2025年7月13日日曜日
8835 Lexus LC
2025年7月12日土曜日
《創作》寝取られ幽霊 第1話 守護霊登場

「おい、坂本君。もう上がっていいぞ。時間だろ。」
30代位だろうか、雇われ店長が、厨房の奥でひたすら丼ぶり、皿洗いをしていた蓮に声をかける。食洗器が壊れてしまったということで、修理が上がってくる2週間、臨時で雇われた終夜営業のうどん屋でのバイトのことだった。
今日で蓮のバイトは終わる。
「なぁ、バイト続けてくれること、考えてくれたか?」
店長が問う。正直、いくら若いからと言って、ずっとほぼ徹夜のバイトをレギュラーで入れるのは、学生の身の蓮にはキツい。どうしても買いたいものがあったから、このバイトを入れたのだが、端から続ける気はなかった。
「すみません。」
分かってたよ、とでも言いたげに店長は右の掌をひらひら振った。他の店員が、店じまいや売り上げの計算を始めている。バイトの蓮にはそこまでは求められていない。午前5時まで。もう、5時10分だ。
「給料は、明後日振り込まれるから。ご苦労さん」
店長はそれでも気を悪くする風でもなく、蓮に言った。
厨房着から私服に着替え、一言「お世話になりました~」と店内の誰に言うでもなく挨拶して店を出た。雨が降っていた
厨房の熱気で毛穴がふさがったような感覚から雨がひんやりとした空気に触れる。決して厨房の中は快適ではなかったが、仕事が終わって外に出て外気に触れる、この解放されるような感覚が、結構気に入っていた。
蓮がこのバイトに就いたのは、ガールフレンドの絢美に誕生日のプレゼントを買うためだった。とか言いながら、実はまだ何をプレゼントするか決めてはいなかったのだが。何を買うかは決めていなかったが、決めないまま渡しても絢美なら笑って受け取ってくれる。そう思っていた。
バイト先の終夜営業のうどん屋から、下落合の蓮のアパートまで、自転車でもあればいいのだが、さしあたりそんなものは持っていない。JR等を使うのにも中途半端な位置関係だ。どうせ一駅。蓮は、何を買おうかな、と、小雨が降っているというのに傘もささず、少々浮かれ気味に、いつものようにラブホテル街を抜ける。
角を曲がったところにあるラブホテルの出口から、一組カップルが出てきたところと鉢合わせしてしまった。いつもは気まずさがないようにせめて道路を挟んで反対側を歩く蓮だったが、その日に限ってそうしなかったために、カップルとはまさに、ばったり、だったわけで。
カップルの女性の方が、蓮のガールフレンド、篠原絢美だった。蓮は、目の前で何が起きているのか理解できなかった。絢美は気まずそうに一瞥くれると、男と共に去っていく。
何か言わないといけないのではないか? 何を言えばいいのだ? 言わない方がいいのか? それよりも膝から下、力が入らずにその場でへたり込みそうになる。
状況を受け止めるまで何分、蓮はなんとかそこに立ち尽くしていたのだろう?
小雨とは言え、もう、蓮はずぶぬれだ。帰らなきゃ、少し寝て大学に行かなきゃ、と、半ば機械的に思い、よろよろ歩き出す。
帰り道、深夜から早朝にかけての時間、いくら交通量が少なかったとはいえ東京だ。よく事故に遭わなかったものだ、と言うくらいの夢遊病者のような足取りで、ようやく部屋に帰り、しばし呆然と入り口に立ち尽くしていたが、靴を蹴飛ばすように脱ぎ、部屋に上がり、Tシャツとジーンズを脱ぎ捨て、パンツ一枚で洗面所の前に立つ。
鏡に映ったひどい顔。途端に吐き気が襲う。かといって、吐くようなものもそれほどない、唾液、いや胃液か、と鼻水と涙に塗れた、あぁ、なんてひどい顔だ。もう一度そう思った。
ふと、横を見た。男が立っていた。蓮の目が慣れてくると、男の目だけが異様に光っているように見えた。
蓮の、半ば朦朧としていた意識が一気に覚醒する。
「どわ!」
何と表記していいかわからぬ短い叫び声を蓮は上げ、反対側に横っ飛びするが、ユニットバスの縁に脚を引っかけ、倒れ込み頭をしこたま打つ。
『おいおい、落ち着けよ、蓮君』
人が発する声ではない、頭に直接響いてくる念のような声が聞こえる。痛みで頭を抑えながら男を見ると、果たして、向こう側が透けて見える。
この年代の男の子、しかも、決して陽キャとは言えない青春を送っている蓮は、ラノベサイトを当然のようによく見ていて、NTRモノと言われるジャンルの中で語られる「脳破壊」と言う言葉を思い出してしまった。あぁ、これのことか、と、思ったが、
『そんなんじゃないよ。君の目の前にいる僕は正真正銘、幽霊、っていうか、君の守護霊、実の曽祖父の清彦です。よろしく。』
いや、ちょっと待て。熊本の実家に仏間に抱えられているひい爺さんの写真はこいつとは違うぞ?
