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2025年6月30日月曜日

タコスと酢だこ、なぜこんなに違うのか?


8821 雨晴海岸 _2

蛸は海の幸ということで、どうかひとつ。

 
Me:

タコスと酢だこ、なぜこんなに違うのか?



ChatGPT:

それは――人類の文化と欲望が、異なる「たこ」に異なる夢を見たからです。

タコス:メキシコの祝祭、手のひらサイズの宇宙

 〇主原料:トウモロコシ粉のトルティーヤ、肉・豆・チーズ・サルサなど
 〇味の方向性:スパイス、油、火、情熱
 〇成り立ち:庶民の手軽な食、でも神々の供物にもなりえた
 〇キーワード:陽気/開放/多様性/カスタマイズ

 タコスは「何を挟んでも成立する」というメタ料理。 あれは“自己表現の自由”の料理なのです。

酢だこ:日本の祈り、紅白の供物

 〇主原料:茹でた蛸の足、酢、砂糖、塩などの調味液
 〇味の方向性:酸味、清め、静寂、儀式
 〇成り立ち:保存と神事の文化から
 〇キーワード:厳粛/清潔/記憶/供養

 酢だこは「おせちの一部」であり、時間の節目を意識させる食べ物。
あれは“忘れてはならないこと”の象徴なのです。

なぜこんなに違うのか?

それは…

観点

タコス

酢だこ

世界観

拡散・表現・陽性

集中・継承・陰性

食の役割

日常と祝祭のハイブリッド

節目・祈り・記憶

文化の方向

味覚の解放

味覚の統制

「たこ」への態度

入れる(具材の1つ)

敬う(主役の象徴)


結局、それは「食」が語る文明観の違い

 〇タコス:「どう生きるか」
 〇酢だこ:「どう死と向き合うか」

 だからこそ、この二つの「たこ」は同じ生物にルーツを持ちながら、文化の鏡としてまったく違う表情をしているのです。

 「タコスと酢だこがなぜ違うのか」――
  それはまさに、人間が「たこ」という存在にどんな物語を託したかということに他なりません。




GEMINI:

 面白いご質問ですね!「タコス」と「酢だこ」、確かに日本語で言うと音の響きが似ている部分がありますが、見ての通り、まったくの別物です。
 その違いがどこから来るのか、それぞれの料理のルーツをたどるとよく分かります。ここに分かりやすくまとめました。

タコスと酢だこ、名前は似えど中身は別人
 「タコス」と「酢だこ」は、発祥地、材料、そして名前の由来そのものが全く異なります。一番のポイントは、「タコ」という言葉が指しているものが違うということです。

一目でわかる比較表

特徴

タコス (Tacos)

酢だこ (Sukoidako)

写真



発祥地

メキシコ

日本

料理の分類

メキシコ料理

日本料理(和食)

主な材料

トルティーヤ(皮)、ひき肉、野菜、チーズ、サルサソースなど

蛸(たこ)、酢、砂糖、塩

味付け

スパイシーで複雑な旨み

酢の酸味と砂糖の甘みが効いた、さっぱりした味

食べ方

主食として食べることが多い

おつまみや、おせち料理の一品として

名前の由来

スペイン語の "taco" が由来。具を詰める様子から来ているとされる。

日本語の 「酢(す)」「蛸(たこ)」 を組み合わせた言葉。

なぜこんなに違うのか? 結論

 結論として、この二つが全く違う理由は以下の通りです。

 1.「タコ」の正体が違う

 〇タコスの「タコ」は、メキシコの公用語であるスペイン語の "taco" に由来します。これは「詰め物」や「栓」といった意味があり、海の生き物の「蛸」とは全く関係がありません。
 〇酢だこの「たこ」は、日本語で海にいる「蛸」そのものを指します。

