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一個前のエントリ書きあげて、推敲、ろくにせず上げて時間が時間だったのでそのまま寝てしまって。だから、変な言い回しの多いこと多いこと。ま、いつもの事なんだがな。
で、寝る前のベッドでのことだ。折しも憲法記念日で、「改憲の機運が高まっている」という報道を見ながらベッドでツイッター。いや、安眠に良くないから、それ、と、自分で突っ込み、実際あまりよい睡眠とは言えなかったが、そんな脳みそがふにゃふにゃになってる状態で、それこそ、この期に及んで碌な論陣を張れない護憲勢力、特に共産党、社民党あたりと、昨日の晩、2時間ほどで書きあげたエントリの俎上に上がった法華宗系の諸派の相似性が、にょきにょきと頭の中で存在感を増してしまった、そういう話。
護憲か改憲か? オレは40数年前、小学生の時から基本、改憲すべきと思ってきたが、しかしその時代その時代の政権に、それをなし得る資格資質はないと思っていた。何らかの形で公正さに欠ける政権ばかりだったからだ。ずっとだ。つまり、実質改憲反対(護憲ではない)だったようである。しかし、後生護り続けなければならないなどとも、一度たりとも思ったことがない。
というようなところで、一番のトピックである9条周りのことであるが、護憲派の根源が感情的なもので終始する戦争反対論で、これでは、いつかなし崩しにこの人たちは負けていくのだろうな、という予感がずっとしていたし、いよいよそれが目に見えてきた感がある。では、なぜ改憲したがるのだろうと彼らが考えても、「戦争がしたいから」などと、非常に幼稚な見立てしか出てこない。そこにそこで日本から戦争を仕掛けることなど可能だろうか? 不可能なのは目に見えていて、それを敢えて仕掛けに行くことなんてあり得るのだろうか? そこまで考えが及んでいるところを見たことがない。
今行われている「敵基地攻撃能力」の「反撃能力」への言い換えの件。時間の無駄やなぁ、と思うが、戦争反対が感情的なもので終始して、現代の戦争が如何に行われるのかということもあまりに不勉強で、やはり感情的な反対論しか出てこず、専門的なところでの「敵基地攻撃能力論」への反論はほぼ見られない。最新の知見、技術、多くの資源がコストを考えられること、あまりなく戦争に振り向けられるのだから、確かに、あまりに無駄だなあと思えるが、反戦を唱えるなら、そういう知識、その辺のミリオタに負けてはいけないはずである。実際は、そういうことはなく、化粧っ気脂気が落ちたメガネで小太りのその辺の知識が全くないおばちゃんがヒステリックな声を上げているだけ、というイメージしか持たれていない。実際はそういう人ばかりではないのは間違いなくても、あくまでイメージとして。
今行われている「敵基地攻撃能力」の「反撃能力」への言い換えの件。時間の無駄やなぁ、と思うが、戦争反対が感情的なもので終始して、現代の戦争が如何に行われるのかということもあまりに不勉強で、やはり感情的な反対論しか出てこず、専門的なところでの「敵基地攻撃能力論」への反論はほぼ見られない。最新の知見、技術、多くの資源がコストを考えられること、あまりなく戦争に振り向けられるのだから、確かに、あまりに無駄だなあと思えるが、反戦を唱えるなら、そういう知識、その辺のミリオタに負けてはいけないはずである。実際は、そういうことはなく、化粧っ気脂気が落ちたメガネで小太りのその辺の知識が全くないおばちゃんがヒステリックな声を上げているだけ、というイメージしか持たれていない。実際はそういう人ばかりではないのは間違いなくても、あくまでイメージとして。
ウクライナの件で、近隣諸国の根拠のない性善説めいたものでここまで引っ張ってきたものが、ここに来てもうムリ、ということに相成っている。ここで近隣諸国の指導者の性善説を迂闊にぶち上げようものなら支持率下がるどころか、石投げられそうな雰囲気だ。日本が挑発しなければ何もない、という主張も、どうも怪しい。
