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2022年5月1日日曜日

7479 研二クン仕様 3_retake & あ痛てて?

 

7479 研二クン仕様 3_retake


 ひとつ厄介なことが、人間って弱いものだから、アイデンティティとか自分の正しさとかの根拠を、権威、歴史伝統、その辺に求め、盲従したり、不勉強の上におかしな解釈が入り込んだりして、まぁ、なんていうか、とっ散らかって大変なことになる、というのがある。まぁ、それは実害がある場合とない場合があって、ない場合など、直接批判はできないけれど、それが時間、代を重ねるごとに、更におかしな具合に拗らせちゃったりして、もうひたすら「面倒」というしかないものになってしまう。

 ずっと、法華宗界隈の事書いてきたけど、日本の暴走族? 珍走団?だってそうだ。何よりもまず、やたら画数の多い感じを使った当て字とか、本家ロンドンのロカビリーからせいぜいキャロルクールスまでのリーゼントを真似たにしては、随分とビミョーなトサカ頭、チョッパー由来なのかプレスライダー由来なのかわからんが、それでちゃんと運転できるの? っていう感じの絞りハンドル、それ前見えないでしょう、という取り付けられ方した、ロケットカウルとか。まぁ、その辺はまだかわいいよ。
 拗らせがさらに進んで右翼団体何かに身を進めるが、決して歴史を勉強しなおすわけではない。都合のいいことだけちょこちょこ摘み上げて、自分は歴史の本流の上に立っている、なんてお手軽に思い、足りない自分の知識と知恵に反することを目にしては、それがそこにある必然に思いをはせるなんてことは当然せず、ここぞ、オレの生きる世界とばかりに攻撃する。
 あらゆる宗教のチカラの根源はここにある。神が仏が存在を肯定してくれるからそこに立っていられる。あとは、その思いの強弱。

 第一に、アイデンティティなんて横文字自体問題がないことはない。ところがそれに合う適当な日本語がどうも見当たらないので仕方ないが。そういうものを意識しなくても、引っ掛かりなく生きて生きていけるなら何となくやれてしまう今の社会、ということもあるのだろう。ただ、一旦、一歩でもそういうコースを外れてしまうと、とんでもない恐慌状態に陥ってしまう。
 何にすがるか、それについて個別に批判したりしなかったりは意味がないし、いかなるものでもそれぞれの意志は尊重されるべきだが、ただ、それはそういうものだと知っているのと知らないのでは大違いではないかと思う。

 どちらがいいのかって? そいつぁ言えないね。

2022年4月29日金曜日

7473 750RS-ZII_37 & ランボゥの名前なんて久々に思い出した件

 

7473 750RS-ZII_37


 Mr.Bike BGの2022年5月号に連載中の、東本昌平氏の「雨はこれから」の最後の方、
「思い出した 私はボードレールよりランボーになりたかったのだ」
とある。因みに、ランボーとは、フランスの詩人、ジャン・ニコル・アルチュール・ランボゥのことであって、シルベスタ・スタローンの銃器ドッカンドッカンのマッチョなアレではない、念のため。

 東本氏のボードレールの引用は覚えている。鈴木信太郎氏の訳による、岩波書店のものの引用であったはずで、これに思い立ち探してみるが、埋もれて見つからない。ま、いつもの事なんだがな。仕方がないので、ネットで見つけた明治38年の上田敏氏による該当箇所の翻訳を転載する。「アホウドリ=信天翁=アルバトロス」からの引用である。

 雲居の君のこのさまよ、世の歌人(うたびと)に似たらずや、
 暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌(しの)ぎ猟男(さつを)の弓をあざみしも、
 地(つち)の下界(げかい)にやらはれて、勢子(せこ)の叫に煩へば、
 太しき双(そう)の羽根さへも起居妨(たちゐさまた)ぐ足まとひ。

 「キリン」の中には、アホウドリではなく「かもめのジョナサン」からの引用もあったな。生きづらさと自由は紙一重、でも、決定的に違う。空と陸のようなものだ。で、悲壮そうに見えて、どこか何やらコミカル。喜びいっぱいという感じでもないが、まぁ、こんなもんだろうし、悲しんでてもしかたないべ? という、どこかほんのり突き抜けた感じ。

 東本氏の作品の他の個所で、あ、これランボゥの引用だ! と思った記憶はあるのだが、どこからだったかは覚えていない。

 ランボゥの引用と言えば、東本氏の作品でなく、原作オサム氏、脚色と作画が御厨さと美氏の「ケンタウロスの伝説」の中のこれだ。

 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が

 で、ついでに見つかったよ、東本氏が引用したところ。どこで使っていたかは忘れた。上の引用のすぐ前だった。

 ああ、時よ、来い
 陶酔の時よ、来い


 これも岩波文庫、小林秀雄訳による「地獄の季節」(ま、「イルミナシオン」も収められてるんだけど)。堀口大学氏には申し訳ないが、新潮文庫の「ランボー詩集」よりこちらの方が気分だ。

 山川健一氏、最近めっきり作品を見ないのは、多分、オレが読書をしないせいなんだろうけれど、氏も何かに書いてたな。青春の護符として、いつもポケットに入っていたと。オレの場合青春の護符というとコリン・ウィルソンの「The Outsider」なんだが、しかし、「地獄の季節」、大岡昇平編「中原中也詩集」は、ポケットにいつも入っているというわけではないにしろ、ボロボロになるまで読みつぶし、何度か買い替えている。

 マラルメもまぁ、読んだことはあるし、宮沢賢治も同様。でも、なんか、ピンとこなかった。かなり偏ってのかもしれない、いや、偏っていた。この辺の好み。ぶっちゃけ、今思うと漫画由来なのな(爆


 でも、一度だけというのを含めると、こうやってちゃんと出版社から出ているものから、街角(京都だったし結構いた)で書き手自身が手売りしている詩集まで、結構読んだ。詩集を開くときは、ロックのCDを買い込んできてスロットルに入れて再生ボタンを押すときと同じわくわく感があった。
 



2021年6月26日土曜日

6911 750RS-ZII_34

 

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6901 750RS-ZII_33

 

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