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2025年12月15日月曜日

BEVのまやかし

   常々思っていたのは、BEVについて、当初から共通規格のバッテリーカートリッジ式にすれば、給電時間の短縮につながり、BEVの普及にも繋がったと思うが、なぜそうしなかったのだろう? ということだ。


  そこで、いろいろ見聞きしてみたが、要するに、技術・経済・産業構造・政治(標準化)の4点が同時に噛み合わなかったということらしい。


  第一に、技術的な壁があった。電池は「燃料」ではなく「構造材」となっている。

  ガソリンは、中身が同じで、且つ、容器(タンク)と分離可能。だが、BEVのバッテリーは早い段階から、車体剛性の一部(床下に敷き詰める)だったし、重量配分・衝突安全設計と一体だった。冷却・制御・高電圧安全系と密結合しており、つまり、「車の骨格」そのものだった。

  ところが、カートリッジ式にすると、重量は増すわ(交換機構)、剛性は低下するわ、衝突安全性に難が出てくるわ、冷却の標準化が難しいわで、設計上の不利が一気に噴き出してくる。


  二つ目は、電池進化の速さが「共通規格」を殺したのだろう。BEV初期(2010年前後)以降、容量、化学組成(NMC / LFP / NCA etc)、電圧、冷却方式などなどが数年単位で激変している。もし初期に共通規格を決めていたら、技術進化を止めてしまうし、旧規格をいつまでも背負うことにもなってしまう。メーカー側にとっては致命的だった。

  長いことiphone使ってて、ライトニング端子のコード出先で用があるたびに買って無駄にたまったことをなんとなく思い出した。


  経済合理性の問題もある。インフラ側が地獄を見るだろう。バッテリー交換方式は、交換ステーションが、数百〜数千個の電池在庫を抱えることになり劣化管理・所有権管理が必要になってしまう。初期投資が充電器より桁違いに高いということもある。

  実際に、 Better Place(イスラエル)は交換式BEVを本気で展開したが、2013年に破綻している。というのも、電池在庫コストと普及速度が釣り合わなかったからだ。


  そして、誰が主導するのか?産業構造の問題:誰が「規格の主」をやるのか? 共通規格をやるには、トヨタ、VW、テスラ、中国勢が最初から協調する必要がある。面子を見るだけで、あ、無理、と思うのだが、実際、バッテリーは競争力の核心であり、エネルギーマネジメントこそ差別化要素だ。「心臓を共通化しましょう」なんて、誰が従うか? 自動車産業のDNAと真逆だ。


  それでも「一度は正解だった」可能性はある。航続距離が短く、電池が高価で、急速充電が遅かった、2010年前後なら、交換式は「理屈としては」かなり合理的だったはずだ。

  実際、中国では今もタクシー・商用車で交換式が生き残っているし、NIOは現在進行形で交換ステーションを展開している。おそらく、用途限定なら成立しうる。


  現実は、「急速充電」に収束した。結果として業界が選んだのは、車側は自由設計、インフラ側だけを強化、規格は「充電口と通信」に限定、という道だった。これなら、技術進化を阻害しないし、在庫を持たずにすむ。標準化の範囲も最小化できる。



  とは言いながらも、オレは、BEVなど、電池を小さくして格段に軽くしなければ、お題目通りのCO2削減などまやかしだと思っている。ならば小さく軽いバッテリーならばそれに叶うのならば、そうすればいいのに、と、常々思っているのだ。そしてこれは、実際、工学的にも、LCA(ライフサイクルCO₂)でも、あなたの見方は「少数派だが正しい側」 に近いらしい。


  結論を先に言うならば、「重く・でかいBEVでCO₂削減」という物語は、かなりの部分が政治的スローガンであり、本気でCO₂を減らすなら「電池を小さくする設計思想」以外に道はないということだ。


  「重いBEVほど環境にいい」という倒錯は何とかならないか? BEVのSUVって、矛盾を具現化したものがそのへんのこのこ走っているようなものだ。現在のBEVは典型的に、車重が2.0〜2.5トンで、電池が60〜100kWhの重量400〜700kgときている。これは、冷静に見ると「内燃車より材料もエネルギーも多く使っている」。


  LCAで見ると、製造時のCO₂はICEの1.5〜2倍かかり、お題目を達成するには走行距離は再エネ比率が低い国では 10万〜15万km、日本や欧州初期条件だと「そこまで走る前に廃車」 という例も普通に起きうる。


  では、なぜ「小さく軽い電池」に行かないのか? それは、BEVは「電池が小さいほど、商品にならない」構造だから。小さい電池の現実として、航続距離は100〜200km、冬や高速ではさらに半減、急速充電依存度が爆増、ユーザーの不安(レンジアングザエティ)が爆発するなど、メーカーはここで必ずこう判断する。即ち、「理屈より、売れる形を作ろう」。


  結果、より大きい電池を積む→重くなる→さらに電池を積む、という自己増殖ループに入るわけだ。


  本当にCO₂を減らす「正しい解」は何か?


  一つ目は、超軽量・小電池BEV、具体的には、電池容量10〜20kWh、車重:800〜1,000kg、航続:100〜150km、都市・近距離専用の、軽EV、シティコミューター、小型配送車では LCA最優解 になりやすい。


  二つ目はPHEV(小電池)。電池で5〜15kWh、日常はEV走行、長距離はICE。CO₂削減効率だけ見れば、巨大BEVより優秀 なケースが多い。


  三つ目としては、そもそも車を軽くする。車格を縮小し、出力過剰の抑制し、衝突安全「一点張り」設計の見直すことになるが、実はこれら、政治問題。


  なぜ政策は真逆へ行ったのだろう? ここに一番「まやかし」な部分だ。

  政策側の論理として、測りやすいのは「走行時CO₂ゼロ」ということ。製造時CO₂は見ないのだ。車格・重量にも触れない。国民の反発が怖いのか?産業転換を急ぎたいということもあるかもしれない。本質ではなく、数字がきれいに出る所だけを見るのだ。


  実は「小さい電池路線」は何度も潰されてきたらしい。EV1(GM)や、初期i-MiEV、欧州L7e規格:規制がそれにあたる。正しくても、政治と市場が許さなかったらしい。


  誰も『質量』と『エネルギー収支』を真面目に語らない」。工学的には

重い=不利、これは逃げられない真実のはずだ。

  CO₂削減を本気でやるなら、電池は小さく、車は軽くすべきで、然るに、巨大BEVは、政治・産業都合の妥協解として存在する。



  実際、軽のBEVなら乗ってみてもいいのではないかと思っている。遠乗りはできないが。


2025年8月14日木曜日

プレスコードと戦後言論空間の歪み、その継承

 


0.プレスコードという見えない鎖

 敗戦の年、1945年の秋。焦土と化した街に、アメリカ軍のジープが土埃をあげて走る光景があった。空襲で黒焦げになったビルの残骸を背景に、占領軍の兵士たちは軽い口笛を吹きながら通りを歩く。その背後で、日本人は焼け跡に腰をおろし、瓦礫の中から鍋や茶碗を掘り出していた。

「日本は自由になった」——そう新聞は書いた。だが、その紙面の裏側では、まだ知られていない規則が息をひそめていた。
 GHQが日本の新聞社や放送局に配布した「プレスコード(新聞発表用規程)」である。そこには31項目にわたり、報道してはならない事項が並んでいた。占領軍批判、連合国批判、原爆被害の詳細、戦前の戦争責任の追及に触れることも許されない。

 江藤淳は、この時期を「言語空間の占領」と呼んだ。彼は著書『閉ざされた言語空間』でこう述べている。
「占領期の日本人は、自らの母語で、自らの現実を語ることを禁じられた。」
 それは単なる検閲ではなく、思考の土台そのものを組み替える作業だった。


 この「組み替えられた土台」は、占領が終わった後も日本人の中に残った。一見すると自由な言論空間だが、そこには“見えない線引き”が存在する。そして人々は、気づかぬうちにその線を避けて言葉を選ぶようになった。それは現在にも継承されている。どういう訳かノイジ―マイノリティーに弱い報道。

 原爆の被爆者差別は、その典型的な副産物だろう。広島・長崎の惨状は、長く断片的にしか報じられなかった。瓦礫の街でケロイドを負った子供を抱く母の姿も、内部被曝に苦しむ人々の証言も、
 占領下では“国民に見せてはならない”ものとされた。そのため、国民全体の理解が遅れ、やがて「被爆者=不健康で危険な存在」という偏見が根付く。

 西部邁は、晩年の講演でこう語っている。
「言論統制とは、単に言葉を封じることではない。それは人々の沈黙を習慣に変えることだ。」

 プレスコードは、まさに沈黙を習慣化させた。それは、戦後の保守も革新も等しくその上に立ち、思考を育てることになった「見えない鎖」だった。


1.右翼も左翼も、大間違い

 保守であれ革新であれ、政治的立場を持つことは悪くない。むしろ、思想は立場を持ってこそ鍛えられる。
 だが、現代日本の右翼と左翼の多くは、その立場を論理的に組み立てる力を失っている。ネット上で飛び交う罵倒は、論理ではなく感情の応酬だ。

