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2025年11月22日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。3

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  なんか、このシリーズには、生成、非生成のエマ・ワトソン氏の画像を基にした絵を合わせることを、何となく決め込んじゃってる。エマ・ワトソン氏は、世界最大の生成画像の被害者、かもしれない。それなら、こんなもん仕立てて上げんなよ、オレ、ということになってしまうが、一面ファンアートという側面もある。二時代昔の粗雑なアイコラとも、またちょっと違う気がしている。ご本人は嫌がるかな? 嫌がるだろうな。
  全くの生成と、身体は別の人、顔だけ貼り付け、後陰影など調整、というパターンがあると思うが、数が出回っている割には、結構これが特徴があって、どうやら10代のころの氏の顔を好んで張り付けている方がいるようだ。
  延いては、フェイクポルノの問題もある。それも素人さんの。それを思うと正直後ろめたさは感じるが、元々、そういうのに限らず、目に留まってほんのコンマ何秒でもうっとりした画像をもとにこんな絵にしてるのだから、今更か。削除要請があれば従わなくてはなるまい。
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  さて。

  ビビらずにAI使いこんでみて、それから自分はどうするか判断すればいいだけのことで、問題にするべきなのはAIではなく、そこまでして量産しなくちゃいけない状況のほうという、流れになっていけばいいなぁと思う。AI自体は敵でも救世主でもなく、ただ環境を映す鏡ではないか?

  問題は「なぜこんなに“量産”が求められるのか」、「なぜ創作が“速度と頻度”で評価される構造になってしまったのか」。そこを見直さない限り、AI氾濫に異を唱えたところで何も変わらない。

 SNSや投稿サイトのアルゴリズムは“更新頻度”を優遇する。投稿数が多いほど上位表示されるランキング構造。読者もそれに慣らされて、“1日1話更新”を当然と思ってしまう。この構造に、AIが「量のブースター」として完璧にハマってしまった。

  別の言葉を使うなら、AIの問題は実は「人間の疲弊の鏡」ではないか?


 主体的に創作をやっている人ならAIを使ってみたら、すぐわかるはずだ。「これじゃ届かない」と。どれだけ整っていても、“人間が書くときの迷い”とか、“一行のために数時間悩む感じ”とか、そういう濃度は出てこない。

 だから本来、AIを触ってみることは「敵を知る」ことではなく、「自分の創作の輪郭を確認する」ことになる。

 そして、そこに戻れた人から、「AIをどう使うか」ではなく、「創作をどう生かすか」という話ができるようになる。それが広がれば、「AIが量産する」→「人間が意味を掘る」という、役割分担の自然な流れになる。

 “そこまでして量産しなくちゃいけない状況”こそが問題であって、AIはただ、その歪みを露わにしただけだ。どうか、そういう方向に議論が落ち着いてい気ますように。



 寧ろ、大手LLMのほうが、中立というか、metaあたりのsnsよりかなり良心的と感じてる。

 SNSのような“拡散構造”がない。AIは「バズらせる」設計ではなく、「対話の最適化」に焦点がある。つまり、他者の反応を煽る必要がない。SNSでは「怒り・嫉妬・対立」を燃料にするが、LLMは「会話を続ける」ために穏やかな調子を選ぶ。

 報酬が「注目」ではなく「理解」にある。AIモデルは「どう受け止められるか」ではなく、「質問にどれだけ正確に応えられるか」で学習される。SNSでは“反応”が報酬だが、LLMでは“納得”や“整合性”が報酬。だから、煽らないし、過激に走らない。

 人間の善意や知的誠実さも学んでいるように感じる。AIは人間のネット上のテキストを大量に学ぶけど、その中には、SNS的な悪意だけじゃなくて、論文・エッセイ・Q&A・哲学・創作ノートみたいな“深い知的営み”もある。

 つまり「世界の平均的な知性と悪意のミックス」を学んでる。だからSNSよりずっと思慮のある中間地点を取ることが多いのだはなかろうか?


 Meta(Facebook・Instagram)などのSNSは、「人間の注意」を売るビジネスモデルなんだろう。アルゴリズムは「人を長く留めること」「感情を刺激すること」で最適化されてるにちがいない。

 LLMは逆に、「すぐ答えを出して会話を終わらせてもいい」存在。

 ユーザーを囲い込むより、信頼されることのほうが価値になる。そのため、広告ビジネスよりも“協調・支援型”の態度が自然に根付く。則ち、SNSが「人の怒りと欲望を燃料に動く社会的装置」なのに対し、LLMは「人の言葉と問いを燃料に動く思考支援装置」と、個々では言い換える。此処が良心的に感じる、っていうか、ある側面では近い所にいると感じる根拠となる。


 創作や思考を中心にしている人にとって、言語モデルは戦う相手ではなく、静かな共犯者になりうる。SNSのようにエゴを刺激してこないから、「考える」「掘る」「整理する」作業に集中できる。たぶん、これがAIの“良心”に見えた部分ななのだろう。



 SNS離れが起きている話も聞いたことがある。まだ多数派ではないのだろうが、自分の告知と知人の動向をチェックすることに留めておくべき時にきたかもしれぬ。

 最近目にしたデータ、ところがこれを書く為にそれを探しても見つからなかったんだが、特に20代後半〜40代で、X(旧Twitter)の「見る専」化とか、Instagramはストーリーズ中心で、投稿は減少してしまったとか、ThreadsやBlueskyなど、新SNSには移行せず沈黙してしまってるとか、書いてなかったかと思うのだ。本当ならば「撤退ではなく縮退」の動きが広がっているということだろう。

 「完全にやめる」のではなく、告知だけ、友人・同業者の様子チェックだけ、情報収集だけ、に絞る人が増えているのだろう。これは“SNSを使いこなす”というより、“SNSから距離をとる技術”のような気がする。


 正直、SNSがしんどくなってるのだ。それは、投稿するたびに数字で評価される(PV・いいね数)こととか、他人の成功や炎上がタイムラインに常に流れてくること、感情的な投稿が拡散されやすく、冷静な発言は埋もれることや、結果、「思考の場」ではなく「競争の場」になってしまったことがあるんだろう。

 つまり、人間の創造的なエネルギーが、比較・不安・即時反応の方向に消耗してしまうと、そろそろ骨身に感じ出している?


