2021年11月28日日曜日

7242 Jean-Louis Albera

 

7242 Jean-Louis Albera

Jean-Louis Albera
KR350
Paul Ricard 1980

 1983年、84年ごろ、ケニーとフレディのころからのGPファンである。そのわずか3年前の事であるが、ジャン・ルイス アルベラなるライダーの事は聞いたことがない。カワサキに乗り#1を付けるほどのライダー、いたのだろうか? わずかに「1980年、ル・カステレのGPにて」、ル・カステレ、つまりポール・リカールとあるが?
 他にジャン・ルイス・アルベラの名前、フランス語pdfで見かけたが、1980年はカワサキには乗っていないという、GPにフルに出ていたわけでもなければ、大した成績も上げていなさそうだ。

 多分、テストか何か。

 非常に胡散臭いし、どこかおおらか。それはこの当時のGPの魅力でもある。


7241 Valentino Rossi 1997_3

 

7241 Valentino Rossi 1997_3

Valentino Rossi
Aprilia RS125
Suzuka 1997

 ロッシパイセン、旭日旗デザインのヘルメット被っちゃったりしてくれてます。”連中”が、ある時から思い出したように始めた鬱陶しいキャンペーンを張る前の事ではありますが。知ってる人は知ってる通り、ロッシはヘルメットやマシンの色、開催地やイベントに合わせて、時には気分でよく変えていた。
 ヨハン・ザルコも”連中”の抗議が入る前は旭日旗をヘルメットのデザインに取り入れていたのだが、旭日旗については前に書いたので、ここでは書かない。

 1997年の事ではない。1994年の宮沢内閣時の日米経済対話。バブル後、日本が弱りだした頃に条約という形を捨てて復活した、不平等条約。最恵国待遇ってやつ。アメリカにそれを認めるんなら、俺たちにもよこせというスタンスで来たのが、中国、韓国で、或いはロシアもだが、ロシアの場合は北方領土の問題がある以上、それを確保しているうちは、ネタに乏しくあっという間に引っ込めたようだが、で、中国、尖閣諸島あたりの問題はあるものの、別に今更日本から殊更搾り取らなくてもいいぐらいに大きくなってしまったが、韓国にとっては「戦争時、日本がしたこと」は相変わらず重要な資産になっている。困ったときは日本から搾りとれ、的な。多分、本当にこのことについてひどいことやらかした日本人が、特に社会上層にいるのだろう、または既に鬼籍に入っているのかもしれないが、とにかく明らかにできないような後ろ暗いことをやらかした奴が。それをいいことに、針ほどの事実を丸太ん棒ぐらいに膨らます膨らます。一説によれば、賠償を求める自称元従軍慰安婦であるという女性、偶に計算すると当時5歳にもいかない幼女だったってこともあるときく。なにそしたら、日本軍はペドフェリアだったといいたいわけか? と。
 関係者が存命中に事実を100%明らかにして、責任取るべき人間、ペナルティを受けるべき人間は、然るべきに処されるべきだったが、日韓お互いに、そうされると困る人間が権力を持っている人たちにいっぱいいたのだろう。
 大多数の関係者がすでに存命ではなく、動きようのない事実を事実として明らかにすることはほぼ不可能であるが、裁判の証拠的な精度で可能な限り明らかにする努力をするべき。それから、後ろ暗いから、賠償的な円借款や無償援助もかなりの額してきたはずだ、名目をあいまいにして。それら一遍全部清算すればよい。
 で、その後は、可能な限りかかわりにならないようにする、と。

 ロッシの1997年スズカでのヘルメットから、あらぬ方向に話が膨らんだ。


7240 CBX550F

 

7240 CBX550F


 画像はCBX550Fであるが、このころはバイクブームの奔りの頃。車体がそっくり同じで、エンジンブロックもほとんど同じで、ボアストロークだけ変えた、というパターンが結構あった。まぁ、免許制度の所為もあったのだろう。