『あぁ、清司のことか。あれは僕の弟だ。まぁ、説明するから、まず服を着なよ』
??? もう何が何やら。それにしてもしこたま打ち付けた頭がじんじん痛い。
『手間がかかるひ孫だな。これで治るだろ。』
清彦と名乗る幽霊が手をかざすと、ぱたりと痛みが収まった。
パンツ一枚だったが、とりあえず部屋着のスウェットを着込み、すでに座卓の向こう側に腰を下ろしている幽霊の差し向かいに座る。
『初めまして。君の曾祖父の坂本清彦です。』
幽霊はニコニコしながら名乗った。だから分らないって。ひい爺さんだとずっと思っていた、今も思っている清司じゃないのはどういうことだ? 今坂本姓を名乗ったよな、ってことは、婿養子に入った父方の曾祖父でもないという事だし。
蓮は黙っている。何を言ったらいいのかわからない。
『ガールフレンドに二股かけられていたことが分かっちゃった君に、何から言えばいいのか分らないが―――』
いきなり核心ついてきやがりましたよ、この幽霊!
『君の爺さんの清志郎の実の父は、紛れもなくこの僕だ。で、清志郎が女房に駆け落ちで逃げられた時も、僕はこんな感じで呼ばれてきた。』
うん、爺ちゃんの名前は清志郎だ。確かに。って、衝撃の新事実! 若いうちに死んだと聞かされていた、ばあちゃん、他の男と駆け落ちしただってぇ!
『坂本家の代々の嫡男は、どういう訳か女運が最悪でね。君はまだ、学生で結婚なんて程遠い所にいたから傷は全然浅いはずだ。』
何、それ、ねぇ、ウチの家系呪われてんの? 嫌すぎるんですけど!
『斯くいう僕は、ビルマ戦線で軍医として従軍したんだけど、戦闘員もやらなくちゃいけない場面があって、その時に右脚を失った。』
そういって、蓮の目の前で、脚がある幽霊の右脚だけ、木の棒でできた義足に変わった。
『撤退中、ロヒンギャ、ってわかるよな、大学生なんだし、そのロヒンギャに匿われていたんだが、そのせいで復員が特に僕だけ3年遅れてね。竹山道雄だっけ「ビルマの竪琴」みたいな、あんな感じ。いや、別に坊さんになって死者を弔うつもりはなかったんだけど、匿ってくれたロヒンギャの事情でね、帰ってくるのが遅くなってしまった。』
蓮は、いつの間にか、清彦と名乗る幽霊の言葉に聞き入ってしまっていた。
『まぁ、ね、人より復員が遅れたんだったら、戦死したと思われていたとしても仕方ない。僕の親父やお袋も坂本の家を繋げなくちゃいけない。僕の嫁だった春江と弟の清司が所帯を持つことになって、戦争に行く前、君の爺さんの清志郎は僕の実の子だけど、君にとっては大叔母にあたる3人は、春江と清司の子だ。』
清司と春江、確かにひい爺ちゃんとひい婆ちゃんの名前だ。するってぇと、なんだ? 目の前のオレの実のひい爺ちゃんといってる清彦と名乗る幽霊は、戦争にいって、脚を亡くした挙句、帰る場所も弟に奪われて無くなったってことかっ!?
