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2025年7月3日木曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 3 「成長」という言葉に感じる違和感

  国政選挙が近くなると、何かとってつけたように「成長戦略」なんて言葉を口にする政治家のお歴々がいます。まぁ、今回の選挙は、それすらなく、ひたすら給付金か減税かとかなんとか、即物的なお話に終始しそうで、それどころではないのですが。それはそれで良いのですが、ひところ、特に今回のような目玉争点がない時など、何とかの一つ覚えみたいに「成長戦略」なんだかな、と。

 しかしまぁ、この言葉を聞くたびに、なんというか、成長してるのか? ちゃんとさせてきたのか? させてねぇでしょ? っていうか、もう成長なんて無理でしょ? なんてテレビのこちら側では思ってる。「成長」なんて言葉つかっときゃ、カッコ着くとか思ってない?って。 


 企業活動などで、何と言うかな、ビジネス本、自己啓発本に毒された、というか、最近言われるリスキリングとか、その方面の事も含めて「成長」、個人も会社もその言葉を好んで使う向きが多くて困る。まぁ、オレも年を取ったし、おまけに所帯も持っていなければしたがって養育するべき子供もいない。しかし会社には、まだまだこれからの20代30代40代もいて、子供もいる。頑張らなきゃという熱量は持って然るべき何だろうとは思う。でも、それは、成長を目指すことが最適解なのか? 「成長」志向ドライブに、なんかすごく違和感があったりする。

 「成長」が万能の呪文になってしまった。今、ビジネス書や自己啓発、リスキリング、キャリア設計など、 どこを切っても出てくるキーワードが「成長」。変化に対応するには、成長しろ、だの、現状維持は後退と同じ、だの、企業も人も、常に上を目指せ、だの。
 成長とか努力とか自体は否定はしないけれど、この宗教的圧力って何?


 そもそも、なんで「成長」しなきゃいけないんだ?何のための成長?誰がその尺度を決める?成長して“何か”にならなきゃ、価値はないわけ?
 “何者か”にならなくても、
ただ“在る”だけでいいんじゃないのか?

 確かにさ、子どもを守るためとか、食っていくためとか、キャリアを積むためとかのために成長は必要ですよ、うん。でも、それは“上に向かう成長”でなければならないのか?

たとえば、こんな方向性もある。深まるのも成長、収斂していくのも成長、誰かを育てられるようになるというのも成長だろう。

というのはただの愚痴で、
でも、

 マクロ経済的な、経済「成長」のミニチュア版として個人の「成長」という言葉が使われてるように思う。なんか滑稽とか思っちゃダメ?

 経済「成長」のメタファーとしての「個人の成長」っていうか、現代社会では、 経済成長(GDPの拡大)=善 という価値観が根底にあり、それが「個人の成長」という言葉に転写されて使われている。
 つまり、「経済が右肩上がりであるべきなら、あなた自身も右肩上がりであるべき」というような経済の論理を、人格の論理にまで敷衍する癖がある。

 この流れのなかで、「成長」はどんどん道徳化されていく。

  • 成長=よいこと

  • 成長を止める=怠惰、諦め、停滞

  • 成長したいと思わない=どこか欠けた人

こういう前提のもとで自己啓発書やリスキリングの言説が流布すると、
個人の在り方まで、経済的合理性で判断されるようになる。

 「人間は常に成長すべき」という言葉は、一見前向きだが、それに当てはまらない人を見えないところで排除してしまう側面もある。病気の人、子育てや介護に追われる人、年齢的に体力や集中力が落ちた人、あるいはもう、そんなに頑張りたくないと思っている人、って、ゲッ、全部オレ当てはまるわ。それはそうと、こういう人たちにとって「成長」は、評価の呪縛にもなり得るだろう。


 もっとも、「成長」という言葉そのものが悪いわけじゃない。それが、どんな成長なのか?ということだ。寛容になることも成長だろう。痛みを知ることも成長、美意識や判断力が育つことも成長だ。こういう多様な“成長のかたち”を認めないと、 個人の人生すらも「GDPのミニチュアモデル」にならないか? 

