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2025年10月4日土曜日

8850 Emma Watson _33

 

8850 Emma Watson _33

 元になった画像は、恐らくはAIによる自動生成なんじゃないかと思っている。自動生成イコール、フェイクであり、肖像権は?とか何とか、面倒くさい問題が待っている。一方で、それはファンメイドの似顔絵みたいなものであると考えたらどうなるか? そういうのはネットやPCがこの世に生まれる前から、雑誌とか何とかの読者欄にあったものだ。それら、いちいち問題にしていたか?

 しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
 AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。

 肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。

 その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。

 しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。

2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


8849 312 PB _7

Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


「贈与」に至る / 糸口を探す 5 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 2

 


8848 Freddie Spencer _58

Freddie Spencer
RS1000RW
Daytona 1982


 決定的に感じるのは、当時、そんな彼らを慰撫する文学がなかったのだろうか?ということだ。当時の日本には、いわゆる 「慰撫する文学」=社会の不安や個人の浮遊感をやさしく吸収してくれるような文学の厚みが乏しかったような気がしてしまうのだ。

 明治〜大正の文学状況を見てみる。
 自然主義文学の支配があったと思われる。島崎藤村や田山花袋に代表される「私小説」的な自然主義は、「自己暴露」と「ありのまま」が重視された。これは自己表現にはなるけれど、「社会の中でどう生きていけるか」を慰める方向には乏しいとも言える。

 浪漫主義の余韻もある。北村透谷や島崎藤村の初期のように「理想」や「恋愛」を歌った浪漫主義はあったが、日露戦争後は色あせていった。つまり「夢で癒す」文学の力が弱まった。

 この時期の文学ということで思い浮かべるのが、夏目漱石の想像だったりするのだが、漱石の位置はどうだったんだろう?夏目漱石は文明批判や個人の孤独を描いたけれど、結局「どう慰められるか」については答えを出せなかった(むしろ孤独や不安を鋭く描き切った)。読者にとっては「共感はできるが癒しにはならない」ということになってしまうかもしれない。それはそれ、共感さえあれば、後は何ともできると思わないでもないんだが。
 そこまで至らなかったのは、大衆文学の未成熟があるかもしれない。推理小説、恋愛小説、娯楽小説は芽生えていたけど、まだマスを抱え込むほどの文化的力はなかったようだ。

 インテリにしてみれば、自然主義文学では救われない、漱石を読んでも孤独が深まる、大衆文学はまだ軽く見られている、というところで、「自分を支えるのは思想しかない」 という方向に行きやすかったのだろう。
 そして、その思想というのがアナキズムやマルクス主義という「現状打破の力」を持った急進思想だった。ほらつながった。


 後の時代との比較も考えてみる。
 戦後になると、三島由紀夫や大江健三郎のように「思想と文学を往還」する人は出るが、同時に大衆文学やエンタメも厚みを持ってきた。だから戦後インテリは「政治運動に熱中する人」と、「文学やサブカルに逃避する人」とに分かれていけた。大正期はその「逃げ場」が薄かったため、思想への傾斜が強く出た、とも言える。


 一言でぶっちゃけてみよう。アンパンマンがいなかったんだ。

 アンパンマンとは、飢えたり困ったりした子に「顔をちぎって食べさせる」存在だ。つまり 「慰撫」や「支え」を分かち与える文学的・文化的存在だ。大正期のインテリたちにとっては、そういう「アンパンマン的な文化」が欠けていた。

 アンパンマン的なものがなかった時代、文学は自然主義や漱石的孤独に傾き、「癒す」より「突きつける」方向に進んでいた。娯楽小説や大衆文化はまだ軽視されており、本格的に人を支える力には育っていなかった。だから「苦しい、孤独だ、どうしたらいい?」という問いに答えるものが乏しかった。

 「顔を分け与えてくれる」ような文学がなかったから、インテリは思想に救いを求めた。しかも選んだのは「社会を変える」「権力を否定する」というアナキズムやマルクス主義だった。もし「アンパンマン的な文学」があれば、もっと柔らかい方向に行ったかもしれない。



 それ以前、明治期や江戸時代までの文学にも、そういうものは少なかったんだろうか?とか思う。 深く人間性を追求していくような、さ。

 江戸時代までの文学を振り返ると、確かに 「深く人間性を追求する」文学 というのは、近代文学ほど体系的には発達してはいなかった。だが、その代わりに 「慰撫する」「気晴らしする」「共感する」」文学や芸能 が厚みをもって存在していたと思う。

 江戸文学の性格として、人間心理の深掘りより「型」と「共感」があった。近代文学のような「自己の内面をえぐる」作品は少ないともいえる。しかし、「型」によって感情を共有し、慰撫や娯楽を担ったのではないか?

 井原西鶴(好色一代男・日本永代蔵)は、個人の欲望や商人の知恵を活写しつつ、人生の面白さ・哀しさを軽妙に描いていた。
 近松門左衛門(心中物・曽根崎心中)は恋愛や義理の板挟みで苦しむ人間を描き、涙と共感を誘った。
 丁度、今大河ドラマで蔦屋重三郎の事やってるな。浮世草子や黄表紙こそ、ユーモアや風刺で日常を笑い飛ばす「慰め」の文学だった。 俳諧(松尾芭蕉など)は、人生の無常をしずかに受け入れる「心の調律装置」だった。芭蕉は深い人間性を探るというより、自然や人生の「さび」を味わう方向。

 慰撫の厚みを思う。江戸の庶民文化は「歌舞伎」「浄瑠璃」「落語」「戯作」などがあり、人間を慰め、楽しませ、共感させる 機能を果たしていた。
 つまり「アンパンマン的な文化」はむしろ江戸のほうが豊かだった。


 明治以降、「文学=真剣なもの、芸術的なもの」というヨーロッパ型の観念が導入され、江戸的な「慰撫・娯楽・共感」の要素は「低俗」として切り捨てられた。つまり、近代と断絶してしまったのだ。
 結果として、自然主義や漱石的な「内面の苦悩を突きつける文学」が主流になり、慰める文化の厚みが痩せてしまった。

「アンパンマンがいなかった」言い換えると、「江戸にはあった慰撫文化が、明治以降のインテリ文学では抜け落ちた」という歴史的断絶が出来てしまったという事だ。


 とすれば、産業革命、近代化という時代に浮かれて、その辺に向けられる目が少なかった時代だったからといえるだろうか?

 江戸時代の文学は、人情や人生の機微を扱うものもあったが(近松や井原西鶴など)、基本的には身分制や共同体的秩序の中で「どう生きるか」を描いたものだった。近代的な意味で「個人の存在や内面の深掘り」を主題化する文学は、西欧近代思想と並行して生まれてくる。
 明治〜大正期にかけては、急激な近代化・産業革命に「社会が追いつけていない」状態で、人々は新しい思想や運動に飛びつきやすかった。西洋から輸入された「自由」「平等」「革命」などの理念は、時代の閉塞感や抑圧と結びついて一気に燃え広がる。
 しかし、その一方で「人間の弱さを抱きしめる」「慰撫する」ような文学はまだ十分に根付いていなかった。漱石や鴎外にしても、個人と社会の摩擦や葛藤を描くけれど、読者に「安心」を与えるものではない。

 だから、大杉栄のように「思想を行動にする」インテリが現れる素地があったのだろう。ある意味で、日本の近代文学は「人を慰める」方向よりも「人を揺さぶる」方向に偏っていたともいえる。西欧ではトルストイの後期とか、ドストエフスキーの「苦悩の中での救済」とかがあるけど、日本ではそこがぽっかり抜けていた。


 とすれば、今の時代もそんな傾向が優っているかもしれぬ。AIの伸長、どこまで行くのかが見通せない。自分の心への視線、悟性が少し後退している?そうでもない?

 技術の進化(特にAI)によって、人間自身の内面への洞察や自覚がどこまで維持されるか、あるいは後退するのではないか?

