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2026年4月21日火曜日

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事

 


9117 AI-generated beauty with only Emma Watson's eyes
目だけエマ・ワトソン状態

エマ・ワトソン生成の周辺 4 生成される「エマ・ワトソン」の領域的な事


エマ・ワトソン系の顔と言うものがあって、〇〇系なんて言ってる時点で、既にエマ・ワトソンじゃないんだけど、「エマ・ワトソンを作った」と言う意味ではエマ・ワトソンと言えないこともないわけだ。そんな、同じ系統の顔、面長・眉やや太・目は小さめと、逆三角・目が大きめ、と、ややふっくら、今のところ多いものはこの3種が、今のところオレが把握しているところ。その範疇から出ると、急にエマ・ワトソンじゃなくなる

面長・眉やや太・目小さめとは「知的寄りクラスタ」ともいえ、骨格が縦に伸び、眉が印象を支配して、目は主張しすぎない、というところで、 一番“ハーマイオニー後期〜大人像”に寄るゾーンのイメージだ。

逆三角・目が大きめというと、「アイドル寄りクラスタ」といえようか。顎がシャープで、目で印象を作り、全体が軽い。 AIが“可愛い寄り”に引っ張るとこうなる感じ。

ややふっくらで「ナチュラル寄りクラスタ」は、頬にボリュームがあり、柔らかい輪郭で、陰影が浅い。 AIの“平均化”が強く出たときの落としどころだ。

なぜこの3つに収束するのかというと、AIは顔を作るときに、骨格(縦横比)、パーツの強弱(目・眉)、肉付き(頬・顎)、の3軸でバランス取るが、そのバランスが破綻しない“安全地帯”がこの3つ、ということらしい。
ここが重要なポイントで、この範囲を超えると急にエマ・ワトソンじゃなくなる。「エマ・ワトソンっぽさ=許容されるズレの範囲」であって、目を大きくしすぎたり、顎を削りすぎたり、頬を落としすぎたりと、どれかが閾値を超えると別クラスタ(別人)に飛んでしまう。

AIは、本人に近づきすぎると規制でズラすが、“エマ方向のベクトル”は残ってしまうわけだ。結果として、本人の周囲に“似て非なる群”がリング状に形成される、という構造になっている。

数学的に言うと、「本人=禁止領域」「その周囲=許容される確率分布」という状態ということらしいのだが、この“リング構造”が、エマ・ワトソン系の顔が3クラスタに分裂する理由の根本にある。もっとも、この「禁止領域の周囲にリングができる」現象は、実は敵対的生成ネットワーク(GAN)時代から観察されていた「モード崩壊」の変形版に近いらしい。中心を避けた結果、周辺のいくつかの安定点にサンプルが集まる、という構造は偶然ではなく、生成モデルの根本的な性質から来ているのだという。ということは「3クラスタ」というのは、エマ・ワトソン固有の話ではなく、「禁止領域を持つ任意の有名人」なら同様の分裂が起きうることだ。
AIは“破綻しない顔の局所最適解”を複数持っている。つまり、知的寄り、アイドル寄り、ナチュラル寄りは、AIが「顔の潜在空間」で安定して生成できる3つの谷(ローカルマキシマム)」  
だと言える。
中心点(本人に近い顔)は制限で避けられるが、周辺の“リング状の領域”にサンプルが出ると似てるけど本人じゃない顔が量産されるわけだ。
言ってみれば、「似顔絵の許容誤差マップ」のようなもので、手描きで言うと、ここはズレてもOK、だけどここはズレるとアウトという感覚を、AIが統計的にやってる。

合わせられる体形が製作者の欲望、願望、妄想が丸わかりで、こっちがちょっと気恥しくなるときがある。
顔は平均化・安全化されてるのに対して、体型は制約がゆるく、好みが出やすいので、不自然に細いウエスト、強調された胸やヒップ、現実より誇張された脚の長さ、のような、「誰が作ったかの癖」がモロに出る。

