ラベル 大杉栄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大杉栄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


8849 312 PB _7

Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


「贈与」に至る / 糸口を探す 5 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 2

 


8848 Freddie Spencer _58

Freddie Spencer
RS1000RW
Daytona 1982


 決定的に感じるのは、当時、そんな彼らを慰撫する文学がなかったのだろうか?ということだ。当時の日本には、いわゆる 「慰撫する文学」=社会の不安や個人の浮遊感をやさしく吸収してくれるような文学の厚みが乏しかったような気がしてしまうのだ。

 明治〜大正の文学状況を見てみる。
 自然主義文学の支配があったと思われる。島崎藤村や田山花袋に代表される「私小説」的な自然主義は、「自己暴露」と「ありのまま」が重視された。これは自己表現にはなるけれど、「社会の中でどう生きていけるか」を慰める方向には乏しいとも言える。

 浪漫主義の余韻もある。北村透谷や島崎藤村の初期のように「理想」や「恋愛」を歌った浪漫主義はあったが、日露戦争後は色あせていった。つまり「夢で癒す」文学の力が弱まった。

 この時期の文学ということで思い浮かべるのが、夏目漱石の想像だったりするのだが、漱石の位置はどうだったんだろう?夏目漱石は文明批判や個人の孤独を描いたけれど、結局「どう慰められるか」については答えを出せなかった(むしろ孤独や不安を鋭く描き切った)。読者にとっては「共感はできるが癒しにはならない」ということになってしまうかもしれない。それはそれ、共感さえあれば、後は何ともできると思わないでもないんだが。
 そこまで至らなかったのは、大衆文学の未成熟があるかもしれない。推理小説、恋愛小説、娯楽小説は芽生えていたけど、まだマスを抱え込むほどの文化的力はなかったようだ。

 インテリにしてみれば、自然主義文学では救われない、漱石を読んでも孤独が深まる、大衆文学はまだ軽く見られている、というところで、「自分を支えるのは思想しかない」 という方向に行きやすかったのだろう。
 そして、その思想というのがアナキズムやマルクス主義という「現状打破の力」を持った急進思想だった。ほらつながった。


 後の時代との比較も考えてみる。
 戦後になると、三島由紀夫や大江健三郎のように「思想と文学を往還」する人は出るが、同時に大衆文学やエンタメも厚みを持ってきた。だから戦後インテリは「政治運動に熱中する人」と、「文学やサブカルに逃避する人」とに分かれていけた。大正期はその「逃げ場」が薄かったため、思想への傾斜が強く出た、とも言える。


 一言でぶっちゃけてみよう。アンパンマンがいなかったんだ。

 アンパンマンとは、飢えたり困ったりした子に「顔をちぎって食べさせる」存在だ。つまり 「慰撫」や「支え」を分かち与える文学的・文化的存在だ。大正期のインテリたちにとっては、そういう「アンパンマン的な文化」が欠けていた。

 アンパンマン的なものがなかった時代、文学は自然主義や漱石的孤独に傾き、「癒す」より「突きつける」方向に進んでいた。娯楽小説や大衆文化はまだ軽視されており、本格的に人を支える力には育っていなかった。だから「苦しい、孤独だ、どうしたらいい?」という問いに答えるものが乏しかった。

 「顔を分け与えてくれる」ような文学がなかったから、インテリは思想に救いを求めた。しかも選んだのは「社会を変える」「権力を否定する」というアナキズムやマルクス主義だった。もし「アンパンマン的な文学」があれば、もっと柔らかい方向に行ったかもしれない。



 それ以前、明治期や江戸時代までの文学にも、そういうものは少なかったんだろうか?とか思う。 深く人間性を追求していくような、さ。

 江戸時代までの文学を振り返ると、確かに 「深く人間性を追求する」文学 というのは、近代文学ほど体系的には発達してはいなかった。だが、その代わりに 「慰撫する」「気晴らしする」「共感する」」文学や芸能 が厚みをもって存在していたと思う。

 江戸文学の性格として、人間心理の深掘りより「型」と「共感」があった。近代文学のような「自己の内面をえぐる」作品は少ないともいえる。しかし、「型」によって感情を共有し、慰撫や娯楽を担ったのではないか?

