと考えてみた。

 確かに一見「注文住宅」との関連性が薄く感じられるけれど、よく見ると実はかなり深いメッセージが込められているようにも思えてくる。
 松坂桃李氏が語るあの「AかBかじゃなくて」「中トロ寄りの大トロ」「ウナギ寄りのアナゴ」みたいな例え話は、突飛に思えるが、「二項対立を超えた柔軟な発想」を促してるのだろう。

 現代社会というのは、SNSでもニュースでも「白黒つけたがる風潮」が強く、「こっちが正しい、あっちは間違ってる」みたいな極端な判断が溢れがちだ。しかし本来、現実の選択肢ってその中間に無数にあるわけで、「グラデーションの中にある価値観」を見逃さないことが大事だよ、と。

 それにしても、最初から観ていくと、これが住宅メーカのCMとわかるのは最後の方にやっと、という、現在主流の、元も子もなく商品名連呼の如きCMとは、明らかに趣を異とする。しかし、一見ミスマッチなこのセリフが、実は注文住宅の本質に触れているとも言えるかもしれぬ。
 注文住宅というのは、まさに「既成のAかBか」ではなく、「自分らしいちょうどいいグラデーションを探す作業」なのだろう。たとえば、モダン寄りの和風、収納重視の開放感、家族団らん重視のプライベート空間、等々。こういう、一見矛盾しそうな要素を絶妙にバランスさせる柔軟性こそ、ダイワハウスが提案する住まい方なのかもしれぬ。


 これは単なる住宅CMを超えて、「今の時代に対する提言」みたいにも聞こえる。

「おいおい、この段階で偏った方向に結論づけるのは危険だぞ。」

 このセリフ、社会全体の思考の硬直化分断の危うさに警鐘を鳴らしているようにも感じられてならない。家の話をしながら、実は暮らし方=生き方=考え方の柔らかさを説いてると思うのだ。

 〇表面的には注文住宅と関係なさそうだが、「選択肢の幅を楽しむ」という注文住宅の本質に沿っている。
 〇時代の「二項対立」に対して、「グラデーションの思考」を提案している。
 〇意外性のある比喩が逆に印象に残り、ダイワハウスの哲学を際立たせている。


 松坂桃李氏が油汚れに塗れたスーツ姿で列車の車両基地で歩きながら言ってるのも、何かの暗喩じゃないかとも。このシチュエーション、言葉の内容と絶妙にずらしていて、単なる住宅CMの枠を越えてくる。

 車両基地って、まさに**「裏方」**であり、見えないところで日々整備と調整が繰り返されている場所。それって、住まいや人生においても「整える」「保つ」「点検し続ける」ことの重要性を象徴しているかもしれぬ。松坂桃李氏が話してるのは「柔軟な発想」「グラデーション的な選択」。その思考って、見た目にはわかりづらくて、派手さはないけど、実は裏で一番手間がかかるものだったりする。油まみれの現場に立つことで、その「泥臭さ」も表現してるのかもしれない。

 列車の整備現場というのは、クリーンではないし、ピカピカでもない。まさに白でも黒でもない“グレー”の世界。それが、「AかBかじゃなくて、A寄りのB」 というセリフと重なる。カニとかかまぼこなんて軽妙な比喩を言っているのに、背景は重くて工業的。このギャップが何とも言えぬ深い味わいを出している

 列車=社会、車両基地=社会の裏側や転換点と見るなら、「ここで何かが修理され、再出発していく」という構造となる。それは住宅というハードの話だけでなく、今の私たち自身や思考の癖を整備・点検・更新していこうというメッセージとも読めぬことはない。「ちょっと立ち止まって、ものの見方を整備しよう」 そんな空気感が漂っているきがしてしまう。

 車両基地は、社会の裏側・人の無意識・見えないインフラ。
 油汚れは 矛盾、混とん、人間の本音や未整理な部分。
 油汚れに塗れたスーツ姿の松坂桃李氏は、現代の合理性、理性的視点、それでも考えようとする個人。
 グラデーション思考は、現代社会への処方箋。
 カニとかアナゴとな云々は、対立じゃない曖昧な価値観の美しさ。

 これらはそんなメタファーなんじゃないか?


 そんなCMをハウスメーカーが打つって、どういうことだ?
 家を、究極的には「どう生きたいか」を問う選択の結晶と考える。だからこそ、こういう「生き方」「考え方」に一石を投じるCMを、ダイワハウスはあえて打っているのかもしれぬ。

 つまり、 「家は、思考の表現でもある」 というコンセプト。


 案外な、小さな哲学の断片かもしれぬ。知らんけど。

2025年7月1日火曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 2 なぜ富に執着するか?

 

 もう充分だろうに、まだ金をもうけようとするか? 財産自体分け与えないまでも、金の種、というか、その手段は移譲してもいいのではないかと思うのだが、そんな感じでもない。なぜか?

 必要以上の富を保ちたがる心理は、自己防衛・競争・誇示・不信・権力など、いろんな人間の側面が絡んでいるようだ

 富の不均衡をどう捉えるかについては、政治哲学の分野で古くから深く議論されてきている。代表的な立場をいくつか挙げてみる。

1.ジョン・ロールズ(John Rawls)は20世紀の政治哲学者で、著書『正義論』(1971)で、ざっくり言うと「人は、自分が生まれる環境(貧富、能力、性別など)を知らない状態則ち「無知のヴェール」の下で社会契約を結ぶべきである。そうすれば、自分がどの立場に生まれても最悪にならないように、公平な制度を選ぶはずだ」という考えを述べている。
 そのための2つ、原理として、1.自由の平等、つまり基本的自由(言論、信教など)はすべての人に平等に。2.格差原理(difference principle)則ち経済的な不平等はあってもよいが、それが最も不遇な人の利益になる場合に限る。
 まとめると、「格差はあってもいいが、貧者のためになっていなければ正義ではない」とする考えらしい。

2.ロバート・ノージック(Robert Nozick)はロールズに真っ向から反論した。著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)では、 自由に基づく所有権の正当性を主張した。内容は
富の分配が正義かどうかは、結果ではなく「どう得たか」によって決まる。

 自由な取引や正当な手段で得た財産であれば、たとえ極端な格差があっても再分配するべきではない。
 再分配は、実質的に人から「人生の一部を取り上げること」(=強制労働の一種)になりかねない。

 ノージックは国家は治安と契約の履行だけを担うべきとし、「再分配は不当な干渉」と考えました。つまりは厳格な「小さな政府」志向だったようだ。

3.カール・マルクスは、資本主義の構造そのものが不正義だと見ていた。まぁ、御存じの通り。

 資本家は「剰余価値」を搾取しているとし、労働者が生み出した価値のうち、必要以上の部分(剰余価値)を資本家が取り上げ、富を蓄積していく構造を批判したが、しかしマルクスさん、今や余剰どころでは済んでませんぜ。
 富の不平等は、個人の努力ではなく生産手段(資本)の独占から生まれているという主張だ。

 マルクス主義、つまり共産主義は、制度や構造自体を問い直し、「分配」ではなく「所有と支配そのもの」を変えるべきだという立場なのもご存知の通り。

4.ジェレミー・ベンサムジョン・スチュワート・ミルあたりの功利主義は最大多数の最大幸福を掲げる。不平等の是非は、「社会全体の幸福がどうなるか」で判断される。よって超富裕層に富が集中することで社会全体の幸福が減るのであれば、再分配は正当化されうる。
 しかし、これには、「全体の幸福のためなら個人の自由が犠牲になってもいいのか?」という問題もはらんでいる。

 同じ「富の不均衡」を見ても、公正に格差を許容すべき(ロールズ)とするか、自由な取引が最優先(ノージック)とするか、格差そのものが構造的搾取(マルクス)とするのか、社会全体の幸福が第一(功利主義)にするのか、「正義」や「自由」の定義によって答えが大きく変わる。

 では、なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか? これもいくつか考えてみた。羅列してみる。

1.富こそが存在証明であるという思想がある。

 スピノザ的観点として、欲望は自然の力、人間は「自己保存の本能(コナトゥス)」によって生きているというのがあった。この本能は、生きるためのあらゆる手段を拡張しようとするもので、富を持つことが則ち自分の力(影響力・自由・生存可能性)の拡大と捉えれば、富を求め続けるのは「生きる力の自然な表れ」ということになる。
 更に言えば、満ち足りることがゴールではなく、“拡張し続けること”自体が生の衝動なのだ。

2.エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で富とは恐怖への防壁であるとした。

 この『自由からの逃走』という本、大学に入ってからの政治学概論だったかの教科書だったんだよねぇ。脇教授の。結構気に入って、何度か繰り返して読んだ。気がついたらなくなってたので、新しいの買って持ってる。

 フロムは、現代人が自由になった代わりに、孤独や不安に直面していることを分析した。この際、富は、そうした「自分の存在が脆い」という感覚に対しての安全保障・支配力の象徴になる。
 富を蓄えることというのは「死」「無価値感」「失敗」といった根源的な恐れから目を背ける手段になっている、と考えたわけだ。
3. 比較の中でしか自分を見られない病があるんじゃないか?