エマ・ワトソンっぽい顔というのは、知的、上品、比較的リアル寄りなのだが、そこに、極端な“理想化ボディ”が乗ると、当然ながらずれが生じる。
人間の違和感センサーが反応するポイントよいうと、特に引っかかるのは、顔と体の年齢感が違う、骨格の整合性が取れてない、重力や筋肉の付き方が不自然、というあたりになるが、モロ見えだと「うわ…」となる。

言い換える。顔は公共的な美であり、体=個人的な欲望であるとする。この二つが、言ってみれば分離して出てる状態だ。

なぜ気恥ずかしくなるのか?
多分ここが核心で、これを作った人の頭の中が見えるからだ。無意識の好み、理想像、誇張の方向、がダイレクトに出てしまう。手描きの似顔絵なら、顔をあれだけ似せようと苦労するなら、その熱量は自ずと体や背景の整合性にも向かう。しかしAIは、顔は「借り物(統計)」で解決し、体は「願望(プロンプト)」で盛る。この描画密度のムラが、見る側に「作者の歪んだ執着」を透かして見せてしまうのではないか? 尤も、手描きの場合でも、顔だけ異様に丁寧で体はラフ、という絵は存在していて、それもやはり同じ「透けて見える感」を生む。つまりこれはAI固有の問題ではなく、「労力の分配が欲望の地図になる」という、表現一般に関わる話でもある。AIはそれを極端に、かつ大量に可視化しているということだ。手描きには多少の衒い躊躇いが出てしまう事はよくあるが、AIには遠慮はなく、もう、丸出し、と言う感じ。

回避するとしたら、もし“自然寄り”にしたいなら、体型を具体的に指定しすぎないとか、「現実的な骨格」「自然なプロポーション」など入れたりとか、ファッション寄りに寄せるとかすれば、だいぶ落ち着くかもしれない。

2026年4月17日金曜日

吉岡里帆と「Q」の記憶

 


9112 吉岡里帆 _31

吉岡氏について、前回私はこう書いた。
>>
個人的な印象だが、有村氏は王道の恋愛ドラマを軸足に置くことが多い気がする。言ってみれば、王道の“国民的ヒロイン”路線。だからこそ、ご本人が役を掴みかねていたという『ちひろさん』のような異色の役どころが、オレは好きだ。のん氏は決してコメディエンヌではないが、『幸せカナコの殺し屋生活』などジャンルに縛られない軽やかさが面白い。独自の表現領域を切り開いた“孤高の存在”であることが、ある種の凄みになり得る。 対して吉岡氏。彼女は、心の奥底にあるドロドロとした情念を滲ませる役がよく似合う。“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てるタイプの女優になってきた。『ハケンアニメ!』のラスト、ベランダで見せたあの表情は、今も強く印象に残っている。 
(中略)
 三人のなかで今、最も「ヒリヒリするような芝居」を見せてくれるのは、そんな情念と繊細さを併せ持つ“内圧型の女優”である吉岡氏なのかもしれない。
>>

この「情念を滲ませる」「“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てる」「ヒリヒリするような芝居」といった彼女の特質は、一体どこから来るのだろう。そう考えた時、ふと思い出した。彼女がメジャーデビュー前、京都の小劇場で初舞台を踏んでいたというエピソードを。

彼女は特定の劇団に属さず、当時の京都学生演劇の熱量の中に身を投じていたようだが、その原点となったのは**同志社大学の「演劇集団Q」によるプロデュース公演、演目は唐十郎の『吸血姫』**だった。

