2024年8月11日日曜日
8427 Ayrton Senna da Silva _28, NT0081 あの時何かが終わったと直感したのだ
2024年6月16日日曜日
8271 Ayrton Senna da Silva_27
本来京都の北山というと結構広い範囲を指すのだという話を聞いたことがある。岩倉から鞍馬、花脊、雲ケ畑もそうだ、と、誰かが言ってたような気がするが、まぁ、バブルの頃はそんな山奥まで行かない、植物園の北っ側の、京都にしてみれば割と新しめの区画整理がされたあたりを指していた。景気がよかったころだから、京都中心地の若旦那が金に物を言わせて、なんか変な建物建てたりスカしたブティック何かが結構立っている地域だった。今はどうなんだろ? 最初の成り立ちから言うとそうじゃない気もするし、案外そのまま今まで来ているような気もする。
建築中の鉄骨3階建ての1階、半地下みたいになってるスペースにコンクリートブロックを何百個かオレと50手前のおっちゃん2人の人力でトラックから運び込むというのがその日の仕事で。
初夏であったから、そこそこ暑かったはずだ。で、汗かきのオレであるから真夏のように汗をかき、その日の相棒のおっちゃんや元請けの監督に揶揄われていたはずだ。今もそんな感じだから多分そうだったのだろうという程度の記憶。晴れてはいた、快晴だった。それは間違いない。
それにしても前夜、オレはテレビを持っていなかったが、隣室の男の部屋から聴こえる、F1中継の音である。いつもにもまして大騒ぎだったけど、何を言っているかわからなかったけど、イマミヤさん、泣き叫ぶような声だったのは聴こえた。何かあったらしい、尋常ならざること。コンクリートブロックを手で運びながら、ずっとそれが気になっていた。
とはいえ、夕方になるまでそれが何だったか知るすべもなく、夕方帰りのコンビニで売れ残りのスポーツ新聞を買ったか何かして、漸く前の晩のイモラ、タンブレロでの大事故を知る。この時点では情報はまだ錯綜しており、希望的観測もなくはなかったが、しかし、レスキューが駆けつけた時には黄色の「彼」のヘルメットからは脳漿があふれ出しており即死であったらしい。2,3日の内にそれは明らかになる。
彼のFW16は、流行りの吊り下げ式ウィングのハイノーズではなかった。そうであったならもっと象徴的だったかもしれないが、雄々しいファルスがへし折られたのだ、と、何が時代の大きな潮目を感じてしまった。
彼の死について、間違いなくショックではあったけれど不思議と悲しいという感情は大きくなかった。ただ、大きな挫折も停滞すらも良しとせず、何よりも前進を第一とした意志の結末に出会ったような気がした。これから人類の何かは坂道を、場合によっては転がり落ちるようにして降りていくのだ、そのように感じた。オレにとってのその時の日付は1994年5月2日。現地時間では5月1日のことだ。
