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2025年7月1日火曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 2 なぜ富に執着するか?

 

 もう充分だろうに、まだ金をもうけようとするか? 財産自体分け与えないまでも、金の種、というか、その手段は移譲してもいいのではないかと思うのだが、そんな感じでもない。なぜか?

 必要以上の富を保ちたがる心理は、自己防衛・競争・誇示・不信・権力など、いろんな人間の側面が絡んでいるようだ

 富の不均衡をどう捉えるかについては、政治哲学の分野で古くから深く議論されてきている。代表的な立場をいくつか挙げてみる。

1.ジョン・ロールズ(John Rawls)は20世紀の政治哲学者で、著書『正義論』(1971)で、ざっくり言うと「人は、自分が生まれる環境(貧富、能力、性別など)を知らない状態則ち「無知のヴェール」の下で社会契約を結ぶべきである。そうすれば、自分がどの立場に生まれても最悪にならないように、公平な制度を選ぶはずだ」という考えを述べている。
 そのための2つ、原理として、1.自由の平等、つまり基本的自由(言論、信教など)はすべての人に平等に。2.格差原理(difference principle)則ち経済的な不平等はあってもよいが、それが最も不遇な人の利益になる場合に限る。
 まとめると、「格差はあってもいいが、貧者のためになっていなければ正義ではない」とする考えらしい。

2.ロバート・ノージック(Robert Nozick)はロールズに真っ向から反論した。著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)では、 自由に基づく所有権の正当性を主張した。内容は
富の分配が正義かどうかは、結果ではなく「どう得たか」によって決まる。

 自由な取引や正当な手段で得た財産であれば、たとえ極端な格差があっても再分配するべきではない。
 再分配は、実質的に人から「人生の一部を取り上げること」(=強制労働の一種)になりかねない。

 ノージックは国家は治安と契約の履行だけを担うべきとし、「再分配は不当な干渉」と考えました。つまりは厳格な「小さな政府」志向だったようだ。

3.カール・マルクスは、資本主義の構造そのものが不正義だと見ていた。まぁ、御存じの通り。

 資本家は「剰余価値」を搾取しているとし、労働者が生み出した価値のうち、必要以上の部分(剰余価値)を資本家が取り上げ、富を蓄積していく構造を批判したが、しかしマルクスさん、今や余剰どころでは済んでませんぜ。
 富の不平等は、個人の努力ではなく生産手段(資本)の独占から生まれているという主張だ。

 マルクス主義、つまり共産主義は、制度や構造自体を問い直し、「分配」ではなく「所有と支配そのもの」を変えるべきだという立場なのもご存知の通り。

4.ジェレミー・ベンサムジョン・スチュワート・ミルあたりの功利主義は最大多数の最大幸福を掲げる。不平等の是非は、「社会全体の幸福がどうなるか」で判断される。よって超富裕層に富が集中することで社会全体の幸福が減るのであれば、再分配は正当化されうる。
 しかし、これには、「全体の幸福のためなら個人の自由が犠牲になってもいいのか?」という問題もはらんでいる。

 同じ「富の不均衡」を見ても、公正に格差を許容すべき(ロールズ)とするか、自由な取引が最優先(ノージック)とするか、格差そのものが構造的搾取(マルクス)とするのか、社会全体の幸福が第一(功利主義)にするのか、「正義」や「自由」の定義によって答えが大きく変わる。

 では、なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか? これもいくつか考えてみた。羅列してみる。

1.富こそが存在証明であるという思想がある。

 スピノザ的観点として、欲望は自然の力、人間は「自己保存の本能(コナトゥス)」によって生きているというのがあった。この本能は、生きるためのあらゆる手段を拡張しようとするもので、富を持つことが則ち自分の力(影響力・自由・生存可能性)の拡大と捉えれば、富を求め続けるのは「生きる力の自然な表れ」ということになる。
 更に言えば、満ち足りることがゴールではなく、“拡張し続けること”自体が生の衝動なのだ。

2.エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で富とは恐怖への防壁であるとした。

 この『自由からの逃走』という本、大学に入ってからの政治学概論だったかの教科書だったんだよねぇ。脇教授の。結構気に入って、何度か繰り返して読んだ。気がついたらなくなってたので、新しいの買って持ってる。

 フロムは、現代人が自由になった代わりに、孤独や不安に直面していることを分析した。この際、富は、そうした「自分の存在が脆い」という感覚に対しての安全保障・支配力の象徴になる。
 富を蓄えることというのは「死」「無価値感」「失敗」といった根源的な恐れから目を背ける手段になっている、と考えたわけだ。
3. 比較の中でしか自分を見られない病があるんじゃないか?

