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2022年5月25日水曜日

2022年5月24日火曜日

7499 RCB 1976 & 「公平・公正」?

7499 RCB 1976 

RCB 1976 
rider ;  Jean-Claude Chemarin & Alex George


 アゴラというサイトの、野口和彦氏という、群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部の教授、経歴を見れば、国際政治学者と一般人は認識してよい、方の文章、「ロシア・ウクライナ戦争で覚悟すべきリスクとは何か」について、思うことがあったので、書き記すこととする。

 要するにロシアによる核使用を回避するためにロシアに妥協せよ、ウクライナは諦めろととられかねないような論旨であると感じたが、結構多くの人も感じると思うが、オレは釈然としない思い、反感を感じた。

 一つには、この論法では、ロシア軍によって殺されてしまったウクライナの人々、ロシア軍が多くのウクライナの人を殺した事がなかったことにされてしまう事。多くの人が殺されたのは残念だが未来を見なければいけない、とでも言うのだろうか? そのような屈辱的な未来であれば要らない、という言い方もできるが、別の言い方をするならば、そういった無法によって殺された人々の事、その事についての残された人々の感情を一顧だにしない未来というのは有り得るのだろうか? ということである。まぁ、それですべてを決定してしまうのも問題多いのだが。

 関連してもう一つ。国際政治学者の口から、このような言葉が出てしまう事は、かつての政治学の学生だった者としては非常に残念だ、ということ。こういうことを言っていては政治学というものへの信頼は低下していくことだろう。本人は中立な所に立ったつもりなのだろうが、ロシアに利し、ウクライナに忍従を強いる論法というのは、伝え聞くウクライナの惨状を聞くに、とても公正な物言いとは思えない。
 文中、とにかく、彼が所属する学派というか、同じ考え方をする学者連中は、何はともあれ、今のコレを収めてしまえ、手段は問わんから、ということであるらしい。それが「現実的」であるらしい。如何にも、救いようがない今の世界の現実である。
 口を開かせて、その程度の事しか言わんのなら、黙ってろ、と思う人、結構多いような気がする。斯くして政治学者の言葉を聞いてくれる人が激減していく。

 印象として、ウクライナ、ロシア双方とも完全勝利は諦めているような気がする。停戦、終戦調停で、如何に自国に有利な条件を付けられるかというところで戦っているのだろう。それは確かに泥沼なんだが、

 世界のどこかで、ロシアの政変で劇的にこの動乱が終わるというシナリオを進行させているところがあるかもしれない。そして戦後は多大な人的損害、インフラなどの壊滅の賠償はロシアに求めない、国際社会でその辺は面倒を見る。その代わりロシア大統領以下戦争犯罪人には極刑も含めた厳しいペナルティを課す、と。
 まぁ、そうなるといいね、という妄想なのかもしれないが。

 政治学者に言ってもらいたいのは、戦争終結、戦後のあるべき姿と、その為の道筋であり、現状追認の言葉ではないのである。あいつ、怖いし面倒だからいうこと聞いとけ、じゃないのである。


 

2022年5月23日月曜日

7498 ZN6_9 & 攻殻機動隊SAC2045シーズン2 スタート

7498 ZN6_9

 ネタバレになるのかどうかわからない。こんなのネタバレじゃないだろ、別に、と思うので書く。
 開始6分、公安9課の面々がホテルに乗り付けるクルマが、赤のZN6とか、これはやはりGHOSTつながりなんだろうか? と思った。多分そうだろ。

 本人は隠しているつもりなのかどうなのか、攻殻ヲタで少佐のお尻フェチの女性がメッセンジャーで昼、知らせてくれたのでまぁ、とりあえず、見てみた。相変わらず、初見、とっつきにくいです(草。でも、しまいにゃ環境ヴィデオのように部屋に流してしまうようになる攻殻ヲタにはこれくらいがちょうどいいのです。

 士郎政宗氏の漫画のスタートが1995年という事なんだが、もう、4半世紀以上か、この世界観も。マトリックスとかに影響与え、フィードバックもあったりで。最初の漫画、コマの外に細かい字でいろいろと設定なのか何なのか、作者のつぶやきみたいのがびっしり書かれていたりして。それが新しいという人もいたが、たかみよしひさ氏の軽シンとかそんな感じだったし、なんていうか、拡張性のないマニア作ってまったり仲間内で楽しむ的展開かと思っていたら、押井守氏の映画で一変した印象がある。

 最初の頃から、石野卓球氏が音楽担当していた攻殻のゲームあたりまで、チンピラ臭がぷんぷんしていたが、いまや少佐とは別動隊的な活躍をするようになったトグサ君は前シーズン終わりに行方不明になって、まだ出てこない。サリンジャーの本を尻ポケットに突っ込んで危うくテロを起こしかけた危うさという設定はまだ生きてるんだろうか? どこかで、「わかってるんだよ、君がやったんだろ?!」とかいって「ゴカイでございます」とか返されたりしてるんだろうか?

 等と取り留めもない。

 

2022年5月22日日曜日

7497 Skyline Turbo-C_4 & 劣化

7497 Skyline Turbo-C_4


 出張から帰り、心臓周りの薬もきれてきたことだし、かかりつけの医者に行った。日曜の午前も開いてくれているお医者さんで、助かっている。オレより若いが熱心で名医だと思う。しかし、彼も同様人間なのだから、休養、ちゃんととっているのだろうか? 少し心配。まぁ、オレなんぞに心配されてもどうしようもないが。

 処方箋を出してもらっているときに聞いた話。厚労省、または市の衛生課からの通達か、例の当地のジェネリック薬品大手が問題起こし、経営破綻までいっちゃって、だもんだから、全国的に薬がひっ迫している、という話は聞いていたが、要するに、なくしたりするような患者による薬の無駄をなくすためにまとめて薬を出すことは控えるように、ということと、しかし、医療費の増大を抑えるために診察は最小限に、と、おまけに、しかし、必要な診察はしっかり受けてもらうように。
 ちょっと何を言ってるかわからない。っていうか、本音は医者に患者がかかる数を抑えたいが、例のお役所言語、偉ぶりたいが言質は取らせないアレで、お医者さんも正直困惑しているとおっしゃっていたが、

 まぁ、何かとてつもない大きな災害とか戦争とか起きて、人もいっぱい死んで今ある風景もごそっと失われるようなことがない限り、もう、何十年も変わらないお役所の体質はこれからも変わらないのだろう。

 それにしても、当地の、っていうかはっきり書こう、日医工の不祥事から始まる医薬品の流通の滞り、愛知の方では、農業・工業用水の取水堰からの漏水での水不足、まだある。コロナ禍、ウクライナ動乱で顕在化したあらゆる産業でのサプライチェーンの脆さ。部品が足りないから、と、いやいや工場閉めまくってしまってもあるだろうに、自動車では注文から納車まで数年かかるものもあるそうな。

 これが本来の姿で、今まで便利にならされすぎていた、という考え方もできる。今ある不便は甘受しなければいけない、という考え方にも一理はあるが、しかし、それらに業務としてかかわっている人間がそれでいいのか?と。

 先輩たちは、勿論個人的な経済的要請に従ってはいたけれど、それによって社会貢献、その為に時には多少の無理をしたってやり遂げて、現在、いや、ちょっと前まで我々が享受していた便利さがあったわけだけど、今や、感覚が、リアルでオレが親の貯金食いつぶしているような如きもので、少しづつ、過去の遺産を失っていきつつある感覚がある。