 例えば、ジャンジャック・ルソーは、人間には「自己愛(amour de soi)」、則ち自然な自己保存の感情、と「比較愛(amour-propre)」、則ち他人との比較によって自分を評価する感情があると説いた。
 富裕層の「さらなる富」への執着は、他者に対して自分が“上”であることを確認するための欲望に近い。それは、富が「道具」ではなく「優位性の証明」になってしまっている状態だ。

4.富が自己と一体化している。って、此処まで書くとちょっと哀れになってくるのだが、マルティン・ハイデガーは、人間はつねに「他者の目」によって自己を規定されがちで、それを「世人(ダス・マン)」と呼んだ。 超富裕層の一部は、富を持つことで「自分とは何か」が決まってしまっている状態、富を持つことが自分、富が自分、となってしまってる、というようなことだ。
 富を失うことは、ただの損失ではなく、“自己の死”に近い体験になる。


 こういうフェイズでの富というのは何かに代替できなものだろうか?理屈で言えば、愛、信頼、創造性、美、宗教的体験、自然との一体感などは、富以上の充足を与え得ると言われているし、仏教では、むしろ欲望を手放すこと(涅槃)こそが究極の自由とされている。

 わかったようなわからんような。

 何しろ、現代社会はそれらの価値よりも「測定可能なもの(富・フォロワー数・肩書き)」を評価するため、人は代替価値を持ちにくくなってしまっている。社会構造と人間の不安が、それを許さない。

 仏教なんて言葉出たついでに、「なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか?」という人間の心理や存在の在り方に関わる哲学的な問いに対する、欲望、アイデンティティ、恐れについての、宗教的な視点(キリスト教、仏教、スーフィズムなど)からの解釈も整理しておこうか。

 キリスト教は、富への執着を、欲望の無限性と神なき充足、としている。
 キリスト教的視点では、過剰な富の追求はしばしば「偶像崇拝」として描かれる。これは「神を信じて委ねる」ことの代わりに、「富に安心を求める」ことなのだ。
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
 つまり、富の集積は“救い”や“安心”を求める行為だが、それは神以外のものに神性を与えてしまう罪であるとされている。
 原罪という言葉はよく聞くが、つまりは「底なしの欲望」のこと。
 人間は本質的に「欠けた存在」としてあり、「完全な満たし」を外に求め続ける。これが欲望(desire)の無限性につながる。
 富は「今度こそ満たされるかも」と思わせるが、結局はさらなる欠乏を生む。あるある。
 富を手放せないのは、「神が自分を見捨てるかもしれない」「明日、必要なものが得られないかもしれない」という 根源的な不安 があるからなんだそうだ。キリスト教では「信じて任せる(faith)」ことによって、この不安から解放されると説いているのだがね。
 神への絶対的信頼を求めてくるわけだが、それは、たとえ教会に腐敗があっても、となると話は別で、古代、中世まではそれでもよかったのかもしれないが、近世、近代になると、そうも言っていられなくなる。これがニーチェの「神は死んだ」になるのだろうが、文明と、そして貨幣経済、資本主義経済と信仰、どちらが先の話なのか、オレにはちょっとわからない。が、それなりに、総なってしまった必然もあったのかもしれない。

 仏教は欲望の構造そのものを問う。「なぜ富を追うのか?」という問いはそもそも欲望の発生メカニズムそのものに直結している。

 仏教で人間の苦しみの根本とされる「三毒」の一つが貪(とん)、つまり「むさぼり」を指し、貪欲は「あるもの」に満足せず、「ないもの」に心を奪われ続ける状態をさす。一度手に入れても、それが「常にある」ことへの執着が生まれ、不安になり、もっと欲するというわけだ。
 が、富があっても、それが自分自身を永続的に守るものではないことに気づくと、執着の力は弱まる。
 すべては移ろい(無常)であり、自我や所有という観念も、実は「空(くう)」だと理解することが解脱につながるとしている。
 一方、富への欲望は「無明」(無知)から来る。仏教では、執着の根にあるのは「ものごとの本質が見えていない状態」であり、富に救いを求めることそのものが、「苦しみを増やす行為」だと説く。

 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、「本当の富」とは物質ではなく、神(アッラー)との合一・帰依にあるとされているそうな。なんか人類補完計画を思い出すな。

 この世の富は仮象であり、神の創造の一部ではあるが、人を真の愛から逸らすものでもあるとする。富に執着することは、魂の純粋な欲望を低次の欲望にすり替える行為なんだそうだ。

 スーフィー詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーは「人は神を求めるが、それは神がまず人を愛したからだ」と言っている。人が富や名誉を求めるのは、本当は「永遠に愛されたい」という願いの歪んだ表現なのだとのことだ。

 スーフィズムの目標は「自己を神に明け渡し、溶ける(ファナー)」ことであり、富を追う者は、まだ「自我」の檻の中にいることなのだ、とのことだ。

 以上の事は、そこまでお金に執着しなくてもいいんじゃない? と、特に使いきれないお金持ちに対して、よく言いたくなる時に、では、どういうこころもちでいればいいのか?ということに対する仮説を並べたものであるが、烏滸がましいのは承知の上。
 彼らがこのような言葉にこれまで出会えていなかったということも大いにありうるのだろうが、いずれにしろ、遠ざけるような社会であることは間違いなく、そこを問題にするべきなんだろう。

 現代の思想家はどうか?
 ここでは、マイケル・サンデルアマルティア・センをあげておく。それぞれ「経済」、「社会」、「正義」や「自由」という言葉をめぐって異なるアプローチをとっているが、どちらも「リベラルな個人主義」だけに頼らない、人間の在り方を考えようとしているようにみえる。

マイケル・サンデル

 代表作が、『これからの「正義」の話をしよう』『リベラリズムと正義の限界』書店とかで表紙見たことない? あ、書店いってない?そうですか・・・。
 サンデルは、「正義=中立な原則に基づくもの」と考えるリベラリズム(ロールズなど)に批判的だ。ロールズは:正義とは、「無知のヴェール」の下で、誰もが同意できる原則(例:平等、公正)に基づくべきものとしている。が、サンデルは「人間は“空っぽの自己”ではない」とその前提を否定する。個人の価値観や共同体との関係を無視して、中立な立場から「正義」を語ることはできないのではないか、と。「私たちは、所属している共同体や歴史、関係性の中で定義される」
 、つまり、「正義」とは共同体的な価値や徳と切り離せない、とのことだ。
 サンデルが批判するのは、**「自由=選択の自由」**という考え方だ。彼が問うのは、自由とは「何でも自分で選べる」ことなのか?あるいは、「善き人生」や「良い社会」を共同で追求する力なのか?という点だ。
 お分かりだとは思うが、サンデルは後者を重視する。「自由」もまた道徳的な議論から切り離せない。となれば、やはり過度な富の集積はかれにとってはあってはならないことになる。


アマルティア・セン

 代表作は『自由と経済開発』『不平等の再検討』『正義のアイデア』

 センは、ロールズのような「理想的な制度設計」よりも、「現実に人々がどれだけ苦しんでいるか」に注目する。「正義ある社会」とは何か、を完璧に定義するよりも、現実の不正を一つずつ取り除くことこそが、正義への道だと説いている。「実際に人々がどう暮らしているかを見よ」とか 「それが改善されるなら、それは正義に近づいている」みたいなことを言ってるわけだ。

 自由こそ、アマルティア・センにとって、非常に重要な概念である。キーワードは:ケイパビリティ(能力)。 「人間が、自分の価値ある行動や生き方を実際に選び取る力」とする。
 つまり、自由とはただ「法律的に何かが許されている」ことではなく、教育を受けられるか?であったり、医療を受けられるか?であったり、女性が自立して生きられるか?というような実質的な選択肢の存在が大切だと主張する。そして貧困とは「お金がない」ことではなく、 「選択の自由が奪われている状態」である、としている。

  サンデルとセンはそれぞれ、“自由や正義の意味そのものを問い直す”ことから出発している。

「自由とは、ただ選べることではない」

「正義とは、抽象的な原則ではなく、今目の前にある苦しみへの応答だ」

「個人の成長」や「企業の成長」が本当に自由を広げているのか、よくよく見直す必要がある

といったところだろうか。
 もう少し続けよう。
 ある一定以上の富を得た人が、自らその“富を集める仕組み”を手放すことはないのか?  実際、ビル・ゲイツ氏のように、それを個人の選択として取った人間もいるにはいる。しかし、それは極めて例外的だ。なぜ一般化しないのか。


1. 富の「閾値」は主観的で、常に上方修正される。
 たとえば、「10億円持っていれば一生安心」と思っていた人も、 「じゃあ、次世代にも必要」「世界進出にはもっと要る」となり、“富の閾値”が拡張されていく傾向がある。 “これで充分”と感じる基準が、周囲の競争・恐れ・野心によって変わってしまうのだろう。


2. 集積手段の委譲=力の喪失とみなされる。
 ビジネスにおける富の集積は、単なる利益ではなく、情報・影響力・支配力の集積でもあるのだろう。それを手放すことは、しばしば「自分が世界に影響できる力を放棄する」ことと同義に見えるのかもしれない。
 則ち、「集めるのをやめる」ということは「死ぬのと似た恐怖」になってしまう。

3. 自己と組織の境界が曖昧になるということはあるかもしれない。たとえば、Amazonのジェフ・ベゾス氏や、Metaのザッカーバーグ氏のような創業者CEOたちは、自分自身が企業と一体化している。会社の価値が上がることが自分の価値が上がることであり、言い換えれば、富は、自分個人というより、「自分の創造物の成功の証明」と考えているのかもしれない。だとすれば、「富の集積手段を委譲する=自分の生きてきた意味を否定する」ように感じられる、という事も有り得るだろう。一部には、実際に「委譲」を選んだ例もある。


