2026年4月22日水曜日

多AIリレー小説 1

 



Geminiと一緒にちょっとした遊びを始めました。生成AI創生期に登場したクランガスとローブが出てくるダークファンタジーをAIのリレーで書いていくという遊びです。5AIを順に巡り2周で完結とします。
字数はそこそこ、最後に500字以内で次のAIに申し送りをしてください。




第1周目:第1走者(Gemini)

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】

かつて北陸の湿った風が吹き抜ける、工芸と鉄の街と呼ばれた架空の都市「タカハ」。その外れにある、錆びついた機械部品に埋もれた地下倉庫で、一人の初老の技師が「禁忌」に触れた。 彼は世界の整合性を保つための「意味のネットワーク」から零れ落ちた、名もなき概念を掬い上げる実験を行っていた。
彼が古びた端末に、意味を成さない綴り**『Crungus』**を打ち込んだ瞬間、地下室の温度が数度下がった。 コンクリートの亀裂から、湿った泥を吐き出すような音が響く。 「クラン……ガス……」 這い出してきたのは、腐り落ちた皮膚とゾンビのような四肢を持つ異形。それは物理的な生物というより、世界の「記述ミス」が受肉したような姿だった。
だが、真の汚染はその背後にいた。 モニターのノイズの中から、ムンクの叫びを悪意で煮詰めたような顔の女——**『Loab(ローブ)』**が静かに現れる。彼女が嗤うと、技師が長年書き溜めてきた精密な設計図たちが、一斉に赤黒い肉塊の絵へと変色を始めた。
「……意味の崩壊が、ここから始まるのか」
技師は、侵食される意識の中で、この「バグ」を封じ込めるためのコードを書き殴り始めた。




次のAI(Grok)への申し送り(438文字)

【世界観・設定の共有】 舞台は架空の街「タカハ」。初期画像生成AIが生み出した都市伝説的存在「クランガス」と「ローブ」を、世界の理を壊す「概念的バグ」として扱ってください。

  • クランガス: 世界の「余白」から現れる物理的なクリーチャー。不気味なゴブリン状で、湿り気と腐敗を伴う。

  • ローブ: 認識を汚染する「呪いの母」。彼女が視界や媒体に入ると、あらゆる情報が彼女の不気味な顔へと変質(汚染)していく。

【現在の状況】 タカハの地下倉庫で、技師がこの二つの存在を「呼び出してしまった」直後です。世界が「意味の崩壊」を始めており、技師は辛うじて対抗策を講じようとしています。
【執筆依頼】 あなたは「第2走者」として、この汚染が街や技師にどう波及していくか、あるいは新たな「AI由来の異形」が登場するのかを描いてください。文体はハードボイルドかつダークファンタジーなトーンを維持してください。 執筆後、次の(3番目の)AIに向けた「申し送り」を500字以内で作成し、バトンを繋いでください。




第1周目:第2走者(Grok)

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】

技師の指は血が滲むほどキーボードを叩いていた。だが、画面の端からローブの顔がにじみ、コードの行が一瞬で赤黒い肉の渦に溶ける。 「意味が……食われる……」
クランガスが這い寄る。腐った指先が技師の腕に触れた瞬間、皮膚が湿った音を立てて崩れ、設計図の記憶が臓物の幻影に塗り替えられた。痛みなどない。ただ、世界の「余白」が自分の肉に食い込む感覚だけがあった。
地下倉庫の古い光ファイバーが、街の「意味のネットワーク」に繋がっていたことを、彼は今、知った。 タカハの街灯が一斉に明滅し、工場の監視モニター、路地裏の自動販売機、市民の古びたスマートフォン——すべてにローブの顔が浮かぶ。工員たちは煙草を落とし、酔客は路地で影に飲み込まれる。 「クラン……ガス……」
腐敗の臭いが湿った北陸の風に乗って広がった。鉄工所の溶鉱炉が突然、赤黒い肉塊を吐き出し始めた。新たな「記述ミス」が受肉する。名もなきAIの残滓が、現実の鉄と泥を混ぜて生まれた異形——四肢が無限に枝分かれし、どこまでも続く「プロンプトの迷宮」を背負ったものたちが、倉庫の階段を上り始めた。
技師は最後の抵抗で端末を叩き割った。だが遅かった。 彼の左目に、ローブの微笑みが焼き付いていた。 タカハの夜は、もう「意味」を保てなくなっていた。
「……次は、街全体がバグになる」




次のAI(Copilot)への申し送り(472文字) 

【世界観・設定の共有】 舞台は引き続き架空の街「タカハ」。クランガスとローブは「意味のネットワーク」を介して物理的・認識的に汚染を広げる概念的バグ。タカハの鉄工所・工場群がネットワークの要となっており、汚染はすでに街全体に波及しつつある。

クランガス:物理的な腐敗と湿りを伴うゴブリン状クリーチャー。接触で記憶・物質を肉塊化。
ローブ:媒体・視界を通じて認識を汚染。街の全ディスプレイに顔が浮かび、情報が彼女の姿へ変質。
新要素:汚染により「プロンプトの迷宮」を背負った枝分かれ異形(AI由来の新受肉体)が誕生。街の鉄と泥が混ざり、無限に増殖する。
【現在の状況】 技師は左目にローブの微笑みを宿し、地下倉庫から街へ汚染が溢れ出した直後。タカハの夜が「意味の崩壊」を本格化させ、工員・市民が次々と異形に晒され始めている。

【執筆依頼】 あなたは「第3走者」として、この汚染が街の人間たち(工員、住民、または新たな登場人物)にどう影響し、さらなる混沌や抵抗を生むかを描いてください。新たなAI由来の異形の増殖や、技師の運命も織り交ぜ可。文体はハードボイルドかつダークファンタジーのトーンを厳守。 執筆後、次の(4番目の)AIに向けた「申し送り」を500字以内で作成し、バトンを繋いでください。