特に共産党、風前の灯火だがしぶとく消えない大昔の社会党左派、今の社民党、そして彼らのシンパ。大きな方針から細かい個々の主張まで決して自分たちの誤りを認めようとせず、常に間違っているのは与党、自民党である。立民も基本一緒。
大多数の支持を得るのにまず必要なのは、イデオロギーであった時代はとっくに終わって久しく、それもこれも正鵠を得た現状分析能力と現実的で精密で実現可能な政策立案能力が大前提にあって、それがあって初めて、イデオロギーに凝り固まったものでない政策方針の話となる。そこで発信能力というのはおのず生まれるものだが、それは前提以前のスキルであるが、それすら彼らはマスコミの所為として、自分たちでの改善をしようとしない。
とにかく自分の間違いを決して認めようとしない。悪いのは全て相手。それは自分たちの権威のためなのだろうが、それにより更なる支持の獲得など夢のまた夢ぐらいに不可能にしているし、つまりは現在の上層部の地位保全のためだけのものである。
この点が、法華宗系全体、特に創価学会、顕正会あたりと相似形をなすところである。共産党と彼ら、お互い蛇蝎のように嫌いあっているというのに、である。公明党は公明党で政界をうまく泳いでいかなくてはいけないので、この数年、創価学会との距離が開きつつあるという話を時々聴く。
宗教が自らの誤謬を認めたがらないというのも、やはり教義への信頼に関わってくると考えているのだろうが、間違っているのは、その時々、その団体ごとの上層部ということになると、当然自分の地位にかかわる問題で。
いずれも、そこの上にいる人たち、人に対しマウントを取るのが第一義と考えているような人たちが多いという印象で、ってそれは与党も含め他の人たちも一緒だが、内輪での権威を外からの見た目よりも優先し、というのが特に法華宗系の特徴であるように思われる。
いくら治安が最悪の時代だったとはいえ、日蓮があくまで折伏、「俺の言うことに従え~!!」にこだわったことが、結局、後世の勢力拡大を阻んでいる。それが基本ムーブ、教義に織り込まれたものであれば、早晩内輪でのマウントの取り合いになるのが必定で、日蓮が理想としたはずの所の仏法の世とはすでにかけ離れている。離合集散というが、多分分裂する場合の方がはるかに多く、その内のかなりの割合がやがてフェイドアウトしていくことだろう。宗教の第一義とこの世の大多数がイメージしている心の平安とは程遠く、文字だけの曼荼羅である御本尊と言い、視覚イメージの重要性を軽視するなど、人の自由な心の動きをいつか否定してくる怖さが常にある。そしてそれらの問題に対しては答えようとはしない。問題などないがごとく。内輪にこもるとそういうのが問題とは思えなくなるのだろうか?
ある時点でひょいと顔が向く方向を変えられることがあって、目指すところが違ってしまったけれど、どちらも非常にまじめで自己鍛錬は怠らないが、夜郎自大で尊大に人を見下し、また見下したがるような、人の話を真面目に聞かない、如何にも神経質そうな、寛容というものを遂に学ぶこともなく、人の心の機微にも疎く、友達少ない、でもそういう自覚がない、自分は周りから好かれているリーダーになるべき人間だと思い込んでいる、そういう青年が挫折もなく年を取った、そういう人たちによって、どちらも動かされているイメージがある。それぞれ教義、イデオロギーが第一のふりして、実は強烈な自分ファーストだったりしてな。まぁ、現在の共産党の上層部は結構つつましやかなところもあるので、もっぱらこれは法華宗諸派の上層部の話かもしれない。共産党は中間層にこういう性格の奴多そう。
多分、どちらも第一党、国教となり得る可能性は、ほぼない。自覚はあるが、案外、自分自身にとっては、今の立ち位置がちょうどよく、ぶち上げる言葉は釣るためのものであって、という可能性もないではない。
そんなところ。
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