 例外としては、ビル・ゲイツ氏やウォーレン・バフェット氏のほか、チャック・フィーニー氏(免税店創業者)という方がおいでなんだそうだ。ほぼ全財産(80億ドル)を慈善活動に使い果たし、2020年に活動を終えたという。
 しかしながら、これらは極めて稀な「倫理的な実験」であり、制度でもなければ、大衆的文化でもない、例外中の例外である。


 乱暴ではあるが、敢えて制度を作るなら、以下のようなことが考えられなくもない。
 
 収益上限制を設定し、一定額以上の収益は自動で共有基金へ、という仕組みを作る。が、現在の経済社会の大多数とは間違いなく衝突することだろう。
 巨額の資産を子孫に丸ごと渡せない富の相続上限制を設ける。これも政治的に相当紛糾するだろうな。 
 一定規模を超える企業は自動的に共同所有へ、って、いやいや、相当法律のアクロバティックな運用をしないと無理でっせ。

 結局、「自由」と「私有権」の再定義を迫るものしか思いつかぬ。実現には“社会全体の価値観の転換”、倫理的・哲学的な成熟が必要なんだろうな。


 これを書いているときに、あくまで噂、だが、それなりに信ぴょう性があるらしい筋の話として、イーロン・マスクが薬物依存症であるとの話を読んだ。薬に頼らなきゃいけないくらいに、お金持ちも大変で、とても幸せそうには見えない。これは貧乏人の僻みも入っているのかもしれないが、薬物依存症が本当だとしたら、それでも、富の集積を止めようとしない、人間って何なんだろうな? と思う。

2025年6月29日日曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム?1富の偏在の現状

  アンパンマンについて、何やらごちゃごちゃ書いたが、アンパンマンの事について、今更気が行ってしまったのは、丁度オレが、今のこの世の何とも言えない行き詰まり感を何とか出来る鍵が「贈与」にあるように思い、それについていろいろ読んだり考察したりしていた所為がある、と言うようなことは書いた。

 そこに至る過程を、開陳したいと思う。




 聞いたことあるでしょ? 日本のみならず、全世界を通して富というのは、ちょっと想像を絶するくらいに偏在しているということを。怒りを覚えたり、怒りすらわかず呆れたり、あまりの偏り具合に多分フィクションの類のものだろうと興味を失ったり。んで、ちらっと、ホントちらっとだけ思ったはずだ。どうせそんな馬鹿みたいに金持ってても使いきれないんだろうから、ビンボーなやつにまわしてやれよ、と。そこまで思って、その話題は意識からそれていった、ということが多いのではないか? だって、そんなのは自分の今の暮らし向きとは全然世界が違う。自分が興味を持つべきところは他にあるはずだと。

 あの話、正確なところはどういう数字だったか思い出してみる。


 現在、世界の富の不均衡を示す代表的な統計として、次のような事実がある。

  • 世界の最富裕層1%が、世界全体の富の47.5%を保有している
    UBSの「Global Wealth Report 2024」によれば、2023年時点で、資産100万ドル以上を持つ上位1%の人々が、世界の総資産の47.5%(約214兆ドル)を所有しています。 Inequality.org

  • 最富裕層1%が、世界の下位95%の人々よりも多くの富を保有している
    Oxfamの分析によると、世界の最富裕層1%は、世界人口の下位95%を合わせたよりも多くの富を所有しています。 Oxfam International

 100人いたとして、その内の一人だけが超金持ちで、ありえない話だが、そこに100万円あったとしたら、その内47万5千円をその金持ちが持っている。残りの99人の平均所持金が5300円ちょっと、という世界。
 または、金持ちの上から5人で、51万円、上でその内47万5千円は1番金持ちが持っているのだから、2番目から5番目までの4人で平均8750円持っていて、後の95人は平均5160円も持っていない世界、ということだ。
 為替とか何とかあるから、そこまで単純な話ではないのだろうが、ぶっちゃければそう言う意味である。

 この99人なり、95人の中でも内訳はいろいろあって、それでも何とか衣食住にありつけている人もいれば、文字通りの素寒貧、食うものもない人だって多数いるということに思いあたるべきだ。
 これらの統計は、世界の富がごく少数の超富裕層に集中していることを示していて、経済的不平等の深刻さを物語っている。この偏りがよりによって平均5000円ちょっとしか持たない者から、今もなお絶賛吸い上げ中という仕組みの上で出来上がっていることだからだ。

 このような不均衡を是正するために、国際的な課税制度の整備や富裕層への課税強化などの議論が進められているらしいが。


 先ごろ、自分の死後という時期を、その偏りの深刻さに2030年への前倒しを決めて、全資産を寄付するとビル・ゲイツ氏が表明したことがニュースになっていたが、ゲイツ氏とウォーレン・バフェット氏が極めて例外的で、他にそう言う話は、ほとんど聞かない。
 そのような富など、一生どころか、孫くらいまでも使いきれないと思うのだが、なぜ、そのような富を分配するとか考えないのだろう。思考とか論理ってどんなものなのだろう?
 これは、経済的な欲望以上に、人間の心理、社会的地位、そして世界のシステムそのものに根ざしたものではないかと思う。いくつかの観点から考えてみる。

1. 「限界効用」ではなく、「相対的地位」がモチベーションになる。

 普通は、富の「限界効用」(お金が増えるほど嬉しさが減っていく)によって、ある程度で満足するのが自然じゃないかと思ってしまうが、そうじゃないらしい。超富裕層の多くは「他人より上かどうか」が価値の指標になっていて、富そのものが「ゲームのスコア」のような感覚になっているんじゃないかと感じられる。つまり「誰よりも多く持っていたい」「ランキングを下げたくない」、ってことか?


2. 資本主義の仕組みに最適化された思考

 資本主義社会というのは、資本(株・不動産・事業など)を持つ人は持たざる者よりも指数関数的に富が増える設計だ。逆に言うと、「持っている者がさらに持つ」ことが自然な帰結となるため、富を再分配するのは“非効率”と見なされがち、となる。


3. 「トリクルダウン理論」への信仰

 一部の富裕層や経済学者は、「富裕層が豊かになることで投資や雇用が増え、貧困層にも恩恵が波及する」と信じているらしい(いわゆるトリクルダウン)。実際にはその効果は証明されておらず、寧ろ、近年は否定的な見解が主流。それでも“自分の富は社会のためになっている”という正当化がされているようだ。


4. 不安と自己正当化

 この社会は「いつか崩れるかもしれない」「失うかもしれない」という恐怖から、“もっと備えておくべき”という心理も働くのだろう。オレもそうするかもしれない。また、「自分は努力して勝ち取った」「社会に貢献した」という自負が、再分配に対する反感につながることもあるかもね。

5.エラくなりたいんだよ、誰ぞやみたいに。富は単なる個人の贅沢の手段だけではなく、「政治的影響力」や「文化的支配力」にも直結するから。つまり 富が「支配手段」になる。そう言う向きには、慈善や再分配は、力を手放す行為とみなされ、むしろ抵抗を生むこともあるだろう。

6. ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットそれでも寄付や再分配を考える人もいる。「ギビング・プレッジ」っていうらしいけれど。問題は、それも「国家による強制」ではなく、“自分のコントロール下で行う”再分配であるという点にある。制度としてはそんなものはどこにも存在していない、という事だ。

2024年8月11日日曜日

NT0078 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2

 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2


 要するに、非モテのハッカー達が開発し、すがったPUA=Pick Up Art=恋愛工学に基づいたナンパ術、は破綻したというのが、第一章の後半の話。

 前回、オレが「女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか?」と記述したことは、橘氏に


 女の脳も「生き延びること(Survive)」と「子孫を残すこと(Replicate)」という「SR価値」を最大化するよう進化したはずだ」


 と言い変えられているが、そこにつけこむのがPUAの肝だったんだそうだ。要は自分がSR価値を満たすことが出来る相手だと誤認させるのだと。


 さて、この「恋愛工学」的な言葉。「金融工学」もそう。一義的というか元来というか工学という言葉がさすものとはなじまないものに「工学」という言葉をつける料簡。可能な限り広く詳細に数値データ化し目に見える機構として物事をとらえそれに対しアクション、入力をしていく、という考え方なんだろう。それがクールと、特に若い奴は考えがちだ。

 ところが、これにどうしても入りきらないパラメーターが人間の精神ってやつで、結局のところPUAはそこをカバーできなかった。と。


 この度は、〇〇工学なんて名乗ってイキってはみたものの遭えなく破綻してしまった。一重に浅薄だったというしかないが、これは、長い歴史で、宗教や哲学が取り組んできたテーマだったんじゃないか? 則ち、一軒複雑怪奇なこの世と自分の精神の神羅万象をどう言う枠組みでとらえていくのか?答えはひとつではなく、極端な話、人数分だけ答えが在ったりする。


 なぜ、〇〇工学をクールと思い、そこに引き寄せられようとするのか?