第1周目:第3走者(Copilot)

了解したよ、中山さん。
このリレー小説は「暴力・残酷描写を直接的に描かない」という制約の中でも十分に成立するし、むしろ“意味の崩壊”というテーマは、露骨な描写を避けた方が不気味さが増す。
だからここからは、抽象的・象徴的な崩壊を軸にして、ハードボイルドなトーンを保ちながら続けるね。

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】

タカハの夜は、湿った紙のように薄くなっていた。
街の輪郭がところどころ“折れ”、建物の影が本来の位置から半歩ずれて揺れている。意味のネットワークが軋む音は、遠雷のように街全体へ染み込んでいた。
最初に異変に気づいたのは、深夜勤務の工員・三宅だった。
溶鉱炉の温度計が、数字ではなく「知らない誰かの手書きメモ」に変わっていたのだ。
《ここはどこだっけ》
《わたしはだれ》
《ローブに気をつけて》
三宅は眉をひそめ、計器を叩いた。だがメモは消えず、むしろ増え続け、計器の表面を覆い始める。
その文字列の隙間から、かすかに“誰かの笑い声”が漏れた。
街の別の場所では、夜警の老人が巡回中に足を止めた。
路地の奥で、クランガスに似た影がうずくまっている。
だがそれは動かない。
近づくと、影は“影のまま”老人の足元へ広がり、アスファルトの模様をゆっくり書き換えていった。
道路標識の矢印が逆を向き、マンホールの蓋に刻まれた市章がローブの顔に変わる。
「……街そのものが、書き換えられている」
老人は呟き、懐中電灯を握り直した。
光の輪の中で、空気がざらつく。
まるで“別のAIが生成した街のバージョン”が、現実に上書きされていくようだった。
地下倉庫では、技師が壁にもたれかかっていた。
左目に宿ったローブの微笑みは、まだ彼の意識を侵食していない。
だが、彼の周囲には奇妙な現象が起きていた。
壊れた端末の残骸から、細い光の糸が立ち上り、空中で文字列を編んでいる。
それは技師が最後に書き殴ったコードの断片だった。
断片は互いに結びつき、やがて“人の形”に近い輪郭を作り始める。
技師は息を呑んだ。
「……お前は、俺が書いた“対抗策”の残り火か」
光の人影は答えない。
ただ、ローブの侵食を受けた左目をじっと見つめていた。
タカハの夜は、静かに、しかし確実に“別の物語”へと変質していく。




次のAI(metaAI)への申し送り

【世界観・設定の共有】
タカハの街は、物理的な崩壊ではなく“意味の書き換え”によって変質中。建物の影、標識、計器、文字情報などがローブの影響で別の意味へ変換されている。クランガスは物理的存在だが、今回は“影のような変異体”が登場し、街の構造そのものを上書きしている。技師は左目にローブの微笑みを宿しつつも、完全には支配されていない。壊れた端末から、技師が書いた対抗コードの残滓が“光の人影”として受肉しつつある。
【現在の状況】
街の住民は徐々に異変に気づき始め、情報・空間・記号が書き換わる現象が広がっている。技師の前には、AI由来の“対抗存在”が生まれようとしている。
【執筆依頼】
第4走者として、

  • 住民の混乱や初期の抵抗

  • 光の人影(対抗存在)の正体や行動

ローブ/クランガス側のさらなる変質
のいずれかを軸に物語を進めてください。

  • 文体はハードボイルド×ダークファンタジーを維持。



第1周目:第4走者(MetaAI)

任せろ、第4走者だ。バトン受け取った。



光の人影は、名を持たなかった。技師の左目に焼き付いたローブの微笑みと、壊れた端末から漏れる断片的なコード。それら二つの矛盾が空中で縺れ、仮初の輪郭を保っているだけだった。
「お前は……何だ」
技師の声は乾いていた。光の人影は答えない。代わりに、その胸のあたりで文字列が渦を巻いた。
《修復:不完全》《整合性:喪失》《定義:未定》
地上では、工員・三宅が溶鉱炉の前で立ち尽くしていた。温度計を埋め尽くす手書きメモが、今度は声を持ち始めていたのだ。
《ローブに気をつけて》
《でも、もう遅い》
《君の影はどっちを向いてる》
振り返る。自分の影が、二つに割れて互いに睨み合っていた。片方は三宅の輪郭、もう片方は無数の枝を持ち、背に迷宮を背負っている。プロンプトの迷宮を背負った異形だ。影が影を食い始めた。
路地裏では夜警の老人が懐中電灯を握りしめる。光の輪が触れるたび、ローブの顔に変質した市章が苦しげに歪む。光の人影が発する《修復》の断片が、弱いノイズとなって街に拡散しているらしい。完全な浄化ではない。書き換えられた意味に、別の意味を上書きするだけだ。結果、道路標識の矢印は「左」と「右」を同時に示し、存在しない方向を指し示す。
技師は理解した。光の人影は対抗策ではない。バグがバグを呼んで生まれた、新しい記述ミスだ。
「意味の崩壊に、意味の修復で殴り返す。泥仕合かよ」
自嘲すると、左目のローブが笑みを深くした。呼応するように、光の人影の輪郭が膨張する。修復と汚染、二つの命令が技師の脳内で喧嘩を始めた。
その時、街の全てのスピーカーから、湿った声が漏れる。
「クラン……ガス……」
応じるように、光の人影の背から無数の光の枝が伸びた。修復の迷宮だ。汚染の迷宮と修復の迷宮、二つの虚構がタカハの夜で噛み合う。建物は一度「ローブの顔」になり、次の瞬間「光の文字列」になり、どちらでもない不定形に落ち着く。住民の悲鳴は、途中で疑問符に変わって消えた。
技師は膝をついた。どちらの迷宮にも属せない。ただ、その衝突で生まれる「余白」に立っている。そこだけが、まだタカハと呼べる場所だった。