 で、多分、この文、文中のMも読む。「こんなこと書くなよ~」とか、まぁ、程々に抗議してくる。深刻なようなら修正するか削除するかすることになると思う。


 通っていた高校には紙パックのpiknikだったかのジュースの自動販売機が入り口横に置いてある食堂はあったのだが、所謂購買というものはなかった。中学の時はあったんだけど。代わりに、小腹が空けばこの前書いた間島とか床鍋とか。教科書は高岡駅高校にある学海堂、文房具はその反対側にある、名前は忘れた文房具屋さん。
 休み時間に文房具を買いに出た。正門から。
 中学の時の同級生、他の高校に進学したが、その様子では学校に行ってないのだろう、Mが赤いCBX400Fにまたがって、所在なさげにしていた。何を会話したかは覚えていないが、まぁ、CBXの話だよ、当然、多分。


 時は流れる。何しろ、同じ中学だったからと言って、ほとんど当時話をしたことがない奴だったから。
 インターネット、SMSのおかげで、子供の時はそれなりに交流があった同級生とも交流がなかった同級生とも、そこそこ仲良く、飲み会で一緒に酒を飲んだりする。


 まぁ、オレらが社会に出てすぐぐらいから使われだした、ヤンキーだったんだが、ちょっとニュアンスが違ってたやつだった気もする、Mは。そういうわけで、特に親しくないうえに、SMSとか使いだしたのが40代からであったから、奴の年譜なんて全然知らないが、要するに長距離のトラック運転手で、奥さんと二人いた娘のうち一人と死別していると。

 奴の口から聞いた。いつもはにやけ顔の奴だけど、その時はさすがに表情が消えていた。その時点で何年前の事かも知らない。傷は癒えているのだろうか? いや癒えるはずなんてないんだ。できるのは、気持ちにどうやって折り合いをつけるのか? 
 Mは50代半ばの今になっても、スカジャンにリーゼントで、関西や名古屋で時々あるロカビリーのイベントに出かけて行っているようだ。しかし、まぁ、そんな話を聞いた途端、なんというか、底に流れているのは、ロカビリーではなくゴリゴリのブルースであるような気がしてしまった。でろんでろんのスワンプギターが流れてるような。

 手に余る感情、本人が本当は何を考えていたのか、全然わからない。大変だったな、としか言えることはない。
 しかし、奴は、今、偶に張り込んだ食事をインスタとかに上げたりする。何とかやっている。偶におめおめ生きている自分自身の卑怯をなじったりすることもあるのかもしれない。どうなのかはわからない。


 あのときは無邪気な子供だった。ヤンキーもテストで運動が得意だった子も点数獲るのが多少得意だったやつもそうなじゃないフツーの子も。
 まぁ、そろそろ親は当然、本人までも逝っちゃうようなお年頃で、そうじゃなくても、子供の時には想像してなかった苦労をしょい込んでる話も聞いたりする。或いは健康に不安を抱えてるとか。


 因みに、通っていた中学は、当時市内では一番ワルな中学だったそうで、県内にその悪名を轟かせていたそうなんだが。特にオレの代。
 でも、一つ上や一つ下に比べても、物故者が少なく、同窓会の出席も多く、なんか、大人になった今の方が仲良しだ。不思議なものだ。


 コロナ禍で、なかなか飲み会も開けなくなったが、ひとたびほろ酔いの同級生を見ていたら、なんかこんな感じで続けていけたらいいな、と素直に思う。



 でだ、奴の赤いCBXなんだが、あの後、割とすぐ、廃車になってしまうような事故に遭ったそうである。もったいねぇ。


2021年11月25日木曜日

7238 Valentino Rossi 1997_2

 

7238 Valentino Rossi 1997_2

Valentino Rossi
Aprilia RS125 1997

 長身のヴァレンティーノ・ロッシが、小さな125ccの上、身体を折りたたんで押し込むように乗り込みながらも、しかし、腰を浮かせているという画像。実は「モーター”スポーツ”」という言い方にどこか違和感を感じているんだが、(格闘技も同様、”スポーツ”なんて呼んで、爽やかさみたいなイメージを振りかけようとしているが、それがそぐわないほど、生々しいものがある)、しかし、やはりこういう面、スポーツなんだな、と感じてしまう。シートに腰を落ち着かせない。ステップにふんばり、常に体重移動をして単車を制御する、そういう競技であると。マルク・マルケスなんて見てるとそれが顕著で、小さい体をマシンの上、驚くほど動かしている。
 そういえば、この手の単車、シートは申し訳程度に薄いウレタンをシートカウルに張り付けてあるだけだったりするが、どっしり腰を落ち着ける場所ではない以上、それでいいのかもしれない。