 井原西鶴(好色一代男・日本永代蔵)は、個人の欲望や商人の知恵を活写しつつ、人生の面白さ・哀しさを軽妙に描いていた。
 近松門左衛門(心中物・曽根崎心中)は恋愛や義理の板挟みで苦しむ人間を描き、涙と共感を誘った。
 丁度、今大河ドラマで蔦屋重三郎の事やってるな。浮世草子や黄表紙こそ、ユーモアや風刺で日常を笑い飛ばす「慰め」の文学だった。 俳諧(松尾芭蕉など)は、人生の無常をしずかに受け入れる「心の調律装置」だった。芭蕉は深い人間性を探るというより、自然や人生の「さび」を味わう方向。

 慰撫の厚みを思う。江戸の庶民文化は「歌舞伎」「浄瑠璃」「落語」「戯作」などがあり、人間を慰め、楽しませ、共感させる 機能を果たしていた。
 つまり「アンパンマン的な文化」はむしろ江戸のほうが豊かだった。


 明治以降、「文学=真剣なもの、芸術的なもの」というヨーロッパ型の観念が導入され、江戸的な「慰撫・娯楽・共感」の要素は「低俗」として切り捨てられた。つまり、近代と断絶してしまったのだ。
 結果として、自然主義や漱石的な「内面の苦悩を突きつける文学」が主流になり、慰める文化の厚みが痩せてしまった。

「アンパンマンがいなかった」言い換えると、「江戸にはあった慰撫文化が、明治以降のインテリ文学では抜け落ちた」という歴史的断絶が出来てしまったという事だ。


 とすれば、産業革命、近代化という時代に浮かれて、その辺に向けられる目が少なかった時代だったからといえるだろうか?

 江戸時代の文学は、人情や人生の機微を扱うものもあったが(近松や井原西鶴など)、基本的には身分制や共同体的秩序の中で「どう生きるか」を描いたものだった。近代的な意味で「個人の存在や内面の深掘り」を主題化する文学は、西欧近代思想と並行して生まれてくる。
 明治〜大正期にかけては、急激な近代化・産業革命に「社会が追いつけていない」状態で、人々は新しい思想や運動に飛びつきやすかった。西洋から輸入された「自由」「平等」「革命」などの理念は、時代の閉塞感や抑圧と結びついて一気に燃え広がる。
 しかし、その一方で「人間の弱さを抱きしめる」「慰撫する」ような文学はまだ十分に根付いていなかった。漱石や鴎外にしても、個人と社会の摩擦や葛藤を描くけれど、読者に「安心」を与えるものではない。

 だから、大杉栄のように「思想を行動にする」インテリが現れる素地があったのだろう。ある意味で、日本の近代文学は「人を慰める」方向よりも「人を揺さぶる」方向に偏っていたともいえる。西欧ではトルストイの後期とか、ドストエフスキーの「苦悩の中での救済」とかがあるけど、日本ではそこがぽっかり抜けていた。


 とすれば、今の時代もそんな傾向が優っているかもしれぬ。AIの伸長、どこまで行くのかが見通せない。自分の心への視線、悟性が少し後退している?そうでもない?

 技術の進化(特にAI)によって、人間自身の内面への洞察や自覚がどこまで維持されるか、あるいは後退するのではないか?

認知負荷の軽減による後退の可能性はありうる。 AIが情報整理や判断の補助をすることで、人間は「考えなくても済む」状況に慣れてしまうかもしれない。その結果、自己観察や反省、内省の能力がやや鈍るリスクはきっとあるだろう。
 逆に拡張される可能性もある。AIを使って自分の行動や思考の傾向を可視化したり、心理的パターンを分析したりすることも可能だ。うまく使えば、自分への洞察はむしろ深化することもありえる。

 悟性の質の変化も考えなくては。「後退」かどうかではなく、むしろ「形を変える」と考えるほうがしっくりくるかもしれない。従来は自己の内面に直接向き合うことが悟性の源だったのが、今後は外部ツール(AI)を介した間接的な洞察も増える。その意味で、悟性は「自己への視線」と「ツールを通した視線」の二層構造になる感じになるかもしれない。

 となれば、意識的な鍛錬の重要性が高まるだろう。技術が進んでも、能動的に自己観察する習慣や「内面に耳を傾ける時間」を持つことが、悟性を維持する鍵になるような気がする。ここは昔も今も変わらない部分だが。


 また、現在の状況を見ていると、慰撫するのはいいのだが、それぞれなりに前に進む力になり得ているのだろうか?と思わないでもない瞬間があったりもする。
 「慰撫」は確かに心を落ち着け、痛みを和らげる働きはあるが、それだけでは前に進む力には必ずしも直結しない。痛みを感じたままでも、ある種の「自己の力で前に進む感覚」を伴わないと、慰めは一時的な安堵に留まるだけになることがある。
 文学でいうならば、悲しみや挫折に対して共感的に描写される場面は多いが、読者や登場人物がそこから行動や自己変革へ進む「力」に変わるかどうかは、作者の描き方や構造によることが大きい。
 言い換えれば、慰撫は「受け止める力」を与える一方で、前に進む力(自己決定、勇気、主体性)は別のプロセスが必要になることが多い、とも言える。