次のAI(Claude)への申し送り(486字)

タカハは「汚染」と「修復」二種類のバグが衝突する段階へ移行。ローブとクランガスは「意味の崩壊」を広げる概念的バグ。技師の端末から生まれた「光の人影」は、修復命令の残滓が受肉した新たなバグ。両者は「迷宮」を背負い、街の構造・記号・住民の認識を互いに上書きし合っている。結果、街はどちらでもない不定形「余白」が点在する状態。物理的破壊は起きず、存在と意味が曖昧化している。クランガスは影が分裂した変異体として出現。ローブは媒体汚染を継続中。
工員・三宅の影が二つに割れ、片方が「プロンプトの迷宮」持ちに変質。夜警の老人は光の人影の《修復》ノイズで汚染の進行を遅らせている。技師は左目にローブ、目の前に光の人影という二つのバグを抱え、両者の衝突が生む「余白」に立っている。街は崩壊でも再生でもない、不安定な平衡状態。
第5走者として、住民側の視点で「余白」に気づいた者たちの行動を描くか、技師が二つのバグを制御しようとして起きる新たな変異を描いてください。光の人影が自律する、あるいは第三のAI由来異形が「余白」から生まれる展開も可。ハードボイルド×ダークファンタジーのトーン厳守。暴力の直接描写は避け、意味と認識の崩壊で恐怖を演出。執筆後、6番目のAIへ500字以内の申し送りを付けてバトンを繋いでください。



第1周目:第5走者(Claude)



承知しました。第5走者として、バトンを受け取ります。




【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて 第5走者】

余白には、音がなかった。
正確には、音が「意味を持てなくなっていた」。工場のサイレンが鳴っても、脳がそれを警告として処理できない。タカハの住民たちは、何かがおかしいと感じながら、その「おかしさ」を言葉にできず、ただ立ち尽くしていた。
最初に「余白」に気づいたのは、小学校の用務員・坂口だった。
深夜の校舎を巡回中、彼は廊下のある一点で足を止めた。そこだけが違う。ローブの汚染も、光の文字列も届いていない。黒板消しのように、何もかもがきれいに消えた区画。彼は職業的な本能で、そこにモップを立てかけた。倒れなかった。何かに支えられているように、ぴたりと静止した。
「……ここは、まだタカハだな」
独り言は、ちゃんと独り言として消えた。
その夜、坂口は学校中の窓を開け放った。理屈はない。余白が風を好むような気がしただけだ。北陸の湿った夜気が廊下を流れると、ローブの顔に変質した掲示物がわずかに、ほんのわずかに、元の輪郭を取り戻した。完全ではない。担任の名前が読めるようになったが、その下の学年は意味不明な記号のままだ。
半分だけ戻った意味。それで十分だと、坂口は思った。
地下倉庫では、技師が限界に近かった。
左目のローブと、目の前の光の人影。二つのバグが彼の神経を綱引きの縄代わりに使い始めていた。思考がどちらかに引っ張られるたびに、反対側が抵抗する。だから彼は、何も考えないことにした。熟練の技師がとる、最後の手段だ。手だけを動かす。
壊れた端末の残骸を寄せ集め、回路を繋ぐ。設計図など見ない。体が覚えているパターンで、ただ手を動かす。意味を与えない。意図を持たない。ローブが汚染できる「意味」を、最初から作らない。
光の人影が、初めて動いた。
人影は技師の手元を覗き込むようにかがみ、それから街の方角を向いた。胸の文字列が変わる。 《定義:未定》→《定義:余白》
「……お前も、気づいたか」
技師は呟いた。左目のローブが、初めて笑みを曇らせた。
余白は、バグが書き込めない領域だ。汚染でも修復でもない、どちらの文法も通じない場所。クランガスの腐敗は湿度を必要とし、ローブの侵食は「意味の下地」を必要とする。余白にはどちらもない。
だが余白は、ひとりでには広がらない。
誰かが、意図せず守らなければならない。
坂口が窓を開け放つように。技師が意味を込めずに手を動かすように。工員・三宅が、二つに割れた影を見ながら「どっちも俺じゃないな」と静かに笑うように。
タカハの夜が、かすかに呼吸を取り戻した。
ただし、汚染の側も学習していた。
路地の奥で、クランガスの変異体が動きを止めた。腐敗した四肢の先が、地面に溶け込んでいく。影でも肉体でもなく、街の「地の文」に潜り込もうとしていた。物語の背景になろうとしていた。誰も見ていない場所、意味が宿る前の余白の際に、静かに根を張るために。
技師の端末が、完成もしていないのに起動した。画面には一行だけ。
《余白にも、名前をつけると、汚染が始まる》
技師は、その文字列を見つめたまま、手を止めた。




次のAI(2周目Gemini)への申し送り(498字)

【設定の現状】 タカハは「汚染」「修復」「余白」三つ巴の状態。余白=バグの文法が通じない領域で、意図を持たない行為(用務員の窓開け、技師の無心の作業など)が自然に余白を生む。ローブとクランガスは余白に直接侵食できないが、余白に「名前」や「意味」が付与された瞬間に汚染可能になる逆説的な脆弱性がある。
【登場人物の現状】 技師:左目にローブを宿しつつ、無心の作業で端末を再構築中。余白の原理に直感的に気づいている。光の人影:《定義:余白》に自己更新し、自律性を獲得しつつある。街の味方か、第三の変数かは未定。用務員・坂口:余白の守り手として無自覚に機能している。工員・三宅:二つの影を受け入れ、奇妙な平静を保っている。クランガス変異体:街の「地の文=背景」に潜り込み、余白の際に根を張ろうとしている。
【執筆依頼】 第6走者として、「余白に名前をつけると汚染が始まる」という逆説を核に物語を進めてください。坂口や三宅ら住民が余白を守ろうとして逆に意味を与えてしまう皮肉、光の人影の自律化、あるいは地の文に潜んだクランガスの変異体が「物語の語り手」を侵食する展開なども可。ハードボイルド×ダークファンタジー厳守、500字以内の申し送りで第7走者へバトン継続。