 例えば、ジャンジャック・ルソーは、人間には「自己愛(amour de soi)」、則ち自然な自己保存の感情、と「比較愛(amour-propre)」、則ち他人との比較によって自分を評価する感情があると説いた。
 富裕層の「さらなる富」への執着は、他者に対して自分が“上”であることを確認するための欲望に近い。それは、富が「道具」ではなく「優位性の証明」になってしまっている状態だ。

4.富が自己と一体化している。って、此処まで書くとちょっと哀れになってくるのだが、マルティン・ハイデガーは、人間はつねに「他者の目」によって自己を規定されがちで、それを「世人(ダス・マン)」と呼んだ。 超富裕層の一部は、富を持つことで「自分とは何か」が決まってしまっている状態、富を持つことが自分、富が自分、となってしまってる、というようなことだ。
 富を失うことは、ただの損失ではなく、“自己の死”に近い体験になる。


 こういうフェイズでの富というのは何かに代替できなものだろうか?理屈で言えば、愛、信頼、創造性、美、宗教的体験、自然との一体感などは、富以上の充足を与え得ると言われているし、仏教では、むしろ欲望を手放すこと(涅槃)こそが究極の自由とされている。

 わかったようなわからんような。

 何しろ、現代社会はそれらの価値よりも「測定可能なもの(富・フォロワー数・肩書き)」を評価するため、人は代替価値を持ちにくくなってしまっている。社会構造と人間の不安が、それを許さない。

 仏教なんて言葉出たついでに、「なぜ富裕層はすでに莫大な富を持っているのに、それでもなお富を追い続けるのか?」という人間の心理や存在の在り方に関わる哲学的な問いに対する、欲望、アイデンティティ、恐れについての、宗教的な視点(キリスト教、仏教、スーフィズムなど)からの解釈も整理しておこうか。

 キリスト教は、富への執着を、欲望の無限性と神なき充足、としている。
 キリスト教的視点では、過剰な富の追求はしばしば「偶像崇拝」として描かれる。これは「神を信じて委ねる」ことの代わりに、「富に安心を求める」ことなのだ。
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
 つまり、富の集積は“救い”や“安心”を求める行為だが、それは神以外のものに神性を与えてしまう罪であるとされている。
 原罪という言葉はよく聞くが、つまりは「底なしの欲望」のこと。
 人間は本質的に「欠けた存在」としてあり、「完全な満たし」を外に求め続ける。これが欲望(desire)の無限性につながる。
 富は「今度こそ満たされるかも」と思わせるが、結局はさらなる欠乏を生む。あるある。
 富を手放せないのは、「神が自分を見捨てるかもしれない」「明日、必要なものが得られないかもしれない」という 根源的な不安 があるからなんだそうだ。キリスト教では「信じて任せる(faith)」ことによって、この不安から解放されると説いているのだがね。
 神への絶対的信頼を求めてくるわけだが、それは、たとえ教会に腐敗があっても、となると話は別で、古代、中世まではそれでもよかったのかもしれないが、近世、近代になると、そうも言っていられなくなる。これがニーチェの「神は死んだ」になるのだろうが、文明と、そして貨幣経済、資本主義経済と信仰、どちらが先の話なのか、オレにはちょっとわからない。が、それなりに、総なってしまった必然もあったのかもしれない。

