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2022年5月4日水曜日

7485 Emma Watson_23 & 外国人の選挙権、外国の選挙権

 

7485 Emma Watson_23



 どうもエマ・ワトソン氏とウチの会社の顕正会の姫、タメ年らしい。アラサーの大台越えしたあたりで。さすがにドレスコードがあるところではそれなりに化粧もするのだろうが、ワトソン氏は「普段」設定のグラビアなど、そばかすを隠そうとはしない。ウチの会社の姫も、まぁ、会社で勝負メイクしても仕方ないのだが、最近まつ毛多少いじってあっても、そんな濃い化粧はしていない。若さに任せてノーメイクというわけにもそろそろ行かない歳なんだと思うが、化粧って、女の人、すげー負担だろうなと思う。お金もそうだけど、それで男性に比べて人生の総時間の何パーセントロスしてるんだろう? ロスと考えるのも良くないか。逆に、その辺時間と気を使わない男性は、使う男性に比べて、やや不利になる局面が増えつつあるらしいが。どちらにしろ、オレにはよくわからない、よく知らないので、あまり、知ったかぶりで書いても怒られるだけか。まぁ、思うまま、なるべく素で生きられる方向というのは良いことなんだろう。


 オレが大学生の時、”インターナショナリズム”でも、のちによく使われるようになった”グローバリズム”でもない、”コスモポリタニズム”、”トランスナショナリズム”なんて言う言葉、特に後者は一瞬だが聞かれたことがあった。概念としては、個-国ではなく、個-世界という対峙の仕方であり、縦方向の構造を持ったそれぞれの国がつながるのがインターナショナル、国の縦割りではない、球的なとでも言おうか、縦横方向に広がりがあるものが幅を利かせる、グローバリズム、一つ一つの個、その集積がコスモポリタニズム、それら点が横方向につながりを持つのがトランスナショナリズム。同じような領域の似たようで、全く意味の違う言葉達だが、実際機能しているのは、インターナショナリズムとグローバリズム、それぞれの領域を主張する国という概念と多国籍企業や国際テロ集団、というのが現実のようだ。コスモポリタニズムやトランスナショナリズムは、儚い理想として消えつつある。

 これら、1980年代後半のことであったが、その頃、書く?バブルの絶頂期だったっていう枕詞? まぁ、日本全体鷹揚になってはいたころで、その中で居住して納税もしている外国人に参政権を、という声が出始めたと記憶している。税の公平公正さからすれば尤もだとは思った。それによって不利益を被る、第二次世界大戦あたりで不当な利益をため込んだりなぁなと何となくその時しでかしたことに対しての相応のペナルティーを逃れてきて、そうなったら財産を没収されたり罰せられたりする可能性がある、今でいう上級国民とそれに準ずる立場の人物やその係累あたりが強硬に反対していたような印象がある。

 その後、そういう層がアメリカにお目こぼしと口止め料をいただく代わりに、国の財貨がかの国に簒奪、流出するのに何の手を打たなくなるようになって(日米経済対話と呼ばれる明治初期の不平等条約の復活)、只今も日本は絶賛衰退中なのであり、

 以上の事は、オレの憶測と印象だけで言っていることで、妥当とはされていないことなのだが、アメリカにのみならず近隣諸国によっても富の簒奪が現実的なものになってしまってからは、外国人参政権? とんでもない!!というのは尤もな話になってしまった。


 しかし、例えばドナルド・トランプのアメリカ大統領当選あたりにはじまり、後任のジョセフ・バイデンもそうだし、その後の習近平やここに来てのウラジミール・プーチンの所業を見るに、かくも、我々の生活に影響し脅かす外国の首長に対し、制度として、われわれは何御意思表示もできないというのは、どういうことなのだろう? という理不尽を感じるに及び、外国人に選挙権を与える代わりに外国の政体に対しても、何らかの選挙権かそれに準じるものを要求するべきではないか、と、ふと考えた。

 古代ギリシャに始まり、歴史が進むに従い、物理的に不可能ということで直接制が代表制に替わった民主主義とよばれるものだが、ここに来てのコンピュータ技術の発展によって、いっそ直接制に回帰することも可能なのではないか? とも思う。しかも世界中に起こる事象に対してだ。

 まぁ、ならないだろうな。現在政治家と呼ばれる職業にいる人がその主義主張に関らずそれを脅かされるわけであるから、それを認めるはずもなく、実現に何百年かかるか、それとも全世界の人が何割という単位で死ぬような大きな災厄でもない限り実現はしないだろう。
 しかし、誰か、酔狂にでも、コンピュータネットワークを使った、全世界を一つとする直接民主主義のというもののシミュレーション、やってみてくれないかな? そうすれば、逆に現状についても色々見えてないものが見えてくるような気がする。