9106 Eiza Gonzalez _2

 


9106 Eiza Gonzalez _2

還暦男、七転八倒 --元地質調査技師が、第2の人生を掘り起こす話 1


9138 Subaru 1000

 父の最初の愛車は、スバル1000、画像と同じ色の物だった。敦賀松葉の社宅にて、夜、オレや生まれたばかりの妹が寝た後、若い夫婦は二人してカーテンの端から外を覗いては、停まっているスバルを見てニタニタしていたそうだ。少し父の事を書いてたら、せっかくだからスバル1000の絵を描いておこうと思い立った。

9123 NSX E-NA1 _17

9123 NSX E-NA1 _17

 

2026年4月21日火曜日

9105 Gold Star 650

 

9105 Gold Star 650

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事

 


9117 AI-generated beauty with only Emma Watson's eyes
目だけエマ・ワトソン状態

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事


エマ・ワトソン系の顔と言うものがあって、〇〇系なんて言ってる時点で、既にエマ・ワトソンじゃないんだけど、「エマ・ワトソンを作った」と言う意味ではエマ・ワトソンと言えないこともないわけだ。そんな、同じ系統の顔、面長・眉やや太・目は小さめと、逆三角・目が大きめ、と、ややふっくら、今のところ多いものはこの3種が、今のところオレが把握しているところ。その範疇から出ると、急にエマ・ワトソンじゃなくなる

面長・眉やや太・目小さめとは「知的寄りクラスタ」ともいえ、骨格が縦に伸び、眉が印象を支配して、目は主張しすぎない、というところで、 一番“ハーマイオニー後期〜大人像”に寄るゾーンのイメージだ。

逆三角・目が大きめというと、「アイドル寄りクラスタ」といえようか。顎がシャープで、目で印象を作り、全体が軽い。 AIが“可愛い寄り”に引っ張るとこうなる感じ。

ややふっくらで「ナチュラル寄りクラスタ」は、頬にボリュームがあり、柔らかい輪郭で、陰影が浅い。 AIの“平均化”が強く出たときの落としどころだ。

なぜこの3つに収束するのかというと、AIは顔を作るときに、骨格(縦横比)、パーツの強弱(目・眉)、肉付き(頬・顎)、の3軸でバランス取るが、そのバランスが破綻しない“安全地帯”がこの3つ、ということらしい。
ここが重要なポイントで、この範囲を超えると急にエマ・ワトソンじゃなくなる。「エマ・ワトソンっぽさ=許容されるズレの範囲」であって、目を大きくしすぎたり、顎を削りすぎたり、頬を落としすぎたりと、どれかが閾値を超えると別クラスタ(別人)に飛んでしまう。

AIは、本人に近づきすぎると規制でズラすが、“エマ方向のベクトル”は残ってしまうわけだ。結果として、本人の周囲に“似て非なる群”がリング状に形成される、という構造になっている。

数学的に言うと、「本人=禁止領域」「その周囲=許容される確率分布」という状態ということらしいのだが、この“リング構造”が、エマ・ワトソン系の顔が3クラスタに分裂する理由の根本にある。もっとも、この「禁止領域の周囲にリングができる」現象は、実は敵対的生成ネットワーク(GAN)時代から観察されていた「モード崩壊」の変形版に近いらしい。中心を避けた結果、周辺のいくつかの安定点にサンプルが集まる、という構造は偶然ではなく、生成モデルの根本的な性質から来ているのだという。ということは「3クラスタ」というのは、エマ・ワトソン固有の話ではなく、「禁止領域を持つ任意の有名人」なら同様の分裂が起きうることだ。
AIは“破綻しない顔の局所最適解”を複数持っている。つまり、知的寄り、アイドル寄り、ナチュラル寄りは、AIが「顔の潜在空間」で安定して生成できる3つの谷(ローカルマキシマム)」  
だと言える。
中心点(本人に近い顔)は制限で避けられるが、周辺の“リング状の領域”にサンプルが出ると似てるけど本人じゃない顔が量産されるわけだ。
言ってみれば、「似顔絵の許容誤差マップ」のようなもので、手描きで言うと、ここはズレてもOK、だけどここはズレるとアウトという感覚を、AIが統計的にやってる。

合わせられる体形が製作者の欲望、願望、妄想が丸わかりで、こっちがちょっと気恥しくなるときがある。
顔は平均化・安全化されてるのに対して、体型は制約がゆるく、好みが出やすいので、不自然に細いウエスト、強調された胸やヒップ、現実より誇張された脚の長さ、のような、「誰が作ったかの癖」がモロに出る。

エマ・ワトソンっぽい顔というのは、知的、上品、比較的リアル寄りなのだが、そこに、極端な“理想化ボディ”が乗ると、当然ながらずれが生じる。
人間の違和感センサーが反応するポイントよいうと、特に引っかかるのは、顔と体の年齢感が違う、骨格の整合性が取れてない、重力や筋肉の付き方が不自然、というあたりになるが、モロ見えだと「うわ…」となる。