 いやいや、それを評論家目線で劣化などといっても、それでも我々なりに結構必死目にやっているはずで、そういう物言いが支持されない、反感を持たれるというのももっともなんだが、しかし、認めなくてはいけない。この社会は下り坂である、と。また上向きになる目途などちょっとやそっとでは立ちそうにないのだということを。多分我々は過去の遺産を食いつぶすことでかろうじて現在食いつないでいるのだろういう事を。

 そこで話を終わらせてしまえば、あまりにアレなんで、もうちょっと考えてみよう。

 電子情報では腹は膨れないものだぞ。電子情報だけあっても健康は維持できないものだぞ。電子情報だけでは何かあった時の身の安全は確保できないものだぞ。にもかかわらず、今お金が回っているのはどのあたりだ? 必要な電子情報も勿論多くある。が、ゴミみたいな情報やその辺での気晴らしにならない気晴らしは切ってしまってリアルにお金を回すことを考えた方がよいかもな。
 
 ・・・結局金の話なるな。そうじゃない気がするんだが。まぁ、此処で答えを出すこともできるはずがないので、じっくり考えていくことにしよう。

7496 あのん

 

7496 あのん

7495 Jochen Mass_2

 

7495 Jochen Mass_2

Jochen Richard Mass
McLaren M23
Montjuich 1975

7494 FTO_2

 

7494 FTO_2

7493 Matchless G80 1954 & 「最勝」?

7493 Matchless G80 1954


 よくみりゃ、ホンダのCBX550Fか400Fの足回りに換えてある。Matchlessって、Match(勝負)がless(無い)? 勝負がない? 試合(レース)にならない? 程無敵? 速い? っていう含意のブランド名なのかしら?
 ふと、前にツイッターで読んだ、亡くなった御尊父を偲んだツイートを思い出した。


Itsuko@smilesfor

オフコース懐かしい

2年前に亡くなった父は

よく言い間違いをしたけど

一番笑ったのはコレ


「朝方ラジオ聞いてたら

あの、オフコースのあの曲、いいな

あの"話にならない"ってやつ」


あなたに会えてほんとによかった

言葉にできないよ、お父さん


午前8:27 · 2018年9月12日


 うん、関係なかったな。


 東上線上福岡駅近くに宿をとり、所沢多門通り沿いの会社の敷地を借りての作業、2週間、終わって帰宅後の一発目。この歳になって、客地での解放感から夜遊び、まして池袋にでてまで、などと、事前に考えないでもなかったが、実際には、昼間の業務に神経持ってかれて、そんな余裕もなく、宿でごろごろしていたのだが、その時のためにと持って行った、法華経に関する本、パラパラめくってはみた。読み進めるときは読み進めもしたが、割とそのたびにすぐに倦んでしまい、思ってたほど読めたわけではない。

 法華経についての本を読むようになって、っていうか、その方面のこと、いろいろ勉強するようになって、急に聞くようになったのが「最勝」という言葉。いわく、法華経は「最勝」の経文であると。

 PCの予測変換の中には入っていたのだから、別にこの方面だけの専門用語的なものでもないのだろうが、「最良」「最強」「最高」又は「最優」、「究極」でもよい。それら辺りをなぜ使わないのか?  いや、もっともかどうかはともかくも、優れた経文であることは、唱えてみたら直感的にではあるが理解できるのだが、あくまで「勝ち」にこだわりますか。何なんでしょうね、これって?

 「最良」「最強」「最高」ではなく、「最勝」としたのは、いつ頃誰からで、何故敢えてこの言い方なのか? その辺もこの後のテーマ。

 しかし、「勝ち」「負け」というのは、対象があっての物で、絶対的なものではない相対的なものだ。そんなこと言えば「最も」なんていうのも、数多ある中で一番なんたらということなんだから、きりがないけれど、輪郭をはっきりさせる代わりに、何か価値を薄っぺらいものにしないか? というのが第一印象。「良」や「強」、「高」なら、幾分柔らかくはなっても、絶対感は強く、「勝ち」は、或る一定のフィールドにおいてのみ、というニュアンスが紛れ込まないか?

 いや、逆に経文なんて言うのはそういうものだ、という謙虚さのあらわれなのか? そんなものよりも大切なことがこの世にはたくさんあると。

 いやいや、ちょっとまてよ。え?え~? 実は経文の価値なんてそんなもの、というのは、確かに、巷の凡夫の皮膚感には近いけれど、え?え~? そしたら、その程度の物に、歴史のある時点ではリアルに殺傷沙汰になるくらい、正偽について議論、対立してきたわけ? うそでしょ~?

 勝ち負けこそが、人生の価値を最終的に決める最重要なファクターだ、という価値観によるものか? って、それだと、法華経も、現代の薄っぺらな二流の自己啓発本やビジネス本程度の物になってしまう気がする。それともそんなことを言ってしまうオレのような了見自体を問題にしているんだろうか? オレにしたところで「2番じゃダメなんですか?!」なんて言ってしまうつもりはないが、しかし、その辺を宗教には急かされたくはないものだ。

 とはいえ、実際のところ、原始仏教、どうやら釈尊が述べたかったことは、つまりは心をどう整えるかということで、ある意味方便として宇宙観みたいのは説いているが、呪術的なものは極力排除したかった、っぽい。さっと斜め読みした現段階の印象によると。かなり形而下の感情も問題にしていたのではないか? ある意味自己啓発本っぽいかも。儒教、道教も神仙思想に力の根源を持つらしいが、あれも、生きていく作法の話っぽいし。

 ついでにいうなら、法華宗だけじゃなかった。開祖、教祖が入滅した後、後継者をめぐってとか、教義をめぐって分裂するなんて言うのは、ほぼどの宗教でも見られる。キリスト教もイスラム教も、仏教他宗派も。あいつには勝たなきゃいけない、なんていうのは、もう、偉大なご教祖様でもどうにもできない、人間の業なんだろうか?


 などと。

 ホント、この「最勝」という言葉、法華経関係の書籍等には度々出てきて、そのたびに違和感を感じている。敢えてこの言葉を使っている真意も知りたい。


2022年5月7日土曜日

7492 CB750four_40 retake & オレにとってはGW最後の日 

 

7492 CB750four_40 retake


 二週間ぐらい前の天気予報では、GW、雨にたたられるという話だったけれど、実際には当地の祭礼がある日に、よりによってその日だけ雨だったのだが、その他の日は結構快晴で、こう晴れの日が続けば、ウチの上長、釣りで海に出っぱなしだったろうな、と思う。オレより若く、見た目は、モロ土建屋のオヤジで声もダミ声だが、頭は柔らかく面倒見がいい、好人物である。SNSによれば、仕事でいろいろ技術的なコンサルティングをしてくださっている神村真さんは、ギターのエフェクターの虫干しをしておられた。引っ越しされて荷物整理とかなされていたのだろう。そういや、昔はギター少年だったと書いておられたか。
 人それぞれで面白いよね、別に遠くに出かけなくても。オレはというと、やりたいこといっぱいあるはずだったのが、結局、日蓮宗系内部抗争の件に気を取られてそれっきりでした。でも、まぁ、非常に面倒くさい反面、いろいろ考えたり、自分の思い違いが分かったり、楽しく思わなかったわけでもない。
 面倒ごとを引き連れてはきたけれど、姫には感謝していないこともない。っていうか、案外楽しんでいたのかもしれん。知らんけど。

 多分現代の創価学会、顕正会については、そうそう思い違いはなさそうだが、日蓮宗ができたころのこと、オレの勝手な思い込みで書いてたことが多く、非常にダサかった、おれ。詳しく、新しく勉強したことについては、追い追い書いていくことにして、