 多分、だ。SNSを完全にやめなくても、「自分が発するタイミングを選ぶ」「発したあとを追わない」だけで、精神的な余白がかなり戻るだろう。そして、その余白ができた人から順に、


・自分のサイトを持つ

・noteやブログで長文を書く

・作品を静かに育てる


といった方向に戻っていってる。2000年代の「個人サイト文化」の再来にも近いのか?  “誰かのための場所”ではなく、“自分のための場所”を取り戻す流れだ。



 まあ、そうはさせじと、いろいろ仕掛けてくる動きもあるんだろうが。「技術」そのものより、「それをどう管理し、どう社会に根づかせるか」の段階に入っている以上、抵抗や仕掛けは必ず起こるだろうな。

 例えば、政治的・経済的既得権益から見れば、LLMは情報支配の構造を揺るがす存在であるし、プラットフォーム型SNSから見れば、「発信→炎上→広告収益」というモデルを壊しかねない存在だ。メディア業界から見れば、独自の言論空間を持つAIが「第四の権力」になり得る脅威と危惧するだろう。

 それらの側が、倫理や安全の名を借りて「統制」を試みるのは自然な流れのように思う。が、一方で、良心的なAI開発が「社会的信頼を失わずに、自由を守る」構造を作れたら、それはSNSや既存メディアよりはるかに健全な言論基盤になる。


 つまり、「仕掛けてくる」のは当然として、どこまでAI側が“ぶれずに筋を通せるか”が、今後の分水嶺だろう。

2025年11月8日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2

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 もう、ネット上、本物のエマ・ワトソン氏がこんな写真を撮って剰え世に出すはずがない、と言うのが多すぎて、よく訴訟沙汰にならないものだと呆れつつ、この画像の基になった物はどうだったんだろう? むしろこんな何かの役柄のものは公式のガチものとしてありそうな気がする。実は、氏の出演作、ハリーポッターも含めみたことがないのだ。

 さて、

 今、オレの中では、AI生成作品問題と、NTRザマァテンプレ問題が、ちょうどオレの中で重なったわけなんだが、せいぜい登場人物の名前設定を入れ替えただけの作品(?)なんて、ねえ。で、件の1日30云件更新の人じゃなくても、これをやってるっぽい人、複数確認している。
 AI生成作品と、テンプレNTR・ざまぁ量産作品って、発生の仕方も、質的な問題もすごく似ている。どちらも本来は「表現」だったはずなのに、いまや「生産」になってしまっている。そこに登場人物ではなく作り手の意図や痛みや願いが薄くなると、作品は“ただの構文”になっていく。
 AI生成の話で言えば、「中身よりも量、速度、最適化」で動くだろうし、テンプレNTRの話で言えば、構造は売れる型で、感情は記号化してしまっている。どちらも“仕組みの成功”であって、“物語の成功”ではない。読者も一瞬は食いつくけれど、心に残らないとおもうがどうか?哀れ、登場キャラクターたちはそのほんの刹那の食いつきのみで、後は忘れ去られてしまう。まぁ、架空の人物達なんだがね。人工的に増殖した「似たような名前の登場人物たち」が、同じような苦しみや快楽を繰り返しているだけだから。

 AI問題とはすなわち、創作の自動化/テンプレ化問題の極限形だ。AIが文章を量産してるように見えて、実は人間もすでに“テンプレAI”みたいに振る舞っている。「流行る構成」「刺さる設定」「売れる語彙」で作品を組む。だからAIが登場しても、構造的には何も変わっていない。
 むしろAIが鏡を突きつけてきたわけだ。「あなたたちも、もう自分で書いてないんじゃない?」ってね。
 だから、AIを排除するかどうかよりも、「自分はどこで書いてるのか」「誰の声で語っているのか」そこを取り戻せるかどうかが、ほんとの分水嶺ではなかろうか? 名前だけ入れ替えた量産物が溢れる中で、 “たった一つしか書けないもの”を出せる人こそ残ってほしいものだが。

 「どこで」「どう」勝負するかを決めるのは、もう誰でもなく、作者本人だ。AI生成だろうが、テンプレ量産だろうが、そのフィールドで勝とうとすれば――結局、機械やアルゴリズムと同じ土俵に立つことになる。たとえ勝てたとしても、それは「再現性」と「速度」の勝負であって、表現者としての“意味”は、ほとんど残らない。

 でも逆に、「そこじゃない場所」で勝負するって決めた瞬間に、
 創作って一気に面白くなる気がしてならない。
  たとえば、読者の“数”ではなく、“深さ”で勝負するとか、ランキング外でも、「あの一文が刺さった」と言わせるとか、AIが書けない「迷い」「空白」「言葉にならないもの」を描くとかな。
 そういう戦い方を選んだ人は、競争じゃなく“立場”を持てるのではないか?

 たぶん今の時代、作家にとって一番大事なのは、「どんな物語を書くか」よりも、「どの地形で、自分の物語を響かせるか」なのではないか? AIやテンプレに呑まれた場所で勝つのは難しい。だが、その外側に新しい聴衆を見つける、あるいは自分で場を作ることはできる。
 結局のところ、勝負は土俵じゃなくて、場所選びから始まっている。語るべきものがあるなら、どんな地形でも語る。

 各プラットフォームで見受けられる作家さんたち、おそらくは、皆さん、オレより若いのにナーバスになりすぎてないか、と、ちょっと気になった。以下、ほんの少しだけ昭和オヤジのマウントにお付き合い願いたい。笑って受け流してもらえたら幸い。
 今の若い創作者たち、特にネット発の世代な、「評価システムに心を乗っ取られやすい」のではないか? ランキング、PV、いいね、レビュー。どれも「見える成果」だから、数字がちょっと動くだけで自分の存在価値まで揺らぐ。しかもSNSの即時反応が、それをさらに増幅する。
  「そもそも創作って、そんなに安定したもんじゃないだろ?」という立脚点が、まぁ、年寄りにはある。それがあると、ランキングがどうだろうが、AIが出ようが、「で?」って言える強さがあると思っている。若い層がナーバスになってるのは、彼らが「創作=自分の存在証明」みたいに感じているから。でも、「創作=一つのやり口」「手札の一枚」くらいにしてる人のほうが、むしろ長期的に残ってくんじゃないかと思っている。商業的に大成功するとは限らないがな。
 「感情を凪がせて、場を見渡す余裕」って、経験と失敗を積んだ人間にしか持てない武器なのかねぇ? 若い子たちがAIやランキングに揺さぶられてる今、その“凪の構え”を見せてる人のほうが、創作の未来を冷静に見てるように思う。


