7456 Emma Watson_18
近現代が目指した理念の終わり 1
そりゃぁ、子供の時から可愛らしいお嬢さんだったさ。しかしまぁ、こんな美しい淑女になってしまうなんて、時間の流れって恐ろしいよね、と感じてしまうエマ・ワトソン氏であるが、ウクライナ動乱についての文章を合わせられることを嫌がるかもしれない。彼女とは全く関係ない、っていうか、例により、画像と文章の関連はほとんどない。よもや、彼女がロシアを擁護する可能性は小さいとは思うが、かといって、積極的に批難に回った話も聞かないわけであるし。
とはいえ、彼女、確か女性の解放について積極的に活動していたはずで、ウクライナ動乱はそれを可能とする前提を覆すものである。決して無関係というわけでもあるまい。
ロシアがなす非道について、ここで詳述しても仕方ない。ネットにどれだけでも転がっているのだからそれを見ていただくことにして、しかし、かの動乱について伝えられること、どこまで信じていいものやら、伝え聞く悲惨さも然ることながら、そういう事実だけで、目を背けたくなる。或いは、そういう事実のおかげで、まだ、モニターのこちら側の精神は幾分安全に保たれているのかもしれないが、しかし、どこまでも、真実と思いきれない気持ち悪さは残る。それについての考察も必要だが、
まず、我々に伝えられるところの、ロシアが、プーチンがなすところに非道について、それが真にそうであることを前提として話を進める。現地に入った、普段は自国政府に批判的なジャーナリストが、ロシア軍がなした目を背けたくなるような非道を伝えているところから、それはかなり真実に近いものとして考える。
プーチンがやってることというのは、嫌悪され批判されて当然であると思うが、それが如何に批判されるべきかを書くことが本ポストの趣旨ではない。批判、攻撃することについて待ったをかける、いつの時代でも一定数いる論理について考えてみたい。
奇妙なことに、ロシアに対して強硬かそうでないかについて、案外と、右翼寄り左翼寄りというのは関係ないように見える。
強硬であるとしたら、一にロシアであるということ、これは元から右翼寄り。断じて人権蹂躙を許せない、これは左翼寄りの人も言うところ。そして、ロシアが、それに同調して北朝鮮や中国が日本にも攻めてくるということの現実味がかなり増したことがある。
宥和的であるとしたら、ロシアを挟んで反対側にあるウクライナのこと、日本は関係ない、日本を巻き込むな、という本音が共通していて、右翼寄りの人であれば、残虐犯罪行為を無視して、「強権」が行使されている、その「強権」に何らかの価値を見出しているような人。左翼寄りなら、ロシアより自国の権力がこのことを理由に過度に存在感をアピールするようになること、憲法9条の改正に突っ走ろうとすることを警戒しているように見える。
宥和的であることに対し、「隷属的平和主義」という名づけをツイッターで見たが、事後、如何に屈辱的な隷属を強いられることが待っていたとしてもここは戦争で命を落とすべきではない、と、はっきり断言する、断言できる人は、さすがにいないようだ。
彼らの頭には、ひょっとしたら、マハトマ・ガンジーの「非暴力・非服従」があったのかもしれない。小学校の教室の学級文庫の偉人のコーナーで読んでからの、武器を持たない市民の正しく美しいあり方のスタンダードであり続けてきたし、やがて強権はその前に敗れ去る、ということであったが、今やそれはほぼ価値を失ったファンタジーとなり下がったように思える。
どういうことなのか、考えていく。
0 件のコメント:
コメントを投稿