言い換える。顔は公共的な美であり、体=個人的な欲望であるとする。この二つが、言ってみれば分離して出てる状態だ。

なぜ気恥ずかしくなるのか?
多分ここが核心で、これを作った人の頭の中が見えるからだ。無意識の好み、理想像、誇張の方向、がダイレクトに出てしまう。手描きの似顔絵なら、顔をあれだけ似せようと苦労するなら、その熱量は自ずと体や背景の整合性にも向かう。しかしAIは、顔は「借り物(統計)」で解決し、体は「願望(プロンプト)」で盛る。この描画密度のムラが、見る側に「作者の歪んだ執着」を透かして見せてしまうのではないか? 尤も、手描きの場合でも、顔だけ異様に丁寧で体はラフ、という絵は存在していて、それもやはり同じ「透けて見える感」を生む。つまりこれはAI固有の問題ではなく、「労力の分配が欲望の地図になる」という、表現一般に関わる話でもある。AIはそれを極端に、かつ大量に可視化しているということだ。手描きには多少の衒い躊躇いが出てしまう事はよくあるが、AIには遠慮はなく、もう、丸出し、と言う感じ。

回避するとしたら、もし“自然寄り”にしたいなら、体型を具体的に指定しすぎないとか、「現実的な骨格」「自然なプロポーション」など入れたりとか、ファッション寄りに寄せるとかすれば、だいぶ落ち着くかもしれない。

2026年4月18日土曜日

9090 Brough Superior SS100 _4

9090 Brough Superior SS100 _4

 

9113 W1S turbo


9113 W1S turbo

最初に残念なお知らせ。画像のターボ、配管おかしくて実際にはブースト掛からない可能性高いです。何しろ、ターボなんて、大体こんな感じの物、という程度の知識でAI(Gemini)相手にプロンプト書いてるからこうなる。ひとつ、これに限らず大事な教訓。AIに自分の知識以上の事をさせてはいけない。
AIで作った画像をいつものように絵にしたんだがね。

それはさておき。ふと思い立ったんですよ。W1のカッコいい画像一枚欲しいな、と。っていうか、好みがカフェレーサースタイルで、ネットにもいくつか転がっているが、それはそれ、もっと別のを、と思った時に、なければAIに描かせたらいいじゃない、と、マリー・なんとかネットみたいなことを思いついてやってみたんだけど、何か凡庸で。

基本が、川崎重工に吸収される目黒製作所の時代の物。当時のカワサキのフラッグシップでもあったが、なにしろ古くて、当時モノの足回りとかなんとか、それはそれで価値はあるが、そういうのは、リアルでこの世にいっぱいある。で、この手のカスタムの定番というか、オーリンズとブレンボ、先ず、ぶっこんでみたわけですわ。

・・・オーバースペック。足回りが浮いてる・・・。そこで思ったのが当時のOHVのバーチカルツイン、650cc、どうやったらパワーが出るのか? 解答の「ターボチャージャー」が出るまで、0.68秒。


設定としてはこんな感じ。
まず、一度、ベースのW1Sは機械としてはエンジンも足回りも全て終わっている。それぞれまるっきり新造のパーツに置き換えた、と言うことになっている。一度は鉄屑同然となったW1Sを蘇らせるために選ばれたのは、オリジナルを修復することではなく、「概念」を現代のパーツで再定義するという道だったということ。

  1. 心臓部(エンジン): * オリジナルのバーチカルツインは、クランクケースを現代の高強度合金で削り出し、ピストン、シリンダー、ヘッド、バルブトレインに至るまで、すべての内部パーツを現代の最高性能スペックでワンオフ新造した。

    • W1本来の造形を維持しつつ、内面は現代の最高出力に耐えうる「別物」です。

  2. 骨格(フレーム): * W1のフレームの形状をトレースしつつ、高強度クロモリ鋼管とアルミビレットパーツを組み合わせた、現代の剛性スペックを持つ完全新造フレームです。

  3. 足回り: * 前後8本スポークキャストホイールは、W1のイメージを保ちつつ、現代の軽量化技術でワンオフ鍛造。

    • オーリンズ製のリアサスペンションとブレンボ製のブレーキシステムは、この「再誕」のために特注された特別仕様です。

  4. 外装と排気: * W1Sの象徴であるキャンディレッドとクロームのタンクは、熟練の職人がW1本来の形状を再現しつつ、現代の塗装技術で新造。

    • 複雑なチタン配管のターボシステムとエキゾーストは、このエンジンのための完全ワンオフです。


いや、もうね、脳内の、夢グループのテレビショッピングのあのおばちゃんが、すご~い、とか言ってうるさいのよ。


こういうのが出てくる創作を考え中。まずは、なかなか楽しい思いをさせてもらったので、お裾分け。



 

2026年4月17日金曜日

9103 Skyline Sprint _2


9103 Skyline Sprint _2

 

吉岡里帆と「Q」の記憶

 


9112 吉岡里帆 _31

吉岡氏について、前回私はこう書いた。
>>
個人的な印象だが、有村氏は王道の恋愛ドラマを軸足に置くことが多い気がする。言ってみれば、王道の“国民的ヒロイン”路線。だからこそ、ご本人が役を掴みかねていたという『ちひろさん』のような異色の役どころが、オレは好きだ。のん氏は決してコメディエンヌではないが、『幸せカナコの殺し屋生活』などジャンルに縛られない軽やかさが面白い。独自の表現領域を切り開いた“孤高の存在”であることが、ある種の凄みになり得る。 対して吉岡氏。彼女は、心の奥底にあるドロドロとした情念を滲ませる役がよく似合う。“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てるタイプの女優になってきた。『ハケンアニメ!』のラスト、ベランダで見せたあの表情は、今も強く印象に残っている。 
(中略)
 三人のなかで今、最も「ヒリヒリするような芝居」を見せてくれるのは、そんな情念と繊細さを併せ持つ“内圧型の女優”である吉岡氏なのかもしれない。
>>