 いろいろ思い出したことがある。まずは青木新門氏のこと。これもやはり、昔付き合ってた女性に教えてもらった、当地大手の葬儀屋さんに勤めておられた青木さんの「納棺夫日記」を教えられて読んでみた、という思い出。青木氏は当地入善町の在家の念仏者である。死に対する諦観。オレはその時まだ30代半ばだったか。自分の事として死はまだリアリティはなかったが、何やらかが染み入ってくる感覚があった。
 その中で、氏が納棺夫を始めたころと、最近のご遺体、少々様子が違ってきている、というようなことが書かれていたのではなかったと思う。昔は生活、仕事で、生前体を酷使し、その挙句骸として横たわるのは、黒く縮こまった密度の高いご遺体。最近(と言っても、もう20何年か前)のご遺体は、食事がよくなって、なんか白く少しむくんだ柔らかいご遺体へと変化してるのだそうだ。
 ふと姫が、顕正会の教えとして、地獄に堕ちる人の骸は、黒ずみ重くなる、というよなことを言ってた。って、それを聞いたとき、まさか顕正会の人、葬式でご遺体を見てご遺族の前でそんなこと言ってないだろうな、とか思ってしまった。言ってしまったら、なんだこいつ? ってことになりかねない。それにしても、顕正会の教え通りなら、ひたすら真面目に生きてきた人が挙句地獄に落とされるとか、何とも報われない教えだな、と思ったものだが。

 もう一つ思い出したのが、父方の祖父の事。父は8人兄弟の5番目。男3人女5人の兄弟である。本当は、長子にもう一人男がいたらしいが、早逝している。三男だが実質次男として育ってきた。さて、祖父のある時期の大きな悩みというか、心に大きな重しになっていたのが、嫁に出した娘たちのうち何人か、次々と戦後の新宗教に入信してしまったことだったらしい。生長の家とか創価学会とか。あともう一つあったような気がする。
 祖父は、オレには想像できないかったが、父たち子供に対しては、結構厳格な父親だったらしい。娘たちにも厳しくしすぎたかと酷く悩んだ時期もあったらしいのだが。娘たちが新宗教に入信したのもその反動ではないかと悩んでいたのだろう。
 さてオレが京都にいていよいよ主に精神的に立ちいかなくなっていた時、兵庫は三田で学校の校長先生をしていた父の兄弟の末っ子の叔父が訪ねてきてくれたことがあった。叔父が来て何かが解決するわけではなかったが、一言だけ何やら忘れられない言葉がある。
 祖父が、かなりの晩年、叔父に言ったには、「念仏とかお題目とか、結局はみんな同じなのだ」と。そうやって祖父は娘たちのそれぞれの信心を受け入れたのだろうと。
 そういえば、高校の時の事だ。結構、その頃から困難なものを抱えていたオレは、両親に相談するよりは、例えば土曜の午後の学校帰り、祖父母のところへ行って、何をするわけではない暗くなるまで時間つぶしをしていたような記憶がある。祖父の書棚には仏教関係の書籍がいっぱいあった。基本、この辺に多い真宗門徒だったか、若いころはそんな熱心な念仏者ではなかったのではないか? 真宗に関する本だけではなかった。真言、天台、法華経の本もちらほら見られた。祖父も祖父なりに、いろいろ勉強したのだろう。
 そういえば、オレは結構後で聞いたのだが、恐らくごく軽い気持ちで、祖父は幼かったオレを仏門に入れ、どこかの高名な僧侶に弟子入りさせてはどうか、と、父に言ったそうだ。祖父は、このオレが、あの子はなんか違う、と思っていたそうで。まぁ、しっかり今じゃ只の凡夫なんだがな。父は内心慌てふためきつつもやんわりと断ったそうで。
 そんな祖父が亡くなった時の事だ。やや緩めの念仏者として祖父はなくなった。そんな祖父の骸は、日蓮にすれば唾棄するべきで地獄に堕ちるとされるところであるが、白く、寧ろ奇妙なくらい柔らかかった。
 調べてみるに、日蓮自身はそんなことを言うはずはないような気がしている。どちらかというとそんなことは興味がなさそうな印象を持っている、今のところは。その認識はあとで改まるかもしれない。いずれにしろ、誰が言い出したか地獄に行く人間の骸は黒く縮こまる説、でたらめ認定である。
 祖父の魂はどこに行ったのだろう? 浄土か?地獄か? いや、ただ虚空に消えていったのだろう。その時からそう思っている。

 これから、いろいろ日蓮宗、法華経を調べていくに際し、仏教形而上学に触れなくてはならなくなる。若い時は、心の救済に、そんなあるかどうかわからないものの話、要る? とか思っていたし、今も結構そう思っている。
 上記、青木氏が、何かの文章で、般若心経は念仏者としては受け入れがたきものだと書いておられた。その不寛容に少々残念な思いをした記憶があるが、それについての文章の内容はまさしくそれで、日蓮も、法華経以外を否定した理由はその辺にあるので、理解しなければ次に進めない。
 まぁ、一般にはGW最終日の明日、オレは所沢に移動しなくてはいけないので、明日がGW明け。で、そこで待っているのが少々オレの手には余ってるプロジェクトで、がぶり四つで組まなきゃいけない以上、あんまり時間的精神的余裕もないはずだが、まぁ、ボチボチとやっていきます。

 

7491 景甜

7491 景甜

The Great Wallで槍二本持ってバンジージャンプしてる姿がかっこよくて印象深い

 

2022年5月6日金曜日

7490 CB750four_66 & なぜに内ゲバ?

 

7490 CB750four_66


 法華宗系、特に創価学会、顕正会、何が気に入らないか整理しておく。

 何が何でも折伏するという頑なさ。それぞれの心の問題に対して、何ともも物々しい。大きなお世話っすわ。そのために、言い負けることは死と同等と思っているのか、相手をいかに汚い言葉を使って罵倒することも厭わない。それって宗教家のすることか?
 もともと相手を言い負かして、というところはあったが、日蓮が教義を弘通する過程で受けた酷い弾圧に対して、というところで身につけてしまった宗門としての体質、形質のように、只今の所色々調べている過程であるが、そう感じている。それが身内にも向かって、とにかく自分と意見が違う奴が気に入らない、日蓮入滅後、いきなり高弟同士で分裂しているというのだから、何をかいわんや、である。
 宗教の態を取りながら、個々の心の機微よりも政治の方に力点を置こうとするのってどうなの? 戦前の軍国教育の如く、画一的に一方向に人々を教化するっていう考え方。そりゃぁ、立派な人間になるのも大切だが、それによって引き起こされた陥穽が随分見受けられるようになった今、悪いのは本当にブサヨ的なものの所為だけなのか? 個々の心を置き去りにしてきてはいないのか?
 よりよき人になることを目指していく事も生きていく上でも社会でも必要であるが、ただ、宗教にはそういう事は求めていない。そんな宗教を名乗るなにかは要らないのである。

 ただ、なぜ、他人のことは言い負かせて屈服させないと気が済まないという風になってしまったか、という点について、これは逆に今日的問題であるとも思う。ネット民に割とそういうのが多い。何しろうっぷんが溜まる現代社会だから、では済まない、そういう気質を獲得してしまうプロセスがあるはずで、そういえば、創価学会、顕正会らが嫌う共産党あたりとの類似性相似性について書いたが、それよりも、リアルに殺し合いにこそなっていないけれど、全学連→日本赤軍のセクト同士の内ゲバにも似ているかもしれない。本当に問題にしなきゃいけない相手よりも内輪の気に入らない奴に強烈な敵意が向いてしまう、宗教を名乗っているというのに、この救いようのなさ。そういうのは、今現在であっても、法華宗系内だけじゃなくても、そこかしこで見受けられる。これぞ問題にするべき、人間、人間社会の性質であると思うのだが、どうだろう?

