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2025年11月16日日曜日

2025年11月14日金曜日

8871 深田恭子 _12

8871 深田恭子 _12

 10代でデビューされたときは、うん、ま、将来美人になるだろうな、と、雑誌のグラビアで観るだけだったけど、思っていた。それより、なんか足のサイズがでかいという印象がなぜか強い。少し気の強そうな顔つきで。
 いまや、なんか、心ここにあらずというか、浮世離れしているというか、上の空というか、そういう表情の写真をよく見る。予測通り美人になられた。何を考えているのか、何も考えていないのではないか、そういう表情。いろいろ諦めたこと、自分の中で殺してしまったことが多いのだろうか? そんなことも想像する。だとしたら少々痛々しい。

 

2025年11月11日火曜日

8868 Khatia Buniatishvili

8868 Khatia Buniatishvili

 有名人で、オレと同じ誕生日、となると、あまり記憶に残る人はいない。一日前なら桑田真澄氏がいる。学年が一つ下で、丸々2年、オレより氏は若いのだが。話を戻すと、オレと同じ誕生日に、ラフマニノフがいる。

 パリ五輪のプレイベントで、エッフェル塔のあたりでラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第3楽章の切り取り、終盤のあたりの物がネットに上がっていて、これが、なんとも祝祭感にあふれ、うっとりするものだったのだが、もう削除されていて残念だが、そこで鍵盤をたたいていたのが、カティア・ブニアティシヴィリ氏だったわけだ。割と慣れ親しんだ、カラヤン&ワイセンベルグの1973年の演奏あたりと比べてみると、彼女の演奏は、特に終盤ギアを上げてくるようだが、ともあれ、苦悶の豹所とは裏腹に、恐らく音楽の快楽の真っただ中に彼女はいた。

 ヨーロッパではアイドルピアニスト、から、本格的ピアニストに脱皮した、という位置づけのように見受けられたが、良くは知らん。

 

2025年11月10日月曜日

8867 Daytona SP3

8867 Daytona SP3

 スポーツカーを次の世代に伝えようという必死な様。あくまでオレの主観で、それは、経済的に全く世界線が違うところからの言葉だが、かつての優美な曲線にあこがれたことを思えば、断末魔の造形のようにも思える。良い、悪い、でも、好き嫌いでもないんだ。無理筋が集積したような、いや、それはかつてもそんなところがあったが、突き抜け感を感じることが出来ないのだ。

 このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。

 

2025年11月9日日曜日

8866 神楽坂恵

8866 神楽坂恵

 多分こうして、時々ヌードを描いて上げているから、アドセンスを通らない、このブログが収益化できない。
 それについて思うことを書き出すと、支離滅裂になるとは思わないが、多分ネット時代に醸成された社会風潮とは相いれないことがいよいよ明らかになってしまうのだろうな、とは思う。 こういう、エロを、まぁ、自分のブログにだけとどめておく、描いて上げたことは告知はするけれど、画像自体は他所には上げない、ということにしている。それは、まぁ、普遍的なルールとは決して思わないが、この時代の最低限のエチケットなんだろうな、とは思っている。
 それでも、そんなものがこの世に存在しないようにふるまうのは、断じた間違っているとは思っている。性欲が若い時と比べたら随分と減退してしまっている今でも、やはり、かの曲線、観ることがあれば、刹那、うっとりするものである。

 これ以上は、今は書かない。 

 

2025年11月8日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2

8873 Emma Watson _34

 もう、ネット上、本物のエマ・ワトソン氏がこんな写真を撮って剰え世に出すはずがない、と言うのが多すぎて、よく訴訟沙汰にならないものだと呆れつつ、この画像の基になった物はどうだったんだろう? むしろこんな何かの役柄のものは公式のガチものとしてありそうな気がする。実は、氏の出演作、ハリーポッターも含めみたことがないのだ。