 ネトウヨと呼ばれる右派の一部は、「日本は素晴らしい国だ」と叫ぶが、その理由づけは歴史的検証よりも感情の昂ぶりに依存している。
 一方で、パヨクと呼ばれる左派の一部もまた、「権力は悪だ」という反射的な姿勢に固執し、現実的な解決策を提示できない。


 渡部昇一は、かつてこう指摘している。
「自分が正しいと確信する者ほど、相手の正しさを想像できなくなる。」

 この想像力の欠如こそ、議論を分断へと導く。論破を目的とすれば、相手は敵でしかなくなる。
 だが、説得や合意形成を目的とすれば、相手は「引きつけるべき他者」に変わる。

 百地章は、憲法学の立場からこう述べた。


「立憲主義とは、異なる立場の間に“争える共通基盤”を維持することだ。その基盤が失われれば、言論はもはや共存を目指さない。」

 しかし、現代の保守も革新も、この「共通基盤」を育てようとしない。相手を「無知」か「悪意」と断じるのは容易だ。だが、その瞬間に言葉は届かなくなる。


 プレスコードによって制限された言論空間で育った世代が、「自分の立場の正しさ」だけを磨き続け、「他者の立場とどう向き合うか」という思考をあまりにも鍛えられなかったのではないか?
 それは世代を超えて受け継がれ、今日のSNS上で、奇妙に過剰で、かつ浅い議論として現れている。


2.鎖が外れても、足は前に出なかった

 1952年、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、占領軍による直接的な検閲は終わった。
 新聞は再び自由に記事を書けるはずだったし、ラジオも自由に放送できるはずだった。

 だが、江藤淳は『閉ざされた言語空間』で、こう述べている。
「言論統制は解除された。しかし、解除されたことを自覚できる人間は少なかった。自由を行使する習慣が、すでに失われていたからである。」

 この「習慣の喪失」が、戦後日本の革新陣営に深く染みついていた。戦前、共産党や社会主義者は激しい弾圧にさらされ、獄中で歳月を過ごした者も多かった。だからこそ、占領期のプレスコード下でも、彼らは「また抑圧されるかもしれない」という予感を捨てきれなかったのかもしれない。

 西部邁は、戦後左派の体質をこう評している。
「彼らは戦前の抑圧に対するルサンチマンを、未来への理念に昇華できなかった。その結果、戦争反対と反権力が自己目的化し、時代が変わっても身動きが取れなかった。」

 プレスコード解除は、思想を鍛え直す絶好の機会だったはずだ。戦前の記憶を踏まえつつ、新しい現実に合った論法や政策を模索できた。 だが、実際には旧来の「闘争の文法」にしがみつき、保守との間に新しい対話の形式を築くことはなかった。

 その背景には、もうひとつの心理的な要因があったように思う。長年「被害者」としての自己像を支えにしてきた人々にとって、相手と対等に議論するという行為は、その自己像を手放す危険をはらんでいるとかんじていたのではないか? だからこそ、ルサンチマンは次の世代へも受け継がれてしまった。
 結果として、革新は自らの支持基盤を拡大できず、むしろ社会の中で孤立を深めていった。それはこの何年か顕著だが、共産党や社民党の縮小として表面化し、「もう店をたたむべきでは」という声すら出る事態につながっていく。


3.受け継がれた怨念という遺産

 戦後の革新陣営が、戦前の弾圧の記憶に囚われたまま動けなくなったことはすでに触れた。だが、より奇妙なのは、その怨念が世代を超えて受け継がれたという事実である。
 戦争を直接知らない世代が、あたかも自らが被害者であるかのように語り、同じ怒りや不信感を、血の中に溶け込ませるかのように継承してしまう。それは教育現場や文化サークル、労働組合、学生運動などの場で、繰り返し語り直され、情念として保存された。

 渡部昇一は、この現象を「歴史的現場の記憶の擬似相続」と呼んでいる。
「自分が体験していない出来事に、体験者の感情をそのまま借りて加担する。それは本来、冷静な歴史理解を阻む危険な行為である。」

 これは保守側にも同じことが言える。
 明治や昭和初期の“栄光”を、体験してもいないのに自分のものとして誇り、その輝きにふさわしい日本を取り戻せと叫ぶ。いずれも現実から遊離した感情の継承であり、論理的な組み立てを欠く。

 百地章は、戦後思想史を論じる中でこう述べている。
「自由な言論空間を持ちながらも、感情的な歴史解釈を温存するのは、言論の自立を放棄するに等しい。」

 ここに、プレスコードの影はありはしないか?
 占領期の日本人は、「本当のことを言っても仕方ない」という沈黙を習慣化させられた。その習慣は、真実を検証する努力よりも、感情の物語を維持することに傾きやすくする。

 そして、それは保守にも革新にも等しく作用した。


 世代が変わっても、怨念の火種だけが形を変えて残る。もはや戦争体験者がほとんどいない時代になっても、右も左も、それぞれの物語に沿った「敵像」を守り続けている。それは、未来のために過去を使うのではなく、過去のために未来を犠牲にする姿だ。


4.歪みの増幅と、出口を探す試み

 今生きている社会は、戦後の言論空間が抱えた歪みを、より複雑に、より激しく増幅させた場所である。
 SNSのタイムラインは、一見すると自由闊達な討論の場のように見える。しかし実際には、同じ意見の者同士が集まり、相手を攻撃することで仲間意識を確認する空間になっていることが多い。

 江藤淳が指摘した「解除されたことを自覚できない言論空間の住人」は、今では検閲のないネットの世界でも、自ら検閲に似たバイアスをかけている。都合の悪い情報を見ない、見ても信じない、信じても発信しない。その代わり、感情を刺激するフレーズや画像が共有され、拡散される。

 西部邁は、生前こう警告した。
「自由とは、好き勝手に叫ぶことではなく、他者の自由を守るために自分を制御する技である。」
 この制御の欠如が、現代の言論の質を著しく下げている。右派は左派を、左派は右派を「論破」しようとし、説得ではなく撃破を目指す。その結果、議論は分断を深め、本来の目的である「共に社会を改善する」という視点を失う。

 百地章が言う「争える共通基盤」を再構築するには、自分と異なる立場の人を“倒すべき敵”ではなく、“引きつけるべき他者”と見なす習慣が必要だ。
 そのためには、プレスコード時代に培われた「沈黙と物語優先」の癖を、世代のどこかで断ち切らねばならない。

 渡部昇一の言葉を借りれば、
「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる。」
 この単純だが難しい姿勢を取り戻せれば、保守も革新も、今よりはるかに深い議論を交わせるはずだ。

 共産党や社民党が店をたたむべきかどうかは、単に党勢の問題ではない。「古い物語を引きずったままの言論空間」を続けるか、それとも新しい論法と関係性を築くか——その選択を迫られているのは、実は日本社会全体なのだ。
 もし出口があるとすれば、それは相手を引きつける論法を学び直すことだろう。そして、そのためには自分自身の“物語”を一度疑う勇気が必要だ。

 戦後80年近くを経た今、その勇気こそが、新しい時代の言論空間を開く鍵になるはずだと睨んでいる。
 しかし現実には制御がなく、論理よりも感情が優先され、分断が深まっている。
 百地章は「争える共通基盤」の再構築を、渡部昇一は「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる」と提唱した。この視点こそが、今の日本の言論空間に欠けているものだ。

 共産党や社民党の衰退は、単なる党勢の問題ではない。古い物語を引きずった言論空間の構造そのものが、現代の分断や浅薄な論争を生み出している。相手を引きつける論法を学び直し、自分自身の物語を一度疑う勇気にあるのやらどうなのやら。その辺が出口なんじゃないかと思うのだが。

 戦後80年近くを経た今、沈黙の習慣とルサンチマンの連鎖を断ち切り、自由と責任を両立させた言論空間を作るタイミングにあると考えている。


2025年7月2日水曜日

ダイワハウスのCM考

 松坂桃李氏が出てるダイワハウスのCMで、
「おいおい、この段階で偏った方向に結論付けるのは危険だぞ。もっと柔軟に考えてみるんだ。AかBかじゃなくて、AよりのBとか、BよりのAとか、たとえば中トロ寄りの大トロとか、大トロ寄りの中トロとか、つまり、ウナギ寄りのアナゴとか、アナゴ寄りのウナギとか、あるいはカニよりのかまぼことか、かまぼこ寄りのカニとか、そういう絶妙なバランスが・・・」
というのがあって、注文住宅のCMにこれ? と結構謎なんだけど、なんか時代に対してもメッセージのような気もしている。ちょっと考えてみた。

 確かに一見「注文住宅」との関連性が薄く感じられるけれど、よく見ると実はかなり深いメッセージが込められているようにも思えてくる。
 松坂桃李氏が語るあの「AかBかじゃなくて」「中トロ寄りの大トロ」「ウナギ寄りのアナゴ」みたいな例え話は、突飛に思えるが、「二項対立を超えた柔軟な発想」を促してるのだろう。

