7459 Emma Watson_19
近現代が目指した理念の終わり 2
学級文庫にあったからと言って、オレはマハトマ・ガンジーの伝記は読まなかった。みなしごハッチとか、主人公が辛い目に遭う話が苦手で、予備知識として、結構迫害されていたことは何となく知っていたから。
Wikipediaによれば「南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。民衆暴動やゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した(よく誤解されるような「無抵抗主義」ではない)」とある。
というわけで、豪そうにガンジーの事を語る根拠などこれっぽちもないが、市民の取るべき行動として、非暴力が理想的なものとされてきた流れの中にいつの間にか無抵抗も入り込んでしまったのではないか?
国家や社会よりも、まず個を優先する思潮、それは良い。オレも多分にそうだから。しかし、地殻である争いうごと、鉄火場にオレを巻き込むな。よくわからんし。という料簡。オレを巻き込むぐらいなら、さっさと降伏しろ、という主張。それが平和だとする思考モード。それが何を招いたか?勿論、ガンジーがやっていたことはそんなことじゃない、はず。
事、ここに及んで、というわけじゃなく、理念はとっくの昔に無くなっていて、形骸化した何かをむさぼっていただけなのかもしれない。
民主国家というものにおいては、それぞれが自分の見解を表明することができる。しかし、そのおかげで、全体としての意思決定に時間がかかる。例えば、そういうところを突いて電撃的に現状変更を試みる奴が現れているということだ。他にもそういうことがあるだろう。それが民主主義への懐疑につながっている、という言い方もできる。
とにかくそのような虚を突いて、我々の日常を脅かそうとする輩というのが、合法、非合法問わず結構いて、対し、「非暴力、非服従」というのが、ある種性善説を前提とした楽観的なものを前提にとしていたもので、又は、ガンジーの艱難辛苦、周辺で流された血も知らず、(オレも知らない)実に虫がいいところでの物言いだったのではないか? ということだ。
大多数の平和を訴える言説が、しかし、実はこんな感じで、ウラジミール・プーチンを平和的に説得することも、もう一人のウラジミール、ウラジミール・ゼレンスキーに抵抗を思いとどまらせることもできはしない、というのがどういうことなのか?
前に受けた激烈な痛みを伝えることだけに終始してきた平和運動というもの、それの死角を今見事に突かれている。
前に受けた激烈な痛みを伝えることだけに終始してきた平和運動というもの、それの死角を今見事に突かれている。
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