認知負荷の軽減による後退の可能性はありうる。 AIが情報整理や判断の補助をすることで、人間は「考えなくても済む」状況に慣れてしまうかもしれない。その結果、自己観察や反省、内省の能力がやや鈍るリスクはきっとあるだろう。
 逆に拡張される可能性もある。AIを使って自分の行動や思考の傾向を可視化したり、心理的パターンを分析したりすることも可能だ。うまく使えば、自分への洞察はむしろ深化することもありえる。

 悟性の質の変化も考えなくては。「後退」かどうかではなく、むしろ「形を変える」と考えるほうがしっくりくるかもしれない。従来は自己の内面に直接向き合うことが悟性の源だったのが、今後は外部ツール(AI)を介した間接的な洞察も増える。その意味で、悟性は「自己への視線」と「ツールを通した視線」の二層構造になる感じになるかもしれない。

 となれば、意識的な鍛錬の重要性が高まるだろう。技術が進んでも、能動的に自己観察する習慣や「内面に耳を傾ける時間」を持つことが、悟性を維持する鍵になるような気がする。ここは昔も今も変わらない部分だが。


 また、現在の状況を見ていると、慰撫するのはいいのだが、それぞれなりに前に進む力になり得ているのだろうか?と思わないでもない瞬間があったりもする。
 「慰撫」は確かに心を落ち着け、痛みを和らげる働きはあるが、それだけでは前に進む力には必ずしも直結しない。痛みを感じたままでも、ある種の「自己の力で前に進む感覚」を伴わないと、慰めは一時的な安堵に留まるだけになることがある。
 文学でいうならば、悲しみや挫折に対して共感的に描写される場面は多いが、読者や登場人物がそこから行動や自己変革へ進む「力」に変わるかどうかは、作者の描き方や構造によることが大きい。
 言い換えれば、慰撫は「受け止める力」を与える一方で、前に進む力(自己決定、勇気、主体性)は別のプロセスが必要になることが多い、とも言える。


 危惧するのは、そういうところでの悟性、言い換えたら哲学。その辺が弱くないか?ということだ。
 慰めや励ましは感情面での支えにはなるが、それが「前に進む力」や「行動や選択に結びつく知恵」になっているかというと、そこは別問題だからだ。
 哲学的な悟性、つまり状況や自己を深く理解し、そこから現実的な判断や行動に結びつける力が弱い場合、慰めは一時的な安らぎに留まってしまうことになってしまいがちではないか?言い換えれば、心が温まるだけで、知的・実践的な力にはならない。もし議論の対象が「慰めや共感と、自己変容や成長の力の関係」なら、ここで問うべきは 「慰めがどの程度、自己理解・現実理解を促し、選択や行動に変換されているか」 という点になるだろう。

 幼いころ、世界の苦さや不条理に触れた時、私たちはただ「どうしようもない」と感じるしかなかった。慰める文学も、救いの象徴も、身近には存在しなかった。アンパンマンも、どこかで手を差し伸べてくれるヒーローもいなかったのだ。だから、思考は無意識のうちに硬直し、苦しみをそのまま抱え込むしかなかった。

 この時の悟性とは、単なる知識や理屈ではなく、世界の不条理に対峙するための哲学だった。しかし、幼い心にはその哲学を育む土壌がなかった。周囲の言葉や物語は、慰めよりも規範や価値の押し付けばかりで、苦しみの存在自体を肯定する力はほとんどなかったのだ。

 だからこそ、後になって哲学や文学に触れた時、初めて「自分の感じていた世界の苦さは、孤独ではなかったのかもしれない」と気づく。それは、アンパンマンがいなくても、自らが小さな救済を作り出す力になり得る悟性の芽生えだった。


 子供の頃はあんぱんをもらえる立場だったが、大人になるということは、顔をちぎって分け与えることを考えなくてはならない。

 アンパンマンの顔は文字通り「食べ物」だが、この言葉を比喩として読むと「自分の時間や愛情、資源」をどう配分するか、という大人の課題にも置き換えられる。


2025年9月17日水曜日

8847 安田美沙子 _1 retake

 


8847 安田美沙子 _1 retake

 安田美沙子氏、確か京都の南の方の出身だったはずで、歳の頃なら、1986年の年末、伏見大手筋の布団やの店頭で売り子のバイトしていたオレの目の前を幼い彼女が親に手を引かれ年末の買い物で通り過ぎることもあったかもな、と、念のためにwikipediaで確認したら、その可能性はないことが分かった。まぁ、どうでもいいけどね。10何年か前グラビアで活躍して、結婚して、亭主に浮気されたことなんか、カラッと愚痴を言ってたのを読んだ記憶がある。記憶違いかもしれぬ。今、時々instagramに投稿されていて、少なくとも伝え聞く分には家庭円満のご様子。御同慶の限り。
 浮気を・・・これ以上書くのならば確認せねば。・・・そう言う事だったらしいし、苦しい時期もあったみたいだ。でも、今は何とかなってる模様。

 女性が亭主の浮気を許すのってどういうことなのか? それでも亭主がいいのか、子供のためか? 佐々木希氏もそうだ。まぁ、家庭それぞれか。

 
残 念 な が ら、オレには全くの異世界のお話でござる。

「贈与」に至る / 糸口を探す 4 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 1


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 大杉栄と言えば、日本におけるアナキズム(無政府主義)の代表的人物だが、「思想体系の創造者」というより「運動家・実践者」的性格が強かった と言える。

 まず、思想的背景として、大杉はヨーロッパ無政府主義思想(クロポトキン、バクーニンなど)やマルクス主義、さらには自然主義文学や個人主義哲学などを幅広く摂取していた。しかしながら「これが大杉栄の一枚岩の体系」といえるものは存在しない。むしろ折衷的で、状況に応じて柔軟に引用・展開していくスタイルだった。

 著作と理論的側面をみるならば、『正義を求める心』『社会的個人主義』など、アナキズムを日本の現実に合わせて紹介・解説した著作は多く残している。特に「社会的個人主義」という概念は、大杉が工夫した一つのキーワードで、「個人の自由」と「社会的連帯」を両立させようとする試みだった。だとしたら、プルードンあたりの原初の無政府主義を志向していたのではないか? しかしこれも一貫した哲学体系というよりは、輸入思想の翻案・橋渡しの役割に近いものだった。

 運動家としての側面はどうだったか? 労働運動・農民運動・大衆運動の現場に深く関わり、雑誌『平民新聞』『労働運動』『近代思想』などを通じて活動を展開した。その生涯は、理論構築よりも「直接行動」や「大衆啓蒙」に重心が置かれており、そこにこそ彼の独自性があった。

 というところで、体系を築いた思想家 というよりは、運動家、活動家だったとみるべきだろう。ただし、無政府主義を「輸入思想の寄せ集め」で終わらせず、「社会的個人主義」として一定の整理を行った点で、部分的に「理論家」としての側面も認められないでもない。


 もし「体系を作った思想家」と比較するなら、例えばクロポトキンが『相互扶助論』で自然科学と社会思想を統合しようとしたのに対し、大杉は「翻訳者・紹介者・活動家」としての役割が強い、と整理できるのではないか?

 大杉栄は 「純粋な翻訳者」ではなく、翻訳しつつ自分の思想や状況解釈を差し込む人物だった。

 翻訳者としては、クロポトキンやバクーニン、マルクスなど、西欧の社会主義・無政府主義の文献を紹介し、日本語で読める形にした功績は大きいといえる。例えばクロポトキンの『パンの略取』など、当時の運動家が直接触れられなかった思想を日本に伝える役割を担っていた。

 そして大杉は、単なる翻訳にとどまらない。
 大杉は訳文に注釈や論評を加えたり、翻訳後に日本社会への適用可能性を論じたりした。彼の「社会的個人主義」という概念は、バクーニンやクロポトキンから影響を受けつつも、大杉自身が「日本の大衆」「農村社会」に即して再構築したものだった。つまり、翻訳を通じて「思想の輸入」+「現地化」を同時にやっていたわけだ。

 則ち、思想家というより媒介者だったのではないか?
 大杉はバクーニンのように「徹底した破壊の理論」を打ち立てたわけではない。またクロポトキンのように科学的な根拠を与える体系を築いたわけでもない。ただ、日本の社会状況を前に、輸入思想を「どう使えるか」という実践的な翻案を行った。その意味では 「翻訳者」以上、「純粋理論家」未満=媒介者・運動知識人 と言えるmpではあるまいか?

