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2024年8月24日土曜日

8463 DC2 _7 & NT0091,0092 「ライブラリーのバグ」で暴かれた? 古代象の夢なりき 2

 

8463 DC2


NT0091,0092 「ライブラリーのバグ」で暴かれた?
 古代象の夢なりき 2

前回はこちら

 かなりの数の背景やらモンスターやら描きまくった。3Dモデラ―班が追いつけない程だ。だから、オレも程々のところで3Dモデリングに回ることになった。爆発音、魔法の効果音など、音楽以外の効果音の編集もやった。まぁ、だから、オレが最初に扱えるようになったPCのソフトは、フォトショップどころかワードやエクセルでもない。ライトウェーヴという3Dグラフィックソフトだったのだ。

 冬が過ぎ春になり、初夏ごろになっても、しかし、試しにゲーム画面をテレビに映し出し動かしてみる、ということが出来なかった。プログラマーは、名目は’社長’だった「ちょんまげ」さん。役員の肩書として会長がボス、社長がちょんまげさん、専務が風雅システムの社長であるランエボ氏、というのは前回も書いたが、実際のところ、全体の仕切りはボスが行い、制作統括をランエボ氏が行うという体制だった。ちょんまげさんからは一切の指示指導は受けていなかった。ちょんまげさん、プログラミングに専念していたわけである。

 オレはゲームをしたことがない事は既に書いたが、まして当時ゲーム制作の事などちっともわからなかったけど、さすがに年内(1997年末)のリリースに間に合わすにはタイムリミットを超過してしまっていたらしい。急遽、ランエボ氏もプログラミングに回るものの、ソッコー白旗を揚げ、ランエボ氏の風雅の社長権限なのか何なのか、風雅のプログラマーを連れてきたが、程なくパンクした。

 9月頭にはゲームショーがあり、そこに出展するために、なんとか形にする必要があるのに、ここで最初の行き詰まりを見たわけだ。


 「グレムリン」を離脱して地質調査の会社に入って何年か経ったある日の会社帰りにコンビニで立ち読みした、確か週刊プレイボーイだったと思うが、

 プレイステーションの立ち上がり、サードパーティーの新規参入を促すべく、開発キットを配布したが、特に初期、ライブラリーに致命的なバグがあり、ナムコ、ハドソン、スクエア等々大手は、早々に自分たちでライブラリーを組みなおしたが、勇んで参入した中小のソフトハウスは多くが討ち死にした

 というような記述を見つけ、軽いショックを受け、その場に座り込みそうになった。つまり、グレムリンは討ち死にしたone of themだったわけだと。プレイボーイの記述が本当だったかどうか、今となってはいくらネットを検索しても、そのようなことが書かれたページは見当たらなかったので、本当かどうかはわからない。

 だとしても、当時、そういう訳で、悪いのはちょんまげさん、と決めつけていたが、今になって思う。作ったデータがゲーム画面に表示されない、ということ、ちょんまげさんは決して隠していたわけではない。多少その時々楽観的なことを言っていたとしても、タイムリミットを過ぎるころまでそれに対してほとんど手当してこなかったのは、ちょんまげさんだけの責任ではないのである。


 画像のDC2、「風雅の大田君」こと後の楓牙氏が当時乗っていた車がこの型、この色だったのだ、が、2ドアだったか4ドアだったか、実のところよく覚えていない。


2024年6月16日日曜日

8271 Ayrton Senna da Silva_27

8271 Ayrton Senna da Silva_27

Ayrton Senna da Silva
MP4/6
Phoenix 1991

NT0060 1994年5月1日のこと(正確には日本時間で2日のこと)

 本来京都の北山というと結構広い範囲を指すのだという話を聞いたことがある。岩倉から鞍馬、花脊、雲ケ畑もそうだ、と、誰かが言ってたような気がするが、まぁ、バブルの頃はそんな山奥まで行かない、植物園の北っ側の、京都にしてみれば割と新しめの区画整理がされたあたりを指していた。景気がよかったころだから、京都中心地の若旦那が金に物を言わせて、なんか変な建物建てたりスカしたブティック何かが結構立っている地域だった。今はどうなんだろ? 最初の成り立ちから言うとそうじゃない気もするし、案外そのまま今まで来ているような気もする。

 建築中の鉄骨3階建ての1階、半地下みたいになってるスペースにコンクリートブロックを何百個かオレと50手前のおっちゃん2人の人力でトラックから運び込むというのがその日の仕事で。


 初夏であったから、そこそこ暑かったはずだ。で、汗かきのオレであるから真夏のように汗をかき、その日の相棒のおっちゃんや元請けの監督に揶揄われていたはずだ。今もそんな感じだから多分そうだったのだろうという程度の記憶。晴れてはいた、快晴だった。それは間違いない。


 それにしても前夜、オレはテレビを持っていなかったが、隣室の男の部屋から聴こえる、F1中継の音である。いつもにもまして大騒ぎだったけど、何を言っているかわからなかったけど、イマミヤさん、泣き叫ぶような声だったのは聴こえた。何かあったらしい、尋常ならざること。コンクリートブロックを手で運びながら、ずっとそれが気になっていた。


 とはいえ、夕方になるまでそれが何だったか知るすべもなく、夕方帰りのコンビニで売れ残りのスポーツ新聞を買ったか何かして、漸く前の晩のイモラ、タンブレロでの大事故を知る。この時点では情報はまだ錯綜しており、希望的観測もなくはなかったが、しかし、レスキューが駆けつけた時には黄色の「彼」のヘルメットからは脳漿があふれ出しており即死であったらしい。2,3日の内にそれは明らかになる。


 彼のFW16は、流行りの吊り下げ式ウィングのハイノーズではなかった。そうであったならもっと象徴的だったかもしれないが、雄々しいファルスがへし折られたのだ、と、何が時代の大きな潮目を感じてしまった。

 彼の死について、間違いなくショックではあったけれど不思議と悲しいという感情は大きくなかった。ただ、大きな挫折も停滞すらも良しとせず、何よりも前進を第一とした意志の結末に出会ったような気がした。これから人類の何かは坂道を、場合によっては転がり落ちるようにして降りていくのだ、そのように感じた。オレにとってのその時の日付は1994年5月2日。現地時間では5月1日のことだ。



 

2023年8月20日日曜日

8053 Max Verstappen

 

8053 Max Verstappen

Max Verstappen
RB19 HondaRBPT
Spa-Francorchamps  2023

この前まで東南アジアからせっせと天然ガス送り込んでいた高校の同級生が、盆明けからBBS本社とこっちの工場の折衝の仕事すると、盆の飲み会で言ってたな、と思いながら描いた。


2023年2月11日土曜日

2022年11月5日土曜日

7664 EF9 Si_4 & T1035 「希望の轍」

7664 EF9 Si_4


 以前、EFシビックの絵掲げながら、AGシビック乗り(初心者)の話を書いたが、今回は一応はちゃんとEFシビックも関係した話。

 こういう話は、毎年の1月17日前後、一種恒例イベント的に書くものなので、事実オレもこれから書く内容、1、2回、facebookやMixiに書いたような記憶もある。何かの拍子に、うっかりサザンオールスターズの「希望の轍」なんか聴いちゃったため、まぁ、考えてみれば「時期を外したって」全然かまわないわけであるし。

 東日本大震災の正に発振時は、よりによって10馬力足らずのディーゼルエンジンで揺れるボーリング調査の足場の上であったためにこちらの震度高々3ほど、気づかなかったのだが、阪神大震災の時は、朝、こちらがそれなりに揺れる前、それこそ模範的にP波S波とやってきてたのか、P波の微動を感じ取って、いつもよりほんの少しばかり早く目が覚めて、体を起こした途端、それなりの揺れが来た。
 時間が経つにつれ、被害の拡大をテレビは告げてきていた。今思い出せば、長田区の大火災等胸が痛むが、当時の話だ、阪神高速神戸線が横倒しになっている映像を観た時はしばし思考が止まった思いがした。悲しみか?恐怖か?そうであるようでそうでないような気がした。あの時、オレは何を感じたんだろう?