2022年4月30日土曜日
7475 Ayrton Senna da Silva_26 & メメントモリモリ
2021年8月22日日曜日
2021年7月7日水曜日
7009 Battle!
2021年6月20日日曜日
6855 Ayrton Senna da Silva_23
2021年5月29日土曜日
2021年5月28日金曜日
2021年4月29日木曜日
6511 Ayrton Senna da Silva_20 & May 1, 1994 _3
少年ファンだった頃、黒金のロータスの色はかっこいいと思っていたので、それが真っ黄色になってしまうのは、なんか少し残念な気がしていた。マクラーレンの白赤もおなじみだったが、車体形式はMなんちゃらがマルボロ・プロジェクト・4/なんちゃらに替わっていた。ファンとしてブランクがあったのだから、車体も随分変わってしまっていたことは、まぁ、そんなもんだろ、だった。
マクラーレンと言えば、ジェームス・ハント、ロータスと言えば、マリオ・アンドレッティ、ジュディ・シェクター。エマーソン・フィッティパルディは、どっちの印象もある。まぁ、どのドライバーもいろいろなチームで走っているんだけど。
少年ファンの頃から、第二期ホンダのころまで、ブランクが10年。それから、もうやがて30年経とうとしているのだから、ぞっとする。
1987年のマクラーレン・ホンダ、セナとプロストで、16戦中・・・ほら、やはり記憶に間違いない。15勝している。圧倒的。日本人として誇らしいと思った。
とはいっても、F1のマクラーレン・ホンダの動向より、前年、WGPでヤマハのエディ・ローソンにチャンプを持っていかれた、ロスマンズホンダのNSR500の動向への関心の方が強かった。オレ的にはね。
セナが初のチャンプを獲得する。この時は、若い才能があるドライバー、新しい王者、以上の認識はなかった。よくいる、とはいないけれど、まぁ、その次元では至ってフツーのチャンピオンドライバーであるとしか思っていなかった。まぁ、顔というかスタイルはわかりやすいイケメンで、日本でも人気出るんだろうな、とは思った。嫌いではない。ただ、あの世界で、当時ジャン・マリー・バレストル以外嫌いな人物はいなかったので、逆に言えばセナもその中の一人でしかなかった。
結局、最期まで、好き嫌いという感情が働かない人物ではあったのだが、無関心ではいられなくなるのは翌年以降の話である。
ターボエンジン最後の年で、RA168Eという名称の1500㏄でタービンが二つ付いたこのエンジンは、フルブースト掛けると1500馬力出たんそうだ。馬鹿じゃないの? って笑うしかない。今乗る車が1200㏄で100馬力もない。
この後、様々な洗練化はされていくが、ある意味、この年が内燃機関の頂点の年だったのではないかと思う。この時点でこんなすごくて、これから先、どんな凄いのが出てくるんだろう? そんな風に思ったが、どうやらそうは問屋が卸さなかったようだ。
そのような大馬力、人間に扱えるのかどうかどうにも怪しく、制御系を進歩させる方向に行くというのは自然なことであると思われるが、精密でより的確な制御により、より速く、というのが詰まる所のゴールというシンプルなレースの世界において、コストをかければかけるほど速くなるのは、これまた当然で、それをしない、という選択は、そこでの自分の存在意義を否定しかねない。競技の世界であるから年々枷の形は変っていく。それでも、勝てればよく、そこに迷いなく精神と労力を集中できるなら、それは幸せなことだ。
で、すんごいのがその後出てきたかどうかというと、出てきたような出てきてないような。何しろ主観の問題である故、どうともいえないが、そのこと自体、突き抜けて凄いっていうのは、とうとう現れていないような気もする。勿論、その時々の技術やドラマを考えれば、すごいものはいっぱいあるのだけれど。
この年のMP4/4が一番好きかもしれない。
6510 Ayrton Senna da Silva_12 retake & May 1, 1994 _2
大学の講義が終わって帰り道、近鉄久津川駅から歩いて15分の学習塾で、親ほどやる気がないマイルドヤンキー共を相手に英語の塾講師のバイトをやって、で、そこから更に近鉄に乗りなおして、近鉄向島で降りて住んでたアパートに向かう道をちょっと遠回りして、決して柄が良いとは言えないような商店街の中の、今じゃちょっと成り立っていけないような、小学生の文房具と、漫画とか文庫本とかパラパラと新刊本しか置いてないような個人経営の書店で、F1の写真集ってやつを買った。中嶋悟参戦、前年の事だ。