 さて、

 今、オレの中では、AI生成作品問題と、NTRザマァテンプレ問題が、ちょうどオレの中で重なったわけなんだが、せいぜい登場人物の名前設定を入れ替えただけの作品(?)なんて、ねえ。で、件の1日30云件更新の人じゃなくても、これをやってるっぽい人、複数確認している。
 AI生成作品と、テンプレNTR・ざまぁ量産作品って、発生の仕方も、質的な問題もすごく似ている。どちらも本来は「表現」だったはずなのに、いまや「生産」になってしまっている。そこに登場人物ではなく作り手の意図や痛みや願いが薄くなると、作品は“ただの構文”になっていく。
 AI生成の話で言えば、「中身よりも量、速度、最適化」で動くだろうし、テンプレNTRの話で言えば、構造は売れる型で、感情は記号化してしまっている。どちらも“仕組みの成功”であって、“物語の成功”ではない。読者も一瞬は食いつくけれど、心に残らないとおもうがどうか?哀れ、登場キャラクターたちはそのほんの刹那の食いつきのみで、後は忘れ去られてしまう。まぁ、架空の人物達なんだがね。人工的に増殖した「似たような名前の登場人物たち」が、同じような苦しみや快楽を繰り返しているだけだから。

 AI問題とはすなわち、創作の自動化/テンプレ化問題の極限形だ。AIが文章を量産してるように見えて、実は人間もすでに“テンプレAI”みたいに振る舞っている。「流行る構成」「刺さる設定」「売れる語彙」で作品を組む。だからAIが登場しても、構造的には何も変わっていない。
 むしろAIが鏡を突きつけてきたわけだ。「あなたたちも、もう自分で書いてないんじゃない?」ってね。
 だから、AIを排除するかどうかよりも、「自分はどこで書いてるのか」「誰の声で語っているのか」そこを取り戻せるかどうかが、ほんとの分水嶺ではなかろうか? 名前だけ入れ替えた量産物が溢れる中で、 “たった一つしか書けないもの”を出せる人こそ残ってほしいものだが。

 「どこで」「どう」勝負するかを決めるのは、もう誰でもなく、作者本人だ。AI生成だろうが、テンプレ量産だろうが、そのフィールドで勝とうとすれば――結局、機械やアルゴリズムと同じ土俵に立つことになる。たとえ勝てたとしても、それは「再現性」と「速度」の勝負であって、表現者としての“意味”は、ほとんど残らない。

 でも逆に、「そこじゃない場所」で勝負するって決めた瞬間に、
 創作って一気に面白くなる気がしてならない。
  たとえば、読者の“数”ではなく、“深さ”で勝負するとか、ランキング外でも、「あの一文が刺さった」と言わせるとか、AIが書けない「迷い」「空白」「言葉にならないもの」を描くとかな。
 そういう戦い方を選んだ人は、競争じゃなく“立場”を持てるのではないか?

 たぶん今の時代、作家にとって一番大事なのは、「どんな物語を書くか」よりも、「どの地形で、自分の物語を響かせるか」なのではないか? AIやテンプレに呑まれた場所で勝つのは難しい。だが、その外側に新しい聴衆を見つける、あるいは自分で場を作ることはできる。
 結局のところ、勝負は土俵じゃなくて、場所選びから始まっている。語るべきものがあるなら、どんな地形でも語る。

 各プラットフォームで見受けられる作家さんたち、おそらくは、皆さん、オレより若いのにナーバスになりすぎてないか、と、ちょっと気になった。以下、ほんの少しだけ昭和オヤジのマウントにお付き合い願いたい。笑って受け流してもらえたら幸い。
 今の若い創作者たち、特にネット発の世代な、「評価システムに心を乗っ取られやすい」のではないか? ランキング、PV、いいね、レビュー。どれも「見える成果」だから、数字がちょっと動くだけで自分の存在価値まで揺らぐ。しかもSNSの即時反応が、それをさらに増幅する。
  「そもそも創作って、そんなに安定したもんじゃないだろ?」という立脚点が、まぁ、年寄りにはある。それがあると、ランキングがどうだろうが、AIが出ようが、「で?」って言える強さがあると思っている。若い層がナーバスになってるのは、彼らが「創作=自分の存在証明」みたいに感じているから。でも、「創作=一つのやり口」「手札の一枚」くらいにしてる人のほうが、むしろ長期的に残ってくんじゃないかと思っている。商業的に大成功するとは限らないがな。
 「感情を凪がせて、場を見渡す余裕」って、経験と失敗を積んだ人間にしか持てない武器なのかねぇ? 若い子たちがAIやランキングに揺さぶられてる今、その“凪の構え”を見せてる人のほうが、創作の未来を冷静に見てるように思う。


