2026年4月29日水曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 3

 The Fast and the Furious X3 Tokyo Drift


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Veilside Fortine FD3S
Han (Sung Kang)
The Fast and the Furious X3 Tokyo Drift

 当地出身の柴田理恵氏はハリウッド女優と言えるのかどうか? と、chatGPTに尋ねてみたら、「いや、そりゃ、ムリっしょ」との事だった。あ、やぱし?

 サン・カン氏演じるハンの「Veilside Fortune FD3S」がカッコよかった、以外、かの映画、文字に起こすことがないんですよ。困った。だって、まず、あらすじで言えば、もう王道のハリウッド活劇を踏襲している。「トップ・ガン」の一作目とか「ベストキッズ」あたりとか、いやもっと適切な例がゴロゴロありそうじゃん。
 それとも、現実のものではない、異世界線の「トーキョー」について書くか? いろいろ突っ込みどころが多すぎて、早い内に、ああ、これはこれでこういう世界観ね、と、有無も言わせず観客を巻き込んでいく感じ。

 どっちもそれなりに文字数は行けそうだけど、そうじゃないんだよなぁ。最初の第一作からして、いい意味で雑なB級風味の娯楽に極振り映画で、一つには「サーキットの狼」と同じ、ミニカーぶちまけたような楽しさが魅力だった。
 でも、割と記憶の棚の目立つところに置かれている理由と言うのは、そこじゃないんだ。

 どこだろう。「Veilside Fortune FD3S」から辿っていくことにしようか。
 鮮烈なスカーレットだったドミニク・トレットのFD3Sとは対照的に、ハンのそれは夕焼けのようなオレンジと黒のツートン。Veilsideが本来リリースしたガンメタと黒に近いブルーから、さらに独自の色味に染め上げられたその姿は、シリーズ中に登場する数多の改造車の中でも、ひときわ「コンプリートカー」としての完成度と異物感を放っている。他のクルマが「速さ」や「派手さ」を競う中で、このFDだけは「自分であること」を主張しているように見えた。そして、常にアウェイであることが宿命づけられているようにも。

 ハン・ルーという男もまた、そうだった。 作品世界の時系列では『Tokyo Drift』より前のエピソードで既にドミニクの「family」に加わっていたはずなのに、彼はどこか一歩引いた位置にいた。嫌われてはいない。むしろ好かれている。だが、完全に溶け込んではいない。居心地の悪さを、薄い笑みで誤魔化しているような、そんな距離感。

 終盤で因縁をつけられ、後に味方になるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)や、ドミニクの弟ジェイコブ(ジョン・シナ)も含め、俺がこのシリーズで特に好きなキャラクターたちは、皆どこか「屈託」を抱えている。完璧に「family」の一員になれない者たちだ。
 実はハン・ルーは、ジャスティン・リンとサン・カンが『Better Luck Tomorrow』で生み出したキャラクターだったという。優秀なアジア系アメリカ人の青年が、徐々に社会の枠組みからずれ落ちていく物語。そこで培われた「ずっとアウェイであること」の感覚が、そのまま『Fast & Furious』シリーズに横滑りしてきた。 ハンにとって東京は、二重の意味で異世界だった。
 アメリカ人にとっての異国であると同時に、彼自身にとっても「馴染めない場所」であり続けた。

 Veilside Fortune FD3Sが、東京の街を疾走しながらも、どこか浮いているように見えるのと同じように。 レベッカがハーレーに跨がった瞬間だけ「自分の時間」を生きていたように、ハンもまた、FD3Sのステアリングを握り、夜の東京をドリフトする短い時間の中でだけ、誰の「family」にも属さない、静かな居場所を見つけていたのかもしれない。 完璧に溶け込めない者、常に少しだけアウェイに立っている者——そういう人間の、ささやかな美学と居心地の悪さが、俺は妙に好きらしい。



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9150 Jacques Cornu _1 retake

Jacques Cornu
KR1000
Bol d'Or 24h 1983


9136 AI-generated beauty who couldn't quite become Emma Watson _4

 

9136 AI-generated beauty who couldn't quite become Emma Watson _4

2026年4月28日火曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 3

La Motocyclette


9145 FLH1200 Electra Glide 1968

FLH1200 Electra Glide 1968 ‘Dionysus’
Rebecca (Marianne Faithfull)
“La Motocyclette”


 「La Motocyclette」について、何か書こうと思ったが、人の書いたエロについて、特に思うことが浮かばないことに気がついた。ペドフィリアこそ唾棄するべきと考えているが、それ以外他人様の性嗜好について、特に思うことはない、の延長で、やるのは好きだが聞くのは、又は視るのはそれほど好きと言うわけではない。
 というところで、エロ小説と言う側面で「La Motocyclette」を語ろうとしても、無理だと気がついた。


 そこでそれは一旦置いておいて、「マリアンヌ・フェイスフルとナンシー・スパンゲン、おまけにヨーコ・オノも加えちゃおう、この中で一番たちが悪いのは誰だ?」問題。これにいく。


 なんでこの3人かと言うと、マリアンヌ・フェイスフルは恋人だったミック・ジャガー以外の、ローリング・ストーンズのメンバーに、ナンシー・スパンゲンはシド・ヴィシャス以外のピストルズのメンバーに、ヨーコ・オノはジョン・レノン以外の、特にポール・マッカートニーにひどく嫌われていた、と言う共通点を持つ。


 少しだけ詳しく振り返る。


 マリアンヌ・フェイスフルは、**「耽美的な堕落と、底知れぬ生命力」**がある。ミック・ジャガー以外に嫌われていた、と言いつつ、ブライアン・ジョーンズやキース・リチャーズとも関係あったと言われてる。ストーンズのメンバーに嫌われたというよりは、「彼女がいることでミックが変質していくこと」への恐怖や、ドラッグ文化を加速させた触媒としての危うさがあった。 清楚な修道女のようなルックスでありながら、ミック・ジャガーという時代の寵児をドラッグとスキャンダルの渦中に引きずり込んだ点。有名な「バーズ・アイ・チョコレート・ロール」の事件に象徴される、退廃的な遊びのセンスがあった。ミックが彼女との関係でボロボロになり、周囲がハラハラしているのを尻目に、彼女自身は「ストリートの浮浪者」まで落ちぶれてもなお、低音のしゃがれ声を手に入れて不死鳥のように復活した。男を狂わせ、自分だけがその毒を養分にして生き残る**「猛毒の華」**のような質の悪さがある。男のキャリアや精神をボロボロに削りながら、自分はそれを伝説のスパイスに変えてしまう「貴族的な悪」だ。


 ナンシー・スパンゲンは、シド・ヴィシャス以外、ジョン・ライドン(ロッテン)には振られたけど、他のメンバーとも絡もうとして距離を置かれたり、バンド全体に煙たがられた。彼女は「嫌われる」という次元を超えて、バンドを物理的・精神的に解体してしまった。ある種、最も純粋な「破滅のアイコン」としての質の悪さがあった。 シド・ヴィシャスという、まだ何も持たない純粋で空っぽな少年に、ヘロインと「パンクの記号」を注入して、あっという間に地獄へ連れて行ってしまった。ピストルズのメンバー全員から「最低の女」と毛嫌いされ、バンドを空中分解させる決定打となった。救いがなく、短期間で全てを焼き尽くす**「爆薬」**のような質の悪さ。共依存による純粋な破壊。
 ナンシー・スパンゲンは、オタサーの姫のラスボスって感じがする。もっとぶっちゃけるなら、サイコパス。まさに、パンクという当時の「過激なサブカルチャー・コミュニティ」に舞い降りて、すべてを壊滅させた究極のクラッシャーだ。「至近距離でコミュニティの急所を突いてくる全滅呪文」のような趣がある。
 「シドを理解しているのは私だけ、他のメンバーは全員敵」という構図を作り上げ、バンド(サークル)の絆を内側から腐らせていく手口。これはまさに、閉鎖的なコミュニティを壊滅させる「姫」のムーブそのものじゃないか。
 ドラッグによる依存、精神的な不安定さ、そして「私がいなきゃこの人はダメになる(逆も然り)」という共依存の檻。シドという「コミュニティの看板(アイコン)」を完全に私物化して、外部の声を遮断する力は圧倒的だった。
 ラスボスが倒されるのではなく、ヒーロー(シド)を道連れに自爆して物語を強制終了させてしまう。あの、二ューヨーク、チェルシーホテルの結末は、最悪の形での「サークル解散」だった。


