7270 Kork Ballington_6
Kork Ballington
KR500 1982
まさにこの個体かどうかは分からない。でも、確かタンクは無塗装アルミのものだったと思うので、この年このタイプのKR500を軽井沢のペンションの玄関先で見た。
'80年代前半までカワサキGPチームを率いておられたケン鈴木氏のペンションを訪れたのは晩秋の、大学が学園祭をやっている時期で、カワサキに乗っていたオレには憧れではあったけれど、考えてみれば、これが走っていた時期は、ケニーが全盛、82年はフレディ・スペンサーはまだNSを得ていない、NRなんていう馬力はあるけれど重い単車で苦労していたそんな時期。ルッキネリとかウンティーニとかバリー・シーンとかもいた時期で、カワサキがチャンピオン争いに絡むことはついになかったのではないかと思うのだが、しかし、そういう文脈とは別に伝説みたいに語られる。変なの。
まぁ、言ってしまえば「参加することに意義がある」なんだけど、参加できてしまえば半分以上やる事は終わった、なんてことはなく、結果的に上位を走れなくても、それでも、なんとか少しでも上に行こうとする、参加賞なら間に合ってる、というか、ちょっとどう言えばいいのかわからないな、あと、1,2シーズンカワサキが続けていたなら、例えば85年のフレディのWタイトルはなかったかもしれないし、その後の勢力図も変わっていたのかもしれない、それぐらいの熱はあった。
風呂が少し寒かったな。温泉ではなく、外国の大きなたらいに足がついたような湯船で、まだ20代だったのに、オレは随分おっさん臭かったのか、ちょっと風呂には不満だったのを覚えている。
その時期、客はオレ以外におらず、それを見越して奥様のおばさんたち、を呼んでいたようだった。で、鈴木氏もオレみたいな単車でやってくる若い奴に幾度となく同じ話をしたであろう、トーハツからイタリアのピアジオに移籍し、それからカワサキGPチームの監督になった話、あと、奥さんのおばさんだったか、とにかく世界中から養子縁組をして、そのなかのマリオ宮川氏の話とか。ジャン・アレジのエージェントもやったという人である。
バイク雑誌で読むような話が語られる。は~とかへ~とか相槌うつしかない。
でも、結果的によく眠れたし、あの一泊は良かった。それは良い。
翌日、鈴木氏の勧めもあったし、それがなくても鬼押出の浅間記念館に向かうつもりだった。三笠教会の横から坂道をのぼり左に曲がったところで、舗装が切れて、少し轍もあった。転倒た。ブレーキペダルが折れ、フロントフォークが見た目に曲がった。身体は大丈夫だったと思う。が、目の前が真っ暗になった。
浅間記念館に行くのは諦め、のろのろ、フロントの調子を見ながら引き返す。佐久の街道沿いのバイク屋で、バイク屋の兄ちゃんと二人がかりで、パイプかませて、フロントを少しだけ見た目はまっすぐに修正したが、勿論そんなものはあてにならない。そこで車載のスパナを針金でブレーキペダルの代わりに括り付け、またのろのろ走り出す。諏訪に抜ける山道で、雪まで舞ってくる。幸いつもりはしなかったが、もうそのころは思考が停止していて、諏訪湖畔に降りたころは雨になっていた。
下道でと思っていたが、帰らなきゃいけなかったのが京都だからそれでは間に合わない。どこかでもう一泊なんていう金銭的余裕なんてこれぽちもない。伊那で中央道に乗った頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
悴む手で高速道路を単車で、しかもフロントは曲がってるし、なんて、思考を停止していても、やはり恐怖で、それでも、時速80キロは最低限キープして、名神に合流してから、何にもない羽島PAのトイレの前のタイルの上に、ついつい倒れ込むように寝転がってしまった。山の中を縫う中央道よりは少しは寒さが緩んだような気がしていた。
いや、さすがにトイレの前でこれはまずいだろうと、体を起こし手目にしたのは、側溝の縁を上り下りするドブネズミだった。なんか呆けてみてしまった。
「行くか」。精神的には疲れていたが、身体はそれほどでもないことにこの時気が付く。ドブネズミさんのおかげだ。途中、米原を過ぎたあたりで、ビカビカの赤い900ニンジャに容赦なくばひゅんと抜かれたりしつつ、21時には銀閣寺前の自分のアパートに戻っていたのだから、案外早い時間だったんだな、と今になって思う。中央道とか高速を走っていたあたりは、永遠に地獄が続くような感覚だったけど。
で、酒食らって、気が緩んだところで、その後結構な期間後を引く、ささやかな失敗をするんだが、それについては書かない。