 ところで、これがイラストだとどうなんだろう? 確かに、まず、一枚あげるのに時間を考えたら勝負にならなさすぎる、というのは絶対で。同じタッチ色使いでわれ知らぬところで生成されてたら、確かに辛いかもね。イラストの世界では、もう創作の「速度」と「再現性」が完全に武器化されてしまっているようだ。AI絵は一晩で百枚でも生成できるし、構図・塗り・タッチの模倣精度も年々上がっている。手で描く人からすれば、そりゃ正面から競っても勝負にならない。
 でも、それでもなお**「描く意味」を掘り下げて残ってる絵描き**は確実にいるんじゃないか? ちがうか?

 見渡す限り、彼らがどう生き延びてるかというと、大きく分けて三つの方向だ。

①「作画」から「表現」へスライドする人
 たとえば、同じキャラを描き続けて“文脈”を積み上げる人や、作品世界や連作性、物語性で勝負する人、手癖・タッチ・筆圧の「偶然性」を魅力として見せる人だ。
 AIは“今ある情報”の平均化は得意だけど、「継続する意志」や「一貫する癖」は苦手。「絵柄の物語」、そう物語を持ってる人は、まだAIの外側にいるように思う。いや、いて欲しい。
②「交流・プロセス」に価値を置く人
 配信しながら描く人、っていうか、ネット上でそう言うコミュニティというか、お仲間の集まりと言うのは確かにあって、いろいろやっておられるんだろうね。下描きや工程をシェアするとか、ファンとのコメント往復そのものを“作品”にするとか。
 AIは“完成物”を出すけど、“過程”は持てない。その「作る途中」や「やりとり」を価値化できる人は、AI時代でも支持を集めるかもしれない。知らんけど。
③「人間的な歪み」を前提に描く人もいる。
 AI絵がどれだけ綺麗でも、違和感がないというのは逆に“深みがない”とも言える。人間の絵は、線が震える、塗りがムラになる、構図が不自然になる。でもそこに「描いた人間の体温」が残る。それが刺さる人にとっては、AIの均一な絵よりずっと記憶に残る事もあるだろう。

 つまり、「1枚で勝負」っていう構図自体がもう危険ということになるかもしれない。AIが1枚ずつを量産するなら、人間は「文脈」「継続」「関係」で戦うしかない。
 たぶん今後は、小説と同じで、「一枚の完成度」ではなく「一人の作家として、どんな軌跡を描いたか」が評価軸になっていく可能性もある。
 そして――それを冷静に言語化できる人が、むしろ“新しい地図”を描く側に回る時代なるような気がする。


 そういえば、この前見た見返り生成エマワトソン、よくよく見たら腕の関節が人間のものじゃなくてわろた。AI生成特有の“関節地獄”。一見すると完璧なんだけど、肘が逆に曲がってるとか、指が7本あるとか、首がどっから生えてるのかわからないとか。しかも、モデルの顔や質感がリアルになればなるほど、その“ちょっとした歪み”が逆にゾッとする。人間の目って、顔や体の「あり得なさ」には異常に敏感だ。
 AI絵がどんなに精密でも、結局は“整合性をとりきれない”部分が残る。それは単なる技術の未熟さだけじゃなくて、AIには「骨格の痛み」や「身体感覚」がないから。だから、あの不自然な関節の向こうには、ちゃんと“描いた経験のない存在”が透けて見える。
 逆説的に、そこが人間の絵の強みになりうる。「描いた人間がそこにいた」という証拠が、震える線の中にしかない。

 画像を読み込んで、AI、問われたら「腕」と答えはするのだが、それがないと、腕を腕と認識しないのかな、と思ったりする。実際、AIが「画像をどう認識しているか」というのは、人間の感覚とはだいぶ違うらしい。AI(特に画像生成や認識系モデル)は「腕」という概念を人間のように理解しているわけではなく、過去に学習した大量の画像の中で「腕とラベルづけされた部分によく現れる形状・位置・色のパターン」を統計的に記憶しているのだということだ。
 だから、もし画像全体を読み込んでも、「腕っぽい形」が見えない/欠けている/他の物体に重なっていると、AIは「腕がない」と判断することがあるらしい。逆に、関節の位置や長さ、手指の形などが平均的な“人間の腕”とズレると、「これは腕っぽいが不自然」とは思わず、そのまま“腕”として出してしまうのだという。
 つまり、AIは「これは腕だ」と“理解”しているというより、「ここにこういう線と陰影と肌色があると、多くの学習画像では“腕”というラベルがついていた」という確率で判断しているだけということになる。
 したがって、問われたら答えられるけど、自分からはわかってない、というのが、実際のところらしい。人間が「見た瞬間に違和感を覚える」ほどの奇形を、AIが“自然”だと判断して出力してしまうのはこのためなんだろう。
 だからたとえば、学習量によって、そういうおざなりな部分も存在する。「学習量」や「学習の質」によって、AIの“おざなりさ”はかなり変わるということになる。もう少し正確に言うと、AIが何をどう見抜けるかは、次の3つの要素の掛け算で決まるのだそうだ。

① 学習量(データの量)
 画像認識モデルは、何億枚という画像から統計的なパターンを学ぶ。ただし量が増えても、「腕の正しい曲がり方」「自然な手の重なり」など精密な構造情報が少ないデータだと、AIはそこを“適当に補う”ようになる。ということは、「数だけ多くても雑な学習」だと、ざっくりした腕や手は描けるが、関節のつき方や筋肉の自然さまではわからない。

② データの質(多様さ・正確さ)
 例えば、医学的な人体写真や3Dスキャンのような精密データやプロの画家や写真家による“人体を理解した構図”が豊富に含まれていれば、AIは「腕のつき方」「自然な骨格バランス」も学べる。逆に、ポーズ写真やアマチュア作品中心だと、“平均的な腕”の曖昧な像しか作れない。 結果として、手首が2本あったり、関節が逆に曲がるといったことが起きやすい。