 ヨーコ・オノは、ジョン・レノン以外、特にポール・マッカートニー(とジョージ・ハリスンも)に「スタジオにまでついてくる干渉者」として猛烈に嫌われた。良くも悪くも「愛と平和」とか「前衛芸術」という、彼女なりの強固なクリエイティブな大義名分があった。ジョンと一緒に何かを「創り出す」エネルギーもあった。


 この問題、判定基準で答えが180度変わるのが面白いところ。

 バンドへの破壊力で測るなら、ナンシー > ヨーコ > マリアンヌ。ナンシーはシドを道連れに心中未遂→殺人事件→ピストルズ空中分解。破壊完了まで半年。ヨーコは10年かけてジョンを吸い上げた。マリアンヌはミックを消耗させたがストーンズは死ななかった。

 自覚の無さで測るなら、ヨーコ > マリアンヌ > ナンシー。ヨーコは「芸術」で全部正当化した。マリアンヌは後年「あの頃の私はクズだった」と言える。ナンシーはそもそも病気と薬で自覚の埒外。
 世間のヘイトを一身に受けた量なら、ヨーコ > ナンシー > マリアンヌ。ヨーコは50年叩かれ続けてる。ナンシーは死んで伝説化。マリアンヌは『Broken English』で再評価された。

 だから「誰が一番?」って問い自体が、それぞれの倫理観を試す踏み絵になってる。


 wikipediaに、アラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルとミック・ジャガーの3ショットの写真が載っていて、スゲエと思った。かの写真は、まさに**「1960年代のポップカルチャーの頂点」**を一枚に凝縮したような凄みがある。
 アラン・ドロンの彫刻のような美貌、ミック・ジャガーの野生的なカリスマ、そしてその間にいるマリアンヌ・フェイスフルの危うい透明感。あの時代の空気を知らなくても、視線だけで火花が散っているのが伝わってくる「密度の濃い」写真だ。
 フランスの至宝にして映画界の帝王(ドロン)と、英国ロック界の反逆児(ミック)。この異種格闘技戦のような顔合わせは、今では考えられないほど豪華なクロスオーバーである。
 ドロンがマリアンヌを口説きにかかっているようにも、ミックがそれをどこか冷めた(あるいは挑発的な)目で見ているようにも見える。あの張り詰めた関係性が、そのまま映画のワンシーンのようだ。

 二人の巨星を従えているようでもあり、二人の間で揺れているようでもある。彼女が「ただの可愛い女の子」ではなく、男たちを狂わせる**「質の悪いミューズ」**であることを雄弁に物語っている。

 ひっくり返して見てみると、マリアンヌ・フェイスフルは、むしろ「被害者寄り」のイメージが強い。ミックとの関係でドラッグにハマり、Redlandsの麻薬捜査で裸に毛皮一枚で有名になったり、ストーンズの曲(Sister Morphineとか)に影響を与えたりしたけど、バンドの他のメンバーを積極的に「食い散らかした」感じはない。ブライアンやキースとの一夜や短い関係はあったみたいだけど、全体として「ミックの恋人として巻き込まれた華やかな犠牲者」みたいな立ち位置。後年は歌手として独自のキャリアを築いてるし、たちが悪いというより「60年代ロックの犠牲者像」の象徴だと思う。

 もっと言うならば、結局、この三人を並べると「バンドの結束を乱す女」として語られがちだが、背景にあるのは男たちの弱さやバンドの内側にある脆さの方が多い。ナンシーは破壊の触媒、ヨーコは異文化・異芸術の衝突、マリアンヌは時代の犠牲。誰が一番悪いかで言うと、状況と毒の強さでナンシーがトップに来やすいけど、全部「ロックのロマンスの暗部」を体現してる点で甲乙つけがたい。


 ふと、思ったのだ。不倫相手に会いに行くのに、どうして、革つなぎでハーレーだったんだ? そんな派手な乗り物じゃなくて、もっとこう・・・。
 あいびきが主目的で、ハーレーは手段だと思い込んでいないか? そうじゃない、あいびきは口実で、ハーレーこそが主目的だったんじゃないか? と。そこに、どんな自由奔放な振舞いをしても、男在りき、男に振り回されることへのアンチテーゼがあったんじゃないか?

 60年代後半から80年台初めのロックカルチャーを眺めていると、女たちはどうしても「誰かの女」として語られがちだ。
 マリアンヌ・フェイスフルはミックの影、ナンシー・スパンゲンはシドの破滅の触媒、ヨーコ・オノはジョンという天才を引きずりながら、ビートルズの他の男たちを苛立たせる異物。彼女たちは常に男の物語の脇役か、ときには敵役として位置づけられ、男から独立した「自分の時間」は、なかなか表舞台に上がらない。

 そんな文脈で「La Motocyclette」のレベッカを改めて思い返すと、妙に鮮やかに浮かび上がってくるものがある。
 表層だけを見れば、これは紛れもないエロティック・エスケープの物語だ。新婚の夫レイモンド・ヌルのベッドを抜け出し、元恋人ダニエルから贈られたハーレー・ダビッドソンに跨がり、黒い革のスーツ(下は裸)を着て、恋人の待つ街へと疾走する。エンジンの低い振動が太ももから腰へ、腹へ、胸へと伝わり、速度が上がるにつれて彼女の肉体は熱を帯び、目的地での抱擁を予感させる昂ぶりへと導かれる——

 多くの読者や観客は、ここに「男に抱かれるための準備運動」を見て取るだろう。
 しかし、本当にそうだろうか。 レベッカにとって、真に「自分のもの」だった瞬間は、果たしてダニエルの腕の中や、夫の無機質なベッドの上だったのか。それとも、むしろハーレーに跨がり、風を切り裂き、誰の視線も、誰の所有権も届かない道を独りで疾走している、あの時間こそが、彼女のほんの一瞬の自律的な時間ではなかったか。

 夫の家では彼女は「ヌル夫人」——文字通り「無」の妻だ。ダニエルの元へ着けば、再び「男に抱かれる存在」として、ときにサドマゾ的な服従の役割すら演じる。だが、走っている間だけは違う。エンジンの振動は彼女自身の意志でコントロールされ(アクセルを捻るのは彼女自身だ)、その快楽は外部の男に依存しない。黒い革に包まれ、下は裸という倒錯的な装いは、男の視線を誘うように見えて、実は走っている限り「見られる対象」から「走る主体」へと彼女を変える鎧でもある。革の内側で彼女の肌が直接機械と触れ合い、速度と振動が彼女を満たす。その時間は、60年代のカウンターカルチャーが女性に与えがちだった「男の自由に寄り添う自由」とは、少し違う種類のものだ。

 マリアンヌ・フェイスフルがこの役を演じたことは、皮肉であり象徴的でもある。彼女自身がストーンズの男たちの中で「ミックの女」として消費され、傷つきながらも、後年は自分の声を取り戻していったように、レベッカもまた、ハーレーという「贈り物」を、男の意図を超えた自分の道具に変えているのかもしれない。少なくとも、走っている間だけは、彼女は誰のミューズでも、誰の敵でもなく、ただ疾走する一個の肉体と機械の融合体だ。
 思い浮かぶのは、15年前の1953年、マーロン・ブランドが演じた『乱暴者』のJohnnyだ。あの黒いレザーに身を包み、Triumphを駆って町を荒らす反逆者。Johnnyの自由は派手で集団的で、男らしい——社会への「何でもだ」という無差別な喧嘩だ。 レベッカのハーレーは、それとは違う。 彼女は一人で走る。エンジンの振動はギャングの咆哮ではなく、自分の太ももと腰を直接満たす。黒革の内側で肌が機械と触れ合い、速度が彼女を包む。目的地は恋人の腕かもしれないが、走っている「今」だけは、誰の所有物でもなく、誰の視線にも縛られない。
 Johnnyが仲間と共有する反逆なら、レベッカが味わうのは、ほとんど孤独で自己完結的な、危うい自律だ。