 けど、そこで問題になってくるのが、日本においては若年層を中心にした選挙投票率の低さ、その前提となる現状把握能力の低さ、限界だろう。如何に教育そして事象を周知させていくか、そもそもその事象をどのような形で把握するのか、問題になる。何しろ、捏造も簡単な今の世に何をもって真実とするかが、大問題なんだから。

2022年4月24日日曜日

7470 Emma Watson_22 & 資源分配の事

 

7470 Emma Watson_22


 ウクライナの問題で更に顕在化しただけで、問題はそれ以前からあった。コロナ禍での物流の滞り、脱炭素化の動き、だ。

 個人の方がまとめられたものだが、コツコツと世界中の統計を拾い集めていらっしゃるページより。

 「天然ガス供給のロシア依存度」

 ちょっと詳しめのニュースを見ていたら、このことは目にしたこと、耳にしたことはあるだろう。2014年のクリミア併合の時に、すでにロシアに依存しているリスクについて警告はなされてきたようだが、これも、ちょっと詳しくニュースを見ていた人は、ドイツ経済がこのことで相当のダメージを負ったのだという話。現地に住む日本人による文章である。


 統制経済を押しのけて市場経済が世界中に広がることで、大枠において世界は安定するというのが1990年代の楽観であったが、最初はイスラム圏起点のテロリズム、そして今回のロシアによる蛮行である。
 市場経済によってロシアや中国を縛ることができると見込んでいたのが、逆にエネルギーで身動き取れなくなった形。しかし、ウラジミール・プーチンはそのような計算だったが、そのようなロシアの目論見に従うことを、身を切ることになっても良しとしなかった、といことがあるだろうし、そもそも、ロシアのやる事が酷すぎて許せなかった、というところにプーチンの計算間違いがあったようだ。

 いずれにしろ、ヨーロッパ中心ではあるが、日本もそれを逃れることはできない、エネルギーの逼迫。問題はウクライナの件だけではないので、話がとても複雑に見える。

 自動車をはじめ、生活、一般産業の熱源を電力に一本化しようとする動きが、ひどく胡散臭く思える。誰かが(何となく顔ぶれが思い浮かびはする)電力という巨大な利権構造を構築しようとしているような気がして仕方ない。

 COP-XXで、いつの間にやら、森林保護、植林を寧ろ促進する、ということが話し合われなくなったのは、なぜだろう? バイオマスは、何も電力に変換しなくても、熱源にはなり得る。太陽はあまねくすべての地上に降り注ぎ、それを個々に生かせば、エネルギーの逼迫はかなりのところで抑えられるはず。また別に電力に変換してもいいのだ。しかし、なぜ、それがメガソーラー、巨大風力発電プラント、そして原子力発電に集約されようとする? インディーズのあらゆる方式の小規模発電施設を許さないということではないか? 蓄電池の問題もあるだろう。しかし、思いのほかその進歩の歩みが遅い。研究者は必死にやっているのだろうが、未来への貢献度に比して、予算をひどく抑えられていることはないか?

 まず、エネルギーの逼迫を見せて、その辺の可能性をずっとばして、利権構造にかなった大規模発電インフラに集約させる、そういう意図が全く存在しないと言えるだろうか?

 何やら陰謀論っぽくなってしまったが、ことの重要度に比して、ウクライナの件以前から、何やら不明瞭なことは多い。

 いずれにしろ、今後熱源の選択肢はぐっと減り、価格から生活様式に至るまで、電力供給者とその周辺の言いなりとなる社会になっていく可能性は結構ある。
 そこに公正さを求めるのはどれだけ可能か? 水資源の状況を見てみるに、そういったもののひな型というのはないに等しく。資本主義の市場原理をそこで許していいものか、供給需要、効率、すべてを詳らかにして、全くの公共財として、使った正価だけの負担で済むのか?