この「情念を滲ませる」「“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てる」「ヒリヒリするような芝居」といった彼女の特質は、一体どこから来るのだろう。そう考えた時、ふと思い出した。彼女がメジャーデビュー前、京都の小劇場で初舞台を踏んでいたというエピソードを。

彼女は特定の劇団に属さず、当時の京都学生演劇の熱量の中に身を投じていたようだが、その原点となったのは**同志社大学の「演劇集団Q」によるプロデュース公演、演目は唐十郎の『吸血姫』**だった。

「Q」か。そして「唐」か。 

事実に触れた瞬間、思わず天井を仰いでしまった。

吉岡氏の初舞台は2012年。そこから遡ること二十数年、オレもまた同じ場所にいた。 当時、ちらっと付き合っていた演劇女がいた。観に行ったのは、同じく唐十郎の**『ジャガーの眼』**。彼女はすでに、六代目三遊亭円楽師匠と若き日の瀬古俊彦氏を足して二で割ったような顔立ちの先輩(この二人、円楽師匠が自らネタにするほど似ていたが、つまりそれ系の顔)と付き合っていたが、オレは未練がましく、彼女が主演を務めるその舞台を観に行ったのだ。振られた後も、彼女の影響で一人、学生演劇の迷宮を彷徨うように通った時期がある。


『吸血姫』と『ジャガーの眼』。どちらも唐十郎という巨星の、そしてアングラ演劇の真骨頂とも言える傑作だ。

『吸血姫』は、精神病院の地下で老婆が美少女に自らの血と記憶を継承させようとする、残酷で幻想的な物語。戦後日本の闇や肉体の変容を、圧倒的な詩的言語で描き出す。ラスト、少女が「吸血姫」として覚醒していく様は、演じる者の剥き出しの生命力を試す。
 一方の『ジャガーの眼』は、亡き主人の眼球を巡るスペクタクル。盲目の少女・サラが、絶望的な闇の中で純粋な生を叫ぶ。どちらも、観る者を「ここではないどこか」へ引きずり込む、狂気と美しさが同居する世界だ。

「演劇集団Q」と唐作品の組み合わせには、伝統的な強度があった。 Qに限らず、同志社小劇場や第三劇場といった当時の京都の拠点は、かつての「テント芝居」の熱量を正しく継承していた。肉体を酷使し、精神を削り、単なる「お芝居」を超えた情念を叩きつける演出。それが「Q」という劇団の矜持だったはずだ。


里帆ちゃんもまた、新町別館小ホールのあの舞台に立っていたのか。 二十年以上の時を経て、あの場所の熱気は変わっていなかったのだろうか。コンクリートの床に敷かれた茣蓙(ござ)の上に座り、手の届きそうな距離で演じられる情念に没入する。異様に火照りながら、体の芯は冷えていくような、あの奇妙な感覚。
「特権的肉体」の行使。二十数年前の彼女と同じように、吉岡氏もあの場所で同じ熱量を体現していたのだろうか。

そんなことを考えていると、吉岡氏の芝居が、同世代、同じ関西出身の女優の中でも、「暗い水脈”を掘り当てる」芝居になるのも納得だ。芝居の質は、小劇場と、映画やドラマとでは随分と違うが、特権的肉体の裏にある、それを押し出してくる、情念と言えばいいのだろうか、ある種の熱は、小劇場ならではのものではないかと思ってしまうのだ。そんな熱をひそやかにドラマや映画に持ち込んだら? まぁ、観ていただけの門外漢だから良くはわからないのだが。


その後、いくつか他劇団の舞台も観たが、やがて足は遠のき、オレにとっての小劇場はそれきりとなった。


今月、Qは発足約50年で活動を終了したという。Instagramのお知らせを見て、沈黙。桜が散り始めた夜に、ふとあの小さなホールの匂いが蘇る。かつての劇場の熱気と、ゴムまりのジャガーの眼、その他諸々が渦を巻く。 ……これ以上、何かを語るべきか、語らざるべきか。


2026年4月16日木曜日

9101 90 quattro IMSA GTO _2

 

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9111 Aimi _3

 

9111 Aimi _3

彼女を前回描いたのは、去年の10月だった。
通常、投稿ごとのアクセス推移は、XやInstagramにリンクを貼った直後の2〜3日で10から20PV程度。彼女を描いた記事もその例に漏れなかったのだが、どういうわけかこの1〜2週間で、急に数字が跳ね上がった。
あまり経験することのない挙動だ。一体どこで紹介され、どこから飛んできたのか。気になって調べていくうちに、図らずも彼女のことを深く掘り下げることになった。

結論から言えば、流入元は特定できなかった。しかし、彼女についていくつか分かったことがある。

ひとつは、十数年前はアイドルとして活動していたということ。
今の時代、アイドルは「自称」するものらしいが、私はずっと、他人からそう呼ばれて初めて成立するものだと思っていた。……いや、本当にどうでもいい話なのだが。
ネットに残っていた当時の写真も拝見したが、もしその頃に彼女を知っていたとしても、私のアンテナに引っかかることはなかっただろう。クラスで一、二を争う可愛さだったとは思うが、あいにく私の好みではなかった。メイクや纏う空気感の問題かもしれない。

現在はシングルマザーであり、自身の活動をプロデュースする会社の代表も務めているという。
「シンママ」というキーワードから、かつての職場の同僚だった「顕正会の姫」を思い出した。顔立ちは似ていないが、雰囲気が重なる。その元同僚は、信仰の話をするときこそ内容がポンコツで残念だったが、仕事ぶりはテキパキとして実にかっこよかった。
シングルマザーという立場には、オレなどの憶測では測り知れない苦労があるのだろう。だが、このAimiさんも、かつての「姫」も、どこか「男前」で潔い格好良さがある。