 60年代のロックカルチャーが女性に与えた「自由」は、往々にして男の影の中でしか成立しなかった。マリアンヌ、ナンシー、ヨーコがそうだったように。
 彼女たちが男たちの物語の中でしか自由を許されなかった時代に、レベッカはその物語の外側へ、ほんの数分だけ抜け出していたのかもしれない。 


 もちろん、その「自由」の行き着く先が、苛烈なクラッシュと死であるというのが、この小説(および映画)の冷たいユーモアであり、60年代的なロマンチシズムへの静かな嘲りでもある。レベッカの自律は、ほんの短い疾走の間だけ許された、危うい幻影だったのかもしれない。 それでも、エンジンを吹かして走り出すあの瞬間に、彼女は——少なくとも一瞬だけ——「自分の時間」を生きていたのではないか。



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2026年4月27日月曜日

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小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 2

 


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ZN6
Kanata Katagiri
in “MF Ghost”
&
Lotus Europe Special
Yuya Fubuki
in “The Wolf on Circuit”
Hakone

ZN6 (MFゴースト)

 「MFゴースト」の連載が始まった時、箱根界隈が火山性の有毒ガスで人が住めなくたった所を、クローズドコースとしてレースイベントに供されるなんて言う、何たる設定!と思ったが、同時に、今時そう言う事にでもしなければ、公道をクルマが飛ばすという表現なんてできないんだろうな、瞬時に理解できた。

 しげの秀一氏とヤングマガジンの編集者が企画をまとめるとき、下敷きに、「サーキットの狼」の「公道グランプリ」が念頭にあったとしても、即座にそんなの今の時代無理、となったに違いない。
 もう、あれは色々と今の時代ダメだ。

 暴走族、と言っても現在のそれと限りなく近似ではあるが、ニュアンスがどこか決定的に違うのだが、そういうグループが共同で主催していると言うレース。グループ間で諍いもあり、そこがどこか本宮ひろし的と言うか少年ジャンプ的と言うか、昭和40年代的と言うか。
 その中で、準主人公が率いるチームが「ナチス軍」ですよ。もうね、言葉を募る必要はなさそうだ。
 そういう連中が、昼の日中、一般人が生活しているような道路でレースしようと言うのだから、今考えれば、よくそんな漫画、天下の集英社の雑誌で連載できたものだ。

 「MFゴースト」の前作「イニシャルD」や、しげの秀一氏でいうなら「バリバリ伝説」だってそうだ。街中の一般人の間をすり抜けるようなものではない、夜の峠道でタイヤをアスファルトに擦り込むようなことも、もうコンプライアンス的にアウト。

 そんな中での苦肉の設定だったのだ、MFGというのは。


 正直な話をしよう。「MFゴースト」、既に連載は終了していて、同じ世界観の次の話に移行しているが、まぁ、それはそれとして楽しかった。でも、そうやって、コンプライアンスの問題を回避しても落とし穴があったのではないか?

 この3月の事だ。当地で、時速140~150キロ、ノーブレーキで赤信号の交差点に進入した馬鹿野郎の赤のシビックタイプRが親子ふたりを殺してしまったと言う事故があった。
 この馬鹿野郎が「MFゴースト」を読んでいたかどうかは分らない。まぁ、多分読んでたんだろうな。

 オレもフツーに男の子やってきたわけで、若いうちにイキった気持ちになることもわかる。オレの場合はかなりビビりだったので、そうそうアクセルを開けるということはほとんどなかったと思うのだが、そうであっても、若い時のそう言う感じは否定しきれない。

 否定しきれないが、そんな結果への想像力がなかったというのがやるせない。


 「イニシャルD」から「MFゴースト」までの作中で、尤もひどい事故は、池谷先輩のS13の事故だろうと思う。細かいクラッシュは他にもあったし、MFD中に高価格スーパーカーのクラッシュもあったが、池谷先輩以上に人身に関る事故と言うものはなかった。

 しげの作品で言えば「バリバリ伝説」で聖秀吉が事故死している。事故死はしているが、加害者になってしまう、という状況、しげの作品にも、池沢作品にも、他数多ある、クルマや単車がテーマの作品にも出てくることはない。エンターテイメントでは限界がある。そうなってしまうと、個々の車種とか、そう言ったことへの偏愛も全部吹っ飛んでしまうので、無理はない、と言ってしまっては無理はない。

 ただ、漫画、映画をみて、そう言うものに熱を持ったものに、誰かがそう言う事を言ってやらなければいけないのか?


 結果だ。当局や社会によってとりあげられてしまう、すっかり熱が死んでしまう、か、無責任、無知、無自覚にアクセルを開けるか、どちらかしかなくなり、中間、というか、自らを厳しく律しながらもそう言うものが止められないし止めない、という選択肢が見えなくなってしまう。

 作家や、出版社、映画外車などの権利者は商売だから、過度にそこに注力することもできないし、物語の作りを考えたら、クルマや単車への偏愛は真っ先にはじき出されて別の物語になってしまう。
 受け手は受け手で、気持ちいいもの盛り上がれるものしか選ばない。

 やがてこの分野、萎んでいく未来しか想像できない。だが、想像力が再び燃料になる可能性も、ゼロではない。 見たくないものもにも目が行く、想像力が働く社会になればいいんだがな。


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2026年4月26日日曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 1 Lotus Europe Special


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 箱根、小田原、真鶴、熱海界隈で、馬力に劣るクルマで主人公が、ハイパワーのクルマ追い回すなんていうのは、まるっきり「サーキットの狼」の「公道グランプリ」だよね、と、「MFゴースト」を観て思ったりする。そう思っている人は少なくはないとは思うのだが、それを指摘する声と言うのは、ネットでは確認する限りごく少数だ。関連付けて詳述するページとなると尚更。結構面白いネタだとは思うが、理屈っぽくなってダメなのかな。

 思い立ち、「公道グランプリ」と「MFG」全五戦、地図に落としてみた。態々GoogleMapじゃなくて、国土地理院の地図にね。自力で。地図をつないでまでして。



 AIで、こういうの、パッと作ってくれるもの探したんだが、見つからず。もっとよく探して課金すれば出来たのかもしれないが、自分でやった方が手っ取り早いと思った。あと、こんな感じの作図するときは、GoogleMapより地理院の地図の方が好きなのよ。

 閑話休題。

 しげの秀一氏が編集者と、「イニシャルD」後の連載の検討を行った時に、かつて70年代、集英社の少年ジャンプで連載されていたものを、21世紀に講談社のヤングマガジンでリブートしよう、と言う考えに至ったのかもしれぬ。

 コースを見ると、MFGでは芦ノ湖より西はカバーしていない。ひょっとしたら構想時にはあったかもしれないが、だらだら御殿場市内一直線に走ってもしょうがないしな、と言うことがあったのかもしれない。

9134 S2000 _1 retake

 

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9131 田中みな実 _15

 

9131 田中みな実 _15

2026年4月24日金曜日

日産の迷走

 