 
 妙法蓮華経=法華経、これがすべてで、後の教義めいた理論は要らない、法華宗としてはそれだけでいいと思うのだが、それにしても、日蓮は何をどうして、妙法蓮華経と他の経文との折衷を末法であるとしたのだろう? そして、他の経文を排斥しようとしたのだろう? まぁ、オレはお題目唱えて心地よいとは感じるものの、意味までは分からない。これ以外は必要ない、捨ててしまえとも思わない。まずは、そのあたりから調べて知ろうと思う。


2022年5月5日木曜日

7489 CB750four_65 & 内部抗争がお家芸

 

7489 CB750four_65


 年譜的に言えば、日蓮31歳の春、約13年の叡山、三井寺、高野山での遊学から故郷に帰り、天台宗清澄寺にて弟弟子たちに 妙法蓮華経=法華経こそが最勝の経であり、念仏や禅宗が、法華経とランクが下がる称名念仏を同等に扱ってしまっている間違いを犯していることを指摘し、法華経のお題目のみを唱えるべきと主張し、まぁ、ここから法華宗=日蓮宗が始まった、って感じのようだが、

 法華経が意味わからずとも大変端正な経文であることは、何となく理解できた。ウチの母の実家が門徒の真言宗衆徳山胎生院総持寺のFacebookのお友達でもある永田さん夫妻には申し訳ないが、般若心経よりお経読んでる、って手ごたえがある経文だった。般若心経、ちょっと短すぎのような感じで食い足りない部分があるって、本当は実はすごく長いお経なんだけど。法華経も般若心経も、鳩摩羅什が中国に持ち込んでいる。西遊記に出てくる三蔵法師というのは、水戸黄門の名の人物の如く、歴代何人もいる人の役職名みたいなもので、鳩摩羅什が最初の三蔵法師なんだそうだ。東アジアの仏教の広がりに多大な影響を与えた人物なんだが、だとすれば、この方現在の新疆ウィグル自治区あたりの出身ということで、仏教関係者、総力上げて、中国政府のウィグル弾圧非難しなきゃならないじゃないのか? と、ちらっと思ってみたり。日本に伝播したのもほぼ同時期だろう。
 法華経、最高! じゃなくて最勝! とするのはそれはそれでいい。しかし、他の経文を一切否定するのはいかがなものか? その疑問疑念に対する答えをまず見出すことにしようか。法華宗を除く他の宗派、宗門が、基本テキストを妙法蓮華経、般若心経あたりとするのは同じで違いはその解釈とするのに対し、法華宗は法華経オンリーワン。書き出してわかる。確かに異質だ。

 それに対する弾圧軋轢から日蓮宗が硬化していくのもわかるが、それで、日蓮入滅後、日蓮指名の六人の高弟、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持が、いきなりそれぞれの派閥を作ってしまった。内部分裂は日蓮宗のお家芸?
 このころから現代までどのような離合集散があったかはわからないが、頑なさというのが大きなネックになっているのは間違いないように思える。現在の派閥争いというのが、ただの信者獲得のみに終始していて、教義に関する論争が見えてこない。日蓮の直弟子、釈尊の直弟子を自称する顕正会だが、配られる冊子などを見るに、これではあれほど死ぬ思いをして法華経にこだわりぬいた日蓮大聖人様があまりに可哀そうだ、という内容である。

 法華経最優先、いや、オンリーワンでもいいが、本当に頑なに他を拒否、折伏しなければならなかったのか? その体質が今では同門他派へと向かっているというところで、その辺の寛容さがなければ、寧ろ自身が自壊するような気がしてならない。

 日蓮が、思い込みが並みならぬ強烈な人だったというのが想像できるが、どうしてそこに至ったのか、ぼちぼち研究していきたい、時間があるときに。

7488 Z1000MkII_12 & 困った相似性

 

7488 Z1000MkII_12


 一個前のエントリ書きあげて、推敲、ろくにせず上げて時間が時間だったのでそのまま寝てしまって。だから、変な言い回しの多いこと多いこと。ま、いつもの事なんだがな。
 で、寝る前のベッドでのことだ。折しも憲法記念日で、「改憲の機運が高まっている」という報道を見ながらベッドでツイッター。いや、安眠に良くないから、それ、と、自分で突っ込み、実際あまりよい睡眠とは言えなかったが、そんな脳みそがふにゃふにゃになってる状態で、それこそ、この期に及んで碌な論陣を張れない護憲勢力、特に共産党、社民党あたりと、昨日の晩、2時間ほどで書きあげたエントリの俎上に上がった法華宗系の諸派の相似性が、にょきにょきと頭の中で存在感を増してしまった、そういう話。

 護憲か改憲か? オレは40数年前、小学生の時から基本、改憲すべきと思ってきたが、しかしその時代その時代の政権に、それをなし得る資格資質はないと思っていた。何らかの形で公正さに欠ける政権ばかりだったからだ。ずっとだ。つまり、実質改憲反対(護憲ではない)だったようである。しかし、後生護り続けなければならないなどとも、一度たりとも思ったことがない。
 というようなところで、一番のトピックである9条周りのことであるが、護憲派の根源が感情的なもので終始する戦争反対論で、これでは、いつかなし崩しにこの人たちは負けていくのだろうな、という予感がずっとしていたし、いよいよそれが目に見えてきた感がある。では、なぜ改憲したがるのだろうと彼らが考えても、「戦争がしたいから」などと、非常に幼稚な見立てしか出てこない。そこにそこで日本から戦争を仕掛けることなど可能だろうか? 不可能なのは目に見えていて、それを敢えて仕掛けに行くことなんてあり得るのだろうか? そこまで考えが及んでいるところを見たことがない。
 今行われている「敵基地攻撃能力」の「反撃能力」への言い換えの件。時間の無駄やなぁ、と思うが、戦争反対が感情的なもので終始して、現代の戦争が如何に行われるのかということもあまりに不勉強で、やはり感情的な反対論しか出てこず、専門的なところでの「敵基地攻撃能力論」への反論はほぼ見られない。最新の知見、技術、多くの資源がコストを考えられること、あまりなく戦争に振り向けられるのだから、確かに、あまりに無駄だなあと思えるが、反戦を唱えるなら、そういう知識、その辺のミリオタに負けてはいけないはずである。実際は、そういうことはなく、化粧っ気脂気が落ちたメガネで小太りのその辺の知識が全くないおばちゃんがヒステリックな声を上げているだけ、というイメージしか持たれていない。実際はそういう人ばかりではないのは間違いなくても、あくまでイメージとして。
 ウクライナの件で、近隣諸国の根拠のない性善説めいたものでここまで引っ張ってきたものが、ここに来てもうムリ、ということに相成っている。ここで近隣諸国の指導者の性善説を迂闊にぶち上げようものなら支持率下がるどころか、石投げられそうな雰囲気だ。日本が挑発しなければ何もない、という主張も、どうも怪しい。