 仏教は欲望の構造そのものを問う。「なぜ富を追うのか?」という問いはそもそも欲望の発生メカニズムそのものに直結している。

 仏教で人間の苦しみの根本とされる「三毒」の一つが貪(とん)、つまり「むさぼり」を指し、貪欲は「あるもの」に満足せず、「ないもの」に心を奪われ続ける状態をさす。一度手に入れても、それが「常にある」ことへの執着が生まれ、不安になり、もっと欲するというわけだ。
 が、富があっても、それが自分自身を永続的に守るものではないことに気づくと、執着の力は弱まる。
 すべては移ろい(無常)であり、自我や所有という観念も、実は「空(くう)」だと理解することが解脱につながるとしている。
 一方、富への欲望は「無明」(無知)から来る。仏教では、執着の根にあるのは「ものごとの本質が見えていない状態」であり、富に救いを求めることそのものが、「苦しみを増やす行為」だと説く。

 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、「本当の富」とは物質ではなく、神(アッラー)との合一・帰依にあるとされているそうな。なんか人類補完計画を思い出すな。

 この世の富は仮象であり、神の創造の一部ではあるが、人を真の愛から逸らすものでもあるとする。富に執着することは、魂の純粋な欲望を低次の欲望にすり替える行為なんだそうだ。

 スーフィー詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーは「人は神を求めるが、それは神がまず人を愛したからだ」と言っている。人が富や名誉を求めるのは、本当は「永遠に愛されたい」という願いの歪んだ表現なのだとのことだ。

 スーフィズムの目標は「自己を神に明け渡し、溶ける(ファナー)」ことであり、富を追う者は、まだ「自我」の檻の中にいることなのだ、とのことだ。

 以上の事は、そこまでお金に執着しなくてもいいんじゃない? と、特に使いきれないお金持ちに対して、よく言いたくなる時に、では、どういうこころもちでいればいいのか?ということに対する仮説を並べたものであるが、烏滸がましいのは承知の上。
 彼らがこのような言葉にこれまで出会えていなかったということも大いにありうるのだろうが、いずれにしろ、遠ざけるような社会であることは間違いなく、そこを問題にするべきなんだろう。

 現代の思想家はどうか?
 ここでは、マイケル・サンデルアマルティア・センをあげておく。それぞれ「経済」、「社会」、「正義」や「自由」という言葉をめぐって異なるアプローチをとっているが、どちらも「リベラルな個人主義」だけに頼らない、人間の在り方を考えようとしているようにみえる。

マイケル・サンデル

 代表作が、『これからの「正義」の話をしよう』『リベラリズムと正義の限界』書店とかで表紙見たことない? あ、書店いってない?そうですか・・・。
 サンデルは、「正義=中立な原則に基づくもの」と考えるリベラリズム(ロールズなど)に批判的だ。ロールズは:正義とは、「無知のヴェール」の下で、誰もが同意できる原則(例:平等、公正)に基づくべきものとしている。が、サンデルは「人間は“空っぽの自己”ではない」とその前提を否定する。個人の価値観や共同体との関係を無視して、中立な立場から「正義」を語ることはできないのではないか、と。「私たちは、所属している共同体や歴史、関係性の中で定義される」
 、つまり、「正義」とは共同体的な価値や徳と切り離せない、とのことだ。
 サンデルが批判するのは、**「自由=選択の自由」**という考え方だ。彼が問うのは、自由とは「何でも自分で選べる」ことなのか?あるいは、「善き人生」や「良い社会」を共同で追求する力なのか?という点だ。
 お分かりだとは思うが、サンデルは後者を重視する。「自由」もまた道徳的な議論から切り離せない。となれば、やはり過度な富の集積はかれにとってはあってはならないことになる。


アマルティア・セン

 代表作は『自由と経済開発』『不平等の再検討』『正義のアイデア』

 センは、ロールズのような「理想的な制度設計」よりも、「現実に人々がどれだけ苦しんでいるか」に注目する。「正義ある社会」とは何か、を完璧に定義するよりも、現実の不正を一つずつ取り除くことこそが、正義への道だと説いている。「実際に人々がどう暮らしているかを見よ」とか 「それが改善されるなら、それは正義に近づいている」みたいなことを言ってるわけだ。