 ところで、これがイラストだとどうなんだろう? 確かに、まず、一枚あげるのに時間を考えたら勝負にならなさすぎる、というのは絶対で。同じタッチ色使いでわれ知らぬところで生成されてたら、確かに辛いかもね。イラストの世界では、もう創作の「速度」と「再現性」が完全に武器化されてしまっているようだ。AI絵は一晩で百枚でも生成できるし、構図・塗り・タッチの模倣精度も年々上がっている。手で描く人からすれば、そりゃ正面から競っても勝負にならない。
 でも、それでもなお**「描く意味」を掘り下げて残ってる絵描き**は確実にいるんじゃないか? ちがうか?

 見渡す限り、彼らがどう生き延びてるかというと、大きく分けて三つの方向だ。

①「作画」から「表現」へスライドする人
 たとえば、同じキャラを描き続けて“文脈”を積み上げる人や、作品世界や連作性、物語性で勝負する人、手癖・タッチ・筆圧の「偶然性」を魅力として見せる人だ。
 AIは“今ある情報”の平均化は得意だけど、「継続する意志」や「一貫する癖」は苦手。「絵柄の物語」、そう物語を持ってる人は、まだAIの外側にいるように思う。いや、いて欲しい。
②「交流・プロセス」に価値を置く人
 配信しながら描く人、っていうか、ネット上でそう言うコミュニティというか、お仲間の集まりと言うのは確かにあって、いろいろやっておられるんだろうね。下描きや工程をシェアするとか、ファンとのコメント往復そのものを“作品”にするとか。
 AIは“完成物”を出すけど、“過程”は持てない。その「作る途中」や「やりとり」を価値化できる人は、AI時代でも支持を集めるかもしれない。知らんけど。
③「人間的な歪み」を前提に描く人もいる。
 AI絵がどれだけ綺麗でも、違和感がないというのは逆に“深みがない”とも言える。人間の絵は、線が震える、塗りがムラになる、構図が不自然になる。でもそこに「描いた人間の体温」が残る。それが刺さる人にとっては、AIの均一な絵よりずっと記憶に残る事もあるだろう。

 つまり、「1枚で勝負」っていう構図自体がもう危険ということになるかもしれない。AIが1枚ずつを量産するなら、人間は「文脈」「継続」「関係」で戦うしかない。
 たぶん今後は、小説と同じで、「一枚の完成度」ではなく「一人の作家として、どんな軌跡を描いたか」が評価軸になっていく可能性もある。
 そして――それを冷静に言語化できる人が、むしろ“新しい地図”を描く側に回る時代なるような気がする。


 そういえば、この前見た見返り生成エマワトソン、よくよく見たら腕の関節が人間のものじゃなくてわろた。AI生成特有の“関節地獄”。一見すると完璧なんだけど、肘が逆に曲がってるとか、指が7本あるとか、首がどっから生えてるのかわからないとか。しかも、モデルの顔や質感がリアルになればなるほど、その“ちょっとした歪み”が逆にゾッとする。人間の目って、顔や体の「あり得なさ」には異常に敏感だ。
 AI絵がどんなに精密でも、結局は“整合性をとりきれない”部分が残る。それは単なる技術の未熟さだけじゃなくて、AIには「骨格の痛み」や「身体感覚」がないから。だから、あの不自然な関節の向こうには、ちゃんと“描いた経験のない存在”が透けて見える。
 逆説的に、そこが人間の絵の強みになりうる。「描いた人間がそこにいた」という証拠が、震える線の中にしかない。