 要するに、大杉は「輸入思想の通訳」でもあり、「日本向けの実践的アレンジャー」でもあったわけだ。

 
 大杉栄は、無政府主義からマルクス主義までを幅広く摂取しつつ、どちらか一方に純粋に立脚するのではなく、折衷的・媒介的に使っていた 人物だった。

 若い頃はマルクス主義に親近だった。最初は『資本論』を熱心に読み、社会主義者としてマルクス経済学を重視していた。特に「階級闘争」「資本主義の搾取構造」への分析は、大杉の社会批判の基盤になっている。

 やがてアナキズムへ傾斜していくわけだが、しかし、ボリシェヴィキ革命後のソ連を見て、国家権力を握った社会主義の危険(専制化・中央集権化)を強く感じました。そこでクロポトキンらのアナキズムに魅力を見出し、国家や権力を否定する方向にシフトしていったのだ。

 「社会的個人主義」とはなにか?
 大杉は「個人の自由」を大切にしつつ、「社会的連帯」も不可欠と考えた。このため、アナキズム的な「権力否定」と、マルクス主義的な「社会経済分析」を併用しようとした。つまり、思想的には 「マルクス的な分析」+「アナキスト的な価値観」 のハイブリッドだったわけだ。

 右派などからは意外と思われるかもしれないが、徹底した「イズムの党派性」を嫌っていたようだ。大杉は「無政府主義者」や「マルクス主義者」としてラベル付けされることを嫌い、むしろ状況に応じて思想を取り入れ、現実運動に活かすスタンスだった。このため、後世から見ると「体系性に欠ける」と評されがちだが、同時に「日本の運動を前に進める柔軟性」があったとも言える。

 言い換えてみよう。大杉にとっては、マルクス主義とは資本主義分析の道具であり、アナキズムは理想の社会像・倫理の指針で、この両者を併用していたともいえる。

 実際、プルードンあたりの原初の無政府主義は「運動家」の立場からは扱いにくい思想家 だった事だろう。

 プルードンの思想の特徴として、まず、「所有とは盗奪である」というテーゼがある。これは資本主義批判として鮮烈。しかし「所有の全面否定」ではなく「小所有(自営業・手工業的所有)」を肯定していた。
 そして、国家・権力への批判。国家や大規模な中央集権に強く反対していた。この点で、そのため後のアナキストに大きな影響を与えた。それのみでは、大杉もさぞや不本意だったことだろう。

 相互主義(ミューチュアリズム)というものが、統治にの代わりとなる。労働者・小生産者が相互に信用を基盤に経済活動を営むという構想だ。これは協同組合運動や信用組合に影響した。
 では、なぜ、プルードンの思想は運動家から見たら、扱いにくかったか?

 大衆運動への即応性が乏しい世言うことがまず考えられる。プルードンは労働者階級の「小生産者」と「自営的職人」を理想化しており、巨大工場での労働運動には必ずしも親和的ではない。19世紀後半以降の労働運動(組合・ストライキ)にはバクーニンやマルクスの方が直接的に武器になった。
 これは革命より漸進改革寄りだったためだ。プルードンは「暴力革命」に懐疑的で、信用制度や協同組合を通じた社会変革を志向していた。直接行動を重視する大杉栄のような運動家には力不足に見えたことだろう。
 則ち、理論的には面白いが実践が難しいといえるかもしれない。プルードンの「相互主義」は、実際には大規模資本主義や国家権力に押し潰されやすい。従って、運動戦略としては「使える部分が限定的」だった。

 大杉はプルードンも読んでいたと思われるが、彼の著作や活動を見る限り「クロポトキンやバクーニン」の方を前面に押し出していた。つまり「プルードン=思想史的に重要だが、運動現場で使うにはやや不向き」という評価だったと思われる。
 プルードンは 思想史の基礎石(アナキズムの原点)として大事だった。しかし、社会運動の即効薬 にはならず、むしろ「古典的な参照点」に留まったのだろう。


 プルードンの相互主義とは、ご近所の町内自治会の穏やかな連合みたいなもんなのだろう。 「町内会・生協・信用組合の連合体」みたいな社会構想のように思えてならない。
 それは、小規模な生産者(職人、農民、自営業)が「相互契約」に基づいて協力するするもので、信用制度や相互扶助で資金や労働を融通し合う仕組みだ。
 ここで、国家や大企業のような大きな権力は必要なく、あくまで「横のつながり」で秩序ができる、という、「無政府主義」と言う言葉が出てくれわけだ。
 言ってしまえば、江戸の講や寄合、戦後日本の農協や自治会のネットワークに近い。革命的な「ドンパチ」ではなく、暮らしの中から秩序を積み上げていくモデルである。

 革命を掲げる運動家(大杉など)にとっては、プルードン的な「自治会の積み重ね」は力強さに欠けて見えたことだろう。資本主義や国家権力に正面から対抗するには、バクーニン的な「直接行動」やマルクス的な「階級闘争」のほうが実践的に思える。だから大杉は「思想史的には大事」と認めつつも、運動戦略としては前に出さなかったのだろうな。

 まとめるならば、 「プルードンは近所づきあいを理想化した哲学者」 「大杉は街頭でマイク握ってる活動家」
 ぐらいの差がある、と整理できそうだ。
 とか言いながら、実は大杉の人となりをあまりよく知らない。あの頃のインテリはどうしてそのような方向に向かったんだろうかとも思ったりする?
 大杉栄を含め、大正期の「インテリ」がなぜアナキズムやマルクス主義といった急進思想に向かったのか――これは当時の社会状況と「インテリ層の生まれた位置」を見ていくと腑に落ちる部分があるように思う。

 明治後期〜大正期の社会状況として、まず急速な近代化と格差がうまれたことがある。日本は富国強兵と産業化を推し進めたが、都市には過酷な労働条件の労働者が溢れ、農村は貧困に苦しんでいた。
 自由民権運動の残響もあったことだろう。明治の初期に「人民の自由」を訴えた運動が潰されて以降、民衆の政治参加は制限され続けていた。それに加え、国家の強権性、則ち大逆事件(1910)のように、思想弾圧は苛烈。知識人にとって「国家=暴力装置」という意識が強まっていった。

 これが、爆発のための熱が上がっていった原因と考えるならば、燃料はどうだったか?
 インテリ層の出自と「浮遊感」とでもいおうか。多くの急進的インテリは、地方の中下層出身(地主の次男三男、農村の秀才)だったらしい。学歴を手にして都市に出るけれども、上層のエリートにはなれず、また農村共同体にも戻れない。つまり 「自分の居場所がない」浮遊感 を抱えやすかったわけだ。この「浮遊するインテリ」が、自分の存在意義を社会運動や思想闘争に見いだしたのだろう。

 それならばなぜアナキズムやマルクス主義にむかっていったのか?
 アナキズムの魅力はなんだったか?
 国家権力に対する鋭い否定は魅惑的だったのだろうな。個人の自由を強調する倫理的な響きもあったことだろう。
 大杉が惹かれたのは、ここに「道徳的正義」と「行動主義」が重なったからのような気がする。

 マルクス主義の魅力は何だったか?
 社会構造を科学的に説明する理論的な力があった。それまでそういうものはなかった。階級闘争という「大きな物語」が、自分たちの不安定な立場に位置づけを与えてくれたようなきがしていたのだろう。

 アナキズム、マルキシズム、共通していたのは「現状を変えられる力」への渇望だ。ただ文筆にとどまるのではなく、「現実を動かす」ことができる思想が欲しかった。

 インテリの心理的背景も見ておこう。「学問や文学で食えるのか?」という不安、これは今でも、っていうか現在こそ強いかもしれない。「自分の知識を何のために使うのか?」という問いが、自らを苛む。権力に取り込まれて安定を得るか、民衆と共に立つか――その分岐で、多くは急進思想に惹かれていったのだろう。


 

2025年9月16日火曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 3 アンパンマンとアセファル

 

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 うっかりしていたが、アンパンマンはアセファルそのものなんじゃないか、と、ふと思い立った。等と書いたところで、バタイユ、誰それ?な方々には、ましてアセファルなどと言うものがなんであるかご存じないだろう。
 上手く伝わるかわからないが、ざっと説明すると、 バタイユが「アセファル」と名付けてつくった秘密結社は、実際に1936年から1939年ごろまで活動していた。結構史料も断片的で、想像力で補わなくてはいけない部分も多い気がするが、大事なのは、そう言う材料で今のオレが何を考えるか、と割り切ることにする。