 特に共産党、風前の灯火だがしぶとく消えない大昔の社会党左派、今の社民党、そして彼らのシンパ。大きな方針から細かい個々の主張まで決して自分たちの誤りを認めようとせず、常に間違っているのは与党、自民党である。立民も基本一緒。
 大多数の支持を得るのにまず必要なのは、イデオロギーであった時代はとっくに終わって久しく、それもこれも正鵠を得た現状分析能力と現実的で精密で実現可能な政策立案能力が大前提にあって、それがあって初めて、イデオロギーに凝り固まったものでない政策方針の話となる。そこで発信能力というのはおのず生まれるものだが、それは前提以前のスキルであるが、それすら彼らはマスコミの所為として、自分たちでの改善をしようとしない。

 とにかく自分の間違いを決して認めようとしない。悪いのは全て相手。それは自分たちの権威のためなのだろうが、それにより更なる支持の獲得など夢のまた夢ぐらいに不可能にしているし、つまりは現在の上層部の地位保全のためだけのものである。
 この点が、法華宗系全体、特に創価学会、顕正会あたりと相似形をなすところである。共産党と彼ら、お互い蛇蝎のように嫌いあっているというのに、である。公明党は公明党で政界をうまく泳いでいかなくてはいけないので、この数年、創価学会との距離が開きつつあるという話を時々聴く。

 宗教が自らの誤謬を認めたがらないというのも、やはり教義への信頼に関わってくると考えているのだろうが、間違っているのは、その時々、その団体ごとの上層部ということになると、当然自分の地位にかかわる問題で。
 いずれも、そこの上にいる人たち、人に対しマウントを取るのが第一義と考えているような人たちが多いという印象で、ってそれは与党も含め他の人たちも一緒だが、内輪での権威を外からの見た目よりも優先し、というのが特に法華宗系の特徴であるように思われる。

 いくら治安が最悪の時代だったとはいえ、日蓮があくまで折伏、「俺の言うことに従え~!!」にこだわったことが、結局、後世の勢力拡大を阻んでいる。それが基本ムーブ、教義に織り込まれたものであれば、早晩内輪でのマウントの取り合いになるのが必定で、日蓮が理想としたはずの所の仏法の世とはすでにかけ離れている。離合集散というが、多分分裂する場合の方がはるかに多く、その内のかなりの割合がやがてフェイドアウトしていくことだろう。宗教の第一義とこの世の大多数がイメージしている心の平安とは程遠く、文字だけの曼荼羅である御本尊と言い、視覚イメージの重要性を軽視するなど、人の自由な心の動きをいつか否定してくる怖さが常にある。そしてそれらの問題に対しては答えようとはしない。問題などないがごとく。内輪にこもるとそういうのが問題とは思えなくなるのだろうか?

 ある時点でひょいと顔が向く方向を変えられることがあって、目指すところが違ってしまったけれど、どちらも非常にまじめで自己鍛錬は怠らないが、夜郎自大で尊大に人を見下し、また見下したがるような、人の話を真面目に聞かない、如何にも神経質そうな、寛容というものを遂に学ぶこともなく、人の心の機微にも疎く、友達少ない、でもそういう自覚がない、自分は周りから好かれているリーダーになるべき人間だと思い込んでいる、そういう青年が挫折もなく年を取った、そういう人たちによって、どちらも動かされているイメージがある。それぞれ教義、イデオロギーが第一のふりして、実は強烈な自分ファーストだったりしてな。まぁ、現在の共産党の上層部は結構つつましやかなところもあるので、もっぱらこれは法華宗諸派の上層部の話かもしれない。共産党は中間層にこういう性格の奴多そう。

 多分、どちらも第一党、国教となり得る可能性は、ほぼない。自覚はあるが、案外、自分自身にとっては、今の立ち位置がちょうどよく、ぶち上げる言葉は釣るためのものであって、という可能性もないではない。

 そんなところ。
 
 

7487 CB750four_64 & あ~、参ったな

 

7487 CB750four_64


 別筋で、twitter掘ってて、青木俊氏のツィートに何か感じるものがあったのか、「陸自一佐 逮捕」という検索をかけてみたのだ。

と、秀島裕展という名前に行き当たる。何しやがった、この秀島某という男? と思って調べると直接の容疑は銃刀法違反なのだが、ここで顕正会の名前が出てくる。秀島某は会員だったそうで。

 続けて掘ってみると、出てくるわ出てくるわ、顕正会の問題行為。しかしだ、それを扱うどのサイトも、日蓮正宗や創価学会会員によるサイトらしく、事実なんだろうが、それを問題にしているのは、法華宗系の内輪もめ、内ゲバっぽいのである。おそらく、逆に正宗や創価学会の問題行為を題材にしたサイトでは顕正会会員が運営したものも出てくることだろう。 多分事実でないことはないにしろ、どちらのあちらに対する批判的記事も殊更大げさに書いてあるに違いない。

 顕正会会員が起こした事件としては、平成21年の1月新潟でのものが調べた中では最新のものとなっている。FBIからは、オウム系は当然としても、法華宗系の中で創価学会と並んで危険カルト認定であるとかないとか。

 勧誘の手口というのも目にした。思い当たることも多く、姫はなぜにオレに声をかけたのか? いろいろ可能性は考えたが、まぁ、甘っちょろいおっさんと思われたから、という可能性が高まった。寂しいが。

 主張としては、国立戒壇の建立というのもあるのだが、まぁ、この点だけ創価学会がマシと思える点だが、創価学会が主権在民を主張するのに対し、顕正会は戦前の天皇主権を主張するらしい。まぁ、その部分、当事者たちの主張を直接読んだわけではない。

 繰り返すが、何を信じ、法律に触れない限りは何を言っても結構なんだが、オレは与することはできない。心苦しいが 姫への退会の申し入れ、早くせねばなるまい。


 しかし、となると、結局顕正会、正宗、創価学会と主張の多少の違いをお互いディスっているが、その実やってることは大同小異で、これは法華宗の根源的教義あたりに問題があるような気がしてしまう。実際、まだ読んでいる最中だし、この前買ってきた本以外にもいろいろ目を通しながら、という作業をボチボチとやっているが、御聖人様、どうも、宗教人としてそれはどうよ? というのを多々お見掛けしてしまう。

 文字だけの曼荼羅。法華宗系はご本尊が仏”像”ではないらしく。「龍口の法難」という神秘イベントのあと、流罪となった佐渡で日蓮が作ったものなんだそうだが、文字だけ。「南無妙法蓮華経」という文字列の直下に自身の名前、左右に関係する神仏などの名前を廃したものなんだそうで。・・・絵心、残念ながらなかったんかな? 御聖人様のお気持ちはわからないが、これが後世、法華宗→日蓮宗を、なんかガサツなものにしてしまったことはないか? 絵なんて、仏絵なんて余計なものはいらん! とかなって、延いては人の細やかな日常の機微みたいなものに無頓着な宗教になってしまったことはないか? たかが絵ではあるが、それをめでるちょっとした心って大事だよ。でも、それはここでは大したことじゃない。

 神秘イベントの取り扱い。うまくいけば、私が正しいから起きた奇跡、という。世の中がうまくいかないのは、私の言葉を受け入れないから、というスタンス。これについて思うことは大体書いたが、勘違いか、特に顕正会には、御聖人様、自身を釈尊の生まれ変わりと自称したとか言ってなかったかな? 或いは妙法蓮華経そのものであるとか。大川隆法と同じこと言うとるやん。釈尊とかキリストとかの生まれ変わりと僭称する奴って多いのだが、他とは違う、これは真実であるという根拠が大体こういった神秘イベントなんだが、真実であるかどうか検証するすべもなく、一方で社会の不具合は、不信心という要素がなくても説明可能なものがほぼ100%であり、その不信心自体、それぞれが自分たちの教義以外をすべて不信心と括ってしまっているのだから、どれか一つを取って妥当、正当とする根拠はまるでない。