 画像を読み込んで、AI、問われたら「腕」と答えはするのだが、それがないと、腕を腕と認識しないのかな、と思ったりする。実際、AIが「画像をどう認識しているか」というのは、人間の感覚とはだいぶ違うらしい。AI(特に画像生成や認識系モデル)は「腕」という概念を人間のように理解しているわけではなく、過去に学習した大量の画像の中で「腕とラベルづけされた部分によく現れる形状・位置・色のパターン」を統計的に記憶しているのだということだ。
 だから、もし画像全体を読み込んでも、「腕っぽい形」が見えない/欠けている/他の物体に重なっていると、AIは「腕がない」と判断することがあるらしい。逆に、関節の位置や長さ、手指の形などが平均的な“人間の腕”とズレると、「これは腕っぽいが不自然」とは思わず、そのまま“腕”として出してしまうのだという。
 つまり、AIは「これは腕だ」と“理解”しているというより、「ここにこういう線と陰影と肌色があると、多くの学習画像では“腕”というラベルがついていた」という確率で判断しているだけということになる。
 したがって、問われたら答えられるけど、自分からはわかってない、というのが、実際のところらしい。人間が「見た瞬間に違和感を覚える」ほどの奇形を、AIが“自然”だと判断して出力してしまうのはこのためなんだろう。
 だからたとえば、学習量によって、そういうおざなりな部分も存在する。「学習量」や「学習の質」によって、AIの“おざなりさ”はかなり変わるということになる。もう少し正確に言うと、AIが何をどう見抜けるかは、次の3つの要素の掛け算で決まるのだそうだ。

① 学習量(データの量)
 画像認識モデルは、何億枚という画像から統計的なパターンを学ぶ。ただし量が増えても、「腕の正しい曲がり方」「自然な手の重なり」など精密な構造情報が少ないデータだと、AIはそこを“適当に補う”ようになる。ということは、「数だけ多くても雑な学習」だと、ざっくりした腕や手は描けるが、関節のつき方や筋肉の自然さまではわからない。

② データの質(多様さ・正確さ)
 例えば、医学的な人体写真や3Dスキャンのような精密データやプロの画家や写真家による“人体を理解した構図”が豊富に含まれていれば、AIは「腕のつき方」「自然な骨格バランス」も学べる。逆に、ポーズ写真やアマチュア作品中心だと、“平均的な腕”の曖昧な像しか作れない。 結果として、手首が2本あったり、関節が逆に曲がるといったことが起きやすい。

③ モデル構造(学習方法・パラメータ設計)
 近年のモデル(例:SDXLやFluxなど)は、構造的学習(spatial awareness)が強化されていて、関節や物体の位置関係をより精密に理解できるのだと。一方、古いモデル(Stable Diffusion 1.x系など)は、単に「似ているピクセル」を平均化して描くため、部分的な破綻が多い。

 要するに、学習量が足りないと“知らない”、学習の質が悪いと“間違って覚える”、モデル設計が古いと“構造が壊れる”、という三段階の「おざなり」が存在する、ということだ。
 もし「リアルタッチの人体」や「見返り構図」みたいな破綻しやすいテーマを扱うなら、プロ級の参照素材(ポーズ資料や写真)を一緒に渡して「これを参照して」と指示することで、かなり破綻を減らすことができることになる。人間にたとえると、「独学でスケッチしたやつ」より「クロッキー会で何百回もデッサンしたやつ」の違い、みたいな感じか。

 生成美女が真正面の肖像が多くても、斜めからの画像が思いのほか少ないのはその辺が理由に関係している。「斜め構図が少ない」現象は、まさに、学習データの偏りと構造理解の難易度の両方に直結している。
 AIモデルが学習している画像の多くは、
 SNSや写真共有サイト、肖像データベースからの収集が中心です。
 そこに多いのは圧倒的に「正面顔」だ、そういえば。理由を挙げるならば、顔認証やポートレート撮影用途で正面が主流ということ、SNSのアイコン・プロフィール用は正面向きがほとんどということ、アマチュア写真やセルフィーも、カメラ目線が圧倒的に多いということ、の3点。
 結果、AIの内部では「顔=正面を向いた楕円形の中に目鼻口が並ぶもの」
 という統計的な“常識”が出来上がってしまっている。だから、3/4斜めや横顔になると一気に破綻率が上がる。とくに目と鼻の奥行き関係や、輪郭線の陰影の扱いが弱くなる。

