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2025年4月21日月曜日

富の不均衡と「過剰」についてなんぞ 00 (再掲)

8777 SC82 SP(再掲)

 いろいろ思うことがあり、なんていうのは、ずっとの事で、どれくらいかと言うと、もう、ね、言葉にして人に伝えるのが面倒なくらい、なんだが、ふと、目にしたテレビの占いコーナーで、なんか、かつて挫折したことを再チャレンジするとうまくいくかもよ、なんて言うのを目にして。そうじゃなくても、今いろいろ自分周りの変わり目が来ていて、今、ちょっと根性だしてやっときゃなきゃな、と思い立った。
 そのうちの一つのトピック。今俺は正解を知っているとは思えないが、他人様に読んでもらい意見をもらうことは大事だろう。なかなかな、しかし、頭の中整理がつかない、書き出すとどれくらいの分量でどういう構成にするとか、ちょっと思い浮かべるだけでげんなりしてしまうところだが、ほら、さ、今や生成AIなんていう便利なものがある。chatGPTは無料版がリリースされたときからいろいろ遊んでいたんだが、ここに来て他のの雨後の筍みたいに続々現れているせいもあって、急によくなってきている。自分の考えていることをまとめる、あるいは適切な表現を選ぶ、には非常に便利な代物だ。

 で、だ。こんなな、さえない田舎のおっさんでも、天下国家の事考えたりするわけだ。格差とか富の不均衡とか、どう考えたらいいのか? ってね。

 以下、以前挙げた文章を、再掲して 第00章とする。ある程度まとめて続け様にアップすることになると思う。絵についても同様、このシリーズについては再掲するものが多いと思う。

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 例えば、このCBR1000RR-R、SC82はカタログスペックでは、最高出力218馬力なんだそうだ。オレが普段使いしている1300㏄のサクシードなど80何馬力かどっかその辺だ。2輪だ。人が一人乗る以外積める荷物なんてほとんどない。
 回りくどい言い方をしているが、2020年代のこの現代において、つまりは合理性という言葉をどこかにぶん投げたような存在なのである。言うならば一種「社会の敵」と後ろ指を指されかねないわけなんだが、こんな時代においてであっても、一定のニーズがあるという事である。

 今現在の各社のトップモデルと言えば、一応はスーパーバイク出場用、という名目はあるが、興味のない門外漢にとってはこの時代にレースをすること自体が社会に対する敵対行為とまで考えている人もいるかもしれぬ。

 サーキットであればいざ知らず、公道で度胸一発時速300キロが簡単に出てしまうのだ。ここで表立って推奨はしない。しかし、そういうものを求める心持を有した人間は一定数、いつの時代も存在しており、実行してしまう奴もいるけれど、オレのようにほぼ憧れとしてそういうものが存在していて欲しいと思っている、そういう欲求を満たすことの社会的意義を問われると答えに窮するしかない。

 この世が徹頭徹尾、整然としたものであろうとするなら、それは何とつまらない世界だろう、という切り返しは陳腐すぎて無効。何の答えにもなりはしない。しかし、それとあまり違いはないのかもしれないが、危険であり、現在語られる経済的合理性から外れたもの、というのは、この資本主義世界の行き詰まりに何かヒントの一つを与えてくれはしないだろうか、と感じている。

 則ち、企業価値とそれに伴う株価を上げることで利益を得ることが至上の目的となっている今の経済ドライブで、それは、例えばモノづくりの喜びであるとか、その中の人の細やかな幸せ、楽しみよりも優先する。社会上位にいればそれでもいいが、中層以下はどんどんと下へと追いやられているようにも見える、そういう資本主義というものの行き詰まり。

 カール・マルクスから最近ではトマ・ピケティに至るまでひたすらそういう方向に流されていくことに対し竿を刺す仮説も数多あるにはあるが、こういう流れというのは止めるに至ってはいないように見受けられる。

 となれば、経済的合理性、それに適応するように成形された諸生命理論から外れた欲求とはなんなのか、そして、それを突き詰めていくことに、ひょっとしたら意味はあるのではないかとも思うのだ。

 ビジネスに関り、鉄道のようなインフラによるものではない、時速300キロなんて速度は、通常の社会には過剰であり不必要だが、そんなトップスピードとそこへ駆けあがっていくときの力感を欲するということ。これはいったい何なのか? なぜそんな「不必要な」過剰を求めるのか?