 設立者は、書いてのとおり、ジョルジュ・バタイユ。活動時期は、936年頃〜第二次世界大戦直前ごろとされる。まぁ、かなり短い期間だったみたいだ。
 メンバーとしては、作家で思想家のピエール・クロソウスキー(作家・思想家)、社会学者のロジェ・カイヨワ(社会学者)、哲学者ジャン・ピエール・デュポワなどがいたそうな。すまん。この中では、不勉強故ジャン・ピエール・デュポワの名前しか聞いたことがない。ほかにもぼちぼちいたようだ。
 目的・理念みたいなものはなんだったか? ナチズムやスターリニズムといった全体主義が台頭する中、国家や理性中心主義に依存しない共同体を模索するというのが旨だったらしい。 「頭(理性・権威)を持たない人間=アセファル」を象徴とし、死・犠牲・聖性・生のエネルギーを直視できる共同体を目指した。バタイユは「人は神を殺した(ニーチェ)が、まだ国家や理性の偶像に囚われている」と考え、その外に出る実験をしていたようだ。
 実際の活動としては、定期的な集会を開くとかね。森などでの儀式的な集まりもあったとのこと。バタイユが描いた「アセファル像」(首を持たず、心臓に太陽を抱えた人間)のイメージをシンボルとして掲げた。文献的な研究というよりも、共同体的・儀式的な実践を重んじた。

 「人間は死と犠牲の中でしか本当に生を感じられない」という思想を共有。

 バタイユは本気で「人間の生贄の儀式」をやろうとしていた、と伝えられているから、物々しい。実際にメンバーから「自分が犠牲になってもよい」と申し出る者もいるような、変態さんたちの集まりだった。もっとも最終的には実行されなかったって、そりゃそうだよね。やってたら後世に猟奇カルトとして名をはせることになってただろう。現実的な限界と倫理的な抵抗があった。当然ながら。
 結社自体は短期間で消滅したが、その精神はバタイユの著作や思想的ネットワークに受け継がれたとされる。
 一言で言うなら、理性や国家を超えて、死と犠牲を真正面から受け止める共同体をつくろうとした、半ば実験的・儀式的な秘密結社だった。

 そもそもアセファルとは、ジョルジュ・バタイユが考えた「人間のあり方の象徴」だ。「頭がない人間」という字義どおりのイメージから出発している。繰り返すが、頭は、理性、秩序、権威、国家の象徴であり、従って「頭がない」とは、そういうものから自由になった存在であるとする。
 理性や秩序を超えた、人間の本能や生の力を表す。「考えるな、感じろ」って、ブルース・リーみたいなことをおっしゃる。計算ではなく、衝動や欲望や犠牲のエネルギーこそが大事なのだ。
 それは、死や犠牲と切り離せない存在だ。人は生きるために食べ、他者に与えるために自らを削る。その「生と死の混ざり合い」を直視する姿こそがこの活動の肝となる。

 つまりアセファルは、「理性や社会のルールの外側で、もっとむき出しの生と死を生きている人間像」とでも言えばいいか?怖さもあるけど、逆に人間の本当の力を示しているとも言える。


 んで、なんで、アンパンマンはアセファルなのか、だが、まぁ、何となくわかっていただけるか?

 アセファルは「頭をもたない人間」として、理性・秩序・国家的権威から切断された存在を意味した。アンパンマンもまた「顔(頭部)」が取り替え可能であり、頭は自己同一性の中心ではなく、むしろ欠落・交換・犠牲の場だ。
 アンパンマンは自分の顔(=パン)をちぎって飢えた人に与える。これはまさにバタイユ的な「贈与=浪費=犠牲」の論理そのもの。経済合理性に還元できない純粋な贈与であり、消費されることで彼自身は力を失っていく。
 子どもたちのヒーローとして秩序を守る一方、自分の頭が交換可能であることによって、人格やアイデンティティの一貫性を欠いている。つまり、秩序の守護者でありつつ、アセファル的な「首なし=逸脱性」も内包する。言い換えるならば共同体の中心でありながら、外部性を孕む。
 顔=食べ物=死と生の往還と捉えてみる。バタイユがアセファルを通じて「死と生の根源的な関係」を問題にしたのと同じく、アンパンマンは「自分の死=消耗」と「他者の生=栄養」を同時に体現する存在だ。
 要するに、アンパンマンは「秩序を守る子ども向けヒーロー」の皮をかぶった、かなりラディカルなアセファル的存在、とも言えるんじゃなかろうか?


 そう考えると、初期のアンパンマンが子供たちに受け入れられなかったこともなんとなく理解できる。やなせたかし氏の初期アンパンマンって、今みんなが知っている「正義の味方」像とはずいぶん違っていた。顔をちぎって人にあげることは、そのまま自己犠牲の象徴なんだがそれはどういうことか?ヒーローっぽい勧善懲悪ではなく、ただ「飢えた人を助ける」だけ。だから敵を倒すカタルシスよりも、むしろ「自分を削る痛々しさ」が前面に出ていた。
 これは、バタイユ的に言えば、消費や浪費の恐怖を直視させるものだ。子供が直感的にそこに「不気味さ」を感じてもおかしくない。アンパンマンは「与える=死ぬ」という無意識の構造を背負っているから、単純に「かっこいい!」「強い!」という安心感にはならないのだ、決して。まぁ、時代が進むにつれてアニメ化され、デザインが丸くなり、バイキンマンとの勧善懲悪の枠組みに乗せられた。すると、怖さやアセファル性が子どもに直接届かなくなり、むしろ「わかりやすい正義の味方」として受け入れられるようになったんだが。
 要するに、初期の拒否反応は、アンパンマンの「アセファル的な不気味さ」に対する自然な反応とも読める。

 しかし、後にどう変容しようと、初期のものがあるからアンパンマンだと思う。
 後期の「正義の味方・アンパンマン」って、もちろん大衆的な支持を得て国民的ヒーローになったけど、それだけだと単なる子ども向けキャラで終わっていたかもしれぬ。でも、初期のアンパンマンが持っていた「自己犠牲=食と死の循環」の不気味さがあるからこそ、作品全体に独特の深みが宿っている。
 言い換えるならば、初期のアンパンマンは「アセファル的な核」であり、後期のアンパンマンは「社会に受け入れられるための表層」だった。
 両者が重なっているからこそ、「ただのキャラ」じゃなくて「時代を超えて生き残る存在」になっているんじゃないか、と。
 つまり、いくら勧善懲悪に馴化されても、底には「自分を削って他者に与える」っていうラディカルな贈与の論理が流れている。だから、どの時代のアンパンマンを見ても、子どもたちは無意識にそこを感じ取ってるんだと思う。

 バタイユが「アセファル」に込めたのは、秩序や理性から切り離された、もっと原始的で、恐ろしくも人間らしい核だった。アンパンマンの初期像は、まさにその核が子供向けキャラクターの皮膚から透けてしまっていたもの、と読める。
 アンパンマンは実際に「自分をちぎって他者に与える」という“擬似的な生贄”を日常的にやっているわけで、バタイユが夢見た共同体的な儀式を、子ども向けアニメが無意識に実装している、という対比になる。
 もうね、やなせたかし氏、バタイユ読んでたんじゃないかと思うほど。もちろん史実的に「やなせたかしがバタイユを読んでいた」という証拠は見つかってないが、両者の発想には不気味なほどの共鳴点がある。
 共鳴するポイントとして、まず、言うまでもなく、自己犠牲=贈与がある。バタイユは、「生は浪費されることで聖性に触れる」とし、やなせ氏は「正義とは他人のために自分を犠牲にすること」とした。
 食べる/食べられるの循環は大事なポイントだ。バタイユの主張での犠牲祭儀における「食と死の共同体」は、アンパンマンの自分の顔(パン)を与えて他者が生き延びることにそのまま当てはまる。
 理性よりも“むき出しの生”というか、理性というものの二の次観、ぱねぇ。アセファルつまり、頭を欠いた人間なんて、理性のひとかけらも観られないが、アンパンマンは、顔(頭部)は常に交換され、同一性の中心ではない者としてそれを再現する。

