ラベル GS/GSX/-E/-S/-R の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル GS/GSX/-E/-S/-R の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年8月11日日曜日

8426 刀 _39, NT0079,0080 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」番外編

8426 刀 _39

NT0079,0080 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」番外編


において、オレは

「なぜ、〇〇工学をクールと思い、そこに引き寄せられようとするのか?
 恋愛に関していえば、どの時代にも姿を変えて、何やらどこか湿ったフォークロアが存在し、通俗文学やテレビドラマ、映画に姿を変えて世に姿を現す。それに救われる、指針をもらう者もそれなりの数いるだろうが、どうしたって救われず、その湿り具合を嫌悪を持つものには、〇〇工学という言葉の響き、たたずまい、魅力的に考えるのだろう。」

と書いた。恋愛あたりの事に関し、情緒などという湿った自分じゃ手に負えないものを嫌って、分かりやすい数値データ、機構を駆使して乗り越えようとしたが、結局はその情緒とかそのあたりのものに破れてしまうわけだ。

 ふと、な、こんなこと書くのも気恥しいが、若い頃諳んじた漫画の一節を思い出した。

 若さは性急に結論を欲し、問題を切断しようとする

 その前から、少しまとめて書くと、こうだ。

 限界超克の姿こそ男にはふさわしい
 それは一種永続的な闘争であるが、その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい。
 若さは性急に結論を欲し問題を切断しようとする

 年齢的凋落はやがて来るが、再び立ち上がり走り出さなければならない
 初めてアクセルを握った時から何も変わってはいないのだ

 細かいところは間違ってるかもしれないが、こんな感じだったと思う。

 頭が弱い、という言い方はあるが、頭が強い、という言い方がなぜかないのが少々不思議。思考力と一言で言うが、その頭ってやつにも、瞬発力と持久力があるんだと思っている。
 持久力と言ってしまうと、それは限りなく意志力というものに近くなってはしまうものの、瞬発力=瞬間的ひらめきこそないものの、取り乱さず変な飛躍もしない、一歩一歩思考を進められる、最低限そのように少しでもやって行こうとするというのもまた「頭がいい」とはいわないだろうか? いや、あまり言わないかもな。

 答えが出ない事、正解がひょっとしたらないことを考え続けること。それでも、遂に情緒なんて獲得できないかもしれない。
 そして、そのように思考することは現代的とは言えない。考えてダメなら切り捨てて次に行くのが当代の流儀だ。それは正しいことなのか?何より幸せなことなのか?楽しいのか? 直感はそうではないと告げているが、自信はない。

 何かに拘泥することは知らずと気が付けば自分をかなり不味い状況に追いやってることが、特に今では多い気がするので怖くてなかなかそんな感じにはいかない。

 また、他はどうでも、自分は悩み続け考え続け隊と若い時に思ったとしても、気が付いたらそういう自分の若い頃を裏切ってしまうのが人間の弱さ。

 ああ、だからか。

 年齢的凋落はやがて来るが、再び立ち上がり走り出さなければならない
 初めてアクセルを握った時から何も変わってはいないのだ


 

2024年6月16日日曜日

8272 GSX1100S _38

8272 GSX1100S _38

NT0061~0062 心に帯びたモーメントの何と面倒な

 同級生の女性の話だ。一度うちのブログにも登場している。かつての美少女、今や画喇叭地のおばさん。飲み会で2回ほど、そこにはいない別の同級生女性に対するコンプレックスを愚痴る事につきあった。いや、彼女だって、すらっとした美女で何人アンタに対しコンプレックスを感じていただろう、と、思ってはみたが、そんなのお構いなし、相当思春期には重いものだったらしい。

 彼女とそのコンプレックスを抱く対象の女性、決して仲が悪かったわけではない。いや、見た目、寧ろ良好なように見えた。実際、その場にいない女性を嫌いとか言う事ではないらしい。が、まぁ、なんというか、完璧超人な女の子ではあった。それはよく覚えてている。オレも。

 とはいえ、そんなことを聞かされたとて、気にすることはなかったんでない? なってつまらない事しか言えなく、そのつまらなさ加減にはオレ自身がうんざりしたりしたが、他に何言いようがある? とその時は思っていたのだが。