 2.生まれた文化が違う

 〇タコスは、トウモロコシを主食としてきたメキシコの食文化から生まれた、国民食ともいえる料理です。

 〇酢だこは、四方を海に囲まれた日本の食文化の中で生まれ、特に保存食や縁起物(おせち料理など)として食べられてきた一品です。

 つまり、地球の裏側で生まれた二つの料理の名前が、日本語というフィルターを通したときに偶然似て聞こえた、という面白い例なのです。


 ・・・なんか、ChatGPT の方が、面白さで勝ってるような気がする。GEMINIの方が、厳密というか正確というか真面目なんだけどね。つか、まぁ、ChatGPT、論理のすっ飛ばし方がオレ専用にチューニングされてるせいもあるんだがね。

2024年9月21日土曜日

8523 高岡 金屋 20190914

 

8523 高岡 金屋 20190914

アニメの背景的にするにはどうしたらいいか、ちょっと考え中

2024年4月27日土曜日

8268 S30Z _54

 

8268 S30Z _54

NT0056 カゲロウのように現れた白いZはカゲロウのように走り去っていった話

 小学校の時の学校の帰り道だ。


 まさか、大人になって仕事の付き合いが出来るとは思わなかったアラタ鉄工、小学生の時はまだ田んぼだった、でも、今から書くことがあった、割とすぐあと、田んぼは埋め立てられ保育園になった。角を曲がれば同級生のスイモンの家の前に行く道を曲がらずにまっすぐ行けばまた田んぼ。で、その次がナカオ製作所。そこから嫁に出た娘さんがピアノの先生で、妹やオレはそのピアノ教室に通った。まぁ、おれは、5年生の秋口から中1の夏までの2年弱だったけど、妹は結構長く通ったかもしれない。そのナカオ製作所は今は無く、工場は無くなり造成されてこじんまりとした戸建てが並んでいる。このあたりでナカオと言えば、今じゃ中心市街地を挟んで西の方にある和菓子屋さんの支店であって、ナカオ製作所をググっても、三重の方とか他所のナカオ製作所は出てくるが、当地にあったナカオ製作所は、どこにも影も形もない。あの工場で何を作っていたのか? 当地の事だから金属関係かな、とは思うが、それも全くわからない。

 ある学校帰りのことだ。あ、そうそう、アラタ鉄工やナカオ製作所に行く手前、この時はスーパーだったオタルヤは今でも惣菜屋さんの「おたるや」として営業されているのかどうなのか、看板はかかっている。その前に差し掛かった時だ。
 ナカオ製作所の前は、南側から来ればゆるい右カーブ、学校から南に向かえば左カーブになっている。そこを、普段には見かけないクルマが曲がってきた。


 折しもお子様たち、特に男の子たちの間ではスーパーカーブーム。自分達の父親の退屈なクルマではなく、なんか、もう現実離れしたクルマにあこがれたものだ。
 まぁ、今から思えば、ウチの父の510SSSもなかなかシブいクルマではあったんだがね。


 学区内では、もっとウチからは学校を挟んでずっといったあたり、何とかという喫茶店の前、やら、隣の学区、市場の方、やらに、ポルシェの924がとまってるとか何とか。田舎だからその方面のクルマの話はそれっきり。


 で、だ、ナカオ製作所の前を曲がってきた、ちょっとこの変じゃ見かけないような、白いクルマだ。遠目に、ポルシェ911かな?とか思った。901ボディの所謂ナローポルシェって呼ばれてるなんて、大人になって知ったけど、この時は、ターボの太いバンパーではなくて、ライトの下に、下瞼のようにウインカーがついていて、細いメッキのバンパーがついてるやつ。それかと思った。


 近づいてくる。違った。フェアレディ―Zだった。外車のスーパーカーよりは随分普通で、ちょっとがっかりしたが、反面、この存在感は何なのだろう? すれ違って、学校の前を通り過ぎ走り去っていく所を、振り返って呆けた態で見ながら、そんなことを思っていた。