 危惧するのは、そういうところでの悟性、言い換えたら哲学。その辺が弱くないか?ということだ。
 慰めや励ましは感情面での支えにはなるが、それが「前に進む力」や「行動や選択に結びつく知恵」になっているかというと、そこは別問題だからだ。
 哲学的な悟性、つまり状況や自己を深く理解し、そこから現実的な判断や行動に結びつける力が弱い場合、慰めは一時的な安らぎに留まってしまうことになってしまいがちではないか?言い換えれば、心が温まるだけで、知的・実践的な力にはならない。もし議論の対象が「慰めや共感と、自己変容や成長の力の関係」なら、ここで問うべきは 「慰めがどの程度、自己理解・現実理解を促し、選択や行動に変換されているか」 という点になるだろう。

 幼いころ、世界の苦さや不条理に触れた時、私たちはただ「どうしようもない」と感じるしかなかった。慰める文学も、救いの象徴も、身近には存在しなかった。アンパンマンも、どこかで手を差し伸べてくれるヒーローもいなかったのだ。だから、思考は無意識のうちに硬直し、苦しみをそのまま抱え込むしかなかった。

 この時の悟性とは、単なる知識や理屈ではなく、世界の不条理に対峙するための哲学だった。しかし、幼い心にはその哲学を育む土壌がなかった。周囲の言葉や物語は、慰めよりも規範や価値の押し付けばかりで、苦しみの存在自体を肯定する力はほとんどなかったのだ。

 だからこそ、後になって哲学や文学に触れた時、初めて「自分の感じていた世界の苦さは、孤独ではなかったのかもしれない」と気づく。それは、アンパンマンがいなくても、自らが小さな救済を作り出す力になり得る悟性の芽生えだった。


 子供の頃はあんぱんをもらえる立場だったが、大人になるということは、顔をちぎって分け与えることを考えなくてはならない。

 アンパンマンの顔は文字通り「食べ物」だが、この言葉を比喩として読むと「自分の時間や愛情、資源」をどう配分するか、という大人の課題にも置き換えられる。


2025年9月17日水曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 4 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 1


8846 512BB

 大杉栄と言えば、日本におけるアナキズム(無政府主義)の代表的人物だが、「思想体系の創造者」というより「運動家・実践者」的性格が強かった と言える。

 まず、思想的背景として、大杉はヨーロッパ無政府主義思想(クロポトキン、バクーニンなど)やマルクス主義、さらには自然主義文学や個人主義哲学などを幅広く摂取していた。しかしながら「これが大杉栄の一枚岩の体系」といえるものは存在しない。むしろ折衷的で、状況に応じて柔軟に引用・展開していくスタイルだった。

 著作と理論的側面をみるならば、『正義を求める心』『社会的個人主義』など、アナキズムを日本の現実に合わせて紹介・解説した著作は多く残している。特に「社会的個人主義」という概念は、大杉が工夫した一つのキーワードで、「個人の自由」と「社会的連帯」を両立させようとする試みだった。だとしたら、プルードンあたりの原初の無政府主義を志向していたのではないか? しかしこれも一貫した哲学体系というよりは、輸入思想の翻案・橋渡しの役割に近いものだった。

 運動家としての側面はどうだったか? 労働運動・農民運動・大衆運動の現場に深く関わり、雑誌『平民新聞』『労働運動』『近代思想』などを通じて活動を展開した。その生涯は、理論構築よりも「直接行動」や「大衆啓蒙」に重心が置かれており、そこにこそ彼の独自性があった。

 というところで、体系を築いた思想家 というよりは、運動家、活動家だったとみるべきだろう。ただし、無政府主義を「輸入思想の寄せ集め」で終わらせず、「社会的個人主義」として一定の整理を行った点で、部分的に「理論家」としての側面も認められないでもない。


 もし「体系を作った思想家」と比較するなら、例えばクロポトキンが『相互扶助論』で自然科学と社会思想を統合しようとしたのに対し、大杉は「翻訳者・紹介者・活動家」としての役割が強い、と整理できるのではないか?