 まぁそっちはいい。

 経済学上の話として、資本主義社会での会社企業、特に今のやたら、株価が~、とか、企業価値が~、とか言う時代には、GDPなどの成長、または株式の配当のために常に利益を出し、しかもその額を段々と増やさなきゃいけなくなってるが、ムリくね?
 そんなの不可能だ、と言ってる、マルクス系以外の経済学者もいるし、それでも、無限の経済成長は有り得ると言ってる人もいる。整理する。

 マルクス経済学系に限らず、「無限の経済成長は現実的でないのでは?」と考えるポスト成長(Post-Growth)派や脱成長(Degrowth)派の経済学者・思想家たちも台頭してきている。

 成長を疑うマル経以外の経済学者、思想家としては以下の通り。

1. ティム・ジャクソン(Tim Jackson)

 著書に『Prosperity Without Growth(成長なき繁栄)』があり、 「GDP成長をやめても、持続可能で豊かな社会は作れる」と提唱している。

 成長を止めたら社会が崩壊する、というのは一種の信仰であり、 それを支えているのは“資本収益率 > 経済成長率”という構造そのものだと指摘している。

2. ケイト・ラワース(Kate Raworth)

 著書『ドーナツ経済学』で、環境と社会の「許容量」の中で経済活動を再設計しようとする。「経済成長」を目的にするのではなく、「人間の基本的欲求と地球の限界のバランス」を重視すべきとする。


3. ニコラ・ジョルジュカラエン(Nicolas Georgescu-Roegen)

 環境経済学・生態経済学の父と呼ばれる存在らしい。経済も物理法則(エントロピー増大の法則)の中にある限り、無限成長など物理的に不可能であると論じた。

4. セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)

 フランスの「脱成長」思想家で、 「富の最大化よりも、幸福やつながりの最大化を」と主張している。


 一方で「無限成長は可能」とする立場の方々。

これもいるにはいる。ただし、こちらにしても、条件つきであることが多いようだ。

1. 内生的成長理論(ポール・ローマーなど)では、成長は「物的資本」だけでなく、「知識・技術革新・人的資本」に依存しており、 イノベーションが続く限り成長は持続可能であるとする理論、とのことだ。尤も、これは「環境負荷」や「資源の有限性」への配慮が甘いという批判も強い。

2. グリーン成長派(OECDや一部の国際機関)は、技術革新と脱炭素に目途が立てば、成長と持続可能性は両立できるという立場だ。
 うん、で、それはいつごろになります?


 現実的には企業が「永続的に利益を伸ばす」のは理論的にも、無理ゲーにも程がある。企業の寿命は歴史的に見ても短い(平均して数十年程度)し、「売上は右肩上がり」「配当も毎年増配」などというのは、市場競争や技術の陳腐化を考えると構造的に不可能なんだが、
 そんなことは、みんなわかってるけど、そうやんなきゃいけない社会風潮が悲劇的。八甲田山やインパールの、死の行軍を思わせる。なのに、株主資本主義の世界ではこれが「当然の期待」とされる。これはもう、経済理論や経営者の見識というより金融市場の自己増殖的な性格に問題があるんじゃないだろうか。

 ざっと浅学なりに知っている各経済思想を整理してみる。

◆思想家・立場別:経済成長へのスタンス比較表

思想家 / 立場

成長は「目的」or「手段」

主張の要点

特徴的な概念

賛同者 / 適用例

アダム・スミス(古典派)

手段(ただし自動的に福祉向上とみなす)

自由市場に任せれば富は自然に分配される

見えざる手、利己心の調和

自由主義経済、英米資本主義の源流

フリードマン(新自由主義)

明確に「目的」

成長こそ自由と繁栄の源泉。国家の介入は最小限に

小さな政府、自由市場

サッチャー、レーガン政権、橋本政権以降の日本

ケインズ

手段

国家が景気調整することで安定的な成長を確保すべき

有効需要、乗数効果

戦後日本の高度成長、ポストコロナの財政出動論

アマルティア・セン

手段

成長ではなく「人間の自由(ケイパビリティ)」が目的

福祉経済学、開発倫理

国連、UNDP、ノーベル賞受賞者

ケイト・ラワース

手段(かつ成長そのものに限界がある)

社会的ニーズと環境限界の間の「ドーナツ」内に収まる経済が理想

ドーナツ経済

アムステルダム市(政策採用)、欧州一部地域

ティム・ジャクソン(脱成長派)

手段(成長は必須でない)

成長なき繁栄は可能。むしろ「ポスト成長」が人間的

Prosperity Without Growth

脱成長運動、欧州グリーン政党

斎藤幸平

手段(むしろ加速する成長は有害)

成長より「コモン(共有資源)」の再構築を

脱成長コミュニズム

若年層リベラル層の支持増、日本共産党の一部発言にも影響

ブータン王国

手段

GDPよりGNH(国民総幸福)が重要

国民総幸福

小国だが先進的なモデルとして国際評価あり




 さて、その辺、日本の現状はどうか? 日本の経済に対する考え方はどうなのか?