 大学の美術部の後輩のムラカミ君の古巣、RIDERSCLUBはその辺のライディングについてのことに詳しく、事あるごとに解説をしてくれたりするが、’90年代、RC誌のライシング記事に盛んに出てきたのが「リアステア」という言葉で、でも、オレはよくわかってないんだけど、後輪に重心をかけて・・・・えっと、なんだっけ? しかし、その辺のライディングも随分変わってしまって、今のレーシングマシンは大体前輪重視っぽい。がつんと荷重をかけてグイッと曲がるイメージなんだろうか? やっぱりよくわからない。
 ホンダのRC211Vなんて、最初の試作は、モトクロッサーのシャシーに5気筒1000CCを積んだやつで、とにかく、前輪を押さえつけて操ることを主眼にしたらしいが。しかし、ホンダも新規にレーシングマシンを作るときは、着想をモトクロッサーに求めるのが好きな所だ。NS500の時は、ヤマハのTZ買ってきて、エンジンほっぽって、自分処のモトクロッサーのエンジンを積んだ奴から始まった、というのだから。

 いろいろ考え方も変わるものだと。それにつれて乗り方も変わる。

 それはいいのだが、それでもそれでも、これはロッシが始めたことだったと思うが、コーナー手前でイン側の脚をだらんとステップから外すの、あまり好きじゃない。昔に比べてバンク角が非常に深くなっているので、地面にすらないようにステップを踏みなおすのだそうだが、なんか、あんまりかっこよく思えないんだよねぇ。


2021年11月23日火曜日

7236 ZX-RR 2003_5

 

7236 ZX-RR 2003_5

7235 Valentino Rossi 1997_1

 

7235 Valentino Rossi 1997_1

Valentino Rossi
Aprilia RS125 1997

 オレがヴァレンティーノ・ロッシというライダーを認識するのはこの年からである。相変わらず、田舎にはGPの中継はなく、千年屋氏の名調子も聞くことはできなかったが、テレビが観られなかったは、19、20の時と同じで、それでも、熱心な少年ファンの時と同じように、いろんな方法でGPを追いかける心理的余裕があった年だった。

 この年、どのクラスでも日本人はシーズンチャンピオンこそとっていないが、2位以下の上位を占める、日本イヤーだったような気がする。
 で、ロッシだが、125㏄で、2位以下、上田、眞子、坂田、徳留の4人の日本人を抑えてチャンピオンになっている。この年、ポディウムの中央に上がったのは、ロッシと上田のみ。

 250㏄は、ビアッジ、ウォルドマン、原田の順だが、最後まで混戦だった。

 500㏄は、安定のドゥーハンに続いて、岡田が、シーズン2位、青木兄弟が3位と5位で、阿部が7位。


 であるからして、この年のロッシが、オレにとっての第一印象となる。ちっこい125にGPライダーとしては長身な身体を押し込むように折り曲げて走る様は、亡くなった若井を思い出させた。ああ、このコはすぐに上に上がっていく子なんだろうな、とそれだけで予感させた。

 で、当然のように、125でチャンピオンを獲って、さっさと上に上がっていってしまったのであった。


7234 W124 300CE 3.4 AMG-Brabus

 

7234 W124 300CE 3.4 AMG-Brabus

AMGとかブラバスとか、あとロリンザーとか、まぁ、ゼッテー堅気じゃないよな、という印象がある。

7233 Yvon Duhamel_3 retake

7233 Yvon Duhamel_3 retake

Yvon Duhamel
H1R
Clermont-Ferrand 1974


 

7232 Valentino Rossi 1996_3

 