 川端五条のその会社は若いアルバイトの子を多く登録させて、建設現場に場内の資材運搬をさせるために派遣する、そういう業態であった。当時も一応は入社教育、新規入場者教育はあったものの、今じゃそういう学生も含むアルバイトなんて、ちょっとした建設現場は許さないんじゃないかな?
 そういう会社で、一応は会社のワンボックスもあって、こいつのぼろさ加減ときたら、それだけでひとつ話になりそうなんだが、ここでは、営業社員が何軒も仕事を取ってきたら、そんな会社のワンボックスでは全然足りず、バイトの子がクルマを持っていたら有償ではあるが供出というか、持ち出しとなった。以前書いたAGシビックの奴のアレ、誰も乗りたがらなかったが、つまり奴もこの会社のバイトだったんだが、別にEFシビックのコもいたわけだ。
 車高を落としてホイールとマフラー替えるぐらいはお約束なんだが、逆に言うといじってあるのはその程度、という感じの。

 ある時、そのEFシビックに乗って、京都から西神戸の現場に行くことがあった。まだ西神戸も造成している所または建設中の所がいっぱいあった頃の事だ。
 8時の朝礼に間に合わせるために、6時集合とか普通にあった。当時のお気楽と言われていたバイトであっても、自堕落さは赦されなかったのだ。この時の集合時間は4時半とか5時だったかもしれない。

 とはいえさすがに眠いのである、運転しているコには悪いけれど。眠いんだけれど、かと言って眠れるわけでもなく、ぼー、っとまだ日の出前の暗い窓の外を見ていたのだが、その時EFシビックの彼がカーステレオで鳴らしていたのがサザンオールスターズだったというわけだ。

 はい、ここで、絵と表題、内容が出そろいました。

 当時は大阪駅北側には、今ほど高層ビルが建て揃ってはいなかったのではなかったかと思うが、豊中ジャンクションあたりを走っているとき、その中でぽつんと梅田スカイビルのあかりが点滅しているのが見えた。そういうのを観ながら「希望の轍」を聴いていたわけである。EFシビックのコはこの曲が殊更好きだったようで、ループして聴かされた。まぁ、良い曲ではあるのだが。
 
 当時の個人的な惨状を書き記すのもなかなかつらい作業だし、他人様が読んで面白いものとも思えぬ。が、まぁ、心の中で親に詫び、しかし、傍目に見る程にはお気楽でもなんでもなく、結構しんどい日々で、明日も見えず、という感じで。と言ってもわからないだろうから、ま、言ってみたら、今年の2月に急逝した西村賢太氏の小説のあんな感じと思っていただけたら、と思う。

 「夢を乗せて~♪」などと、いい感じで桑田佳祐氏は歌ってくれていたりするんだが、オレは毒づきたい気分でいっぱいだ。しかし、どのように毒づけばいいのかもわからない。
 西宮ジャンクションを西方向に。行く方向はまだ夜の闇が残っている。大阪のあたりはもう白みかけているというのに。


 そんなことを思うようで思うでもなく、ただ頭の中を何かが堂々巡りしていた、その時EFシビックが走っていたあのあたりが、地震で横倒しになっていたのである。「希望の轍」が横倒しになっていたわけだ。
 まさか、あの時毒づきたかったからと言って、ざまぁ、等と思っていたはずもなく、ただあの時のこの身には目いっぱいのぐちゃぐちゃも一瞬で根こそぎされた、無力感のようなものだったような気がする。

 最近、とみに思うのだ。割と世の中の問題と言われる事象の内、割合の多くが解決することなく終了してしまうことが多いということを。

 それではいけない、いやだ、とも思うのだが、事実、阪神大震災の時、既にオレは故郷の自宅にいて、いわば一切を解決することなく終了させてしまっていたのである。

 無常観といえば無常観。しかし、大いなるものにひれ伏す素直さも未だ持ちえず、ただただ、立ち尽くす。そんな感覚だった。どうしたらいいんだ? 等と思うのも億劫で。

 「希望の轍」の歌詞が空虚と言いたいわけではなく、これは全く俺個人の受け取り方なんだが、いい感じの歌詞とその裏にある毒、二度三度、それ以上ひっくり返って、ちょっと手が付けられない重力を放ってしまっていて大変だ。


Previously, I wrote a story about an AG Civic driver(beginner) while holding up a picture of the EF Civic, but this time tentatively it's a story related to the EF Civic.

This kind of story is written around January 17th every year as a sort of annual event, so I actually remember writing about it once or twice on Facebook and Mixi. For some reason, I accidentally listened to Southern All Stars' "The rut of hope", so when I think about it, I don't care if I miss the timing.

At the time of the Great East Japan Earthquake, I was on top of a scaffolding for a boring survey that was shaken by a diesel engine of less than 10 horsepower, so I didn't notice that the seismic intensity was about 3 at most. But at the time of the Great Hanshin Earthquake, before the swaying, I wondered if it was the P wave and the S wave, and I felt the tremor of the P wave, woke up a little earlier than usual, and as soon as I woke up, I felt a certain amount of shaking. came.
As time passed, the TV was announcing the extent of the damage. Thinking back on it now, I feel a pain in my heart, such as the great fire in Nagata Ward, but back then, when I saw the footage of the Hanshin Expressway Kobe Line lying on its side, I felt like my thoughts stopped for a while. Sadness? Was I scared? It seemed like it was, but I felt like it wasn't. What did I feel at that time?


The company in Kawabata Gojo registered many young part-time workers and dispatched them to construction sites to transport materials. At that time, there was training for new employees and training for newcomers, but now it seems that such part-time jobs, including students, are not allowed at a decent construction site.
In such a company, there is also a company's one-box car, and if this guy's shabbyness is just that, it will be a story. The car was not enough at all, and if the part-time worker had another car, it was paid, but it was recruited,it was taken out. No one wanted to ride the AG Civic guy I wrote about before, so he was also a part-timer at this company, but there was also an EF Civic guy.
We made a promise to lower the vehicle height and replace the wheels and muffler, but that's about the only thing that's been tampered with.