 制度面では依然として「成長=正義」の思想が根強いといえる。国家予算、地方交付税、年金制度、企業の評価制度など、あらゆる制度が「経済成長ありき」で設計されている。政策目標も「GDPを○○兆円に」「設備投資増加率」など成長ベースが多数であるようだ。
 しかし、社会の実態としては、成長が鈍化し、人口減・高齢化で「脱成長社会」に近づいている。成長率は1%未満の年がほとんど(実質ゼロ成長国家に近い)であるにもかかわらず、制度や意識は「成長前提」から離れられず、社会のひずみが顕在化しているように思われる。


◎ズレの例:成長前提の幻想と現実のギャップ

項目

現実

成長前提制度とのズレ

少子化

加速度的に進行(出生数75万人割れ)

子育て支援より経済成長への予算配分が優先されがち

地方の衰退

人口減・空洞化

地方創生策も「経済成長」ベースの誘致型が中心で定着せず

環境問題

気候変動・災害増加

成長のためのインフラ整備(道路・リニア等)が矛盾を加速

労働環境

長時間労働・低賃金

成長優先の企業評価が「人件費圧縮」に繋がる

教育・文化

削減傾向、自己責任論強化

成長に直接寄与しない分野とされ後回しに




 いい加減、成長にこだわらず、「地域の幸福」「人的資本」「自然との調和」など、他の評価軸を制度に埋め込む必要がある。これも正直オレ自身がしっくり来ていないが、地域通貨、ベーシックインカム的思想、生活保障付きの社会参加型経済(ケア労働重視)などが、思いつく選択肢としては出てくる。
 成長を前提としない社会、国家運営をするには、政治家諸兄は勿論、オレ自身まだまだ料簡が昭和で、この言葉にしがみついてしまうのだが、なんだが、それではどうにも立ちいかなかった、というのが「失われた30年(やがて40年)」ということではないだろうか?

 なぜ経済成長信仰がこんなに強いのだろう? 思いついたことを列挙する。

①歴史的な成功体験がある。戦後復興と高度成長期、日本(そして西側諸国)は、成長=豊かさ、生活向上、社会安定という「黄金時代」を経験してしまった。ゆえに、政治家も官僚も「成長すればすべて解決できた」時代の記憶から抜け出せない。

②年金・保険・税制など社会制度が「未来は今より大きい経済になる」ことを前提に構築されている。成長が止まるなどと言ってしまうと、制度設計そのものが破綻してしまうため、信仰せざるを得ないのだろう。寧ろ痛々しいか?

③政策の成果や政権の業績を、GDPや雇用者数などで可視化しやすい。つまり 成長は「数字」で表現されやすい。一方で他の指標(幸福度、環境指標、教育の質)は定量化しづらいため、議論や評価に使いにくい。

④企業活動と金融市場、株価、投資、雇用、配当など、すべて「企業が成長し続ける」ことを前提として成立している。逆にいうと、成長をやめた時点で、失業や株価下落などの痛みが先に来る。

⑤ 大衆心理には「成長を止める」と言うと=「貧しくなる」「国が衰退する」と直結するイメージ、いや恐怖が根強い。そして実際はそうではないが、まだ「脱成長=後退・共産主義・没落」と結びつける印象が強く残っている。

 経済を「目的」から「道具」に再定義することで、社会全体の健康度や幸福度が上がる可能性を考えてみるべきだ。まず、「成長を諦める」わけではなく、「そういう言葉を盲信しない」というところから始めないと。


2025年7月1日火曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 2 なぜ富に執着するか?

 

 もう充分だろうに、まだ金をもうけようとするか? 財産自体分け与えないまでも、金の種、というか、その手段は移譲してもいいのではないかと思うのだが、そんな感じでもない。なぜか?