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 次回から当面、chatGPTとのダイアログ(?)を掲載することになる。まずは今ある経済格差について。日本国内だけの話ではない。全世界的に見て、というところで話を進める。


 

2025年4月20日日曜日

8784 NSR500 1988

 

8784 NSR500 1988

NSR500 1988
for Wayne Gardner

1988年 NSR

 1988年のNSR500には、実のところこれと言った印象はない。前年チャンピオンを獲ったワイン・ガードナーはケガや何やで、エディ・ローソンにチャンピオンの座を奪われている。やはりというか、ワイン・ガードナーは目標を見上げてそこに向かっていくときにこそ力を発揮するが、一度それを獲ってしまうと、集中力をなくすタイプなのかもしれない、とも考えている。
 性能でこの年のNSR500がYZR500に負けていたのかどうなのかということまでは分からない。

 レプリカー模造、というより、同時進行で開発された公道モデル、NSR250R、MC18の話。っていうか、直接的にはレース用NSR250やRS250とほぼほぼ同時開発、ということらしいが。ミラーとか外せばそのままレースに出ることが出来た、公称自主規制45馬力でも、実際には70何馬力か出ていたのではないかという噂。時代だねぇ、イケイケ、ドンドンのバブル時代。景気のいい話だ。おかげで、カワサキのマッハIII500SS以来の「widow maker」なんていうありがたくない二つ名を頂戴したとかしなかったとか。

 この後のNSR250Rは、パワーは同等ながら、扱いやすさを身につけていったが、とにかくこのMC18は、TZR250には負けられね~、峠最速はオレのもんだ、とばかりに相当尖った物であったようだ。オレはついに、借りものであってもまたがることはなかったがな。

 あの頃の峠文化というものも不思議なものだった。まぁ、結構イキってるくせに下手糞な奴もいただろうし、最初はそもそもみんな下手糞だ。新車で峠に乗りつけて、いきなりコケてカウルバキバキにして涙目、なんてことはフツーにあったことだろう。

 あぁ、こんなことがあった。そいつの単車がNSRだったかTZRだったかは忘れた。見てないんで。当時学生でも普通に建設現場のバイトに行くことが出来た。今じゃ労働衛生法とか何とか縛りが厳しくてそういう訳にはいかないみたいだが。
 その日の仕事は滋賀のどこぞの小学校だったか中学校の体育館の断熱材のグラスウール張りのバイト。盛夏ではないにしてもそれなりに暑い季節だったと思う。そういう時にでもグラスウールを扱う時は合羽を着こんでゴムの手袋をし、完全防備で向かう。肌についたら、まして汗で広がった毛穴にグラスウールが入った日にゃあ、3日間は痒くて死ねる。
 そいつ、新しく入ってきたばかりで、聞いたところ単車のテールカウル新調したんだが、シートのウレタンゴムをケチっていて、その代わりにグラスウールの切れ端もっていっていいっすかね? って訊くもんだから、別に切れ端ぐらい惜しくはなかったけれど、そこにいたやつ全員「「「「「やめとけ!」」」」」といったものだ。

 エンジンとかブレーキとかって部分はそういう訳にもいかないが、バブルの時とは言え、如何に金を浮かすかに腐心する峠小僧。それが長じておかしな改造とかをし始めてそれが流行りになったりする。あと、あのころ流行ったヘルメットの角なのかアンテナなのか、あれ、何だったの? はたまた変なところにBOØWYの歌詞が貼ってあったりしてな。

 わらわらそういうのが峠に湧いて、んで、規制が始まるんだ。今思うとな、そういうのをガス抜きとしてお目こぼしもないから、今の若いコ、余計に変なところに入り込んでとんでもない犯罪に走るんじゃないかと思うことが偶にある。

 時は経ち、1年位前かな、MC18、88(ハチハチ)のロスマンズカラーのNSR250Rが近所のコンビニに停まっていた。どんな奴が乗ってんだろう?とみていたら、ほんのちょっと若いがほぼオレと同世代のおとっつぁんだった。当時、たくさん売ってたくさん廃車になったNSRだ。大事に乗ってくれたらいい。そう思った。


2025年4月19日土曜日

8783 伊東四朗 _2

 

