2024年8月24日土曜日
8463 DC2 _7 & NT0091,0092 「ライブラリーのバグ」で暴かれた? 古代象の夢なりき 2
2024年8月18日日曜日
NT0090 NTR幽霊と傷痍軍人
「なろう」など、と書けば、場合により、カクヨムやアルファポリスなど、ラノベ投稿サイトも含む、コピー機がその昔メーカー問わず「ゼロックス」と言われていたり、車載型移動式クレーンが 同じく「ユニック」と呼ばれていたりするのと、他にもあると思うが、まぁ、同じと思っていいのではないかと思う。それぞれのサイトに愛着があり、それを認めないという方もいると思うが、この際それはご容赦いただきたい。要するに投稿ラノベの話。
1ジャンルに「NTR」=寝取られ物、というのがある。パートナーを寝取られることで妙に興奮して、まぁ、それが快感になるという展開は少数だが、過激な断罪に走るようなパターンが多数派。読者それぞれに思い当たることがあるのか、オレなんぞありまくりなんだが、
暇に任せて、こういうストーリーを考えてみた。まぁ、恋人を寝取られ、悲嘆にくれる以前に訳の分からないショックを受けて何も考えられずにいる青年がいたとしよう。社会に出て何年かたった20代後半ぐらいにしておくか。多分な、オレのもう薄っすらしてる割に輪郭だけは割とはっきり残ってる記憶を基にするならば、はしご外された感覚に近い?急に明日からのビジョンが喪失してしまう、というのが一つあったかと思う。そういうところで、人によっては自殺しようかとすると思うのだが、そこに幽霊が現れるわけである。男の幽霊。
弱り目に祟り目とはこのことかと青年は思うのだが、どこかで見たことがある顔の幽霊は、話を聞くと、実の曽祖父にあたる人物であるらしい。戦争で出征し、ビルマ戦線で行方不明になり戦死とされていた。当時割と聞いた話であるのだが、曾祖母は曾祖父の弟と再婚。青年の祖父は実の曽祖父の実子であったが、曾祖父の妹、大叔母たちは曾祖父の弟の実子らしい。
重傷を負った曽祖父は現地の老夫婦にかくまわれていたが、発見され復員。しかし、妻はすでに弟と家庭を持っており、実家にはすでに居場所がなかった曽祖父は、実家からやや離れたところにある寺に寺男として住むこむことになる。そこで、寺の下仕事をしたり近隣の子供たちに読み書きを教えていたりしていたが、復員から5年ほど経って病没してしまう。
自分とは事情がかなり違うが、そういう曽祖父の幽霊に血筋というか親近感を感じてしまう。というところで、その後の展開、どうしようか? と、考えているところ。
そこまで考えて、そういえば、オレが小学生のころまで、高岡駅前地下街の隅で、脚や片手を失った傷痍軍人が、ものも言わず、じっと土下座をして物乞いをしていた。子供心に何か恐ろしい、触れてはいけないもののように思っていた。彼の終戦からはどのようなものだったんだろう? そんな高度経済成長期の、街角の隅にあったような闇を時々思い出してしまう。今ではそんなことなどすっぱり忘れ、清潔そうだが何もない箱が無様に建ち並ぶ。
あの傷痍軍人はいつまであそこにいてああやっていたのかは知らない。
2024年8月16日金曜日
8451 初代セルシオ & NT0088,0089 違和感 (古代象の夢なりき 1)
ネットでアンシェントロマン関係で一番出てくる画像「理不尽にも吹き飛んだおじさん」のキャラデザインは矢崎君によるものだったと思う。モブ、主人公系以外のキャラデザインをやっていた。
2024年8月14日水曜日
NT0084,0085 気が付けば動物天国?
NT0084,0085 気が付けば動物天国?