 いや神秘イベントが真正のものであるならば、素直に処刑されるべきだっただろう。菅公のようにこの世に祟るか、キリストのように復活してもいい。「龍口の法難」のような、一方からは奇跡と言われるが、客観的には何が起きたかあいまいで検証不能な、如何にも中途半端な神秘イベントというのは、日蓮の大きな根拠となりはしても、法華宗→日蓮宗の広がりを”その程度”のものにしてしまっている。凡夫のオレはそんなものはあるわけがないと思っているが、本当にあることなのらば、もっとはっきりわかり後世信者ないものにも語り草になるものにするべきだったな。

 また、現在のラノベよろしく、釈尊や経文の生まれ変わりであるというなら、上記の如くよほど強力で明らかな法力をいつでも示すことができるのではないのであれば、寧ろ自称はしないだろう、伝えられる通り叡智の集積であるというなら。別の、史実になかったより効果的なやり方で教義の拡大浸透、弘通を行ったはずだ。なんか御聖人様、オレ様がぁ!が強すぎたのか、そこら中にかみつきすぎだ。それこそ人の心の機微に疎かったのか、それではk教義は広まらない。

 社会全体なんて大風呂敷広げすぎだが、個々の信心、信心が足りていないから不幸が起こるとか信心しなかったから地獄に堕ちるのだという脅迫めいたものというのは、どの宗教でもありがちだが、例えばニーチェの「神は死んだ」というのは、彼が無神論者だったことを示すものではなく、寧ろ熱心なキリスト者だったところに、何を指してそう判断するか、信仰の強弱で救われたり救われなかったり、というのが、ルサンチマンの増幅につながっていることへの批判をこめたものだったわけだが、画一的な何かを求めてくる宗教を自称するものを宗教と呼んでいいものかどうか?

 三派はじめ、その辺法華宗系の人たちに訊いてみたいものだが、ダイバシティ、宗教や民族、人種などの多様性を受け入れるという、今日の流れについていかが思うか、というところ。それはそれ、というのであれば、どうか、オレを会員にするのは諦めて欲しいのだが、さて、御聖人が鎌倉期、それを言わなければいけない必然はあったのだろうが、それは今日的に妥当なんだろうか? 教義のアップデイトを簡単にできないのは、その時代、正に今現代、それぞれの教団、団体の上層部の地位保全とルサンチマンと他人に対してマウントとりたいという意志の拗れた形での充足以外に、意義が思いつかないが、まぁ、オレはあくまで門外漢で通すつもりなので、正確なことは知らない。

 あ、あと、身延って、「ゆるキャン△」で名前知ったけど、日蓮宗の聖地なんだな。

 FBIからカルト認定されようが、他の2派から批判されようが、実際のところ、そうそう問題活動が頻発しているわけではなく、会の体質として潜在的にそういうものがあることは否定できなくとも、個別の事象は会員の突出によるもののようであるし、表面上今現在、穏やかな団体と言ってもいいような気はする。オレはとても会員として活動することはできないが、信じることができる人はどうぞ。オウムのような差し迫った危険さがあるわけではなく、従って姫を力づくで連れ戻す、なんていうこともするつもりもない。これも繰り返す。姫は顕正会に救われた。そういうポジティブな部分もちゃんとある。信じるというのであればそれまで阻む理由も全くない。

 ただ、会社で、姫に以降、やはり嫌われるような形になるんだろうなぁ。非常に残念。つか、少し悲しいかも。まぁ、すべてうまくいくことというのも、この世にはあまりない。会社の業務に支障が出るようではお互いに損するのだから、派手なことは仕掛けられないだろう。

 会とは、「大人のケンカ」の準備はしておこうと思う。消費者センターには早い時期に相談しているし、知り合いの弁護士にも、宗教、消費者問題が得意な同業者(弁護士)はいないかと、今回の事は何となくほのめかしてはいる。

 今回の折伏は残念でした。しかし、オレはこのように面倒くさい奴なんです。どうか、すんなりリリースしてくださいますよう。

2022年5月4日水曜日

7486 ブランズハッチのロッシさん & このブログのアクセス状況について

 

7486 ブランズハッチのロッシさん

R8 GT3
Valentino Rossi
Brands Hatch  2022

 自宅から始めてインターネットにつないだのが1998年。ほぼ同時に当時のドメインのサーバーに自分のウェブページを持って、ドメイン替えたらウェブページも移動して、ブログが全盛になれば、ブログに移行し、最初はココログだったが、2011年ごろよりブロガーでやっている。
 画像についてはそれとは別にPixivで晒していたんだが、そちらで公開していたものは公開停止。1994年5月1日をスタートにして、一日一枚で割り振っている。なんでそんな変なことをしているかは、ここ何本かのエントリを見て察してください。
 まぁ、大部分ネットで拾ったものをベースにしたものであるわけだから、コピーライト的にはグレー、それの濃い奴。しかし、一切の収益化をしていないし大々的な広告を打って呼び込みをしているわけでもないので大目に見られているのかもしれない。

 現在6338本のエントリ、Pixivにあったものの再掲載を除き一番古いエントリが2013年1月6日、本日まで3405日、総閲覧数134300、一日あたりは40ほどの閲覧。途中、随分と交信していない期間もあったりしているが、現在は、一週間で均せば大体その辺の数字となる。
 アクセス解析について、なにしろただでやらせてもらってるので、アクセス元の詳しい情報とか検索キーワードとか、見るべきものはないのだが、国別アクセスランキングというのが見ていて楽しい。

 どうにも自分の国からのアクセスがアメリカからのそれに負ける。URL取得のロボットが回っているのかも知れないし、案外日本にいても.comドメインの人のアクセスが多いだけなのかもしれない。その辺よくわからん。

 全期間を通じてということでは、ロシアからのアクセスが案外と多い。時々まとめてアクセスがあったりするのだが、最近ウクライナ問題について書いていたころ、ややアクセスが増えた? ひょっとして監視されてる? とも思ったが、こんな影響力のないブログとか監視してもねぇ、と考えている。

 そして、ウクライナ。3か月ほど前まではコンスタントに視に来てくださる方がいた。どのような方かはわからないが、ご無事でありますように。

 ドイツ、フランス、ポルトガル。こちらからもコンスタントに視に来てくださる人がいるようだ。ありがとうございます。

 上のランキングには出てこないが、時々、キプロスとかトリニダート・ドバコとか、他にも珍しい所からのアクセスがあった時はうれしくなる。





7485 Emma Watson_23 & 外国人の選挙権、外国の選挙権

 

7485 Emma Watson_23



 どうもエマ・ワトソン氏とウチの会社の顕正会の姫、タメ年らしい。アラサーの大台越えしたあたりで。さすがにドレスコードがあるところではそれなりに化粧もするのだろうが、ワトソン氏は「普段」設定のグラビアなど、そばかすを隠そうとはしない。ウチの会社の姫も、まぁ、会社で勝負メイクしても仕方ないのだが、最近まつ毛多少いじってあっても、そんな濃い化粧はしていない。若さに任せてノーメイクというわけにもそろそろ行かない歳なんだと思うが、化粧って、女の人、すげー負担だろうなと思う。お金もそうだけど、それで男性に比べて人生の総時間の何パーセントロスしてるんだろう? ロスと考えるのも良くないか。逆に、その辺時間と気を使わない男性は、使う男性に比べて、やや不利になる局面が増えつつあるらしいが。どちらにしろ、オレにはよくわからない、よく知らないので、あまり、知ったかぶりで書いても怒られるだけか。まぁ、思うまま、なるべく素で生きられる方向というのは良いことなんだろう。