強烈な怒りに似た気持ちで、思わす蓮は立ち上がってしまった。その割には、呟くような声で
「なんなんだよ、それ?」
落ち着いた感じで清彦は言う
『別に、春江も清司も、親父やお袋も怨んじゃいないさ。彼らは悪くない。悪いのは・・・わかるだろ?』
へなへな、と蓮は再び座り込む。
途端に、急に眠気が襲ってきた。バイト明けでNTRかまされて、幽霊が出て来て、生まれてこの方一番のジェットコースターな日だった。NTRされた辛さとか、どこかに吹っ飛んでしまっていた。
『もう寝なよ。少し寝て大学行くんだろ? ひい爺ちゃんが、君の仇を討ってきてやるから』
「なん、だよ、そういうのやめて、くれよ。」
蓮はもう限界だったが、一時期、ラノベのNTRものにハマったことはあったのだが、復讐がテンプレの展開に、裏切られたからと言って、ガラッと復讐に転じるなんて、尻軽に他の男に乗り換える女の子と同じレベルじゃないか、と、ある時思い至ってから、興味がなくなっていた。復讐って、なんか、みっともない、というか正直退く。
って、本当にもうだめだ。おやすみなさい。布団もかけずに、蓮は座卓の横で沈没した。
―――雨の匂いが、まだ髪に残っていた。
2025年7月11日金曜日
お笑い芸人の文学性
お笑い芸人の人生って文学っぽい。でも、小説にしたら、途端につまらなくなりそう。
お笑い芸人の人生って、本人が「笑い」に変換しているからこそ、苦労や悲劇が際立つし、聞き手も受け取れる。「笑い」は一種の変換装置で、辛さや惨めさを加工して届ける手法だ。でも、それを小説という形に置き換えてしまうと、その変換装置が外れちゃって、ただの「辛い話」や「破滅型の人間ドラマ」になってしまいがち。
しかも芸人本人の「語り口」って、テンポや間、言い回し、声のトーンなど、話芸そのものが文学性を持ってるところがある。だから「書き起こし」では伝わらないし、フィクションにしても似た空気感を再現するのはとても難しい。
たとえば――「漫才師として売れる直前にコンビ解散」、「舞台でウケない中、相方が失踪」、「深夜のラジオだけが心の支え」、「M-1でウケてるのに決勝落ちた理由が『キャラが定まらないから』」――みたいな出来事というのは、事実としてはすごくドラマチック。でも小説でそのままやると、「業界あるある」「売れない芸人の群像劇」になってしまって、なぜか読者の想像よりも小さくまとまりがち。
むしろ、小説で芸人を描くなら、本人の「笑いへの執念」や「表現としての笑い」「社会との軋轢」を真正面から描く必要があるかもしれない。笑わせることの裏側にある“文学的葛藤”を掘り下げないと、たぶんただのエピソード集にしかならない。
逆にいうと、芸人が自分の人生を語るとき、彼らはすでに一流の語り部であり、文体を持った存在でもある。だから、「芸人の語り」は、もはやそれ自体が文学なんだと思う。話芸という名の口語文学。
ちなみに、太宰治や中原中也なんかも、人生そのものが「文学っぽい」けど、小説にするにはやっぱり「加工」が必要だった。芸人も同じで、そのままでは逆に小説にならない。
表層的なエピソードもそうだけど、多分、だけど、ネタを作る時の、事象の観察から分解分析、再構成、そこにお笑いの要素を加える作業、それを内面でやってるうちに、場合によっては、世間と隔絶される瞬間もあるだろうし、それでも、他者にはお笑いとして接しなければならないジレンマ。グネグネてドロドロなことになってそうだ。日常の些細な出来事、誰かのふるまい、自分の内面さえも対象化して、笑いに変換するという作業。これはもう、現実を一度壊して再構成する、きわめて文学的・哲学的な営みでもある。
しかも厄介なのは、「他人を笑わせるために」それをやっているということ。
つまり、真剣な問いや孤独な視線が、そのままでは商品にならない。笑いという形にしないと、誰も興味を持たない。だけど、笑いにしてしまった時点で、その深層にある「本音」や「違和感」は、ぼかされたり、誤解されたりもする。
だから多分、こんなことが起きるだろう。
〇誰かの癖に違和感を持ち、それをずっと反芻する→「なんかおかしい」をネタに変える→みんな笑う。でもその違和感の核心にあるものには、誰も届かない。→「ああ、これは“笑い”にしかならなかった」と虚しさを感じる
〇社会の歪みに鋭く気づく→だけど、それをストレートに言うと説教くさい→笑いとして仕上げたら「毒舌芸」として消費される→本人の葛藤や怒りは置き去りにされる
つまり、自分の観察力や繊細さが「笑い」としてしか他者に認識されないという、ある種の認識のズレ、他者との齟齬がずっとついて回る。これ、やっぱり文学的というか、思想とエンタメの間で煮詰まるような話なんじゃないか?