 共同体はどうだろう?バタイユにおいては死と犠牲を共有する小さな結社だったが、アンパンマンではパンを与えることで共同体=仲間がつながる、という形になる。

 やなせ氏は戦中・戦後を通じて「飢え」を直に経験し、その経験がアンパンマンの原点になった、と自ら語っている。つまり彼は、理論としてではなく、生活の中で「食と死と贈与」の切実さを体感していた。だからこそ、バタイユが哲学・宗教・神話を通じて辿りついた「アセファル的直観」と、やなせの“生活から滲み出た直観”が、結果的に重なっているところが何とも面白い。
 ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日生まれ、1962年7月8日没。やなせたかし氏は、1919年2月6日生まれ、2013年10月13日没。まぁ、朝ドラを見ての事だけど、やなせ氏、多分バタイユは読んではいないだろう。しかし、ここまでの相似を見せるのは、経済社会の形、戦争の形というのものが、極限近くに来てしまった故の必然ではないかとふと思った。
 バタイユとやなせ氏、出自も立場も違うのに「自己犠牲」「死と生の循環」に同じように触れざるを得なかったのは、やはり 経済社会と戦争によって極限状況に押し出された必然とはいえはしないだろうか?
 バタイユの身に降りかかったのは、ヨーロッパの危機だった。第一次大戦後の荒廃、資本主義の限界、ナチズムの台頭、等々。経済合理性や国家権力では説明できない「人間の根源的な生と死」を直視せざるを得なかった。だから、アセファル結社で全体主義にも資本主義にも回収されない「死と犠牲の共同体」を模索のだろう。社会の極限が思想を押し出した形といえる。
 朝ドラを見ておられた方々には言うまでもない。やなせたかし氏の場合は、一も二もなく飢えと戦争体験がそれにあたる。一応書いておくが中国戦線に従軍、敗戦後は極度の食糧難を経験し、そのときの「一切れのパンが命を救う」という切実さがアンパンマンの発想に直結した。戦後の高度成長の中でも、「飢えや貧しさに苦しむ人がいる現実」を見続けた。だからこそ「正義=自己犠牲」という定義を揺るがさなかった。

 共通する点を考えてみよう。それは、極限状況に触れた人間は、与える/犠牲になるという次元でしか他者と繋がれないという直観だろう。「合理性・秩序・経済」が極限に来ると、必ずその外に「アセファル的なもの」「アンパンマン的なもの」が現れる。
 つまり両者の一致は、単なる偶然のシンクロではなく、20世紀という極限の時代が必然的に生み出した応答と見るのが自然じゃないか?


 まぁ、それでも、いざ実践しようとすると、アイデンティティというものが、途端に不安定に感じられるようになってしまいそうだ。人間が「与える=犠牲になる」「生と死を直接扱う」ことに踏み込むと、アイデンティティの安定感が一気に揺らいでしまう。
 いくつか、理由っぽいものを考えるならば、一つ目に、自己の境界が溶けることを挙げてみる。自分を削って他者に与えるという行為は、文字通り「自分の一部を失う」ことだ。その瞬間、自己同一性の中心が揺らぎ、頭で考える「自分らしさ」では補えなくなってしまう。
 理性、秩序に依存できないという事も有り得る。バタイユ的には、理性や社会の秩序は「頭=中心」を維持するための装置だが、アセファル的行為では、頭(理性)はあてにならない。従って、自分が誰であるか、何を基準に動くかが曖昧になる。
 だから共同体の規範との摩擦も起きる。周囲の期待や社会のルールは「安定したアイデンティティ」を前提にしている。無条件に与える行為や犠牲は、その枠組みを外れるため、孤独感や疎外感を伴いやすい。

 逆に言うならば、この不安定さを耐え抜いた人間こそ、バタイユがいう「アセファル的人間」であり、やなせの描いたアンパンマン的存在でもある。そして、不安定さそのものが、深い生の実感=自己を超えた与える力の証明になる。

 ねぇ、今度は人類補完計画?って展開にもなるのだが、エヴァの人類補完計画は、個々の人間の隔たりや孤独をなくし、全人類をひとつの存在にまとめようとする壮大な試みだった。結果として、個人のアイデンティティは溶けてしまう。
 アセファル的、アンパンマン的行為というのは、個々が与える或いは犠牲になることで、他者との関係や生の深みを実感する。確かにアイデンティティは揺らぐが、完全に消えるわけではない。与えることと失うことを体験しながら、なお自分として生き続けるわけだ。
 つまり、似ているのは個の境界が揺れる点ですが、決定的に違うのは「消えるかどうか」。アイデンティティが揺れる瞬間はあるけれど、完全な消失ではなく、むしろ生のリアルを知る体験となる。

2025年9月8日月曜日

8843 菊池姫奈

 


8843 菊池姫奈

「贈与」に至る / 糸口を探す 2 KP61、ジョルジュ・バタイユ、哄笑

 


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 では、ジョルジュ。バタイユが、四輪のボロボロのスターレットKP61でダートラとかジムカーナ転戦するとか、どうだろう?

 バタイユの KP61スターレットでジムカーナ転戦。二輪のTZ250だと「骨折」一直線だけど、四輪のジムカーナなら「ボロいKPで限界まで突っ込んでスピンしまくる」感じで、また違った「浪費と供犠」が見えてくる。

 KP61スターレットとは、80年代当時の若者にとって「安い・軽い・FR・壊してナンボ」みたいな車だった。競技ベース車としては最強の入門車。ジムカーナやダートトライアルで、みんな転がして、部品を拾って、また直して走る。
 バタイユがもしその現場にいたら、間違いなく「安くて古いからこそ尊い」って言い張っただろう。「最新のシビックで勝つことに何の意味がある。崩れ落ちる寸前のスターレットで笑いながらスピンすることこそ供犠だ」とかなんとか、パドックの片隅で煙草ふかしながら言ってそう。

 地方のジムカーナ会場って、ほんとに田舎の広場だったりする。現に当地では、真夏で人が来ないスキー場の駐車場でやってたりする。他には、廃飛行場の跡地とか、河川敷の舗装路とか、観客なんてほとんどいなくて、参加者とその仲間と近所の子供が数人。
 そこにボロいKP61をトランポなしで自走して持ってきて、スペアタイヤ4本とジャッキだけで走る。エンジンはキャブが咳き込むし、LSDはチャタチャタ鳴くし、クラッチは半分焼けてる。

 んで、バタイユがコースインすると、もう全開。進入で荷重抜けてリアがスパーンと流れて、そのまま派手にスピン。パイロンなぎ倒して、審判の人に赤旗振られて戻される。でも、車から降りたバタイユは、目をぎらぎらさせてこう宣うわけだ。

 「これこそ破局だ。破局は祝祭なのだ!」
 KP61って、そもそも安いから「潰してもいい」って前提で乗られてた。だからジムカーナやダートでクラッシュして、フェンダーが凹んでも、ライトが割れても、誰も泣かない。直すのは仲間。適当に叩いて色塗って、また走る。
 それをバタイユは「供物」として扱うだろう。「KPは共同体の神に捧げる羊である」なんて言い出しかねない。

 そして彼は、地方シリーズを転戦する。長野の浅間台スポーツランド、新潟の胎内スピードパーク、関西の名阪スポーツランド、九州の恋の浦。どこに行っても、パドックで「首なし団」と称する仲間と焚き火を囲み、酒を飲み、昼間はスピン大会。「誰が一番多くパイロンを倒すか」が裏の勝負。優勝者には地元のリンゴ一箱。でもそれはすぐに食い尽くされて、跡形も残らない。
 浪費の美。

 バタイユは供犠を語るとき、必ず「笑い」をちらつかせる。犠牲は厳粛なものじゃなく、どこかで「祭り」のように騒がしく、無駄で、バカバカしい。つまり供犠は「遊び」でもある。
 だから、筑波のパドックで骨折した仲間を見ても、悲壮感じゃなくて「やっちまったな!」と笑い声が先に出る。それを「神聖」と呼んでしまうのが、彼のトリックだ。

 普通の破滅思考は、破滅を目標にして一直線に突っ走る。しかし、バタイユの場合は、「どうせいつか終わるんだから、だったらその途中で笑いながら盛大にぶち壊そうよ」という感じ。 全然、暗くない。 むしろ太陽に向かって舌を出してるような明るさすらある。
 地方ジムカーナの賞品がリンゴ一箱とか、地方サーキットの勝者に渡るのが米袋とか。そういう「しょっぱい景品」を仲間たちとむさぼり食って、跡形もなく浪費してしまう。それをバタイユは絶対に楽しんだはずだ。彼は「無駄になること」そのものを肯定していた。
 だからKP61を壁にぶつけてフェンダーをぐしゃっとさせても、それで落ち込むんじゃなく「これで供犠は済んだ」と笑う。