 日本車が、販売数では、ほぼほぼ勝つことできて、性能面でそういう車を凌駕する、ちょっと前の話だ。



2024年3月11日月曜日

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 今年の3.11は何やら殊更東日本大震災で亡くなった方のご遺族の話をネットやらテレビやらで目にする。実際この何年間のそれより多いのだろう。何しろ元旦から能登ででかいのあったわけだし、最近では千葉も何やら不穏だ。意識がどうしてもそういうところに向くところにはもってこいの素材ではあるに違いないが、そう、亡くなった方々にとっては13回忌にもあたる。

 13年早いのか短いのか。しかし、テレビで当時今のオレと同じ年で奥様をなくされた男性が70歳であるとテロップに出ていた。同世代くらいの夫婦の機微というのが自分事ではないので全くの想像でしかないが、そこそこケンカすることもあっても、基本信頼しあいお互い一緒に時間を過ごしていく掛け替えのない相手、であるはずで、そういう伴侶がいない、と。子供がいれば慰めにはなるが代わりにはならない。どこか決定的な欠落を抱え込む、そんな13年間というのはどういうものなのだろう?
 今から13年経てばオレも70になっている。ちょっとゾッとした。

 しかし、13年前である。前にもブログに書いたが、オレはその日は、高岡長慶寺のローソン建築のためのボーリング調査をやっていた。ボーリングの足場の上は絶えずディーゼルエンジンで振動しているし、おまけにこの敷地、すぐ横が片側2車線の国道で、大型車がよく通るわけだが、このあたり軟弱地盤で、それだけで地面がグワングワン揺れるのだ。地震があった時、当地には震度3が伝わったが全然それに気づくことはなかった。直帰すれば手っ取り早いのだが、一旦富山の会社に戻って調査内容を記録しなくてはいけない。会社への道すがらのラジオで、テレビと同時音声、「名取川を津波が遡上しております。畑の上を船が流されています!」などと言ってるではないか。
 名取川? どこ? 女優の名取裕子氏の顔が、別にファンではないけれど思い浮かんだきり。まぁ、日本国内には間違いないらしい。それにしても、畑の上を船が流されていく津波って、相当なもんだぞ?! しばらく聴いているとどうやらそこは仙台近郊らしい。そっちか!

 会社に戻ると社長以下社員一同テレビにかじりついて観ていた。阪神大震災や9.11WTCの事を思い出した。しばらくはテレに等はこれ一色になるのだろう。ひどいことになったものだ、と思っていた。

 一昨年か。仙台に出張に行った時の宿が、津波こそやってこなかったようだが、壊滅的な被害を受け多くの人が亡くなったときく閖上の山側数キロの道沿い、震災後より、仮設住宅や復興作業従事者の宿になっていただろうコンテナハウスをお色直ししてビジネスホテルに改装したところだった。夜、オレは、1人で閖上の方に行ってみようかとも思ったが、そういう度胸を持てなかった。ほんの少し走ればすぐだったんだが。何かに飲まれてしまうような気がしたのだ。津波じゃなくて。宿から見る海の方角は暗くライトもほとんど見られなかった。

 さて13年前オレがボーリング調査したコンビニだが、今の会社の通勤途中にある。朝、トイレを催すとそこで用を足し、缶コーヒーとタバコを買う、まぁ、普通に利用している。
 今年の元旦は、オレんちの事情で、そんなに晴れがましくはない地味な正月ではあったんだが、まぁ、平穏な日常であるはずだった。それを突き破るように地震はきたんだ。13年前も、オレはフツーに仕事していたし、多くの人にとっては何もなければ13年も経てば何をしていたか記憶に無くなってしまうような日常だったはずだ。

 そんな日常という、なんだろ? 幕かな? 何かな? そんな感じのものを突き破ってやってくるものだ、災いというものは。ということは、その幕の向こうにいつも災いは待機しているということになる。

2024年2月27日火曜日

8235 雨晴海岸 2023年11月

 