One day, we rode the EF Civic from Kyoto to the Nishi-Kobe site. It was a time when there were still many places under construction in West Kobe.
In order to make it in time for the morning assembly at 8:00, it was common to meet at 6:00. Even in the part-time job that was said to be easy at the time, self-indulgence was not forgiven. The meeting time at this time might have been 4:30 or 5:00.

"That being said, I'm really sleepy, though T felt sorry for the driver." I was sleepy, but that didn't mean I couldn't sleep, and I was still looking out the dark window before sunrise. It was.

"Yes, the picture, title, and content are all here."

At that time, I think there weren't as many high-rise buildings as there are now on the north side of Osaka Station, but when I was driving around Toyonaka Junction, the lights of the Umeda Sky Building were blinking. I saw While watching that, I was listening to "The rut of hope". My EF Civic guy seemed to like this song especially, so he looped it and listened to it. Well, it's a good song.
 
Writing down my personal misery at the time was a difficult task, and I don't think it would be interesting for other people to read it. But, well, I apologized to my parents in my heart, but it wasn't as easy as it looked from the outside, it was a pretty tough day, and I couldn't see tomorrow. I don't think you'll understand what I'm saying, but I hope you can think of it as a novel by Kenta Nishimura, who passed away suddenly in February of this year.

Mr. Keisuke Kuwata sang something like "Put your dreams on~♪" in a nice way, but I'm filled with the feeling of wanting to curse him. But I don't know how to poison it.
 West from Nishinomiya Junction. The darkness of the night still remains in the direction to go. Even though the area around Osaka has already turned white.


I didn't think so, but something was going round and round in my head, the area where the EF Civic was running at that time was overturned by the earthquake. The “rut of hope” had fallen sideways.
No way, at that time, I couldn't have thought that I wanted to yell at that song, but it was just a feeling of helplessness that all the mess in my body at that time was uprooted in an instant. have a feeling that.

"Recently, I've been wondering." Of the phenomena that are said to be problems in the world, the majority of them often end without being resolved.

I don't like that, but in fact, at the time of the Great Hanshin Earthquake, I was already at home in my hometown, so to speak, I ended it without solving anything.

"The view of impermanence is the view of impermanence." However, I still can't have the docility to bow down to something great, and I just stand there. That's how it felt. What should I do? "It's a shame to think like that."

I don't mean to say that the lyrics of "The rut of hope" are empty, this is just my personal take, but the lyrics are nice and the poison behind them, flipping over two or three times more, It's hard to let go of gravity that's a little out of hand.


Auparavant, j'ai écrit une histoire sur un pilote AG Civic (débutant) tout en tenant une photo de l'EF Civic, mais cette fois, c'est provisoirement une histoire liée à l'EF Civic.

Ce genre d'histoire est écrite autour du 17 janvier de chaque année comme une sorte d'événement annuel, donc je me souviens d'avoir écrit une ou deux fois à ce sujet sur Facebook et Mixi. Pour une raison quelconque, j'ai accidentellement écouté "The rut of hope" de Southern All Stars, alors quand j'y pense, je me fiche de rater le timing.

Au moment du grand tremblement de terre de l'est du Japon, j'étais au sommet d'un échafaudage pour une enquête ennuyeuse qui était secouée par un moteur diesel de moins de 10 chevaux, donc je n'ai pas remarqué que l'intensité sismique était d'environ 3 au maximum. Mais au moment du grand tremblement de terre de Hanshin, avant le balancement, je me suis demandé si c'était l'onde P et l'onde S, et j'ai senti le tremblement de l'onde P, me suis réveillé un peu plus tôt que d'habitude, et dès que j'ai réveillé, j'ai ressenti un certain tremblement. est venu.
Au fil du temps, la télévision annonçait l'étendue des dégâts. En y repensant maintenant, je ressens une douleur dans mon cœur, comme le grand incendie de Nagata Ward, mais à l'époque, quand j'ai vu les images de la Hanshin Expressway Kobe Line allongée sur le côté, j'ai eu l'impression que mes pensées s'étaient arrêtées pour quelque temps. Tristesse? Avais-je peur ? Il semblait que c'était le cas, mais j'avais l'impression que ce n'était pas le cas. Qu'ai-je ressenti à ce moment-là ?


L'entreprise de Kawabata Gojo a enregistré de nombreux jeunes travailleurs à temps partiel et les a envoyés sur des chantiers de construction pour transporter des matériaux. À cette époque, il y avait une formation pour les nouveaux employés et une formation pour les nouveaux arrivants, mais il semble maintenant que de tels emplois à temps partiel, y compris des étudiants, ne soient pas autorisés sur un chantier de construction décent.
Dans une telle entreprise, il y a aussi la voiture à une boîte d'une entreprise, et si la mesquinerie de ce type n'est que cela, ce sera une histoire. La voiture ne suffisait pas du tout, et si le travailleur à temps partiel avait une autre voiture, elle était payée, mais elle était embauchée, elle était retirée. Personne ne voulait monter le gars d'AG Civic dont j'ai parlé auparavant, donc il était aussi à temps partiel dans cette entreprise, mais il y avait aussi un gars d'EF Civic.
Nous avons promis d'abaisser la hauteur du véhicule et de remplacer les roues et le silencieux, mais c'est à peu près la seule chose qui a été altérée.

Un jour, nous avons conduit l'EF Civic de Kyoto au site de Nishi-Kobe. C'était une époque où il y avait encore de nombreux endroits en construction à West Kobe.
Afin d'arriver à temps pour l'assemblée du matin à 8h00, il était courant de se réunir à 6h00. Même dans le travail à temps partiel que l'on disait facile à l'époque, l'auto-indulgence n'était pas pardonnée. L'heure de la réunion à ce moment-là aurait pu être 16h30 ou 17h00.

"Cela étant dit, j'ai vraiment sommeil, bien que T ait eu pitié du chauffeur." J'avais sommeil, mais cela ne voulait pas dire que je ne pouvais pas dormir, et je regardais toujours par la fenêtre sombre avant le lever du soleil. C'était.

"Oui, l'image, le titre et le contenu sont tous ici."

À cette époque, je pense qu'il n'y avait pas autant d'immeubles de grande hauteur qu'il y en a maintenant du côté nord de la gare d'Osaka, mais lorsque je conduisais autour de Toyonaka Junction, les lumières de l'Umeda Sky Building clignotaient. J'ai vu En regardant ça, j'écoutais "Le rut de l'espoir". Mon gars d'EF Civic semblait particulièrement aimer cette chanson, alors il l'a mise en boucle et l'a écoutée. Eh bien, c'est une bonne chanson.

Écrire ma misère personnelle à l'époque était une tâche difficile, et je ne pense pas que ce serait intéressant pour d'autres personnes de le lire. Mais, eh bien, je me suis excusé auprès de mes parents dans mon cœur, mais ce n'était pas aussi facile que ça en avait l'air de l'extérieur, c'était une journée assez difficile, et je ne pouvais pas voir demain. Je ne pense pas que vous comprendrez ce que je dis, mais j'espère que vous pourrez le considérer comme un roman de Kenta Nishimura, décédé subitement en février de cette année.