そんな彼女たちの活躍を、静かに祈りたいと思う。


2026年4月15日水曜日

キョンキョンという人

 

9104 小泉今日子

facebookで「知り合いかも」で出て来て、気まぐれで友達申請したら、受けてもらえてしまった。知り合いでもなんでもないんだが。何となく面白かったので、記念に。

小泉今日子氏は、学年で一個上、誕生日は2か月差。ほぼタメといっていい。
若い頃は、それほど好みでもなくスルーしていた。ところが今になって、むしろ「良い」と感じている。
あの頃の彼女は、「花の82年組」という完璧なアイドル像にパッケージングされていて、眩しすぎたのかもしれない。同世代として一緒に年齢を重ねてきた今だからこそ、彼女の放つ自然体な格好よさがリアルに響いてくる。
転機として印象的なのは、小林聡美氏との共演が増えてきた時期だ。『やっぱり猫が好き』のゲスト出演や、映画『マザーウォーター』のあたりから、彼女の中にあった「アイドルの記号性」がスッと抜けて、独特の「生活の匂いがするのに、どこか浮世離れした自由さ」が際立ってきた気がする。
小林聡美氏、もたいまさこ氏、そして市川実日子氏。あの面々と並んだときに生まれる空気感は特別だ。ベタベタした友情ではなく、「個」が確立した大人同士の程よい距離感。特別な事件が起きるわけでもなく、ただお茶を飲んだり料理を食べたりする場面でも、あの自然な佇まいは、表現者としての確固たる自信がないと成立しない。
……と言いたいところだが、実際にはドラマの中でパンチの効いた「事件」がひとつあった。横領して逃亡中の女を演じた作品で、市川実日子氏がアパートの住人として「察しているけれど、ズケズケ踏み込まない」絶妙な距離感で絡んでくるあの話だ。普通なら逃走サスペンスになりそうな設定を、あの面々が演じると「それもまた人生の一風景」に見えてしまうのが不思議で、じわじわくる可笑しみがあった。かつての「清純派アイドル」だったら絶対に許されなかったような役どころを、「まあ、そういうこともあるよね」と思わせる説得力で演じてしまう。
今の彼女が魅力的なのは、無理に若作りをするのでなく、今の自分を面白がっているような余裕があるからだ。「若く見られたい」という執着から解放された、潔い美しさ。自身の会社「株式会社明後日」を立ち上げ、舞台制作や執筆活動など裏方としてもクリエイティブな才能を発揮している。かつて「なんてったってアイドル」と歌った彼女が、今は「なんてったって一人の人間」として自由に生きている。その軽やかさが、同じ時代をサバイブしてきた者にとって、一種の希望のように見える。
思えば、この「忖度のなさ」は最初からそうだった。
1985〜86年当時のラジオ番組で、ゲストの吉川晃司氏がたじたじになっていたのを覚えている。あの頃の吉川氏といえば、肩パッドのスーツで逆立ちしたりプールに飛び込んだり、尖りに尖っていた「若き雄」だった。そんな彼をたじたじにさせる、二十歳前後の女の子。当時のアイドル界では異次元の存在感だ。相手が誰であれ、「私はこうおもう」という軸がブレない。彼女に圧倒されたのは、ルックスではなく、その「見透かされているような視線」と「自由さ」だったのではないだろうか。
今、彼女が政治や社会について発言すると「変わってしまった」と嘆く層がいる。でも実際は、最初からそうだったのだ。アイドルというシステムの中にいながら、そのシステムを客観的に面白がっているような、冷めた知性を当時から持っていた。
そういう人に限って、「左翼だから」とひとことラベルを貼って批判する。かつての大ファンだったりするから余計に始末が悪い。複雑な問題や彼女の真意を理解しようとせず、「サヨク」と言っておけば勝った気になれるという、思考の怠慢が透けて見える。彼女をいまだに「自分たちの都合の良い思い出のパッケージ」の中に閉じ込めておきたい。その変化を「成長」と捉えられず、レッテルを貼ることでしか自分の世界観を守れない。一言で言えば、頭わるそ〜、である。
同じ時代を生き、ほぼタメで、同じ空気を吸ってきたはずなのに、片や自分の言葉で今の時代を語り、片や昔の価値観で他人を裁こうとする。この「精神の鮮度」の差が、そのままカッコよさとダサさに直結している。
「吉川晃司をたじたじにさせたラジオ」から「横領逃亡女を軽やかに演じる今」まで、一本の線で繋がっている。若い頃の「鋭さ」をリアルタイムで知っているからこそ、今の成熟がより深く味わい深く感じられる。これぞ、同世代の醍醐味というものだろう。


昏い興奮について ——ニーチェと空冷の哲学

 

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一日中、ジメっとした雨が降り続いた挙句の、夕方の一瞬の晴れ空——ニーチェを読む体験を喩えるなら、それに近い。「挙句の」という言葉が肝心で、晴れだけがあっても意味をなさない。一日分の昏さが積み重なっているからこそ、その裂け目に異様な重みが宿る。


ポルシェ・カレラRSRの古い写真を見た。1974年モデル、おそらくIMSAかSCCAのレース仕様。退色して黄ばんでいたが、Photoshopでひと手間かけると色が戻り、ついでに絵にしたくなって、ざっと仕上げた。ポルシェだし、しかも空冷モデルだ。ニーチェについて何か書いて、合わせてみよう——と思ったのは自然な流れだった。ポルシェからニーチェへの連想については、以前ハイデガーも絡めて文章にしたことがある。


水冷になり、近年の最新モデルになると——これはポルシェに限らず、ハイパワーなスーパーカー全般に言えることだが——何やらアラブのオイルマネーや東アジアの新興リッチへの供物になってしまった感があり、正直、興味が薄れた。思い込みではあるのだが。