8783 伊東四朗 _2

コメディアン

 どういうわけか、オレは伊東氏の「にん!」という持ちネタを見た覚えがない。どちらかと言うと、意識に入ってきたのは、コメディアンだと思っていた氏が、結構シリアスな刑事役をやっておられるのを拝見してのことで、あと、長年やっておられる吉田照美氏とのラジオ番組、というところか。だみ声だけど優しい感じの口調のオジサン。

 ググってみると、うちの親父と「学年」という言い方をすればタメだ。うちの親父は早生まれなんだが。俺個人の事を開陳してしまってもしょうがないが、うちの親父、この2,3年、目に見えて衰えてはいたのだが、昨年秋口からそれが加速し、この3月に入院。退院後も介護のための施設(厳密な区分では「介護施設」とは言わないらしいが)にそれ以前から衰えている母と一緒に入所することになっている。ついぞ、オレが幼かったころの、今のオレよりはるかに若い両親を思い出したりするのだが、まぁ、な、生きとし生けるものの摂理である。
 
 伊東氏も年齢ながらという部分と年齢なりに、というところがあるのだろう。その時々の生活仕様で氏のラジオ、聴いたり聴かなかったりして、今は聴いていないのだが、可能な限りお元気で続けられますよう。

 さて、コメディアン、芸人というのにも、傍目に観て、いろいろタイプはいるようで、芸風そのままの私生活を送っておられるらしい方、破滅型なんていうのもいる。私生活が芸風と真逆の方もおいでになるとも聞く。コメディアンというか喜劇俳優と言うべきだが、渥美清氏など、私生活での人となりは公開されていなかったが、性格なども車寅次郎とは真逆を行く人であったと聞く。伊東四朗氏はどうなのだろう? 私生活でハチャメチャだったという話は聞かない。

 笑いとは諧謔とは何だろう? 素人なりに考えたりするのだ、これはお笑い、コメディに限らず、あらゆる芸事、表現、っていうか、仕事というもの全般、いかなる観察眼をもち、それがどれだけの精度があるか、が、第一段階。そこに脚色、デフォルメを加えるときに、対象への敬意と個々人のひらめきと感情が入る。敬意なのか愛情なのか、批判なのか、はたまた敵意なのか。そういうものなのではないかと推察している。

 伊東氏が何を込めているのかは知らない。しかし、シリアスな芝居やラジオの声から、オレは昭和の、今は死語になった「お茶の間」を思い出すのだ。


2025年4月18日金曜日

8782 Wayne Gardner _25

8782 Wayne Gardner _25

Wayne Gardner
NSR500  1987

1987年のワイン・ガードナー

 モリワキに乗ってヨーロッパでも走っていた、日本と縁があった、律儀なオーストラリア人というのが当時の印象。特に、チーム、というか、HRCの中では優先順位の上にはフレディ・スペンサーがいたけれど、貪欲に、呼ばれれば8耐だって何度でも出走し、勝って見せた。当時、ホンダにとっては彼こそが頼りになるライダーだったことだろう。
 すぽんとフレディ・スペンサーがいなくなった頃には、HRCとの信頼関係も深く、しかし、マシンは残念ながらフレディスペシャルという出来で、それでも若く貪欲な彼は、87年のチャンピオンになった。
 HRC所属になった85年から、87年にかけて、彼の運気も最高潮だったのだろう。この間は多くの事でうまくいったように見える。

 ライディングテクニックも当然あるのだろうが、マシンなど必ずしも彼に最適化されて設えたものではなかったにもかかわらず、であるからこそ余計燃えた部分もあるのかもしれない。ワークスマシンから2段落ちのRS500での初出走以来、それを克服するようなアグレッシブな走りというのが、結果彼を支え続けたわけだが、

 果たして、そこをピークに、この後、やや運にも見放された部分もあったのではないか? ケガを負い後輩に抜かれ、引退。

 まぁね、アンラッキーな部分はあったのかもしれないが、一般のモブからすれば充分、幸せな人生である事だろう。

 さて、彼の現役時代など、日本車しか勝てんという頃であり、必然日本に近づこうとする。親日家と思われたが、2016年、息子絡みの暴行事件で江戸所払いと相成っている。 (´・ω・`) ショボーン。まぁ、何より彼も人の親であったという事だ。


 