 恋愛に関していえば、どの時代にも姿を変えて、何やらどこか湿ったフォークロアが存在し、通俗文学やテレビドラマ、映画に姿を変えて世に姿を現す。それに救われる、指針をもらう者もそれなりの数いるだろうが、どうしたって救われず、その湿り具合を嫌悪を持つものには、〇〇工学という言葉の響き、たたずまい、魅力的に考えるのだろう。


2024年4月27日土曜日

NT0057 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲

  岡田斗司夫氏に教えられるまでもなく、橘玲氏の書くものには、一定の共感というか、目から鱗というか、うん、尤もだ、がありまくりで、こういう物書きを知るというのも、20年に1回ぐらいじゃないかしら、と思うが、あまり持ち上げてもしょうがないか。


 最初に意識の中に入ってきたのは、彼のリベラルに対する深い失望を書いた文章だったように思う。決して、ネトウヨ的保守主義者ではなく、寧ろの反対の立ち位置に居たいのに、どうにもダメ~な奴しか、その界隈には見当たらない、的な文章だったように思う。オレは誠にそうだと膝を叩いた。ぽ~ん!と。



 さて不摂生でこの身にまとわりついた脂肪はいろいろ不都合を引き起こし、可及的速やかに、しかし無理をせず、取り除かねばならないわけで、GW初日だ。しゃこしゃこと部屋でエアロバイクを漕いでるわけなんだが、そのお供として、講談社現代新書の橘氏の「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」。


 うん。ディストピア。社会としてこの絶望的な状況を何とか出来る処方なんてないのだ、というのが橘氏の主張。だから何をしてもいい、というわけではなく、完全に諦めたわけではなく、現状認識としてそれはそれ、何か出来ることはないだろうか? 方向を探すために思考して、その中で生まれ出てくる、氏の著作群と捉えている。

 ならば、この状況で個は如何に動くか?、動くべきか? そういうことなのだろうか? タイトルだけを見て、そのように想像した。


 しゃこしゃこしゃこ。


 第1章は、非モテが如何に超絶ナンパ師になるか?という話。これはオレが何十年前から思っていたことだが、要するにだ。女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか? ということだが、これは、この分中にも書いてある通り、生物は遺伝子の乗り物である、という何十年前に聞いた説のオレなりの解釈以上のものではない。

 偶にこの基準が壊れた女の人の話も聞く。ダメンズとか。でも、まぁ、それは、次善に次善を重ねるうちに、基準が歪んでいったということで、そういうことで、少なくとも自分の当座の精神の安定は得られる、そういう選択と考えられないこともない。

 或いは、お眼鏡に叶う相手がいなければ、おひとりさまという選択もある。これは遺伝子の保存というよりは、個の安定が優越してしまった結果なんだろう。何はともあれ遺伝子の保存、という事ではないらしい。

 そういう基準、その為の行動原理を突いてやれば、ナンパもし放題、そういう男の話であるらしい、第一章。


 ちょっと思うことが増えたので、本はそこで閉じた。物思いに深けながら、汗かきつつペダルを動かすのであった。


 しゃこしゃこしゃこ。

2024年4月26日金曜日

NT0052~0055 次の大地震1 わが身に起こったことから始める

  何も元旦から来なくていいだろ、大地震、というようなこと、これで2度目?3度目? 文章にして打っている。そんな、何もこの日じゃなくたって、というやつが、よりによってわが身を掠って行った。

 自覚的に180度方向転換する、なんていうこともないのだけれど、この地震が、ひとつ、変る節目になるんじゃないかという予感がある。自分自身も、この社会も、だ。

 いろいろもやもやッと浮かんでは、消えずに何か堆積していってて、わが思考ながらウザい。でも、なぜ消えないかと言うと、それなりに大事なことなんじゃないかと、何処かで考えているからだ。


 いきなり、な、突拍子もなく政治、社会、経済、天下国家の転換を説いても、我ながら、あ~、はいはい、だし、かと言って今後一切そんなことを表に出さないつもりもまたなく、っていうか今じゃないが近いうちになんか言うつもり満々なんだが、綺麗に論理だてて申し上げることはひょっとしたら、っていうか、多分出来ない。せめて、自分の中の或る思考から、関連ある形で連ねるように考えていきたい。


 まずは、これ1月4日にもこの内容の事を書いたんだが、起点はやはりというか、我が身、という事にしたい。


 2024年、令和6年の元旦の夕方、オレは何をしていたかと言えば、中途半端に増えて壁に陳列しきれなくなったミニカーのコレクションを並べる棚の増設の工作をやっていた。

 今更、正月が特別めでたく感じるようなことも、正直言って無く。これで、子供や孫がいればかなり違っていたのかもしれない。老いた両親にはついに孫を抱かせてあげられなかった。毎度忸怩たる思いが胸を衝くが、まぁ、今更何を言っても仕方ない。そろそろ相当弱った両親を気遣い、西宮の妹が月一で帰ってきている。正月は正月だが、正月の帰省という感じは少々薄い。

 テレビも、昔、子供の頃は正月は特別感を感じられるものだったが、そんな感じも今や全くない。そもそも、食事の時にニュースを見る以外、テレビ何か観ない。あ、そうそう昨晩の紅白歌合戦、あとでYOUTUBEでyoasobiの「アイドル」の分だけ視聴したが、まぁ、日本のアイドル、韓国のアイドルがそろって、にぎにぎしく踊るという演出で、うん、最後の結果発表だけ見たんだけど、紅組勝利、ここまで昔の紅白の終盤を思わせるような盛り上がりがあれば、紅組勝つよな、と、まぁ、アンチ韓流からの批判はあったものの、よかったんじゃね?という感じで。

 閑話休題

 4時過ぎだ。確かサッカーの日本代表がタイと親善試合をしているはずで、1階の居間で両親と妹がぼーっとそれを見ているはずだ。子供部屋おじさんたるオレはそんなわけ2階の自室でネット覗きながら工作なんぞ。


 揺れた。まぁ、珍しいことではないが、少々いつもよりは大きかった。ネットで地震速報を確認し、ネットからツイッターに書き込もうとした瞬間、


 超デカいの来ました。今までにないくらい。机の下なんかに潜れない。本棚が倒れてきたら詰む。本当はやっちゃいけない対処だが、立ち上がり近くの本棚を抑えた。そんなわけで抑えた本棚からはそうでもなかったが、その他の本棚から、雪崩のように本が落ちる。たちまち膝上まで本に埋まった。

 東日本大震災の時に撮影された映像で、物に埋まりドアが開けられなくなり逃げられなくなって途方に暮れた、という内容の物があった。それを思い出し恐怖もしたが、やがて揺れは収まる。

 そのころには、うわぁ、これの片づけめんどくせぇ~、なんて思うようになっていた。

 そうこうしていると、これだけ揺れて1階に降りてこないオレの様子を見に妹が上がってきた。「あ、今行くから」と、言って、オレは脚を本の山から引き抜き、下に降りて、テレビを見た。さすがに地震速報をやっていた。これだけの揺れだものな。珠洲なんだそうだ、街並みと海岸を交互に映していたが、女性のアナウンサーが「津波警報です!」と絶叫した。


 当地、富山県で事前に想定されていた津波というのは、砺波平野頭部~呉羽断層の北東側の延長線上、日方江沖5キロが波の起点の物で、波高が最大5m。海岸線より8キロ以上離れている我が家にまで津波は来ることはないと、ハザードマップには書いてある。


 と、


 「大津波警報です!!」アナウンサーの声がひっくり返るくらいに更に切迫した声が更に切り替わる。津波警報で3m、大津波で5m。ハザードマップを信じるなら慌てることはない。のだが、のほほんとしてちゃダメなんじゃないかと考えたりもする。それくらいアナウンサー氏の声は切迫したものだった。


 車を止めてある場所の隣りがボロ屋で、倒壊したらオレの車も廃車である。外に出てそんなことはなかったことを確かめて、テレビではアナウンサー氏のほかに解説委員の人もしゃべっていて、「津波タワーに避難して・・・」なんて言ってるが、この辺、そういうものはないんだよ、と思いながら、二階に戻る。


 さ、オレはどうしよ? 途方に暮れる。PCもケータイも本に埋まっているのだが、会社からBCPの所在確認メールが来るはずで、それに答えなきゃいけない。まずはケータイの発掘かぁ・・・、気が遠くなるような気がした。まぁ、ね、家が倒壊した、その下敷きになった、津波で家が流された、という方々から比べたら、屁みたいなものだが。



 この地震で建物が壊れてしまった、全壊、半壊、様々なんだろうが、印象として、直接的に揺れによって破壊した家屋と、液状化によって地盤が変位したために壊れてしまった家屋に大きく分けられるような気がする。あと、津波によって、というものもあるか。

 とくに強い揺れに見舞われた地域、輪島市、珠洲市、能登町、志賀町、穴水町。完全に倒壊、倒壊しなくても全壊認定の家屋と、水道などのインフラが破壊されて不便はあるもののこのまま住み続けられるであろう家屋の違い。

 誤謬があれば正していくとして、これはこの期間、主にネットではあるが得た知識から言わせていただく。


 建物の耐震基準というものがあり、制定された年度により、3種に分けられるようだ。


 〇1981年度以前

 〇1982年から1999年まで

 〇2000年以降


 この3種で今回の地震、明らかに倒壊率に差が出たようでである。これから新築する分には自動的問答無用に2000年以降の基準が適用されるから良いとして、それ以前の家屋、我が家など竣工が1971年であるから、震度6の地震があったら一発だ。

 何が違うか。どうするか。この辺ちゃんと構造計算のできる建築士に確かめた方がいいが、ネットで得た知識として


 〇柱と梁の接続が切れないようにする。

 〇水平方向の力がかかってもゆがんだりたわんだりしないようにする


 こういったことが、2000年基準に盛り込まれているらしい。梁と柱、ほぞのみでつないでいるならば接続金具で補強するとか、可能な場、柱と柱の間に筋交いを入れるとか、そういう補強だ。