 大杉栄は 「純粋な翻訳者」ではなく、翻訳しつつ自分の思想や状況解釈を差し込む人物だった。

 翻訳者としては、クロポトキンやバクーニン、マルクスなど、西欧の社会主義・無政府主義の文献を紹介し、日本語で読める形にした功績は大きいといえる。例えばクロポトキンの『パンの略取』など、当時の運動家が直接触れられなかった思想を日本に伝える役割を担っていた。

 そして大杉は、単なる翻訳にとどまらない。
 大杉は訳文に注釈や論評を加えたり、翻訳後に日本社会への適用可能性を論じたりした。彼の「社会的個人主義」という概念は、バクーニンやクロポトキンから影響を受けつつも、大杉自身が「日本の大衆」「農村社会」に即して再構築したものだった。つまり、翻訳を通じて「思想の輸入」+「現地化」を同時にやっていたわけだ。

 則ち、思想家というより媒介者だったのではないか?
 大杉はバクーニンのように「徹底した破壊の理論」を打ち立てたわけではない。またクロポトキンのように科学的な根拠を与える体系を築いたわけでもない。ただ、日本の社会状況を前に、輸入思想を「どう使えるか」という実践的な翻案を行った。その意味では 「翻訳者」以上、「純粋理論家」未満=媒介者・運動知識人 と言えるmpではあるまいか?

 要するに、大杉は「輸入思想の通訳」でもあり、「日本向けの実践的アレンジャー」でもあったわけだ。

 
 大杉栄は、無政府主義からマルクス主義までを幅広く摂取しつつ、どちらか一方に純粋に立脚するのではなく、折衷的・媒介的に使っていた 人物だった。

 若い頃はマルクス主義に親近だった。最初は『資本論』を熱心に読み、社会主義者としてマルクス経済学を重視していた。特に「階級闘争」「資本主義の搾取構造」への分析は、大杉の社会批判の基盤になっている。

 やがてアナキズムへ傾斜していくわけだが、しかし、ボリシェヴィキ革命後のソ連を見て、国家権力を握った社会主義の危険(専制化・中央集権化)を強く感じました。そこでクロポトキンらのアナキズムに魅力を見出し、国家や権力を否定する方向にシフトしていったのだ。

 「社会的個人主義」とはなにか?
 大杉は「個人の自由」を大切にしつつ、「社会的連帯」も不可欠と考えた。このため、アナキズム的な「権力否定」と、マルクス主義的な「社会経済分析」を併用しようとした。つまり、思想的には 「マルクス的な分析」+「アナキスト的な価値観」 のハイブリッドだったわけだ。

 右派などからは意外と思われるかもしれないが、徹底した「イズムの党派性」を嫌っていたようだ。大杉は「無政府主義者」や「マルクス主義者」としてラベル付けされることを嫌い、むしろ状況に応じて思想を取り入れ、現実運動に活かすスタンスだった。このため、後世から見ると「体系性に欠ける」と評されがちだが、同時に「日本の運動を前に進める柔軟性」があったとも言える。

 言い換えてみよう。大杉にとっては、マルクス主義とは資本主義分析の道具であり、アナキズムは理想の社会像・倫理の指針で、この両者を併用していたともいえる。

 実際、プルードンあたりの原初の無政府主義は「運動家」の立場からは扱いにくい思想家 だった事だろう。

 プルードンの思想の特徴として、まず、「所有とは盗奪である」というテーゼがある。これは資本主義批判として鮮烈。しかし「所有の全面否定」ではなく「小所有(自営業・手工業的所有)」を肯定していた。
 そして、国家・権力への批判。国家や大規模な中央集権に強く反対していた。この点で、そのため後のアナキストに大きな影響を与えた。それのみでは、大杉もさぞや不本意だったことだろう。

 相互主義(ミューチュアリズム)というものが、統治にの代わりとなる。労働者・小生産者が相互に信用を基盤に経済活動を営むという構想だ。これは協同組合運動や信用組合に影響した。
 では、なぜ、プルードンの思想は運動家から見たら、扱いにくかったか?

