よくみりゃ、ホンダのCBX550Fか400Fの足回りに換えてある。Matchlessって、Match(勝負)がless(無い)? 勝負がない? 試合(レース)にならない? 程無敵? 速い? っていう含意のブランド名なのかしら?
ふと、前にツイッターで読んだ、亡くなった御尊父を偲んだツイートを思い出した。
うん、関係なかったな。
東上線上福岡駅近くに宿をとり、所沢多門通り沿いの会社の敷地を借りての作業、2週間、終わって帰宅後の一発目。この歳になって、客地での解放感から夜遊び、まして池袋にでてまで、などと、事前に考えないでもなかったが、実際には、昼間の業務に神経持ってかれて、そんな余裕もなく、宿でごろごろしていたのだが、その時のためにと持って行った、法華経に関する本、パラパラめくってはみた。読み進めるときは読み進めもしたが、割とそのたびにすぐに倦んでしまい、思ってたほど読めたわけではない。
法華経についての本を読むようになって、っていうか、その方面のこと、いろいろ勉強するようになって、急に聞くようになったのが「最勝」という言葉。いわく、法華経は「最勝」の経文であると。
PCの予測変換の中には入っていたのだから、別にこの方面だけの専門用語的なものでもないのだろうが、「最良」「最強」「最高」又は「最優」、「究極」でもよい。それら辺りをなぜ使わないのか? いや、もっともかどうかはともかくも、優れた経文であることは、唱えてみたら直感的にではあるが理解できるのだが、あくまで「勝ち」にこだわりますか。何なんでしょうね、これって?
「最良」「最強」「最高」ではなく、「最勝」としたのは、いつ頃誰からで、何故敢えてこの言い方なのか? その辺もこの後のテーマ。
しかし、「勝ち」「負け」というのは、対象があっての物で、絶対的なものではない相対的なものだ。そんなこと言えば「最も」なんていうのも、数多ある中で一番なんたらということなんだから、きりがないけれど、輪郭をはっきりさせる代わりに、何か価値を薄っぺらいものにしないか? というのが第一印象。「良」や「強」、「高」なら、幾分柔らかくはなっても、絶対感は強く、「勝ち」は、或る一定のフィールドにおいてのみ、というニュアンスが紛れ込まないか?
いや、逆に経文なんて言うのはそういうものだ、という謙虚さのあらわれなのか? そんなものよりも大切なことがこの世にはたくさんあると。
いやいや、ちょっとまてよ。え?え~? 実は経文の価値なんてそんなもの、というのは、確かに、巷の凡夫の皮膚感には近いけれど、え?え~? そしたら、その程度の物に、歴史のある時点ではリアルに殺傷沙汰になるくらい、正偽について議論、対立してきたわけ? うそでしょ~?
勝ち負けこそが、人生の価値を最終的に決める最重要なファクターだ、という価値観によるものか? って、それだと、法華経も、現代の薄っぺらな二流の自己啓発本やビジネス本程度の物になってしまう気がする。それともそんなことを言ってしまうオレのような了見自体を問題にしているんだろうか? オレにしたところで「2番じゃダメなんですか?!」なんて言ってしまうつもりはないが、しかし、その辺を宗教には急かされたくはないものだ。
とはいえ、実際のところ、原始仏教、どうやら釈尊が述べたかったことは、つまりは心をどう整えるかということで、ある意味方便として宇宙観みたいのは説いているが、呪術的なものは極力排除したかった、っぽい。さっと斜め読みした現段階の印象によると。かなり形而下の感情も問題にしていたのではないか? ある意味自己啓発本っぽいかも。儒教、道教も神仙思想に力の根源を持つらしいが、あれも、生きていく作法の話っぽいし。
ついでにいうなら、法華宗だけじゃなかった。開祖、教祖が入滅した後、後継者をめぐってとか、教義をめぐって分裂するなんて言うのは、ほぼどの宗教でも見られる。キリスト教もイスラム教も、仏教他宗派も。あいつには勝たなきゃいけない、なんていうのは、もう、偉大なご教祖様でもどうにもできない、人間の業なんだろうか?
などと。
ホント、この「最勝」という言葉、法華経関係の書籍等には度々出てきて、そのたびに違和感を感じている。敢えてこの言葉を使っている真意も知りたい。
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