これから文明は加速度的に衰えていく! んじゃないかなぁ、と、思っている 2
前回はこちら
https://selgeykattvinsky.blogspot.com/2024/08/nt0076.html
8月に入ってからだったか、同じ日、姫路の大学の先輩と、オレと同じ高岡市内に住む中学の同級生が、それぞれ隣地にアライグマ、猪が現れ、(家庭?)菜園の野菜を食い荒らす被害が出ている、という投稿をFacebookに行った。野生動物さんたち、人間をナメて何かやりたい放題、って感じです。単純に言い切ることは禁物ではあるが、どんどん人間の生活圏というか勢力圏が狭くなっている事を端的に表しているように思った。
これは、鳥獣保護法とか動物愛護法とかそのあたりの縛りで、人間がやすやす危害を加えることが出来なくなった。罠を仕掛けることさえ鳥獣保護法では規制されていて、禁止の罠があるなど罠も効き目があるのかどうか怪しいものしか使えなかったり、免許が必要だったりするらしい。
猪やら鹿やら、平気で市街地、京都、東京の大都市圏であっても出没するらしいが、何より熊だ。こちら有害鳥獣指定になっていても、狩る方に危険があるにもかかわらず、法律の縛りが多く、持ち出しが多くて報酬がほとんどない、ということで、自治体によっては猟友会がもう熊の駆除は引き受けないなどと言いだしたところもあるくらいだ。
その辺の事情、ラノベではあるが「北海道に魔物が出たので地元ハンターが出動してみた」https://ncode.syosetu.com/n1111fb/ を読めば大体そのような事情らしい。猟友会が猟協会に変更させられたそうだが、異世界の怪物と対峙することにはなっても、こちらの事情はほぼ現実の通りとのこと。
鳥獣保護法、動物愛護法の是非は個々では論じない。しかし、これは高度経済成長期からその傾向はあったが、過疎から限界集落、遂に廃村となる山村も、かつては人がいて、山林の管理もちゃんと出来ていたころは、こうも野生動物が下に降りてくることはなかった。なんてことはない。人が放棄したからそこに熊鹿猪がやってきて、そのままもっと下に降りてきているのだと。
こういうこともある。能登半島地震のあと、復興は遅々として進まない。元々が過疎高齢化が問題だったところで、これでいよいよこの場を放棄しようという動きも少なくない。復興が遅いのは、第一に政治家の無能は巷間言われている通りではあると思うが、人もいないところにお金をどうかけるべきなのか決めかねている、ということはあるのだろう。そこにお金をつぎ込めばまた人が戻ってくるなどと言う単純な話ではないように思う。
要するに人口の問題であり、人口政策の失敗であるのだが、迂闊に政治家が「産めよ増やせよ」というと非難ごうごうな時代だ。んで、そこで声高に非難する向きと、被災地復興を最優先に、と声高に叫ぶ向きは、非常に重なっているように思う。先立つもののない不幸はしかし、国家プロジェクト的経済政策や国防を削って、などと言っているが、国家統治の形、国際社会の形が現在の延長線上にある以上、どこまでそんな可能と思っているのかはわからない。
人口、数が減ったから、それに見合った形で勢力圏は、単純に削られる。動物さんたちが我々の所にやってくる、なんていうのは、まだ序の口のような気がする。もっと深刻な不都合がいろいろ現れているように思えてならない。
2024年8月11日日曜日
8427 Ayrton Senna da Silva _28, NT0081 あの時何かが終わったと直感したのだ
NT0078 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2
ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲 2
要するに、非モテのハッカー達が開発し、すがったPUA=Pick Up Art=恋愛工学に基づいたナンパ術、は破綻したというのが、第一章の後半の話。
前回、オレが「女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか?」と記述したことは、橘氏に
女の脳も「生き延びること(Survive)」と「子孫を残すこと(Replicate)」という「SR価値」を最大化するよう進化したはずだ」
と言い変えられているが、そこにつけこむのがPUAの肝だったんだそうだ。要は自分がSR価値を満たすことが出来る相手だと誤認させるのだと。
さて、この「恋愛工学」的な言葉。「金融工学」もそう。一義的というか元来というか工学という言葉がさすものとはなじまないものに「工学」という言葉をつける料簡。可能な限り広く詳細に数値データ化し目に見える機構として物事をとらえそれに対しアクション、入力をしていく、という考え方なんだろう。それがクールと、特に若い奴は考えがちだ。
ところが、これにどうしても入りきらないパラメーターが人間の精神ってやつで、結局のところPUAはそこをカバーできなかった。と。
この度は、〇〇工学なんて名乗ってイキってはみたものの遭えなく破綻してしまった。一重に浅薄だったというしかないが、これは、長い歴史で、宗教や哲学が取り組んできたテーマだったんじゃないか? 則ち、一軒複雑怪奇なこの世と自分の精神の神羅万象をどう言う枠組みでとらえていくのか?答えはひとつではなく、極端な話、人数分だけ答えが在ったりする。
なぜ、〇〇工学をクールと思い、そこに引き寄せられようとするのか?