 現代社会というのは、SNSでもニュースでも「白黒つけたがる風潮」が強く、「こっちが正しい、あっちは間違ってる」みたいな極端な判断が溢れがちだ。しかし本来、現実の選択肢ってその中間に無数にあるわけで、「グラデーションの中にある価値観」を見逃さないことが大事だよ、と。

 それにしても、最初から観ていくと、これが住宅メーカのCMとわかるのは最後の方にやっと、という、現在主流の、元も子もなく商品名連呼の如きCMとは、明らかに趣を異とする。しかし、一見ミスマッチなこのセリフが、実は注文住宅の本質に触れているとも言えるかもしれぬ。
 注文住宅というのは、まさに「既成のAかBか」ではなく、「自分らしいちょうどいいグラデーションを探す作業」なのだろう。たとえば、モダン寄りの和風、収納重視の開放感、家族団らん重視のプライベート空間、等々。こういう、一見矛盾しそうな要素を絶妙にバランスさせる柔軟性こそ、ダイワハウスが提案する住まい方なのかもしれぬ。


 これは単なる住宅CMを超えて、「今の時代に対する提言」みたいにも聞こえる。

「おいおい、この段階で偏った方向に結論づけるのは危険だぞ。」

 このセリフ、社会全体の思考の硬直化分断の危うさに警鐘を鳴らしているようにも感じられてならない。家の話をしながら、実は暮らし方=生き方=考え方の柔らかさを説いてると思うのだ。

 〇表面的には注文住宅と関係なさそうだが、「選択肢の幅を楽しむ」という注文住宅の本質に沿っている。
 〇時代の「二項対立」に対して、「グラデーションの思考」を提案している。
 〇意外性のある比喩が逆に印象に残り、ダイワハウスの哲学を際立たせている。


 松坂桃李氏が油汚れに塗れたスーツ姿で列車の車両基地で歩きながら言ってるのも、何かの暗喩じゃないかとも。このシチュエーション、言葉の内容と絶妙にずらしていて、単なる住宅CMの枠を越えてくる。

 車両基地って、まさに**「裏方」**であり、見えないところで日々整備と調整が繰り返されている場所。それって、住まいや人生においても「整える」「保つ」「点検し続ける」ことの重要性を象徴しているかもしれぬ。松坂桃李氏が話してるのは「柔軟な発想」「グラデーション的な選択」。その思考って、見た目にはわかりづらくて、派手さはないけど、実は裏で一番手間がかかるものだったりする。油まみれの現場に立つことで、その「泥臭さ」も表現してるのかもしれない。

 列車の整備現場というのは、クリーンではないし、ピカピカでもない。まさに白でも黒でもない“グレー”の世界。それが、「AかBかじゃなくて、A寄りのB」 というセリフと重なる。カニとかかまぼこなんて軽妙な比喩を言っているのに、背景は重くて工業的。このギャップが何とも言えぬ深い味わいを出している

 列車=社会、車両基地=社会の裏側や転換点と見るなら、「ここで何かが修理され、再出発していく」という構造となる。それは住宅というハードの話だけでなく、今の私たち自身や思考の癖を整備・点検・更新していこうというメッセージとも読めぬことはない。「ちょっと立ち止まって、ものの見方を整備しよう」 そんな空気感が漂っているきがしてしまう。

 車両基地は、社会の裏側・人の無意識・見えないインフラ。
 油汚れは 矛盾、混とん、人間の本音や未整理な部分。
 油汚れに塗れたスーツ姿の松坂桃李氏は、現代の合理性、理性的視点、それでも考えようとする個人。
 グラデーション思考は、現代社会への処方箋。
 カニとかアナゴとな云々は、対立じゃない曖昧な価値観の美しさ。

 これらはそんなメタファーなんじゃないか?


 そんなCMをハウスメーカーが打つって、どういうことだ?
 家を、究極的には「どう生きたいか」を問う選択の結晶と考える。だからこそ、こういう「生き方」「考え方」に一石を投じるCMを、ダイワハウスはあえて打っているのかもしれぬ。

 つまり、 「家は、思考の表現でもある」 というコンセプト。


 案外な、小さな哲学の断片かもしれぬ。知らんけど。

2025年7月1日火曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 2 なぜ富に執着するか?

 

 もう充分だろうに、まだ金をもうけようとするか? 財産自体分け与えないまでも、金の種、というか、その手段は移譲してもいいのではないかと思うのだが、そんな感じでもない。なぜか?

 必要以上の富を保ちたがる心理は、自己防衛・競争・誇示・不信・権力など、いろんな人間の側面が絡んでいるようだ

 富の不均衡をどう捉えるかについては、政治哲学の分野で古くから深く議論されてきている。代表的な立場をいくつか挙げてみる。

1.ジョン・ロールズ(John Rawls)は20世紀の政治哲学者で、著書『正義論』(1971)で、ざっくり言うと「人は、自分が生まれる環境(貧富、能力、性別など)を知らない状態則ち「無知のヴェール」の下で社会契約を結ぶべきである。そうすれば、自分がどの立場に生まれても最悪にならないように、公平な制度を選ぶはずだ」という考えを述べている。
 そのための2つ、原理として、1.自由の平等、つまり基本的自由(言論、信教など)はすべての人に平等に。2.格差原理(difference principle)則ち経済的な不平等はあってもよいが、それが最も不遇な人の利益になる場合に限る。
 まとめると、「格差はあってもいいが、貧者のためになっていなければ正義ではない」とする考えらしい。

2.ロバート・ノージック(Robert Nozick)はロールズに真っ向から反論した。著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)では、 自由に基づく所有権の正当性を主張した。内容は
富の分配が正義かどうかは、結果ではなく「どう得たか」によって決まる。

 自由な取引や正当な手段で得た財産であれば、たとえ極端な格差があっても再分配するべきではない。
 再分配は、実質的に人から「人生の一部を取り上げること」(=強制労働の一種)になりかねない。

 ノージックは国家は治安と契約の履行だけを担うべきとし、「再分配は不当な干渉」と考えました。つまりは厳格な「小さな政府」志向だったようだ。

3.カール・マルクスは、資本主義の構造そのものが不正義だと見ていた。まぁ、御存じの通り。

 資本家は「剰余価値」を搾取しているとし、労働者が生み出した価値のうち、必要以上の部分(剰余価値)を資本家が取り上げ、富を蓄積していく構造を批判したが、しかしマルクスさん、今や余剰どころでは済んでませんぜ。
 富の不平等は、個人の努力ではなく生産手段(資本)の独占から生まれているという主張だ。

 マルクス主義、つまり共産主義は、制度や構造自体を問い直し、「分配」ではなく「所有と支配そのもの」を変えるべきだという立場なのもご存知の通り。

4.ジェレミー・ベンサムジョン・スチュワート・ミルあたりの功利主義は最大多数の最大幸福を掲げる。不平等の是非は、「社会全体の幸福がどうなるか」で判断される。よって超富裕層に富が集中することで社会全体の幸福が減るのであれば、再分配は正当化されうる。
 しかし、これには、「全体の幸福のためなら個人の自由が犠牲になってもいいのか?」という問題もはらんでいる。

 同じ「富の不均衡」を見ても、公正に格差を許容すべき(ロールズ)とするか、自由な取引が最優先(ノージック)とするか、格差そのものが構造的搾取(マルクス)とするのか、社会全体の幸福が第一(功利主義)にするのか、「正義」や「自由」の定義によって答えが大きく変わる。

 では、なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか? これもいくつか考えてみた。羅列してみる。

1.富こそが存在証明であるという思想がある。

 スピノザ的観点として、欲望は自然の力、人間は「自己保存の本能(コナトゥス)」によって生きているというのがあった。この本能は、生きるためのあらゆる手段を拡張しようとするもので、富を持つことが則ち自分の力(影響力・自由・生存可能性)の拡大と捉えれば、富を求め続けるのは「生きる力の自然な表れ」ということになる。
 更に言えば、満ち足りることがゴールではなく、“拡張し続けること”自体が生の衝動なのだ。

2.エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で富とは恐怖への防壁であるとした。

 この『自由からの逃走』という本、大学に入ってからの政治学概論だったかの教科書だったんだよねぇ。脇教授の。結構気に入って、何度か繰り返して読んだ。気がついたらなくなってたので、新しいの買って持ってる。

 フロムは、現代人が自由になった代わりに、孤独や不安に直面していることを分析した。この際、富は、そうした「自分の存在が脆い」という感覚に対しての安全保障・支配力の象徴になる。
 富を蓄えることというのは「死」「無価値感」「失敗」といった根源的な恐れから目を背ける手段になっている、と考えたわけだ。
3. 比較の中でしか自分を見られない病があるんじゃないか?