2022年4月23日土曜日

7466 Emma Watson_21 & この後の日本の事

 

7466 Emma Watson_21


 これを書いている時点で、ウクライナ東部マウリポリというところをロシアが掌握したとかしないとかいってる。無法がこのまま勝ち逃げとは何とも腹立たしいところであるが。

 いつまで続くかわからぬこの動乱であるけれど、目先が利く奴で大ぴらには言えない方法で、ひょっとしたら大儲けしている奴もいるのかもしれないが、多くの場合、徐々に生活の不便が増え、不安も増している、そういう状況で、日本においてはこの動乱で何が問題となったか、整理しておく。結局、国としてどうしていくというコンセンサスというのはなかなか形成されないだろうが、個々としてどのような心構えで行くべきか、国、社会としてのコンセンサスの前に必要になることもあろうかと思う。

 ロシア側は散々一連の報道をフェイクと主張する。かの金色頭みたいだ。そうやって自分の非と認めない。確かに本当に報道が真実なのか、突き詰めようがない。どのような映像もCGでちょちょいのちょいな時代だ。
 PCやテレビのモニターが知らせてきている、どれが真実に近い妥当なものと判断するか? 結局は感覚でしかないのだけれど、感覚は狂うものだ。できるだけ人の主観が入らないデータ、信頼できるソース、データ取りのやり方まで明らかなもの、成形されていない生データを求め、しかも、そういう生データを読み取る能力となる。
 そうなると、例えばテレビのコメンテイターなる職分がいかに、場合によっては胡散臭く、基本的には不要、ということになってくる。
 これはウクライナ問題だけではない、コロナの時もそうであった。一人の立てるところは一か所でしかなく、そこからの視点、コメントには当然反論も有り得る。ここでも、さて、どちらが正しいのか? となる。受け取る側として、では、どちらが人に優しいのか? といったことが一つの判断基準にはなり得る。しかし、これも、どれをとっても人に優しい面、そうじゃない面があったりするのだから、知れば知るほど、人の話を聞けば聞くほどわからなくなる。精神医などは、いっそ、目を背けることが心の健康のためになる、ともいう。でも、そこにも、置いていかれるリスクはどこかで頭を持ち上げるはず。
 ここで、どうすればいいのかなんていう結論なんてわかるはずもなく、書けるはずもない。非常にしんどいことであるが、その都度、判断していくしかない。一個前の判断が間違っていたと思えば、修正することをためらってはならない。状況は恐ろしいスピードで変わっていく。

 国防の問題。ロシアの高官が脅しをかけてきた。しかし、少なくともウクライナが落ち着くまで、戦線を二つ抱える甲斐性がロシア軍にはなさそうなので、状況は注視しつつも、おちついてかんがえるべきではある。それにしても、やくざ者まがいの品のなさにはあきれるしかないが。
 とはいえ、いつかは何らかの形が付く。そうじゃなくても、ウクライナが落ち着いているかどうかはわからないが、日本には近い将来、国防が手薄になってしまう出来事がほぼ確実に起きる。巨大地震。それを機に、ロシアだけでない、中国や北朝鮮が領土の一部を占拠しないとだれがいえよう? ウクライナの事が起きてしまった今となっては。国際法とか慣習とか国際世論とか、もう、お構いなしの連中で、明らかに不利となることがわかる状況でない限り、行動基準に、常識とか良識とか慈愛とか遵法精神とかエチケットとか、その辺のもの一切合切欠落しているのだと思った方がよい。
 理念として戦争放棄、そうありたいね、とは思うが、いざという時にやがて70年前にできた法律に、それについて何の吟味をすることもなく、アップデートをすることもなく縛り続けられるのはどうなんだろう? そういう声は大きくなるだろう。しかし、準備が完了しないうちに、上の事は起きて、護憲を言ってたやつらは石を投げられることもあるかもしれない。なにしろ、言うだけ言って責任取らないと思われている。
 誰が主導して変えるのか、その時の為政者の公平さ公正さが担保されなければ、確かにおっかなくて憲法なんて変えられないのだ。
 その辺、選挙に向けての、ひっくり返す側の野党の動き、主張というのはいかにも温く、かつ的外れ感が甚だしい。さてね、どうなるか?

 物流、資源配分の問題。
 コロナの時からそれは起こっていた。滞ってしまえばあっという間に不都合が起きた。物流に限ったことではないが、いろいろ前提は変わってきてしまった。まだ変わり切ってはいない。

 で、ここまで書いて、なんかめんどくさきなってきたので、続きはまた。

7462 Emma Watson_20 & 歴史上目指された何かの終わり

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 資本主義的というか、経済的合理性というか、その中で目指される利潤とか何とか、その為に旧時代的な専制であるとかそういったものは消滅してしまうかと思われていた。特に1990年代等。しかしそうではなかった。
 すぐ隣に曲がりなりにも資本主義国家である大韓民国があるにもかかわらず、そちらへ移行できない朝鮮民主主義人民共和国。まぁ、この国名を見ただけで、民主主義なんて言うものが胡散臭いまでに力がないことであることがよくわかるのだが。そこのキム一族。
 巨大なマーケットを持ち、それを外から隔絶しても何とかやれるとおもっているのだろうか? ここに来て共産主義に強烈な回帰を見せる習近平。
 そして、国内での政敵を暗殺でシレッと排除し、強権を国外に広げることに躊躇のないウラジミール・プーチン。