③ モデル構造(学習方法・パラメータ設計)
 近年のモデル(例:SDXLやFluxなど)は、構造的学習(spatial awareness)が強化されていて、関節や物体の位置関係をより精密に理解できるのだと。一方、古いモデル(Stable Diffusion 1.x系など)は、単に「似ているピクセル」を平均化して描くため、部分的な破綻が多い。

 要するに、学習量が足りないと“知らない”、学習の質が悪いと“間違って覚える”、モデル設計が古いと“構造が壊れる”、という三段階の「おざなり」が存在する、ということだ。
 もし「リアルタッチの人体」や「見返り構図」みたいな破綻しやすいテーマを扱うなら、プロ級の参照素材(ポーズ資料や写真)を一緒に渡して「これを参照して」と指示することで、かなり破綻を減らすことができることになる。人間にたとえると、「独学でスケッチしたやつ」より「クロッキー会で何百回もデッサンしたやつ」の違い、みたいな感じか。

 生成美女が真正面の肖像が多くても、斜めからの画像が思いのほか少ないのはその辺が理由に関係している。「斜め構図が少ない」現象は、まさに、学習データの偏りと構造理解の難易度の両方に直結している。
 AIモデルが学習している画像の多くは、
 SNSや写真共有サイト、肖像データベースからの収集が中心です。
 そこに多いのは圧倒的に「正面顔」だ、そういえば。理由を挙げるならば、顔認証やポートレート撮影用途で正面が主流ということ、SNSのアイコン・プロフィール用は正面向きがほとんどということ、アマチュア写真やセルフィーも、カメラ目線が圧倒的に多いということ、の3点。
 結果、AIの内部では「顔=正面を向いた楕円形の中に目鼻口が並ぶもの」
 という統計的な“常識”が出来上がってしまっている。だから、3/4斜めや横顔になると一気に破綻率が上がる。とくに目と鼻の奥行き関係や、輪郭線の陰影の扱いが弱くなる。

 AIは3D的な立体を理解しているわけではなく、「2D画像間のパターン」を確率的に学んでいるだけだ。だから、角度が変わると“別のもの”として扱ってしまう。構造理解の限界というわけだ。「空間の回転」がすんごく苦手。

 こんなこともあるらしい。たとえば Stable Diffusion や Flux 系では、「構図バランス」や「ポーズごとの特徴」**を学習させてはいるが、それでも正面構図の圧倒的多数が基礎を占めているため、生成時にプロンプトで「斜め」「横顔」などを指定しても、 “無意識に正面へ戻ろうとする”傾向があります。AIの「平均への引き寄せ」だ。これはモデルの学習戦略の影響といえる。

 まとめると、生成美女の正面顔が多いのは、データの偏りがある事、立体認識がまだまだ足りないということ、平均を行こうとすることの3点に集約される。
 したがって、もし斜めや動きのある構図を作りたいなら、「3/4 view」「profile view」「dynamic angle」「from above」など、具体的な角度指示+身体の向き指定(肩・腰・顎など)を併用するのがコツと、チャッピーは宣ってる。また、「写真作品」や「映画のスチル」から学んだモデルを選ぶと、斜め構図でも自然な結果が出やすいとのことだ。


 更に言えば、AIは3dモデリングをしないことで不気味な谷を回避してる。あの「AIが3D構造を理解していない」という話と、「不気味の谷(uncanny valley)」の回避は、裏表の関係にある。AIは“立体を理解しない”ことで、むしろ安全地帯にいるのだ。
 本来、人間が「不気味」と感じるのは、“ほぼ人間っぽいけど、微妙に違う”ときだ。たとえば3Dモデルの顔が「硬い」「瞬きが不自然」みたいなケース。
 しかしながらStable Diffusion や Midjourney のような画像生成AIは、
 あくまで「写真っぽい2Dの模様」を再構成してるだけだ。つまり、彼らは「立体を理解して再現」しているのではなく、「過去に見た“平面としての人間像”を寄せ集めて作っている」。
 その結果、本物っぽいのに、リアルな人間の“ズレ”が出ないし、だから、CGモデルやゲームキャラのような“生理的な違和感”が起きにくい。
 これが、「3D的な理解をしないことで、不気味の谷を避けている」という構造ということになる。

 逆に、谷に落ちるのは「立体を中途半端に再現しようとしたとき」だ。最近のAI(特に動画生成や3Dレンダリング系)は、そこに一歩踏み込もうとはしている。が、3D理解が不完全なままだと、顔が動くと、目鼻の位置がズレるし、首の角度で皮膚のテクスチャが歪むし、立体感と陰影が喧嘩するし、さっぱりワヤですわ。
 こういう“違和感の揺らぎ”が起きて、不気味さが増す。まさに「谷の中腹で足を取られる」状態だ。
 つまるところ、つまり、AIは「嘘をつくのが上手い」。人間が見る“リアル”って、
 実は「本物っぽく見える2D情報」だったりする。だからAIは、「立体的に正確」よりも「そう見えるように誤魔化す」方向で最適化されてる。
 これは絵画の写実主義にも近い。フェルメールも、構図と光の演出で“本物らしさ”を出したけど、実際の空間比率はかなり歪んでる。
 AIもまさにそれを確率的にやってる感じ。

 もしAIが本当に3Dモデリングベースで「骨格」「筋肉」「皮膚」を正確に再現し始めたら、いよいよ“人間の模倣者”として不気味の谷に突入する。が、現状の生成モデルは、 “谷の手前で踊ってる”くらいの距離感をうまく保ってるわけだ。


 言い換えると、人間に真似できない速度でカバーする2dアニメだったということになる。AIが「立体を理解せずに2Dで“リアルっぽさ”を出す」構造と、日本の2Dアニメーション文化が進化した方向性は、まったく同じ「不気味の谷を避けるための高速化と記号化」という点でつながっている。