 例えば、ジャンジャック・ルソーは、人間には「自己愛(amour de soi)」、則ち自然な自己保存の感情、と「比較愛(amour-propre)」、則ち他人との比較によって自分を評価する感情があると説いた。
 富裕層の「さらなる富」への執着は、他者に対して自分が“上”であることを確認するための欲望に近い。それは、富が「道具」ではなく「優位性の証明」になってしまっている状態だ。

4.富が自己と一体化している。って、此処まで書くとちょっと哀れになってくるのだが、マルティン・ハイデガーは、人間はつねに「他者の目」によって自己を規定されがちで、それを「世人(ダス・マン)」と呼んだ。 超富裕層の一部は、富を持つことで「自分とは何か」が決まってしまっている状態、富を持つことが自分、富が自分、となってしまってる、というようなことだ。
 富を失うことは、ただの損失ではなく、“自己の死”に近い体験になる。


 こういうフェイズでの富というのは何かに代替できなものだろうか?理屈で言えば、愛、信頼、創造性、美、宗教的体験、自然との一体感などは、富以上の充足を与え得ると言われているし、仏教では、むしろ欲望を手放すこと(涅槃)こそが究極の自由とされている。

 わかったようなわからんような。

 何しろ、現代社会はそれらの価値よりも「測定可能なもの(富・フォロワー数・肩書き)」を評価するため、人は代替価値を持ちにくくなってしまっている。社会構造と人間の不安が、それを許さない。

 仏教なんて言葉出たついでに、「なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか?」という人間の心理や存在の在り方に関わる哲学的な問いに対する、欲望、アイデンティティ、恐れについての、宗教的な視点(キリスト教、仏教、スーフィズムなど)からの解釈も整理しておこうか。

 キリスト教は、富への執着を、欲望の無限性と神なき充足、としている。
 キリスト教的視点では、過剰な富の追求はしばしば「偶像崇拝」として描かれる。これは「神を信じて委ねる」ことの代わりに、「富に安心を求める」ことなのだ。
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
 つまり、富の集積は“救い”や“安心”を求める行為だが、それは神以外のものに神性を与えてしまう罪であるとされている。
 原罪という言葉はよく聞くが、つまりは「底なしの欲望」のこと。
 人間は本質的に「欠けた存在」としてあり、「完全な満たし」を外に求め続ける。これが欲望(desire)の無限性につながる。
 富は「今度こそ満たされるかも」と思わせるが、結局はさらなる欠乏を生む。あるある。
 富を手放せないのは、「神が自分を見捨てるかもしれない」「明日、必要なものが得られないかもしれない」という 根源的な不安 があるからなんだそうだ。キリスト教では「信じて任せる(faith)」ことによって、この不安から解放されると説いているのだがね。
 神への絶対的信頼を求めてくるわけだが、それは、たとえ教会に腐敗があっても、となると話は別で、古代、中世まではそれでもよかったのかもしれないが、近世、近代になると、そうも言っていられなくなる。これがニーチェの「神は死んだ」になるのだろうが、文明と、そして貨幣経済、資本主義経済と信仰、どちらが先の話なのか、オレにはちょっとわからない。が、それなりに、総なってしまった必然もあったのかもしれない。

 仏教は欲望の構造そのものを問う。「なぜ富を追うのか?」という問いはそもそも欲望の発生メカニズムそのものに直結している。

 仏教で人間の苦しみの根本とされる「三毒」の一つが貪(とん)、つまり「むさぼり」を指し、貪欲は「あるもの」に満足せず、「ないもの」に心を奪われ続ける状態をさす。一度手に入れても、それが「常にある」ことへの執着が生まれ、不安になり、もっと欲するというわけだ。
 が、富があっても、それが自分自身を永続的に守るものではないことに気づくと、執着の力は弱まる。
 すべては移ろい(無常)であり、自我や所有という観念も、実は「空(くう)」だと理解することが解脱につながるとしている。
 一方、富への欲望は「無明」(無知)から来る。仏教では、執着の根にあるのは「ものごとの本質が見えていない状態」であり、富に救いを求めることそのものが、「苦しみを増やす行為」だと説く。

 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、「本当の富」とは物質ではなく、神(アッラー)との合一・帰依にあるとされているそうな。なんか人類補完計画を思い出すな。

 この世の富は仮象であり、神の創造の一部ではあるが、人を真の愛から逸らすものでもあるとする。富に執着することは、魂の純粋な欲望を低次の欲望にすり替える行為なんだそうだ。

 スーフィー詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーは「人は神を求めるが、それは神がまず人を愛したからだ」と言っている。人が富や名誉を求めるのは、本当は「永遠に愛されたい」という願いの歪んだ表現なのだとのことだ。

 スーフィズムの目標は「自己を神に明け渡し、溶ける(ファナー)」ことであり、富を追う者は、まだ「自我」の檻の中にいることなのだ、とのことだ。

 以上の事は、そこまでお金に執着しなくてもいいんじゃない? と、特に使いきれないお金持ちに対して、よく言いたくなる時に、では、どういうこころもちでいればいいのか?ということに対する仮説を並べたものであるが、烏滸がましいのは承知の上。
 彼らがこのような言葉にこれまで出会えていなかったということも大いにありうるのだろうが、いずれにしろ、遠ざけるような社会であることは間違いなく、そこを問題にするべきなんだろう。

 現代の思想家はどうか?
 ここでは、マイケル・サンデルアマルティア・センをあげておく。それぞれ「経済」、「社会」、「正義」や「自由」という言葉をめぐって異なるアプローチをとっているが、どちらも「リベラルな個人主義」だけに頼らない、人間の在り方を考えようとしているようにみえる。

マイケル・サンデル

 代表作が、『これからの「正義」の話をしよう』『リベラリズムと正義の限界』書店とかで表紙見たことない? あ、書店いってない?そうですか・・・。
 サンデルは、「正義=中立な原則に基づくもの」と考えるリベラリズム(ロールズなど)に批判的だ。ロールズは:正義とは、「無知のヴェール」の下で、誰もが同意できる原則(例:平等、公正)に基づくべきものとしている。が、サンデルは「人間は“空っぽの自己”ではない」とその前提を否定する。個人の価値観や共同体との関係を無視して、中立な立場から「正義」を語ることはできないのではないか、と。「私たちは、所属している共同体や歴史、関係性の中で定義される」
 、つまり、「正義」とは共同体的な価値や徳と切り離せない、とのことだ。
 サンデルが批判するのは、**「自由=選択の自由」**という考え方だ。彼が問うのは、自由とは「何でも自分で選べる」ことなのか?あるいは、「善き人生」や「良い社会」を共同で追求する力なのか?という点だ。
 お分かりだとは思うが、サンデルは後者を重視する。「自由」もまた道徳的な議論から切り離せない。となれば、やはり過度な富の集積はかれにとってはあってはならないことになる。


アマルティア・セン

 代表作は『自由と経済開発』『不平等の再検討』『正義のアイデア』

 センは、ロールズのような「理想的な制度設計」よりも、「現実に人々がどれだけ苦しんでいるか」に注目する。「正義ある社会」とは何か、を完璧に定義するよりも、現実の不正を一つずつ取り除くことこそが、正義への道だと説いている。「実際に人々がどう暮らしているかを見よ」とか 「それが改善されるなら、それは正義に近づいている」みたいなことを言ってるわけだ。

 自由こそ、アマルティア・センにとって、非常に重要な概念である。キーワードは:ケイパビリティ(能力)。 「人間が、自分の価値ある行動や生き方を実際に選び取る力」とする。
 つまり、自由とはただ「法律的に何かが許されている」ことではなく、教育を受けられるか?であったり、医療を受けられるか?であったり、女性が自立して生きられるか?というような実質的な選択肢の存在が大切だと主張する。そして貧困とは「お金がない」ことではなく、 「選択の自由が奪われている状態」である、としている。

  サンデルとセンはそれぞれ、“自由や正義の意味そのものを問い直す”ことから出発している。

「自由とは、ただ選べることではない」

「正義とは、抽象的な原則ではなく、今目の前にある苦しみへの応答だ」

「個人の成長」や「企業の成長」が本当に自由を広げているのか、よくよく見直す必要がある

といったところだろうか。
 もう少し続けよう。
 ある一定以上の富を得た人が、自らその“富を集める仕組み”を手放すことはないのか?  実際、ビル・ゲイツ氏のように、それを個人の選択として取った人間もいるにはいる。しかし、それは極めて例外的だ。なぜ一般化しないのか。


1. 富の「閾値」は主観的で、常に上方修正される。
 たとえば、「10億円持っていれば一生安心」と思っていた人も、 「じゃあ、次世代にも必要」「世界進出にはもっと要る」となり、“富の閾値”が拡張されていく傾向がある。 “これで充分”と感じる基準が、周囲の競争・恐れ・野心によって変わってしまうのだろう。


2. 集積手段の委譲=力の喪失とみなされる。
 ビジネスにおける富の集積は、単なる利益ではなく、情報・影響力・支配力の集積でもあるのだろう。それを手放すことは、しばしば「自分が世界に影響できる力を放棄する」ことと同義に見えるのかもしれない。
 則ち、「集めるのをやめる」ということは「死ぬのと似た恐怖」になってしまう。