恋愛に関していえば、どの時代にも姿を変えて、何やらどこか湿ったフォークロアが存在し、通俗文学やテレビドラマ、映画に姿を変えて世に姿を現す。それに救われる、指針をもらう者もそれなりの数いるだろうが、どうしたって救われず、その湿り具合を嫌悪を持つものには、〇〇工学という言葉の響き、たたずまい、魅力的に考えるのだろう。
2024年8月10日土曜日
8423 Presso, NT0077 古代の象の夢なりき 前書き
NT0076 これから文明は加速度的に衰えていく! んじゃないかなぁ、と、思っている
なんか、この1,2年か、オレ、「あとこの文明も2、3世代で破滅的に衰退する気がする」なんて言う事を、SNSのコメントなんかではばかりもなく書くようになってしまった。
滅亡論なんて、別に珍しいものではないが、そんなことをいう奴、書く奴って、なんか残念な奴というか、可哀そうな奴というか、頭おかしい奴というか、そんな感じに捉えられたりする。まぁ、実際残念な奴なんだが。
または、「大人としてそういう物言いは無責任だ」と10年ぐらい前誰かが書いてたのを見たことがある。まぁ、皆一所懸命やってるのに、えらそうに自分だけ高い所に立ってなんか言ってるのって、むかつくよね。
でも、ならば訊くが、今のこの文明、未来永劫続くとお思いか? いまは多少停滞しているが、その先に輝かしい未来が来るとお思いか? まぁ、根拠もなく信じる振りはできるわな。
実際のところ、オレにしたって、2,3世代かどうかは感覚的に言っているのだが、思いのほか急激に文明は衰えていくのではないか、という予感は日に日に強くなる。
確かに、この我が身自体の衰え、恐ろしい早さでポンコツになっていくことが、思考に影響を与えていることは否定しない。また、オレは自分の遺伝子を後世に残すことはどうやら遂にかなわぬまま仕舞っていくことになりそうだ。そう言うところで何処か他人事のように考えている節もある。
まずは、何故そう感じるように至ったのか、振り返ってみようと思う。これを読んでくださる奇特な方で、もしあなたが親切な方ならば、どうか反駁をかましてほしい。一種思考実験ごっこを繰り広げていきたいと思う。
何に対してどう思い、であるからの終末論。・・・う~ん終末論っていうとノストラダムスとかなんかそんな感じ? なんかちがうんだよなぁ、イメージするの。それこそ、今のオレ、順番に何処かがポンコツになって、やがてにっちもさっちもいかなくなって、というのをイメージしている。ただし、最初は緩やかだがあるところから加速しては行くような気はする。
で、その「何に対して」の何だ。それこそそのネタはそこら中に転がっている。しかもそれらは個別に見えて何処かで絡まっている。言ってみれば、色んな事象が絡まってできた毛玉が坂道を転がり落ちようとしている感じ。
何から行くかな? 象徴的に人間の生活圏が徐々に狭められている話から行くか。
2024年7月16日火曜日
8353 NR500 _13
2024年7月13日土曜日
8331 東名高速道 薩埵 2023 07
NT0074
あの時アクセルをもう少し開けていたら、とか、緩めさえしなければ、という後悔。大人ならば、な、それを正当化する理屈はいくつでも持ち合わせられるものだが、若い時の精神にとってはそういう訳にはいかない。大人になって、それ位開けられるようになっても意味はない。あの時開けなくてはいけなかった。大人になってから開けることが出来ても、薩埵峠あたりの高名高速から跳ぶはめになる。
しかしそれでも開けなきゃならんのですよ。あの時ならあの時の必然で、今なら今の必然で。
なかなかな、思う通りにはいかないものです。もしあの時思った通りになっていれば、とか、違う選択をしていたら、とか、そういうのをルサンチマンというのだろう。凡そ今の世では有害なものとされている。しかし、みんな、そういうものが一ミリもない人生もコクがなくてつまらないと思っている。
