ラベル Ford の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Ford の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年3月17日日曜日

8245 GT40 Mk.II _10

 

8245 GT40 Mk.II _10

 ネトフリに「Ford vs Ferrari」が上がってたので久しぶりに視た。いや、燃えるわ。基本、こういうのが好きなんだわ。他は割とどうでもよくて。

 Mk.IIがルマンを制したのは、オレが生まれた年だ。1966年。今の事を思うと随分と原始的で野蛮なクルマでレースをやっていたものだと思う。燃料の自然流下は当然として、ホイールの組付けの時なんて、電動トルクレンチなんて何それ?って感じで、大ハンマーで殴って閉めたり緩めたりしてたんだからびっくりだ。燃調から何から何まで電子部品なんてものはなく、コンピューターのテレメーターなんてものもない。ただただドライバーの感覚が頼りという。
 2輪も4輪も、70年代から80年代にかけて、ライダーやドライバーが主導してレギュレーションを安全側に大きく変えていった、との事。それだけならまだいいが、メーカーやらスポンサーやら興行者の思惑も絡んで、今や、レーサー達、随分と安全にレースをできるようになったが、彼らが、何か鳥かごか何かの中、ハムスターとかハツカネズミが、一所懸命回し車に乗って回してる様を幻視してしまう事があって、非常に寂しくなってしまう事がある。

 徒にレーサーを危険にさらさないため、と言われてしまえば何の反論もできないが、生身で機械と、その向こうの生死と対峙していたかつてのレーサー達は、そういう物が持つ何とも言いようがない、風格というか凄みを持っていて、素直に男の子として憧れることができた。かつてのように明日がレースだというのに深酒してなんてもっての外で、今の前夜はホテルの部屋でテレビゲームやって適当な時間に寝る、それが自己管理、という感じの今のレーサーのコにはちょっと持ちえないんじゃないだろうか? まぁ、かつてのレーサー達より早く走るスキルは断然あるとは思うが。そう思うと、オレはオールドファンであって、今のレーサーは今のファンに応援してもらえたらいいのではないか、とついつい思ってしまい、若い頃のようにリザルト追っかけなくなって久しい。

 とはいえ、ドラマの「不謹慎にもほどがある!」じゃないけれど、それより時代はずっと前になるけれど、一つ一つ映画の内容を書き出そうとすればするほど、今の時代じゃあり得ない事のオンパレードになってしまい、それは、とりもなおさず、この時代においては妥当性を失ってしまっていることに他ならない。
 ここは、かつての時代を知り、ファンであった自分がラッキーだったのだと、あまり喧伝せず、なるべくひそやかに思っているだけにとどめておくことなのかな、と思う。寂しいと言ってしまえば寂しいことなんだろうが、まぁ、そういう物だ。

 因みに画像は映画の主人公クリスチャン・ベイル演ずるケン・マイルズが駆ったMk.IIとは違うカラーリングである。

2023年8月5日土曜日

2023年6月18日日曜日

2023年6月11日日曜日

2023年3月24日金曜日

2023年1月5日木曜日

7786 Hoonicorn _3

 

7786 Hoonicorn _3

Hoonicorn

Ken Block
November 21, 1967 – January 2, 2023
rally in paradise...

2022年10月21日金曜日

2022年5月22日日曜日

2022年4月30日土曜日

7475 Ayrton Senna da Silva_26 & メメントモリモリ

 

7475 Ayrton Senna da Silva_26


 一個前のエントリを書いていて思い出した。そうだよ、5月1日じゃないか、と。セナの死から28年、もう28年だよ、え? 微妙にここ何本かのエントリとテーマが重なるので、画像、カワサキ空冷4発から離れて、5月1日恒例セナ画いきます。

 もうムリとわかっていたんだよ、あの頃、オレ。で、ぽっきり男根が中折れするがごとく、セナのウィリアムスはタンブレロの壁に激突し大破したのは、何かを暗示しているように思えた、とは、何度か書いた。ここは戦略的撤退をすべき局面であると強く感じるきっかけだったのだ、1994年5月1日にイモラサーキットで起きた出来事というのは。ここでこんな風に腐ってる場合じゃない、何かを練り直さねば、と思ったのだ。

 ここへきて、の一連のささやかな出来事は、神仏か、或いはセナかもしれないが、何かこの所ですることがあるのなら、ぼやぼやしてるんじゃない、と、そういったものが彼女を遣わしたのかもしれないな、とも思ったりもする。


 そんなことを思ったりもするのだが、だがしかし、だ、悪いものを抱えて死んで地獄に堕ちる人の骸は、黒ずんで重くなってしまうのだと、これは彼女の団体が言っていることなのだが、それを熱心にオレに言う彼女に、「あぁ、〇〇ちゃん、これ以上オレをがっかりさせにで!」と、内心思いながらも、かなりあいまいな表情をオレは浮かべていたことだろう。まぁ、これも書いた通り、翌日の職場での彼女はいつものようにカッコよかったからいいんだがな。
 死に際し、いよいよ魂魄が肉体から抜け落ちると、体重が何百グラムか落ちる、つまり、魂魄にも質量があるのではないか? という話はどこかで読んだことがある。死体になるとがおかしな具合に硬直し黒ずんでしまうというのはその人が地獄に堕ちたから、なんて初めて聞くが、どうやら彼女の団体の重要な教えでもあるらしい。