M. Keisuke Kuwata a chanté quelque chose comme "Mettez vos rêves ~ ♪" d'une manière agréable, mais je suis rempli du sentiment de vouloir le maudire. Mais je ne sais pas comment l'empoisonner.
À l'ouest de la jonction Nishinomiya. L'obscurité de la nuit reste toujours dans la direction à suivre. Même si la zone autour d'Osaka est déjà devenue blanche.


Je ne le pensais pas, mais quelque chose tournait en rond dans ma tête, la zone où l'EF Civic fonctionnait à ce moment-là a été renversée par le tremblement de terre. L'«ornière de l'espoir» était tombée de travers.
Pas question, à ce moment-là, je n'aurais pas pu penser que je voulais crier après cette chanson, mais c'était juste un sentiment d'impuissance que tout le désordre dans mon corps à ce moment-là ait été déraciné en un instant. avoir le sentiment que.

"Récemment, je me suis demandé." Parmi les phénomènes que l'on dit être des problèmes dans le monde, la majorité d'entre eux se terminent souvent sans être résolus.

Je n'aime pas ça, mais en fait, au moment du grand tremblement de terre de Hanshin, j'étais déjà chez moi dans ma ville natale, pour ainsi dire, j'y ai mis fin sans rien résoudre.

"La vision de l'impermanence est la vision de l'impermanence." Cependant, je n'arrive toujours pas à avoir la docilité de m'incliner devant quelque chose de grand, et je reste là. C'est ce que je ressentais. Que devrais-je faire? "C'est dommage de penser comme ça."

Je ne veux pas dire que les paroles de "The rut of hope" sont vides, ce n'est que mon point de vue personnel, mais les paroles sont belles et le poison derrière elles, se retournant deux ou trois fois plus, c'est difficile à laisser aller de la gravité qui est un peu incontrôlable.


Zuvor habe ich eine Geschichte über einen AG Civic-Fahrer (Anfänger) geschrieben, während ich ein Bild des EF Civic hochhielt, aber diesmal ist es vorläufig eine Geschichte, die sich auf den EF Civic bezieht.

Diese Art von Geschichte wird jedes Jahr um den 17. Januar als eine Art jährliches Ereignis geschrieben, also erinnere ich mich tatsächlich, dass ich ein- oder zweimal auf Facebook und Mixi darüber geschrieben habe. Aus irgendeinem Grund habe ich versehentlich "The rut of hope" von Southern All Stars gehört, also ist es mir egal, wenn ich darüber nachdenke, ob ich das Timing verpasse.

Zur Zeit des großen Erdbebens in Ostjapan befand ich mich auf einem Gerüst für eine langweilige Vermessung, das von einem Dieselmotor mit weniger als 10 PS erschüttert wurde, sodass ich nicht bemerkte, dass die seismische Intensität höchstens etwa 3 betrug. Aber zur Zeit des großen Hanshin-Erdbebens, vor dem Schwanken, fragte ich mich, ob es die P-Welle und die S-Welle war, und ich fühlte das Zittern der P-Welle, wachte etwas früher als gewöhnlich auf und sobald ich Als ich aufwachte, spürte ich ein gewisses Zittern. kam.
Im Laufe der Zeit verkündete das Fernsehen das Ausmaß des Schadens. Wenn ich jetzt daran zurückdenke, fühle ich einen Schmerz in meinem Herzen, wie das große Feuer in Nagata Ward, aber damals, als ich die Aufnahmen der Hanshin Expressway Kobe Line sah, die auf der Seite lag, hatte ich das Gefühl, dass meine Gedanken stehen blieben längere Zeit. Traurigkeit? Hatte ich Angst? Es schien so, aber ich hatte das Gefühl, es war nicht so. Was habe ich damals gefühlt?


Das Unternehmen in Kawabata Gojo registrierte viele junge Teilzeitkräfte und schickte sie zum Materialtransport auf Baustellen. Damals gab es Schulungen für neue Mitarbeiter und Schulungen für Neuankömmlinge, aber jetzt scheint es, dass solche Nebenjobs, einschließlich Studenten, auf einer anständigen Baustelle nicht erlaubt sind.
In so einem Unternehmen gibt es auch einen Firmenwagen, und wenn die Schäbigkeit dieses Kerls genau das ist, wird es eine Geschichte sein. Das Auto war überhaupt nicht genug, und wenn der Teilzeitarbeiter ein anderes Auto hatte, wurde es bezahlt, aber es wurde eingestellt, es wurde herausgenommen. Niemand wollte den AG Civic-Typen fahren, über den ich zuvor geschrieben habe, also war er auch ein Teilzeitbeschäftigter bei dieser Firma, aber es gab auch einen EF Civic-Typen.
Wir haben versprochen, die Fahrzeughöhe zu senken und die Räder und den Schalldämpfer auszutauschen, aber das ist so ziemlich das Einzige, woran manipuliert wurde.

Eines Tages fuhren wir mit dem EF Civic von Kyoto zum Standort Nishi-Kobe. Es war eine Zeit, in der in West Kobe noch viele Orte im Bau waren.
Um es rechtzeitig zur Morgenversammlung um 8:00 Uhr zu schaffen, war es üblich, sich um 6:00 Uhr zu treffen. Auch in dem damals als einfach vermeintlichen Nebenjob wurde Maßlosigkeit nicht verziehen. Die Besprechungszeit zu diesem Zeitpunkt könnte 4:30 oder 5:00 gewesen sein.

"Trotzdem bin ich wirklich müde, obwohl T Mitleid mit dem Fahrer hatte." Ich war müde, aber das bedeutete nicht, dass ich nicht schlafen konnte, und ich schaute immer noch vor Sonnenaufgang aus dem dunklen Fenster. Es war.

"Ja, das Bild, der Titel und der Inhalt sind alle hier."

Damals gab es, glaube ich, nicht so viele Hochhäuser wie heute auf der Nordseite des Bahnhofs Osaka, aber als ich um Toyonaka Junction herumfuhr, blinkten die Lichter des Umeda Sky Building. Ich sah, während ich das sah, hörte ich "The rut of hope". Mein EF Civic-Typ schien diesen Song besonders zu mögen, also hat er ihn geloopt und angehört. Nun, es ist ein gutes Lied.

Mein damaliges persönliches Elend aufzuschreiben war eine schwierige Aufgabe, und ich glaube nicht, dass es für andere Menschen interessant wäre, es zu lesen. Aber, nun, ich habe mich in meinem Herzen bei meinen Eltern entschuldigt, aber es war nicht so einfach, wie es von außen aussah, es war ein ziemlich harter Tag und ich konnte morgen nicht sehen. Ich glaube nicht, dass Sie verstehen, was ich sage, aber ich hoffe, Sie können es sich als einen Roman von Kenta Nishimura vorstellen, der im Februar dieses Jahres plötzlich verstorben ist.

Mr. Keisuke Kuwata sang so etwas wie „Put your dreams on~♪“ auf nette Weise, aber ich bin von dem Gefühl erfüllt, ihn verfluchen zu wollen. Aber ich weiß nicht, wie man es vergiftet.
Westlich von Nishinomiya Junction. Die Dunkelheit der Nacht liegt immer noch in der Richtung, in die es gehen soll. Auch wenn die Gegend um Osaka bereits weiß geworden ist.