7232 Valentino Rossi 1996_3

Valentino Rossi
Aprilia RS125R
Eastern Creek 1996

 ヴァレンティ―ノ・ロッシからは離れるが、1996年のことをもう少し。っていうか、金融システムの崩壊と呼ばれていることについて。

 もう詳しいことは覚えていない。当時の事を詳述したウェブページも探してみたが、読みたかったものが書かれていることについては、見つけられなかった。
 何について知りたかったかというと、金融機関の破綻に際し、公的資金が投入された、それはいい。それに際し、資金を投入する代わりに、経営責任を明確化、つまり、責任者の更迭などの処分を求めたが、金融機関側がこれを、つまり責任者が責任を取る事を拒否した、というのが当時のニュースの第一報で、結局それがまかり通ってしまったということであったと思うが、当時の内実と、その後の話はどうであったかのかと思ったわけだ。

 思えば、オウムでも阪神淡路大震災でもない、このことが日本を壊してしまったのではないかと思っている。地位の高い人間が瑕疵や不公正、不正の責任を取らないということがまかり通るようになったのはこの時からだし、それ以前、銀行マンは融通は利かないけれど誠実なイメージがあったのが、どこか信用できない奴らになってしまった。

 己の技を極める人に名誉が与えられていて、大多数、それを目指していたのが、要するに金をどこかから引っ張ってきたやつが偉い、という世の中になってしまった。特に社会のアッパーとボトムス。さほど動かず、声さえ上げれば金が回ってくる、みたいな理解が出来上がり、そんな様をみて無力感を感じながらも何とか労働への報酬で身を立てている中間の大多数は、徐々に疲弊していった、そんな状態の始まりが1996年であったというのが、オレの印象だ。何らかのデータで裏付けられればいいが、それは追い追い。

 なかなか明るい話題がないな、1996年。これは、当時のオレ自身にも明るい将来の見通しがなかった所為もあるのだろう。


2021年11月21日日曜日

7231 211118 氷見 久目

7231 211118 氷見 久目

 

7230 Z1300_13

 

7230 Z1300_13

7229 Valentino Rossi 1996_2

7229 Valentino Rossi 1996_2

Valentino Rossi
Aprilia RS125R 1996

 ロッシの1996年の姿を見てみる。まぁ、単車に乗ってるところ。ロッシの、というわけではないが、この年、WGPも四輪のF1も、日本企業のスポンサーステッカーが、さっと消えた年であったと記憶している。少しばかり感じた寂寥感も。
 折からのバブル崩壊、金融システムショックがあったり、前年、1995年には、阪神淡路大震災、オウム事件。日本全体が委縮してしまった年で、思えばあの感覚は晴れることなくずっと続いている。

 そんな馬鹿な、とも思わなくもないが、多分それより前のバブルの時の全能感を知っているからだろう。頭では、これが案外普通かもよ、とわかっていても、どこかで、もっとましなあり様があるのではないか、と、ずっと思っていたりする。それは間違いだとわかっているので、なんとかその辺折り合いをつけるなんていう、無駄な努力なんてしてみたりもする。


 それはそれとして、努力をしないわけではない。オレが、というわけじゃない、日本が、というところで、寧ろ相当もがいたような気がする。しかし、掛けた労力のうち、ちゃんとした推進力になったものは少なかった、という感覚。

 それまで、バブル前夜まで、確としたレールがちゃんとあり、それに乗っかって瑕疵なくやる事やっていれば、形になった。本流にそれがあったから、レールから多少外れていても、引っ張られるように何とかなった。せいぜいその範囲で精進するのが努力と呼ばれるものだった。


 もがくけれど、本当にこの方向が正しいのか、常に疑念が頭をよぎり、何処か力が入りきらない、そしてそのことへの焦り。


 バブルもバブル崩壊も、もう遠い昔の出来事のはずなんだが、そこに流れる何かをいつも総括しきれない。1995年の出来事も、2001年9月11日のニューヨークの事も、2013年3月11日の事も。



 すんません。1996年のヴァレンティーノ・ロッシの印象が、オレにはなかったため、1996年自体の事が膨らんでしまった。


 

7228 Confort GTZ_2

 

7228 Confort GTZ_2

7227 Garry McCoy_4

 