3. 自己と組織の境界が曖昧になるということはあるかもしれない。たとえば、Amazonのジェフ・ベゾス氏や、Metaのザッカーバーグ氏のような創業者CEOたちは、自分自身が企業と一体化している。会社の価値が上がることが自分の価値が上がることであり、言い換えれば、富は、自分個人というより、「自分の創造物の成功の証明」と考えているのかもしれない。だとすれば、「富の集積手段を委譲する=自分の生きてきた意味を否定する」ように感じられる、という事も有り得るだろう。一部には、実際に「委譲」を選んだ例もある。


 例外としては、ビル・ゲイツ氏やウォーレン・バフェット氏のほか、チャック・フィーニー氏(免税店創業者)という方がおいでなんだそうだ。ほぼ全財産(80億ドル)を慈善活動に使い果たし、2020年に活動を終えたという。
 しかしながら、これらは極めて稀な「倫理的な実験」であり、制度でもなければ、大衆的文化でもない、例外中の例外である。


 乱暴ではあるが、敢えて制度を作るなら、以下のようなことが考えられなくもない。
 
 収益上限制を設定し、一定額以上の収益は自動で共有基金へ、という仕組みを作る。が、現在の経済社会の大多数とは間違いなく衝突することだろう。
 巨額の資産を子孫に丸ごと渡せない富の相続上限制を設ける。これも政治的に相当紛糾するだろうな。 
 一定規模を超える企業は自動的に共同所有へ、って、いやいや、相当法律のアクロバティックな運用をしないと無理でっせ。

 結局、「自由」と「私有権」の再定義を迫るものしか思いつかぬ。実現には“社会全体の価値観の転換”、倫理的・哲学的な成熟が必要なんだろうな。


 これを書いているときに、あくまで噂、だが、それなりに信ぴょう性があるらしい筋の話として、イーロン・マスクが薬物依存症であるとの話を読んだ。薬に頼らなきゃいけないくらいに、お金持ちも大変で、とても幸せそうには見えない。これは貧乏人の僻みも入っているのかもしれないが、薬物依存症が本当だとしたら、それでも、富の集積を止めようとしない、人間って何なんだろうな? と思う。

2025年6月29日日曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム?1富の偏在の現状

  アンパンマンについて、何やらごちゃごちゃ書いたが、アンパンマンの事について、今更気が行ってしまったのは、丁度オレが、今のこの世の何とも言えない行き詰まり感を何とか出来る鍵が「贈与」にあるように思い、それについていろいろ読んだり考察したりしていた所為がある、と言うようなことは書いた。

 そこに至る過程を、開陳したいと思う。




 聞いたことあるでしょ? 日本のみならず、全世界を通して富というのは、ちょっと想像を絶するくらいに偏在しているということを。怒りを覚えたり、怒りすらわかず呆れたり、あまりの偏り具合に多分フィクションの類のものだろうと興味を失ったり。んで、ちらっと、ホントちらっとだけ思ったはずだ。どうせそんな馬鹿みたいに金持ってても使いきれないんだろうから、ビンボーなやつにまわしてやれよ、と。そこまで思って、その話題は意識からそれていった、ということが多いのではないか? だって、そんなのは自分の今の暮らし向きとは全然世界が違う。自分が興味を持つべきところは他にあるはずだと。

 あの話、正確なところはどういう数字だったか思い出してみる。


 現在、世界の富の不均衡を示す代表的な統計として、次のような事実がある。

  • 世界の最富裕層1%が、世界全体の富の47.5%を保有している
    UBSの「Global Wealth Report 2024」によれば、2023年時点で、資産100万ドル以上を持つ上位1%の人々が、世界の総資産の47.5%(約214兆ドル)を所有しています。 Inequality.org

  • 最富裕層1%が、世界の下位95%の人々よりも多くの富を保有している
    Oxfamの分析によると、世界の最富裕層1%は、世界人口の下位95%を合わせたよりも多くの富を所有しています。 Oxfam International

 100人いたとして、その内の一人だけが超金持ちで、ありえない話だが、そこに100万円あったとしたら、その内47万5千円をその金持ちが持っている。残りの99人の平均所持金が5300円ちょっと、という世界。
 または、金持ちの上から5人で、51万円、上でその内47万5千円は1番金持ちが持っているのだから、2番目から5番目までの4人で平均8750円持っていて、後の95人は平均5160円も持っていない世界、ということだ。
 為替とか何とかあるから、そこまで単純な話ではないのだろうが、ぶっちゃければそう言う意味である。

 この99人なり、95人の中でも内訳はいろいろあって、それでも何とか衣食住にありつけている人もいれば、文字通りの素寒貧、食うものもない人だって多数いるということに思いあたるべきだ。
 これらの統計は、世界の富がごく少数の超富裕層に集中していることを示していて、経済的不平等の深刻さを物語っている。この偏りがよりによって平均5000円ちょっとしか持たない者から、今もなお絶賛吸い上げ中という仕組みの上で出来上がっていることだからだ。

 このような不均衡を是正するために、国際的な課税制度の整備や富裕層への課税強化などの議論が進められているらしいが。


 先ごろ、自分の死後という時期を、その偏りの深刻さに2030年への前倒しを決めて、全資産を寄付するとビル・ゲイツ氏が表明したことがニュースになっていたが、ゲイツ氏とウォーレン・バフェット氏が極めて例外的で、他にそう言う話は、ほとんど聞かない。
 そのような富など、一生どころか、孫くらいまでも使いきれないと思うのだが、なぜ、そのような富を分配するとか考えないのだろう。思考とか論理ってどんなものなのだろう?
 これは、経済的な欲望以上に、人間の心理、社会的地位、そして世界のシステムそのものに根ざしたものではないかと思う。いくつかの観点から考えてみる。

1. 「限界効用」ではなく、「相対的地位」がモチベーションになる。

 普通は、富の「限界効用」(お金が増えるほど嬉しさが減っていく)によって、ある程度で満足するのが自然じゃないかと思ってしまうが、そうじゃないらしい。超富裕層の多くは「他人より上かどうか」が価値の指標になっていて、富そのものが「ゲームのスコア」のような感覚になっているんじゃないかと感じられる。つまり「誰よりも多く持っていたい」「ランキングを下げたくない」、ってことか?


2. 資本主義の仕組みに最適化された思考

 資本主義社会というのは、資本(株・不動産・事業など)を持つ人は持たざる者よりも指数関数的に富が増える設計だ。逆に言うと、「持っている者がさらに持つ」ことが自然な帰結となるため、富を再分配するのは“非効率”と見なされがち、となる。


3. 「トリクルダウン理論」への信仰

 一部の富裕層や経済学者は、「富裕層が豊かになることで投資や雇用が増え、貧困層にも恩恵が波及する」と信じているらしい(いわゆるトリクルダウン)。実際にはその効果は証明されておらず、寧ろ、近年は否定的な見解が主流。それでも“自分の富は社会のためになっている”という正当化がされているようだ。


4. 不安と自己正当化

 この社会は「いつか崩れるかもしれない」「失うかもしれない」という恐怖から、“もっと備えておくべき”という心理も働くのだろう。オレもそうするかもしれない。また、「自分は努力して勝ち取った」「社会に貢献した」という自負が、再分配に対する反感につながることもあるかもね。

5.エラくなりたいんだよ、誰ぞやみたいに。富は単なる個人の贅沢の手段だけではなく、「政治的影響力」や「文化的支配力」にも直結するから。つまり 富が「支配手段」になる。そう言う向きには、慈善や再分配は、力を手放す行為とみなされ、むしろ抵抗を生むこともあるだろう。

6. ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットそれでも寄付や再分配を考える人もいる。「ギビング・プレッジ」っていうらしいけれど。問題は、それも「国家による強制」ではなく、“自分のコントロール下で行う”再分配であるという点にある。制度としてはそんなものはどこにも存在していない、という事だ。

2024年8月11日日曜日

NT0078 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2

 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2


 要するに、非モテのハッカー達が開発し、すがったPUA=Pick Up Art=恋愛工学に基づいたナンパ術、は破綻したというのが、第一章の後半の話。

 前回、オレが「女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか?」と記述したことは、橘氏に


 女の脳も「生き延びること(Survive)」と「子孫を残すこと(Replicate)」という「SR価値」を最大化するよう進化したはずだ」


 と言い変えられているが、そこにつけこむのがPUAの肝だったんだそうだ。要は自分がSR価値を満たすことが出来る相手だと誤認させるのだと。


 さて、この「恋愛工学」的な言葉。「金融工学」もそう。一義的というか元来というか工学という言葉がさすものとはなじまないものに「工学」という言葉をつける料簡。可能な限り広く詳細に数値データ化し目に見える機構として物事をとらえそれに対しアクション、入力をしていく、という考え方なんだろう。それがクールと、特に若い奴は考えがちだ。

 ところが、これにどうしても入りきらないパラメーターが人間の精神ってやつで、結局のところPUAはそこをカバーできなかった。と。


 この度は、〇〇工学なんて名乗ってイキってはみたものの遭えなく破綻してしまった。一重に浅薄だったというしかないが、これは、長い歴史で、宗教や哲学が取り組んできたテーマだったんじゃないか? 則ち、一軒複雑怪奇なこの世と自分の精神の神羅万象をどう言う枠組みでとらえていくのか?答えはひとつではなく、極端な話、人数分だけ答えが在ったりする。


 なぜ、〇〇工学をクールと思い、そこに引き寄せられようとするのか?

