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2025年6月21日土曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義2 やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 


8809 瀧内公美

 瀧内公美氏が、昨年の大河ドラマで藤原道長の側室の源明子役をするちょっと前に、中学の同級生の女性から、瀧内氏は彼女の息子と同い年の近所の子で、病院で生まれた時から知っているのだと聞いた。昨年の大河、今年の朝ドラ、ご活躍、喜ばしいことだ。
 朝ドラでは、女子師範学校の教師役を演じておられる。その頃の教師と言えば、女子師範学校とは言え、軍国日本の価値観の体現者だったはずで、実際そういう役回りのようだが、さて、当時の、言ってみれば学校の教師などは知識層、終戦で一夜にしてそう言った価値観がひっくり返ることを経験する場面を、これからテレビで目にすることになるのだろう。
 このことをテーマにした表現物は探せば多分いっぱいあるはずだ。瀧内氏演じる先生はどうなのだろうな?

やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 丁度これを書いている今週の朝ドラ「あんぱん」、嵩が戦地で地獄の飢えを体験する週になっている。氏の思想は、極限状態での個人的な体験に裏打ちされたものであり、アンパンマンの行動原理に直接的な影響を与えているとのことだ。

〇飢餓体験の衝撃と「食べること」の絶対的正義化

 やなせたかし氏は、1941年に徴兵され、日中戦争から太平洋戦争にかけての兵役を経験したとのこと。中国大陸での従軍中、彼は極度の飢餓に苦しんだと語っておられる。氏は「空腹というのは、我慢できない」「人間いちばんつらいのはおなかが減っていることなんだ」と述べ、水のようなおかゆやタンポポを食べて飢えをしのいだ経験から、って、今日、丁度のそのシーンやってたなぁ。で、その苦痛の深刻さを強調している。飢えが極限に達すると「人を裏切ってでも何とか食べようとする。考えもおかしくなってくる」という人間の本質を目の当たりにしたのだと。この飢餓体験、よほどに強烈だったんだろう。やなせ氏は「一番大事なのはまず食べられることだ」という確信に至ったようだ。そして、「飢えた子供に一切れのパンを与えること。少なくともそれは、ひっくり返ることのない正義であるはずだ」という、揺るぎない正義の概念を確立したと。この「一切れのパン」という具体的で素朴な行為が「絶対的正義」であるという思想は、やなせが戦争中に目にした抽象的なイデオロギーや国家的な「正義」とは対照的である。それは、権力や思想によって容易に「逆転」しうる正義ではなく、人間の最も根源的な生存欲求と、それに応える直接的な行為に根差した、普遍的で揺るぎない正義として位置づけられた。この考え方は、正義が抽象的な理想や壮大な物語ではなく、生理的欲求の充足という最も基本的なレベルで実現されるべきであるという、価値観の根本的な再構築を意味している。

〇弟の死と「正義」への懐疑、そして「逆転しない正義」の探求

 氏は、終戦直後に仲の良かった弟を戦争で失ったという個人的な悲劇を経験している 7。弟は海軍中尉としてフィリピンに向かう途中で乗船が沈没してしまい、そのまま。この早すぎる死は、「弟は何のために死んだのか?」「犬死にだったのか?」という、氏の心に深く残る根源的な問いを生み出したのだろう。
 さらに、戦時中には「正義」を振りかざしていた日本軍が、敗戦とともに中国から「悪魔の軍隊」と非難されるという現実を目の当たりにしたらしい 3。この点について、特に向かって右側におられる方々はいろいろ言いたいこともあるんだろう。事実に基づいた評価ではなかったとか。さぁ、どうなんかね? その時そう言う人たちは、どこにどういう立場でいて、そんなことが言えるんだろうねぇ?
 閑話休題。
 昨日までの「正義」が、一夜にして「悪」へと容易に「逆転」するこの経験は、やなせの心に「ヒーローとは何だ」「本当の正義とは一体何だ」という深い懐疑を抱かせた 3。そう言う人も結構多いと思うんだがね、実際は。

 この強烈な懐疑の中から、氏は「逆転しない正義」の探求へと向かった。彼が辿り着いた結論は、その正義が「愛と献身」(すなわち、自分を傷つけ、目の前の相手に差し出すこと)であるというものだった。この「逆転しない正義」という概念は、国家やイデオロギーによって恣意的に定義され、翻弄される「正義」への痛烈な批判である。氏にとって、真の正義とは、政治的・国家的な境界を超越し、人間の普遍的な脆弱性と共感に根差した、人間中心的な倫理に他ならなかった。この思想は、キリスト教の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という教えや、仏教の「捨身飼虎」の逸話にも通じる普遍的な概念として理解される。戦争のトラウマから生まれたこの倫理観は、アンパンマンの行動原理の核心をなしているに違いない。