Ich dachte nicht, aber irgendetwas drehte sich in meinem Kopf, das Gebiet, in dem der EF Civic damals lief, wurde durch das Erdbeben umgestürzt. Die „Hoffnungsfurche“ war seitwärts gefallen.
Auf keinen Fall, damals hätte ich nicht gedacht, dass ich bei diesem Song schreien wollte, aber es war einfach ein Gefühl der Hilflosigkeit, dass all das Chaos in meinem damaligen Körper auf einen Schlag entwurzelt war. hab das gefühl.

"In letzter Zeit habe ich mich gefragt." Von den Phänomenen, die als Probleme in der Welt bezeichnet werden, enden die meisten oft ohne Lösung.

Ich mag das nicht, aber tatsächlich war ich zum Zeitpunkt des großen Hanshin-Erdbebens sozusagen bereits zu Hause in meiner Heimatstadt, ich habe es beendet, ohne etwas zu lösen.

"Die Ansicht der Vergänglichkeit ist die Ansicht der Vergänglichkeit." Ich kann jedoch immer noch nicht die Fügsamkeit aufbringen, mich vor etwas Großem zu beugen, und ich stehe einfach da. So fühlte es sich an. Was soll ich machen? "Es ist eine Schande, so zu denken."

Ich will nicht sagen, dass die Texte von „The rut of hope“ leer sind, das ist nur meine persönliche Meinung, aber die Texte sind nett und das Gift dahinter, das zwei- oder dreimal mehr überschlägt, ist schwer zuzulassen Gehen Sie von der Schwerkraft, die ein wenig außer Kontrolle ist.


Anteriormente, escribí una historia sobre un conductor de AG Civic (principiante) mientras sostenía una imagen del EF Civic, pero esta vez tentativamente es una historia relacionada con el EF Civic.

Este tipo de historia se escribe alrededor del 17 de enero de cada año como una especie de evento anual, así que recuerdo haber escrito sobre eso una o dos veces en Facebook y Mixi. Por alguna razón, accidentalmente escuché "The rut of hope" de Southern All Stars, así que cuando lo pienso, no me importa si pierdo el tiempo.

En el momento del Gran Terremoto del Este de Japón, estaba encima de un andamio para un levantamiento aburrido que fue sacudido por un motor diesel de menos de 10 caballos de fuerza, así que no noté que la intensidad sísmica era de 3 como máximo. Pero en el momento del Gran Terremoto de Hanshin, antes del balanceo, me pregunté si era la onda P y la onda S, y sentí el temblor de la onda P, me desperté un poco antes de lo habitual y tan pronto como desperté, sentí una cierta cantidad de temblores. vino.
A medida que pasaba el tiempo, la televisión anunciaba el alcance de los daños. Al recordarlo ahora, siento un dolor en mi corazón, como el gran incendio en el distrito de Nagata, pero en ese entonces, cuando vi las imágenes de la línea Kobe de la autopista Hanshin tirada de lado, sentí que mis pensamientos se detuvieron por Un rato. ¿Tristeza? ¿Estaba asustado? Parecía que lo era, pero sentí que no lo era. ¿Qué sentí en ese momento?


La empresa de Kawabata Gojo registró a muchos trabajadores jóvenes a tiempo parcial y los envió a las obras de construcción para transportar materiales. En ese momento, había capacitación para nuevos empleados y capacitación para recién llegados, pero ahora parece que esos trabajos a tiempo parcial, incluidos los estudiantes, no están permitidos en un sitio de construcción decente.
En una empresa así, también hay un automóvil de una sola caja de la empresa, y si el mal estado de este tipo es solo eso, será una historia. El coche no alcanzaba para nada, y si el trabajador a tiempo parcial tenía otro coche, se pagaba, pero se contrataba, se sacaba. Nadie quería montar al tipo de AG Civic sobre el que escribí antes, por lo que también trabajaba a tiempo parcial en esta empresa, pero también había un tipo de EF Civic.
Hicimos la promesa de bajar la altura del vehículo y reemplazar las ruedas y el silenciador, pero eso es lo único que se ha alterado.

Un día, viajamos en el EF Civic desde Kioto hasta el sitio de Nishi-Kobe. Era una época en la que todavía había muchos lugares en construcción en West Kobe.
Para llegar a tiempo a la asamblea de la mañana a las 8:00, era común reunirse a las 6:00. Incluso en el trabajo de medio tiempo que se decía que era fácil en ese momento, no se perdonaba la autocomplacencia. La hora de la reunión en este momento podría haber sido las 4:30 o las 5:00.

"Habiendo dicho eso, tengo mucho sueño, aunque T sentí pena por el conductor". Tenía sueño, pero eso no significaba que no pudiera dormir, y todavía estaba mirando por la ventana oscura antes del amanecer. Fue.

"Sí, la imagen, el título y el contenido están todos aquí".

En ese momento, creo que no había tantos edificios de gran altura como ahora en el lado norte de la estación de Osaka, pero cuando conducía por Toyonaka Junction, las luces del Umeda Sky Building parpadeaban. Vi Mientras miraba eso, estaba escuchando "La rutina de la esperanza". A mi chico de EF Civic parecía gustarle especialmente esta canción, así que la reprodujo y la escuchó. Bueno, es una buena canción.

Escribir mi miseria personal en ese momento fue una tarea difícil, y no creo que sea interesante para otras personas leerlo. Pero, bueno, me disculpé con mis padres en mi corazón, pero no fue tan fácil como parecía desde afuera, fue un día bastante difícil y no podía ver el mañana. No creo que entiendas lo que digo, pero espero que puedas pensar en ella como una novela de Kenta Nishimura, quien falleció repentinamente en febrero de este año.

El Sr. Keisuke Kuwata cantó algo como "Put your dreams on~♪" de una manera agradable, pero tengo la sensación de querer maldecirlo. Pero no sé cómo envenenarlo.
Oeste desde el cruce de Nishinomiya. La oscuridad de la noche aún permanece en la dirección a seguir. A pesar de que el área alrededor de Osaka ya se ha vuelto blanca.


Yo no lo creía, pero algo me daba vueltas y vueltas en la cabeza, la zona por donde andaba el EF Civic en ese momento fue volcada por el terremoto. El “surco de la esperanza” se había derrumbado.
De ninguna manera, en ese momento, no podría haber pensado que quería gritarle a esa canción, pero fue solo un sentimiento de impotencia que todo el desorden en mi cuerpo en ese momento se desarraigó en un instante. tener la sensación de que.

"Recientemente, me he estado preguntando". De los fenómenos que se dice que son problemas en el mundo, la mayoría de ellos terminan muchas veces sin ser resueltos.

Eso no me gusta, pero de hecho, en el momento del Gran Terremoto de Hanshin, ya estaba en casa en mi ciudad natal, por así decirlo, lo terminé sin resolver nada.