 あと、壁量。窓、開口部が多いとそこが弱くなる、という事らしい。


 阪神淡路大震災、東日本大震災、まだある、中越地震、熊本地震、胆振地震。度あるごとに耐震補強の重要性は説かれてきたが、特にこの地方、耐震化はなかなか進まなかった。



 土砂災害について。直接的に家屋が巻き込まれたというものもあった。発災直後、輪島市一ノ瀬で撮影された土石流のごとき地すべりの動画が広まった。幸いこの画像で土砂に巻き込まれた家屋の住人は避難していたようであるが、穴水では奥さんの実家に帰省していたまだ若い警察官の方、奥さんと3人の子供が裏の土砂が崩れたものに家屋が倒され家族を一瞬で亡くしてしまった悲劇とか他にもいろいろあったようだ。


 地震じゃなくても豪雨災害の土石流で同様のことが何やらこの何年か毎年起きている。


 家屋倒壊も人命に直接的に危険に晒すけれど、今回道路損壊も深刻であるという印象を持った。もともと奥能登の道路事情に対し道路の本数、舗装強度ともに貧弱なのではないかと感じていた。のと里山海道という高規格道路に区分されているようだが、地震や台風豪雨のたびにどこか崩れているような印象があるのだ。

2023年9月18日月曜日

NT0033,0034 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 3

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 またしても、古く据えた臭いをはなつようなダメな権力社会構造(のひとつ)は、外圧にしよってしか変わらなかった、と思ってしまうと、わずかに憂鬱な気分になるが、切実に何かを変えたいとき、もう、この国の野党的なものは全くあてにできない現状に、外圧を動かすという選択肢をとる者も現れてもおかしくないのではないか、と、ふと思った。


 そういえば、と、考える。なぜ、アメリカ系のメディアではない、イギリスのBBCだったんだろう? アメリカにはジャニーズは強いコネクションがあると聞いたことがある。喜多川擴自身アメリカに住んでいたこともあるそうだ。となれば、そこのメディア関係者を相手にしていたら、「計画」が漏れてしまう、そう考えたか?


 まだまだ、今までのこの方面の動きとは結構違う事があったことに気づく。


 イギリスメディアであったが、外国メディアであったからこそ、一連の喜多川擴性加虐疑惑が都市伝説レベルの信ぴょう性から一気に真実味を加えることに成功した。外国のメディアという事もあったかもしれないが、日本のメディアであっても断言する(当然裏付けをしっかりとって)ということが大事ということが分かる。

 黙殺はできない。SNSでの拡散。この段階ではしかし日本のメディアは反応しないが、外国人記者クラブで被害者が会見を行う。そろそろ日本のメディアも無視できない状況になる。

 そして日本記者クラブでの会見。


 注目するのは、これらの記者会見で、被害者が、揃いの印象の標準的なスーツにネクタイで登場していること。例えば北公次氏などわずかに残るインタビュー記事等を見るに、如何にも芸能人っぽいというか、要するにチャラい格好でインタビューを受けている。一般に向けて何かを訴えたいとき、どちらの格好の人の言葉がより受け取りやすいか?


 これらが、結構短期間に電撃的に行われたこと。

 時間があれば、ネットの書き込み仕出し何かを利用したジャニーズ側の反撃もあったことだろう。無くはなかったが、組織化され、確実にヘッドクオーターがいるような感じで、結構な数のしかし無駄がない反撃というのが未だなされていない。喜多川擴は目先が利いた人であったようであるから、存命だったら、事が起こる前から、そういう事への準備もやっていたかもしれないが、


 よりによって、2023年のこの時期である。中枢にいたはずの滝沢何とか君が抜けるなど離脱が相次ぎ、ジャニーズ事務所は内部の引き締めに手一杯で、BBCの報道から始まるこの動きに反応しきれなかった。ネットの書き込み仕出しの用意もままならなかった。


 まるで何かの実験、検証を見ているような気分である。


 安倍晋三の、知っている人は知っていた統一教会とのずぶずぶ、というのと、喜多川擴の性加虐、知っている人は知っていたが、多くの場合都市伝説レベルのたわごとと捉えられていたり、そもそも知らなかったりというところで、相似である。


 安倍晋三と統一教会のつながり、初期には、これまであったファクトを並べるだけで、かなり追い詰めることができたが、やがて統一教会という一つの団体であるから組織だった、それに付随する形でネトウヨ、ネット仕出しによる反撃が始まる。論点をずらす、安倍晋三の功績を称えるというやり方。統一教会の事は正面から反論しない。

 一方追い落とそうとする側、これまでの統一教会の所業という手札、数はあったが、それだけ。組織だった戦略も何もない。個々が得意げにそれを披露していただけ。やがて、統一教会の追い落としから、被害者、二世信者の救済の方に論点がずらされていき、野党が国会でそれを持ち出した時点で、あ、負けたな、と思った。実際国葬何ていうものをまんまとされて、負けは確定した。


 あの時俺と同じように感じていた人がいて、あの時の失敗、こうしたらよかったんじゃないか? なんて考えたりして。そういう人物が今回の事を、これから何かをする為の実験なのか、自分なりに何かの落とし前をつけたいのか、それは分からないが、実際にそういう人物がいたのだとしたら、心から「お見事!」と言わせていただくことにする。

 ま、この先どうなるかはわからないがね。以前のように何もなかったように、ジャニーズ事務所が復活してしまう可能性も、まだ十分ある。

 



NT0031,0032 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 2

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 オレがこの問題についてジャニーズ事務所や被害者をさておき、一番問題視し糾弾されるべきのはマスメディアであると考えている。


 彼らのスタンダードでは、これが後ろ盾が特になければ頂点にいる芸能人であっても、覚せい剤や不倫と言った醜聞があれば徹底的に叩く。2,3か月、連日その報道をして芸能人として再起不能まで追い込むはずのところだ。

 喜多川擴(ひろむ)は、芸能人でこそなかったが、芸能界で最も影響力のある人物であり、その人物の性犯罪が裁判所で事実であると認定されたならば、芸能界は天地がひっくり返る。


 2003年の東京高裁での文春との名誉棄損を争った裁判で、文春の主張する未成年タレントへの性加虐が事実と認定され、翌年最高裁への上告が棄却されて確定する。民事裁判であり刑事裁判ではない。被害者が訴えれば刑事事件になり得たのかもしれない。そう望んだ被害者もいたのかもしれないが圧力がかかり出来なかったのかもしれない。一切が分からない。

 何しろ、これを伝えたのは、大手メディアでは新聞のベタ記事のみ。テレビは一切報じなかった。あれ程の影響力、権力を持った人物の所業を、である。


 まぁ、ジャニーズ事務所がタレントの出演決定権を盾に、メディアをコントロールしていたのは有名話ではあるが、他にもメディアへの圧力のかけ方は幾通りもあったことだろう。しかし容易にそれに屈してしまった、その過程を明らかにし、関係者が全て偽りのない証言をし、「再発防止策」が本当に必要なのは、ジャニーズ事務所ではなく、マスメディアではなかろうか?


 戦争の時のメディアの挙動について、それほど詳しいわけではないが、権力に付和雷同というのが、当時の挙動そのままという言を見たことがある。だとしたら、当事者ではないオレにとっては、変態爺の性犯罪よりも余程深刻な問題である気がしてしかたない。


 仮に、2003年時点、一社一局の現場でジャニーズに反旗を振りかざすことを決めたとする。理は我にある、というのが大きな強味。しかし、ジャニタレは一斉に引き上げられてしまう。視聴率は下がるが、このころ、ボチボチ聞かれるようになっていたコンプライアンスという言葉、CMのクライアントはどうするか? 2005年から2020年までネスレの社長をなさっていた高岡浩三氏は、喜多川擴の性癖について知っていて、社長在任中はCMには決してジャニタレを起用することはなかったというが、他の企業ならばどうしたことだろう?

 いや世論がジャニーズに対してどんなスタンスをとったことだろうか? 好ましくないまでも、許容してしまうのか? 今ほど厳しく当たることはなかったか? 企業のCMもそれによるだろう。


 それが男子であっても未成年性虐待絶対ダメ、という規範が強くなった今でこそ、野火のようにジャニーズ批判は広まったが、2003年当時判断を保留しなくてはいけないということが多々あったように思う。そして、この判断保留でできた時間の空白に、ジャニーズ側の反撃がある。あらゆる場面で自己アピールをしてきたことだろう。それで、まぁ、仕方ないんじゃない、そこまで厳しくしなくて良いんじゃない、とぐすぐすになり告発側は負けた可能性が結構ある。単に自分たちだけでもちゃんと報道するというのはだめかもしれない。ちゃんと多局多メディア横断的にキャンペーンを張れなくては。タレント出演決定権はジャニーズにあっても放送権はテレビ局が有している。それはなされなかった。マスメディアの再発防止策を考えるなら、その辺の機構上の問題の洗い出しも必要なのかもしれぬ。


 そ書いていて気が付いた。マスメディアの問題は別として、特にこの時代、判断保留、しかも、それでもちゃんと判断する前提で自分からその為の材料を集めるわけではない、他人の動向を見て自分の身のふりを決める的な判断保留は、社会にとって害毒になり得るのではないか?


NT0028~0030 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 1

  一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し、


1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 喜多川擴の少年に対する性嗜好とそれ起因するトラブルは、今回の事でネットでいろいろ見ていくうちに、ジャニーズ事務所が開設される1965年のほんの少し前に始まり、死ぬ直前の2010年台半ばまで続いたとされる。そんな昔から?! 訴訟で前た後のそんな時期まで?! 驚くよね、さすがにそれは。


 しかし、喜多川爺の性犯罪自体については、ジャニーズのファンでは断じてないこのオレが知っていたくらいのものだから、多く知られている事だと思っていた。実際、被害者の会の告発があった時も、その前のBBCの番組が世に出た時も、「うん、知ってた」という反応がそれなりにあったのだから、そのはずなんだが、思いのほかその数は少ない。ジャニヲタと呼ばれるような女性ファン、熱烈なコアファンから、普通に、ジャニーズの○○クンいいよね、っていってそうなゆるくジャニタレが好きだった層まで、が、しかし、案外このことを知らない。承知しないでファンをやっていたようだ。推しのダークサイドには目を瞑るのが流儀なんだろうか?


