2014年7月20日日曜日

3585 加藤大治郎_9 & 「モータースポーツと死生観 3」


加藤大治郎_9 (3585/7670)

Daijiro Kato
on NSR250
@Welkom,SouthAfrica
GP250,WGP 2000


モータースポーツと死生観 3

 一方、GPはどうであるか?
 ファンとしては、80年代からの、ライダーを中心にしたサーキットでの安全確保の取り組みを知っている。これは、マン島を走るライダーたちも同じだが、走りたいだけで、決して死にたいわけではないのだ。
 お陰で、ずいぶんと人死の少ない競技にはなったらしい。が、どこかで、「死」というものが思いもつかない競技である、という錯覚があるのか、どうか。GPがドルナの仕切りになってから、GPを他のスポーツコンテンツと同様に売り込む、というような経営政策に転換されたようだが、しかし、それが正しいのかどうか。
 ライダーを殺さないような取り組みは絶対に必要だけれど、安全な競技であるというラベルをはり、他のスポーツと同じ棚に陳列する。顧客に、サッカーを求めてきた客と同じように手にとってもらう、というやり方というのは、GPの魅力の一面を削いではいないだろうか? そのように感じるのだ。

 若いイケメンなツルりとした顔の男の子達による競技。今や、かのヴァレンティーノ・ロッシが、トップを走りうるライダーの中では一番のベテランで、同僚だった、戦闘力の一段落ちるマシンに乗るコリン・エドワーズは今シーズンで引退なんだそうだ。
 マルク・マルケスあたりの肘摺りは確かにすごいけれど、しかし、若い身体能力が優れていて、直接的な競技能力が優れているかどうか、だけが問題の、凡百で薄っぺらい競技になりさがってはいないだろうか?

 これは、下位クラスの方針を見ていると、尚のことよくわかる。人死に関わることではないけれど、Moto3、かつてのGP125クラスを完全に若いライダーたちの登竜門と割り切ってしまい、ベテラン達を締め出してしまった時があった。例えば、経済的理由で、或いは固まってしまったライディングスタイルなどの理由で、より排気量の大きなクラスには行かず何年も125ccクラスを走り、何度か優勝経験もあるというベテランライダーというのは、かつてはいた。そこで、言わば世代間闘争見たいものがあったのだけれど、それがなくなった。やがては若いやつの中でベテランを凌駕していくレーサーは確実に出てくる。一方ベテランはやがては負けるのが必然であるわけではあるのだが、そこを何とか走っていく。それが競技の深みとなってかもし出されていたはずなんだが、それが完全になくなった。

 死のことであったり、年齢のことであったり。それはいわば、闇の部分ではあるのかもしれないけれど、陰影を持たないものが魅力的に映るはずがない。モーターサイクルのレースのファンが、他のサッカーなどの競技ではなくコレを選んだ理由というのがこのあたりにあるのではないか、そういう可能性について考慮すべきではないか?

 しかし、これは、単に日本での取り扱われ方がそうなだけである、という可能性もある。

(0018/7670)

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