 破滅主義者だったら、車が壊れたら「これでもう走れない、終わりだ」と沈むはず。でもバタイユは逆だ。壊れるからこそ嬉しいし、無駄に終わるからこそ意味がある。そうやって、むしろ「生き延びる方向」に転がっていく。

 考えてみたら、これってすごく変な話で、「死」とか「破滅」とかを正面から扱うのに、どうしてかそこに「陽気さ」が宿ってしまう。バタイユは常に「闇を見よ」と言いながら、結果的に「光の中で踊る」方向へ連れて行ってしまう。
 それはたぶん、彼が破滅を「手段」として見ていたからだと思う。破滅そのものに住みつくんじゃなく、その瞬間に立ち会うことで「陶酔」に触れる。だから、暗黒のはずが、いつの間にか祭りになる。


 例えば、筑波サーキット。予選で転倒して骨折、予選落ち。でもパドックで缶ビールを飲みながら「俺は今日、供犠を果たした」と宣言する。仲間たちは爆笑しながら「いや、それはただのコケだろ」とツッコむ。そういうやりとりが、もう完全に「生の肯定」なんだよな。

 KP61スターレットでジムカーナに出て、全力で突っ込んでパイロンなぎ倒して、順位は最下位。でも本人は最高に笑っていて、「破局は美しい」と言いながらピースサイン。その姿って、「破滅」を選んでいるようでいて、実際には「生きることを選んでる」


 結局のところ、バタイユは破滅思考じゃないんだと思う。彼がやってるのは「過剰思考」。
 ちょっとだけやればいいのに、もっとやる。
勝つために走ればいいところを、転ぶまで攻める。
腹八分目に 食えばいいところを、全部平らげる。
程々に飲めばいいところを、吐くまで飲む。
 そういう「過剰」の中で、死や破局に触れてしまうことがある。

 でもそれはあくまで副作用であって、目的じゃない。だから彼は、いつも笑っている。「俺は死にたいんじゃない。ただ、もっと生きたいだけなんだ」。その裏返しがあの思想なんじゃないかと思う。

 もし彼が単なる破滅主義者だったら、たぶん我々、いやほとんどオレだけ?はこんなに惹かれなかったはずだ。「どうせ全部滅びる」って言葉だけなら、世界中にいくらでもある。でもバタイユの言葉には、どうしても「おかしさ」と「楽しさ」が混じる。死を語っているのに生が滲む。それが妙に人間的で、だから魅力的なんだと思う。

 いわば、ジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスではない。 バタイユって「どう見ても破滅的なことばかり言ってるのに、なぜか死に急がない」タイプ。だからジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスじゃない。

 シド・ヴィシャスは完全に「自己破壊=様式美」になっちゃった人で、破滅をそのまま生きて燃え尽きてしまった。でもロットンは「全部ぶっ壊す!」と叫びながらも、ちゃっかり長生きして、今でもロック・アイコンとして毒を吐き続けてる。つまり「破壊と反逆」をエネルギー源に変換する能力がある。

 バタイユも同じで、供犠や浪費、エロスや死の欲望を語りながら、実際の生活はどこか「ずる賢く延命」してる。しかもその延命が、決して妥協や日和りじゃなくて、「反逆精神を持ったまま老いる」っていう稀有な在り方だ。

 ジムカーナのスターレット転戦でもそう。
 確かにパイロン吹っ飛ばしてクラッシュばかりしてるんだけど、それは「死にたいから」やってるんじゃない。むしろ「限界の先で生き延びて、また次の会場に行く」ためにやってる。破滅を燃料にして、でも破滅は選ばない。

 だから彼は「供犠の哲学者」なのに、自分自身を最後の羊として屠ろうとはしない。むしろ「俺が屠られたら共同体は困るだろう?」とニヤリと笑って、またハンドルを握る。

 ここが、まさにジョニー・ロットン的。死を演じてしまったシドとは違って、死を「利用」して生きる。破滅に見せかけて実はとことん生のほうに執着している。

 そういえば、ジョルジュ・バタイユの哄笑する姿を想像すると、ジョニー・ロットンや植木等のそれと重なって見える。




2025年9月7日日曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 1 ジョルジュ・バタイユ、TZ250

 

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 ジョルジュ・バタイユがもし1980年代あたりに元気に活動していたと仮定したら、彼はきっと「モータースポーツ」「単車」「スピード」みたいなものに惹かれたのではないかと思えて仕方ない。

 バタイユの思想には「極限体験」「逸脱」「共同体の陶酔」が根っこにある。したがって、1980年代に元気なら例えばこんな展開が考えられるかもしれぬ。


 F1ブームとの親和性はどうか? セナやプロストが全盛を迎える直前だ。寧ろマンセルとピケが同じチームで丁々発止やってたころ。スピードと死の接近、スポンサー資本の華美さと人間の肉体の限界が交差する場所として、バタイユ的には非常に「エロティック」な場であったことだろう。「消尽(dépense)」なんて、F1マシンの燃料やタイヤに重ねて語りそうだ。


 二輪文化については? 特にヨーロッパのカフェレーサー文化から日本の族車カルチャーまで、暴走や事故を「神聖な瞬間」として描きそうだ。単車の爆音を「共同体的祝祭」として読み替えるわけだ。


 バタイユはおそらく消費社会批判と結びつけることだろう。1980年代は消費資本主義の絶頂期。スポンサーだらけのマシンや、レーサーが広告塔になる姿を「神聖さの堕落」と批判しつつも、同時にそこに「崇高な笑い」を見出すにちがいない。


 絶頂にいた当時の日本との接点があったなら、ホンダNSRやカワサキGPZに夢中になりつつ、走り屋や峠文化を「神聖な浪費」として愛でたかもしれぬ。


 もっと妄想を膨らませると、1980年代のバタイユは「パリ・ダカール・ラリー」に強烈に惹かれた気もする。死のリスク、砂漠という空虚な空間、マシンと人の極限。これ、完全に彼のテーマと重なるように思える。


 バタイユがのめり込むのが単車なら、例えば、市販のTZ250で、サーキットでコケまくりながらも、アマチュアながらレースにのめり込んだりしてな、とか考える。

 市販レーサー、ヤマハTZ250、まさに80年代のプライベーターが血反吐を吐きながら走らせるマシン。いわゆるレーサーレプリカどころじゃない、特にパイプフレームの頃の、なんて、本当に「レースやりたい奴向け」のマシン。公道走行不可、ナンバーも付けられない。サーキット専用。2ストロークで、ピーキーで、パワーバンド外すと一気に失速して、逆に入ったら暴力みたいに吹け上がる。素人が乗れば確実にコケる。いや、上手くてもコケる。F1の華やかさよりずっと「肉体と機械がギリギリでぶつかる場所」って感じがする。


 バタイユがもしそこで生きてたら、こんな風景が浮かぶ。人類の文学史における変態とか、闇の哲学者とか、そういう評価はもう散々されているんだが、ただ机に向かって文字ばっかり打ってた御仁ではなかったようだ。

 転倒と破壊を肯定するだろう。「勝つ」よりも、転倒しながら肉体とマシンを削り取っていくことそのものを「至高の浪費」として捉えるのではないか? ガチ勢にはひょっとしたら迷惑な奴かもしれないが、「レースは死と交わる祝祭だ」とか言いそうだ。


 バタイユの運動神経がどうであったかはよく知らないし、ライダーとして大成したかどうかもわからないが、多分、アマチュアにこだわったに違いない。プロの華やかな舞台より、地方サーキットの埃っぽいパドック、ビール片手にオイル臭の中で仲間と語らう空気を「共同体」として愛したことだろう。その中で「コケる瞬間」を、破局に向かう笑いの爆発として解釈したような気がする。


 TZ250の特性としては、特にアルミフレームの公道用TZRとほぼほぼ同じになる前のものはイメージとして、ピーキーで、パワーバンド狭くて、乗り手を振り落とすような性格だったに違いない。バタイユなら「理性を裏切るマシン」として詩的に讃えそうだ。そして「TZは私を裏切る。だがその裏切りにこそ真実がある」とか書きそう