 必要以上の富を保ちたがる心理は、自己防衛・競争・誇示・不信・権力など、いろんな人間の側面が絡んでいるようだ

 富の不均衡をどう捉えるかについては、政治哲学の分野で古くから深く議論されてきている。代表的な立場をいくつか挙げてみる。

1.ジョン・ロールズ(John Rawls)は20世紀の政治哲学者で、著書『正義論』(1971)で、ざっくり言うと「人は、自分が生まれる環境(貧富、能力、性別など)を知らない状態則ち「無知のヴェール」の下で社会契約を結ぶべきである。そうすれば、自分がどの立場に生まれても最悪にならないように、公平な制度を選ぶはずだ」という考えを述べている。
 そのための2つ、原理として、1.自由の平等、つまり基本的自由(言論、信教など)はすべての人に平等に。2.格差原理(difference principle)則ち経済的な不平等はあってもよいが、それが最も不遇な人の利益になる場合に限る。
 まとめると、「格差はあってもいいが、貧者のためになっていなければ正義ではない」とする考えらしい。

2.ロバート・ノージック(Robert Nozick)はロールズに真っ向から反論した。著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)では、 自由に基づく所有権の正当性を主張した。内容は
富の分配が正義かどうかは、結果ではなく「どう得たか」によって決まる。

 自由な取引や正当な手段で得た財産であれば、たとえ極端な格差があっても再分配するべきではない。
 再分配は、実質的に人から「人生の一部を取り上げること」(=強制労働の一種)になりかねない。

 ノージックは国家は治安と契約の履行だけを担うべきとし、「再分配は不当な干渉」と考えました。つまりは厳格な「小さな政府」志向だったようだ。

3.カール・マルクスは、資本主義の構造そのものが不正義だと見ていた。まぁ、御存じの通り。

 資本家は「剰余価値」を搾取しているとし、労働者が生み出した価値のうち、必要以上の部分(剰余価値)を資本家が取り上げ、富を蓄積していく構造を批判したが、しかしマルクスさん、今や余剰どころでは済んでませんぜ。
 富の不平等は、個人の努力ではなく生産手段(資本)の独占から生まれているという主張だ。

 マルクス主義、つまり共産主義は、制度や構造自体を問い直し、「分配」ではなく「所有と支配そのもの」を変えるべきだという立場なのもご存知の通り。

4.ジェレミー・ベンサムジョン・スチュワート・ミルあたりの功利主義は最大多数の最大幸福を掲げる。不平等の是非は、「社会全体の幸福がどうなるか」で判断される。よって超富裕層に富が集中することで社会全体の幸福が減るのであれば、再分配は正当化されうる。
 しかし、これには、「全体の幸福のためなら個人の自由が犠牲になってもいいのか?」という問題もはらんでいる。

 同じ「富の不均衡」を見ても、公正に格差を許容すべき(ロールズ)とするか、自由な取引が最優先(ノージック)とするか、格差そのものが構造的搾取(マルクス)とするのか、社会全体の幸福が第一(功利主義)にするのか、「正義」や「自由」の定義によって答えが大きく変わる。

 では、なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか? これもいくつか考えてみた。羅列してみる。

1.富こそが存在証明であるという思想がある。

 スピノザ的観点として、欲望は自然の力、人間は「自己保存の本能(コナトゥス)」によって生きているというのがあった。この本能は、生きるためのあらゆる手段を拡張しようとするもので、富を持つことが則ち自分の力(影響力・自由・生存可能性)の拡大と捉えれば、富を求め続けるのは「生きる力の自然な表れ」ということになる。
 更に言えば、満ち足りることがゴールではなく、“拡張し続けること”自体が生の衝動なのだ。

2.エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で富とは恐怖への防壁であるとした。

 この『自由からの逃走』という本、大学に入ってからの政治学概論だったかの教科書だったんだよねぇ。脇教授の。結構気に入って、何度か繰り返して読んだ。気がついたらなくなってたので、新しいの買って持ってる。

 フロムは、現代人が自由になった代わりに、孤独や不安に直面していることを分析した。この際、富は、そうした「自分の存在が脆い」という感覚に対しての安全保障・支配力の象徴になる。
 富を蓄えることというのは「死」「無価値感」「失敗」といった根源的な恐れから目を背ける手段になっている、と考えたわけだ。
3. 比較の中でしか自分を見られない病があるんじゃないか?