2025年4月17日木曜日

8781 紺野ミク _4

8781 紺野ミク _4


グラビアのお姉さん

 紺野ミク氏を絵にするのは8年ぶりだ。8年前、まとめて3枚。オールヌードだった。アダルトビデオまで突き詰めた人ではない、幾分ソフトなイメージビデオとグラビアが主戦場の人。2輪4輪のウェブメディア「Lawrence」でお見受けしたが、その後、あの人は今、なんてことを言う間もなく、instagramが今の主な活躍の場なのかな? 違ってたらごめんなさい。現在のところ、個人勢の撮影モデルのようだ。どこか事務所に所属している感じはない。


 美人なんだけど、流行りの顔じゃないから苦しいのかな? またはどこかに所属していたら自分の売り方とか決められない不自由を避けたのかもしれない。8年、息が長いというべきなのかどうなのか。


 しかし思うのだ。おそらく若い時よりも見せ方を研究しているということもあるのかもしれないが、今の方が魅力的であると思う。太らず、さりとて腹筋バキバキではない軟らかそうな体の輪郭、撮影に耐えられるだけ体形や肌のコンディションをキープされているのだから、この仕事って、ストイックじゃないとできない、氏はとてもきっちりした人である可能性が高い。


 若い時には、「そういう目的」で、写真やイメージビデオでお世話になったりするのだが、この年になってしまうと、そういうことを踏まえつつも、魅力を感じるならば絵にしたい、その為に拝見している感じ。無駄に歳を取ってしまうと、写真では「そういう目的」には物足りなくなるか、その辺のところ切実ではなくなってしまうか、なんだが、オレなんぞ、(いずれ)絵にするという名目で彼女の写真を「保存する」などして利用している。「そういう目的」に使うというよりは、なんて言うか恥ずかしい、場合によっては苦い、黒歴史的思い出の方が多いけれど、でも、結構切実に近い感じでそれらを必要としていた若い頃を、なぜか忘れたくない、と思っているようだ、我ながら。


 それにしても、こういう人たち、instagramなどネットで割とよく見るのだが、こうしてカメラの前で肌を晒した後、服を着て、撮影スタッフらに「おつかれさまでした~」なんて挨拶をして、現場を離れ、美人であってもテレビなんかに露出している人ほどには、一般の人には認知度は高くなく、だから、タクシーを使うのかもしれないが、電車で自分の住処に戻るために電車に乗り、駅のホームを出て、周りは「お、美人だなぁ」とは思っても、目で追うのも一瞬で、家の鍵を開け、明かりをつけ、大事な商売道具だから、自分の体形や肌のメンテナンスは優先するんだけど、なんて、言う日常で、彼女の傍で、どうか、彼女を支えてくれる人がいますように、と、そういうことをつい想像した時に限り思ったりはする。

2025年4月15日火曜日

8780 Freddie Spencer _57

 

8780 Freddie Spencer _57

Freddie Spencer
NSR500
Salzburg 1986

1986年のフレディ・スペンサー

 1983年のタイトルは、YZRにパワーで負けていて、それをハンドリングなどのNSの特性とシーズン通した戦略でもぎ取ったが、フレディ・スペンサー、マルク・マルケスが2013年に20歳266日で最年少タイトルを更新するまで、21歳258日で獲った最年少記録だった。
 それが1985年、無敵の完全勝利で、これからまだ若い彼の天下は続いていくものと思われた。

 が、どうだ、蓋を開ければ、そもそもレースに出走すらしない。ちょろちょろ予選を走ったりはする。何走り惜しみしてるんだ? と、段々と反感が高まっていく。
 ホンダの現場のエンジニアだったか、「世間知らずの天才様」と揶揄した。フレディ様の気紛れに振り回されてる気分だったのだろう。
 結局、この年、ろくにレースも走らず、その後、スポンサーのロスマンズが外れ、ヤマハに移籍し、フェイドアウトしていった。
 因みにNSR500だが、前年のマシンが傑作すぎたのか、見た目、小変更の熟成型に見えるのだが、よくわからん。

 さて、フレディ・スペンサーに何が起きていたのか? のちに聞いたのには、シーズンオフ、自分に死角があるとすれば、筋力不足のスタミナ不足だろうと考え、かなり入れ込んで筋トレをやったそうなのだが、肥大した筋肉が神経を圧迫し、激痛で何もできなくなっていたようだ。