 オレが大学生の時、”インターナショナリズム”でも、のちによく使われるようになった”グローバリズム”でもない、”コスモポリタニズム”、”トランスナショナリズム”なんて言う言葉、特に後者は一瞬だが聞かれたことがあった。概念としては、個-国ではなく、個-世界という対峙の仕方であり、縦方向の構造を持ったそれぞれの国がつながるのがインターナショナル、国の縦割りではない、球的なとでも言おうか、縦横方向に広がりがあるものが幅を利かせる、グローバリズム、一つ一つの個、その集積がコスモポリタニズム、それら点が横方向につながりを持つのがトランスナショナリズム。同じような領域の似たようで、全く意味の違う言葉達だが、実際機能しているのは、インターナショナリズムとグローバリズム、それぞれの領域を主張する国という概念と多国籍企業や国際テロ集団、というのが現実のようだ。コスモポリタニズムやトランスナショナリズムは、儚い理想として消えつつある。

 これら、1980年代後半のことであったが、その頃、書く?バブルの絶頂期だったっていう枕詞? まぁ、日本全体鷹揚になってはいたころで、その中で居住して納税もしている外国人に参政権を、という声が出始めたと記憶している。税の公平公正さからすれば尤もだとは思った。それによって不利益を被る、第二次世界大戦あたりで不当な利益をため込んだりなぁなと何となくその時しでかしたことに対しての相応のペナルティーを逃れてきて、そうなったら財産を没収されたり罰せられたりする可能性がある、今でいう上級国民とそれに準ずる立場の人物やその係累あたりが強硬に反対していたような印象がある。

 その後、そういう層がアメリカにお目こぼしと口止め料をいただく代わりに、国の財貨がかの国に簒奪、流出するのに何の手を打たなくなるようになって(日米経済対話と呼ばれる明治初期の不平等条約の復活)、只今も日本は絶賛衰退中なのであり、

 以上の事は、オレの憶測と印象だけで言っていることで、妥当とはされていないことなのだが、アメリカにのみならず近隣諸国によっても富の簒奪が現実的なものになってしまってからは、外国人参政権? とんでもない!!というのは尤もな話になってしまった。


 しかし、例えばドナルド・トランプのアメリカ大統領当選あたりにはじまり、後任のジョセフ・バイデンもそうだし、その後の習近平やここに来てのウラジミール・プーチンの所業を見るに、かくも、我々の生活に影響し脅かす外国の首長に対し、制度として、われわれは何御意思表示もできないというのは、どういうことなのだろう? という理不尽を感じるに及び、外国人に選挙権を与える代わりに外国の政体に対しても、何らかの選挙権かそれに準じるものを要求するべきではないか、と、ふと考えた。

 古代ギリシャに始まり、歴史が進むに従い、物理的に不可能ということで直接制が代表制に替わった民主主義とよばれるものだが、ここに来てのコンピュータ技術の発展によって、いっそ直接制に回帰することも可能なのではないか? とも思う。しかも世界中に起こる事象に対してだ。

 まぁ、ならないだろうな。現在政治家と呼ばれる職業にいる人がその主義主張に関らずそれを脅かされるわけであるから、それを認めるはずもなく、実現に何百年かかるか、それとも全世界の人が何割という単位で死ぬような大きな災厄でもない限り実現はしないだろう。
 しかし、誰か、酔狂にでも、コンピュータネットワークを使った、全世界を一つとする直接民主主義のというもののシミュレーション、やってみてくれないかな? そうすれば、逆に現状についても色々見えてないものが見えてくるような気がする。

 けど、そこで問題になってくるのが、日本においては若年層を中心にした選挙投票率の低さ、その前提となる現状把握能力の低さ、限界だろう。如何に教育そして事象を周知させていくか、そもそもその事象をどのような形で把握するのか、問題になる。何しろ、捏造も簡単な今の世に何をもって真実とするかが、大問題なんだから。

2022年5月3日火曜日

7484 HS30H Nissan-works

 

7484 HS30H Nissan-works

7483 AE92 Levin_2 &  億劫

7483 AE92 Levin_2


 気が晴れない。嫌なことがあるわけではない。嫌な奴と関わってるわけでもない。顕正会の件にしたって、創価学会に比べたらはるかに純度が高い善意の人たちだ、基本は。姫は会社では顔を合わすことになるけれど、いれば娘ほどの歳の彼女の足を引っ張ってしかられることもあるけれど、可愛いしカッコいいこともあり嫌いではない。まぁ、かるい憂鬱の種というか、憂鬱まではいかない、億劫の種がいっぱいあって、GW明けの2週間の出張、やる事はやったし、ほんの少しの準備を除きGW明けを待つばかりだが、いろいろ脳内でシミュレーションていう奴をついついしてしまい、問題は恐らくないはずなのに、なんか気が重くなる。猪にぶつけられた車を買い替えるお金の算段とか、3回目のワクチンとか。どれも、そんな難しいことじゃないけれど、嫌じゃないんだけど、あぁ、もう、なんか億劫。

 体重過多で、身体を動かすのは嫌いではないが、ついつい身構えがちで、GWなどゆるゆる運動など、ちょっと多めにやってみようか、などと思ったり、部屋がもので氾濫してるので整理せねば、と。

 GW、なんもかもほっぽり出して死んだように寝ていたいよ。

 などと言って、オレにはそれほどもう時間が残されているようにも思えず、やんなきゃなぁ、と、ずっと思ってるんだけど、まぁ、硬い大岩を貧弱な鑿で少しずつ砕いてほぐすように、懸案s、なくしてくしかない。

 セナが死んだ1994年5月1日、せめてあの日から何かを毎日積み重ねてたら、オレは一廉の人物になれたんだろうか? などといつぞや思い立ち、さてと思い、こんな画像とか絵とか、かの日からの日数と同じ枚数になるようやっているのだが、それに加えて、駄文であっても思ったことを同じだけ、などと。かの日から今日まで10299日なんだそうだ。便利だな、今の時代。そういう計算、ウェブページで一瞬にやってくれるところがある。7483というのは、確か前に手計算でやった時は2010年代の前半ぐらいではなかったかと思う。丁度、心筋梗塞やった頃か。まぁ、一日一枚では追いつかないのだから、まとまった休みに量産しなきゃ追いつかない。

 が、とりあえずは足の踏み場もないに等しい、目の前のスペースの片づけか。でっけぇため息。

 

7482 GSX1100S_28 & ランボゥに戻る前にキリンに立ち寄る

 

7482 GSX1100S_28


 考えてみたら、法華宗の事ばかり書いていて、ランボゥの事書いてないし、それなら、別にカワサキ空冷4発を合わせることもないのだ。んでもって、ランボゥに話題を引き戻す前に、東本昌平氏の「キリン」の事について少し、と思い、今回は刀。

 非常に稚拙な、という修飾語はつくが、プチ宗教論争、プチ思想哲学論争なんて、20代の時、げっぷが出るほどやったのだ。それもこれもすべてはマウントとるためなんだが、夜の酒を飲みながらのそれに備えて、昼間のうちに書籍でにわか知識の詰め込みなんかもやったりしたものさ。今更、同僚で顕正の彼女を、以降、ここでは姫と呼称するが、姫とは多分直接的な論争になることはないだろう。姫の同級生の方か、顕正会のもう少し上位の人が、こんなオレを、それでも、折伏弘通しようというなら、多少はあるのかもしれない。まぁ、オレが彼らの立場なら、こんな奴はごめんだがね。