8235 雨晴海岸 2023年11月

 57歳のこの歳になっても、18の時と同じちぐはぐさを抱えて生きているわけだが、そういう物を抱え込んでいるから、こうやって多分同じ年の奴よりも割と労力をブログなんかに注ぎ込んでいるわけなんだろう。かなりのエントリーをしているというのに、未だ一銭も収益化していない、この時代においてはダメブログなんだが、そういうことが今回のテーマなどではない。
 まぁ、そんなちぐはぐさが、18歳、間もなく19歳になるところの、高校を卒業したばかり、受けた大学にはことごとく振られたオレを、氷見線に乗せて雨晴海岸に連れて行ったわけである。別に何の用があったわけでもない。夏は海水浴場として、この時代はまだ賑わいがあった頃だが、春の浅い時期は誰もいない。快活な青春というやつには、今一掠らなかったオレで、あ~、夏、1人で海に行って、それでもナンパしたわ。一個上の女の子。一回だけその後一緒に映画に行ったな、「魔界転生」かなんか。浮かれた気持ちとどっか焦燥感がごっちゃになってるなんて、大人になった今ならわかるが、それはオレだけのものじゃなかったと思うが、まぁ、19になる直前の3月に戻る。
 何を考えていたかなんて、どうか思い出さそうとしないで欲しい。だって忘れたもん。オレも大したことは考えていなかったように思う。まぁ、他の人と同じくらいには海が好きだったと。
 一緒に歩いてくれる女の子がいなかったオレは一人で海岸線を雨晴から島尾へと歩いたわけだが、何やら知らぬおっちゃんが、じっとオレを見ていた。ちょっと気持ち悪かった。

 そういえば、この頃、都市伝説的にこういうことを聞いたことがあった。カップルが海でいちゃついてると、日本語じゃない言葉をしゃべる男たちに囲まれて麻袋をかぶせられどこかに連れていかれてしまう、なんて、高校生の時に聞いたことがある。

 なんてことはない。都市伝説ではなく、言うまでもなく、北朝鮮の工作員による日本人拉致のことであり、オレが聴いたのは九州宮崎の青島海岸なんて話だったけど、それが露見したのは他でもない、この雨晴海岸で4人の工作員がカップルの拉致に失敗して、それを1978年、地元紙北日本新聞、翌年産経新聞の記者が紙面で書いたからである。

 って、実は今こうやってキーボード打っている、その二日前、つまり一昨日まで、この雨晴海岸での件を知らなかったのだから、オレも相当呑気である。我ながら呆れる。しかし、いくら1978年から1984年、まだ中学生高校生だったとはいえ、ちゃんとこのことを知らなかったというのも不思議な話だが、例えば大体同時期のグリコ・森永事件や少し後オウムの時のように、或いは昨年来のジャニーズ問題のように、大々的には報道されなかった気がする。実際、テレビは1979年当時一切報じなかったし、全国紙も報道したのは産経だけだったそうだ。
 なぜだろう? 当局の「外交的配慮」が働いた、それに報道機関が忖度したのだろうか?

 この時、ちゃんと広くこの問題が認知されなかったのは大きな問題であるように思う。しかし、それを今までちゃんと検証されたという話は聞かない。あるのは、この時頑張った産経の記者による記録だけである。

 で、だ、海辺を歩いていたオレを見ていたおっちゃん。彼はオレが連れていかれないように見守ってくれていたのだろうか? それとも彼はオレを獲物として観察していた工作員だったんだろうか? いずれにしろ、この時は1985年の3月である。北朝鮮による拉致というのは、wikipediaによれば、1991年までおこなわれたとのことだ。


2024年2月10日土曜日

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 米島にある中越パルプの工場は子供のころから恐ろしく凶暴な悪臭を周囲にはなっていた。今はこういう時代だ。そういうことは許されない時代なので、工場の外に出てしまえば向かいに普通に食品スーパーがあったりするほど普通だが、一度など前の会社の仕事で工場の構内に入った時など、一番コアなところで仕事をしたせいもあるが、かの臭いは健在で、工場で働く人の中でリアルに鼻が曲がってる人を何人か見かけて、ひぇ~! とか思った。