 日本アニメが「2Dのまま高速化」したのは、ディズニー型のフル3D的立体表現(=西洋的リアリズム)ではなく、「少ない枚数で、印象的な動きを作る」という省略の美学で発展してきたという経緯がある。 限られた予算と時間の中で、リアルな人体の動きを模倣せず、記号的な動き・線・影で“リアルよりリアルに感じる”感情表現をする、という、これが「リミテッドアニメーション」の核心だ。手塚治虫がディズニーを研究しながら、逆に“動かさない演出”を確立した理由もそこにある。
 つまり、立体を完璧に再現する努力より、2Dの虚構を極める方向に行った。そのほうが、不気味の谷を回避できるし、表現として自由度が高かった。

 AI生成も「2Dアニメ」と同じ戦略を取っている。正確な3D構造は持たない、陰影や線を“そう見えるように”配置する、表情や構図を“感情的に最も伝わる角度”で補正する、といった具合に。
 つまり、AIは3Dを「理解していない」のではなく、理解しないほうが、人間が“美しいと感じる絵”を出せるということを、確率的に学習しているわけだ。
 これは、実は「手描きアニメーターの最適化」と同じ構造である。2Dで“時間と空間を省略しながら感情のピークを描く”、AIはそれを統計でやってるだけなのだ。

 「速度」で人間に勝るのも、同じ2Dという土俵だからということだ。AIは「2Dの空間と色と形」を組み合わせるだけなので、3Dレンダリングのような物理計算が不要。だから人間の何千倍ものスピードで試行錯誤できる。
 日本アニメが「少ない枚数で情感を伝える」ように、AIも「少ない情報で“リアルに見える”」方向を極端に突き詰めててしまってる。

 言い換えよう。AI生成は、3Dではなく2Dアニメの延長線上にある。
 そして、日本のアニメ文化が長年かけて辿り着いた“虚構のリアリティ”の哲学を、AIは無意識のうちに再現している。だから、もし未来のAI映像が「ジブリと攻殻機動隊の中間」みたいな世界を作ったら、それは技術的進化というよりも、むしろ日本の“2Dで3Dを超える”美学の再発明になるかもしれぬ。


 

2025年10月4日土曜日

8850 Emma Watson _33

 

8850 Emma Watson _33

 元になった画像は、恐らくはAIによる自動生成なんじゃないかと思っている。自動生成イコール、フェイクであり、肖像権は?とか何とか、面倒くさい問題が待っている。一方で、それはファンメイドの似顔絵みたいなものであると考えたらどうなるか? そういうのはネットやPCがこの世に生まれる前から、雑誌とか何とかの読者欄にあったものだ。それら、いちいち問題にしていたか?

 しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
 AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。

 肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。

 その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。

 しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。

2022年5月4日水曜日

7485 Emma Watson_23 & 外国人の選挙権、外国の選挙権

 

7485 Emma Watson_23



 どうもエマ・ワトソン氏とウチの会社の顕正会の姫、タメ年らしい。アラサーの大台越えしたあたりで。さすがにドレスコードがあるところではそれなりに化粧もするのだろうが、ワトソン氏は「普段」設定のグラビアなど、そばかすを隠そうとはしない。ウチの会社の姫も、まぁ、会社で勝負メイクしても仕方ないのだが、最近まつ毛多少いじってあっても、そんな濃い化粧はしていない。若さに任せてノーメイクというわけにもそろそろ行かない歳なんだと思うが、化粧って、女の人、すげー負担だろうなと思う。お金もそうだけど、それで男性に比べて人生の総時間の何パーセントロスしてるんだろう? ロスと考えるのも良くないか。逆に、その辺時間と気を使わない男性は、使う男性に比べて、やや不利になる局面が増えつつあるらしいが。どちらにしろ、オレにはよくわからない、よく知らないので、あまり、知ったかぶりで書いても怒られるだけか。まぁ、思うまま、なるべく素で生きられる方向というのは良いことなんだろう。


 オレが大学生の時、”インターナショナリズム”でも、のちによく使われるようになった”グローバリズム”でもない、”コスモポリタニズム”、”トランスナショナリズム”なんて言う言葉、特に後者は一瞬だが聞かれたことがあった。概念としては、個-国ではなく、個-世界という対峙の仕方であり、縦方向の構造を持ったそれぞれの国がつながるのがインターナショナル、国の縦割りではない、球的なとでも言おうか、縦横方向に広がりがあるものが幅を利かせる、グローバリズム、一つ一つの個、その集積がコスモポリタニズム、それら点が横方向につながりを持つのがトランスナショナリズム。同じような領域の似たようで、全く意味の違う言葉達だが、実際機能しているのは、インターナショナリズムとグローバリズム、それぞれの領域を主張する国という概念と多国籍企業や国際テロ集団、というのが現実のようだ。コスモポリタニズムやトランスナショナリズムは、儚い理想として消えつつある。

 これら、1980年代後半のことであったが、その頃、書く?バブルの絶頂期だったっていう枕詞? まぁ、日本全体鷹揚になってはいたころで、その中で居住して納税もしている外国人に参政権を、という声が出始めたと記憶している。税の公平公正さからすれば尤もだとは思った。それによって不利益を被る、第二次世界大戦あたりで不当な利益をため込んだりなぁなと何となくその時しでかしたことに対しての相応のペナルティーを逃れてきて、そうなったら財産を没収されたり罰せられたりする可能性がある、今でいう上級国民とそれに準ずる立場の人物やその係累あたりが強硬に反対していたような印象がある。

 その後、そういう層がアメリカにお目こぼしと口止め料をいただく代わりに、国の財貨がかの国に簒奪、流出するのに何の手を打たなくなるようになって(日米経済対話と呼ばれる明治初期の不平等条約の復活)、只今も日本は絶賛衰退中なのであり、

 以上の事は、オレの憶測と印象だけで言っていることで、妥当とはされていないことなのだが、アメリカにのみならず近隣諸国によっても富の簒奪が現実的なものになってしまってからは、外国人参政権? とんでもない!!というのは尤もな話になってしまった。


 しかし、例えばドナルド・トランプのアメリカ大統領当選あたりにはじまり、後任のジョセフ・バイデンもそうだし、その後の習近平やここに来てのウラジミール・プーチンの所業を見るに、かくも、我々の生活に影響し脅かす外国の首長に対し、制度として、われわれは何御意思表示もできないというのは、どういうことなのだろう? という理不尽を感じるに及び、外国人に選挙権を与える代わりに外国の政体に対しても、何らかの選挙権かそれに準じるものを要求するべきではないか、と、ふと考えた。