 確かに、資本主義という奴、カール・マルクスが共産主義なんて言うものを発表したころに状況が似てきた。カール・マルクスは、子女が炭鉱などで奴隷のように働かされているのを見て、キャピタリズムというものの矛盾を感じ、「資本論」を書きあげたわけであるが、広がるべき未開の領域があってこその資本主義であるが、それがなく、いかに他人の財布に手を突っ込んで金をかすめ取ってくるか、他人を、特に弱者をむさぼることでしか利潤を上げられない、そうでもして利益を上げ続けなければ成り立たない資本主義も、そろそろ終わりは見えているのだが、キム一族、習近平をはじめとする中国共産党員、ウラジミール・プーチンのモチベーションは、そういうものに対抗していくもの、とも、思えない。別に、カール・マルクスの理想を目指しているとは、ちっとも思えない。

 アメリカ、という存在はある。それとその周辺に抗していかなくては、というのがあるのだろうが、そこに加わって、その価値観でそこそこうまくやっていくという選択肢を取らない、というのは、それぞれの国の風土に合うとは思われないという判断もあるのかもしれないが、何より、キム一族、中国共産党、ロシア上層部、幼い時から受けてきた教育、培われた世界観のなかでのアイデンティティを実現するにはそうならざっるを得ない、というか、それを実行するのに、むしろ、今のそれぞれの国の状況というのはやりやすい、と言えるのかもしれない。

 つまりは、・・・どういえばよいか? 立身出世の枠組みとしての世界観、その中でどう立ち回るか、というところでの一種、男根主義とでも言おうか? それだけでは全てが言い表せられているとは思えないな。
 令和ニッポンにおいては、中高年、オレがいつの間にその括りに入っていて愕然とするんだけど、「昭和」などといわれ、それが少々揶揄する意味合いで使われることが多いのが、いささか心外なのだけど、デリカシーを欠いた、モラハラ的なものという意味でつかわれることが多いことばである。「男はこうあらねばならない」というところで育てられ、それぞれに軌道修正をせねばならぬところをうまくいかなかった者が浴びせられる言葉なのだが、それは一種男根主義ともいえる。

 中露それぞれの(旧)共産党員、外の状況を知らされない閉じた世界の中で出世していく、同輩を蹴落とし陥れることもあっただろう、そうやっていくことが神から与えられたミッションであると(そもそも神なんて彼らにはいないのだけれど、そのような概念が何となくあって)信じ込まされた挙句、至った頂点である。女性もいるだろうが、ここはもう、敢えて男根主義と書く。適当な語彙が浮かばない。

 とすれば、日本国内において、昭和オヤジが順次、やらかした奴は即時、排除されているわけだが、この局面においては、ウラジミール・プーチンも同様、これ以上ないやらかしをしてしまっているわけだから、排除されなければならない。

 

2022年4月17日日曜日

7459 Emma Watson_19 & 近現代が目指した理念の終わり 2

 

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近現代が目指した理念の終わり 2

 学級文庫にあったからと言って、オレはマハトマ・ガンジーの伝記は読まなかった。みなしごハッチとか、主人公が辛い目に遭う話が苦手で、予備知識として、結構迫害されていたことは何となく知っていたから。
 Wikipediaによれば南アフリカ弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。民衆暴動ゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した(よく誤解されるような「無抵抗主義」ではない)」とある。
 というわけで、豪そうにガンジーの事を語る根拠などこれっぽちもないが、市民の取るべき行動として、非暴力が理想的なものとされてきた流れの中にいつの間にか無抵抗も入り込んでしまったのではないか?