 ネットの「クラブハウス」で知り合った、ある若い女性の話だ。青春前期、彼女は住んでいる地域では将来を嘱望された柔道選手だった。同じ年代の女子の中ではかなり強かったようだ。期待に応えようと頑張った。筋トレも相当したらしい。そしたら、だ、同じ筋肉が神経を圧迫する障害に罹り、選手生命を諦めざるをえなくなったそうな。知り合った時にはおじさんも舌を巻くモータースポーツヲタクになっていたが。
 
 ネットで調べてみた。恐らくはバーナ症候群と言われているのがそれであろう。1986年当時、それに対する知見はほぼなかったと思われる。誰もそれを指摘するものはいなかったようだ。それこそ、気分でレース出走をキャンセルしているように見えたのだろう。痛みと周囲の理解が得られない孤独に耐えなくてはならなかったのかもしれない。今でこそ治療法は確立しているようだ。

 良くも悪くも「世間知らずの天才様」というのはその通りだったのかもしれない。少年の頃から、レースを走り勝つこと以外何も考えていなかったようだ。誰も理解してくれない障害を抱え、ボロボロになり、GPから米国内のレースに追いやられ、それでも走らせてもらえるレースには出ようとしていたようだ。結果に繋がらなかったようだか。そうやってやがて消えていった。

 前にもこの話書いたな。アイルトン・セナと並べて。筋肉は裏切らない、なんて、この何年か、時々聞くが、フレディ・スペンサーは筋肉に裏切られたのだ。

 後もうひとつ書く。2010年代になって、ようやくサーキットに顔を見せるようになり、イベントでかつてのファンに囲まれて楽しそうに笑うフレディの写真を見て、なんとも言えない気分になった。
 これも前に書いた。キャリアのピークで、ふっと消えてしまったアイルトン・セナと、キャリアに裏切られ、それでも生き抜き、今笑っているフレディ・スペンサー、どちらが幸せなのだろう?
 


2025年4月14日月曜日

8779 Galant coupe FTO

 

8779 Galant coupe FTO

1975年にあったかもしれないこと

 ウチには書店売りのアシェットだったかな?デアゴ的商売の43分の1の、このギャラン・クーペ・FTOのミニカーがあって、同じシリーズのB110サニーと、あと、100円ショップで売ってる貨物コンテナのミニチュアの形をした小物入れと並べて、

 北関東の若い奴。1975年4月、キャロルの解散コンサートに中古で買った初めてのクルマ、FTOで友達のB110と、小鼻膨らませて、日比谷の野音に乗りつけるつもりでいたが、日を間違えて、もうコンサートは終わっていて、(´・ω・`)(´・ω・`)ショボーン。二人して埠頭でたそがれてる図、ということで、あと背景の空とか海とかでっち上げて写真を撮って遊んだことがある。

 オレより10歳ちょっと上の人たちかな? そういう青春にこのクルマって似合いそう。BNR32で日本車も性能で欧米のクルマを凌駕するようになるのだが、その10年ほど前とはいえ、カタログで最上グレードはテンロクで120馬力なら立派なものだ。この時代のスターは他にいたけれど、このクルマだって充分楽しかったに違いない。

 あの時、ドジ踏んで永ちゃんを観そびれた粗忽な青年も、今やその頃の自分と同じくらいの年の孫がいることだろう。ところが、自分には似ず思いのほかしっかり者の孫で、苦笑いとか浮かべていたりしてな。


2025年4月13日日曜日

8778 NSR500 1985 _2

8778 NSR500 1985 _2

NSR500 1985
for Freddie Spencer

1985年の事

 果たして、燃料タンクと排気エキスパンジョンチャンバーの位置をオーソドックスな位置に修正した1985年のNSR500とフレディ・スぺンサーの組み合わせの快進撃ときたら他者には手が付けられなかった。勢い余ってこれのエンジンを半分に割ったRS250RW、実質初代のNSR250でスペンサーはシリーズダブルエントリー、ダブルウィン。あまりの圧勝具合に、以降一人のライダーが2つ以上のクラスを掛け持ちすることはできなくなった。これより前は、350㏄のクラスがまだあったときには、ジャコモ・アゴスチーニなんかも2クラスエントリーをやっていたみたいだが。

 他者に対し圧倒的なのに、それでも尖って前に向かっていく、この年からのロスマンズカラーのNSR。初期のNSR500といえば、84年型というよりはこの年のモデルを思い浮かべる人の方が圧倒的に多いだろう。