 しかし、オレが爺の所業を知ることになった、北公次氏の告発本が出た時も、糾弾されることはなく、芸能界は、普通の社会とは違う流儀で流れているのかもしれない、と、思うようになっていた。


 結果的に、っていうか最初から知っていたけれど、いる場所からしても容姿からしてもジャニタレ達とは別の生き物であるオレだから、爺がオレに覆いかぶさってくる心配など全くない、以上に、別世界の話のような感覚ではあったが、しかし、北公次告発本以前より、薄っすらとジャニーズ事務所とタレントには嫌悪感があった。オレに限らず当時の世の男性、男子の一定割合以上はそうであったように思う。


 片岡義男氏の「夕陽に赤い帆」という短編集だったと思うが、こういうのがあった。

 場所はある晴れた午後の高原の別荘の一室。テレビがついている。が、部屋には誰もいない。

 テレビでは男性アイドルグループのコンサートの生中継で、グループのメンバーは多忙なためヘリコプターで直接ステージに乗り込むという演出。しかしヘリコプターは着陸せず上空でホバリング。そこから、一人一人アイドルグループのメンバーが突き落とされるという話。テレビの中継のアナウンサー以外のセリフは一切ない。最初はそれも演出と思われていたが、がちの殺人シーンに会場はすぐに阿鼻叫喚、というところでその短編は終わっていた。

 アイドルグループとはビートルズのようなバンド系ではなく、ジャニーズのアイドルを思わせるようなそれであった。

 片岡氏にすれば、この短編について訊かれれば、苦笑しながら「若気の至りだった」というのだろうが、まぁ、そうなれば痛快だろうな、と思って書かれたと思って間違いないと思う。斯くの如く、ジャニーズ的なものへ嫌悪というは存在していたはずだ、絶対に。


 嫉妬のようなものより何より、北公次告発本以前、1965年の訴訟沙汰もそれなりに広まっていたことではあったからのようだ。

 おっさん→爺が少年に襲い掛かる絵図を悍ましい、と感じることは不自然ではないはずだ。


 かつてはそれすらとんでもなかったが、今日的基準で言うならば同性愛というもの自体はあり、ということになっている。しかし、それが「未成年に対し」、「非合意、またはパワハラ的状況で」行われたことが、まず直接的に問題視されていることであり、


 延いては、少女たちが熱を上げる陳列された商品が、実は爺の食べ残しであった、という、詐欺ではないのだろうが、芸能事務所として顧客(ファン)に対して極めて不誠実な姿勢を、言葉にはされていないようだが、ネガティブなイメージになっている、そういう事があるに違いない。


 しかし、オレの「許す-許さない」をここにかぶせる気にもなれない。問題が明らかになる前より、彼らが存在していることは、薄っすらイヤだったんだが、ファンの人も多きことだろうし、オレの所のタイムラインにさえ現れてくれなければそれでいいや、と思っていたし、これからもそう。



 喜多川擴が存命でない以上、件の「謝罪会見」もそんなに意味がある用には思えない。他の「謝罪会見」や「国会の証人尋問」と同じように、中身などあるように思えなかったし。


 喜多川擴が存命で、彼の社会的立場がリアルタイムにズタズタになるのを見ることができたならば意味があったかもしれないが、残った小悪党どもが、如何に困ろうが、如何に切り抜けようが・・・、いや、意味がないことはないのか。ある事のケースの研究としてかんさつしていくことは、ひょっとしたら意味があるかもしれない。


 今後ジャニーズ事務所が、消滅しようが、存続し様がどうでもいい。ただ、うちのfacebookやXなどのタイムラインに、オレが視たいなどちっとも思わないもない彼らのどうでもいい日常に関する記事が、並ぶことがなければそれでいい。



 被害者の方々に対しては、そっか、変態爺に掘られちゃったんだね、お気の毒に、以上の事は思えない。精神的苦痛に対する賠償をもとめるとかなんとかについては、まぁ、うまく分捕れたらいいね、とは思っても、特に応援する気も支援する気もなし。


 被害者に名乗り上げた人たちに限らず、ジャニタレに限らず、そして、ファンもそうだけど、本当にあなたたちは、喜多川擴の性嗜好の話や、ジャニーズ事務所の内部の話、知らずにいたのか?

 ジャニタレの皆さん、一生そこにいるのか、程々で独立するのか、引退するのか、先のことなどわからないだろうけれど、若い人生の大事な時間を過ごすところがどんなところか、事前に調べよう、知ろうとしなかったのか? それは親、家族に対しても同様の疑問。


 高尚な表現を目指して行くところじゃないだろう、ジャニーズ事務所は。女の子にモテたい、あわよくば美人芸能人と懇ろになりたいという動機で門を叩いた少年たちがほとんどだと思う。そこで目がくらんでいて、これでは、同情もそれほど湧いてこない。まぁ、残念だったな、の一言ぐらいは行ってあげても良い。


 正直、喜多川擴の性癖が、2004年、裁判で負けても収まっていなかったのが驚きではあるが、その爺も存命でなく、東山紀之氏が実は、何て言う疑惑はあるものの、ここまで騒ぎが大きくなれば、「再発防止策」なんていう「謝罪会見」につきものの常套句等必要であるとは思えない。

 ジャニーズ事務所がつるし上げられている、という事実以外、細かいことは本当にどうでもいい。そして、つるし上げているという事実、誰が、何を求めて、そして、このことがこの社会にどんな影響を及ぼすかが大事であって、本当に事務所も被害者もどうなったってオレとしては構わないのだ。


2023年8月27日日曜日

NT0021、NT0022 読書ノート「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-3 アイデンティティの問題? (加筆再掲)

  「アウトサイダー」という言葉、それ自体が持つ本来の意味から、反体制的なものとの親和性が高いようについ思ってしまう。

 確かに、ある精神がアウトサイドに追いやられるきっかけが、政治から土地の因習まで、広い意味での社会制度であることが多いことが想像できる以上、そういう面は否定できるものではない。が、社会に追いやられたかと言って、その時分を追いやったものと敢然と退治していくかと思えば、とっちらかってそれどころではないのである、アウトサイダーの内面は。


 一つ大きな要素として、アイデンティティというものがあるように思う。自分の精神の芯はどこに寄り添おうとしているのか、なにがよりそってくれるのか。

 体制に寄り添おうとする動きというのは、言い換えれば、存在の、精神の根拠を、生身以外、思想とか政治体制とかに、過激に求めるというのは、では、ツクミやまゆり園の植松某などはどうなのだ? という話になる。体制から距離を置く、沿わないで外側に行く、コリン・ウィルソン的アウトサイダーではないが、あれを決してインサイダーとも言えない。

 とはいえ、では、同じように考えていこう。easyriderのラスト、ビリーを、キャプテンアメリカを散弾銃で撃ったどこにでもいそうなアメリカの普通の農夫は? インサイダーか?アウトサイダーか? 植松某との違いは?


 前者が、脆弱ながらそういうところにいる自分の存在そのものを主張しているのに対し、後者は領域の防衛という意識がそうさせたような気がする。


 本人は限りなく体制側であると思っているようだが、植松某は、コリン・ウィルソン的な意味を離れれば、現在の秩序というものから限りなくアウトサイダーであるが、意識が自分の領域第一というところでの行動という意味でeasyriderのおっさんたちはインサイダーのような気がする。


 植松某においては、この2,30年、時々聞かれるようになった「承認欲求」だっけ? これのあたりを早い時期に拗らせている感じが凄くするのだが、現代において、度々、やや冷笑的に口にされるこの「承認欲求」だが、こうして考えると、ちょっと気を入れて考えていかないと相当深刻な問題だ。本人にとっては、伸るか反るかどころか文字通り生きるか死ぬかの大問題だったりすることが結構ありそうだ。


 そういう事も書いてあったかな? まぁ、追い追いだ。



 若いころのオレが、アウトサイダーという語感に惹かれたのは、どこか覚者のような意味合いを感じていたからであろうかと思う。この辺がいよいよこの本の内容にかかわってくるところである。

 若い子が、いや、大多数がそう感じていないのは、それが妄想であると思っているから、と、平たく言ってしまえばそうなのだが、それは、こっちのある種の熱に侵されていた人間のだらしなさが余計に、そう思わせていたのだろう。


 日本においてはそれは顕著だけど、多分世界的に人類社会というのは退潮局面にある。そこにおいて、そういう社会をどうするかという言及薄くして、「そんなこと」を言っていられる高みの見物的な呑気さというのはいかがなものか? ということにもまして、高じて、極端なものはすでにかなり昔にオウムなんていうものが日本にはあったけれど、どうしても、インサイダーと対置してしまうと、反体制の意味を帯び、やがては醜悪な何かに変化してしまう。インサイダーと対置してしまうということは、つまりはルサンチマンの発露であり、しかし、そこは普遍的にアウトサイダーのテーマではある。




 まぁ、別に「アウトサイダー」の授業ノートを作るつもりはなく、脱線、他人様には意味不明の記述も多くなるだろうが、まぁ、本を開く前の駄言はこの辺にこの辺にしておく。



The word "outsider", from its original meaning, seems to have a high affinity with anti-establishment things.