そして、目の前に「アクセル」はいつも横たわっている。
2024年7月10日水曜日
8322 Buenos Aires
NT0073 ふとブエノスアイレスに行ってみたくなることが偶にある
恥ずかしながらオレの海外渡航経験は、ソウル日帰り一回のみである。パスポート二回ぐらい取っているのだが、行きそびれだの何だのその一回きりのほぼほぼ無駄。それほど海外渡航意欲は旺盛ではなく、実際その土地の事はほとんど知らないけれど、っていうか、今この時点でそれほど熱心に調べようとしていないが、名前の語感だけで妙なエキゾティズムを感じ、一遍ぐらい行ってみたいな、という土地がいくつかある。
このブエノスアイレス、同じく南米でブラジルのマナウス、プラハにブダペスト、トンブクトゥ、今は、もう教授になったのかな?高校の同級生がそこの建築について本を書いたというハノイ。この6か所。次点でアンカレッジとかラパスとかパースとか。
藤沢周氏の「ブエノスアイレス午前零時」。ブエノスアイレスなんかにはいってないけれど、って。そうではない、ピアソラの曲の名前そのままの題名。日本の鄙びた温泉地、雪、タンゴ、そんなところだ。小説内容を連想するようなMV、ヨーヨーマ氏の演奏による「リベルタンゴ」のもので観たような気がする。
そもそも地球の反対側にある国の事だからよくわからない。子供の時イギリスと紛争になったこと、通貨危機があったこと、ぐらいしか記憶にない。そうだ、「母をたずねて三千里」で、マルコ少年がイタリアからわざわざ母親に会いに行ったのはブエノスアイレスじゃなかったっけ?
ネットで拾った写真を基に絵にしてみた。多分その辺を歩いていたカップルにバイト料払って、タンゴ踊ってます的ポーズをとってもらったか? まさか、ずっと街中にバンドネオンの音色が流れていて、そこらじゅうで所かまわずタンゴ踊ってるってことはないよな?
でも、ちょっと前のネットで70、80の婆さんが、よぼよぼに見えて、実はタンゴガチ勢の踊りをストリートで披露した、っていうのがあったな。
バンドネオンとアコーディオン、違いはボタンか鍵盤か、だけなのかな? あの音色、結構好きだ。ブエノスアイレスの夜の治安、どうなのかも知らないが、ほろ酔いで街をふらふら歩くことがあるとしたら、その時はオレの人生も満更じゃないと思えるに違いない。
2024年7月7日日曜日
8314 Kreidler Van Veen Racer 50 cc 1973
T0073 クライドラーと言えば
オレがGPのファンになった頃の最軽量クラスは125㏄で、すでに、80㏄クラスは無くなっていたが、80㏄クラスはその更に前は50㏄だったらしい。そのクラス、ヨーロッパの有象無象の小排気量メーカーがしのぎを削っていたらしいが、その中の一つにクライドラーというドイツメーカーがあったとのこと。
しかし、ある年齢層のニッポンの男の子(昔の)にとっては、それよりも、「浮谷東次郎が少年時代に駆ったモペットのメーカー」という認知なのではないかと思う。
「がむしゃら1500キロ」を読んだのは、高校生の時ではなかったかと思う。考えてみれば、高校生が、それよりも昔、生まれる十年くらい前の中学生が書いた旅行記を読むというのは、今になるとちょっと複雑だ。
東名高速道路ができる以前、国道1号線と言えど無舗装区間もあったであろう時代。高度経済成長期前期の話で、いくらドイツ製と言えど、その当時、途中での故障などのトラブルも心配だったろう。まだまだ、街角の暗がりがおどろおどろしかった時代、というか、カオスがそこら中にうずくまっていた時代というか、そんな時代の中学生の少年の冒険譚であるが、まぁ、それでも、案外と平和なもので、専ら少年の少年らしい内面が綴られていたように記憶している。
なんでそんなもんで? というところでの距離を走る無茶、というのは主に自転車であれば、今の時代であれば割と安全にできる。大学の友人の御子息はつい先日留学先の台湾を海岸線沿いに一周したそうだが、ツイッターとかで、思い立って関西だったか九州だったかの青年が、ママチャリにサンダル履きで晴海だったか幕張だったかのコミケに参加したその道中記が話題になったこともあった。