 国家や社会よりも、まず個を優先する思潮、それは良い。オレも多分にそうだから。しかし、地殻である争いうごと、鉄火場にオレを巻き込むな。よくわからんし。という料簡。オレを巻き込むぐらいなら、さっさと降伏しろ、という主張。それが平和だとする思考モード。それが何を招いたか?勿論、ガンジーがやっていたことはそんなことじゃない、はず。

 事、ここに及んで、というわけじゃなく、理念はとっくの昔に無くなっていて、形骸化した何かをむさぼっていただけなのかもしれない。


 民主国家というものにおいては、それぞれが自分の見解を表明することができる。しかし、そのおかげで、全体としての意思決定に時間がかかる。例えば、そういうところを突いて電撃的に現状変更を試みる奴が現れているということだ。他にもそういうことがあるだろう。それが民主主義への懐疑につながっている、という言い方もできる。
 とにかくそのような虚を突いて、我々の日常を脅かそうとする輩というのが、合法、非合法問わず結構いて、対し、「非暴力、非服従」というのが、ある種性善説を前提とした楽観的なものを前提にとしていたもので、又は、ガンジーの艱難辛苦、周辺で流された血も知らず、(オレも知らない)実に虫がいいところでの物言いだったのではないか? ということだ。


 大多数の平和を訴える言説が、しかし、実はこんな感じで、ウラジミール・プーチンを平和的に説得することも、もう一人のウラジミール、ウラジミール・ゼレンスキーに抵抗を思いとどまらせることもできはしない、というのがどういうことなのか?
 前に受けた激烈な痛みを伝えることだけに終始してきた平和運動というもの、それの死角を今見事に突かれている。

7456 Emma Watson_18 & 近現代が目指した理念の終わり 1

 

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近現代が目指した理念の終わり 1

 そりゃぁ、子供の時から可愛らしいお嬢さんだったさ。しかしまぁ、こんな美しい淑女になってしまうなんて、時間の流れって恐ろしいよね、と感じてしまうエマ・ワトソン氏であるが、ウクライナ動乱についての文章を合わせられることを嫌がるかもしれない。彼女とは全く関係ない、っていうか、例により、画像と文章の関連はほとんどない。よもや、彼女がロシアを擁護する可能性は小さいとは思うが、かといって、積極的に批難に回った話も聞かないわけであるし。
 とはいえ、彼女、確か女性の解放について積極的に活動していたはずで、ウクライナ動乱はそれを可能とする前提を覆すものである。決して無関係というわけでもあるまい。


 ロシアがなす非道について、ここで詳述しても仕方ない。ネットにどれだけでも転がっているのだからそれを見ていただくことにして、しかし、かの動乱について伝えられること、どこまで信じていいものやら、伝え聞く悲惨さも然ることながら、そういう事実だけで、目を背けたくなる。或いは、そういう事実のおかげで、まだ、モニターのこちら側の精神は幾分安全に保たれているのかもしれないが、しかし、どこまでも、真実と思いきれない気持ち悪さは残る。それについての考察も必要だが、

 まず、我々に伝えられるところの、ロシアが、プーチンがなすところに非道について、それが真にそうであることを前提として話を進める。現地に入った、普段は自国政府に批判的なジャーナリストが、ロシア軍がなした目を背けたくなるような非道を伝えているところから、それはかなり真実に近いものとして考える。

 プーチンがやってることというのは、嫌悪され批判されて当然であると思うが、それが如何に批判されるべきかを書くことが本ポストの趣旨ではない。批判、攻撃することについて待ったをかける、いつの時代でも一定数いる論理について考えてみたい。

 奇妙なことに、ロシアに対して強硬かそうでないかについて、案外と、右翼寄り左翼寄りというのは関係ないように見える。
 強硬であるとしたら、一にロシアであるということ、これは元から右翼寄り。断じて人権蹂躙を許せない、これは左翼寄りの人も言うところ。そして、ロシアが、それに同調して北朝鮮や中国が日本にも攻めてくるということの現実味がかなり増したことがある。
 宥和的であるとしたら、ロシアを挟んで反対側にあるウクライナのこと、日本は関係ない、日本を巻き込むな、という本音が共通していて、右翼寄りの人であれば、残虐犯罪行為を無視して、「強権」が行使されている、その「強権」に何らかの価値を見出しているような人。左翼寄りなら、ロシアより自国の権力がこのことを理由に過度に存在感をアピールするようになること、憲法9条の改正に突っ走ろうとすることを警戒しているように見える。

 宥和的であることに対し、「隷属的平和主義」という名づけをツイッターで見たが、事後、如何に屈辱的な隷属を強いられることが待っていたとしてもここは戦争で命を落とすべきではない、と、はっきり断言する、断言できる人は、さすがにいないようだ。
 彼らの頭には、ひょっとしたら、マハトマ・ガンジーの「非暴力・非服従」があったのかもしれない。小学校の教室の学級文庫の偉人のコーナーで読んでからの、武器を持たない市民の正しく美しいあり方のスタンダードであり続けてきたし、やがて強権はその前に敗れ去る、ということであったが、今やそれはほぼ価値を失ったファンタジーとなり下がったように思える。

 どういうことなのか、考えていく。