〇初期アンパンマン(人間版)の構想と、その後の変遷

 アンパンマンが初めて世に登場したのは、1969年の月刊誌『PHP』に掲載されたメルヘン「アンパンマン」だったそうな。この初期設定では、アンパンマンは「スーパーマンみたいな格好した中年のおじさんでちょっとメタボ」な人間であり、顔はアンパンでできていなかったらしい。彼は「ほんとのアンパンを持っていて、お腹が減った人にあげるキャラクター」として描かれていたのだろう。
 しかし、この人間版アンパンマンは、子どもにアンパンを拒否され、「ソフト・クリームのほうがいい」と言われたり、「カッコワルイ!」と罵られたりする、報われないヒーローとして描かれた。オレもそんなこと言いそうだった。小さい頃、実は餡子が嫌いだったのよ。さらに物語の結末では、許可なく国境を越えたために高射砲に撃ち落とされ、生死不明となるという救いのない展開だったんだって。うわ・・、退くわ。なにそれ、マジ?
 氏は、この童話を絵本として出版する際に、人間という設定から「生命を持ったパン」という現在の設定へと変更し、救いのないストーリーを改めた。このキャラクターの変遷は、単なる表現上の工夫以上の意味を持っていたようだ。「正義を行おうとすれば、自分も深く傷つくものだ。でも、そういう捨て身、献身の心なくして、正義は決して行えない」という自身の思想を究極的に表現するため、「自らを食べさせる」という行為に到達したのかもしれない。

 人間が「パンを配る」という行為は、あくまで外部からの慈善行為であり、与える側と与えられる側が明確に分離している。しかし、「パンそのものであるアンパンマンが、自らの顔を差し出す」という行為は、自己が贈り物そのものとなる、存在論的な贈与へと深化する。この変化は、慈善行為が持つ限界(受け手の好みに左右される、外部からの脅威に脆弱であるなど)を乗り越え、自己の存在そのものを捧げるという、より根源的で揺るぎない正義の形を追求した結果だ。アンパンマンが「顔をちぎって与える」という行為は、この痛みを伴う献身の精神を象徴しており、真の正義は常に「格好いい」ものではなく、脆弱性と自己犠牲を伴うものであるというやなせ氏の思想を体現しているように思えて仕方ない。

2025年6月20日金曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義1 なぜこんなものを書き始めたか?

 


8808 今田美桜

なぜこんなものを書き始めたか?

 朝ドラとか基本観ない人です、ワタシ。NHKとか、ここ近年、同局の他の番組で、結構、朝ドラとか大河ドラマとかの番宣するようになって、今田美桜氏の事をよく見るようになった。前からグラビアとかではよく見ていたが、正直ピンと来るところがなく、スルーしてたんだけど、動いている今田美桜ちゃん、いいじゃん。可愛いじゃんよ。というのもあるし、
 あと、自分の顔を分け与えるアンパンマン。贈与だ、と思った。今の資本主義社会の行き詰まりを何とかする鍵は、贈与、にあるのではないか、と、贈与論、バタイユ、ジジェク、ノームあたりから入って、そのあたりを最近考えている身として、一度、ちゃんと考察しておきたいと思ったわけだ。

 オレの子供の頃はまだアンパンマンは世に登場していなかった。と思っていたら、妹は覚えている、と言っていた。下で、ほんの少し詳しく書くが、そのプロトタイプの登場は、1969年なんだそうだ。
 プロトタイプから数えたらやがて60年。アンパンマンが自らの顔を飢えた人々に分け与える行為は、日本の文化において一つの普遍的なアイコンとして根付いている。この行為は、単なる物語のギミックに留まらず、自己犠牲と無償の愛の具現化として広く認識されて 1。多くの人々に感動を与え、特に子どもたちには食べ物の大切さや助け合いの精神を育む役割を果たしているんだそうだ。ごめん。オレ実感ない。アンパンマンの顔は、単なる食物以上の深い意味を持ち、汚れたり傷ついたりすると力を失うものの、新しい顔が作られることで「自己犠牲」と「助け合い」の象徴として描かれている。うん。これは分かる。ある時何話分か固めて観たことがある。大人になってから。

 だが、この自己犠牲的な行為は、物語の初期段階において「顔を食べさせるなんて残酷だ」「気持ち悪い」といった批判も存在したんだそうだ 。そりゃそうだろうな。正直、大人になって初めてアンパンマンを視聴した時、何気にいように思えたもんだ。このような批判は、アンパンマンの行為が持つ倫理的な深層、特にその「過剰性」を問う視点を示唆している。そう。「過剰」だ。「贈与」の理由になる「贈与前」にある「過剰」をよく考えていたが、ジジェク的に言えば、確かに贈与後の「過剰」だって有り得る。
 贈与後の過剰、飢えた人々を救うという純粋な善意に基づく行動が、なぜ不快感や残酷さという感情を呼び起こすのか。この問いは、アンパンマンの利他主義が、一般的な社会規範や自己保存の本能に照らして、ある種の極端さ、すなわち「過剰な贈与」として認識された可能性を示唆している。この初期の違和感は、アンパンマンの贈与が単なる慈善行為ではなく、自己の身体性を損なうほどの徹底した自己犠牲を伴うがゆえに、受け手や観察者に倫理的な問いを投げかけるものだったんじゃなかろうか?

 ここでは、この「アンパンマンは、過剰な贈与者なのか?」という問いの深掘りから展開してみる。最初のこの問いは、単にアンパンマンの行動の是非を問うだけでなく、贈与、自己犠牲、利他主義といった概念の倫理的限界、そしてそれらが社会システムや個人の幸福に与える影響について考えてみようかというものだ。ここでは、やなせたかし氏の戦争体験と、そこから彼が再定義した「正義」の概念を軸に、アンパンマンの贈与倫理を多角的に分析し、その普遍的意義と現代社会への示唆を書いていきたいと思っている。