 AIは3D的な立体を理解しているわけではなく、「2D画像間のパターン」を確率的に学んでいるだけだ。だから、角度が変わると“別のもの”として扱ってしまう。構造理解の限界というわけだ。「空間の回転」がすんごく苦手。

 こんなこともあるらしい。たとえば Stable Diffusion や Flux 系では、「構図バランス」や「ポーズごとの特徴」**を学習させてはいるが、それでも正面構図の圧倒的多数が基礎を占めているため、生成時にプロンプトで「斜め」「横顔」などを指定しても、 “無意識に正面へ戻ろうとする”傾向があります。AIの「平均への引き寄せ」だ。これはモデルの学習戦略の影響といえる。

 まとめると、生成美女の正面顔が多いのは、データの偏りがある事、立体認識がまだまだ足りないということ、平均を行こうとすることの3点に集約される。
 したがって、もし斜めや動きのある構図を作りたいなら、「3/4 view」「profile view」「dynamic angle」「from above」など、具体的な角度指示+身体の向き指定(肩・腰・顎など)を併用するのがコツと、チャッピーは宣ってる。また、「写真作品」や「映画のスチル」から学んだモデルを選ぶと、斜め構図でも自然な結果が出やすいとのことだ。


 更に言えば、AIは3dモデリングをしないことで不気味な谷を回避してる。あの「AIが3D構造を理解していない」という話と、「不気味の谷(uncanny valley)」の回避は、裏表の関係にある。AIは“立体を理解しない”ことで、むしろ安全地帯にいるのだ。
 本来、人間が「不気味」と感じるのは、“ほぼ人間っぽいけど、微妙に違う”ときだ。たとえば3Dモデルの顔が「硬い」「瞬きが不自然」みたいなケース。
 しかしながらStable Diffusion や Midjourney のような画像生成AIは、
 あくまで「写真っぽい2Dの模様」を再構成してるだけだ。つまり、彼らは「立体を理解して再現」しているのではなく、「過去に見た“平面としての人間像”を寄せ集めて作っている」。
 その結果、本物っぽいのに、リアルな人間の“ズレ”が出ないし、だから、CGモデルやゲームキャラのような“生理的な違和感”が起きにくい。
 これが、「3D的な理解をしないことで、不気味の谷を避けている」という構造ということになる。

 逆に、谷に落ちるのは「立体を中途半端に再現しようとしたとき」だ。最近のAI(特に動画生成や3Dレンダリング系)は、そこに一歩踏み込もうとはしている。が、3D理解が不完全なままだと、顔が動くと、目鼻の位置がズレるし、首の角度で皮膚のテクスチャが歪むし、立体感と陰影が喧嘩するし、さっぱりワヤですわ。
 こういう“違和感の揺らぎ”が起きて、不気味さが増す。まさに「谷の中腹で足を取られる」状態だ。
 つまるところ、つまり、AIは「嘘をつくのが上手い」。人間が見る“リアル”って、
 実は「本物っぽく見える2D情報」だったりする。だからAIは、「立体的に正確」よりも「そう見えるように誤魔化す」方向で最適化されてる。
 これは絵画の写実主義にも近い。フェルメールも、構図と光の演出で“本物らしさ”を出したけど、実際の空間比率はかなり歪んでる。
 AIもまさにそれを確率的にやってる感じ。

 もしAIが本当に3Dモデリングベースで「骨格」「筋肉」「皮膚」を正確に再現し始めたら、いよいよ“人間の模倣者”として不気味の谷に突入する。が、現状の生成モデルは、 “谷の手前で踊ってる”くらいの距離感をうまく保ってるわけだ。


 言い換えると、人間に真似できない速度でカバーする2dアニメだったということになる。AIが「立体を理解せずに2Dで“リアルっぽさ”を出す」構造と、日本の2Dアニメーション文化が進化した方向性は、まったく同じ「不気味の谷を避けるための高速化と記号化」という点でつながっている。