 恋愛に関していえば、どの時代にも姿を変えて、何やらどこか湿ったフォークロアが存在し、通俗文学やテレビドラマ、映画に姿を変えて世に姿を現す。それに救われる、指針をもらう者もそれなりの数いるだろうが、どうしたって救われず、その湿り具合を嫌悪を持つものには、〇〇工学という言葉の響き、たたずまい、魅力的に考えるのだろう。


2024年4月27日土曜日

NT0057 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲

  岡田斗司夫氏に教えられるまでもなく、橘玲氏の書くものには、一定の共感というか、目から鱗というか、うん、尤もだ、がありまくりで、こういう物書きを知るというのも、20年に1回ぐらいじゃないかしら、と思うが、あまり持ち上げてもしょうがないか。


 最初に意識の中に入ってきたのは、彼のリベラルに対する深い失望を書いた文章だったように思う。決して、ネトウヨ的保守主義者ではなく、寧ろの反対の立ち位置に居たいのに、どうにもダメ~な奴しか、その界隈には見当たらない、的な文章だったように思う。オレは誠にそうだと膝を叩いた。ぽ~ん!と。



 さて不摂生でこの身にまとわりついた脂肪はいろいろ不都合を引き起こし、可及的速やかに、しかし無理をせず、取り除かねばならないわけで、GW初日だ。しゃこしゃこと部屋でエアロバイクを漕いでるわけなんだが、そのお供として、講談社現代新書の橘氏の「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」。


 うん。ディストピア。社会としてこの絶望的な状況を何とか出来る処方なんてないのだ、というのが橘氏の主張。だから何をしてもいい、というわけではなく、完全に諦めたわけではなく、現状認識としてそれはそれ、何か出来ることはないだろうか? 方向を探すために思考して、その中で生まれ出てくる、氏の著作群と捉えている。

 ならば、この状況で個は如何に動くか?、動くべきか? そういうことなのだろうか? タイトルだけを見て、そのように想像した。


 しゃこしゃこしゃこ。


 第1章は、非モテが如何に超絶ナンパ師になるか?という話。これはオレが何十年前から思っていたことだが、要するにだ。女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか? ということだが、これは、この分中にも書いてある通り、生物は遺伝子の乗り物である、という何十年前に聞いた説のオレなりの解釈以上のものではない。

 偶にこの基準が壊れた女の人の話も聞く。ダメンズとか。でも、まぁ、それは、次善に次善を重ねるうちに、基準が歪んでいったということで、そういうことで、少なくとも自分の当座の精神の安定は得られる、そういう選択と考えられないこともない。

 或いは、お眼鏡に叶う相手がいなければ、おひとりさまという選択もある。これは遺伝子の保存というよりは、個の安定が優越してしまった結果なんだろう。何はともあれ遺伝子の保存、という事ではないらしい。

 そういう基準、その為の行動原理を突いてやれば、ナンパもし放題、そういう男の話であるらしい、第一章。


 ちょっと思うことが増えたので、本はそこで閉じた。物思いに深けながら、汗かきつつペダルを動かすのであった。


 しゃこしゃこしゃこ。

2024年4月26日金曜日

NT0052~0055 次の大地震1 わが身に起こったことから始める

  何も元旦から来なくていいだろ、大地震、というようなこと、これで2度目?3度目? 文章にして打っている。そんな、何もこの日じゃなくたって、というやつが、よりによってわが身を掠って行った。

 自覚的に180度方向転換する、なんていうこともないのだけれど、この地震が、ひとつ、変る節目になるんじゃないかという予感がある。自分自身も、この社会も、だ。

 いろいろもやもやッと浮かんでは、消えずに何か堆積していってて、わが思考ながらウザい。でも、なぜ消えないかと言うと、それなりに大事なことなんじゃないかと、何処かで考えているからだ。


 いきなり、な、突拍子もなく政治、社会、経済、天下国家の転換を説いても、我ながら、あ~、はいはい、だし、かと言って今後一切そんなことを表に出さないつもりもまたなく、っていうか今じゃないが近いうちになんか言うつもり満々なんだが、綺麗に論理だてて申し上げることはひょっとしたら、っていうか、多分出来ない。せめて、自分の中の或る思考から、関連ある形で連ねるように考えていきたい。


 まずは、これ1月4日にもこの内容の事を書いたんだが、起点はやはりというか、我が身、という事にしたい。


 2024年、令和6年の元旦の夕方、オレは何をしていたかと言えば、中途半端に増えて壁に陳列しきれなくなったミニカーのコレクションを並べる棚の増設の工作をやっていた。

 今更、正月が特別めでたく感じるようなことも、正直言って無く。これで、子供や孫がいればかなり違っていたのかもしれない。老いた両親にはついに孫を抱かせてあげられなかった。毎度忸怩たる思いが胸を衝くが、まぁ、今更何を言っても仕方ない。そろそろ相当弱った両親を気遣い、西宮の妹が月一で帰ってきている。正月は正月だが、正月の帰省という感じは少々薄い。

 テレビも、昔、子供の頃は正月は特別感を感じられるものだったが、そんな感じも今や全くない。そもそも、食事の時にニュースを見る以外、テレビ何か観ない。あ、そうそう昨晩の紅白歌合戦、あとでYOUTUBEでyoasobiの「アイドル」の分だけ視聴したが、まぁ、日本のアイドル、韓国のアイドルがそろって、にぎにぎしく踊るという演出で、うん、最後の結果発表だけ見たんだけど、紅組勝利、ここまで昔の紅白の終盤を思わせるような盛り上がりがあれば、紅組勝つよな、と、まぁ、アンチ韓流からの批判はあったものの、よかったんじゃね?という感じで。

 閑話休題

 4時過ぎだ。確かサッカーの日本代表がタイと親善試合をしているはずで、1階の居間で両親と妹がぼーっとそれを見ているはずだ。子供部屋おじさんたるオレはそんなわけ2階の自室でネット覗きながら工作なんぞ。


 揺れた。まぁ、珍しいことではないが、少々いつもよりは大きかった。ネットで地震速報を確認し、ネットからツイッターに書き込もうとした瞬間、


 超デカいの来ました。今までにないくらい。机の下なんかに潜れない。本棚が倒れてきたら詰む。本当はやっちゃいけない対処だが、立ち上がり近くの本棚を抑えた。そんなわけで抑えた本棚からはそうでもなかったが、その他の本棚から、雪崩のように本が落ちる。たちまち膝上まで本に埋まった。

 東日本大震災の時に撮影された映像で、物に埋まりドアが開けられなくなり逃げられなくなって途方に暮れた、という内容の物があった。それを思い出し恐怖もしたが、やがて揺れは収まる。

 そのころには、うわぁ、これの片づけめんどくせぇ~、なんて思うようになっていた。

 そうこうしていると、これだけ揺れて1階に降りてこないオレの様子を見に妹が上がってきた。「あ、今行くから」と、言って、オレは脚を本の山から引き抜き、下に降りて、テレビを見た。さすがに地震速報をやっていた。これだけの揺れだものな。珠洲なんだそうだ、街並みと海岸を交互に映していたが、女性のアナウンサーが「津波警報です!」と絶叫した。


 当地、富山県で事前に想定されていた津波というのは、砺波平野頭部~呉羽断層の北東側の延長線上、日方江沖5キロが波の起点の物で、波高が最大5m。海岸線より8キロ以上離れている我が家にまで津波は来ることはないと、ハザードマップには書いてある。


 と、


 「大津波警報です!!」アナウンサーの声がひっくり返るくらいに更に切迫した声が更に切り替わる。津波警報で3m、大津波で5m。ハザードマップを信じるなら慌てることはない。のだが、のほほんとしてちゃダメなんじゃないかと考えたりもする。それくらいアナウンサー氏の声は切迫したものだった。


 車を止めてある場所の隣りがボロ屋で、倒壊したらオレの車も廃車である。外に出てそんなことはなかったことを確かめて、テレビではアナウンサー氏のほかに解説委員の人もしゃべっていて、「津波タワーに避難して・・・」なんて言ってるが、この辺、そういうものはないんだよ、と思いながら、二階に戻る。


 さ、オレはどうしよ? 途方に暮れる。PCもケータイも本に埋まっているのだが、会社からBCPの所在確認メールが来るはずで、それに答えなきゃいけない。まずはケータイの発掘かぁ・・・、気が遠くなるような気がした。まぁ、ね、家が倒壊した、その下敷きになった、津波で家が流された、という方々から比べたら、屁みたいなものだが。



