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2014年7月21日月曜日

3600 Mick Doohan_6


Mick Doohan_6

Mick Doohan
on NSR500
France GP 1996

3599 Risa Yoshiki_2


Risa Yoshiki_2 (3599/7670)

3598 Team Taisan 458 Italia



Team Taisan 458 Italia (3598/7670)

eam Taisan 458 Italia
@ LeMans 2014
Drivers;
Pierre Ehret
James Rossiter
 Martin Rich

3597 woman_429


woman_429 (3597/7670)

3596 Camaro RS 1970


Camaro RS 1970 (3596/7670)

3595 Zephyr 750_5


Zephyr 750_5 (3595/7670)

3594 Lin Chiling


Lin Chiling (3594/7670)

3593 woman_428


woman_428 (3593/7670)

3592 Cobra 427_5


Cobra 427_5 (3592/7670)

3591 R35_39


R35_39 (3591/7670)

3590 964 Carrera RS 3.8l


964 Carrera RS 3.8l (3590/7670)

3589 Guy martin_9


Guy martin_9 (3589/7670)

Guy martin
on GSX-R1000
@ Isle Of Man,Southern 100 reces 2014

3588 Mustang Cobra II_1978


Mustang Cobra II_1978 (3588/7670)

2014年7月20日日曜日

3587 Takaoka 20140719


Takaoka 20140719 (3587/7670)

3586 前田淳_2 & 「モータースポーツと死生観 4」


前田淳_2 (3586/7670)

Jun Maeda
onSC57
The TT 2005


モータースポーツと死生観 4

 繰り返すが、日本では二輪のレース専門誌であっても、マン島TTや、その他のヨーロッパでの公道イベントのことは、ほとんど伝えられない。マン島TTについては、時折わずかに扱われることもあるが、その分量は微々たるものであるし、その他のイベントについては皆無であるといっていい。
 それは、確かに、世界選手権のつかないローカルレースであるからということもあるかもしれない。いや、厳密にはローカルではないはずだが、遠く離れたく極東に於いてはそのように切り捨ててしまうことも充分可能だ。
 しかし、それは多分口実に過ぎないのではないか、とも思えるのだ。

 ボロボロ、ライダーが死ぬ、特殊なレース、という言い方も出来るかもしれない。酷い言い草で、語弊もいっぱいなのだが。
 前田淳選手が死んだ時はどうだったか? 若いときには国内でそこそこ期待もされたようだが、何やら反骨精神が強かったのかどうなのか、どうやらレーサーとして一般的なコースに乗ることを良しとしない人物ではあったらしい。1997年にマン島に初出場、以来、日本人ではマン島TTの第一人者的なところがあったようだが、2006年に、レース中の謎のスローダウン、後続車に追突されて…、ということらしい。
 らしい、とは、当時はオレにしたところで、マン島TTにさほど興味があったわけではなかったから、当時のことを見たことのようには話すわけにも行かず、今、wikipediaとか、その他のウェブに書いてあることを読む程度ということなのだ。
 当時の認識である。国内のレースに走る価値を見失った、といえばカッコイイが、その輪の中に入りきれないというか、結局のところ、どうしたってトップを走る連中には追いつけず、外で、しかもGPとか違うところで、何か走ってたみたいだが、死んじゃったみたいだね、と。なんという無礼、なんという認識不足だったことか。

 公道イベントの魅力は別格である。それはファンであってもそうだ。ましてや、走り手当人にとっていかほどのものであるか。そして、彼が2003年にブロンズ、2004年にシルバーを獲ったことは、日本人として讃え、また誇るべきものであったと、今更に思うのだ。

 しかし、当時、前田淳の死に対して、それがレースファンであっても、思ったことといえば、大多数、オレと似たようなものではなかっただろうか?

 松下ヨシナリ選手にいたっては、事故死後、初めてその名前を知る始末だった。同じくウェブでは、関係者のブログなどによると、結構、走ることを反対されていたらしい。Facebookなどで、その死を知ったのだが、まぁ、なんというか、イカれた中年が、ノコノコ死ににいったような印象がひょっとしたらあったかもしれない。

 松下選手が走るに際しての反対とは、つまり家族がいるからとか、何かそんな感じのニュアンスではなかったかしら? 結構前に目にしたので、もう一度それについて書かれたブログを探したが見つからなかった。オレの勘違いかもしれない。

 2点。
この家族がいるからそのような「無用な」危険に身を晒すことは厳に控えるべきだ、というのが、今の日本の社会での一般的、主流にある、男性の考え方であると思われるが、それは、果たしてどうなのか? 間違っているとは決していえないけれど、そういうものの考え方に陥穽はないのだろうか?という点。
そして、延いては、このような人死があるゆえに、専門誌はおそらく、マン島TTほか公道イベントのことを伝えないのであろうが、この現代日本でのこういった種の死に対するものの考え方、である。
 この二つは、結局のところ同じところにつながると思うが、もうちょっと考えてみることにする。

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3585 加藤大治郎_9 & 「モータースポーツと死生観 3」


加藤大治郎_9 (3585/7670)