 同じ飲み会で、やはりその場にいない男性の話題になる。高校生当時、件の完璧超少女と付き合ってた奴の事だ。今は陽キャ陰キャとかスクールカーストとかなんて、結構まじめでつまらないおじさんおばさんが目くじら立てそうな言葉、中高生を中心に使われているそうで、オレたちの頃はそんな言葉はなかったけれど、そんな感じの今風の言葉で言えばスクールカーストのてっぺんにいる陽キャ、だったのだが、さて、そいつと完璧超少女、大学も此処とは離れた同じところに進み、しかし、分かれて何とかかんとか。そいつは別の同級生だった女のコと結婚し、完璧超少女の方は、大学の割と近所に実家がある男性と結婚して・・・、まぁ、時々そんな話を聞いていた。よくありすぎて今更な話なんだが。


 でさ、その男の方なんだけど、どうやら振られたのか、とにかく結構長い間それを引きずっていたんだと。んで、本調子でなかったせいなのかどうかは知らないが、結構トラブルにも巻き込まれたりして、かつての陽キャも大人の今となっちゃ、どうもパッとしないらしい。って、おい、もう、オレ達、孫もいるような年代だぜ? って。


 いや、さすがに未だに引き摺ってるなってこともあるまいよ。それは彼に失礼かも。ただ、それに囚われて本来もっと他の事に目を向けエネルギーをかけなくてはいけないタイミングでそれができず今に尾を引いている、ということはあるかもしれぬ。

 んで、そういう言葉全部オレにブーメラン。



 若い時に、少年の頃に、何となく抱く将来のビジョンだったりなりたい自分の理想像だったり。その為にそれぞれなりに努力はするんだ。しかし、客観的に見当違いだったり努力が足りなかったり、或いは単に運が悪かったりして、そのとおりにはいかなかったりするのが大多数で。異性ー伴侶の話になると、それは顕著でさ。その事じゃなくても。

 さっさと切り替えて、なんて、他人だから言えることで、それまでが上手くいってた奴なら尚の事、又はそいつなりにとてつもなくエネルギーをかけてきたというのであっても同様。なかなか、それまでの自分の心のモーメントにストップをかけたり方向を変えたりというのができないものだ。それをしないというのが如何に馬鹿げているかは重々承知の上で、だ。


 仏門の偉いお坊さんとか「執着を捨てよ」とかいうけど、それができれば世話がねぇ、ってね。まぁ、多くの人間は、それができないから、宗教なんて言う商売がこの世にあるんだが。いずれにしろ、如何に不親切な言葉であることか。


 執着、いろんな意味を含み得るが、この際は、若い頃、幼い頃に思い描いた理想の将来の自分像への撞着と乖離することの苦味だ。


 本当はもっと遠くに行けたはず、というところで慚愧に堪えないけれど、とりあえず今と今からが大事なのは、いくつになっても変わらない、というのはみんな思ってることで、冒頭の、昔美少女今画喇叭地おばさんは、何とか「今」に意味を見出そうとエネルギッシュだ。昔陽キャの男も、近況、よく知らないけれど、ずっとそう思ってやってることだろう。



 子供の時に好きだった女の子の話は置いといて、時々、ブログで取り扱う、ポルシェをぶっちぎりたいオジサンとか日本の旧車の話とか、って。考えてみりゃ、両方ポルシェなんだな。言葉で書き出してしまうと、ポルシェをぶっちぎることに何の意味があるのか? ということになってはしまうが、そういう馬鹿な事でも、悟りを開いたように、割り切ったように、そんな気持ちが収まってしまうと、実際人生の大部分が本当に終わってしまうような気がしている。



2024年4月29日月曜日

8270 GSX1100S _37

 