 そんなバタイユにとって、サーキットは則ち宗教的思想的聖域だったろう。彼にとってサーキットは教会や闘牛場の延長線だ。転倒や事故が供犠になり、消費されるガソリンやタイヤが「神聖な供物」として語られるわけだ。

 


 つまり80年代のバタイユは「プロにはなれないが、サーキットに自分を燃やすアマチュアレーサー」として、身体を削り、笑いながらコケて、その体験を思想の言葉で書き散らす…そんな姿が想像できてしまう。


 オレがこんなことを思ってしまうのも、生前結構ヤバめな秘密結社、「アセファル(首なし人)」なんてのをやってたのを読んだからだ。いや、それをやるなら絶対サーキットで目剥いて走ってただろって思ったわけだ。

 アセファルというのは、ただの読書会じゃなくて、実際に「人身供犠」をガチで検討してたという話まで残ってる、とんでもなものだった。

 で、それを1980年代に当てはめるならば、秘密結社で供犠をやるくらいなら、絶対サーキットで目剥いて走ってただろ」ってね。


 バタイユが言うところの「首なし」と「フルフェイス」なんて、ちょっと通じるものがありすぎだ。アセファルの象徴が「首なしの人間」だった。80年代のフルフェイスヘルメットって、外から顔が見えないし、レーサーのアイデンティティを消してしまう。つまり、ヘルメットとはアセファルの仮面というわけだ。


 今でこそ、がちがちに安全対策がとられているけれど、当時のサーキット(鈴鹿・筑波・SUGOとか)は、事故死が珍しくなかったように記憶している。まぁ、今より多かったとは思う。そして、「死とスピード」が常に背中合わせの空間、共同体的な祝祭場だった。秘密結社での供犠が「サーキットの転倒・死亡事故」に置き換わるわけだ。


 そしてその場で、タイヤを削り、ガソリンを燃やし、エンジンを焼き尽くし、挙げ句の果てにライダーが骨折しても走り続ける。これはまさに「バタイユ的な贈与の極致」だったに違いない。


 バタイユが仲間を集めてたならどうなったか?

 アセファルの仲間たちがもし80年代にいたら、全員でTZ250やNSR250を買って、秘密結社の集会は「筑波サーキットの走行会」になる。「転倒こそ神聖。骨折は通過儀礼」って感じでね。わ~、迷惑。


 想像すると、秘密結社「TZ首なし団」 みたいなのを作って、夜は酒と議論、昼はサーキットで目を剥きながら走る、っていう光景が浮かんだりするわけだ。彼らの議論は夜の酒場で続く。「供犠とは何か」「共同体の陶酔とは何か」――その答えを求めてね。でも昼間は、ツナギ着て、フルフェイスかぶって、TZでコーナー突っ込んでコケる。 転倒は供犠だ。骨折は通過儀礼だ。そうやって彼らは、「哲学」を現実に置き換えてしまう。

 バタイユが本当に求めていたのは、文字の世界に閉じこもることじゃなかったと思う。いつも「越境」とか「逸脱」とか「破局」とか言ってるけど、それって結局は、肉体が壊れる瞬間とか、共同体が笑いながら死に突っ込む瞬間とか、そういう体験のことだった。机上の理屈じゃなくて、実際に骨を折ること、血を見ること。

 だからこそ、もし80年代に生き延びていたら、あの時代の「サーキット文化」に夢中になってたに違いない。

 F1? いや、あれはちょっと違う気がしてくる。

 確かに80年代のF1はセナやプロストが台頭して、死と隣り合わせのスピードを見せてはいたけれど、バタイユにとっては少し「遠い」。華やかすぎるし、スポンサーにがんじがらめだし、そこに「地下」の匂いはない。

 寧ろ地方サーキットのほこりっぽいパドック、雨で濡れたアスファルトに倒れたマシン、それを仲間とガムテで直してまた走る。そういう場こそが「供犠の舞台」としたのではないか?


 夜は酒を飲みながら、転倒の話で笑う。

 「お前のハイサイドは美しかった」

 「ガソリンぶちまけて火が出た瞬間、俺は神を見た」

そうやって笑い合う共同体。それが「首なし人間たち」の1980年代版。


 バタイユはきっと、フルフェイスを「仮面」と呼んだろう。顔を隠すことによって、ライダーは「誰でもない者」になる。アセファルの首なし像がそのまま形を変えて、ここにある。ヘルメットの中で歯を食いしばり、目を剥いてスロットルを開ける。そこに「理性を越えた陶酔」がある。


 もちろん、死ぬ奴も出る。繰り返すが、80年代の二輪レースなんて、今みたいに安全設備が整ってなかった。それを悲劇として悼むんじゃなくて、「供犠が成就した」として讃える。まぁ、狂ってるわな。しかし、これこそ、完全にバタイユ的な共同体のあり方だったように思う。


 現代の目で見たら狂気以外の何物でもない。でも、あの時代のバイク乗りたち、特にレーサーや峠小僧たちは、世間知らずの甘ちゃんなりにも、どこかで「死ぬかも」というのを嗅ぎながら走っていたのではなかったか?その空気に、バタイユがフィットしないわけがない。


 筑波のパドックとかに、青い目のフランス人が混じっていて、ボロボロのツナギに身を包みながら、コーヒー片手に「今日はどこまで越境できるか」なんて呟いているんだ。笑うよな。走り出したら案の定コケて、仲間に引き起こされながら、「ああ、これだ。これこそ供犠だ」なんて呻いてるわけさ


 結局のところ、「秘密結社アセファル」なんて、20世紀前半の暗黒の時代にしか成立し得なかったものというようにも思う。

 でも80年代にその衝動が残っていたら、きっとそれは「サーキットで死ぬまで走る共同体」になっていたはずだ。血とオイルとガソリンと笑い。その中に「神聖さ」を見出して。

 そんなわけで、バタイユさん、もし生きてたら、きっとTZでハイサイドくらって、骨折して、でもニヤニヤしながら松葉杖でパドック歩いてたでしょ? で、その体験をまた「エロティシズム」とか「至高体験」とかに仕立てて、分厚い原稿を書き散らしてたはずだ。



 想像して、ニマニマしてしまうわけです。



 



2025年8月14日木曜日

プレスコードと戦後言論空間の歪み、その継承

 


0.プレスコードという見えない鎖

 敗戦の年、1945年の秋。焦土と化した街に、アメリカ軍のジープが土埃をあげて走る光景があった。空襲で黒焦げになったビルの残骸を背景に、占領軍の兵士たちは軽い口笛を吹きながら通りを歩く。その背後で、日本人は焼け跡に腰をおろし、瓦礫の中から鍋や茶碗を掘り出していた。

「日本は自由になった」——そう新聞は書いた。だが、その紙面の裏側では、まだ知られていない規則が息をひそめていた。
 GHQが日本の新聞社や放送局に配布した「プレスコード(新聞発表用規程)」である。そこには31項目にわたり、報道してはならない事項が並んでいた。占領軍批判、連合国批判、原爆被害の詳細、戦前の戦争責任の追及に触れることも許されない。

 江藤淳は、この時期を「言語空間の占領」と呼んだ。彼は著書『閉ざされた言語空間』でこう述べている。
「占領期の日本人は、自らの母語で、自らの現実を語ることを禁じられた。」
 それは単なる検閲ではなく、思考の土台そのものを組み替える作業だった。


 この「組み替えられた土台」は、占領が終わった後も日本人の中に残った。一見すると自由な言論空間だが、そこには“見えない線引き”が存在する。そして人々は、気づかぬうちにその線を避けて言葉を選ぶようになった。それは現在にも継承されている。どういう訳かノイジ―マイノリティーに弱い報道。

 原爆の被爆者差別は、その典型的な副産物だろう。広島・長崎の惨状は、長く断片的にしか報じられなかった。瓦礫の街でケロイドを負った子供を抱く母の姿も、内部被曝に苦しむ人々の証言も、
 占領下では“国民に見せてはならない”ものとされた。そのため、国民全体の理解が遅れ、やがて「被爆者=不健康で危険な存在」という偏見が根付く。