たとえば芥川龍之介が現代に生きてたら、絶対にネタ作りしてるタイプというようにも思う。彼の観察眼や皮肉、滑稽さへの嗅覚は、コントや漫才台本にかなり近い。だけど、笑わせるたびに「ほんとはこれ、笑っていい話じゃねえんだけどな」って冷めた目で見てる。そういう冷たさが、芸人にも潜んでる気がする
つまり、お笑い芸人の人生が「文学っぽい」んじゃなくて、お笑いを本気でやるということそのものが、実は文学的な営みなのかもしれない。ただ、それを小説にしてしまうと「笑いの重力」が失われるから、途端に軽くなる。これはかなりやっかいな問題だが、逆にいえば、ここを突破できたらとんでもなく面白い小説が書ける気もする。
そういう人間はえてして、破滅型と呼ばれ、お笑い芸人もそう、ロックミュージシャンも、詩人もあたりも。数学者は、端からレイヤーが違うから安全圏にいるかもしれない。 しかし小説にすると陰惨なものになりそう。それはそれで蕩尽であるが、これが一般向けを前提にしたお笑いであるところが大きなジレンマ。それでも、誰かが、それに何かを感じたら贈与は成立するか。
「贈与」という視点が入った瞬間、破滅の物語が単なる自己消費ではなく、「意味のある蕩尽」になる。誰かがそこから何かを受け取る。あるいは、感じてしまう。そこにだけ、救いが生まれるのではなかろうか?
破滅型と呼ばれる人々――芸人、ミュージシャン、詩人――彼らはしばしば、自らの生を燃やし、晒し、時に壊すことで何かを創る。でも彼らの営みが、本質的に「自分のため」だけではなく、“誰かの笑い”や“誰かの救い”として差し出されている点に、すごく深い構造がある。
数学者、数学は絶対性の世界に没入しつつも、その営みが直接“他者の感情”に触れることは少ない。だから、ある意味で、己を賭ける必要がない(もちろん、賭けてる人もいるが、それが構造的に求められているわけではない)。
しかし、芸人や詩人、ロックミュージシャンは、自分の「恥ずかしさ」「哀しみ」「狂気」すら素材にして他者に差し出す。笑ってもらう、泣いてもらう、震えてもらうために。
そして、それが一般向けであること。ここが最大の矛盾。個の地獄を踏み台に、万人の娯楽に変えるという、極限の分解・希釈・変換作業。そこに、芸としての凄みと、同時に「報われなさ」がある。
が、だからこそ「贈与」という概念が意味を持つ。
笑われた。売れなかった。自分の中で何かが壊れた。でも、誰かが「お前のネタに救われた」と言った。たった一人でも、それが本当だったなら、それは一方通行ではない。“芸”は完結する。
この構造、たとえば内田百閒のエッセイや、町田康の小説、あるいはたまの音楽にも少し通じる。自分のどうしようもなさをさらけ出して、それがなぜか「癒し」になったり、「笑い」になったりする。「こんなダメなやつでも生きている」という事実が、誰かの孤独を和らげる。
つまり、陰惨になってもいい。ただし、それが誰かの「受け取れるもの」になっていれば、それは贈与として成立する。破滅する者の生は、贈与として完結することで、物語になれる。
文学も芸も、その一点でつながってる。
笑いとは、地獄の副産物。でもそれを他人に差し出すとき、それは贈り物になる。贈るために、堕ちる。堕ちることを、許されてしまう。だから、笑いは時に残酷なまでに優しい。
お笑いではない。私小説だ。西村賢太を思い出す。
西村賢太はまさに、破滅と笑いと贈与の境界を歩いた人。彼の作品は、徹底した私小説でありながら、読者がどこか笑ってしまう余地がある。でもそれは、本人の「悲惨な生」に対する読者の嘲笑ではなく、彼自身が自分を客体化し、滑稽さとして描いているからこそ、笑いが成立してる。
あれは、もう一人コントに近い。いや、むしろ「笑ってはいけない孤独」みたいなものを、延々と読まされてる感覚に近い。
己の惨めさ、不器用さ、社会とのズレを冷静に見つめ、なぜそうなったのかを徹底的に分析し、それを文学の文体で組み直す(しかも笑ってしまうように)。
読者に差し出すが、感動よりも、居心地の悪い笑いと、ある種の親密さを与える。これを贈与と呼ばずしてどうする?