8270 GSX1100S _37

NT0058,0059 首都高の青い鳥~キリン

 思い出してみたら、どちらも若い頃の不完全燃焼から来る拗らせオジサンの話だった。しかも作中の彼らは今のオレより若いと来てる。参ったな・・・。けじめを然るべきときにつけられなかった、故の迷走であるが、その然るべきにつけられなかったら最後、作中の彼らは一応けじめがついてすっきりした顔をしているが、いや、違うだろ、拗らせたら最後、限りなく同じ形をしていてしかし別の呪縛になるようなきがするんだが、どうか? 老い、いよいよ走れなくなるまで走ることを強要してくる呪いだ。
 さもなければ、彼らみたいにどうやったって敵わない、笑っちゃうくらいレベルが違う若い奴に情け容赦なく追い抜かれていくか。そりゃね、そうなっちゃったら実際は悔しいに違いないが、自分自身の痕跡はここから無くなっちまうかもしれないけれど、オレがいた場所は確かにここだった、とか感じながら消えていくんだろう。呪縛から解放された魂はようやく成仏するってわけだ。

 魂のうちの幾漠かはそこで成仏しても、しかし、その後の時間というのが確かにあって。そこで終わっときゃ、ひょっとしたらいい話で済んだかもしれないが、若い時には経験しきれなかったみっともない思いもすること、多々あったり。それも、ま、然るべき時にやり切れず何をどうしても、若い時にやりたかったことやったのに、拗らせてしまう要因ではある、ような気がする。

 んでさ。拗らせてしまうほど、何をどうしたかったのか? と考えた時に、突き抜けたかったんだろうな、みんな、と考えた。オレもなんだが、これっぽっち書いただけでは、そういうことに頭を巡らせていないと、何のことだかちっとも分かんねぇ、って。多分オレだって若い時は、突き抜けたいと思っていたはずなのに、老いてしまうとそういう時の気持ちを忘れてしまってる。きれいさっぱりと。で、だしぬけに、何をどうしたかったのか? と問われたりなんかしても、なんかピントの外れたことしか言わないような気がする。

 以下、今流のジェンダー論とは多々相容れない理屈だが、思いつくまま、まずは書いてみる。女性は子宮を持って生まれた時点でどうやったって女性なのである。後は個々の選択だし、病気などの事情を抱えた人にはまぁ、申し訳ないとしか言えない。男性は、男性に、何かになろうとして、初めてそういうものになる。思わなければ、その辺の有象無象、今流に言えばモブ以上、いや、それにすらなれない。何かうごめいているが、せいぜい背景として自己主張もせずおとなしくしていてください、と、言われてしまうような。

 若い時なんて言うのは、それぞれの人生の中で一番脳細胞が動いて、勢い、要らんこともいっぱい考えてしまいがちになるものだが、まぁ、そういう奴らの中で一定割合、どれだけかは知らんがな、何のために生きているのか、うまれてきたか、自分の存在意義、そんなもんを考えてしまうわけだ。んで、もって若い時はそれへの回答のヒントにもまた乏しい。それはそれで苦しいもので。
 最初から考えない奴もいるし、ちょびっと苦しいと思ったらさっさと考えるのを止める奴もいる。そんな奴を、若い時なんて特に蔑みつつも、いや、ちらとも蔑むような感情を持ってしまったら最後、と言うべきか、思考の沼にはまり込んでいく。

 そういう奴らの精神と思考はとてもバランスが悪く不安定だ。オレの場合は、ということで書くならば、そういう時に限って、いや、ずっと、今も、か、人の言う事に聞く耳を持たない。
 でも、そこから突き抜けたいと、ずっと思っているのだ。そうじゃないかい?

 青い鳥は、何も考えていないような主人公にぶっちぎられたときに、自分の”果て”にたどり着いたのだと感じ、キリンは女に出会い、結果的に薩埵峠近くのガードレールから飛ぶことにはなったけど、そういう場面で、彼は、ひょっとしたら昔ならアクセルを戻したタイミングでも回しきれたという事実により、吹っ切ることができたようだ、一応は、だけど。

 さて、自分が何者か?という問いが、なぜか異様に重い問いになってしまっている奴。今はね、あの時から、更にアニメとかラノベの異世界に行っちまえば現世のその重さから解放される。苦しいのはそれだけじゃないけれど。エルフやけもみみの美少女が慰めてくれる。重いことを考えなくてもね。
 でも、多分いる。それを良しとせず、さりとて、「無敵の人」となって周り巻き込んで爆散してしまうわけにもいかないと思って、ひとり重さに耐えているのか耐え切れず潰されそうになってる奴。
 あぁ、そうか。エルフ、けもみみのかわりの単車だったり、チューニングカーなどと言うのもおこがましいボロボロの何か弄った車だったか。そうので、あと少しアクセルを開ける、その感覚を夢想し、それを実際にやってみたかったんだ。それが、いってみれば「突き抜ける」ってこと。