「Q」か。そして「唐」か。 

事実に触れた瞬間、思わず天井を仰いでしまった。

吉岡氏の初舞台は2012年。そこから遡ること二十数年、オレもまた同じ場所にいた。 当時、ちらっと付き合っていた演劇女がいた。観に行ったのは、同じく唐十郎の**『ジャガーの眼』**。彼女はすでに、六代目三遊亭円楽師匠と若き日の瀬古俊彦氏を足して二で割ったような顔立ちの先輩(この二人、円楽師匠が自らネタにするほど似ていたが、つまりそれ系の顔)と付き合っていたが、オレは未練がましく、彼女が主演を務めるその舞台を観に行ったのだ。振られた後も、彼女の影響で一人、学生演劇の迷宮を彷徨うように通った時期がある。


『吸血姫』と『ジャガーの眼』。どちらも唐十郎という巨星の、そしてアングラ演劇の真骨頂とも言える傑作だ。

『吸血姫』は、精神病院の地下で老婆が美少女に自らの血と記憶を継承させようとする、残酷で幻想的な物語。戦後日本の闇や肉体の変容を、圧倒的な詩的言語で描き出す。ラスト、少女が「吸血姫」として覚醒していく様は、演じる者の剥き出しの生命力を試す。
 一方の『ジャガーの眼』は、亡き主人の眼球を巡るスペクタクル。盲目の少女・サラが、絶望的な闇の中で純粋な生を叫ぶ。どちらも、観る者を「ここではないどこか」へ引きずり込む、狂気と美しさが同居する世界だ。

「演劇集団Q」と唐作品の組み合わせには、伝統的な強度があった。 Qに限らず、同志社小劇場や第三劇場といった当時の京都の拠点は、かつての「テント芝居」の熱量を正しく継承していた。肉体を酷使し、精神を削り、単なる「お芝居」を超えた情念を叩きつける演出。それが「Q」という劇団の矜持だったはずだ。


里帆ちゃんもまた、新町別館小ホールのあの舞台に立っていたのか。 二十年以上の時を経て、あの場所の熱気は変わっていなかったのだろうか。コンクリートの床に敷かれた茣蓙(ござ)の上に座り、手の届きそうな距離で演じられる情念に没入する。異様に火照りながら、体の芯は冷えていくような、あの奇妙な感覚。
「特権的肉体」の行使。二十数年前の彼女と同じように、吉岡氏もあの場所で同じ熱量を体現していたのだろうか。

そんなことを考えていると、吉岡氏の芝居が、同世代、同じ関西出身の女優の中でも、「暗い水脈”を掘り当てる」芝居になるのも納得だ。芝居の質は、小劇場と、映画やドラマとでは随分と違うが、特権的肉体の裏にある、それを押し出してくる、情念と言えばいいのだろうか、ある種の熱は、小劇場ならではのものではないかと思ってしまうのだ。そんな熱をひそやかにドラマや映画に持ち込んだら? まぁ、観ていただけの門外漢だから良くはわからないのだが。


その後、いくつか他劇団の舞台も観たが、やがて足は遠のき、オレにとっての小劇場はそれきりとなった。


今月、Qは発足約50年で活動を終了したという。Instagramのお知らせを見て、沈黙。桜が散り始めた夜に、ふとあの小さなホールの匂いが蘇る。かつての劇場の熱気と、ゴムまりのジャガーの眼、その他諸々が渦を巻く。 ……これ以上、何かを語るべきか、語らざるべきか。


2026年4月15日水曜日

キョンキョンという人

 