 古代ギリシャに始まり、歴史が進むに従い、物理的に不可能ということで直接制が代表制に替わった民主主義とよばれるものだが、ここに来てのコンピュータ技術の発展によって、いっそ直接制に回帰することも可能なのではないか? とも思う。しかも世界中に起こる事象に対してだ。

 まぁ、ならないだろうな。現在政治家と呼ばれる職業にいる人がその主義主張に関らずそれを脅かされるわけであるから、それを認めるはずもなく、実現に何百年かかるか、それとも全世界の人が何割という単位で死ぬような大きな災厄でもない限り実現はしないだろう。
 しかし、誰か、酔狂にでも、コンピュータネットワークを使った、全世界を一つとする直接民主主義のというもののシミュレーション、やってみてくれないかな? そうすれば、逆に現状についても色々見えてないものが見えてくるような気がする。

 けど、そこで問題になってくるのが、日本においては若年層を中心にした選挙投票率の低さ、その前提となる現状把握能力の低さ、限界だろう。如何に教育そして事象を周知させていくか、そもそもその事象をどのような形で把握するのか、問題になる。何しろ、捏造も簡単な今の世に何をもって真実とするかが、大問題なんだから。

2022年4月24日日曜日

7470 Emma Watson_22 & 資源分配の事

 

7470 Emma Watson_22


 ウクライナの問題で更に顕在化しただけで、問題はそれ以前からあった。コロナ禍での物流の滞り、脱炭素化の動き、だ。

 個人の方がまとめられたものだが、コツコツと世界中の統計を拾い集めていらっしゃるページより。

 「天然ガス供給のロシア依存度」

 ちょっと詳しめのニュースを見ていたら、このことは目にしたこと、耳にしたことはあるだろう。2014年のクリミア併合の時に、すでにロシアに依存しているリスクについて警告はなされてきたようだが、これも、ちょっと詳しくニュースを見ていた人は、ドイツ経済がこのことで相当のダメージを負ったのだという話。現地に住む日本人による文章である。


 統制経済を押しのけて市場経済が世界中に広がることで、大枠において世界は安定するというのが1990年代の楽観であったが、最初はイスラム圏起点のテロリズム、そして今回のロシアによる蛮行である。
 市場経済によってロシアや中国を縛ることができると見込んでいたのが、逆にエネルギーで身動き取れなくなった形。しかし、ウラジミール・プーチンはそのような計算だったが、そのようなロシアの目論見に従うことを、身を切ることになっても良しとしなかった、といことがあるだろうし、そもそも、ロシアのやる事が酷すぎて許せなかった、というところにプーチンの計算間違いがあったようだ。

 いずれにしろ、ヨーロッパ中心ではあるが、日本もそれを逃れることはできない、エネルギーの逼迫。問題はウクライナの件だけではないので、話がとても複雑に見える。

 自動車をはじめ、生活、一般産業の熱源を電力に一本化しようとする動きが、ひどく胡散臭く思える。誰かが(何となく顔ぶれが思い浮かびはする)電力という巨大な利権構造を構築しようとしているような気がして仕方ない。

 COP-XXで、いつの間にやら、森林保護、植林を寧ろ促進する、ということが話し合われなくなったのは、なぜだろう? バイオマスは、何も電力に変換しなくても、熱源にはなり得る。太陽はあまねくすべての地上に降り注ぎ、それを個々に生かせば、エネルギーの逼迫はかなりのところで抑えられるはず。また別に電力に変換してもいいのだ。しかし、なぜ、それがメガソーラー、巨大風力発電プラント、そして原子力発電に集約されようとする? インディーズのあらゆる方式の小規模発電施設を許さないということではないか? 蓄電池の問題もあるだろう。しかし、思いのほかその進歩の歩みが遅い。研究者は必死にやっているのだろうが、未来への貢献度に比して、予算をひどく抑えられていることはないか?

 まず、エネルギーの逼迫を見せて、その辺の可能性をずっとばして、利権構造にかなった大規模発電インフラに集約させる、そういう意図が全く存在しないと言えるだろうか?

 何やら陰謀論っぽくなってしまったが、ことの重要度に比して、ウクライナの件以前から、何やら不明瞭なことは多い。

 いずれにしろ、今後熱源の選択肢はぐっと減り、価格から生活様式に至るまで、電力供給者とその周辺の言いなりとなる社会になっていく可能性は結構ある。
 そこに公正さを求めるのはどれだけ可能か? 水資源の状況を見てみるに、そういったもののひな型というのはないに等しく。資本主義の市場原理をそこで許していいものか、供給需要、効率、すべてを詳らかにして、全くの公共財として、使った正価だけの負担で済むのか?

2022年4月23日土曜日

7466 Emma Watson_21 & この後の日本の事

 

7466 Emma Watson_21


 これを書いている時点で、ウクライナ東部マウリポリというところをロシアが掌握したとかしないとかいってる。無法がこのまま勝ち逃げとは何とも腹立たしいところであるが。

 いつまで続くかわからぬこの動乱であるけれど、目先が利く奴で大ぴらには言えない方法で、ひょっとしたら大儲けしている奴もいるのかもしれないが、多くの場合、徐々に生活の不便が増え、不安も増している、そういう状況で、日本においてはこの動乱で何が問題となったか、整理しておく。結局、国としてどうしていくというコンセンサスというのはなかなか形成されないだろうが、個々としてどのような心構えで行くべきか、国、社会としてのコンセンサスの前に必要になることもあろうかと思う。