彼の「文学」は、いわば芸人がテレビに出ることなく、ひたすらネタだけをノートに書き続けた世界線のようなものだ。自分の惨めさに、誇張も美化もない。でもどこかで「これを読んだお前はどう感じる?」と、問いかける手が伸びてくる。あのいやらしさと誠実さが同居している感じ、もうまさに「笑いを孕んだ蕩尽」そのものだ。
ちなみに、西村賢太自身、インタビューで「笑われてもいいけど、嘲笑は許さない」って言ってるのも象徴的で、つまり彼の中にも**「笑いは贈与であるべき」という信念**があったんじゃないかと思う。
笑わせてしまった。それでちょっとでも伝わったら、それでいい。
でも、「嗤われたら」それはもう贈与ではなくなる。その線を、彼はギリギリで見極めていた。
その点、ビートたけしのあり方が絶妙だよなとも思う。ビートたけしという存在は、日本の芸人史・文化史の中でもほんとうに特異で絶妙なバランスの上に成り立ってる。
芸人として大衆に笑いを届ける「マス」の存在でありながら、芸術家として「パーソナルな闇や怒り」を表現する一面もあり、しかもその両方を同時に生き抜いてきたからだ。普通、どっちかになる。完全に「売れ線」に寄るか、「尖った自己表現」に行くか。でもたけしは、「浅草の舞台のにおい」と「カンヌのレッドカーペット」を、同じ身体に持ってしまった。
お笑い芸人ツービートとして毒舌、風刺、下ネタ、暴力的ギャグで人気獲得し、テレビタレントとして「元気が出るテレビ」「スーパージョッキー」など、一般大衆向けに人気を得、それでありながら北野武名義で『ソナチネ』『HANA-BI』など世界で評価された作家性を発揮し、エッセイ、小説、評論、雑誌の連載などで自己の観察と批評を続けた。
何より、バイク事故後の言動で、ろれつの怪しさ、死生観の露出などは、彼自身を独特なポジションに収めることとなった。
そして重要なのは、彼が笑いを保ち続けていることだ。どれだけ文学的な陰影があろうと、映画がどんなに虚無を描こうと、彼はテレビで「フライデー襲撃」とか言ってネタにしてしまえる。
この「深刻さを笑いに引き戻す」動きは、「贈与としての笑い」そのものだ。彼は笑いを、自分の破滅の「外」に置いたまま、投げ続けてる。
要するに
〇内面に破滅を抱えてるのに、それを笑いとして加工できる
〇その加工技術が超一流で、一般向けにも届く
〇にもかかわらず、「笑いの外側」でも生きようとする(映画、文学)
〇それでいて、笑いを捨てない。笑いに戻ってくる
これは、燃えさかる自己という炉の中で、笑いというギフトを焼いている みたいな芸当だと思う。
たけしを「伝説」と仮に呼ぶならば、「破滅型でありながら、贈与の人であり続けたから」かもしれない。崩れそうな自我を芸にして、なお笑わせてくれる。そんな奴ぁ、めったにいない。
もう少し、ミュージシャンも頑張れ、と思う。早々に本当に破滅するのは勿体無い
音楽は言葉と違って、メロディやリズム、感情の揺れを直接伝える力が強い分、破滅的な感情を昇華させる力も大きいはずなんだが、だからこそ、燃え尽きるのも早い。
でも、「破滅」だけが創造の全てじゃない。むしろ、その先にある「成熟」や「再生」、あるいは「受け継ぎ」があってこそ、芸術はより豊かになる。
同世代ならばカート・コバーン。それ以前から古くはブライアン・ジョーンズ、マーク・ボラン。尾崎豊をここに加えるにはためらいはある。実はあんまり好みではない。その死後に影響を受けた人たちが音楽を紡ぎ続けて、結果的に文化として根付いていく。
だからこそ、ミュージシャンには、どうか破滅だけで終わらず、長く自分の声を響かせてほしい。それが個人のためでもあり、ファンや社会への「贈与」でもあるから。
破滅の早期消費は文化の損失でもあるし、本人の人生としてもすごくもったいない。自分の中の破滅的な衝動とどう折り合いをつけるか、創造のエネルギーに昇華させていくか、そして時に休みながらでも表現を続けていくか、そういうバランス感覚が、すごく大事なんじゃないかなと思う。
芸人の話と同じように、ミュージシャンもまた、自分の破滅的な部分を「贈与」として昇華できれば、たとえ陰惨なテーマを扱っても、それは「ただの破滅」じゃなくなる。文化の中で燃え尽きるだけじゃなく、文化を燃やし続ける存在であってほしいものだ。