"La visión de la impermanencia es la visión de la impermanencia". Sin embargo, todavía no puedo tener la docilidad de inclinarme ante algo grande, y simplemente me quedo ahí. Así es como se sentía. ¿Qué tengo que hacer? "Es una pena pensar así".

No quiero decir que la letra de "The rut of hope" esté vacía, esta es solo mi opinión personal, pero la letra es agradable y el veneno detrás de ella, volteándose dos o tres veces más, es difícil dejarlo. ir de la gravedad que está un poco fuera de control.


之前,我舉著EF Civic的照片寫了一篇關於AG Civic司機(初學者)的故事,但這次暫定是與EF Civic有關的故事。

這種故事是每年 1 月 17 日左右寫的,作為一種年度活動,所以我記得在 Facebook 和 Mixi 上寫過一兩次。不知道什麼原因,不小心聽了南方全明星的《希望之聲》,所以一想,錯過時機也沒關係。

東日本大地震發生時,我在腳手架上進行無聊的勘測,被不到 10 馬力的柴油機晃動,所以我沒有註意到地震烈度最多為 3 級左右。但是在阪神大地震的時候,在搖晃之前,我懷疑是不是P波和S波,我感覺到了P波的顫抖,比平時早了一點醒來,一醒來,我感到有一定程度的顫抖。來了。
隨著時間的流逝,電視正在宣布損壞的程度。現在回想起來,心裡很痛,就像長田區的大火一樣,但當年看到阪神高速神戶線側躺的畫面時,我的思緒停了下來。一會兒。悲傷?我害怕了嗎?好像是這樣,但我覺得不是。我當時的感受是什麼?


川端五條的公司註冊了許多年輕的兼職工人,並派遣他們到建築工地運送材料。那時候有新員工培訓,也有新人培訓,但現在看來,像樣的建築工地,包括學生在內,這樣的兼職是不被允許的。
在這樣的公司裡,也有公司的單廂車,如果這傢伙的寒酸僅此而已,那就是故事了。車子根本不夠用,如果兼職工人有另一輛車,是有工資的,但招了,就拿出來了。沒有人想騎我之前寫的 AG Civic 的傢伙,所以他也是這家公司的兼職人員,但也有一個 EF Civic 的傢伙。
我們承諾降低車輛高度並更換車輪和消聲器,但這是唯一被篡改的東西。

有一天,我們從京都騎著EF Civic 到了西神戶的工地。那個時候西神戶還有很多地方在建設中。
為了趕上8:00的早會,6:00開會是家常便飯。即使是在當時被稱為輕鬆的兼職工作,也不能原諒自我放縱。此時的會議時間可能是 4:30 或 5:00。

“話雖如此,我真的很困,雖然T為司機感到難過。”我困了,但這並不意味著我無法入睡,我還在日出前望著黑暗的窗外。它是。

“是的,圖片、標題、內容都在這裡了。”

那個時候,大阪站北側的高層建築應該沒有現在那麼多,但是當我開車在豐中路口附近時,梅田藍天大廈的燈在閃爍。我看到了在看的時候,我正在聽“希望的車轍”。我的 EF Civic 傢伙似乎特別喜歡這首歌,所以他循環播放並聽了它。嗯,這是一首好歌。

寫下我當時的個人痛苦是一項艱鉅的任務,我認為其他人閱讀它不會有趣。但是,好吧,我在心裡向父母道歉,但這並不像表面上看起來那麼容易,這是艱難的一天,我看不到明天。我想你不會明白我在說什麼,但我希望你能把它想像成今年二月突然去世的西村健太的小說。

Keisuke Kuwata 先生唱了類似“Put your dream on~♪”之類的好聽的歌曲,但我充滿了想要詛咒他的感覺。但是不知道怎麼下毒。
從西宮路口向西。夜深人靜,依舊朝著前進的方向前進。即使大阪周邊地區已經變白了。


沒想到,腦子裡卻是一陣亂轉,當時EF思域跑的地方被地震掀翻了。 “希望的車轍”已經倒下。
不會吧,那個時候,我怎麼也想不到我想對著那首歌大喊大叫,只是一種無助的感覺,當時我身上所有的爛攤子都被瞬間連根拔起。有一種感覺。

“最近,我一直在想。”在世界上被稱為問題的現像中,大多數往往沒有解決就結束了。

我不喜歡那樣,但事實上,在阪神大地震的時候,我已經在家鄉的家中,可以說是什麼都沒解決就結束了。

“無常見就是無常見。”但是,我仍然沒有屈服於偉大的東西的順從,我只是站在那裡。感覺就是這樣。我應該怎麼辦? “這樣想真是太可惜了。”

我不是說《希望的車轍》的歌詞是空的,這只是我個人的看法,但歌詞很好聽,背後的毒藥,翻了兩三遍,很難讓重力失控有點失控。



 

2022年10月22日土曜日

2022年9月23日金曜日

7559 Lorenzo Bandini_3 & T1019 1966年、ビートルズとかR380とかRA273とか

 

7559 Lorenzo Bandini_3

Lorenzo Bandini
Ferrari 312
Reims, 1966

 Milton, Stoke-on-Trent,Staffordshire、スタッフォードシャー州ミルトン。老いてさっき言ったこと5分後に忘れているということも多々あるのに、母は今でもこれはソラで鮮明に覚えているようだ。彼女が高校生の時文通していた同じ歳の女の子がそこに住んでいたそうだ。ここには書かないが番地までしっかりだ。リヴァプールやマンチェスターまで50キロ程の地方都市。まぁ、母もちょっと背伸びしがちな女の子であったようだ。

 彼女は、その文通相手の女のコから1960年、ビートルズの名前を教えられる。絶対有名になるからおぼえておきなって。文通相手の女の子も結構ミーハーというか、尖ってる女の子だったのかな?


 Love Me Doが1962年の曲。その時に「ほら出てきた」と思った母はこの時社会に出たて、やはり、高校生の時、クオリーメンをビートルズと改名したころにその文通相手から教えられたものと思われる。



 そんな母だったが、1966年6月の日本公演は観に行くことを断念している。4月に長男を産んでいたから。つまりはオレだ。


 オレが5歳の時だ。福井で肺炎のために入院したのだが、その時どちらだったかな? 多分母方の祖母からお見舞いに買い与えられたお絵描きセット一式が入った、厚紙を印刷したビニルでくるんだバッグにプリントしてあったのが、オレが生まれた翌月、国産車として外車ポルシェに初めてレースに勝ったプリンスR380だった。臙脂色の。

6397 R380A-I_8 再掲

 幼児、言葉を覚えたばかりの乳幼児が、大人顔負けに、その形、ミラーやテールライトなどほんの一部の形などと、その、この場合では車種を結びつける、というのは、父方の叔父にいわせみれば、発達学、教育学的にはそれほど珍しい事ではないらしい。現に、東海地方出身の大学のESSの一個上の先輩もそんな感じだったらしいが、

 テールライト、フロントライトの形から「サニー」「カローラ」から「アルファロメオ」「アストンマーチン」まで言い当ててしまうお子様だったらしいですよ、オレは。


 上げた画像は1966年のロレンツォ・バンディーニのフェラーリだが、ここはリッチー・ギンザ―のRA273にするべきだったかもしれない。世界に挑戦する、前を向いて進んでいく。矛盾がないわけではなかったが、進んでいく方向を見据えて疑うことなく動いていけた、そういう時代だ。


 幸せなときに生まれることができたんだと思う。



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Even though she's old and often forgets what she just said five minutes later, my mother still seems to remember this vividly without reference. A girl who was the same age as her with whom she corresponded when she was in high school lived there. I won't write it here, but she remembers the address. A local city about 50 kilometers from Liverpool and Manchester. Well, it seems that my mother was also a girl who tended to stretch out a little.