Certainly, as long as it can be imagined that social systems in a broad sense, from politics to local conventions, often trigger a certain spirit to be pushed to the outside, such an aspect cannot be denied. However, it is not possible to boldly exterminate them by saying that they have been driven out of society at that time. The inner side of the outsider is not a mess.


I think one big factor is the identity. Where is the core of his spirit trying to snuggle up to?

What about the movement to get close to the system, in other words, to radically seek the basis of existence, the spirit, in ideology and political systems, other than the physical body? What about Uematsu at Tsukumi Yamayurien? He is not a Colin Wilson-like outsider who keeps his distance from the system and goes outside without following, but I can't say that he is an insider either.

"Nevertheless, let's think in the same way." The last of easyrider, the run-of-the-mill American farmer who shot Billy and Captain America? "Are you an insider?" Are you an outsider? "What is the difference between Uematsu and a farmer?"


While the former is fragile and asserts his own existence in such a place, the latter seems to have been motivated by the consciousness of defending the territory.


He seems to think that he is infinitely on the side of the system, but Uematsu, if you leave the meaning of Colin Wilson, is an infinite outsider from the current order, but his consciousness is his own domain first. By the way, I feel like the old men of easyrider are like insiders in terms of their actions.


Regarding Uematsu, is it the ``need for approval'' that has been asked from time to time in the last 20-30 years? I have a strong feeling that this is something that has been brooding at an early stage, but in modern times, this "need for approval" is often said somewhat cynically. Otherwise, it's a serious problem. For the person himself, it seems quite likely that it will be a big problem of literally life or death, rather than stretching or curving.


"Did you write something like that?" "Well, I'm chasing after you."



I think the reason I was attracted to the word "outsider" when I was young was because I felt that it had some enlightened meaning. This is where the content of this book comes into play.

Young people, no, the majority of people don't feel that way because they think it's a delusion. Perhaps the sloppiness of a human being made me think that way.


This is remarkable in Japan, but perhaps the world's human society is in a phase of decline. In that case, how about a high spectator's carefreeness that can say "that kind of thing" without mentioning what to do with such a society? To top it all off, Japan already had something called Aum a long time ago, but when confronted with an insider, it takes on an anti-establishment meaning, and eventually it becomes ugly. change into something. Confronting the insider is, in other words, the manifestation of resentment, but that is universally the theme of the outsider.




Well, I don't intend to make "outsider" class notes, and there will probably be a lot of derailment and meaningless descriptions for others, but well, before opening the book, I'll leave the nonsense around here.



Le mot « outsider », de par son sens originel, semble avoir une grande affinité avec les choses contestataires.

Certes, tant que l'on peut imaginer que les systèmes sociaux au sens large, depuis la politique jusqu'aux conventions locales, déclenchent souvent un certain esprit de rejet vers l'extérieur, on ne peut nier un tel aspect. chassés de la société à cette époque.


Je pense qu’un facteur important est l’identité : où est le noyau de son esprit qui essaie de se blottir ?

Qu’en est-il du mouvement de rapprochement avec le système, c’est-à-dire de recherche radicale du fondement de l’existence, l’esprit, dans des idéologies et des systèmes politiques autres que le corps physique ? Qu’en est-il d’Uematsu chez Tsukumi Yamayurien ? Ce n’est pas un Colin Un outsider à la Wilson qui garde ses distances avec le système et sort sans le suivre, mais je ne peux pas non plus dire qu'il est un insider.

"Néanmoins, pensons de la même manière." Le dernier d'Easyrider, le fermier américain ordinaire qui a tiré sur Billy et Captain America ? "Es-tu un insider ?" Etes-tu un outsider ? "Quelle est la différence " entre Uematsu et un agriculteur ?"


Si le premier est fragile et affirme sa propre existence dans un tel lieu, le second semble avoir été motivé par la conscience de défendre le territoire.


Il semble penser qu'il est infiniment du côté du système, mais Uematsu, si l'on s'éloigne du sens de Colin Wilson, est un étranger infini à l'ordre actuel, mais sa conscience est d'abord son propre domaine. d'easyrider sont comme des initiés dans leurs actions.


Concernant Uematsu, est-ce le « besoin d’approbation » qui a été demandé de temps en temps au cours des 20-30 dernières années ? J’ai le fort sentiment que c’est quelque chose qui a été évoqué à un stade précoce, mais dans le monde moderne Parfois, ce "besoin d'approbation" est souvent exprimé de manière quelque peu cynique. Sinon, c'est un problème sérieux. Pour la personne elle-même, il semble très probable que ce sera un gros problème de vie ou de mort, plutôt que d'étirement ou de courbure.


" As-tu écrit quelque chose comme ça ? " " Eh bien, je te cours après. "



Je pense que la raison pour laquelle j'ai été attiré par le mot « étranger » quand j'étais jeune était parce que je sentais qu'il avait une signification éclairée. C'est là que le contenu de ce livre entre en jeu.

Les jeunes, non, la majorité des gens ne ressentent pas cela parce qu'ils pensent que c'est une illusion. Peut-être que la négligence d'un être humain m'a fait penser ainsi.


C'est remarquable au Japon, mais peut-être que la société humaine mondiale est dans une phase de déclin. Dans ce cas, que diriez-vous de l'insouciance d'un spectateur qui peut dire "ce genre de chose" sans dire que faire d'une telle société ? Le Japon avait déjà eu quelque chose qui s'appelait Aum il y a longtemps, mais lorsqu'il est confronté à un initié, cela prend un sens contestataire et finit par devenir laid, la manifestation du ressentiment, mais c'est universellement le thème de l'étranger.




Bon, je n'ai pas l'intention de faire des notes de cours "étrangers", et il y aura probablement beaucoup de déraillements et de descriptions dénuées de sens pour les autres, mais bon, avant d'ouvrir le livre, je laisse les bêtises par ici.



Das Wort „Außenseiter“ scheint in seiner ursprünglichen Bedeutung eine hohe Affinität zu Anti-Establishment-Dingen zu haben.

Solange man sich vorstellen kann, dass soziale Systeme im weitesten Sinne, von der Politik bis hin zu lokalen Konventionen, oft einen bestimmten Geist auslösen, der nach außen gedrängt wird, kann ein solcher Aspekt sicherlich nicht geleugnet werden. Sie können sie ausrotten, indem Sie sagen, dass dies der Fall war wurde damals aus der Gesellschaft vertrieben.


Ich denke, ein wichtiger Faktor ist die Identität. Wo ist der Kern seines Geistes, an den er sich zu schmiegen versucht?

Was ist mit der Bewegung, sich dem System zu nähern, mit anderen Worten, radikal nach der Grundlage der Existenz, dem Geist, in Ideologien und politischen Systemen zu suchen, die nicht der physische Körper sind? Was ist mit Uematsu bei Tsukumi Yamayurien? Er ist kein Colin Wilson-ähnlicher Außenseiter, der Abstand zum System hält und nach draußen geht, ohne ihm zu folgen, aber ich kann auch nicht sagen, dass er ein Insider ist.

„Trotzdem denken wir genauso.“ Das letzte von Easyrider, dem gewöhnlichen amerikanischen Bauern, der Billy und Captain America erschoss? „Sind Sie ein Insider?“ Sind Sie ein Außenseiter? „Was ist der Unterschied?“ „zwischen Uematsu und einem Bauern?“


Während Ersterer fragil ist und seine eigene Existenz an einem solchen Ort behauptet, scheint Letzterer von dem Bewusstsein motiviert gewesen zu sein, das Territorium zu verteidigen.


Er scheint zu denken, dass er unendlich auf der Seite des Systems steht, aber Uematsu ist, wenn man die Bedeutung von Colin Wilson außer Acht lässt, ein unendlicher Außenseiter der gegenwärtigen Ordnung, aber sein Bewusstsein ist zuerst seine eigene Domäne. Fühlen Sie sich wie die alten Männer von easyrider sind in ihrem Handeln wie Insider.


Ist es in Bezug auf Uematsu das „Bedürfnis nach Zustimmung“, das in den letzten 20 bis 30 Jahren von Zeit zu Zeit gefragt wurde? Ich habe das starke Gefühl, dass dies etwas ist, worüber schon in einem frühen Stadium, aber in der heutigen Zeit, nachgedacht wurde Manchmal wird dieses „Bedürfnis nach Zustimmung“ oft etwas zynisch ausgedrückt. Ansonsten handelt es sich um ein ernstes Problem. Für die Person selbst scheint es ziemlich wahrscheinlich, dass es sich um ein großes Problem handelt, bei dem es im wahrsten Sinne des Wortes um Leben oder Tod geht, und nicht um Dehnung oder Biegung.


„Hast du so etwas geschrieben?“ „Nun, ich bin hinter dir her.“



Ich glaube, der Grund, warum ich mich in jungen Jahren zu dem Wort „Außenseiter“ hingezogen fühlte, war, dass ich das Gefühl hatte, dass es eine erleuchtete Bedeutung hatte. Hier kommt der Inhalt dieses Buches ins Spiel.

Junge Leute, nein, die meisten Menschen denken nicht so, weil sie es für eine Täuschung halten. Vielleicht hat mich die Schlamperei eines Menschen dazu gebracht, so zu denken.