 坪内隆直氏が編集人をなさっていた「Grand Prix Illustrated」は、当時社会の事など全くわかっていなかった田舎から出てきた19歳にも、非常に手が込んでいるが商売の割には遭わないんだろうな、と想像させる、GP愛にあふれた月刊誌だった。
 第3号を板橋区蓮根の予備校の寮の近くの書店で手に入れて、何か非常に特別なものであるように思えた。世界が違う。
 間もなく、神田神保町に当時あった、今はどうなのかわからない、書泉グランデでバックナンバーが平積みされているのを観て、創刊号第2号をすぐに買い込んだ。この後1989年の月刊最終号まで買い続けることになった。

 そもそもが中学で部活をやっていたころから、テレビが必要ない人間になっていたこともある。ただでさえ2輪のレースの事などテレビでやらなかった時代に、今のように望めばほぼほぼリアルタイムでテレビ観戦などできるはずがない。情報はこうした雑誌から最速でも1か月が其処ら遅れで手に入れるしかなかった。

 であるから、すべては妄想だったのかもしれないけれど、もう他をぶっちぎってるのに、更に超然として先に向かっていく姿を幻視し、それが何か支えになっていた。その後この社会でわらわら湧いてきた似非宗教家たちの言葉より雄弁だったように思う。


 

2025年4月12日土曜日

8777 SC82 SP _2

 

8777 SC82 SP _2

「過剰」について考える

 例えば、このCBR1000RR-R、SC82はカタログスペックでは、最高出力218馬力なんだそうだ。オレが普段使いしている1300㏄のサクシードなど80何馬力かどっかその辺だ。2輪だ。人が一人乗る以外積める荷物なんてほとんどない。
 回りくどい言い方をしているが、2020年代のこの現代において、つまりは合理性という言葉をどこかにぶん投げたような存在なのである。言うならば一種「社会の敵」と後ろ指を指されかねないわけなんだが、こんな時代においてであっても、一定のニーズがあるという事である。

 今現在の各社のトップモデルと言えば、一応はスーパーバイク出場用、という名目はあるが、興味のない門外漢にとってはこの時代にレースをすること自体が社会に対する敵対行為とまで考えている人もいるかもしれぬ。

 サーキットであればいざ知らず、公道で度胸一発時速300キロが簡単に出てしまうのだ。ここで表立って推奨はしない。しかし、そういうものを求める心持を有した人間は一定数、いつの時代も存在しており、実行してしまう奴もいるけれど、オレのようにほぼ憧れとしてそういうものが存在していて欲しいと思っている、そういう欲求を満たすことの社会的意義を問われると答えに窮するしかない。

 この世が徹頭徹尾、整然としたものであろうとするなら、それは何とつまらない世界だろう、という切り返しは陳腐すぎて無効。何の答えにもなりはしない。しかし、それとあまり違いはないのかもしれないが、危険であり、現在語られる経済的合理性から外れたもの、というのは、この資本主義世界の行き詰まりに何かヒントの一つを与えてくれはしないだろうか、と感じている。

 則ち、企業価値とそれに伴う株価を上げることで利益を得ることが至上の目的となっている今の経済ドライブで、それは、例えばモノづくりの喜びであるとか、その中の人の細やかな幸せ、楽しみよりも優先する。社会上位にいればそれでもいいが、中層以下はどんどんと下へと追いやられているようにも見える、そういう資本主義というものの行き詰まり。

 カール・マルクスから最近ではトマ・ピケティに至るまでひたすらそういう方向に流されていくことに対し竿を刺す仮説も数多あるにはあるが、こういう流れというのは止めるに至ってはいないように見受けられる。

 となれば、経済的合理性、それに適応するように成形された諸生命理論から外れた欲求とはなんなのか、そして、それを突き詰めていくことに、ひょっとしたら意味はあるのではないかとも思うのだ。

 ビジネスに関り、鉄道のようなインフラによるものではない、時速300キロなんて速度は、通常の社会には過剰であり不必要だが、そんなトップスピードとそこへ駆けあがっていくときの力感を欲するということ。これはいったい何なのか? なぜそんな「不必要な」過剰を求めるのか?


8776 NSR500 1984 _3

 

8776 NSR500 1984 _3

NSR500 1984
for Freddie Spencer

1984年の事


 1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。


 なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。

 18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。


 空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。



 そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。


 奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。


2025年4月4日金曜日