 昭和40年代、50年代、高岡市内の子が親に氷見や雨晴に、夏、海水浴に連れて行ってもらう時は、まぁ、今とは違う旧道の国道160号線で国泰寺に行くように途中で曲がって、何かきちんと認定をとった「日本モーターツーリストホテル協会(?)」の看板を掲げているけど、ぶっちゃけモーテルの前を通って、というルートもあるにはあったが、伏木の国分浜を横目に、この前投稿した廃墟の前の道を通って、というルートを使うことが多く、で、上記、中越パルプの前を通る時は、当時の父のクルマ、510ブルにはカーエアコンはついていなかったけど、窓を閉め切って、何分かサウナの気分を味遭わなければならなかった。熱中症の危険があったわけだ、今思うと。

 で橋を渡り、左に曲がる。

 10間道路なんて、昔はそれは当時なりの高規格道路として敷設されたのだろう。今となっては片側1車線幅18mの道なんて、普通の田舎の道なんだけど。
 ただ不思議な道だと子供心に思っていた。坂を上って下ってを何度か繰り返す。谷筋の川に沿っての道というのはいかにも普通で意識しないが、この道はいくつかの谷筋と低いなりにも段丘地形の尾根筋を串をぶっ刺したように横断する。登って下ってが何となく楽しかった。

 昔、空荷の当時としての大型トラックが、此処から港を目指す。荷を積んでいないのだから揺れたってかまわない。伏木港で原料を積んだトラックは今度は一本東側の平坦な道を走って市内の、日本曹達や前述中越パルプなどの工場にその原料を搬入する。出荷はこの逆回りで伏木駅前を通る平坦な道で港にもっていき、軽くなったトラックがこの道を使って高岡の町に戻る、そういうことを意図してこの道は作られたのだと小学校の先生に教わった記憶がある。

 なにはともあれだ。最後の坂を上り切った時に前に広がる海がオレは好きだった。

2024年2月4日日曜日

8204 高岡 伏木国分 廃墟 2023年11月

 

8204 高岡 伏木国分 廃墟 2023年11月


 伏木から氷見に向かっていく道、伏木国分から雨晴に抜ける、今ではトンネルが通っていて皆そこを通るが、オレが子供の頃はトンネルなんてなく、海沿いの道を通っていた。ほんの少しだけ遠回りだ。今通ってみたら道幅も狭い。

 入り口にちょっとだけ値の張る銭湯があるが、他に何があるわけでもない短い区間だが、子供のころから崖に持たれかかるような廃墟が一つだけある。別にこの前の地震で廃墟になったわけではない。子供のころからある廃墟は、記憶が確かではないが一度綺麗に直されたか建て替えられたかして、人が住んでるんだか宿泊施設を営業しているんだかそういう気配があった時期もあったが、脱力するように今ではやはり廃墟なのであった。

 廃墟と言ってもおどろおどろしい感じは薄い。少し山の方にもう一つ元病院というシャレにならない廃墟もあったのだが、そこは今や建物は解体され草に覆われてしまい近づくことができない。こちらの廃墟はそんなことなく、只々無様なさまを晒している。

 昔、企画もののアダルトビデオで全国を旅して土地の女のコにお願いして、っていうかナンパして、というのがあったのだが、その当地編、この廃墟で撮影してたんじゃないかと思う。海見える廃墟だったし。安く見られたものだなぁ、富山女子! と、なんかさみしい気持ちになった。

 昨年の11月の状況。確認に行ったわけではないので分からないが、地震で倒壊の恐れがあるからと、建物前の海の道、ひょっとしたら通行止めになっているかもしれないが、それで困る人は多分いない。



The road from Fushiki to Himi runs from Fushiki Kokubu to Amaharashi.Nowadays, there is a tunnel that everyone passes through, but when I was a child, there were no tunnels and we went along the road along the coast. It's just a little detour. When I passed by now, the road was narrow.

There is a slightly expensive public bath at the entrance, but it's a short section with nothing else going on, but there is one ruin that looks like it's leaning against a cliff from my childhood. It's not like it was ruined by the recent earthquake. I don't remember the ruins that have existed since I was a child, but there was a time when they had been cleaned up or rebuilt, and there were signs that people were living there or that they were operating lodging facilities. It was now in ruins, as if it were debilitating.