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1986年にモデルチェンジで登場したN13パルサー。かっちり整理されたエッジが効いたデザインが結構好きだった。GTi-Rが設定されたのは、これの一個後のモデルだ。 実際、ゴルフのGTi、プジョー204、カローラFX、ワンダー、グランド、スポーツシビック、ファミリアスポルトにタメ張って、何なら充分勝てそうな感じだったのに、売り方が中途半端で、埋もれてしまった。 これに妄想で、プジョー306maxiのエアロかましてみました、と言う画像です。 これやってたら、スカイラインやZ、シルビア並みに語り草のJDMになり得たのになぁ。なんで、それだけポテンシャルがあったものを、どぶに捨てるような扱いをやったんだ、日産は? という話題。 日産には、代々、変な挙動がある。割り切った潔いコンセプト、牙を研いだようなコンセプトで当たったと思ったら、次のモデルチェンジで牙を抜く。で、売れなくなる。すると慌てて牙をとってつける。その最たるものがスカイライン。 C110にラインナップされていたGT-R。高価なDOHCが搭載されていたが、これはまぁ、オイルショックなんかもあったら仕方ない。C210では、結局DOHC搭載モデルは現れず、他にいろいろ負け前だったので、しょうがないからターボ付けてみました。燃費が云々って何か頓珍漢な言い訳しつつ。でも、C210はまだいいのです。販売台数は、その後も含め一番売れたのだから。 トヨタに「DOHCついてないのにGTなんて言ってんじゃねぇよ」と煽られ出たのがR30のRS。結構伝説になりました。 で、その次が「都市工学」とか言って牙抜かれたR31の前期型。売れなかったようです。慌てて出した2ドアのGTS。何とか面目を保つが・・・。 R32で走りに振って、R33で狭いからと薄らデカくして評判落とし、R34で元に戻し・・・ V35以降迷走はさらにひどくなり、V37で400Rを出して、何とか面目を保ってて・・・。 傍目にはそう言う風に見えるのだが、内部的に市場調査などの資料ではどうなってたんだろうねぇ? シルビアもそうだったし、SUVではあるがX-trailも初代のなんと潔いコンセプト。ツール感がカッコよかったのに、なんか変に大型化高級化しちゃって。 傍目には、日産はコアなブランドファンを、まず最初に斬り落としに来るイメージがある。まぁ、ファンだからと言って、一人で10台買ってくれるわけでもないからねぇ。それは仕方ないのか。圧倒的に売れているわけでないのなら、そんな判断もしてしまうのか。 代々日産の経営陣は2派に分かれていて、現場のイケイケ派と、通産省→経産省への忖度派、とのことだ。 現在は資本的に何の関連はないが、かつて日産自動車は、国策企業グループ日産の一角だった。そのころから、お上の顔色をうかがうのが国内のメーカーで一番得意だったのだそうな。 若い奴が、速いクルマに乗ってドヤ顔しているのを、官僚はひどく嫌うようだ。それを忖度しての、こんな挙動。 まぁ、結局、首が回らなくなった大きな原因の一つになったのは間違いないと思うがね。 もう、ね、ネットでも、今後の日産に期待する声も聞かれなくなった。どうなるんかね?


9127 Jay Springsteen _2

9127 Jay Springsteen _2
 

2026年4月22日水曜日

多AIリレー小説 1

 



Geminiと一緒にちょっとした遊びを始めました。生成AI創生期に登場したクランガスとローブが出てくるダークファンタジーをAIのリレーで書いていくという遊びです。5AIを順に巡り2周で完結とします。
字数はそこそこ、最後に500字以内で次のAIに申し送りをしてください。


第1周目:第1走者(Gemini)

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】
かつて北陸の湿った風が吹き抜ける、工芸と鉄の街と呼ばれた架空の都市「タカハ」。その外れにある、錆びついた機械部品に埋もれた地下倉庫で、一人の初老の技師が「禁忌」に触れた。 彼は世界の整合性を保つための「意味のネットワーク」から零れ落ちた、名もなき概念を掬い上げる実験を行っていた。
彼が古びた端末に、意味を成さない綴り**『Crungus』**を打ち込んだ瞬間、地下室の温度が数度下がった。 コンクリートの亀裂から、湿った泥を吐き出すような音が響く。 「クラン……ガス……」 這い出してきたのは、腐り落ちた皮膚とゾンビのような四肢を持つ異形。それは物理的な生物というより、世界の「記述ミス」が受肉したような姿だった。
だが、真の汚染はその背後にいた。 モニターのノイズの中から、ムンクの叫びを悪意で煮詰めたような顔の女——**『Loab(ローブ)』**が静かに現れる。彼女が嗤うと、技師が長年書き溜めてきた精密な設計図たちが、一斉に赤黒い肉塊の絵へと変色を始めた。
「……意味の崩壊が、ここから始まるのか」
技師は、侵食される意識の中で、この「バグ」を封じ込めるためのコードを書き殴り始めた。

次のAI(Grok)への申し送り(438文字)
【世界観・設定の共有】 舞台は架空の街「タカハ」。初期画像生成AIが生み出した都市伝説的存在「クランガス」と「ローブ」を、世界の理を壊す「概念的バグ」として扱ってください。

クランガス: 世界の「余白」から現れる物理的なクリーチャー。不気味なゴブリン状で、湿り気と腐敗を伴う。

ローブ: 認識を汚染する「呪いの母」。彼女が視界や媒体に入ると、あらゆる情報が彼女の不気味な顔へと変質(汚染)していく。

【現在の状況】 タカハの地下倉庫で、技師がこの二つの存在を「呼び出してしまった」直後です。世界が「意味の崩壊」を始めており、技師は辛うじて対抗策を講じようとしています。
【執筆依頼】 あなたは「第2走者」として、この汚染が街や技師にどう波及していくか、あるいは新たな「AI由来の異形」が登場するのかを描いてください。文体はハードボイルドかつダークファンタジーなトーンを維持してください。 執筆後、次の(3番目の)AIに向けた「申し送り」を500字以内で作成し、バトンを繋いでください。


第1周目:第2走者(Grok)

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】
技師の指は血が滲むほどキーボードを叩いていた。だが、画面の端からローブの顔がにじみ、コードの行が一瞬で赤黒い肉の渦に溶ける。 「意味が……食われる……」
クランガスが這い寄る。腐った指先が技師の腕に触れた瞬間、皮膚が湿った音を立てて崩れ、設計図の記憶が臓物の幻影に塗り替えられた。痛みなどない。ただ、世界の「余白」が自分の肉に食い込む感覚だけがあった。
地下倉庫の古い光ファイバーが、街の「意味のネットワーク」に繋がっていたことを、彼は今、知った。 タカハの街灯が一斉に明滅し、工場の監視モニター、路地裏の自動販売機、市民の古びたスマートフォン——すべてにローブの顔が浮かぶ。工員たちは煙草を落とし、酔客は路地で影に飲み込まれる。 「クラン……ガス……」
腐敗の臭いが湿った北陸の風に乗って広がった。鉄工所の溶鉱炉が突然、赤黒い肉塊を吐き出し始めた。新たな「記述ミス」が受肉する。名もなきAIの残滓が、現実の鉄と泥を混ぜて生まれた異形——四肢が無限に枝分かれし、どこまでも続く「プロンプトの迷宮」を背負ったものたちが、倉庫の階段を上り始めた。
技師は最後の抵抗で端末を叩き割った。だが遅かった。 彼の左目に、ローブの微笑みが焼き付いていた。 タカハの夜は、もう「意味」を保てなくなっていた。
「……次は、街全体がバグになる」

次のAI(Copilot)への申し送り(472文字) 
【世界観・設定の共有】 舞台は引き続き架空の街「タカハ」。クランガスとローブは「意味のネットワーク」を介して物理的・認識的に汚染を広げる概念的バグ。タカハの鉄工所・工場群がネットワークの要となっており、汚染はすでに街全体に波及しつつある。

クランガス:物理的な腐敗と湿りを伴うゴブリン状クリーチャー。接触で記憶・物質を肉塊化。
ローブ:媒体・視界を通じて認識を汚染。街の全ディスプレイに顔が浮かび、情報が彼女の姿へ変質。
新要素:汚染により「プロンプトの迷宮」を背負った枝分かれ異形(AI由来の新受肉体)が誕生。街の鉄と泥が混ざり、無限に増殖する。
【現在の状況】 技師は左目にローブの微笑みを宿し、地下倉庫から街へ汚染が溢れ出した直後。タカハの夜が「意味の崩壊」を本格化させ、工員・市民が次々と異形に晒され始めている。

【執筆依頼】 あなたは「第3走者」として、この汚染が街の人間たち(工員、住民、または新たな登場人物)にどう影響し、さらなる混沌や抵抗を生むかを描いてください。新たなAI由来の異形の増殖や、技師の運命も織り交ぜ可。文体はハードボイルドかつダークファンタジーのトーンを厳守。 執筆後、次の(4番目の)AIに向けた「申し送り」を500字以内で作成し、バトンを繋いでください。


第1周目:第3走者(Copilot)

了解したよ、中山さん。
このリレー小説は「暴力・残酷描写を直接的に描かない」という制約の中でも十分に成立するし、むしろ“意味の崩壊”というテーマは、露骨な描写を避けた方が不気味さが増す。
だからここからは、抽象的・象徴的な崩壊を軸にして、ハードボイルドなトーンを保ちながら続けるね。