 ロシア側は散々一連の報道をフェイクと主張する。かの金色頭みたいだ。そうやって自分の非と認めない。確かに本当に報道が真実なのか、突き詰めようがない。どのような映像もCGでちょちょいのちょいな時代だ。
 PCやテレビのモニターが知らせてきている、どれが真実に近い妥当なものと判断するか? 結局は感覚でしかないのだけれど、感覚は狂うものだ。できるだけ人の主観が入らないデータ、信頼できるソース、データ取りのやり方まで明らかなもの、成形されていない生データを求め、しかも、そういう生データを読み取る能力となる。
 そうなると、例えばテレビのコメンテイターなる職分がいかに、場合によっては胡散臭く、基本的には不要、ということになってくる。
 これはウクライナ問題だけではない、コロナの時もそうであった。一人の立てるところは一か所でしかなく、そこからの視点、コメントには当然反論も有り得る。ここでも、さて、どちらが正しいのか? となる。受け取る側として、では、どちらが人に優しいのか? といったことが一つの判断基準にはなり得る。しかし、これも、どれをとっても人に優しい面、そうじゃない面があったりするのだから、知れば知るほど、人の話を聞けば聞くほどわからなくなる。精神医などは、いっそ、目を背けることが心の健康のためになる、ともいう。でも、そこにも、置いていかれるリスクはどこかで頭を持ち上げるはず。
 ここで、どうすればいいのかなんていう結論なんてわかるはずもなく、書けるはずもない。非常にしんどいことであるが、その都度、判断していくしかない。一個前の判断が間違っていたと思えば、修正することをためらってはならない。状況は恐ろしいスピードで変わっていく。

 国防の問題。ロシアの高官が脅しをかけてきた。しかし、少なくともウクライナが落ち着くまで、戦線を二つ抱える甲斐性がロシア軍にはなさそうなので、状況は注視しつつも、おちついてかんがえるべきではある。それにしても、やくざ者まがいの品のなさにはあきれるしかないが。
 とはいえ、いつかは何らかの形が付く。そうじゃなくても、ウクライナが落ち着いているかどうかはわからないが、日本には近い将来、国防が手薄になってしまう出来事がほぼ確実に起きる。巨大地震。それを機に、ロシアだけでない、中国や北朝鮮が領土の一部を占拠しないとだれがいえよう? ウクライナの事が起きてしまった今となっては。国際法とか慣習とか国際世論とか、もう、お構いなしの連中で、明らかに不利となることがわかる状況でない限り、行動基準に、常識とか良識とか慈愛とか遵法精神とかエチケットとか、その辺のもの一切合切欠落しているのだと思った方がよい。
 理念として戦争放棄、そうありたいね、とは思うが、いざという時にやがて70年前にできた法律に、それについて何の吟味をすることもなく、アップデートをすることもなく縛り続けられるのはどうなんだろう? そういう声は大きくなるだろう。しかし、準備が完了しないうちに、上の事は起きて、護憲を言ってたやつらは石を投げられることもあるかもしれない。なにしろ、言うだけ言って責任取らないと思われている。
 誰が主導して変えるのか、その時の為政者の公平さ公正さが担保されなければ、確かにおっかなくて憲法なんて変えられないのだ。
 その辺、選挙に向けての、ひっくり返す側の野党の動き、主張というのはいかにも温く、かつ的外れ感が甚だしい。さてね、どうなるか?

 物流、資源配分の問題。
 コロナの時からそれは起こっていた。滞ってしまえばあっという間に不都合が起きた。物流に限ったことではないが、いろいろ前提は変わってきてしまった。まだ変わり切ってはいない。

 で、ここまで書いて、なんかめんどくさきなってきたので、続きはまた。

7462 Emma Watson_20 & 歴史上目指された何かの終わり

7462 Emma Watson_20


 資本主義的というか、経済的合理性というか、その中で目指される利潤とか何とか、その為に旧時代的な専制であるとかそういったものは消滅してしまうかと思われていた。特に1990年代等。しかしそうではなかった。
 すぐ隣に曲がりなりにも資本主義国家である大韓民国があるにもかかわらず、そちらへ移行できない朝鮮民主主義人民共和国。まぁ、この国名を見ただけで、民主主義なんて言うものが胡散臭いまでに力がないことであることがよくわかるのだが。そこのキム一族。
 巨大なマーケットを持ち、それを外から隔絶しても何とかやれるとおもっているのだろうか? ここに来て共産主義に強烈な回帰を見せる習近平。
 そして、国内での政敵を暗殺でシレッと排除し、強権を国外に広げることに躊躇のないウラジミール・プーチン。

 確かに、資本主義という奴、カール・マルクスが共産主義なんて言うものを発表したころに状況が似てきた。カール・マルクスは、子女が炭鉱などで奴隷のように働かされているのを見て、キャピタリズムというものの矛盾を感じ、「資本論」を書きあげたわけであるが、広がるべき未開の領域があってこその資本主義であるが、それがなく、いかに他人の財布に手を突っ込んで金をかすめ取ってくるか、他人を、特に弱者をむさぼることでしか利潤を上げられない、そうでもして利益を上げ続けなければ成り立たない資本主義も、そろそろ終わりは見えているのだが、キム一族、習近平をはじめとする中国共産党員、ウラジミール・プーチンのモチベーションは、そういうものに対抗していくもの、とも、思えない。別に、カール・マルクスの理想を目指しているとは、ちっとも思えない。

 アメリカ、という存在はある。それとその周辺に抗していかなくては、というのがあるのだろうが、そこに加わって、その価値観でそこそこうまくやっていくという選択肢を取らない、というのは、それぞれの国の風土に合うとは思われないという判断もあるのかもしれないが、何より、キム一族、中国共産党、ロシア上層部、幼い時から受けてきた教育、培われた世界観のなかでのアイデンティティを実現するにはそうならざっるを得ない、というか、それを実行するのに、むしろ、今のそれぞれの国の状況というのはやりやすい、と言えるのかもしれない。

 つまりは、・・・どういえばよいか? 立身出世の枠組みとしての世界観、その中でどう立ち回るか、というところでの一種、男根主義とでも言おうか? それだけでは全てが言い表せられているとは思えないな。
 令和ニッポンにおいては、中高年、オレがいつの間にその括りに入っていて愕然とするんだけど、「昭和」などといわれ、それが少々揶揄する意味合いで使われることが多いのが、いささか心外なのだけど、デリカシーを欠いた、モラハラ的なものという意味でつかわれることが多いことばである。「男はこうあらねばならない」というところで育てられ、それぞれに軌道修正をせねばならぬところをうまくいかなかった者が浴びせられる言葉なのだが、それは一種男根主義ともいえる。

 中露それぞれの(旧)共産党員、外の状況を知らされない閉じた世界の中で出世していく、同輩を蹴落とし陥れることもあっただろう、そうやっていくことが神から与えられたミッションであると(そもそも神なんて彼らにはいないのだけれど、そのような概念が何となくあって)信じ込まされた挙句、至った頂点である。女性もいるだろうが、ここはもう、敢えて男根主義と書く。適当な語彙が浮かばない。