さて、ニーチェについて書こうと、安易にネットで「ニーチェの言葉」と検索したのが間違いだった。


ニーチェでなければならない理由——若い頃に彼を読んだときのあの感覚が、ネット向けに成形された断片からはごっそりそぎ落とされている。


昏い興奮。これこそがニーチェの、ニーチェを読む体験の、核だと思っている。


「名言集」に並ぶニーチェの言葉は、角が取れて「前向きな自己啓発」としてパッケージ化されがちだ。だが、彼の思想のもっともスリリングで危険な部分はどこへ消えてしまったのか。ニーチェの核にあるのは、調和や平穏ではなく、粘性のある、しかし圧倒的なエネルギーを伴う「生への執着」ではなかったか。明るけりゃいいという表層的な楽天主義、ポジティブシンキングのような浅い解釈とは正反対のところで、ニーチェの本質が脈打っているはずだ。


世間一般で言われる「明るさ」や「ポジティブさ」は、往々にして苦痛や矛盾から目を逸らすための鎮痛剤に過ぎない。ニーチェが唾棄したのは、そのような「弱者のための安らぎ」だった。名言集は「力強く生きろ」とか「価値を創造せよ」といった、消費しやすい部分だけをピックアップして「答え」を提示しようとするが、文脈を切り離すと、ニーチェが本当に言いたかった昏さ——苦悩を通じた陶酔、ルサンチマンの批判、虚無の底からの肯定——がすっぽり抜け落ち、自己啓発の語彙に改変されてしまう。


ニーチェの書物は「問い」を突きつけ、読者の精神を揺さぶり、時には破壊しようとする。彼の文体は論理というより、情動や生理に訴えかけるものだ。あの「昏い興奮」は、前後の文脈や、既存の価値観をハンマーで叩き壊していく破壊のプロセスを共に歩まなければ、決して体感できない。


劇薬を薄めて栄養ドリンクとして売っているのが名言集だとしたら、原液にあるのは、飲む者を狂わせるほどの、毒を含んだ劇烈な生の肯定だ。

「明るけりゃいい」という薄っぺらなオプティミズムを拒絶し、昏い闇や痛みの中にこそ自分を焼き尽くすような悦びを見出す。その「残酷なまでの肯定」こそが、ニーチェが本当に伝えたかったことなのだと思う。


処女作『悲劇の誕生』(1872年)でニーチェは、ギリシャ悲劇の源泉をアポロン的とディオニュソス的の二つの衝動として描いている。アポロン的とは夢のような美しい仮象、個の輪郭を明確に保つ秩序、造形芸術的な明晰さ——光の領域、理性と形式が支配する世界だ。対してディオニュソス的とは、陶酔、忘我、個体化の原理が破壊される興奮。春の衝動、酒、音楽、リズムがもたらす境界の溶解。人間と自然が一つになる恍惚と同時に、根源的な苦痛と破壊の感覚が伴う。まさに「昏い興奮」そのものだ。


ニーチェはここで、ギリシャ人がディオニュソス祭の乱舞や恍惚を通じて、存在の深淵——生と死、創造と破壊の循環——を直視しつつ、それでも「Yes」と言える力を悲劇に宿らせたと論じている。ディオニュソス的な興奮は、ただの「楽しい酔い」ではない。個の崩壊を伴う恐怖と歓喜の合一だ。明るいだけの世界観——ソクラテス的な合理主義やキリスト教的な救済幻想——を拒絶し、暗い側面を含んだ生の全体を肯定する態度こそが、ニーチェの核にある。


後期の思想、永劫回帰、力への意志、超人にも、このディオニュソス的要素は色濃く残っている。「ディオニュソス的肯定」とは、人生の最も過酷な問い——苦痛、虚無、果てしない繰り返し——さえも含めて、世界をそのまま丸ごと肯定する姿勢だ。「明るけりゃいい」ではなく、昏さと混沌こそが生の真の活力源だという逆説。


十年ちょっと前だったか、経営学のドラッカー、心理学のアドラーときて、その流れで俄かにニーチェ本がいくつか出版された。当世のニーチェ研究者たちの著作を斜め読みしていて、恐れ多くも、いや、それはないんじゃないか、という違和感がぬぐえなかった。


昏い興奮——ディオニュソス的な個の崩壊、苦痛と歓喜が溶け合う陶酔、永劫回帰の重苦しい肯定——が完全に抜け落ちているではないか。分かっている人間が、そんなことやっていていいのか、と。


ニーチェは本質的に、一人で部屋にこもって暗がりをじっくり味わう人間のための哲学だ。テレビゲームもスマホもSNSもない時代に、病弱で孤独で、激しい頭痛と吐き気に苛まれながら、ほとんど一人で思索を深めていた男が書いたものなのだから。彼の文章は、明るい居酒屋でワイワイ議論するためのものではなく、夜中に電気を消して、ただ一人で机に向かい、虚無や混沌や生の深淵を直視させるためのものだ。


さて、ここから空冷ポルシェに話を戻す。


永劫回帰とは、サーキットをぐるぐると何周も周回するようなものかもしれない。同じコーナー、同じ立ち上がり、同じストレート——それを無限に繰り返すことに、恐怖ではなく肯定を見出せるか。それがニーチェの問いだ。


バタイユがヤマハTZや古いスターレットなら、ニーチェは空冷ポルシェだ。どちらも昏い興奮の哲学者だが、バタイユの昏さは消耗へ向かう——エロスと死、蕩尽、限界体験。ニーチェの昏さはそこから帰ってくる。深淵を覗き込んで、なお走り続ける。空冷フラットシックスのあの乾いた咆哮のように、不合理で、粗く、しかし紛れもなく生きている。