 まぁ、なにをやるのかなんて、答えは人それぞれなんだが、今いる境地なんて、そいつならではのもので、周りには誰もいない、寒風吹きすさぶ荒野のようなものだ。ぶっちぎってくれる若い奴も寄り添ってくれる若い女もいない。いないからやらないのか? そうじゃないだろ?って。

 ネットでいろいろガス抜きも出来る時代に、しかし、そこに言葉をあげて散らしたりせず、重さの純度をひたすら上げている奴も、きっといるだろう。そういう奴に、幸、多からんことを祈る、としか言えないが心からそう思う。


2024年3月3日日曜日

8236 750刀

 

8236 750刀

 死を覚悟するなんて、その人間の才覚に関らず、多くの場合、直前に「あぁ、オレはこれで死ぬんだ」と思って、暴れ泣きわめく暇もなく、従って覚悟があるなしに関らず、暴力的かどうかすらよくわからぬまま、全て意味消失するのではないか?
 勿論、病ですでに死期を告知されている場合や、刑罰として予告され与えられる死なんていうものもあるが、この際、それは置く。いや、置いとく必要もないか?

 この際には、意味消失の瞬間を死とするか、肉体の生命活動の停止を死とするか、迷うところだが、残されたものにとっての死は語られることが多いけれど、当事者にとってはどうであるか、考えてみた。

 聖ヒデヨシの死というのは、漫画という創作物の演出として、所謂「フラグが立つ」ような場面はあったにしろ、本人は、対向車が中央車線をはみ出して目の前をふさいだその瞬間まで死を考えたこと無かったろう。目の前をふさがれても「くそったれ!」とは思っても、それが自分の死につながるとは瞬間的に思う暇もなかったに違いない。

 そういや、「綺麗な顔してるだろ。信じられるか? それで死んでるんだぜ。」という感じのセリフがあったように思うが、細かいところは違ってるかもしれない、上杉カズヤの死というのも、そんな感じだったかもしれない。予兆なんてあったとしても誰もわからないような微かなもので。

 いきなり電球が切れて暗闇になるようなものなんだろうが、そもそも、暗闇を知覚しない、そんな感じを想像するが、そうであろうとは思っても、知覚しない、思考しない、しかしそれを知っている、なんてことはないわけで、そうなると、魂があって死後の世界が云々と便宜的にも言いそうになる気持ちには確かになる。死んでしまうということは何もかもなくなってしまう、それを知るという事さえなくなってしまう事だ。

 それがいきなり来る。
 元旦の地震で、家の裏の山が崩れた、揺れで家が倒壊し押しつぶされた、で、亡くなった方々。一瞬の大きな衝撃でそのまま、となった方々、残された方々の無念はともかく、まだラッキーで、足や腰や胸を圧迫され、段々身体が冷えていく、急速な死が近づいてくるの感じながらついに亡くなった方々。
 事故死の中でも、意識がしばらくあったのちの死というのは、どういうものだろう? 痛覚も怖さもすべて気力がなせるもので、痛みを感じることができなくなり、怖さについても同様で、それ位衰弱してから死はやってくるんだろうか?

 死の、まさにすべての意味が失われる、失われた、その瞬間まで刻一刻と変わる精神のフェイズを我々は知らない。何しろ意味が失われる瞬間そのものも想像でいうしかないのだから。知らない、わからないから恐怖する。そこに宗教の意味があるんだろうが、それだって多分に想像で言っていることで、結局検証のしようなど誰もできないことだ。

 「わからないから、今を精いっぱい生きるのだ」などと問題をぶった切ってまとめるような年でもそろそろなく、かといって、実のところどうなのかということを知るすべも持たない。わかるのは、どうであれ、人類史上死ななかった人間はだれ一人としていない、と、ただそれだけだ。