She learns the names of the Beatles in 1960 from the girl she's correspondent with. "They will definitely be famous, so remember them". I wonder if the girl I corresponded with was quite a fanboy, or was she a edgy girl?


 Love Me Do is a song from 1962. At that time, she thought, "Hey, they're out." My mother had just entered society at this time, and it's something she learned from her correspondent when she was in high school, when they renamed the Quarrymen the Beatles. Seem.



Despite such a mother, she gave up going to see thier performance in Japan in June 1966. Because in April she gave birth to her first son. In other words, it's me.


"When I was 5 years old." She was hospitalized for pneumonia in Fukui, which one was she at that time? It was probably printed on a plastic bag wrapped in thick paper printed with a set of paintings that was probably given to me by my grandmother on my mother's side for a visit. It was the Prince R380 that won the race. reddish brown.



It was my father's uncle who said that infants, infants who have just learned the language, put themselves to shame by adults, and associate the shape, mirrors, taillights, etc. with just a small part of the shape, and in this case, the car model. In other words, developmental studies and pedagogy are not so rare. In fact, it seems that one senior ESS senior at a university from the Tokai region felt the same way.

From the shape of the tail light and front light, it seems that I was a child who could guess everything from "Sunny" and "Corolla" to "Alfa Romeo" and "Aston Martin".


The image above is Lorenzo Bandini's Ferrari in 1966, but this should have been Richie Ginther's RA273. Challenge the world, move forward. It wasn't that there were no contradictions, but it was an era in which we were able to see the direction we were heading in and move without hesitation.


"I think I was born when I was happy."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Même si elle est vieille et qu'elle oublie souvent ce qu'elle vient de dire cinq minutes plus tard, ma mère semble encore s'en souvenir vivement sans référence. Une fille du même âge qu'elle avec qui elle correspondait lorsqu'elle était au lycée y habitait. Je ne l'écrirai pas ici, mais elle se souvient de l'adresse. Une ville locale à environ 50 kilomètres de Liverpool et de Manchester. Bon, il paraît que ma mère était aussi une fille qui avait tendance à s'étirer un peu.

Elle apprend les noms des Beatles en 1960 par la fille avec qui elle est correspondante. "Ils seront certainement célèbres, alors souvenez-vous d'eux". Je me demande si la fille avec qui j'ai correspondu était plutôt fanboy ou était-elle une fille énervée ?


Love Me Do est une chanson de 1962. À ce moment-là, elle s'est dit : « Hé, ils sont sortis. Ma mère venait d'entrer dans la société à cette époque, et c'est quelque chose qu'elle a appris de son correspondant quand elle était au lycée, quand ils ont renommé les Quarrymen les Beatles. Sembler.



Malgré une telle mère, elle renonce à aller voir leur représentation au Japon en juin 1966. Car en avril, elle donne naissance à son premier fils. Autrement dit, c'est moi.


"Quand j'avais 5 ans." Elle a été hospitalisée pour une pneumonie à Fukui, laquelle était-elle à l'époque ? Il était probablement imprimé sur un sac en plastique enveloppé dans du papier épais imprimé d'un ensemble de peintures qui m'a probablement été offert par ma grand-mère du côté de ma mère pour une visite. C'est le Prince R380 qui a remporté la course. brun rougeâtre.


C'est l'oncle de mon père qui a dit que les nourrissons, les nourrissons qui viennent d'apprendre la langue, se font honte aux adultes, et associent la forme, les rétroviseurs, les feux arrière, etc. à une petite partie de la forme, et dans ce cas, le modèle de voiture. Autrement dit, les études développementales et la pédagogie ne sont pas si rares. En fait, il semble qu'un senior ESS d'une université de la région de Tokai ait ressenti la même chose.

D'après la forme du feu arrière et du feu avant, il semble que j'étais un enfant qui pouvait tout deviner, de "Sunny" et "Corolla" à "Alfa Romeo" et "Aston Martin".


L'image ci-dessus est la Ferrari de Lorenzo Bandini en 1966, mais cela aurait dû être la RA273 de Richie Ginther. Défiez le monde, avancez. Ce n'était pas qu'il n'y avait pas de contradictions, mais c'était une époque où nous pouvions voir la direction dans laquelle nous allions et avancer sans hésitation.


"Je pense que je suis né quand j'étais heureux."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Auch wenn sie alt ist und das, was sie gerade gesagt hat, oft fünf Minuten später vergisst, scheint sich meine Mutter immer noch lebhaft daran zu erinnern, ohne dass es darauf ankommt. Dort lebte ein gleichaltriges Mädchen, mit dem sie in der Oberschule korrespondierte. Ich werde es hier nicht schreiben, aber sie erinnert sich an die Adresse. Eine lokale Stadt etwa 50 Kilometer von Liverpool und Manchester entfernt. Nun, es scheint, dass meine Mutter auch ein Mädchen war, das dazu neigte, sich ein wenig zu strecken.

Sie erfährt die Namen der Beatles im Jahr 1960 von dem Mädchen, mit dem sie korrespondiert. "Sie werden definitiv berühmt sein, also erinnere dich an sie". Ich frage mich, ob das Mädchen, mit dem ich korrespondierte, ein ziemlicher Fanboy war, oder war sie ein nervöses Mädchen?


Love Me Do ist ein Song aus dem Jahr 1962. Damals dachte sie: „Hey, die sind raus.“ Meine Mutter war zu dieser Zeit gerade in die Gesellschaft eingetreten, und das hat sie von ihrer Korrespondentin gelernt, als sie in der High School war, als sie die Quarrymen in Beatles umbenannten. Erscheinen.



Trotz einer solchen Mutter verzichtete sie im Juni 1966 darauf, sich ihre Aufführung in Japan anzusehen. Denn im April brachte sie ihren ersten Sohn zur Welt. Mit anderen Worten, ich bin es.


"Als ich 5 war." Sie wurde wegen einer Lungenentzündung in Fukui ins Krankenhaus eingeliefert, wer war sie damals? Es war wahrscheinlich auf eine in dickes Papier eingewickelte Plastiktüte gedruckt, die mit einer Reihe von Gemälden bedruckt war, die mir wahrscheinlich meine Großmutter mütterlicherseits zu Besuch geschenkt hatte. Es war der Prince R380, der das Rennen gewann. rötlich-braun.