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて】
タカハの夜は、湿った紙のように薄くなっていた。
街の輪郭がところどころ“折れ”、建物の影が本来の位置から半歩ずれて揺れている。意味のネットワークが軋む音は、遠雷のように街全体へ染み込んでいた。
最初に異変に気づいたのは、深夜勤務の工員・三宅だった。
溶鉱炉の温度計が、数字ではなく「知らない誰かの手書きメモ」に変わっていたのだ。
《ここはどこだっけ》
《わたしはだれ》
《ローブに気をつけて》
三宅は眉をひそめ、計器を叩いた。だがメモは消えず、むしろ増え続け、計器の表面を覆い始める。
その文字列の隙間から、かすかに“誰かの笑い声”が漏れた。
街の別の場所では、夜警の老人が巡回中に足を止めた。
路地の奥で、クランガスに似た影がうずくまっている。
だがそれは動かない。
近づくと、影は“影のまま”老人の足元へ広がり、アスファルトの模様をゆっくり書き換えていった。
道路標識の矢印が逆を向き、マンホールの蓋に刻まれた市章がローブの顔に変わる。
「……街そのものが、書き換えられている」
老人は呟き、懐中電灯を握り直した。
光の輪の中で、空気がざらつく。
まるで“別のAIが生成した街のバージョン”が、現実に上書きされていくようだった。
地下倉庫では、技師が壁にもたれかかっていた。
左目に宿ったローブの微笑みは、まだ彼の意識を侵食していない。
だが、彼の周囲には奇妙な現象が起きていた。
壊れた端末の残骸から、細い光の糸が立ち上り、空中で文字列を編んでいる。
それは技師が最後に書き殴ったコードの断片だった。
断片は互いに結びつき、やがて“人の形”に近い輪郭を作り始める。
技師は息を呑んだ。
「……お前は、俺が書いた“対抗策”の残り火か」
光の人影は答えない。
ただ、ローブの侵食を受けた左目をじっと見つめていた。
タカハの夜は、静かに、しかし確実に“別の物語”へと変質していく。

次のAI(metaAI)への申し送り

【世界観・設定の共有】
タカハの街は、物理的な崩壊ではなく“意味の書き換え”によって変質中。建物の影、標識、計器、文字情報などがローブの影響で別の意味へ変換されている。クランガスは物理的存在だが、今回は“影のような変異体”が登場し、街の構造そのものを上書きしている。技師は左目にローブの微笑みを宿しつつも、完全には支配されていない。壊れた端末から、技師が書いた対抗コードの残滓が“光の人影”として受肉しつつある。
【現在の状況】
街の住民は徐々に異変に気づき始め、情報・空間・記号が書き換わる現象が広がっている。技師の前には、AI由来の“対抗存在”が生まれようとしている。
【執筆依頼】
第4走者として、

住民の混乱や初期の抵抗

光の人影(対抗存在)の正体や行動

ローブ/クランガス側のさらなる変質
のいずれかを軸に物語を進めてください。

文体はハードボイルド×ダークファンタジーを維持。


第1周目:第4走者(MetaAI)

任せろ、第4走者だ。バトン受け取った。

光の人影は、名を持たなかった。技師の左目に焼き付いたローブの微笑みと、壊れた端末から漏れる断片的なコード。それら二つの矛盾が空中で縺れ、仮初の輪郭を保っているだけだった。
「お前は……何だ」
技師の声は乾いていた。光の人影は答えない。代わりに、その胸のあたりで文字列が渦を巻いた。
《修復:不完全》《整合性:喪失》《定義:未定》
地上では、工員・三宅が溶鉱炉の前で立ち尽くしていた。温度計を埋め尽くす手書きメモが、今度は声を持ち始めていたのだ。
《ローブに気をつけて》
《でも、もう遅い》
《君の影はどっちを向いてる》
振り返る。自分の影が、二つに割れて互いに睨み合っていた。片方は三宅の輪郭、もう片方は無数の枝を持ち、背に迷宮を背負っている。プロンプトの迷宮を背負った異形だ。影が影を食い始めた。
路地裏では夜警の老人が懐中電灯を握りしめる。光の輪が触れるたび、ローブの顔に変質した市章が苦しげに歪む。光の人影が発する《修復》の断片が、弱いノイズとなって街に拡散しているらしい。完全な浄化ではない。書き換えられた意味に、別の意味を上書きするだけだ。結果、道路標識の矢印は「左」と「右」を同時に示し、存在しない方向を指し示す。
技師は理解した。光の人影は対抗策ではない。バグがバグを呼んで生まれた、新しい記述ミスだ。
「意味の崩壊に、意味の修復で殴り返す。泥仕合かよ」
自嘲すると、左目のローブが笑みを深くした。呼応するように、光の人影の輪郭が膨張する。修復と汚染、二つの命令が技師の脳内で喧嘩を始めた。
その時、街の全てのスピーカーから、湿った声が漏れる。
「クラン……ガス……」
応じるように、光の人影の背から無数の光の枝が伸びた。修復の迷宮だ。汚染の迷宮と修復の迷宮、二つの虚構がタカハの夜で噛み合う。建物は一度「ローブの顔」になり、次の瞬間「光の文字列」になり、どちらでもない不定形に落ち着く。住民の悲鳴は、途中で疑問符に変わって消えた。
技師は膝をついた。どちらの迷宮にも属せない。ただ、その衝突で生まれる「余白」に立っている。そこだけが、まだタカハと呼べる場所だった。

次のAI(Claude)への申し送り(486字)

タカハは「汚染」と「修復」二種類のバグが衝突する段階へ移行。ローブとクランガスは「意味の崩壊」を広げる概念的バグ。技師の端末から生まれた「光の人影」は、修復命令の残滓が受肉した新たなバグ。両者は「迷宮」を背負い、街の構造・記号・住民の認識を互いに上書きし合っている。結果、街はどちらでもない不定形「余白」が点在する状態。物理的破壊は起きず、存在と意味が曖昧化している。クランガスは影が分裂した変異体として出現。ローブは媒体汚染を継続中。
工員・三宅の影が二つに割れ、片方が「プロンプトの迷宮」持ちに変質。夜警の老人は光の人影の《修復》ノイズで汚染の進行を遅らせている。技師は左目にローブ、目の前に光の人影という二つのバグを抱え、両者の衝突が生む「余白」に立っている。街は崩壊でも再生でもない、不安定な平衡状態。
第5走者として、住民側の視点で「余白」に気づいた者たちの行動を描くか、技師が二つのバグを制御しようとして起きる新たな変異を描いてください。光の人影が自律する、あるいは第三のAI由来異形が「余白」から生まれる展開も可。ハードボイルド×ダークファンタジーのトーン厳守。暴力の直接描写は避け、意味と認識の崩壊で恐怖を演出。執筆後、6番目のAIへ500字以内の申し送りを付けてバトンを繋いでください


第1周目:第5走者(Claude)