7227 Garry McCoy_4

Garry McCoy
ZX-RR
Bugatti Circuit 2003

2021年11月20日土曜日

7226 Valentino Rossi 1996

 

7226 Valentino Rossi 1996

Valentino Rossi
Aprilia RS125R 1996

 ヴァレンティーノ・ロッシが引退ということで、GP125での世界選手権デビューが1996年だから、えっと? 25年、四半世紀、彼はあの場にいたことになる。彼の四半世紀自体凄いことなんだが、四半世紀かぁ。空恐ろしくなる、時間の流れの速さには。
 125㏄の最初の一年目のロッシのことは、全く覚えていない、というより、知らなかった。

 まぁ、国元に帰って、ぶっちゃけ都落ちの気分で、しかし、まぁ、いろいろとっ散らかっていたオレには、GPをおちついてみるということができなかった、っていうか、田舎だし、この年の中継、テレビで見ることができたのかどうかわからない。


 今はネットなんてものがあって、Wikipediaなんて便利なものもあって、1996年のランキングぐらいならすぐに検索できる。


 500ccのチャンピオンは、ミック・ドゥーハン。今では息子が4輪のF3に乗る。500㏄の日本人最高位は5位のヤマハに乗る阿部典史。あとは、クリビーレとかカダローラとか。ドゥーハンが強すぎてあとは小粒に見えてしまうメンツ。


 250㏄はマックス・ビアッジ。真木蔵人に似てる。ナオミ・キャンベルとも浮名を流した人。ロッシとは非常に仲が悪かったらしい。でも、ビアッジと仲が良かった人はいない、とも聞く。日本人は5位宇川徹、7位青木宣篤、8位原田哲也。


 125㏄は日本人祭り。1位から青木治親、徳留真紀、眞子智実。ルーキーロッシは9位。


 なんだそうです。全然覚えてない。青木治親が125㏄のチャンプ獲ったこと以外。あ、あと、500cc、阿部典史がヤマハのエースだったけれど、この年のヤマハ、全然走らなくて・・・。うん。全然見てなかった。結果を後で知っただけ。


 うん。余裕なかった。この年の後半からゲーム制作の仕事に携わるようになるが、まぁ、楽しかったけれど、ちょっと人間の生活サイクルではなかったな。その前は、主に個人的心理的理由で、やはり余裕がなかったが、その辺詳述しても、面白いように書くことは、ちょっとできないかな? いや、いろいろこの時思ったことをベースに書くことはできるんだが、エピソード的には全く面白いことがなかった。

 今のこの季節にはもうゲームを作っていて、休憩時間にコンビニで缶コーヒー買って、ガードレールに座ってタバコ何本か灰にしながら夜空見上げてたかもしれない。夜食に牛丼食いに出たりとか。

 まぁ、そんなわけで、この年のGPについて、ロッシについて、何か語れるわけではないのだが、それでも、まぁ、思うところもないわけでもないのである。(続く)


7225 ZX-10R WSBK spec. 2005

 

7225 ZX-10R WSBK spec. 2005

2021年11月14日日曜日

7222 AE86 Levin_6

7222 AE86 Levin_6

 オレの小学校の時は、なんかどこかそこか、鉄筋新築校舎に建て替え中だった。中学、高校の時は安定のおんぼろの木造校舎だったか、そっくり同じ学校に通った妹など、小中高とも建て替え工事中で、卒業してから新校舎が完成した、そういうめぐりあわせを時々ぼやく。大学は、オレは新築一年目の新校地だったが、妹がいった女子大はどうだったかは知らない。まぁ、爆発的に数が増える団塊ジュニアのほんの少し上の世代あるあるである。

 それが今では高度もの数も減って、我が街の中心市街地では、一つ、来年から合併で消える学校がある。少子化にしっかり貢献しちゃったオレとしては、すみません、としか言いようがない。


 そんなわけで、オレが言っていた高校も、それが卒業してしばらくしてから、線路を挟んだところにあった、富山大学の工学部跡に移転した。で、オレが言ってた高校の場所には高岡市美術館ができたんだけど、そうなってしまうちょっと前、オレが高校生のときの御話。っていうほどの事でもないが。