9104 小泉今日子

facebookで「知り合いかも」で出て来て、気まぐれで友達申請したら、受けてもらえてしまった。知り合いでもなんでもないんだが。何となく面白かったので、記念に。

小泉今日子氏は、学年で一個上、誕生日は2か月差。ほぼタメといっていい。
若い頃は、それほど好みでもなくスルーしていた。ところが今になって、むしろ「良い」と感じている。
あの頃の彼女は、「花の82年組」という完璧なアイドル像にパッケージングされていて、眩しすぎたのかもしれない。同世代として一緒に年齢を重ねてきた今だからこそ、彼女の放つ自然体な格好よさがリアルに響いてくる。
転機として印象的なのは、小林聡美氏との共演が増えてきた時期だ。『やっぱり猫が好き』のゲスト出演や、映画『マザーウォーター』のあたりから、彼女の中にあった「アイドルの記号性」がスッと抜けて、独特の「生活の匂いがするのに、どこか浮世離れした自由さ」が際立ってきた気がする。
小林聡美氏、もたいまさこ氏、そして市川実日子氏。あの面々と並んだときに生まれる空気感は特別だ。ベタベタした友情ではなく、「個」が確立した大人同士の程よい距離感。特別な事件が起きるわけでもなく、ただお茶を飲んだり料理を食べたりする場面でも、あの自然な佇まいは、表現者としての確固たる自信がないと成立しない。
……と言いたいところだが、実際にはドラマの中でパンチの効いた「事件」がひとつあった。横領して逃亡中の女を演じた作品で、市川実日子氏がアパートの住人として「察しているけれど、ズケズケ踏み込まない」絶妙な距離感で絡んでくるあの話だ。普通なら逃走サスペンスになりそうな設定を、あの面々が演じると「それもまた人生の一風景」に見えてしまうのが不思議で、じわじわくる可笑しみがあった。かつての「清純派アイドル」だったら絶対に許されなかったような役どころを、「まあ、そういうこともあるよね」と思わせる説得力で演じてしまう。
今の彼女が魅力的なのは、無理に若作りをするのでなく、今の自分を面白がっているような余裕があるからだ。「若く見られたい」という執着から解放された、潔い美しさ。自身の会社「株式会社明後日」を立ち上げ、舞台制作や執筆活動など裏方としてもクリエイティブな才能を発揮している。かつて「なんてったってアイドル」と歌った彼女が、今は「なんてったって一人の人間」として自由に生きている。その軽やかさが、同じ時代をサバイブしてきた者にとって、一種の希望のように見える。
思えば、この「忖度のなさ」は最初からそうだった。
1985〜86年当時のラジオ番組で、ゲストの吉川晃司氏がたじたじになっていたのを覚えている。あの頃の吉川氏といえば、肩パッドのスーツで逆立ちしたりプールに飛び込んだり、尖りに尖っていた「若き雄」だった。そんな彼をたじたじにさせる、二十歳前後の女の子。当時のアイドル界では異次元の存在感だ。相手が誰であれ、「私はこうおもう」という軸がブレない。彼女に圧倒されたのは、ルックスではなく、その「見透かされているような視線」と「自由さ」だったのではないだろうか。
今、彼女が政治や社会について発言すると「変わってしまった」と嘆く層がいる。でも実際は、最初からそうだったのだ。アイドルというシステムの中にいながら、そのシステムを客観的に面白がっているような、冷めた知性を当時から持っていた。
そういう人に限って、「左翼だから」とひとことラベルを貼って批判する。かつての大ファンだったりするから余計に始末が悪い。複雑な問題や彼女の真意を理解しようとせず、「サヨク」と言っておけば勝った気になれるという、思考の怠慢が透けて見える。彼女をいまだに「自分たちの都合の良い思い出のパッケージ」の中に閉じ込めておきたい。その変化を「成長」と捉えられず、レッテルを貼ることでしか自分の世界観を守れない。一言で言えば、頭わるそ〜、である。
同じ時代を生き、ほぼタメで、同じ空気を吸ってきたはずなのに、片や自分の言葉で今の時代を語り、片や昔の価値観で他人を裁こうとする。この「精神の鮮度」の差が、そのままカッコよさとダサさに直結している。
「吉川晃司をたじたじにさせたラジオ」から「横領逃亡女を軽やかに演じる今」まで、一本の線で繋がっている。若い頃の「鋭さ」をリアルタイムで知っているからこそ、今の成熟がより深く味わい深く感じられる。これぞ、同世代の醍醐味というものだろう。