 例えば、ジャンジャック・ルソーは、人間には「自己愛(amour de soi)」、則ち自然な自己保存の感情、と「比較愛(amour-propre)」、則ち他人との比較によって自分を評価する感情があると説いた。
 富裕層の「さらなる富」への執着は、他者に対して自分が“上”であることを確認するための欲望に近い。それは、富が「道具」ではなく「優位性の証明」になってしまっている状態だ。

4.富が自己と一体化している。って、此処まで書くとちょっと哀れになってくるのだが、マルティン・ハイデガーは、人間はつねに「他者の目」によって自己を規定されがちで、それを「世人(ダス・マン)」と呼んだ。 超富裕層の一部は、富を持つことで「自分とは何か」が決まってしまっている状態、富を持つことが自分、富が自分、となってしまってる、というようなことだ。
 富を失うことは、ただの損失ではなく、“自己の死”に近い体験になる。


 こういうフェイズでの富というのは何かに代替できなものだろうか?理屈で言えば、愛、信頼、創造性、美、宗教的体験、自然との一体感などは、富以上の充足を与え得ると言われているし、仏教では、むしろ欲望を手放すこと(涅槃)こそが究極の自由とされている。

 わかったようなわからんような。

 何しろ、現代社会はそれらの価値よりも「測定可能なもの(富・フォロワー数・肩書き)」を評価するため、人は代替価値を持ちにくくなってしまっている。社会構造と人間の不安が、それを許さない。

 仏教なんて言葉出たついでに、「なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか?」という人間の心理や存在の在り方に関わる哲学的な問いに対する、欲望、アイデンティティ、恐れについての、宗教的な視点(キリスト教、仏教、スーフィズムなど)からの解釈も整理しておこうか。

 キリスト教は、富への執着を、欲望の無限性と神なき充足、としている。
 キリスト教的視点では、過剰な富の追求はしばしば「偶像崇拝」として描かれる。これは「神を信じて委ねる」ことの代わりに、「富に安心を求める」ことなのだ。
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
 つまり、富の集積は“救い”や“安心”を求める行為だが、それは神以外のものに神性を与えてしまう罪であるとされている。
 原罪という言葉はよく聞くが、つまりは「底なしの欲望」のこと。
 人間は本質的に「欠けた存在」としてあり、「完全な満たし」を外に求め続ける。これが欲望(desire)の無限性につながる。
 富は「今度こそ満たされるかも」と思わせるが、結局はさらなる欠乏を生む。あるある。
 富を手放せないのは、「神が自分を見捨てるかもしれない」「明日、必要なものが得られないかもしれない」という 根源的な不安 があるからなんだそうだ。キリスト教では「信じて任せる(faith)」ことによって、この不安から解放されると説いているのだがね。
 神への絶対的信頼を求めてくるわけだが、それは、たとえ教会に腐敗があっても、となると話は別で、古代、中世まではそれでもよかったのかもしれないが、近世、近代になると、そうも言っていられなくなる。これがニーチェの「神は死んだ」になるのだろうが、文明と、そして貨幣経済、資本主義経済と信仰、どちらが先の話なのか、オレにはちょっとわからない。が、それなりに、総なってしまった必然もあったのかもしれない。

 仏教は欲望の構造そのものを問う。「なぜ富を追うのか?」という問いはそもそも欲望の発生メカニズムそのものに直結している。

 仏教で人間の苦しみの根本とされる「三毒」の一つが貪(とん)、つまり「むさぼり」を指し、貪欲は「あるもの」に満足せず、「ないもの」に心を奪われ続ける状態をさす。一度手に入れても、それが「常にある」ことへの執着が生まれ、不安になり、もっと欲するというわけだ。
 が、富があっても、それが自分自身を永続的に守るものではないことに気づくと、執着の力は弱まる。
 すべては移ろい(無常)であり、自我や所有という観念も、実は「空(くう)」だと理解することが解脱につながるとしている。
 一方、富への欲望は「無明」(無知)から来る。仏教では、執着の根にあるのは「ものごとの本質が見えていない状態」であり、富に救いを求めることそのものが、「苦しみを増やす行為」だと説く。

 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、「本当の富」とは物質ではなく、神(アッラー)との合一・帰依にあるとされているそうな。なんか人類補完計画を思い出すな。