 言っちゃ悪いが、関係なくね? とか思ったが口には出さない。それは、多分生前摂取した化学物質のせいかもしれないし、オレみたいに心臓疾患を抱えて血の巡りが悪くなってりゃ、死んでしまうと早いうちにそうなってしまうこともあるかもな。逆に言うとオレが死ねばそうなってしまう可能性は結構ある。でも、そんなこと、多分自分の身に起こるであろうけれど、やはり、関係ないね、って。
 死ぬ時ゃ、そうだな、死期を悟ったら、南の島の人が来ないようなところの樹の根元に倒れ伏し、そのまま息を引き取って、ドロドロに溶けるように腐って土に還りたいものだと思っている。まぁ、その辺の野生動物とかに食い散らかされて、肉も骨もその辺に散らばって、そのままの形では土に還ることもかなわないのだろう。ただ、妙に黒ずんだシミを大地に残すのは一緒なのかもしれない。両親が死ねば、まぁ、妹はいるけれど他に係累がいない以上、そうなる自由もオレにはある。まぁ、日本国の領土の中でそれをすると関係諸方面に多大なるご迷惑をおかけすることになるかもしれないので、他所で。

 宗教にとって、死というのは重要なテーマだ。どの宗教にとっても。死んだら、今の思い、思うオレのこの心は、どこに行くのだろう? およそ意味消失というのが、言葉ではわかっても実感として想像できない。
 しかし、まぁ、前の職場で、山の中上司が目の下に延びる跡津川断層を見ながら言ったことが今でも忘れられなくて。このブログの前やってたウェブページにも書いたけど。

 「俺達ゃ、何千何万年の時間相手に商売してるようなもんだよな」

って。地質調査の仕事というのは、確かにそういう側面がある。地球誕生からの時間を24時間と見立てたら、人類がなんかもしゃもしゃやってる時間というのは、わずか0.2秒なんだそうで。そんなところで、自分の魂がどこに行くとか何とか、ひどく無意味に思える。少なくとも、死後の事について何か憂うるというのは、オレにはない、そんなヒマはないと認識している。何も残せないだろうけれど、残してもなんか無駄なような気がするけれど、オレの人生の勝利条件はそんなところにはないと思っている。

 でも、ま、それで、ちゃんと彼女はやっているのだから、彼女にとってこれは間違いではないのだ。それは尊重しよう。何事も相性なのだ。彼女とこの教えの相性はこの上のないものなのだろう。
 しかし、まぁ、困ったなぁ、彼女とその友人がオレに言ってること聞けば聞くほど、気持ちの乖離が止められない。



2022年2月21日月曜日

2021年12月31日金曜日

7280 Jean Alesi_3

 

7280 Jean Alesi_3

Jean Alesi
Tyrrell 018 Ford
Jerez 1989

「男はつらいよ」に関し 4

 劇中に出てくる単車はネタ切れで、クルマに関してもこれはというものがなく、及川泉ちゃんを演じる後藤久美子氏のリアルのパートナー、ジャン・アレジ氏を描いてみることにした。
 ジャン・アレジ氏というと、息子のレース資金の捻出のため、時価1億円ぐらいするんじゃないかと言われるF40を売却したりとか、最近では実弟のビジネス上のトラブルから起こした爆竹騒ぎでおとがめを受けたりとかというニュースを訊いたりする。ファミリー思いなのは良いが、爆竹騒ぎ、後藤久美子氏が、寅さんが問題を起こしたのを聞いたさくらさんのような表情をしていたのかもしれないと思うと、不謹慎だが笑ってしまった。

 さて、今、男をつらいよ、というタイトルで新作もなかなか作れないだろうと思う、理由の一つに、そのタイトル自体があったりする。矢野顕子氏の「ラーメン食べたい」の歌詞の中で
「男もつらいけれど、女もつらいのよ」
というのがあるが、言ってみても、寅さんシリーズの中の「つらさ」とは、せいぜい女性に振られるつらさであり、寅さん自身、その気になれば、リリーさんというたいそういい女といつでも所帯を持てる状態だった。今現在、男と女、どっちが辛い? 「つらい」じゃなくて「辛い」となり、呑気な惚れた腫れたの次元で語られる話でもなくなってきている。
 女性の社会的不利を辛いとする声が大きい一方で、男性の辛さも寅さんのつらさとは質を変えてしまっている。

 また一個前の投稿の、ウェイン・レイニーもそうだし、日本人なら青木琢磨氏がそうだ。今年亡くなったフランク・ウィリアム氏もそうだが、事故で負ってしまったハンディキャップを持つ方々、事故どころか生来のものもあったりとか。そういう人たちの辛さと比較して「つらい」とか言うのが妥当なのか?
 コロナなどの社会不安で、生き辛い人は?とかね。

 いや、パートナー、恋人を見つけられない辛さはあるさ。しかし、現実にはその辛さは複合的だし、思いつめれば簡単に殺人事件まで発展したりする。寅さん、性格上、もう少しでうまくいく時に限ってなんか逃げてしまうこともある。そんな奴が「つらい」なんて言うな、と言われないためには、これまでのシリーズと違う作りにしていくことも考えなくてはいけないのではないか?

 今までとは急速に姿、質を変えるか、そもそも消滅しつつある「男性」性というものをもう一度吟味してみる必要がある。敢えて「男はつらいよ」というならば、今広がりつつある声に抗していくだけの力がしかもないと。