 日本アニメが「2Dのまま高速化」したのは、ディズニー型のフル3D的立体表現(=西洋的リアリズム)ではなく、「少ない枚数で、印象的な動きを作る」という省略の美学で発展してきたという経緯がある。 限られた予算と時間の中で、リアルな人体の動きを模倣せず、記号的な動き・線・影で“リアルよりリアルに感じる”感情表現をする、という、これが「リミテッドアニメーション」の核心だ。手塚治虫がディズニーを研究しながら、逆に“動かさない演出”を確立した理由もそこにある。
 つまり、立体を完璧に再現する努力より、2Dの虚構を極める方向に行った。そのほうが、不気味の谷を回避できるし、表現として自由度が高かった。

 AI生成も「2Dアニメ」と同じ戦略を取っている。正確な3D構造は持たない、陰影や線を“そう見えるように”配置する、表情や構図を“感情的に最も伝わる角度”で補正する、といった具合に。
 つまり、AIは3Dを「理解していない」のではなく、理解しないほうが、人間が“美しいと感じる絵”を出せるということを、確率的に学習しているわけだ。
 これは、実は「手描きアニメーターの最適化」と同じ構造である。2Dで“時間と空間を省略しながら感情のピークを描く”、AIはそれを統計でやってるだけなのだ。

 「速度」で人間に勝るのも、同じ2Dという土俵だからということだ。AIは「2Dの空間と色と形」を組み合わせるだけなので、3Dレンダリングのような物理計算が不要。だから人間の何千倍ものスピードで試行錯誤できる。
 日本アニメが「少ない枚数で情感を伝える」ように、AIも「少ない情報で“リアルに見える”」方向を極端に突き詰めててしまってる。

 言い換えよう。AI生成は、3Dではなく2Dアニメの延長線上にある。
 そして、日本のアニメ文化が長年かけて辿り着いた“虚構のリアリティ”の哲学を、AIは無意識のうちに再現している。だから、もし未来のAI映像が「ジブリと攻殻機動隊の中間」みたいな世界を作ったら、それは技術的進化というよりも、むしろ日本の“2Dで3Dを超える”美学の再発明になるかもしれぬ。


 

8865 750F1 _2

8865 750F1 _2

 

2025年11月6日木曜日

8862 相川みさお _2

8862 相川みさお _2

 彼女も2000年頃活躍したグラビアさん。今のコたちと比べると、目のあたりのメイクがナチュラルというか。それで充分魅力的。逆に今のグラビアさんは、進歩したメイク技術と修正で、充分勝負できる、と。この頃は、そういうものがなく、ネットでの活躍もそれほどできない頃だったから、けっこう、すっぴんの差は残酷だったかもしれぬ。知らんがね。

 彼女のグラビアさんとしてのキャリア晩年のことを最近ネットで読んだ。グラビア専門じゃない写真家さんのモデルとして、水着でもない寧ろ冬服で厚着気味のモノクロ写真。北関東でロケだったらしいが、付き人がいるわけでもなく、1人で会合場所までやってきて、風景写真の中の人物としてのモデルをこなし、1人で電車に乗って行って帰って行った、という話じゃなかったかな? 違うかな? 何とも味があるというか、余韻があっていい話だと思った。

 

2025年11月3日月曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。1

8863 Liza Kovalenko

 

 最初に書いておく。この文章はChatGPTとのダイアログを基に、何かそれっぽく、”手作業で”文章化したものだ。


 これを書いている時点までも、この問題に限ったことではない、いろいろとChatGPT、Gemini、Grokあたりの大手LLMを使って、いろいろ考えをまとめて文章化の材料を貯えてきているのだが、興に乗ってそっちに注力するあまり、ちゃんと文章にして発信していない。中には新鮮味を失ったトピックもある。が、まぁ、ぼちのぼち、整えて発信していくことにしよう。