 この世の富は仮象であり、神の創造の一部ではあるが、人を真の愛から逸らすものでもあるとする。富に執着することは、魂の純粋な欲望を低次の欲望にすり替える行為なんだそうだ。

 スーフィー詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーは「人は神を求めるが、それは神がまず人を愛したからだ」と言っている。人が富や名誉を求めるのは、本当は「永遠に愛されたい」という願いの歪んだ表現なのだとのことだ。

 スーフィズムの目標は「自己を神に明け渡し、溶ける(ファナー)」ことであり、富を追う者は、まだ「自我」の檻の中にいることなのだ、とのことだ。

 以上の事は、そこまでお金に執着しなくてもいいんじゃない? と、特に使いきれないお金持ちに対して、よく言いたくなる時に、では、どういうこころもちでいればいいのか?ということに対する仮説を並べたものであるが、烏滸がましいのは承知の上。
 彼らがこのような言葉にこれまで出会えていなかったということも大いにありうるのだろうが、いずれにしろ、遠ざけるような社会であることは間違いなく、そこを問題にするべきなんだろう。

 現代の思想家はどうか?
 ここでは、マイケル・サンデルアマルティア・センをあげておく。それぞれ「経済」、「社会」、「正義」や「自由」という言葉をめぐって異なるアプローチをとっているが、どちらも「リベラルな個人主義」だけに頼らない、人間の在り方を考えようとしているようにみえる。

マイケル・サンデル

 代表作が、『これからの「正義」の話をしよう』『リベラリズムと正義の限界』書店とかで表紙見たことない? あ、書店いってない?そうですか・・・。
 サンデルは、「正義=中立な原則に基づくもの」と考えるリベラリズム(ロールズなど)に批判的だ。ロールズは:正義とは、「無知のヴェール」の下で、誰もが同意できる原則(例:平等、公正)に基づくべきものとしている。が、サンデルは「人間は“空っぽの自己”ではない」とその前提を否定する。個人の価値観や共同体との関係を無視して、中立な立場から「正義」を語ることはできないのではないか、と。「私たちは、所属している共同体や歴史、関係性の中で定義される」
 、つまり、「正義」とは共同体的な価値や徳と切り離せない、とのことだ。
 サンデルが批判するのは、**「自由=選択の自由」**という考え方だ。彼が問うのは、自由とは「何でも自分で選べる」ことなのか?あるいは、「善き人生」や「良い社会」を共同で追求する力なのか?という点だ。
 お分かりだとは思うが、サンデルは後者を重視する。「自由」もまた道徳的な議論から切り離せない。となれば、やはり過度な富の集積はかれにとってはあってはならないことになる。


アマルティア・セン

 代表作は『自由と経済開発』『不平等の再検討』『正義のアイデア』

 センは、ロールズのような「理想的な制度設計」よりも、「現実に人々がどれだけ苦しんでいるか」に注目する。「正義ある社会」とは何か、を完璧に定義するよりも、現実の不正を一つずつ取り除くことこそが、正義への道だと説いている。「実際に人々がどう暮らしているかを見よ」とか 「それが改善されるなら、それは正義に近づいている」みたいなことを言ってるわけだ。

 自由こそ、アマルティア・センにとって、非常に重要な概念である。キーワードは:ケイパビリティ(能力)。 「人間が、自分の価値ある行動や生き方を実際に選び取る力」とする。
 つまり、自由とはただ「法律的に何かが許されている」ことではなく、教育を受けられるか?であったり、医療を受けられるか?であったり、女性が自立して生きられるか?というような実質的な選択肢の存在が大切だと主張する。そして貧困とは「お金がない」ことではなく、 「選択の自由が奪われている状態」である、としている。

  サンデルとセンはそれぞれ、“自由や正義の意味そのものを問い直す”ことから出発している。

「自由とは、ただ選べることではない」

「正義とは、抽象的な原則ではなく、今目の前にある苦しみへの応答だ」

「個人の成長」や「企業の成長」が本当に自由を広げているのか、よくよく見直す必要がある

といったところだろうか。
 もう少し続けよう。
 ある一定以上の富を得た人が、自らその“富を集める仕組み”を手放すことはないのか?  実際、ビル・ゲイツ氏のように、それを個人の選択として取った人間もいるにはいる。しかし、それは極めて例外的だ。なぜ一般化しないのか。