Das ist in Japan bemerkenswert, aber vielleicht befindet sich die menschliche Gesellschaft auf der Welt in einer Phase des Niedergangs. Wie wäre es in diesem Fall mit der Unbekümmertheit eines Zuschauers, der „so etwas“ sagen kann, ohne zu erwähnen, was mit einer solchen Gesellschaft zu tun ist? Alles Off, Japan hatte schon vor langer Zeit etwas namens Aum, aber wenn man es mit einem Insider konfrontiert, bekommt es eine Anti-Establishment-Bedeutung und wird schließlich hässlich. Die Manifestation von Ressentiments, aber das ist allgemein das Thema des Outsiders.




Nun ja, ich habe nicht vor, Notizen für „Außenstehende“ zu machen, und es wird wahrscheinlich eine Menge Entgleisungen und bedeutungslose Beschreibungen für andere geben, aber bevor ich das Buch aufschlage, lasse ich den Unsinn hier stehen.



La palabra "forastero", desde su significado original, parece tener una gran afinidad con cosas antisistema.

Ciertamente, mientras se pueda imaginar que los sistemas sociales en un sentido amplio, desde la política hasta las convenciones locales, a menudo desencadenan un cierto espíritu de ser empujados hacia el exterior, no se puede negar tal aspecto de exterminarlos diciendo que han sido expulsados ​​de la sociedad en aquella época.


Creo que un factor importante es la identidad: ¿dónde está tratando de acurrucarse el núcleo de su espíritu?

¿Qué pasa con el movimiento para acercarse al sistema, en otras palabras, para buscar radicalmente la base de la existencia, el espíritu, en la ideología y los sistemas políticos, distintos del cuerpo físico? ¿Qué pasa con Uematsu en Tsukumi Yamayurien? Él no es un Colin. Un outsider tipo Wilson que se mantiene alejado del sistema y sale sin seguirlo, pero tampoco puedo decir que sea un insider.

"Sin embargo, pensemos de la misma manera." ¿El último de Easyrider, el granjero estadounidense común y corriente que disparó a Billy y al Capitán América? "¿Eres un insider?" ¿Eres un outsider? "¿Cuál es la diferencia?" ?" entre Uematsu y un granjero?"


Mientras el primero es frágil y afirma su propia existencia en tal lugar, el segundo parece haber estado motivado por la conciencia de defender el territorio.


Parece pensar que está infinitamente del lado del sistema, pero Uematsu, si dejamos el significado de Colin Wilson, es un infinito ajeno al orden actual, pero su conciencia es su propio dominio primero. Los miembros de easyrider son como insiders en términos de sus acciones.


En cuanto a Uematsu, ¿es la "necesidad de aprobación" lo que se ha planteado de vez en cuando en los últimos 20 o 30 años? Tengo la fuerte sensación de que esto es algo que ha estado inquietante en una etapa temprana, pero en la actualidad A veces, esta "necesidad de aprobación" se dice a menudo con un poco de cinismo. De lo contrario, es un problema grave. Para la persona misma, parece bastante probable que sea un gran problema de vida o muerte, en lugar de estirarse o curvarse.


"¿Escribiste algo así?" "Bueno, te estoy persiguiendo".



Creo que la razón por la que me atrajo la palabra "forastero" cuando era joven fue porque sentí que tenía algún significado ilustrado. Aquí es donde entra en juego el contenido de este libro.

Los jóvenes, no, la mayoría de la gente no se siente así porque piensan que es un engaño, tal vez el descuido de un ser humano me hizo pensar así.


Esto es notable en Japón, pero tal vez la sociedad humana del mundo esté en una fase de declive. En ese caso, ¿qué tal la despreocupación de un gran espectador que puede decir "ese tipo de cosas" sin mencionar qué hacer con esa sociedad? Japón ya tenía algo llamado Aum hace mucho tiempo, pero cuando se enfrenta a un interno, adquiere un significado antisistema y eventualmente se vuelve feo. La manifestación del resentimiento, pero ese es universalmente el tema del externo.




Bueno, no pretendo hacer apuntes de clase "ajenos", y probablemente habrá muchos descarrilamientos y descripciones sin sentido para los demás, pero bueno, antes de abrir el libro, dejaré las tonterías por aquí.



“局外人”這個詞,從其本意來看,似乎與反建制的事物有著很高的親和力。

當然,只要可以想像,廣義的社會制度,從政治到地方習俗,往往會引發某種精神被推到外面,這樣的一面是不可否認的。當時被趕出了社會。


我覺得一個很大的因素就是身份,他想要依偎的精神核心在哪裡?

那麼,接近體制的運動呢?換句話說,就是在意識形態和政治體系中,從根本上尋求存在的基礎,即精神,而不是肉體?那麼津久見山百合園的植鬆呢?他不是科林。威爾遜式的局外人,與體制保持距離,不跟隨就往外走,但我也不能說他是局內人。

“儘管如此,我們還是以同樣的方式思考吧。” 最後的 Easyrider,槍殺了比利和美國隊長的普通美國農民?“你是局內人嗎?”你是局外人嗎?“有什麼區別? ?“植松和農民之間?”


前者是脆弱的,並在這樣的地方主張自己的存在,而後者似乎是出於保衛領土的意識。


他似乎認為自己無限站在系統一邊,但植松,如果離開科林·威爾遜的意思,從當前的秩序來看是一個無限的局外人,但他的意識首先是自己的領域。感覺像老人們一樣Easyrider的行為就像內部人士一樣。


關於植松,是不是近20-30年來時不時被問到的“需要批准”?我有一種強烈的感覺,這是早期一直在醞釀的事情,但在現代有時,這種“需要認可”常常被說得有些憤世嫉俗。否則,這就是一個嚴重的問題。對於他自己來說,這似乎很可能是一個真正的生死存亡的大問題,而不是伸展或彎曲。


“你也寫過這樣的東西嗎?”“嗯,我追你。”



我想我小時候之所以被“局外人”這個詞所吸引,是因為我覺得它有一些啟蒙的意義,這就是這本書的內容髮揮作用的地方。

年輕人,不,大多數人不會有這樣的感覺,因為他們認為這是一種錯覺。也許是人的粗心讓我有這樣的想法。


這在日本已經很了不起了,但或許世界人類社會正處於衰退期。那麼,一個高高在上的旁觀者,可以說“那種事情”而不提如何處理這樣的社會,又如何呢?話說回來,日本很早以前就已經有一個叫做奧姆真理教的東西,但是當它面對內部人士時,它就帶有反建制的意義,最終變得醜陋,是怨恨的表現,但這卻是外部人士普遍的主題。




好吧,我不打算做“局外人”的課堂筆記,很可能會有很多出軌和對其他人來說毫無意義的描述,不過好吧,在開書之前,我先把廢話留在這裡。



Ordet "outsider", från sin ursprungliga betydelse, verkar ha en hög affinitet med anti-etableringar.

Förvisso, så länge man kan föreställa sig att sociala system i vid mening, från politik till lokala konventioner, ofta utlöser en viss anda för att pressas utåt, kan en sådan aspekt inte förnekas, utrota dem genom att säga att de har varit drevs ut ur samhället på den tiden.


Jag tror att en stor faktor är identiteten.Var är kärnan i hans ande som försöker mysa till?

Hur är det med rörelsen för att komma nära systemet, med andra ord att radikalt söka tillvarons grund, andan, i ideologi och politiska system, andra än den fysiska kroppen? Hur är det med Uematsu vid Tsukumi Yamayurien? Han är inte en Colin Wilson-liknande outsider som håller avstånd från systemet och går utanför utan att följa med, men jag kan inte heller säga att han är en insider.

"Ändå, låt oss tänka på samma sätt." Den sista av easyrider, den gängse amerikanska bonden som sköt Billy och Captain America? "Är du en insider?" Är du en outsider? "Vad är skillnaden "mellan Uematsu och en bonde?"


Medan den förra är bräcklig och hävdar sin egen existens på en sådan plats, verkar den senare ha motiverats av medvetandet om att försvara territoriet.


Han verkar tro att han är oändligt på sidan av systemet, men Uematsu, om du lämnar betydelsen av Colin Wilson, är en oändlig outsider från den nuvarande ordningen, men hans medvetande är hans egen domän först. känn dig som gubbarna av easyrider är som insiders när det gäller deras handlingar.


Angående Uematsu, är det ``behovet av godkännande'' som har ställts då och då under de senaste 20-30 åren?Jag har en stark känsla av att detta är något som har grubblat i ett tidigt skede, men i modern tid gånger sägs detta "behov av godkännande" ofta något cyniskt. Annars är det ett allvarligt problem. För personen själv verkar det ganska troligt att det blir ett stort problem med bokstavligen liv eller död, snarare än att sträcka sig eller kröka sig.


”Skrev du något sånt?” ”Jaha, jag jagar efter dig”.



Jag tror att anledningen till att jag attraherades av ordet "outsider" när jag var ung var för att jag kände att det hade någon upplyst mening.Det är här innehållet i den här boken kommer in i bilden.

Unga människor, nej, majoriteten av människor känner inte så för att de tror att det är en vanföreställning, kanske en människas slarv fick mig att tänka så.


Detta är anmärkningsvärt i Japan, men kanske befinner sig världens mänskliga samhälle i en nedgångsfas. Vad sägs i så fall om en hög åskådars sorglöshet som kan säga "sånt där" utan att nämna vad man ska göra med ett sådant samhälle? av, Japan hade redan något som hette Aum för länge sedan, men när det konfronteras med en insider får det en anti-etablissemanget innebörd, och så småningom blir det fult, manifestationen av förbittring, men det är universellt temat för outsidern.




Nja, jag tänker inte göra "utomstående" klassanteckningar, och det blir nog en hel del urspårning och meningslösa beskrivningar för andra, men ja, innan jag öppnar boken ska jag lämna nonsensen här.