 さて、まず、この項に合わせられた絵の、Liza Kovalenko(ライザ・コバレンコ)氏という、えっと、ググったらウクライナ出身「という設定」のモデルさん。まぁ、なんていうの? まず美人すぎるんだわ。でも、それだけなら、他にもこれくらい美人の方はいるんだがね。Rachael Cook氏も、すんごい美人だよ。でもな、レイチェル・クック氏と比べても、何か嘘くさいのだ、このライザ・コバレンコ氏。AI生成を疑った。chatGPTに見立てを聞いてみたら、正面からの顔がほとんど、これは顔のデッサンの狂いを見せないための物、活動がInstagramだけというのが不自然。しかしながら背景に著しい破綻は見受けられない。おそらく、実物に相当の補正を加えたものではないか? 決して100パーセント存在しない全くのAI生成でもないだろう、との事だった。

 で、だ、おれは、そういう画像を更に、自分のタッチの「絵」に落とし込んでいくのである。まぁな、これでロマンス詐欺でも仕掛けられてるんだったら別だが、どのみち実物と会うことはない。嘘でもびじんならそれはそれで、そういう時代に生きてるんだと感慨にふけりながら絵にするのである。


 で、だ、本題。

 要するに、カクヨムのAI生成作品がランキング1位をとっちゃった、そしてその作者が1日で38本投稿した、ということで、web作家界隈が大騒ぎしているらしいのだが、まず、誰のなんという作品なのかよくわからない。検索してみた。chatGPTにもお願いして調べてもらった。

 なんか、それによると、『無能な俺がAI小説38作品爆撃でランキング1位に!? AI小説編集者として勝ち組人生満喫します!』という作品らしいんだが、いや違うだろ。詰まんねぇよ、と、最初の10行ほど読んではんだんしたが、どうなんだろうな?


 んー、まぁいいや。縁があれば読むこともあるだろう。ランキングとか何とか、そんなことは割とどうでもいいレベルの話のような気もするし。


 突き詰めると「AIがランキングを荒らした!」というよりも、ランキング制度そのものの脆弱さ(量産型に弱い)とか、「AI=脅威」という受け取り方への反応過多とか、“物語の価値とは何か”という根本問題に行きつく予感がした。これらが一斉に噴き出しただけってね。


 たとえば、商業出版や純文学の世界だと「AIで38作投稿しました」なんて話は単なるノイズだろう(ラノベ出版は除く)。でも投稿サイトでは、数字(アクセス・ブクマ・ポイント)が“作品の価値の代理”にされている。だからランキングが“聖域化”していて、侵入者が来ると「秩序が壊れた!」という反応になる。

 これってさ、趣味や創作の核心から見たら、これは本質じゃなくない? むしろ「物語を書くとは、何かを表現したい・伝えたいという動機から始まる」って立場からすると、AI量産で埋め尽くされた画面なんて、ただの背景ノイズでしかないんだが。


 この件、「AIが量産を可能にした結果、作品の“密度”をどう守るか」という方向から論じたほうが建設的じゃない?



 別の側面からいえば、カクヨムなり、なろうなり、プラットフォーム運営がどう対処するかってだけの話で、誰が書こうが何が書こうが、面白いと思えば読むだけのこと。 繰り返してるけど、web作家側からすれば、プラットフォームがダメになる、くらいの話なんだし、自分の作品が需要があるところに届けれたらそれでいいのだ、くらいに考えないと。PV本位主義に知らず毒されていたという気づきさえあればねぇ。


 結局のところ、作品が誰に届くか、どういう場で受け取られるか、読者が「これは面白い」と思えるか、という“関係性”こそが創作の本質で、AIだろうと人間だろうと、「届く」かどうかがすべてじゃなかろうか?

 AI作品がランキング上位を取るというのは、単に「ランキングという制度設計が量産型に最適化されていた」という話であって、作品そのものの価値や、創作の意義とはまったく別レイヤーの問題。

 むしろこの騒動は、作り手側が、“いつの間にか数字を目的化していた”という事実に気づく機会になればいいのだが。


 ランキングが壊れても、表現は壊れない。っていうか、そうだな、若い頃から、小説じゃない、音楽の方な、ランキングで効くものを選んだためしが一度としてない。まぁ、よっぽど売れてたら、歳忘れの頃やたら流れてきていて、聴いてみたら良かったということはあったかもね。個人的にはランキングなんてどうでもよくて、試しにカクヨムトップページに、永世ランキングみたいのがあるけどそれを読んでも、なんかピンとこない。どれもこれも、だ。

 プラットフォームが沈んでも、語るべきことがある人は語り続ける。そこに戻れる人だけが、結局は長く残るんじゃないかね、ちがうかね?