1. 富の「閾値」は主観的で、常に上方修正される。
 たとえば、「10億円持っていれば一生安心」と思っていた人も、 「じゃあ、次世代にも必要」「世界進出にはもっと要る」となり、“富の閾値”が拡張されていく傾向がある。 “これで充分”と感じる基準が、周囲の競争・恐れ・野心によって変わってしまうのだろう。


2. 集積手段の委譲=力の喪失とみなされる。
 ビジネスにおける富の集積は、単なる利益ではなく、情報・影響力・支配力の集積でもあるのだろう。それを手放すことは、しばしば「自分が世界に影響できる力を放棄する」ことと同義に見えるのかもしれない。
 則ち、「集めるのをやめる」ということは「死ぬのと似た恐怖」になってしまう。

3. 自己と組織の境界が曖昧になるということはあるかもしれない。たとえば、Amazonのジェフ・ベゾス氏や、Metaのザッカーバーグ氏のような創業者CEOたちは、自分自身が企業と一体化している。会社の価値が上がることが自分の価値が上がることであり、言い換えれば、富は、自分個人というより、「自分の創造物の成功の証明」と考えているのかもしれない。だとすれば、「富の集積手段を委譲する=自分の生きてきた意味を否定する」ように感じられる、という事も有り得るだろう。一部には、実際に「委譲」を選んだ例もある。


 例外としては、ビル・ゲイツ氏やウォーレン・バフェット氏のほか、チャック・フィーニー氏(免税店創業者)という方がおいでなんだそうだ。ほぼ全財産(80億ドル)を慈善活動に使い果たし、2020年に活動を終えたという。
 しかしながら、これらは極めて稀な「倫理的な実験」であり、制度でもなければ、大衆的文化でもない、例外中の例外である。


 乱暴ではあるが、敢えて制度を作るなら、以下のようなことが考えられなくもない。
 
 収益上限制を設定し、一定額以上の収益は自動で共有基金へ、という仕組みを作る。が、現在の経済社会の大多数とは間違いなく衝突することだろう。
 巨額の資産を子孫に丸ごと渡せない富の相続上限制を設ける。これも政治的に相当紛糾するだろうな。 
 一定規模を超える企業は自動的に共同所有へ、って、いやいや、相当法律のアクロバティックな運用をしないと無理でっせ。

 結局、「自由」と「私有権」の再定義を迫るものしか思いつかぬ。実現には“社会全体の価値観の転換”、倫理的・哲学的な成熟が必要なんだろうな。


 これを書いているときに、あくまで噂、だが、それなりに信ぴょう性があるらしい筋の話として、イーロン・マスクが薬物依存症であるとの話を読んだ。薬に頼らなきゃいけないくらいに、お金持ちも大変で、とても幸せそうには見えない。これは貧乏人の僻みも入っているのかもしれないが、薬物依存症が本当だとしたら、それでも、富の集積を止めようとしない、人間って何なんだろうな? と思う。

2025年6月29日日曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム?1富の偏在の現状

  アンパンマンについて、何やらごちゃごちゃ書いたが、アンパンマンの事について、今更気が行ってしまったのは、丁度オレが、今のこの世の何とも言えない行き詰まり感を何とか出来る鍵が「贈与」にあるように思い、それについていろいろ読んだり考察したりしていた所為がある、と言うようなことは書いた。

 そこに至る過程を、開陳したいと思う。




 聞いたことあるでしょ? 日本のみならず、全世界を通して富というのは、ちょっと想像を絶するくらいに偏在しているということを。怒りを覚えたり、怒りすらわかず呆れたり、あまりの偏り具合に多分フィクションの類のものだろうと興味を失ったり。んで、ちらっと、ホントちらっとだけ思ったはずだ。どうせそんな馬鹿みたいに金持ってても使いきれないんだろうから、ビンボーなやつにまわしてやれよ、と。そこまで思って、その話題は意識からそれていった、ということが多いのではないか? だって、そんなのは自分の今の暮らし向きとは全然世界が違う。自分が興味を持つべきところは他にあるはずだと。

 あの話、正確なところはどういう数字だったか思い出してみる。


 現在、世界の富の不均衡を示す代表的な統計として、次のような事実がある。

  • 世界の最富裕層1%が、世界全体の富の47.5%を保有している
    UBSの「Global Wealth Report 2024」によれば、2023年時点で、資産100万ドル以上を持つ上位1%の人々が、世界の総資産の47.5%(約214兆ドル)を所有しています。 Inequality.org

