2021年4月29日木曜日

6509 Ayrton Senna da Silva_19 & May 1, 1994 _1

 

6509 Ayrton Senna da Silva_19

Lotus 99T Honda
Ayrton Senna da Silva

 日本人の大多数がアイルトン・セナ・ダ・シルバというブラジル青年を認知したのは、やはり何といっても、マルボロの白赤のマシンに乗っている姿でであると思うが、ひょっとすれば、日本人初のレギュラードライバーである中嶋悟氏のチームメイトとして、キャメルの黄色のマシンに乗る姿であったかもしれない。


 二輪で世界GPに復帰した割とすぐ後にフレディ・スペンサーを自陣営に引き込み、それが図に当たったように、割とホンダがよくやる手ではないかと思った。則ち、すでに実績のあるトップレーサーというよりは、今から頂上に駆け上っていこうとしている若手をエースに据える事をホンダは好んでいたようにも思う。それは契約金の問題もあったかもしれないが、これからのし上がっていくホンダ、レーサー、双方に、ある側面ギャンブルではあったとは思う。それも込みで、連帯感みたいなものも生まれたかもしれない。


 確かこの時すでに、セナは翌年白赤のマシンに乗ることは決まっていたが、契約の都合でこの年はロータスで、ということであったように思う。違ったかな?


 ”セナとの馴れ初め”を語るなら、前述のとおり、白赤のマルボロカラーか、黄色のキャメルカラーか。オレは実はこの前年のルノーエンジンを積んだJPSの、少年時代からある意味おなじみの黒に金色のピンストライプが入ったマシンに乗っているところから、ということになる。
 ずっとマニアを続けていた人は、トールマンの白赤紺のころや、ウェストサリーやセオドールに乗りF3に乗っていたころから彼を知っていた、という人もいるかもしれないが、そんな人は今のところ身近にはいない。


 少年の頃、1976年、77年の頃にも、スーパーカーブームの延長で、F1も、この国でブームになりかけたが、77年の富士の事故でそれも一気にしぼみ、田舎の少年にはその方面の情報はほとんど入らなくなってしまい、或いは求めればどうにかなったのかもしれないが、実際にそれをするわけでもなく、専門誌ではなく、週刊プレイボーイとかGOROとかの青年誌の隅の方に書かれている記事で、その動向を断片的に知るのみであった。それも、親と住んでいる田舎の少年には、ヌードグラビアとかが載る雑誌の購入などハードルも高く、なかなかままならない。そこで、アイルトン・セナ・ダ・シルバの名を見た記憶はない。最初のころなど、専門誌では、エヤートンもしくはダ・シルバと表記していたそうである。 



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