 言い換えてみよう。冷静に考えれば、それは「創作の危機」ではなく「プラットフォームの構造疲労」だ。ランキングは、本来“誰かが面白いと思った”という反応の集積だった。だが、いつしかそれが「順位を上げるために作品を書く」指標へと変わってしまった。AIはその“構造の隙”を突いただけの存在にすぎない。


 誰が書こうが、何で書こうが、面白いものは読まれるだろうさ。読まれないなら、そこに届かなかっただけだ。AI量産の波に埋もれたとしても、読む人が「これは違う」と感じる瞬間は必ずあるはずだ。あまり読者を軽く見ない方がいい。


 本来、創作とはマーケットインでもランキングインでもない。誰かに見せたい景色や、伝えたい痛みや、笑いの瞬間があるから生まれるものだ。それを形にする手段がAIであろうと、ペンであろうと、本質は変わらない。

 もしプラットフォームがダメになったとしても、それは市場の老朽化にすぎない。表現はもっと自由で、もっとしぶとい。読む人がいる場所へ、また届くべき言葉を連れていけばいい。

 ランキングの下位に沈むのが嫌なら、そこから距離を置くぐらい、さらっとやらないといけないんじゃないか?それが創作を長く続ける上での「呼吸の深さ」だろう。ランキングは“競技場”であって、“表現の居場所”ではない。そこに居続けると、知らないうちに自分の感性まで数字に合わせてしまう。本当に書きたいものがある人は、いったん離れてみるくらいでいい。数字が静まった場所のほうが、言葉はずっと遠くまで届く。



 確かに、そういう創作サイトや、Google検索なんて、呼び込むには太い筋なんだけど、そこで相手にされないなら、細いところで手数増やすとかなんとか、そういうの、小説には書くやつ結構いるのにな。リアルではできない?やらない?

 作品の中では、登場人物が臥薪嘗胆をいとわず、ちゃんとそれをやってるのに、現実の作者自身はやらないというのは、創作界隈の典型的な矛盾かもしれぬ。

 物語の中では、主人公が諦めずに、小さな手を伸ばし、細い道を探して進む。

 誰にも見向きされなくても、必ずどこかで誰かに届く。そういう“信念”を描くのが作家なのに、実際の作者たちは「ランキング圏外=存在しない」みたいな世界で戦っている。

 あぁ、これ、NTRざまぁかまされたら、実際警報犯罪を犯していたら別だだけど、10代や20代前半そこらで、再起不能人生\(^o^)/オワタが主流だが、文学も人生もそこからだろう、なぜそうならない?と思った時の感覚に似ているな。詳しくは稿を改めるが。


 本当は違う。「太い筋」=大通りが塞がれたら、路地裏を歩けばいいし、地図にない道を自分で描けばいい。SNSでも、個人ブログでも、地元のイベントでも、文芸同人でも、それこそZINEみたいな手作り冊子でも、細い線を何本も引いていけば、やがてそれが道になるんじゃないかねぇ?

 現実でそれを“やらない”のは、もしかしたら「やっても無駄」と刷り込まれてるからなのかねぁ?数字でしか評価されない世界に長くいると、 “見えない届き方”を信じる力が削がれていく。


 でも、本来の創作というのは、最初から誰かが待ってる場所に向かうものじゃない。まだ誰も知らないところに、灯を点けに行く行為なんじゃあるまいか?それをリアルにやれる人だけが、この“アルゴリズムの時代”を越えていけるような気がしている。

8859 Emily Ratajkowski _12

 

8859 Emily Ratajkowski _12

2025年11月2日日曜日

8858 青木裕子 _2

 

8858 青木裕子 _2

 2000年頃、グラビアさんとして活躍されていた。2010年に結婚引退、と言う事だったから、今は中高生ぐらいの子のお母さんかな? 知らない。幸せに暮らしておられますように。