  • 最富裕層1%が、世界の下位95%の人々よりも多くの富を保有している
    Oxfamの分析によると、世界の最富裕層1%は、世界人口の下位95%を合わせたよりも多くの富を所有しています。 Oxfam International

 100人いたとして、その内の一人だけが超金持ちで、ありえない話だが、そこに100万円あったとしたら、その内47万5千円をその金持ちが持っている。残りの99人の平均所持金が5300円ちょっと、という世界。
 または、金持ちの上から5人で、51万円、上でその内47万5千円は1番金持ちが持っているのだから、2番目から5番目までの4人で平均8750円持っていて、後の95人は平均5160円も持っていない世界、ということだ。
 為替とか何とかあるから、そこまで単純な話ではないのだろうが、ぶっちゃければそう言う意味である。

 この99人なり、95人の中でも内訳はいろいろあって、それでも何とか衣食住にありつけている人もいれば、文字通りの素寒貧、食うものもない人だって多数いるということに思いあたるべきだ。
 これらの統計は、世界の富がごく少数の超富裕層に集中していることを示していて、経済的不平等の深刻さを物語っている。この偏りがよりによって平均5000円ちょっとしか持たない者から、今もなお絶賛吸い上げ中という仕組みの上で出来上がっていることだからだ。

 このような不均衡を是正するために、国際的な課税制度の整備や富裕層への課税強化などの議論が進められているらしいが。


 先ごろ、自分の死後という時期を、その偏りの深刻さに2030年への前倒しを決めて、全資産を寄付するとビル・ゲイツ氏が表明したことがニュースになっていたが、ゲイツ氏とウォーレン・バフェット氏が極めて例外的で、他にそう言う話は、ほとんど聞かない。
 そのような富など、一生どころか、孫くらいまでも使いきれないと思うのだが、なぜ、そのような富を分配するとか考えないのだろう。思考とか論理ってどんなものなのだろう?
 これは、経済的な欲望以上に、人間の心理、社会的地位、そして世界のシステムそのものに根ざしたものではないかと思う。いくつかの観点から考えてみる。

1. 「限界効用」ではなく、「相対的地位」がモチベーションになる。

 普通は、富の「限界効用」(お金が増えるほど嬉しさが減っていく)によって、ある程度で満足するのが自然じゃないかと思ってしまうが、そうじゃないらしい。超富裕層の多くは「他人より上かどうか」が価値の指標になっていて、富そのものが「ゲームのスコア」のような感覚になっているんじゃないかと感じられる。つまり「誰よりも多く持っていたい」「ランキングを下げたくない」、ってことか?


2. 資本主義の仕組みに最適化された思考

 資本主義社会というのは、資本(株・不動産・事業など)を持つ人は持たざる者よりも指数関数的に富が増える設計だ。逆に言うと、「持っている者がさらに持つ」ことが自然な帰結となるため、富を再分配するのは“非効率”と見なされがち、となる。


3. 「トリクルダウン理論」への信仰

 一部の富裕層や経済学者は、「富裕層が豊かになることで投資や雇用が増え、貧困層にも恩恵が波及する」と信じているらしい(いわゆるトリクルダウン)。実際にはその効果は証明されておらず、寧ろ、近年は否定的な見解が主流。それでも“自分の富は社会のためになっている”という正当化がされているようだ。


4. 不安と自己正当化

 この社会は「いつか崩れるかもしれない」「失うかもしれない」という恐怖から、“もっと備えておくべき”という心理も働くのだろう。オレもそうするかもしれない。また、「自分は努力して勝ち取った」「社会に貢献した」という自負が、再分配に対する反感につながることもあるかもね。

5.エラくなりたいんだよ、誰ぞやみたいに。富は単なる個人の贅沢の手段だけではなく、「政治的影響力」や「文化的支配力」にも直結するから。つまり 富が「支配手段」になる。そう言う向きには、慈善や再分配は、力を手放す行為とみなされ、むしろ抵抗を生むこともあるだろう。

6. ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットそれでも寄付や再分配を考える人もいる。「ギビング・プレッジ」っていうらしいけれど。問題は、それも「国家による強制」ではなく、“自分のコントロール下で行う”再分配であるという点にある。制度としてはそんなものはどこにも存在していない、という事だ。