8777 SC82 SP _2
「過剰」について考える
例えば、このCBR1000RR-R、SC82はカタログスペックでは、最高出力218馬力なんだそうだ。オレが普段使いしている1300㏄のサクシードなど80何馬力かどっかその辺だ。2輪だ。人が一人乗る以外積める荷物なんてほとんどない。
回りくどい言い方をしているが、2020年代のこの現代において、つまりは合理性という言葉をどこかにぶん投げたような存在なのである。言うならば一種「社会の敵」と後ろ指を指されかねないわけなんだが、こんな時代においてであっても、一定のニーズがあるという事である。
今現在の各社のトップモデルと言えば、一応はスーパーバイク出場用、という名目はあるが、興味のない門外漢にとってはこの時代にレースをすること自体が社会に対する敵対行為とまで考えている人もいるかもしれぬ。
サーキットであればいざ知らず、公道で度胸一発時速300キロが簡単に出てしまうのだ。ここで表立って推奨はしない。しかし、そういうものを求める心持を有した人間は一定数、いつの時代も存在しており、実行してしまう奴もいるけれど、オレのようにほぼ憧れとしてそういうものが存在していて欲しいと思っている、そういう欲求を満たすことの社会的意義を問われると答えに窮するしかない。
この世が徹頭徹尾、整然としたものであろうとするなら、それは何とつまらない世界だろう、という切り返しは陳腐すぎて無効。何の答えにもなりはしない。しかし、それとあまり違いはないのかもしれないが、危険であり、現在語られる経済的合理性から外れたもの、というのは、この資本主義世界の行き詰まりに何かヒントの一つを与えてくれはしないだろうか、と感じている。
則ち、企業価値とそれに伴う株価を上げることで利益を得ることが至上の目的となっている今の経済ドライブで、それは、例えばモノづくりの喜びであるとか、その中の人の細やかな幸せ、楽しみよりも優先する。社会上位にいればそれでもいいが、中層以下はどんどんと下へと追いやられているようにも見える、そういう資本主義というものの行き詰まり。
カール・マルクスから最近ではトマ・ピケティに至るまでひたすらそういう方向に流されていくことに対し竿を刺す仮説も数多あるにはあるが、こういう流れというのは止めるに至ってはいないように見受けられる。
となれば、経済的合理性、それに適応するように成形された諸生命理論から外れた欲求とはなんなのか、そして、それを突き詰めていくことに、ひょっとしたら意味はあるのではないかとも思うのだ。
ビジネスに関り、鉄道のようなインフラによるものではない、時速300キロなんて速度は、通常の社会には過剰であり不必要だが、そんなトップスピードとそこへ駆けあがっていくときの力感を欲するということ。これはいったい何なのか? なぜそんな「不必要な」過剰を求めるのか?