 ざっくり整理するならば、妙法蓮華経と勤行の良さは充分理解できた。それだけで価値があることは分かった。しかし、顕正会の主張方針とは相いれることができず、会員として活動することもできない、ということだ。

 心が決まって、改めて思うのは妙法蓮華経の経文としての端正さである。そう感じるというのは一体どういうことなのか、生まれて初めて、じゃないわ、前に鈴木大拙氏の「歎異抄」を読んだことがあるんだった。臨済宗門徒の氏が、親鸞の教えが浄土宗門徒の間で変質することを嘆いた、なんていう、言ってみれば愚痴本だ。名著とは言われているが。仏教関係の書籍を買うのは、その「歎異抄」に次いで、ということになる。それが今回、3冊ほど仏教研究書籍、他に何冊か、まとめてお買い上げだ。
 
 
 法華経関連書籍が4冊と、佐藤優氏が母校の、氏は神学部であったから、多分その神学部で講義したその内容らしい、という本と、ガダリやデリダと並んで、オレが若い時スターだったドゥルーズの、これ、入門書みたいな内容らしい。

 ホントは土木の技術書買って読めばいいのだが、ついつい手が出るのは、単車とかクルマの本じゃなければこのあたりだったりする。GWとその後の2週間の出張の夜、コロナだし遊びに行けないので夜の御供として。

 若いころというと、美術部の後輩に、一時期幸福の科学に偉く傾倒した奴と、バイト仲間の他の大学の学生(っていうか百万遍のかの国立大学の奴)でオウム真理教に入信しちゃった奴がいた。それぞれから、結構熱心に勧誘されたりした。
 って思いだしたよ。なんか、オレ、勧誘しやすいのか、原理研の勧誘こそなかったけど、前に書いた通り、英会話の教材やら、高校の時新宿駅で自衛隊の勧誘を受けたし、渋谷から青山通り、表参道と歩いただけで2回、厚化粧のオバちゃんお姉さんに、シルクスクリーンやらリトグラフやら売りつけられそうになった。以来、クリズチャン・ラッセンが特に嫌いになったんだがな。
 そう思うと、オレって、そんな隙だらけに見える? って、少し落ち込んでしまう。

 そのあたりから、思ってたのさ。新宗教、新興宗教なんていうのは、組織として不安定な分、教祖が「烏の色は白」といってもそれに従わなければならないようなところがある。そうしないと組織を維持できない。壺とか怪しげなもの売られる以前に、そういうのが我慢できない。

 こうやって、オレは、良いと思ったりとか興味を持ったりしたら、その話の裏も取り、そのうえで受け入れるかどうか決める、なんて言うやり方をいつの間にかとるようになった。法華経との出会いはきっと悪くないものであるという予感がある。それをもたらしてくれた姫には感謝だ。心から。

 まぁ、しかし、特に顕正会のような立ち位置の新宗教、そこの支部長あたりが仮に折伏にくるのだとしたら、そのような本では何も日蓮大聖人様の教えなどわからない、とか、間違いだ、とか言うのだろう。まぁ、それならお互い何が分かってるのか? って話なんだが、お互い何もわからないんだよ。なんて、少々乱暴か。主観も客観も必ず正しいことなんてない。一般に客観が正しいみたいな思われ方をしているが、そういうのはただ、外から見る分には、以上の意味はないから、中の事は分からないし、内側にこもっては外からの評価がわからない。信心が、他所の評価も気にならない。自分の信心で目いっぱいで、他人様の信心などどうでもいい、という立場を取らない、あくまで折伏にこだわるなら正しいものはまるで見えていないということになる。ただ、自分が絶対正しい、という料簡こそ、実は真っ先に間違いであると断ぜられるべきものであると思っている。その辺からして多分決して分かり合えない。

 まぁ、オレが思ってることだって正しいとはほぼ思っていない。特に万人にとっては。間違っているから常に正しいものを探すのだけど、正しいものを手に入れた瞬間に間違ったものになってしまうのだから、きりがない。しかし、そういうことの面白みが、何となくわかってきていたりしてな。


 限界超克の姿こそ男にはふさわしい
 それは一種永続的な闘争であるが
 その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい
 若さは性急に結論を欲し 問題を切断しようとする

 自身の有限を自覚しながらも
 再び立ち上がり走り出さなければならない
 初めてアクセルを握った時から
 何も変わってはいないのだ

 そらで覚えているのを書き出してみた。それぐらい若い時のオレには重要な一節だった。「キリン」が最初にMr.Bikeに連載されていた時に、東本氏によって、作中と、漫画とは別のページに書いてあったのを合わせて、こんな感じだったと思う。
 こめかみとその奥の脳髄の芯が随分と疲れたような感覚は取れなかったけれど、これはこれからこういうものだし、男ってこんなもんだ、なんて妙に腑に落ち、何か世界が変わったような気がした、これを読んだときは。
 因みに、「男には」なんて、「男」を振り回すなんて、随分昭和だが、しかしこの場合の男はつまり、例えば戦場で、恋人の写真を持参して「戦争が終わったらこのコと結婚するんです」なんて妙なフラグを立てることもなければ、そもそも、持って歩く写真に写す恋人などいないのに、いざ始まってしまえば、真っ先にヘルメットごと頭を撃ち抜かれてしまうような男、意を決して女性に愛の告白をして「君のためならなんだってできる」といったら、即座に「じゃぁ、私のために、私の前から今すぐ消えて」と言われてしまうような男である。いくら男女平等とはいえ、そういうのはごめんだろう、多分、女性の方々も。

 モチベーションが低いわけではないが、妙に疲れ果てた感覚があるし、それでいて変に覚醒していて、寄り添ってくれる人もなく脚に力は入りきらないのだが、寄り添ってくれる人がいなければ、前に行かないのか? 違うだろ? と、ゴーストが囁いてくれちゃったりなんかして、一度、丹田に力を込め、歯をほんの少しだけ食いしばり、食いしばりすぎると俺みたいに奥歯ボロボロになりますので。まぁ、そういう自己イメージだ。そうやってよろよろ前に進みだす。

 どこかの教えにおすがりすれば、それは間違いであると断じられ、なにか即席のお救いをあてがわれるのだろうが、そういうことは選ばない。

 で、自己陶酔と揶揄されるから人には言わないけれど、案外とこれが、居直ってしまえば楽しいと思えなくもない。そんな感じ。


 キリンが、何十年越しにポルシェに挑みかかるきっかけは若い女性だった。こちらも若い女性であることは変わりないが、あちらはイケオジで女性と懇ろになったりしていたが、こちらは、そういうことはほぼあり得ない。でも、な~んか (´・ω・`)人(´・ω・`)ナカーマ、とか、思ってしまった。

 
 ランボゥの詩というのは、そういうのが、そんな珍しくはないことで、ちょっとばかりしんどいかもしれないが、特別絶望的な孤独感を感じるほどの事もない、と、いい具合に教えてくれる。
 ような気がする。知らんけど。


 というようなところを、顕正会の件は、ブログでは、一応のまとめとしておく。新しい展開があって、それが面白いと思えば書くことにする。


 
 


2022年5月2日月曜日

7481 小倉藍

 

7481 小倉藍

Ai Ogura
kalex-Triumph Moto2
Jerez 2022

優勝おめでとうございます