多くの場合、思ってもやらないものだが、それこそ高度経済成長期から比べたら遥かにハードルは低そうだ。
浮谷少年は、本人が文中で書いている通り、恵まれた金持ちのボンボンであって、割と容易に条件は整えることができたのだが、しかし、’80年代当時に読んだ、’50年代の少年の旅行記、妙に惹かれるものはあった。
その年代なりに、何か突き抜けるものを感じたからだろう、と思っている。
2024年7月6日土曜日
8306 T120 Bonneville 1970
2024年6月23日日曜日
8288 Eclipse II _12
2024年6月22日土曜日
8284 DBR1 _3
2024年6月18日火曜日
8282 Jiotto Caspita Mk.II
2024年6月17日月曜日
8276 GPz900R _30
2024年6月16日日曜日
8274 NR _2
多少器量が劣っていても心が綺麗ならば、などと昭和の伴侶の求め方、条件としてあったように思うが、器量が劣っているが人当たりがよければ「性格がいい」という誤解というか幻想というか、がいつしか生まれ、しかし、ここで言葉が反転し、器量が多少劣っているが性格が輪をかけて最悪だった、というのが木嶋佳苗死刑囚だった。これを打っている時点では刑は未執行で、再審請求とか出てるんだろうか? それが通るような新事実というものはなく、4件の殺人容疑の起訴、1件の未起訴、3件の結婚詐欺罪、3件の未遂、1件の窃盗罪。死刑に関るのは専ら殺人罪のほうであろうが、これらの容疑をすべて否定することは不可能と思われるがどうか?
50過ぎの未婚のおっさんたち、若い綺麗なコとか狙わず身の丈に合った、しかし長く一緒に居れそうな女性を選んだはずが、保険金かけられて殺されたのだ、と理解した。正直、これで婚活などと言うものに腰が引けちゃった男性も少なくないんじゃないか、少なくとも過大な期待ができるものではなく、すぐに逃げられる態勢で臨む、特にそれなりに年齢を重ねた男性が増えてしまったのではないか?
では、何を頼りに望ましいタイミングでパートナーを得られなかった男性は、相手を探せばいいのか? 諦観がひとつ深まったように思うのだ、この2007年から2009年にかけて起きた事案では。
であるのに、もしいたならば自分の娘ぐらいの女性に懸想して、自分の命の次くらいに大事なクルマとバイクを売り払ったお金を見継いだ挙句、見継いだ途端に冷たくされて、その女性をめった刺しした、オレよりほんの少し若い男の話。
この際、相手の女がクソで、めった刺しされても仕方なかった、という見解に異は唱えない。しかし、男の方、なんで、こんなクソ女につかまったかなぁ、とは思う。他の誰のためでもない、彼自身のためにめった刺しなどするべきではなかった。いや、別にしてもいいんだけどね。
言い分として、詐欺同然に何千万取られたのに、警察等はまるで救済してくれないから、などという、まぁ、言ってみれば自力救済。NSX1台、NR1台の売却金額分、どうしたら気が済むか、というのが詰まるところなんだが、それがクソ女一人分の命とめった刺しする時のカタルシスというのであれば、それも、なんというか、安上がりというか、NSXとNRが哀れというか。
一番の悲劇は、その方面、まるで練れることなしに50何年か来てしまったことか。「なろう」あたりの、ざまあがテーマのラノベ読んで喜んでる童貞クンたちと何ら変わらぬ人生と人への洞察の浅さを感じる。しかし、それでも目の前の、見た目はそこそこの女がクソかもしれないという可能性は思い浮かばないか? その辺、50何年かその方面砂をかむような思いを何度もして漸く自分だけのヒロインに巡り合えた、なんていう、童貞くんみたいな気持ちになっちゃったんだろうか?