 この地震で建物が壊れてしまった、全壊、半壊、様々なんだろうが、印象として、直接的に揺れによって破壊した家屋と、液状化によって地盤が変位したために壊れてしまった家屋に大きく分けられるような気がする。あと、津波によって、というものもあるか。

 とくに強い揺れに見舞われた地域、輪島市、珠洲市、能登町、志賀町、穴水町。完全に倒壊、倒壊しなくても全壊認定の家屋と、水道などのインフラが破壊されて不便はあるもののこのまま住み続けられるであろう家屋の違い。

 誤謬があれば正していくとして、これはこの期間、主にネットではあるが得た知識から言わせていただく。


 建物の耐震基準というものがあり、制定された年度により、3種に分けられるようだ。


 〇1981年度以前

 〇1982年から1999年まで

 〇2000年以降


 この3種で今回の地震、明らかに倒壊率に差が出たようでである。これから新築する分には自動的問答無用に2000年以降の基準が適用されるから良いとして、それ以前の家屋、我が家など竣工が1971年であるから、震度6の地震があったら一発だ。

 何が違うか。どうするか。この辺ちゃんと構造計算のできる建築士に確かめた方がいいが、ネットで得た知識として


 〇柱と梁の接続が切れないようにする。

 〇水平方向の力がかかってもゆがんだりたわんだりしないようにする


 こういったことが、2000年基準に盛り込まれているらしい。梁と柱、ほぞのみでつないでいるならば接続金具で補強するとか、可能な場、柱と柱の間に筋交いを入れるとか、そういう補強だ。

 あと、壁量。窓、開口部が多いとそこが弱くなる、という事らしい。


 阪神淡路大震災、東日本大震災、まだある、中越地震、熊本地震、胆振地震。度あるごとに耐震補強の重要性は説かれてきたが、特にこの地方、耐震化はなかなか進まなかった。



 土砂災害について。直接的に家屋が巻き込まれたというものもあった。発災直後、輪島市一ノ瀬で撮影された土石流のごとき地すべりの動画が広まった。幸いこの画像で土砂に巻き込まれた家屋の住人は避難していたようであるが、穴水では奥さんの実家に帰省していたまだ若い警察官の方、奥さんと3人の子供が裏の土砂が崩れたものに家屋が倒され家族を一瞬で亡くしてしまった悲劇とか他にもいろいろあったようだ。


 地震じゃなくても豪雨災害の土石流で同様のことが何やらこの何年か毎年起きている。


 家屋倒壊も人命に直接的に危険に晒すけれど、今回道路損壊も深刻であるという印象を持った。もともと奥能登の道路事情に対し道路の本数、舗装強度ともに貧弱なのではないかと感じていた。のと里山海道という高規格道路に区分されているようだが、地震や台風豪雨のたびにどこか崩れているような印象があるのだ。

2023年9月18日月曜日

NT0033,0034 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 3

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 またしても、古く据えた臭いをはなつようなダメな権力社会構造(のひとつ)は、外圧にしよってしか変わらなかった、と思ってしまうと、わずかに憂鬱な気分になるが、切実に何かを変えたいとき、もう、この国の野党的なものは全くあてにできない現状に、外圧を動かすという選択肢をとる者も現れてもおかしくないのではないか、と、ふと思った。


 そういえば、と、考える。なぜ、アメリカ系のメディアではない、イギリスのBBCだったんだろう? アメリカにはジャニーズは強いコネクションがあると聞いたことがある。喜多川擴自身アメリカに住んでいたこともあるそうだ。となれば、そこのメディア関係者を相手にしていたら、「計画」が漏れてしまう、そう考えたか?


 まだまだ、今までのこの方面の動きとは結構違う事があったことに気づく。


 イギリスメディアであったが、外国メディアであったからこそ、一連の喜多川擴性加虐疑惑が都市伝説レベルの信ぴょう性から一気に真実味を加えることに成功した。外国のメディアという事もあったかもしれないが、日本のメディアであっても断言する(当然裏付けをしっかりとって)ということが大事ということが分かる。

 黙殺はできない。SNSでの拡散。この段階ではしかし日本のメディアは反応しないが、外国人記者クラブで被害者が会見を行う。そろそろ日本のメディアも無視できない状況になる。

 そして日本記者クラブでの会見。


 注目するのは、これらの記者会見で、被害者が、揃いの印象の標準的なスーツにネクタイで登場していること。例えば北公次氏などわずかに残るインタビュー記事等を見るに、如何にも芸能人っぽいというか、要するにチャラい格好でインタビューを受けている。一般に向けて何かを訴えたいとき、どちらの格好の人の言葉がより受け取りやすいか?


 これらが、結構短期間に電撃的に行われたこと。

 時間があれば、ネットの書き込み仕出し何かを利用したジャニーズ側の反撃もあったことだろう。無くはなかったが、組織化され、確実にヘッドクオーターがいるような感じで、結構な数のしかし無駄がない反撃というのが未だなされていない。喜多川擴は目先が利いた人であったようであるから、存命だったら、事が起こる前から、そういう事への準備もやっていたかもしれないが、


 よりによって、2023年のこの時期である。中枢にいたはずの滝沢何とか君が抜けるなど離脱が相次ぎ、ジャニーズ事務所は内部の引き締めに手一杯で、BBCの報道から始まるこの動きに反応しきれなかった。ネットの書き込み仕出しの用意もままならなかった。


 まるで何かの実験、検証を見ているような気分である。


 安倍晋三の、知っている人は知っていた統一教会とのずぶずぶ、というのと、喜多川擴の性加虐、知っている人は知っていたが、多くの場合都市伝説レベルのたわごとと捉えられていたり、そもそも知らなかったりというところで、相似である。


 安倍晋三と統一教会のつながり、初期には、これまであったファクトを並べるだけで、かなり追い詰めることができたが、やがて統一教会という一つの団体であるから組織だった、それに付随する形でネトウヨ、ネット仕出しによる反撃が始まる。論点をずらす、安倍晋三の功績を称えるというやり方。統一教会の事は正面から反論しない。

 一方追い落とそうとする側、これまでの統一教会の所業という手札、数はあったが、それだけ。組織だった戦略も何もない。個々が得意げにそれを披露していただけ。やがて、統一教会の追い落としから、被害者、二世信者の救済の方に論点がずらされていき、野党が国会でそれを持ち出した時点で、あ、負けたな、と思った。実際国葬何ていうものをまんまとされて、負けは確定した。


 あの時俺と同じように感じていた人がいて、あの時の失敗、こうしたらよかったんじゃないか? なんて考えたりして。そういう人物が今回の事を、これから何かをする為の実験なのか、自分なりに何かの落とし前をつけたいのか、それは分からないが、実際にそういう人物がいたのだとしたら、心から「お見事!」と言わせていただくことにする。

 ま、この先どうなるかはわからないがね。以前のように何もなかったように、ジャニーズ事務所が復活してしまう可能性も、まだ十分ある。

 



NT0031,0032 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 2

 1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 オレがこの問題についてジャニーズ事務所や被害者をさておき、一番問題視し糾弾されるべきのはマスメディアであると考えている。


 彼らのスタンダードでは、これが後ろ盾が特になければ頂点にいる芸能人であっても、覚せい剤や不倫と言った醜聞があれば徹底的に叩く。2,3か月、連日その報道をして芸能人として再起不能まで追い込むはずのところだ。

 喜多川擴(ひろむ)は、芸能人でこそなかったが、芸能界で最も影響力のある人物であり、その人物の性犯罪が裁判所で事実であると認定されたならば、芸能界は天地がひっくり返る。


 2003年の東京高裁での文春との名誉棄損を争った裁判で、文春の主張する未成年タレントへの性加虐が事実と認定され、翌年最高裁への上告が棄却されて確定する。民事裁判であり刑事裁判ではない。被害者が訴えれば刑事事件になり得たのかもしれない。そう望んだ被害者もいたのかもしれないが圧力がかかり出来なかったのかもしれない。一切が分からない。

 何しろ、これを伝えたのは、大手メディアでは新聞のベタ記事のみ。テレビは一切報じなかった。あれ程の影響力、権力を持った人物の所業を、である。


 まぁ、ジャニーズ事務所がタレントの出演決定権を盾に、メディアをコントロールしていたのは有名話ではあるが、他にもメディアへの圧力のかけ方は幾通りもあったことだろう。しかし容易にそれに屈してしまった、その過程を明らかにし、関係者が全て偽りのない証言をし、「再発防止策」が本当に必要なのは、ジャニーズ事務所ではなく、マスメディアではなかろうか?


 戦争の時のメディアの挙動について、それほど詳しいわけではないが、権力に付和雷同というのが、当時の挙動そのままという言を見たことがある。だとしたら、当事者ではないオレにとっては、変態爺の性犯罪よりも余程深刻な問題である気がしてしかたない。


 仮に、2003年時点、一社一局の現場でジャニーズに反旗を振りかざすことを決めたとする。理は我にある、というのが大きな強味。しかし、ジャニタレは一斉に引き上げられてしまう。視聴率は下がるが、このころ、ボチボチ聞かれるようになっていたコンプライアンスという言葉、CMのクライアントはどうするか? 2005年から2020年までネスレの社長をなさっていた高岡浩三氏は、喜多川擴の性癖について知っていて、社長在任中はCMには決してジャニタレを起用することはなかったというが、他の企業ならばどうしたことだろう?