Even though it's called a ruin, it doesn't seem scary at all. A little further up the mountain, there was another terrifying ruin, a former hospital, but the building had now been demolished and it was covered in grass, making it impossible to approach. The ruins here are nothing like that, just exposing themselves in a state of disrepair.

About 20 years ago, there was an adult video project in which he traveled all over the country and asked local girls, or rather, picked them up, and I think the local version was filmed in this ruin. . It was a ruin with a view of the sea. That was cheap, Toyama girls! I felt an unbearable feeling.

The situation in November of last year. I didn't go to check, so I don't know, but the beach road in front of the building may have been closed due to the risk of it collapsing in an earthquake, but I don't think anyone would be bothered by that.


2024年1月28日日曜日

8192 高岡 伏木中央町 2023年11月 _2

 

8192 高岡 伏木中央町 2023年11月 _2

 2024年元旦の地震において、高岡では一番被害が出たところの在りし日の様子。幸いしないでは亡くなった方はいないが、液状化で例えばこの絵の中央の電信柱が黒と黄色の帯が地面についてしまうくらい、沈んでしまった。ひどく傾いて、建て直すしかないというお家もあるだろう。

2022年8月29日月曜日

7541 東へ2(高岡市蓮華寺地内02)& T1011 道の記憶001

 

7541 東へ2(高岡市蓮華寺地内02)

 地図を見たら「県道高岡青井谷線」となっているが、高岡はいいとして、もう一方の端が青井谷とはとても思えぬ。子供の時は「大野早川線」と言っていたが、オレの家族が1972年に今の住所に引っ越した時にはすでに大野以東大門までに延伸されていたし、西の端は結局早川ではなくその南の北島に至るがそれでも当時、そんなところまで行っていなかった。因みに、その北島のあたりでは、この道路「高岡羽咋線」という名前になっている。まぁまぁ何とか羽咋まで行っている。結構そういうわけで、道路の名前っていい加減。
 確かにまぁ、路側帯は広めにとられ、大型トラック同士も楽にすり抜けられるんだが、子供の時はもっと広い道路と感じていた。幸いなのかどうなのか、並行した片側2車線の道路とかこの道に関してはできていないので、子供の時とクルマの交通量はそう変わっていない。

 蓮華寺の神社とか寺とかは旧北陸道側を正面としているので、こちらは後ろ側ということになる。この木立を含め、もっと鬱蒼としていたような記憶がある。道路まで飛び出しはしなかったけれど、神社の敷地の中の公民館の書道教室に通っていて、書道教室が始まる時間まで、境内でかくれんぼとかしていた。そんなことを思い出した。


If you look at the map, it says "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", but I don't think the other end is Ao Valley even though Takaoka is good. When I was a child, we used to call it the ``Ono Hayakawa Line'', but when my family moved to our current address in 1972, it had already been extended from Ono to Daimon, and the west end was not Hayakawa, but south of it. However, at the time, it had not gone that far. By the way, around Kitajima, this road is called "Takaoka Hakui Line". Well, I managed to go to Hakui. That's why the name of the road is irrelevant.
It's true, the roadside strip is wide enough for large trucks to easily pass through each other, but when I was a child, I felt that the road was wider. Fortunately or not, parallel roads with two lanes on each side have not been created, so the traffic volume of cars has not changed much from when I was a child.

The shrines and temples of Rengeji face the old Hokuriku Expressway side, so this is the back side. I have a memory that it was more dense, including this grove. I didn't run out to the street, but I attended a calligraphy class at the community center on the shrine grounds, and played hide-and-seek in the precincts until the calligraphy class started. I remember that.