NSXとNR、十何年か保有していたらしいが、ちょろちょろっと動かして満足していて、突き抜けたように走り回るようなことはしていなかったのかもしれぬ。NRなんてひとコケいくらかかるかわからない。結局のところ、多少の、どころか立ち位置次第では死ぬほど努力しても今の時代、思った伴侶など得られない、というケースは珍しくなくその方面、早々に絶望的と判断すべき男子は多いのだ。その時に生まれるいろいろな心のぐちゃぐちゃを吹っ切る突き抜けるための物であってほしかった。そりゃね、愛とかパートナーとか家庭とか至上の価値を持つもので、という人もいるだろうが、そうじゃない、そもそもどうしたってそういうものが得られないという奴もざらにいる時代なんだから、そういう価値には早々見切りをつけたっていいのである。じゃあ、そういうものを除外するとして他に何を価値とするのか? 何のために生きるのか? それをのんびり、ある時はシャカリキに探す人生だってあっていい。クソ女のために自分の人生終わらすというのは、・・・いや、それも人生か。
8272 GSX1100S _38
2024年4月27日土曜日
NT0057 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲
岡田斗司夫氏に教えられるまでもなく、橘玲氏の書くものには、一定の共感というか、目から鱗というか、うん、尤もだ、がありまくりで、こういう物書きを知るというのも、20年に1回ぐらいじゃないかしら、と思うが、あまり持ち上げてもしょうがないか。
最初に意識の中に入ってきたのは、彼のリベラルに対する深い失望を書いた文章だったように思う。決して、ネトウヨ的保守主義者ではなく、寧ろの反対の立ち位置に居たいのに、どうにもダメ~な奴しか、その界隈には見当たらない、的な文章だったように思う。オレは誠にそうだと膝を叩いた。ぽ~ん!と。
さて不摂生でこの身にまとわりついた脂肪はいろいろ不都合を引き起こし、可及的速やかに、しかし無理をせず、取り除かねばならないわけで、GW初日だ。しゃこしゃこと部屋でエアロバイクを漕いでるわけなんだが、そのお供として、講談社現代新書の橘氏の「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」。
うん。ディストピア。社会としてこの絶望的な状況を何とか出来る処方なんてないのだ、というのが橘氏の主張。だから何をしてもいい、というわけではなく、完全に諦めたわけではなく、現状認識としてそれはそれ、何か出来ることはないだろうか? 方向を探すために思考して、その中で生まれ出てくる、氏の著作群と捉えている。
ならば、この状況で個は如何に動くか?、動くべきか? そういうことなのだろうか? タイトルだけを見て、そのように想像した。
しゃこしゃこしゃこ。
第1章は、非モテが如何に超絶ナンパ師になるか?という話。これはオレが何十年前から思っていたことだが、要するにだ。女性が男性をパートナーとして選ぶ基準というのは、自分という個体と子孫=遺伝子の保存のために最も有利そうな相手、ということなんじゃないか? ということだが、これは、この分中にも書いてある通り、生物は遺伝子の乗り物である、という何十年前に聞いた説のオレなりの解釈以上のものではない。
偶にこの基準が壊れた女の人の話も聞く。ダメンズとか。でも、まぁ、それは、次善に次善を重ねるうちに、基準が歪んでいったということで、そういうことで、少なくとも自分の当座の精神の安定は得られる、そういう選択と考えられないこともない。
或いは、お眼鏡に叶う相手がいなければ、おひとりさまという選択もある。これは遺伝子の保存というよりは、個の安定が優越してしまった結果なんだろう。何はともあれ遺伝子の保存、という事ではないらしい。
そういう基準、その為の行動原理を突いてやれば、ナンパもし放題、そういう男の話であるらしい、第一章。
ちょっと思うことが増えたので、本はそこで閉じた。物思いに深けながら、汗かきつつペダルを動かすのであった。
しゃこしゃこしゃこ。