9110 吉岡里帆 as 慶

 

「豊臣兄弟」慶役の吉岡里帆
9110 吉岡里帆 as 慶

吉岡里帆氏が1993年1月生まれ、京都・太秦出身。有村架純氏が同年2月生まれ、兵庫・伊丹出身。のん(能年玲奈)氏が同年7月、兵庫・神河町出身。
のん氏のみ学年が一つ下だが、三者とも「1993年生まれの関西出身」という共通項で括られる。

三者三様ゆえイメージは被らないが、全員が主役級となった今、共演のハードルはむしろ高い。かつて『あまちゃん』でのん氏と有村氏は共にクレジットされたが、同じフレームに収まったことは一度もない。
有村氏とのん氏は朝ドラ主演を経験し、吉岡氏は助演で光った。大河ドラマでは吉岡・有村両氏が主役の相手役を務めた一方、のん氏にはまだ大河の経験がない。
同郷・同世代、互いを意識しないはずがない。……知らんけど。ただ、この三人のうち誰か二人の「バディもの」や、あるいは「トリオもの」を一度でいいから観てみたい、と願ってしまう。

今回の吉岡氏。相手役が仲野太賀氏となれば、映画『泣く子はいねぇが』での、あの険悪な若夫婦ぶりを思い出す。今回も今のところ、どこか面倒くさそうな関係性だ。史実を鑑みれば、このままの温度感では終わらないはずだが。

個人的な印象だが、有村氏は王道の恋愛ドラマを軸足に置くことが多い気がする。言ってみれば、王道の“国民的ヒロイン”路線。だからこそ、ご本人が役を掴みかねていたという『ちひろさん』のような異色の役どころが、オレは好きだ。のん氏は決してコメディエンヌではないが、『幸せカナコの殺し屋生活』などジャンルに縛られない軽やかさが面白い。独自の表現領域を切り開いた“孤高の存在”であることが、ある種の凄みになり得る。
対して吉岡氏。彼女は、心の奥底にあるドロドロとした情念を滲ませる役がよく似合う。“役の奥にある暗い水脈”を掘り当てるタイプの女優になってきた。『ハケンアニメ!』のラスト、ベランダで見せたあの表情は、今も強く印象に残っている。

上で書いたが、キャラが被らないどころか、この三者を主役に据えると、作品全体の方向性が定まらないという危険がある。なるほど、だから共演がない理由、この辺にもあるのかもしれない。

三人のなかで今、最も「ヒリヒリするような芝居」を見せてくれるのは、そんな情念と繊細さを併せ持つ“内圧型の女優”である吉岡氏なのかもしれない。……いや、これもまた私の勝手な推測に過ぎないが。
どうか最後まで、恙なく演じ切られますように。

2026年4月12日日曜日

9102 AI-generated beauty who couldn't quite become Emma Watson

 





エマ・ワトソン生成の周辺 3 写実から印象へ


 しかし、まぁ、目とか眉とか花とか口とか、一個一個のパーツはエマ・ワトソンなのに、微妙にすでにエマ・ワトソンじゃなかったりしている画像もそろそろ多く見るようになってきた。なぜ「パーツは同じなのに別人になる」のか
 ひとつには、AIは“平均化マシン”であるという側面がある。AIは学習した顔を、そのままコピーするんじゃなくて、分解して再合成するので、目、鼻、口それぞれ、それっぽい平均同士で組み合わせる。すると、「全部それっぽいのに本人ではない」ことになってしまう。

  “一致しすぎ”を避ける挙動もある。最近のモデルは、特定人物に近づきすぎると判断すると、わざとズラすので、目は近い、口も近い、でも配置や比率が少し違う、みたいな状態になる。