Es war der Onkel meines Vaters, der sagte, dass Säuglinge, Kleinkinder, die gerade die Sprache gelernt haben, sich von Erwachsenen beschämen und die Form, Spiegel, Rücklichter usw. nur mit einem kleinen Teil der Form in Verbindung bringen, und in diesem Fall das Automodell. Mit anderen Worten, Entwicklungsstudien und Pädagogik sind gar nicht so selten. Tatsächlich scheint es einem Senior ESS Senior an einer Universität aus der Region Tokai genauso zu gehen.

Von der Form des Rücklichts und des Frontlichts scheint es, dass ich ein Kind war, das alles von „Sunny“ und „Corolla“ bis zu „Alfa Romeo“ und „Aston Martin“ erraten konnte.


Das Bild oben ist Lorenzo Bandinis Ferrari von 1966, aber das hätte Richie Ginthers RA273 sein sollen. Fordern Sie die Welt heraus, bewegen Sie sich vorwärts. Es war nicht so, dass es keine Widersprüche gab, aber es war eine Zeit, in der wir die Richtung, in die wir gehen, sehen und uns ohne Zögern bewegen konnten.


"Ich glaube, ich wurde geboren, als ich glücklich war."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Mesmo que ela seja velha e muitas vezes esqueça o que ela disse cinco minutos depois, minha mãe ainda parece se lembrar disso vividamente sem referência. Uma menina que tinha a mesma idade que ela, com quem ela se correspondia quando estava no ensino médio, morava lá. Não vou escrever aqui, mas ela se lembra do endereço. Uma cidade local a cerca de 50 quilômetros de Liverpool e Manchester. Bem, parece que minha mãe também era uma garota que tendia a se esticar um pouco.

Ela aprende os nomes dos Beatles em 1960 com a garota com quem ela é correspondente. "Eles definitivamente serão famosos, então lembre-se deles". Eu me pergunto se a garota com quem me correspondi era um fanboy, ou ela era uma garota nervosa?


Love Me Do é uma música de 1962. Naquela época, ela pensou: "Ei, eles estão fora". Minha mãe tinha acabado de entrar na sociedade nessa época, e é algo que ela aprendeu com seu correspondente quando estava no ensino médio, quando eles renomearam os Quarrymen de Beatles. Parecer.



Apesar dessa mãe, ela desistiu de ir ver sua apresentação no Japão em junho de 1966. Porque em abril ela deu à luz seu primeiro filho. Em outras palavras, sou eu.


"Quando eu tinha 5 anos." Ela foi hospitalizada por pneumonia em Fukui, qual era ela naquela época? Provavelmente foi impresso em um saco plástico embrulhado em papel grosso impresso com um conjunto de pinturas que provavelmente me foi dado por minha avó por parte de minha mãe para uma visita. Foi o Prince R380 que venceu a corrida. marrom avermelhado.


Foi o tio do meu pai quem disse que os bebês, os bebês que acabaram de aprender a língua, se envergonham dos adultos e associam a forma, espelhos, lanternas traseiras etc. a apenas uma pequena parte da forma e, neste caso, o modelo do carro. Em outras palavras, estudos de desenvolvimento e pedagogia não são tão raros. Na verdade, parece que um sênior ESS sênior em uma universidade da região de Tokai sentiu o mesmo.

Pela forma da luz traseira e da luz dianteira, parece que eu era uma criança que conseguia adivinhar tudo, desde "Sunny" e "Corolla" até "Alfa Romeo" e "Aston Martin".


A imagem acima é a Ferrari de Lorenzo Bandini em 1966, mas deveria ser a RA273 de Richie Ginther. Desafie o mundo, avance. Não que não houvesse contradições, mas era uma época em que podíamos ver a direção em que estávamos indo e nos mover sem hesitação.


"Acho que nasci quando era feliz."



米尔顿,特伦特河畔斯托克,斯塔福德郡,米尔顿,斯塔福德郡。尽管她年纪大了,常常五分钟后就忘记了她刚刚说的话,但我妈妈似乎仍然记得很清楚,没有参考。一个和她高中时通信的同龄女孩住在那里。我不会在这里写,但她记得地址。距离利物浦和曼彻斯特约 50 公里的当地城市。嗯,看来我妈妈也是个有点伸长的女孩子。

1960 年,她从与她通讯的女孩那里得知披头士乐队的名字。 “他们肯定会出名,所以记住他们”。我不知道与我通信的那个女孩是一个相当狂热的女孩,还是一个前卫的女孩?


Love Me Do 是 1962 年的一首歌。当时,她想,“嘿,他们出去了。”我妈妈这个时候刚刚进入社会,这是她在高中时从她的记者那里学到的,当时他们把采石场改名为披头士。似乎。



尽管有这样的母亲,她还是放弃了在 1966 年 6 月去日本看他们的演出。因为 4 月份她生下了第一个儿子。换句话说,就是我。


“我五岁的时候。”她在福井因肺炎住院,那个时候的她是谁?大概是印在一个用厚纸包着的塑料袋上,上面印着一套画,大概是我妈那边的外婆送我去拜访的。赢得比赛的是Prince R380。红棕色。


是我爸爸的叔叔说的,婴儿,刚学语言的婴儿,被大人给羞辱,把造型、镜子、尾灯等都与造型的一小部分联系起来,而在这种情况下,汽车模型。换句话说,发展研究和教育学并不少见。事实上,似乎东海地区一所大学的一位资深 ESS 大四学生也有同样的感受。

从尾灯和前灯的造型看,从“阳光”、“卡罗拉”到“阿尔法罗密欧”、“阿斯顿马丁”,我仿佛是个什么都能猜到的孩子。


上图是 1966 年 Lorenzo Bandini 的法拉利,但这应该是 Richie Ginther 的 RA273。挑战世界,勇往直前。不是没有矛盾,而是在那个时代,我们能够看到前进的方向,毫不犹豫地前进。


“我想我是在快乐的时候出生的。”




2022年3月29日火曜日

7426 EF Si_3

 

7426 EF Si_3


 東京なら首都高C1とか、まぁ、警察が名前を付けると「ルーレット族」なんて、珍走団ほどじゃないが、ダサい名前になるのは、どうやらわざと、らしいが、かつて大阪、阪神高速環状線に跋扈していた、AGからEFシビック乗りを題材にした漫画「なにわ友あれ」は「湾岸ミッドナイト」ほどにはメジャーにはならなかった。オレ自身件のマンガ、読んだことがない。どうやら走り以外にも登場人物たちのやんちゃが過ぎて、結構読者を選んでしまったようなところがあるらしい。

 フロントウィンドウに「primo」のステッカー貼ったAG、所謂「ワンダー」シビック、そのころよく見かけたし、知り合いにも正直、いました。
 バイト先に乗りつけてきたやつがいた。嬉々として。先輩に譲ってもらったのだと。30万円で。しかし、だ、EFが主流になりつつあるときである。案の定、よく見りゃ、結構、あちこち痛んでる。他のバイト仲間はみんな思ってた。「ぜってー、だまされてる」でも、口に出さない。

 で、割とすぐ、エンジンいかれて廃車。そいつ、涙目になっていました。よくある話です。で、そうやって僕らは大人の階段を昇っていくわけですわ。立派な大人かどうかは別として。