 いや世論がジャニーズに対してどんなスタンスをとったことだろうか? 好ましくないまでも、許容してしまうのか? 今ほど厳しく当たることはなかったか? 企業のCMもそれによるだろう。


 それが男子であっても未成年性虐待絶対ダメ、という規範が強くなった今でこそ、野火のようにジャニーズ批判は広まったが、2003年当時判断を保留しなくてはいけないということが多々あったように思う。そして、この判断保留でできた時間の空白に、ジャニーズ側の反撃がある。あらゆる場面で自己アピールをしてきたことだろう。それで、まぁ、仕方ないんじゃない、そこまで厳しくしなくて良いんじゃない、とぐすぐすになり告発側は負けた可能性が結構ある。単に自分たちだけでもちゃんと報道するというのはだめかもしれない。ちゃんと多局多メディア横断的にキャンペーンを張れなくては。タレント出演決定権はジャニーズにあっても放送権はテレビ局が有している。それはなされなかった。マスメディアの再発防止策を考えるなら、その辺の機構上の問題の洗い出しも必要なのかもしれぬ。


 そ書いていて気が付いた。マスメディアの問題は別として、特にこの時代、判断保留、しかも、それでもちゃんと判断する前提で自分からその為の材料を集めるわけではない、他人の動向を見て自分の身のふりを決める的な判断保留は、社会にとって害毒になり得るのではないか?


NT0028~0030 一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し 1

  一連のジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)による、所内での権力をかさに着た、未成年タレントに対する性加害の問題に関し、


1.ジャニーズ事務所や被害者がこの先どうなるかは、それほど興味がない。


 -①この問題とジャニーズ(事務所、タレント)自体への認識

 -②今回の事務所の対応について 被害者達について


2.マスメディアが、一連の喜多川擴の所業に目をつむり、特に、2003年の東京高裁の文春との訴訟の判決を黙殺してしまったことこそ、一連のこの件に関して、最も問題視するべきものであると考える。


3.BBCの番組に今回の事は端を発しているが、今までいなかった仕掛け人の存在を感じる。


 この3点について、ダラダラ書いていくことにする。



 喜多川擴の少年に対する性嗜好とそれ起因するトラブルは、今回の事でネットでいろいろ見ていくうちに、ジャニーズ事務所が開設される1965年のほんの少し前に始まり、死ぬ直前の2010年台半ばまで続いたとされる。そんな昔から?! 訴訟で前た後のそんな時期まで?! 驚くよね、さすがにそれは。


 しかし、喜多川爺の性犯罪自体については、ジャニーズのファンでは断じてないこのオレが知っていたくらいのものだから、多く知られている事だと思っていた。実際、被害者の会の告発があった時も、その前のBBCの番組が世に出た時も、「うん、知ってた」という反応がそれなりにあったのだから、そのはずなんだが、思いのほかその数は少ない。ジャニヲタと呼ばれるような女性ファン、熱烈なコアファンから、普通に、ジャニーズの○○クンいいよね、っていってそうなゆるくジャニタレが好きだった層まで、が、しかし、案外このことを知らない。承知しないでファンをやっていたようだ。推しのダークサイドには目を瞑るのが流儀なんだろうか?


 しかし、オレが爺の所業を知ることになった、北公次氏の告発本が出た時も、糾弾されることはなく、芸能界は、普通の社会とは違う流儀で流れているのかもしれない、と、思うようになっていた。


 結果的に、っていうか最初から知っていたけれど、いる場所からしても容姿からしてもジャニタレ達とは別の生き物であるオレだから、爺がオレに覆いかぶさってくる心配など全くない、以上に、別世界の話のような感覚ではあったが、しかし、北公次告発本以前より、薄っすらとジャニーズ事務所とタレントには嫌悪感があった。オレに限らず当時の世の男性、男子の一定割合以上はそうであったように思う。


 片岡義男氏の「夕陽に赤い帆」という短編集だったと思うが、こういうのがあった。

 場所はある晴れた午後の高原の別荘の一室。テレビがついている。が、部屋には誰もいない。

 テレビでは男性アイドルグループのコンサートの生中継で、グループのメンバーは多忙なためヘリコプターで直接ステージに乗り込むという演出。しかしヘリコプターは着陸せず上空でホバリング。そこから、一人一人アイドルグループのメンバーが突き落とされるという話。テレビの中継のアナウンサー以外のセリフは一切ない。最初はそれも演出と思われていたが、がちの殺人シーンに会場はすぐに阿鼻叫喚、というところでその短編は終わっていた。

 アイドルグループとはビートルズのようなバンド系ではなく、ジャニーズのアイドルを思わせるようなそれであった。

 片岡氏にすれば、この短編について訊かれれば、苦笑しながら「若気の至りだった」というのだろうが、まぁ、そうなれば痛快だろうな、と思って書かれたと思って間違いないと思う。斯くの如く、ジャニーズ的なものへ嫌悪というは存在していたはずだ、絶対に。


 嫉妬のようなものより何より、北公次告発本以前、1965年の訴訟沙汰もそれなりに広まっていたことではあったからのようだ。

 おっさん→爺が少年に襲い掛かる絵図を悍ましい、と感じることは不自然ではないはずだ。


 かつてはそれすらとんでもなかったが、今日的基準で言うならば同性愛というもの自体はあり、ということになっている。しかし、それが「未成年に対し」、「非合意、またはパワハラ的状況で」行われたことが、まず直接的に問題視されていることであり、


 延いては、少女たちが熱を上げる陳列された商品が、実は爺の食べ残しであった、という、詐欺ではないのだろうが、芸能事務所として顧客(ファン)に対して極めて不誠実な姿勢を、言葉にはされていないようだが、ネガティブなイメージになっている、そういう事があるに違いない。


 しかし、オレの「許す-許さない」をここにかぶせる気にもなれない。問題が明らかになる前より、彼らが存在していることは、薄っすらイヤだったんだが、ファンの人も多きことだろうし、オレの所のタイムラインにさえ現れてくれなければそれでいいや、と思っていたし、これからもそう。



 喜多川擴が存命でない以上、件の「謝罪会見」もそんなに意味がある用には思えない。他の「謝罪会見」や「国会の証人尋問」と同じように、中身などあるように思えなかったし。


 喜多川擴が存命で、彼の社会的立場がリアルタイムにズタズタになるのを見ることができたならば意味があったかもしれないが、残った小悪党どもが、如何に困ろうが、如何に切り抜けようが・・・、いや、意味がないことはないのか。ある事のケースの研究としてかんさつしていくことは、ひょっとしたら意味があるかもしれない。


 今後ジャニーズ事務所が、消滅しようが、存続し様がどうでもいい。ただ、うちのfacebookやXなどのタイムラインに、オレが視たいなどちっとも思わないもない彼らのどうでもいい日常に関する記事が、並ぶことがなければそれでいい。



 被害者の方々に対しては、そっか、変態爺に掘られちゃったんだね、お気の毒に、以上の事は思えない。精神的苦痛に対する賠償をもとめるとかなんとかについては、まぁ、うまく分捕れたらいいね、とは思っても、特に応援する気も支援する気もなし。


 被害者に名乗り上げた人たちに限らず、ジャニタレに限らず、そして、ファンもそうだけど、本当にあなたたちは、喜多川擴の性嗜好の話や、ジャニーズ事務所の内部の話、知らずにいたのか?

 ジャニタレの皆さん、一生そこにいるのか、程々で独立するのか、引退するのか、先のことなどわからないだろうけれど、若い人生の大事な時間を過ごすところがどんなところか、事前に調べよう、知ろうとしなかったのか? それは親、家族に対しても同様の疑問。


 高尚な表現を目指して行くところじゃないだろう、ジャニーズ事務所は。女の子にモテたい、あわよくば美人芸能人と懇ろになりたいという動機で門を叩いた少年たちがほとんどだと思う。そこで目がくらんでいて、これでは、同情もそれほど湧いてこない。まぁ、残念だったな、の一言ぐらいは行ってあげても良い。


 正直、喜多川擴の性癖が、2004年、裁判で負けても収まっていなかったのが驚きではあるが、その爺も存命でなく、東山紀之氏が実は、何て言う疑惑はあるものの、ここまで騒ぎが大きくなれば、「再発防止策」なんていう「謝罪会見」につきものの常套句等必要であるとは思えない。

 ジャニーズ事務所がつるし上げられている、という事実以外、細かいことは本当にどうでもいい。そして、つるし上げているという事実、誰が、何を求めて、そして、このことがこの社会にどんな影響を及ぼすかが大事であって、本当に事務所も被害者もどうなったってオレとしては構わないのだ。