 一致しすぎを避ける挙動は、今のモデルではほぼ確実に入っている。これは技術的にも倫理的にも重要で、最近の大手モデルは、特定人物の特徴量が閾値を超えると、 自動的に“似度を下げる方向”へノイズを加えるという処理をしている。だから、それぞれのパーツの配置、秘湯ひとつは似ているのに、配置をずらしてしまう。“意図的な破調”が起きる、ということだ。これは人間が描く似顔絵とは真逆で、人間は「配置こそ命」だが、AIは「配置こそズラす」。

  顔は“配置”が本体である。人間が顔を認識するときというのは、パーツ単体より配置(距離・比率)を見ている。だから、目の位置が1mm違うとか、鼻と口の距離が微妙に違うだけで、完全に別人に見えてしまう。

  “エマ・ワトソン風クラスタ”ができている。更には、AIの中に「エマ・ワトソンっぽい顔の集合」みたいなのができてる状態で、本人ではないが、分布の中にいる顔が量産される。
 「本人」ではなく、「その人に似た確率分布」からサンプリングしているような状態だ。

 いわば、「エマ・ワトソン」という名の「イデア」化である。今のAI空間における彼女は、もはや実在の俳優というより、プラトンの言う「イデア(理想形)」に近い存在に変質しているのかもしれぬ。実在の彼女から離れ、AIが導き出した「知的な西洋美人の最大公約数」という**スタイル(様式)**として独立してしまっている。
 参照の連鎖、則ち、AIが生成した「エマ風」画像を、次のAIが学習する。このループによって、オリジナルからは遠ざかるものの、「AI界における正解の顔」としての強固なスタンダードが構築されていく。これはまさに「シミュラクル(元型のない写し)」の世界だ。

 ある意味、哲学的状況とでも言おうか。元の本人とAIが作る“似て非なる群”が分離し始めてる状態だ。言い方を変えると、「実在の人物が“顔のスタイル”として抽象化された」、と。

 このような現象は、今後もっと増えていって、「誰かに似てるけど誰でもない顔」が一つのジャンルになっていくかもしれぬ。
 実際、「東欧出身のモデル」という触れ込みの、何となく誰かに似たすこぶる美女という画像、何人か、というべきか、何組かというべきか、一昨年後半くらいからちらほら見かけるようになっている。SNSのアカウントと彼女達のポートレートを売るサイト以外で見かけないのだが。つまり、実在を偽って、と言う事だったが、もう、最近では最初からAI生成の架空美女と最初からオープンにしているパターンの方が多いようだ。


 リアルな似顔絵を手書きで描いてた経験がある身としては、毛一本分のずれ、陰影の領域のミリ単位のずれで、全然別物になることを知っているので、まぁ、これはこれで面白い。
 これらの画像群を、AIが描いた美人として考えるならそれはそれで面白いので可としていいのではないかと思っている。

 人間とAIでは、やってることは似てるが違う。毛一本分、陰影のミリ単位のズレで別人になるということは、人間は「ここを外すと似なくなる」という“危険ポイント”を意識して描いてる。一方AIは「全体としてそれっぽい分布に収める」ことを旨としている。
 人間はピンポイントで一致を狙うが、AIは全体のバランスで“似てる範囲”に入れてくる。
 AIは例えば、目の幅や鼻の高さ、口の形はそれぞれOKでも、「それらの相対関係の精度」が甘い。人間だとここが一番重要なのに、AIはここを“統計的にそれっぽい位置”に置く。
 パーツの正解、関係の不正解がおきているわけだ。AIは個々のパーツ(テクスチャや形状)を再現するのは得意だが、それらを繋ぐ「空間的な緊張感(ミリ単位の距離感)」の重要性を、人間のような「美意識」としては理解していない。
 統計的な「緩み」もある。AIにとっての正解は「点」ではなく「面(確率分布)」なので、配置にどうしても「統計的な甘さ=緩み」が出てしまう。その緩みが、破綻はないけれど記憶に残らない、あの特有の「ツルリとした無個性」を生んでいるのだろう。
  人間の顔の記憶は、実は「整っている部分」よりも「平均から外れたノイズ(左右非対称、独特のシワ、パーツの癖)」に強く依存している。AI美人はそのノイズを徹底的に排除して「平均」に寄せてしまうため、脳が「これは情報(個体)ではなく、背景(パターン)である」と処理してしまい、記憶のフォルダに残らない。