 大衆運動への即応性が乏しい世言うことがまず考えられる。プルードンは労働者階級の「小生産者」と「自営的職人」を理想化しており、巨大工場での労働運動には必ずしも親和的ではない。19世紀後半以降の労働運動(組合・ストライキ)にはバクーニンやマルクスの方が直接的に武器になった。
 これは革命より漸進改革寄りだったためだ。プルードンは「暴力革命」に懐疑的で、信用制度や協同組合を通じた社会変革を志向していた。直接行動を重視する大杉栄のような運動家には力不足に見えたことだろう。
 則ち、理論的には面白いが実践が難しいといえるかもしれない。プルードンの「相互主義」は、実際には大規模資本主義や国家権力に押し潰されやすい。従って、運動戦略としては「使える部分が限定的」だった。

 大杉はプルードンも読んでいたと思われるが、彼の著作や活動を見る限り「クロポトキンやバクーニン」の方を前面に押し出していた。つまり「プルードン=思想史的に重要だが、運動現場で使うにはやや不向き」という評価だったと思われる。
 プルードンは 思想史の基礎石(アナキズムの原点)として大事だった。しかし、社会運動の即効薬 にはならず、むしろ「古典的な参照点」に留まったのだろう。


 プルードンの相互主義とは、ご近所の町内自治会の穏やかな連合みたいなもんなのだろう。 「町内会・生協・信用組合の連合体」みたいな社会構想のように思えてならない。
 それは、小規模な生産者(職人、農民、自営業)が「相互契約」に基づいて協力するするもので、信用制度や相互扶助で資金や労働を融通し合う仕組みだ。
 ここで、国家や大企業のような大きな権力は必要なく、あくまで「横のつながり」で秩序ができる、という、「無政府主義」と言う言葉が出てくれわけだ。
 言ってしまえば、江戸の講や寄合、戦後日本の農協や自治会のネットワークに近い。革命的な「ドンパチ」ではなく、暮らしの中から秩序を積み上げていくモデルである。

 革命を掲げる運動家(大杉など)にとっては、プルードン的な「自治会の積み重ね」は力強さに欠けて見えたことだろう。資本主義や国家権力に正面から対抗するには、バクーニン的な「直接行動」やマルクス的な「階級闘争」のほうが実践的に思える。だから大杉は「思想史的には大事」と認めつつも、運動戦略としては前に出さなかったのだろうな。

 まとめるならば、 「プルードンは近所づきあいを理想化した哲学者」 「大杉は街頭でマイク握ってる活動家」
 ぐらいの差がある、と整理できそうだ。
 とか言いながら、実は大杉の人となりをあまりよく知らない。あの頃のインテリはどうしてそのような方向に向かったんだろうかとも思ったりする?
 大杉栄を含め、大正期の「インテリ」がなぜアナキズムやマルクス主義といった急進思想に向かったのか――これは当時の社会状況と「インテリ層の生まれた位置」を見ていくと腑に落ちる部分があるように思う。

 明治後期〜大正期の社会状況として、まず急速な近代化と格差がうまれたことがある。日本は富国強兵と産業化を推し進めたが、都市には過酷な労働条件の労働者が溢れ、農村は貧困に苦しんでいた。
 自由民権運動の残響もあったことだろう。明治の初期に「人民の自由」を訴えた運動が潰されて以降、民衆の政治参加は制限され続けていた。それに加え、国家の強権性、則ち大逆事件(1910)のように、思想弾圧は苛烈。知識人にとって「国家=暴力装置」という意識が強まっていった。

 これが、爆発のための熱が上がっていった原因と考えるならば、燃料はどうだったか?
 インテリ層の出自と「浮遊感」とでもいおうか。多くの急進的インテリは、地方の中下層出身(地主の次男三男、農村の秀才)だったらしい。学歴を手にして都市に出るけれども、上層のエリートにはなれず、また農村共同体にも戻れない。つまり 「自分の居場所がない」浮遊感 を抱えやすかったわけだ。この「浮遊するインテリ」が、自分の存在意義を社会運動や思想闘争に見いだしたのだろう。

 それならばなぜアナキズムやマルクス主義にむかっていったのか?
 アナキズムの魅力はなんだったか?
 国家権力に対する鋭い否定は魅惑的だったのだろうな。個人の自由を強調する倫理的な響きもあったことだろう。
 大杉が惹かれたのは、ここに「道徳的正義」と「行動主義」が重なったからのような気がする。

 マルクス主義の魅力は何だったか?
 社会構造を科学的に説明する理論的な力があった。それまでそういうものはなかった。階級闘争という「大きな物語」が、自分たちの不安定な立場に位置づけを与えてくれたようなきがしていたのだろう。

 アナキズム、マルキシズム、共通していたのは「現状を変えられる力」への渇望だ。ただ文筆にとどまるのではなく、「現実を動かす」ことができる思想が欲しかった。

 インテリの心理的背景も見ておこう。「学問や文学で食えるのか?」という不安、これは今でも、っていうか現在こそ強いかもしれない。「自分の知識を何のために使うのか?」という問いが、自らを苛む。権力に取り込まれて安定を得るか、民衆と共に立つか――その分岐で、多くは急進思想に惹かれていったのだろう。