TBSに代わりF1の日本での放映権を獲得した、当時まだ勢いがあったフジテレビは、とにかくF1放映を成功させようと、様々なメディアミックス戦略をとっていたのだろう、多分。興味のない層には、まだ、何のことやら、という時期の話だが、かつての少年ファンとしてはざわつくものがあった。
写真集、まだ、肝心の中嶋は参戦していないので載せる写真がほとんどない。代わりに、黒いロータスに乗ったブラジル人の写真がやたら目についた記憶がある。
伝説の60年代を受けての、第二期ホンダというは、ちょっと今じゃありえないほど強かった。86年のシーズンの後半ぐらいから、ウィリアムスホンダは勝ちを重ね続け、87年シーズンは圧倒的だった。
しかし、例えば、ピケとマンセル、チームメイト同士の確執とか、当時の日本人の感覚からすると、ちょっとついていけない部分もあったりして、ホンダ参戦、フジテレビ全戦放映、と、いっきに行きたいところに、ちょっと懸念材料ではあったのかもしれない。サーキットの現場ではともかく、メディア的に、ピケ、マンセルといった癖の強いおっさんよりは、若くハンサム、今でいえばイケメンのセナを前面に押し出した方がやりやすい、というのがあったのかもしれない。日本人好みのしそうなストーリーを裏で流しながら、だ。
写真集中、ロータスルノーに限らず、割とどの車も、派手に疾走中、後ろから火花をまき散らせている写真が多かった。それについての説明はなかったが、飛行機の揚力を得るための翼を上下ひっくり返したような空力特性をもつF1マシンの、ちょっとした路面の凹凸で、フロアパンが叩きつけられた時に起きる火花であることは容易に想像がついたが、かつて少年ファンだったころのF1マシン、ひょっとしたらこういう火花も出ていたのかもしれないが、ちょっと記憶になかった。
まるで何かの号砲のようでもあった。
6509 Ayrton Senna da Silva_19 & May 1, 1994 _1
日本人の大多数がアイルトン・セナ・ダ・シルバというブラジル青年を認知したのは、やはり何といっても、マルボロの白赤のマシンに乗っている姿でであると思うが、ひょっとすれば、日本人初のレギュラードライバーである中嶋悟氏のチームメイトとして、キャメルの黄色のマシンに乗る姿であったかもしれない。
二輪で世界GPに復帰した割とすぐ後にフレディ・スペンサーを自陣営に引き込み、それが図に当たったように、割とホンダがよくやる手ではないかと思った。則ち、すでに実績のあるトップレーサーというよりは、今から頂上に駆け上っていこうとしている若手をエースに据える事をホンダは好んでいたようにも思う。それは契約金の問題もあったかもしれないが、これからのし上がっていくホンダ、レーサー、双方に、ある側面ギャンブルではあったとは思う。それも込みで、連帯感みたいなものも生まれたかもしれない。
確かこの時すでに、セナは翌年白赤のマシンに乗ることは決まっていたが、契約の都合でこの年はロータスで、ということであったように思う。違ったかな?
”セナとの馴れ初め”を語るなら、前述のとおり、白赤のマルボロカラーか、黄色のキャメルカラーか。オレは実はこの前年のルノーエンジンを積んだJPSの、少年時代からある意味おなじみの黒に金色のピンストライプが入ったマシンに乗っているところから、ということになる。
ずっとマニアを続けていた人は、トールマンの白赤紺のころや、ウェストサリーやセオドールに乗りF3に乗っていたころから彼を知っていた、という人もいるかもしれないが、そんな人は今のところ身近にはいない。
少年の頃、1976年、77年の頃にも、スーパーカーブームの延長で、F1も、この国でブームになりかけたが、77年の富士の事故でそれも一気にしぼみ、田舎の少年にはその方面の情報はほとんど入らなくなってしまい、或いは求めればどうにかなったのかもしれないが、実際にそれをするわけでもなく、専門誌ではなく、週刊プレイボーイとかGOROとかの青年誌の隅の方に書かれている記事で、その動向を断片的に知るのみであった。それも、親と住んでいる田舎の少年には、ヌードグラビアとかが載る雑誌の購入などハードルも高く、なかなかままならない。そこで、アイルトン・セナ・ダ・シルバの名を見た記憶はない。最初のころなど、専門誌では、エヤートンもしくはダ・シルバと表記していたそうである。