 高校の正門を出たところに、似たようなおんぼろの店が二件並んでいた。「間島商店」と「床鍋商店」、この二つの店の関係ってどんなんだったんだろ? と、当時もちらっと考えたことがあるが、良くは知らない。どちらも、20段ソフトと、何も他に具が入っていない素うどんが売りで、ウチの高校や、すぐ隣の、昔、ウチの高校から別れた、高岡工芸高校、富大工学部の学生、他にも、電車通学のコは、高岡龍谷高校や向陵高校のコも越中中川駅で乗り降りしていた子もいるそうだから、そういう子たちも、要するに小腹すかした若い子がポケットに残っていた小銭で食べられるようなものを出すような店だった。こちらも、間島の方は廃業、床鍋の方はたこ焼き屋になってしまって、true tearsというアニメで、劇中出てきた今川焼屋のモデルになったりしている。

 角が床鍋、その向かって左横が間島。床鍋の横がクルマでは通れないぐらいの道幅の小路で、越中中川駅に続いている。その道を挟んだ、間島の反対隣り、床鍋から見れば左隣の民家の玄関先に、赤黒ツートンのAE86レビンが停まっていたこと、同級生諸兄は覚えているものなのだろうか?


 今では浪人のリスクを避け、出来る子でも東大を目指さず何処かの医大を志望する子が増えちゃって、東大に入る子が減っちゃったらしい母校であるが、まぁ、進学校であることは確かで、それは昔からで、そういうところで、車やバイクの話をするなんていうのははばかられたものだから、学校の前に、当時は新車のレビンが停まっているなんてことも話題になることはなかった。イニシャルDの20年弱ぐらい前の話だから、「ハチロク」なんて言い方も知らない。カローラ・レビン、である。

 小学生の時にはスーパーカーブームの洗礼も受けているし、そういうのに興味が出て売る年代だし、全く素地がなかったわけではないと思うがどうか?


 このレビンと、学校帰り線路わきに止めてある、カワサキZ250FTを見て、2,3秒うっとりするのが高校生の時の日課だった。何しろ田舎だったから、そうバリバリのスポーツカーやらバイクやらお目にかかることはないのだ。


 レビン、っていうかAE86といえば、そういうわけで赤黒ツートン奈のだ。大学のいっこ上の先輩の最初の車がやはり赤黒のこちらは86トレノ。イニDの白黒なんかじゃない。まぁ、個人的な見解だけど。


 そういうものに熱狂して、周りに多少迷惑もかけ、顰蹙も買い、自分自身も痛い目に遭い、優しさというものを知り、どこかで折り合いを付けるという術を身につけ、いいおとっつあんになっていく、社会化っていうのはそうしてしていくものではなかったか?

 今の若い男の子の大多数は、こういうモノには見向きもしないそうな。それ自体はそうなんだろうけど、

 例えばアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックという画家がいた。子供の時の病気で下肢に障がいを負い、鬱屈したものを多大に抱えてしまっていた人であったようだが、どこかで、最古の自動車レース、パリ・ルーアン間レースの目にし、熱狂し、随分救われたのだというくだりを読んだことがある。それこそ上に書いた高岡市美術館のロートレック展の展示物の中で見たのかもしれない。

 いささかリスクはあるが、若い時の鬱屈はそれと同等以上のリスクとなり得ることがある。それの調整弁的な役割を果たしたことは、歴史の上では確かにあったはずだ。


 例えば秋葉原事件の加藤智大被告が、もっと満足行くぐらいFD3Sで走り回れる環境にあったなら、かのような事件は起こさなかったかもしれないように思う。「無敵の人」を量産する社会になってしまったのは、クルマも取り上げられて、鬱屈を晴らすところがなかったから。極端な言い方をすれば、それで、かつては夜の峠道で当事者が死んでいたのが、今や、列車の中や普通の歩道で無関係の人間が死ぬようになった、と。あまり理路生存とはしていないが、そんな風にも感じられる。


7221 Z1300_12

 

7221 Z1300_12

7220 Flat Red retake

 

7220 Flat Red retake

7219 柳川明_12

 

7219 柳川明_12

Akira Yanagawa
ZX-RR prototype 2002