 とすれば、日本国内において、昭和オヤジが順次、やらかした奴は即時、排除されているわけだが、この局面においては、ウラジミール・プーチンも同様、これ以上ないやらかしをしてしまっているわけだから、排除されなければならない。

 

2022年4月17日日曜日

7459 Emma Watson_19 & 近現代が目指した理念の終わり 2

 

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近現代が目指した理念の終わり 2

 学級文庫にあったからと言って、オレはマハトマ・ガンジーの伝記は読まなかった。みなしごハッチとか、主人公が辛い目に遭う話が苦手で、予備知識として、結構迫害されていたことは何となく知っていたから。
 Wikipediaによれば南アフリカ弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。民衆暴動ゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した(よく誤解されるような「無抵抗主義」ではない)」とある。
 というわけで、豪そうにガンジーの事を語る根拠などこれっぽちもないが、市民の取るべき行動として、非暴力が理想的なものとされてきた流れの中にいつの間にか無抵抗も入り込んでしまったのではないか?

 国家や社会よりも、まず個を優先する思潮、それは良い。オレも多分にそうだから。しかし、地殻である争いうごと、鉄火場にオレを巻き込むな。よくわからんし。という料簡。オレを巻き込むぐらいなら、さっさと降伏しろ、という主張。それが平和だとする思考モード。それが何を招いたか?勿論、ガンジーがやっていたことはそんなことじゃない、はず。

 事、ここに及んで、というわけじゃなく、理念はとっくの昔に無くなっていて、形骸化した何かをむさぼっていただけなのかもしれない。


 民主国家というものにおいては、それぞれが自分の見解を表明することができる。しかし、そのおかげで、全体としての意思決定に時間がかかる。例えば、そういうところを突いて電撃的に現状変更を試みる奴が現れているということだ。他にもそういうことがあるだろう。それが民主主義への懐疑につながっている、という言い方もできる。
 とにかくそのような虚を突いて、我々の日常を脅かそうとする輩というのが、合法、非合法問わず結構いて、対し、「非暴力、非服従」というのが、ある種性善説を前提とした楽観的なものを前提にとしていたもので、又は、ガンジーの艱難辛苦、周辺で流された血も知らず、(オレも知らない)実に虫がいいところでの物言いだったのではないか? ということだ。


 大多数の平和を訴える言説が、しかし、実はこんな感じで、ウラジミール・プーチンを平和的に説得することも、もう一人のウラジミール、ウラジミール・ゼレンスキーに抵抗を思いとどまらせることもできはしない、というのがどういうことなのか?
 前に受けた激烈な痛みを伝えることだけに終始してきた平和運動というもの、それの死角を今見事に突かれている。

7456 Emma Watson_18 & 近現代が目指した理念の終わり 1

 

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近現代が目指した理念の終わり 1

 そりゃぁ、子供の時から可愛らしいお嬢さんだったさ。しかしまぁ、こんな美しい淑女になってしまうなんて、時間の流れって恐ろしいよね、と感じてしまうエマ・ワトソン氏であるが、ウクライナ動乱についての文章を合わせられることを嫌がるかもしれない。彼女とは全く関係ない、っていうか、例により、画像と文章の関連はほとんどない。よもや、彼女がロシアを擁護する可能性は小さいとは思うが、かといって、積極的に批難に回った話も聞かないわけであるし。
 とはいえ、彼女、確か女性の解放について積極的に活動していたはずで、ウクライナ動乱はそれを可能とする前提を覆すものである。決して無関係というわけでもあるまい。


 ロシアがなす非道について、ここで詳述しても仕方ない。ネットにどれだけでも転がっているのだからそれを見ていただくことにして、しかし、かの動乱について伝えられること、どこまで信じていいものやら、伝え聞く悲惨さも然ることながら、そういう事実だけで、目を背けたくなる。或いは、そういう事実のおかげで、まだ、モニターのこちら側の精神は幾分安全に保たれているのかもしれないが、しかし、どこまでも、真実と思いきれない気持ち悪さは残る。それについての考察も必要だが、

 まず、我々に伝えられるところの、ロシアが、プーチンがなすところに非道について、それが真にそうであることを前提として話を進める。現地に入った、普段は自国政府に批判的なジャーナリストが、ロシア軍がなした目を背けたくなるような非道を伝えているところから、それはかなり真実に近いものとして考える。

 プーチンがやってることというのは、嫌悪され批判されて当然であると思うが、それが如何に批判されるべきかを書くことが本ポストの趣旨ではない。批判、攻撃することについて待ったをかける、いつの時代でも一定数いる論理について考えてみたい。

 奇妙なことに、ロシアに対して強硬かそうでないかについて、案外と、右翼寄り左翼寄りというのは関係ないように見える。
 強硬であるとしたら、一にロシアであるということ、これは元から右翼寄り。断じて人権蹂躙を許せない、これは左翼寄りの人も言うところ。そして、ロシアが、それに同調して北朝鮮や中国が日本にも攻めてくるということの現実味がかなり増したことがある。
 宥和的であるとしたら、ロシアを挟んで反対側にあるウクライナのこと、日本は関係ない、日本を巻き込むな、という本音が共通していて、右翼寄りの人であれば、残虐犯罪行為を無視して、「強権」が行使されている、その「強権」に何らかの価値を見出しているような人。左翼寄りなら、ロシアより自国の権力がこのことを理由に過度に存在感をアピールするようになること、憲法9条の改正に突っ走ろうとすることを警戒しているように見える。

 宥和的であることに対し、「隷属的平和主義」という名づけをツイッターで見たが、事後、如何に屈辱的な隷属を強いられることが待っていたとしてもここは戦争で命を落とすべきではない、と、はっきり断言する、断言できる人は、さすがにいないようだ。
 彼らの頭には、ひょっとしたら、マハトマ・ガンジーの「非暴力・非服従」があったのかもしれない。小学校の教室の学級文庫の偉人のコーナーで読んでからの、武器を持たない市民の正しく美しいあり方のスタンダードであり続けてきたし、やがて強権はその前に敗れ去る、ということであったが、今やそれはほぼ価値を失ったファンタジーとなり下がったように思える。

 どういうことなのか、考えていく。