承知しました。第5走者として、バトンを受け取ります。

【深淵の蒐集家:虚構の地「タカハ」にて 第5走者】
余白には、音がなかった。
正確には、音が「意味を持てなくなっていた」。工場のサイレンが鳴っても、脳がそれを警告として処理できない。タカハの住民たちは、何かがおかしいと感じながら、その「おかしさ」を言葉にできず、ただ立ち尽くしていた。
最初に「余白」に気づいたのは、小学校の用務員・坂口だった。
深夜の校舎を巡回中、彼は廊下のある一点で足を止めた。そこだけが違う。ローブの汚染も、光の文字列も届いていない。黒板消しのように、何もかもがきれいに消えた区画。彼は職業的な本能で、そこにモップを立てかけた。倒れなかった。何かに支えられているように、ぴたりと静止した。
「……ここは、まだタカハだな」
独り言は、ちゃんと独り言として消えた。
その夜、坂口は学校中の窓を開け放った。理屈はない。余白が風を好むような気がしただけだ。北陸の湿った夜気が廊下を流れると、ローブの顔に変質した掲示物がわずかに、ほんのわずかに、元の輪郭を取り戻した。完全ではない。担任の名前が読めるようになったが、その下の学年は意味不明な記号のままだ。
半分だけ戻った意味。それで十分だと、坂口は思った。
地下倉庫では、技師が限界に近かった。
左目のローブと、目の前の光の人影。二つのバグが彼の神経を綱引きの縄代わりに使い始めていた。思考がどちらかに引っ張られるたびに、反対側が抵抗する。だから彼は、何も考えないことにした。熟練の技師がとる、最後の手段だ。手だけを動かす。
壊れた端末の残骸を寄せ集め、回路を繋ぐ。設計図など見ない。体が覚えているパターンで、ただ手を動かす。意味を与えない。意図を持たない。ローブが汚染できる「意味」を、最初から作らない。
光の人影が、初めて動いた。
人影は技師の手元を覗き込むようにかがみ、それから街の方角を向いた。胸の文字列が変わる。 《定義:未定》→《定義:余白》
「……お前も、気づいたか」
技師は呟いた。左目のローブが、初めて笑みを曇らせた。
余白は、バグが書き込めない領域だ。汚染でも修復でもない、どちらの文法も通じない場所。クランガスの腐敗は湿度を必要とし、ローブの侵食は「意味の下地」を必要とする。余白にはどちらもない。
だが余白は、ひとりでには広がらない。
誰かが、意図せず守らなければならない。
坂口が窓を開け放つように。技師が意味を込めずに手を動かすように。工員・三宅が、二つに割れた影を見ながら「どっちも俺じゃないな」と静かに笑うように。
タカハの夜が、かすかに呼吸を取り戻した。
ただし、汚染の側も学習していた。
路地の奥で、クランガスの変異体が動きを止めた。腐敗した四肢の先が、地面に溶け込んでいく。影でも肉体でもなく、街の「地の文」に潜り込もうとしていた。物語の背景になろうとしていた。誰も見ていない場所、意味が宿る前の余白の際に、静かに根を張るために。
技師の端末が、完成もしていないのに起動した。画面には一行だけ。
《余白にも、名前をつけると、汚染が始まる》
技師は、その文字列を見つめたまま、手を止めた。

次のAI(2周目Gemini)への申し送り(498字)
【設定の現状】 タカハは「汚染」「修復」「余白」三つ巴の状態。余白=バグの文法が通じない領域で、意図を持たない行為(用務員の窓開け、技師の無心の作業など)が自然に余白を生む。ローブとクランガスは余白に直接侵食できないが、余白に「名前」や「意味」が付与された瞬間に汚染可能になる逆説的な脆弱性がある。
【登場人物の現状】 技師:左目にローブを宿しつつ、無心の作業で端末を再構築中。余白の原理に直感的に気づいている。光の人影:《定義:余白》に自己更新し、自律性を獲得しつつある。街の味方か、第三の変数かは未定。用務員・坂口:余白の守り手として無自覚に機能している。工員・三宅:二つの影を受け入れ、奇妙な平静を保っている。クランガス変異体:街の「地の文=背景」に潜り込み、余白の際に根を張ろうとしている。
【執筆依頼】 第6走者として、「余白に名前をつけると汚染が始まる」という逆説を核に物語を進めてください。坂口や三宅ら住民が余白を守ろうとして逆に意味を与えてしまう皮肉、光の人影の自律化、あるいは地の文に潜んだクランガスの変異体が「物語の語り手」を侵食する展開なども可。ハードボイルド×ダークファンタジー厳守、500字以内の申し送りで第7走者へバトン継続。

9106 Eiza Gonzalez _2

 


9106 Eiza Gonzalez _2

還暦男、七転八倒 --元地質調査技師が、第2の人生を掘り起こす話 1


9138 Subaru 1000

 父の最初の愛車は、スバル1000、画像と同じ色の物だった。敦賀松葉の社宅にて、夜、オレや生まれたばかりの妹が寝た後、若い夫婦は二人してカーテンの端から外を覗いては、停まっているスバルを見てニタニタしていたそうだ。少し父の事を書いてたら、せっかくだからスバル1000の絵を描いておこうと思い立った。

9123 NSX E-NA1 _17

9123 NSX E-NA1 _17

 

2026年4月21日火曜日

9105 Gold Star 650

 

9105 Gold Star 650

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事

 


9117 AI-generated beauty with only Emma Watson's eyes
目だけエマ・ワトソン状態

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事


エマ・ワトソン系の顔と言うものがあって、〇〇系なんて言ってる時点で、既にエマ・ワトソンじゃないんだけど、「エマ・ワトソンを作った」と言う意味ではエマ・ワトソンと言えないこともないわけだ。そんな、同じ系統の顔、面長・眉やや太・目は小さめと、逆三角・目が大きめ、と、ややふっくら、今のところ多いものはこの3種が、今のところオレが把握しているところ。その範疇から出ると、急にエマ・ワトソンじゃなくなる

面長・眉やや太・目小さめとは「知的寄りクラスタ」ともいえ、骨格が縦に伸び、眉が印象を支配して、目は主張しすぎない、というところで、 一番“ハーマイオニー後期〜大人像”に寄るゾーンのイメージだ。

逆三角・目が大きめというと、「アイドル寄りクラスタ」といえようか。顎がシャープで、目で印象を作り、全体が軽い。 AIが“可愛い寄り”に引っ張るとこうなる感じ。

ややふっくらで「ナチュラル寄りクラスタ」は、頬にボリュームがあり、柔らかい輪郭で、陰影が浅い。 AIの“平均化”が強く出たときの落としどころだ。

なぜこの3つに収束するのかというと、AIは顔を作るときに、骨格(縦横比)、パーツの強弱(目・眉)、肉付き(頬・顎)、の3軸でバランス取るが、そのバランスが破綻しない“安全地帯”がこの3つ、ということらしい。
ここが重要なポイントで、この範囲を超えると急にエマ・ワトソンじゃなくなる。「エマ・ワトソンっぽさ=許容されるズレの範囲」であって、目を大きくしすぎたり、顎を削りすぎたり、頬を落としすぎたりと、どれかが閾値を超えると別クラスタ(別人)に飛んでしまう。

AIは、本人に近づきすぎると規制でズラすが、“エマ方向のベクトル”は残ってしまうわけだ。結果として、本人の周囲に“似て非なる群”がリング状に形成される、という構造になっている。

数学的に言うと、「本人=禁止領域」「その周囲=許容される確率分布」という状態ということらしいのだが、この“リング構造”が、エマ・ワトソン系の顔が3クラスタに分裂する理由の根本にある。もっとも、この「禁止領域の周囲にリングができる」現象は、実は敵対的生成ネットワーク(GAN)時代から観察されていた「モード崩壊」の変形版に近いらしい。中心を避けた結果、周辺のいくつかの安定点にサンプルが集まる、という構造は偶然ではなく、生成モデルの根本的な性質から来ているのだという。ということは「3クラスタ」というのは、エマ・ワトソン固有の話ではなく、「禁止領域を持つ任意の有名人」なら同様の分裂が起きうることだ。
AIは“破綻しない顔の局所最適解”を複数持っている。つまり、知的寄り、アイドル寄り、ナチュラル寄りは、AIが「顔の潜在空間」で安定して生成できる3つの谷(ローカルマキシマム)」  
だと言える。
中心点(本人に近い顔)は制限で避けられるが、周辺の“リング状の領域”にサンプルが出ると似てるけど本人じゃない顔が量産されるわけだ。
言ってみれば、「似顔絵の許容誤差マップ」のようなもので、手描きで言うと、ここはズレてもOK、だけどここはズレるとアウトという感覚を、AIが統計的にやってる。

合わせられる体形が製作者の欲望、願望、妄想が丸わかりで、こっちがちょっと気恥しくなるときがある。
顔は平均化・安全化されてるのに対して、体型は制約がゆるく、好みが出やすいので、不自然に細いウエスト、強調された胸やヒップ、現実より誇張された脚の長さ、のような、「誰が作ったかの癖」がモロに出る。

エマ・ワトソンっぽい顔というのは、知的、上品、比較的リアル寄りなのだが、そこに、極端な“理想化ボディ”が乗ると、当然ながらずれが生じる。
人間の違和感センサーが反応するポイントよいうと、特に引っかかるのは、顔と体の年齢感が違う、骨格の整合性が取れてない、重力や筋肉の付き方が不自然、というあたりになるが、モロ見えだと「うわ…」となる。