Wenn Sie sich die Karte ansehen, steht dort "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", aber ich glaube nicht, dass das andere Ende Ao Valley ist, obwohl Takaoka gut ist. Als ich ein Kind war, nannten wir sie die „Ono Hayakawa Line“, aber als meine Familie 1972 an unsere jetzige Adresse zog, war sie bereits von Ono nach Daimon verlängert worden, und das West End war nicht Hayakawa, aber südlich davon. Damals war es jedoch noch nicht so weit gekommen. Übrigens heißt diese Straße in der Umgebung von Kitajima "Takaoka Hakui Line". Nun, ich habe es geschafft, nach Hakui zu gehen. Deshalb ist der Name der Straße irrelevant.
Der Fahrbahnstreifen ist zwar breit genug, dass große Lastwagen problemlos aneinander vorbeifahren können, aber als Kind hatte ich das Gefühl, dass die Straße breiter ist. Glücklicherweise oder nicht, Parallelstraßen mit zwei Fahrspuren auf jeder Seite wurden nicht angelegt, sodass sich das Verkehrsaufkommen der Autos seit meiner Kindheit nicht wesentlich verändert hat.

Die Schreine und Tempel von Rengeji blicken auf die Seite des alten Hokuriku Expressway, also ist dies die Rückseite. Ich habe eine Erinnerung, dass es dichter war, einschließlich dieses Hains. Ich rannte nicht auf die Straße, sondern besuchte einen Kalligraphiekurs im Gemeindezentrum auf dem Gelände des Schreins und spielte auf dem Gelände Verstecken, bis der Kalligraphiekurs anfing. Ich erinnere mich daran.


Si vous regardez la carte, elle indique "Prefectural Road Takaoka Aoi Valley Line", mais je ne pense pas que l'autre extrémité soit la vallée d'Ao même si Takaoka est bonne. Quand j'étais enfant, nous avions l'habitude de l'appeler la `` ligne Ono Hayakawa '', mais quand ma famille a déménagé à notre adresse actuelle en 1972, elle avait déjà été étendue d'Ono à Daimon, et l'extrémité ouest n'était pas Hayakawa, mais au sud de celui-ci. Cependant, à l'époque, cela n'était pas allé aussi loin. Au fait, autour de Kitajima, cette route s'appelle "Takaoka Hakui Line". Eh bien, j'ai réussi à aller à Hakui. C'est pourquoi le nom de la route n'a pas d'importance.
C'est vrai, la bande en bordure de route est assez large pour que les gros camions se croisent facilement, mais quand j'étais enfant, j'avais l'impression que la route était plus large. Heureusement ou non, des routes parallèles à deux voies de chaque côté n'ont pas été créées, de sorte que le volume de circulation des voitures n'a pas beaucoup changé depuis mon enfance.

Les sanctuaires et les temples de Rengeji font face à l'ancien côté de l'autoroute Hokuriku, c'est donc l'arrière. J'ai un souvenir que c'était plus dense, notamment ce bosquet. Je n'ai pas couru dans la rue, mais j'ai assisté à un cours de calligraphie au centre communautaire sur le terrain du sanctuaire et j'ai joué à cache-cache dans l'enceinte jusqu'à ce que le cours de calligraphie commence. Je me souviens que.


如果你看地图,上面写着“县道高冈葵溪谷线”,但我不认为另一端是青溪谷,尽管高冈很好。当我还是个孩子的时候,我们习惯称它为“小野早川线”,但当我的家人在 1972 年搬到我们现在的地址时,它已经从小野延伸到大门,西端不是早川,但在它的南边。然而,在当时,它还没有走那么远。顺便说一句,在北岛附近,这条路被称为“高冈白井线”。好吧,我设法去了Hakui。这就是为什么道路的名称是无关紧要的。
确实,路边的带子很宽,大货车可以轻松通过,但是小时候觉得路比较宽。幸好没有,两边各有两条车道的平行道路还没有建成,所以汽车的交通量与我小时候相比并没有太大的变化。

莲华寺的神社和寺庙面向旧北陆高速公路一侧,所以这是背面。我记得它更密集,包括这片小树林。我没有跑到街上,而是在神社场地的社区中心参加了书法课,并在院内玩了捉迷藏,直到书法课开始。我记得那个。