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2022年3月23日水曜日

7413 片山敬済_44

 

7413 片山敬済_44

Takazumi Katayama
TZ350 spl.
Paul Ricard 1977


 オレは1983年、高校生の時からのGPのファンで、1977年というと、スーパーカーブームからの流れで四輪のF1を田舎の小学生なりに、何か月か遅れでおっかけてた感じだった。
 このころのGPや四輪のF1もそうだ、なんか、今のとは雰囲気が違うように思えてならない。そしてこのころのその雰囲気に何かすごく惹かれるものがあった。それは何かについて時々考えたりする。勿論暇た時だよ、と、言い訳がましく言ってみる。

 1988年、いや、89年か? 四輪のF1で中島悟氏がレギュラードライバーで走っていたけれど、他のホンダエンジンユーザー、マンセル、ピケ、セナだったかな、ピケ、プロスト、セナだったかな? に比べて見劣りするリザルトを重ねているときで、日本国内のファンからは若干の失望の声が聞こえていた時期の事だ。
 雑誌で、片山敬済氏は、それまでレギュラードライバーとしてF1を走った日本人がいない中で、それがどんなにすごいことなのかと中島氏を擁護する文章を読んだことがある。

 GPにしろ四輪のF1にしろ、国内でトップを獲って満を持して世界に挑戦するというのが一つのパターンで、中島氏はそのパターンだったが、一番脂が乗ってる時期を逃すぐらい、待たされた、のだそうだ、いろんな話によると。
 対して片山氏、GPの出走資格を得た1974年、マシンの貸与以外何のサポートもないまま、強引に日本を飛び出しGPの挑戦を始めた、とある。メカニックすらおらず、整備やチューニングも一人でやっていたそうだ。GPを走った日本人はそれ以前もいないわけではなかったが、フルシーズン、ワークスでもないのに走るなんて、そんなロールモデルはそれまでなかった中での話。
 サーキットの中の話だけではない。EUができたのが1993年、それ以前はECなんてあったけど、国をまたぐ移動は通関手続きとかなんとか、面倒ごと、すべて一人でやって、なんて、ちょっと現在では考えられないことをやっている。
 よくは知らないで書くが、今のコ達、サーキットに行って、マシンは用意されていて、それに乗って、その日のタスクが終われば、ホテルに戻って、特にコロナのこのご時世、部屋にこもってゲームやってるようなイメージがある。もし本当にそうなら走ることに集中する、という意味では非常に合理的ではあるが、今から40年前のGPではそうだった、それができたのは、一重に熱、走る意志、戦う意志が強かったからなんだろう。
 
 1980年代後半の中島悟氏はその点ではまだ恵まれていたんだろうが、一番肝心なシーズン通して客地で一人モチベーションを維持していくというのは、確かに大変なことだったのだろう。

 だろうだろう、で、文章進めちゃってるが、田舎の元小学生、今おっさんは、こういうことは、ちょっと聞いただけの事を想像力で膨らませるしかない。

 ITと言えばいいのかどうかわからないが、四輪のF1など、マシン、夜は一か所に集められ管理されているそうな。夜間の整備は禁止ってな。MotoGPでも多分同じシステムなんだろう。
 いろんな記述で見るが、かつてのGP、昼間のプラクティスでこけた修復を徹夜で行うことも、いつも一つ前を走ってるライダーを食うために一工夫チューニングを施すことも、ライダーが納得いくチューニングするなんてことも、夜、パドックでは普通にあったことなんだろう。そのすぐ横には、金持ちのチームは立派なモーターホーム。それほど金持ちでは無ければ中古のキャンピングカー、爪に火を点すようなチームならおんぼろのワンボックスカーが並び、ライダーもそこで明日に備えて寝てりゃいいのに、マシンが気になって、いや、切実に整備の手が足りなくて、のこのこ寝床を這い出してマシンをいじってたりして。
 時にはチューニングの方針についてメカニックと激しい口論もあっただろう。

 夜というのに、それこそサーカスのバックヤードのような静かな喧噪が普通にあった、と想像する。

 田舎の子供はそういう熱にあこがれていたんだと思う。