 自由こそ、アマルティア・センにとって、非常に重要な概念である。キーワードは:ケイパビリティ(能力)。 「人間が、自分の価値ある行動や生き方を実際に選び取る力」とする。
 つまり、自由とはただ「法律的に何かが許されている」ことではなく、教育を受けられるか?であったり、医療を受けられるか?であったり、女性が自立して生きられるか?というような実質的な選択肢の存在が大切だと主張する。そして貧困とは「お金がない」ことではなく、 「選択の自由が奪われている状態」である、としている。

  サンデルとセンはそれぞれ、“自由や正義の意味そのものを問い直す”ことから出発している。

「自由とは、ただ選べることではない」

「正義とは、抽象的な原則ではなく、今目の前にある苦しみへの応答だ」

「個人の成長」や「企業の成長」が本当に自由を広げているのか、よくよく見直す必要がある

といったところだろうか。
 もう少し続けよう。
 ある一定以上の富を得た人が、自らその“富を集める仕組み”を手放すことはないのか?  実際、ビル・ゲイツ氏のように、それを個人の選択として取った人間もいるにはいる。しかし、それは極めて例外的だ。なぜ一般化しないのか。


1. 富の「閾値」は主観的で、常に上方修正される。
 たとえば、「10億円持っていれば一生安心」と思っていた人も、 「じゃあ、次世代にも必要」「世界進出にはもっと要る」となり、“富の閾値”が拡張されていく傾向がある。 “これで充分”と感じる基準が、周囲の競争・恐れ・野心によって変わってしまうのだろう。


2. 集積手段の委譲=力の喪失とみなされる。
 ビジネスにおける富の集積は、単なる利益ではなく、情報・影響力・支配力の集積でもあるのだろう。それを手放すことは、しばしば「自分が世界に影響できる力を放棄する」ことと同義に見えるのかもしれない。
 則ち、「集めるのをやめる」ということは「死ぬのと似た恐怖」になってしまう。

3. 自己と組織の境界が曖昧になるということはあるかもしれない。たとえば、Amazonのジェフ・ベゾス氏や、Metaのザッカーバーグ氏のような創業者CEOたちは、自分自身が企業と一体化している。会社の価値が上がることが自分の価値が上がることであり、言い換えれば、富は、自分個人というより、「自分の創造物の成功の証明」と考えているのかもしれない。だとすれば、「富の集積手段を委譲する=自分の生きてきた意味を否定する」ように感じられる、という事も有り得るだろう。一部には、実際に「委譲」を選んだ例もある。


 例外としては、ビル・ゲイツ氏やウォーレン・バフェット氏のほか、チャック・フィーニー氏(免税店創業者)という方がおいでなんだそうだ。ほぼ全財産(80億ドル)を慈善活動に使い果たし、2020年に活動を終えたという。
 しかしながら、これらは極めて稀な「倫理的な実験」であり、制度でもなければ、大衆的文化でもない、例外中の例外である。


 乱暴ではあるが、敢えて制度を作るなら、以下のようなことが考えられなくもない。
 
 収益上限制を設定し、一定額以上の収益は自動で共有基金へ、という仕組みを作る。が、現在の経済社会の大多数とは間違いなく衝突することだろう。
 巨額の資産を子孫に丸ごと渡せない富の相続上限制を設ける。これも政治的に相当紛糾するだろうな。 
 一定規模を超える企業は自動的に共同所有へ、って、いやいや、相当法律のアクロバティックな運用をしないと無理でっせ。

 結局、「自由」と「私有権」の再定義を迫るものしか思いつかぬ。実現には“社会全体の価値観の転換”、倫理的・哲学的な成熟が必要なんだろうな。


 これを書いているときに、あくまで噂、だが、それなりに信ぴょう性があるらしい筋の話として、イーロン・マスクが薬物依存症であるとの話を読んだ。薬に頼らなきゃいけないくらいに、お金持ちも大変で、とても幸せそうには見えない。これは貧乏人の僻みも入っているのかもしれないが、薬物依存症が本当だとしたら、それでも、富の集積を止めようとしない、人間って何なんだろうな? と思う。