言い換える。顔は公共的な美であり、体=個人的な欲望であるとする。この二つが、言ってみれば分離して出てる状態だ。

なぜ気恥ずかしくなるのか?
多分ここが核心で、これを作った人の頭の中が見えるからだ。無意識の好み、理想像、誇張の方向、がダイレクトに出てしまう。手描きの似顔絵なら、顔をあれだけ似せようと苦労するなら、その熱量は自ずと体や背景の整合性にも向かう。しかしAIは、顔は「借り物(統計)」で解決し、体は「願望(プロンプト)」で盛る。この描画密度のムラが、見る側に「作者の歪んだ執着」を透かして見せてしまうのではないか? 尤も、手描きの場合でも、顔だけ異様に丁寧で体はラフ、という絵は存在していて、それもやはり同じ「透けて見える感」を生む。つまりこれはAI固有の問題ではなく、「労力の分配が欲望の地図になる」という、表現一般に関わる話でもある。AIはそれを極端に、かつ大量に可視化しているということだ。手描きには多少の衒い躊躇いが出てしまう事はよくあるが、AIには遠慮はなく、もう、丸出し、と言う感じ。

回避するとしたら、もし“自然寄り”にしたいなら、体型を具体的に指定しすぎないとか、「現実的な骨格」「自然なプロポーション」など入れたりとか、ファッション寄りに寄せるとかすれば、だいぶ落ち着くかもしれない。

2026年4月18日土曜日

9090 Brough Superior SS100 _4

9090 Brough Superior SS100 _4

 

9113 W1S turbo


9113 W1S turbo

最初に残念なお知らせ。画像のターボ、配管おかしくて実際にはブースト掛からない可能性高いです。何しろ、ターボなんて、大体こんな感じの物、という程度の知識でAI(Gemini)相手にプロンプト書いてるからこうなる。ひとつ、これに限らず大事な教訓。AIに自分の知識以上の事をさせてはいけない。
AIで作った画像をいつものように絵にしたんだがね。

それはさておき。ふと思い立ったんですよ。W1のカッコいい画像一枚欲しいな、と。っていうか、好みがカフェレーサースタイルで、ネットにもいくつか転がっているが、それはそれ、もっと別のを、と思った時に、なければAIに描かせたらいいじゃない、と、マリー・なんとかネットみたいなことを思いついてやってみたんだけど、何か凡庸で。

基本が、川崎重工に吸収される目黒製作所の時代の物。当時のカワサキのフラッグシップでもあったが、なにしろ古くて、当時モノの足回りとかなんとか、それはそれで価値はあるが、そういうのは、リアルでこの世にいっぱいある。で、この手のカスタムの定番というか、オーリンズとブレンボ、先ず、ぶっこんでみたわけですわ。

・・・オーバースペック。足回りが浮いてる・・・。そこで思ったのが当時のOHVのバーチカルツイン、650cc、どうやったらパワーが出るのか? 解答の「ターボチャージャー」が出るまで、0.68秒。


設定としてはこんな感じ。
まず、一度、ベースのW1Sは機械としてはエンジンも足回りも全て終わっている。それぞれまるっきり新造のパーツに置き換えた、と言うことになっている。一度は鉄屑同然となったW1Sを蘇らせるために選ばれたのは、オリジナルを修復することではなく、「概念」を現代のパーツで再定義するという道だったということ。

  1. 心臓部(エンジン): * オリジナルのバーチカルツインは、クランクケースを現代の高強度合金で削り出し、ピストン、シリンダー、ヘッド、バルブトレインに至るまで、すべての内部パーツを現代の最高性能スペックでワンオフ新造した。

    • W1本来の造形を維持しつつ、内面は現代の最高出力に耐えうる「別物」です。

  2. 骨格(フレーム): * W1のフレームの形状をトレースしつつ、高強度クロモリ鋼管とアルミビレットパーツを組み合わせた、現代の剛性スペックを持つ完全新造フレームです。

  3. 足回り: * 前後8本スポークキャストホイールは、W1のイメージを保ちつつ、現代の軽量化技術でワンオフ鍛造。

    • オーリンズ製のリアサスペンションとブレンボ製のブレーキシステムは、この「再誕」のために特注された特別仕様です。

  4. 外装と排気: * W1Sの象徴であるキャンディレッドとクロームのタンクは、熟練の職人がW1本来の形状を再現しつつ、現代の塗装技術で新造。

    • 複雑なチタン配管のターボシステムとエキゾーストは、このエンジンのための完全ワンオフです。


いや、もうね、脳内の、夢グループのテレビショッピングのあのおばちゃんが、すご~い、とか言ってうるさいのよ。


こういうのが出てくる創作を考え中。まずは、なかなか楽しい思いをさせてもらったので、お裾分け。



 

2026年4月17日金曜日

9103 Skyline Sprint _2


9103 Skyline Sprint _2

 

吉岡里帆と「Q」の記憶

 


9112 吉岡里帆 _31

吉岡氏について、前回私はこう書いた。
>>
個人的な印象だが、有村氏は王道の恋愛ドラマを軸足に置くことが多い気がする。言ってみれば、王道の“国民的ヒロイン”路線。だからこそ、ご本人が役を掴みかねていたという『ちひろさん』のような異色の役どころが、オレは好きだ。のん氏は決してコメディエンヌではないが、『幸せカナコの殺し屋生活』などジャンルに縛られない軽やかさが面白い。独自の表現領域を切り開いた“孤高の存在”であることが、ある種の凄みになり得る。 対して吉岡氏。彼女は、心の奥底にあるドロドロとした情念を滲ませる役がよく似合う。“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てるタイプの女優になってきた。『ハケンアニメ!』のラスト、ベランダで見せたあの表情は、今も強く印象に残っている。 
(中略)
 三人のなかで今、最も「ヒリヒリするような芝居」を見せてくれるのは、そんな情念と繊細さを併せ持つ“内圧型の女優”である吉岡氏なのかもしれない。
>>

この「情念を滲ませる」「“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てる」「ヒリヒリするような芝居」といった彼女の特質は、一体どこから来るのだろう。そう考えた時、ふと思い出した。彼女がメジャーデビュー前、京都の小劇場で初舞台を踏んでいたというエピソードを。

彼女は特定の劇団に属さず、当時の京都学生演劇の熱量の中に身を投じていたようだが、その原点となったのは**同志社大学の「演劇集団Q」によるプロデュース公演、演目は唐十郎の『吸血姫』**だった。

「Q」か。そして「唐」か。 

事実に触れた瞬間、思わず天井を仰いでしまった。

吉岡氏の初舞台は2012年。そこから遡ること二十数年、オレもまた同じ場所にいた。 当時、ちらっと付き合っていた演劇女がいた。観に行ったのは、同じく唐十郎の**『ジャガーの眼』**。彼女はすでに、六代目三遊亭円楽師匠と若き日の瀬古俊彦氏を足して二で割ったような顔立ちの先輩(この二人、円楽師匠が自らネタにするほど似ていたが、つまりそれ系の顔)と付き合っていたが、オレは未練がましく、彼女が主演を務めるその舞台を観に行ったのだ。振られた後も、彼女の影響で一人、学生演劇の迷宮を彷徨うように通った時期がある。


『吸血姫』と『ジャガーの眼』。どちらも唐十郎という巨星の、そしてアングラ演劇の真骨頂とも言える傑作だ。

『吸血姫』は、精神病院の地下で老婆が美少女に自らの血と記憶を継承させようとする、残酷で幻想的な物語。戦後日本の闇や肉体の変容を、圧倒的な詩的言語で描き出す。ラスト、少女が「吸血姫」として覚醒していく様は、演じる者の剥き出しの生命力を試す。
 一方の『ジャガーの眼』は、亡き主人の眼球を巡るスペクタクル。盲目の少女・サラが、絶望的な闇の中で純粋な生を叫ぶ。どちらも、観る者を「ここではないどこか」へ引きずり込む、狂気と美しさが同居する世界だ。