 西部邁は、晩年の講演でこう語っている。
「言論統制とは、単に言葉を封じることではない。それは人々の沈黙を習慣に変えることだ。」

 プレスコードは、まさに沈黙を習慣化させた。それは、戦後の保守も革新も等しくその上に立ち、思考を育てることになった「見えない鎖」だった。


1.右翼も左翼も、大間違い

 保守であれ革新であれ、政治的立場を持つことは悪くない。むしろ、思想は立場を持ってこそ鍛えられる。
 だが、現代日本の右翼と左翼の多くは、その立場を論理的に組み立てる力を失っている。ネット上で飛び交う罵倒は、論理ではなく感情の応酬だ。

 ネトウヨと呼ばれる右派の一部は、「日本は素晴らしい国だ」と叫ぶが、その理由づけは歴史的検証よりも感情の昂ぶりに依存している。
 一方で、パヨクと呼ばれる左派の一部もまた、「権力は悪だ」という反射的な姿勢に固執し、現実的な解決策を提示できない。


 渡部昇一は、かつてこう指摘している。
「自分が正しいと確信する者ほど、相手の正しさを想像できなくなる。」

 この想像力の欠如こそ、議論を分断へと導く。論破を目的とすれば、相手は敵でしかなくなる。
 だが、説得や合意形成を目的とすれば、相手は「引きつけるべき他者」に変わる。

 百地章は、憲法学の立場からこう述べた。


「立憲主義とは、異なる立場の間に“争える共通基盤”を維持することだ。その基盤が失われれば、言論はもはや共存を目指さない。」

 しかし、現代の保守も革新も、この「共通基盤」を育てようとしない。相手を「無知」か「悪意」と断じるのは容易だ。だが、その瞬間に言葉は届かなくなる。


 プレスコードによって制限された言論空間で育った世代が、「自分の立場の正しさ」だけを磨き続け、「他者の立場とどう向き合うか」という思考をあまりにも鍛えられなかったのではないか?
 それは世代を超えて受け継がれ、今日のSNS上で、奇妙に過剰で、かつ浅い議論として現れている。


2.鎖が外れても、足は前に出なかった

 1952年、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、占領軍による直接的な検閲は終わった。
 新聞は再び自由に記事を書けるはずだったし、ラジオも自由に放送できるはずだった。

 だが、江藤淳は『閉ざされた言語空間』で、こう述べている。
「言論統制は解除された。しかし、解除されたことを自覚できる人間は少なかった。自由を行使する習慣が、すでに失われていたからである。」

 この「習慣の喪失」が、戦後日本の革新陣営に深く染みついていた。戦前、共産党や社会主義者は激しい弾圧にさらされ、獄中で歳月を過ごした者も多かった。だからこそ、占領期のプレスコード下でも、彼らは「また抑圧されるかもしれない」という予感を捨てきれなかったのかもしれない。

 西部邁は、戦後左派の体質をこう評している。
「彼らは戦前の抑圧に対するルサンチマンを、未来への理念に昇華できなかった。その結果、戦争反対と反権力が自己目的化し、時代が変わっても身動きが取れなかった。」

 プレスコード解除は、思想を鍛え直す絶好の機会だったはずだ。戦前の記憶を踏まえつつ、新しい現実に合った論法や政策を模索できた。 だが、実際には旧来の「闘争の文法」にしがみつき、保守との間に新しい対話の形式を築くことはなかった。

 その背景には、もうひとつの心理的な要因があったように思う。長年「被害者」としての自己像を支えにしてきた人々にとって、相手と対等に議論するという行為は、その自己像を手放す危険をはらんでいるとかんじていたのではないか? だからこそ、ルサンチマンは次の世代へも受け継がれてしまった。
 結果として、革新は自らの支持基盤を拡大できず、むしろ社会の中で孤立を深めていった。それはこの何年か顕著だが、共産党や社民党の縮小として表面化し、「もう店をたたむべきでは」という声すら出る事態につながっていく。


3.受け継がれた怨念という遺産

 戦後の革新陣営が、戦前の弾圧の記憶に囚われたまま動けなくなったことはすでに触れた。だが、より奇妙なのは、その怨念が世代を超えて受け継がれたという事実である。
 戦争を直接知らない世代が、あたかも自らが被害者であるかのように語り、同じ怒りや不信感を、血の中に溶け込ませるかのように継承してしまう。それは教育現場や文化サークル、労働組合、学生運動などの場で、繰り返し語り直され、情念として保存された。

 渡部昇一は、この現象を「歴史的現場の記憶の擬似相続」と呼んでいる。
「自分が体験していない出来事に、体験者の感情をそのまま借りて加担する。それは本来、冷静な歴史理解を阻む危険な行為である。」

 これは保守側にも同じことが言える。
 明治や昭和初期の“栄光”を、体験してもいないのに自分のものとして誇り、その輝きにふさわしい日本を取り戻せと叫ぶ。いずれも現実から遊離した感情の継承であり、論理的な組み立てを欠く。

 百地章は、戦後思想史を論じる中でこう述べている。
「自由な言論空間を持ちながらも、感情的な歴史解釈を温存するのは、言論の自立を放棄するに等しい。」

 ここに、プレスコードの影はありはしないか?
 占領期の日本人は、「本当のことを言っても仕方ない」という沈黙を習慣化させられた。その習慣は、真実を検証する努力よりも、感情の物語を維持することに傾きやすくする。

 そして、それは保守にも革新にも等しく作用した。


 世代が変わっても、怨念の火種だけが形を変えて残る。もはや戦争体験者がほとんどいない時代になっても、右も左も、それぞれの物語に沿った「敵像」を守り続けている。それは、未来のために過去を使うのではなく、過去のために未来を犠牲にする姿だ。


4.歪みの増幅と、出口を探す試み

 今生きている社会は、戦後の言論空間が抱えた歪みを、より複雑に、より激しく増幅させた場所である。
 SNSのタイムラインは、一見すると自由闊達な討論の場のように見える。しかし実際には、同じ意見の者同士が集まり、相手を攻撃することで仲間意識を確認する空間になっていることが多い。

 江藤淳が指摘した「解除されたことを自覚できない言論空間の住人」は、今では検閲のないネットの世界でも、自ら検閲に似たバイアスをかけている。都合の悪い情報を見ない、見ても信じない、信じても発信しない。その代わり、感情を刺激するフレーズや画像が共有され、拡散される。

 西部邁は、生前こう警告した。
「自由とは、好き勝手に叫ぶことではなく、他者の自由を守るために自分を制御する技である。」
 この制御の欠如が、現代の言論の質を著しく下げている。右派は左派を、左派は右派を「論破」しようとし、説得ではなく撃破を目指す。その結果、議論は分断を深め、本来の目的である「共に社会を改善する」という視点を失う。

 百地章が言う「争える共通基盤」を再構築するには、自分と異なる立場の人を“倒すべき敵”ではなく、“引きつけるべき他者”と見なす習慣が必要だ。
 そのためには、プレスコード時代に培われた「沈黙と物語優先」の癖を、世代のどこかで断ち切らねばならない。

 渡部昇一の言葉を借りれば、
「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる。」
 この単純だが難しい姿勢を取り戻せれば、保守も革新も、今よりはるかに深い議論を交わせるはずだ。

 共産党や社民党が店をたたむべきかどうかは、単に党勢の問題ではない。「古い物語を引きずったままの言論空間」を続けるか、それとも新しい論法と関係性を築くか——その選択を迫られているのは、実は日本社会全体なのだ。
 もし出口があるとすれば、それは相手を引きつける論法を学び直すことだろう。そして、そのためには自分自身の“物語”を一度疑う勇気が必要だ。

 戦後80年近くを経た今、その勇気こそが、新しい時代の言論空間を開く鍵になるはずだと睨んでいる。
 しかし現実には制御がなく、論理よりも感情が優先され、分断が深まっている。
 百地章は「争える共通基盤」の再構築を、渡部昇一は「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる」と提唱した。この視点こそが、今の日本の言論空間に欠けているものだ。

 共産党や社民党の衰退は、単なる党勢の問題ではない。古い物語を引きずった言論空間の構造そのものが、現代の分断や浅薄な論争を生み出している。相手を引きつける論法を学び直し、自分自身の物語を一度疑う勇気にあるのやらどうなのやら。その辺が出口なんじゃないかと思うのだが。

 戦後80年近くを経た今、沈黙の習慣とルサンチマンの連鎖を断ち切り、自由と責任を両立させた言論空間を作るタイミングにあると考えている。