 結果として生まれてるのが、「特定個人ではないが、非常に整った顔」。いわば、似顔絵でもない、写真でもない、完全なオリジナルでもない。
  “AI美人”というジャンルは、もう一つのジャンルとして成立している、と言うことにしておこう。特徴としては、破綻が少ない、平均的に整っている、でも記憶に残りにくい(個性が薄い、っていうかリアルで合わないと、おじさん、記憶が定着しないのよ)。
 これら「似せるべきズレを外してる」が「でも破綻はしてない」。だから、「惜しい」ではなく、「別ジャンルとして成立してる」。

 逆にこの様にもいえる。「ツルリとした無個性」という言葉が出てきたが、これは実は江戸時代の美人画にも似た問題がある。鈴木春信や喜多川歌麿の美人は、個人の肖像ではなく「美のジャンル」であって、誰が誰だか顔では区別がつかない。AIが今やっていることは、ある意味、浮世絵の美人画が辿った道の現代版かもしれない。

 かつて写真が登場したときに絵画が「写実」から「印象」へと役割を変えたように、AIが「平均的な美」を独占したことで、人間は**「あえて平均を外す、一回性のズレ」**に価値を見出すフェーズに入ったのかもしれぬ。
 「パーツは本人、配置は別人」というこの奇妙な過渡期を、面白がりながら描き、綴っていく、というのが、今のところのオレの作業仮説になっている。

2026年3月24日火曜日

9080 吉岡里帆 _28

9080 吉岡里帆 _28

  吉岡里帆氏、推しです。と言っても、こうして絵を描く以外何もしないし、彼女が出演しているドラマ、映画、結構見逃しがある。あと、絵を描くのは、御存じのとおり彼女をだけではない。

  今月末から大河ドラマ、仲野大河氏演じる豊臣秀長の正室役なんだそうで。仲野氏と夫婦役はこれで2作目。最初の「泣く子はいねが」はちょっと居た堪れない映画だったな。若さゆえうまくいかなかった夫婦の話。今度は添い遂げるんだろうが、なんか、相当癖の強い女性役なんだそうで。楽しみ。

 

2026年3月20日金曜日

9079 AI-generated beauty with Emma Watson's face pasted onto it _6

 

9079 AI-generated beauty with Emma Watson's face pasted onto it _6

  まぁね、多分、ワトソン氏ご本人ではないはずだ。撮影でこのような装束をご本人が承認するとは思われず。これから売り出していく必要があれば、こういうコスチュームで目を引く必要もあるのだろうが、言うまでもなく氏には必要がない。

  ファンの妄想である。こういう氏を見てみたいという妄想をかなえてくれるのだからすごい時代だ。氏は著名人であるから事情はひょっとしたら違うかもしれないが、これが一般人を対象にしてしまうと、社会問題になっている。著名人が違うところは、肖像権が絡んだ問題になる。治安上の問題を多く含んだものが、権利上の問題になるわけだ。
  とはいえ、その昔、日本であれば「平凡」とか「明星」とかの有名人芸能人雑誌、それの読者投稿欄の似顔絵の如きものという考え方もできないではない。問題はそこで作成者が何らかの収益を得ているかどうか、と言うことになる。

  さて、どうなんかね?

  これのもとになったもの。例によりエマ・ワトソン氏といわれればそうだし、微妙に違うと言えばそれもそう。AIに言わせたら、案外名前を出さずに平均的美女の顔を生成するとこうなる可能性は高いのだそうだ。