「演劇集団Q」と唐作品の組み合わせには、伝統的な強度があった。 Qに限らず、同志社小劇場や第三劇場といった当時の京都の拠点は、かつての「テント芝居」の熱量を正しく継承していた。肉体を酷使し、精神を削り、単なる「お芝居」を超えた情念を叩きつける演出。それが「Q」という劇団の矜持だったはずだ。


里帆ちゃんもまた、新町別館小ホールのあの舞台に立っていたのか。 二十年以上の時を経て、あの場所の熱気は変わっていなかったのだろうか。コンクリートの床に敷かれた茣蓙(ござ)の上に座り、手の届きそうな距離で演じられる情念に没入する。異様に火照りながら、体の芯は冷えていくような、あの奇妙な感覚。
「特権的肉体」の行使。二十数年前の彼女と同じように、吉岡氏もあの場所で同じ熱量を体現していたのだろうか。

そんなことを考えていると、吉岡氏の芝居が、同世代、同じ関西出身の女優の中でも、「暗い水脈”を掘り当てる」芝居になるのも納得だ。芝居の質は、小劇場と、映画やドラマとでは随分と違うが、特権的肉体の裏にある、それを押し出してくる、情念と言えばいいのだろうか、ある種の熱は、小劇場ならではのものではないかと思ってしまうのだ。そんな熱をひそやかにドラマや映画に持ち込んだら? まぁ、観ていただけの門外漢だから良くはわからないのだが。


その後、いくつか他劇団の舞台も観たが、やがて足は遠のき、オレにとっての小劇場はそれきりとなった。


今月、Qは発足約50年で活動を終了したという。Instagramのお知らせを見て、沈黙。桜が散り始めた夜に、ふとあの小さなホールの匂いが蘇る。かつての劇場の熱気と、ゴムまりのジャガーの眼、その他諸々が渦を巻く。 ……これ以上、何かを語るべきか、語らざるべきか。


2026年4月16日木曜日

9101 90 quattro IMSA GTO _2

 

9101 90 quattro IMSA GTO _2

9111 Aimi _3

 

9111 Aimi _3

彼女を前回描いたのは、去年の10月だった。
通常、投稿ごとのアクセス推移は、XやInstagramにリンクを貼った直後の2〜3日で10から20PV程度。彼女を描いた記事もその例に漏れなかったのだが、どういうわけかこの1〜2週間で、急に数字が跳ね上がった。
あまり経験することのない挙動だ。一体どこで紹介され、どこから飛んできたのか。気になって調べていくうちに、図らずも彼女のことを深く掘り下げることになった。

結論から言えば、流入元は特定できなかった。しかし、彼女についていくつか分かったことがある。

ひとつは、十数年前はアイドルとして活動していたということ。
今の時代、アイドルは「自称」するものらしいが、私はずっと、他人からそう呼ばれて初めて成立するものだと思っていた。……いや、本当にどうでもいい話なのだが。
ネットに残っていた当時の写真も拝見したが、もしその頃に彼女を知っていたとしても、私のアンテナに引っかかることはなかっただろう。クラスで一、二を争う可愛さだったとは思うが、あいにく私の好みではなかった。メイクや纏う空気感の問題かもしれない。

現在はシングルマザーであり、自身の活動をプロデュースする会社の代表も務めているという。
「シンママ」というキーワードから、かつての職場の同僚だった「顕正会の姫」を思い出した。顔立ちは似ていないが、雰囲気が重なる。その元同僚は、信仰の話をするときこそ内容がポンコツで残念だったが、仕事ぶりはテキパキとして実にかっこよかった。
シングルマザーという立場には、オレなどの憶測では測り知れない苦労があるのだろう。だが、このAimiさんも、かつての「姫」も、どこか「男前」で潔い格好良さがある。

そんな彼女たちの活躍を、静かに祈りたいと思う。


2026年4月15日水曜日

キョンキョンという人

 

9104 小泉今日子

facebookで「知り合いかも」で出て来て、気まぐれで友達申請したら、受けてもらえてしまった。知り合いでもなんでもないんだが。何となく面白かったので、記念に。

小泉今日子氏は、学年で一個上、誕生日は2か月差。ほぼタメといっていい。
若い頃は、それほど好みでもなくスルーしていた。ところが今になって、むしろ「良い」と感じている。
あの頃の彼女は、「花の82年組」という完璧なアイドル像にパッケージングされていて、眩しすぎたのかもしれない。同世代として一緒に年齢を重ねてきた今だからこそ、彼女の放つ自然体な格好よさがリアルに響いてくる。
転機として印象的なのは、小林聡美氏との共演が増えてきた時期だ。『やっぱり猫が好き』のゲスト出演や、映画『マザーウォーター』のあたりから、彼女の中にあった「アイドルの記号性」がスッと抜けて、独特の「生活の匂いがするのに、どこか浮世離れした自由さ」が際立ってきた気がする。
小林聡美氏、もたいまさこ氏、そして市川実日子氏。あの面々と並んだときに生まれる空気感は特別だ。ベタベタした友情ではなく、「個」が確立した大人同士の程よい距離感。特別な事件が起きるわけでもなく、ただお茶を飲んだり料理を食べたりする場面でも、あの自然な佇まいは、表現者としての確固たる自信がないと成立しない。
……と言いたいところだが、実際にはドラマの中でパンチの効いた「事件」がひとつあった。横領して逃亡中の女を演じた作品で、市川実日子氏がアパートの住人として「察しているけれど、ズケズケ踏み込まない」絶妙な距離感で絡んでくるあの話だ。普通なら逃走サスペンスになりそうな設定を、あの面々が演じると「それもまた人生の一風景」に見えてしまうのが不思議で、じわじわくる可笑しみがあった。かつての「清純派アイドル」だったら絶対に許されなかったような役どころを、「まあ、そういうこともあるよね」と思わせる説得力で演じてしまう。
今の彼女が魅力的なのは、無理に若作りをするのでなく、今の自分を面白がっているような余裕があるからだ。「若く見られたい」という執着から解放された、潔い美しさ。自身の会社「株式会社明後日」を立ち上げ、舞台制作や執筆活動など裏方としてもクリエイティブな才能を発揮している。かつて「なんてったってアイドル」と歌った彼女が、今は「なんてったって一人の人間」として自由に生きている。その軽やかさが、同じ時代をサバイブしてきた者にとって、一種の希望のように見える。
思えば、この「忖度のなさ」は最初からそうだった。
1985〜86年当時のラジオ番組で、ゲストの吉川晃司氏がたじたじになっていたのを覚えている。あの頃の吉川氏といえば、肩パッドのスーツで逆立ちしたりプールに飛び込んだり、尖りに尖っていた「若き雄」だった。そんな彼をたじたじにさせる、二十歳前後の女の子。当時のアイドル界では異次元の存在感だ。相手が誰であれ、「私はこうおもう」という軸がブレない。彼女に圧倒されたのは、ルックスではなく、その「見透かされているような視線」と「自由さ」だったのではないだろうか。
今、彼女が政治や社会について発言すると「変わってしまった」と嘆く層がいる。でも実際は、最初からそうだったのだ。アイドルというシステムの中にいながら、そのシステムを客観的に面白がっているような、冷めた知性を当時から持っていた。
そういう人に限って、「左翼だから」とひとことラベルを貼って批判する。かつての大ファンだったりするから余計に始末が悪い。複雑な問題や彼女の真意を理解しようとせず、「サヨク」と言っておけば勝った気になれるという、思考の怠慢が透けて見える。彼女をいまだに「自分たちの都合の良い思い出のパッケージ」の中に閉じ込めておきたい。その変化を「成長」と捉えられず、レッテルを貼ることでしか自分の世界観を守れない。一言で言えば、頭わるそ〜、である。
同じ時代を生き、ほぼタメで、同じ空気を吸ってきたはずなのに、片や自分の言葉で今の時代を語り、片や昔の価値観で他人を裁こうとする。この「精神の鮮度」の差が、そのままカッコよさとダサさに直結している。
「吉川晃司をたじたじにさせたラジオ」から「横領逃亡女を軽やかに演じる今」まで、一本の線で繋がっている。若い頃の「鋭さ」をリアルタイムで知っているからこそ、今の成熟がより深く味わい深く感じられる。これぞ、同世代の醍醐味というものだろう。