Daijiro Kato
on NSR250
@Welkom,SouthAfrica
GP250,WGP 2000


モータースポーツと死生観 3

 一方、GPはどうであるか?
 ファンとしては、80年代からの、ライダーを中心にしたサーキットでの安全確保の取り組みを知っている。これは、マン島を走るライダーたちも同じだが、走りたいだけで、決して死にたいわけではないのだ。
 お陰で、ずいぶんと人死の少ない競技にはなったらしい。が、どこかで、「死」というものが思いもつかない競技である、という錯覚があるのか、どうか。GPがドルナの仕切りになってから、GPを他のスポーツコンテンツと同様に売り込む、というような経営政策に転換されたようだが、しかし、それが正しいのかどうか。
 ライダーを殺さないような取り組みは絶対に必要だけれど、安全な競技であるというラベルをはり、他のスポーツと同じ棚に陳列する。顧客に、サッカーを求めてきた客と同じように手にとってもらう、というやり方というのは、GPの魅力の一面を削いではいないだろうか? そのように感じるのだ。

 若いイケメンなツルりとした顔の男の子達による競技。今や、かのヴァレンティーノ・ロッシが、トップを走りうるライダーの中では一番のベテランで、同僚だった、戦闘力の一段落ちるマシンに乗るコリン・エドワーズは今シーズンで引退なんだそうだ。
 マルク・マルケスあたりの肘摺りは確かにすごいけれど、しかし、若い身体能力が優れていて、直接的な競技能力が優れているかどうか、だけが問題の、凡百で薄っぺらい競技になりさがってはいないだろうか?

 これは、下位クラスの方針を見ていると、尚のことよくわかる。人死に関わることではないけれど、Moto3、かつてのGP125クラスを完全に若いライダーたちの登竜門と割り切ってしまい、ベテラン達を締め出してしまった時があった。例えば、経済的理由で、或いは固まってしまったライディングスタイルなどの理由で、より排気量の大きなクラスには行かず何年も125ccクラスを走り、何度か優勝経験もあるというベテランライダーというのは、かつてはいた。そこで、言わば世代間闘争見たいものがあったのだけれど、それがなくなった。やがては若いやつの中でベテランを凌駕していくレーサーは確実に出てくる。一方ベテランはやがては負けるのが必然であるわけではあるのだが、そこを何とか走っていく。それが競技の深みとなってかもし出されていたはずなんだが、それが完全になくなった。

 死のことであったり、年齢のことであったり。それはいわば、闇の部分ではあるのかもしれないけれど、陰影を持たないものが魅力的に映るはずがない。モーターサイクルのレースのファンが、他のサッカーなどの競技ではなくコレを選んだ理由というのがこのあたりにあるのではないか、そういう可能性について考慮すべきではないか?

 しかし、これは、単に日本での取り扱われ方がそうなだけである、という可能性もある。

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3584 Guy Martin_8


3584 Guy Martin_8

Guy Martin
on SC59
The TT 2010


モータースポーツと死生観 2

 実際のところ、You Tubeを観ていても、マン島TTレースなどの公道イベントの扱いはというと、イロモノ、といっちゃ失礼だけれど、飛んだり跳ねたりのX-ゲームと同じようなもの、らしい。まぁ、関係者にしたら冗談じゃない、という話にはなるだろう。1907年以来のものであるから一世紀以上の歴史があるのだ。その辺の、思いつきで始めたやんちゃ小僧の遊戯とは違うのだと。
 昔はそれでもよかったのだろう。自転車に原動機がついた程度の乗り物でスピードもそんなに出てはいなかった。しかし、時代も進み、ちょっと洒落にならないスピードが出るようになって、しかし、コースは昔ながら、石壁を掠めていくような、セーフティーマージンがまるでない公道コース。言ってみれば、この辺の農家の裏口の前を通る1.5車線ぐらいの、辛うじて舗装はしてあるような、そんな道を時速300キロで走り抜けるのである。

 文字にすればするほど、それが如何に馬鹿げたことであるか、という風に思えてくる。ひょっとしたら、文字、言語、論理というのは、それ自体、死を回避するような作用を持っているのかもしれない。感情として、それを肯定したくても、言葉にすればするほど、そこから離れていくような。

 それはともかく、クローズドのサーキットのようなグランドスタンドもあってないに等しく、裏ストレートあたりを映すような巨大モニターも、ないことはないのだろうが、あまり意味がない。それよりも、観客は思い思いのポイントで、間近に猛スピードで走り去るマシンとライダーたちを見る。いや、見る間もなく、それらは走り去っていくのであるが、少々驚いているようにも見えるが一様に笑顔の観客達は何を思っているのか?

 観客は何を求めているのか?

 一旦起きたら洒落にならない惨事になってしまう、そして、そんな起きてしまった悲劇を、ちょっと離れた場所から一定の嗜虐性を持って眺めているわけでは、多分、ない。しかし、起こりうる悲劇は確実に前提になっている。勿論、起きる必要はないし、起きてほしいと望んでいるわけは決してないが、自分達は、今、そのような可能性をも持った者を観戦しているのだ、ということは、きっとある。

 走るレーサー達は、なぜ走るのか? レーサーではないオレがコレについていくばくとも語ることは無益なような気はするが、ただ、時として、友人や同僚、場合によっては肉親の死を目の当たりにしても、だからこそ走ろうとする。よりアクセルを開けて前に進もうとするのは、もって生まれた、といっていいレベルの意志であり、そのような悲しみや、死そのものへの恐怖を乗り越えてまで、それを手放さない。

観客は、そういうものに何かを感じ、何かを得たいのだと思っているのだと思う。

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某有名イラストレーター的な_3 (3583/7670)

3582 Bel Air 1957


Bel Air 1957 (3582/7670)