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2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


8849 312 PB _7

Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


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7559 Lorenzo Bandini_3 & T1019 1966年、ビートルズとかR380とかRA273とか

 

7559 Lorenzo Bandini_3

Lorenzo Bandini
Ferrari 312
Reims, 1966

 Milton, Stoke-on-Trent,Staffordshire、スタッフォードシャー州ミルトン。老いてさっき言ったこと5分後に忘れているということも多々あるのに、母は今でもこれはソラで鮮明に覚えているようだ。彼女が高校生の時文通していた同じ歳の女の子がそこに住んでいたそうだ。ここには書かないが番地までしっかりだ。リヴァプールやマンチェスターまで50キロ程の地方都市。まぁ、母もちょっと背伸びしがちな女の子であったようだ。

 彼女は、その文通相手の女のコから1960年、ビートルズの名前を教えられる。絶対有名になるからおぼえておきなって。文通相手の女の子も結構ミーハーというか、尖ってる女の子だったのかな?


 Love Me Doが1962年の曲。その時に「ほら出てきた」と思った母はこの時社会に出たて、やはり、高校生の時、クオリーメンをビートルズと改名したころにその文通相手から教えられたものと思われる。



 そんな母だったが、1966年6月の日本公演は観に行くことを断念している。4月に長男を産んでいたから。つまりはオレだ。


 オレが5歳の時だ。福井で肺炎のために入院したのだが、その時どちらだったかな? 多分母方の祖母からお見舞いに買い与えられたお絵描きセット一式が入った、厚紙を印刷したビニルでくるんだバッグにプリントしてあったのが、オレが生まれた翌月、国産車として外車ポルシェに初めてレースに勝ったプリンスR380だった。臙脂色の。

6397 R380A-I_8 再掲

 幼児、言葉を覚えたばかりの乳幼児が、大人顔負けに、その形、ミラーやテールライトなどほんの一部の形などと、その、この場合では車種を結びつける、というのは、父方の叔父にいわせみれば、発達学、教育学的にはそれほど珍しい事ではないらしい。現に、東海地方出身の大学のESSの一個上の先輩もそんな感じだったらしいが、

 テールライト、フロントライトの形から「サニー」「カローラ」から「アルファロメオ」「アストンマーチン」まで言い当ててしまうお子様だったらしいですよ、オレは。


 上げた画像は1966年のロレンツォ・バンディーニのフェラーリだが、ここはリッチー・ギンザ―のRA273にするべきだったかもしれない。世界に挑戦する、前を向いて進んでいく。矛盾がないわけではなかったが、進んでいく方向を見据えて疑うことなく動いていけた、そういう時代だ。


 幸せなときに生まれることができたんだと思う。



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Even though she's old and often forgets what she just said five minutes later, my mother still seems to remember this vividly without reference. A girl who was the same age as her with whom she corresponded when she was in high school lived there. I won't write it here, but she remembers the address. A local city about 50 kilometers from Liverpool and Manchester. Well, it seems that my mother was also a girl who tended to stretch out a little.

She learns the names of the Beatles in 1960 from the girl she's correspondent with. "They will definitely be famous, so remember them". I wonder if the girl I corresponded with was quite a fanboy, or was she a edgy girl?


 Love Me Do is a song from 1962. At that time, she thought, "Hey, they're out." My mother had just entered society at this time, and it's something she learned from her correspondent when she was in high school, when they renamed the Quarrymen the Beatles. Seem.



Despite such a mother, she gave up going to see thier performance in Japan in June 1966. Because in April she gave birth to her first son. In other words, it's me.


"When I was 5 years old." She was hospitalized for pneumonia in Fukui, which one was she at that time? It was probably printed on a plastic bag wrapped in thick paper printed with a set of paintings that was probably given to me by my grandmother on my mother's side for a visit. It was the Prince R380 that won the race. reddish brown.



It was my father's uncle who said that infants, infants who have just learned the language, put themselves to shame by adults, and associate the shape, mirrors, taillights, etc. with just a small part of the shape, and in this case, the car model. In other words, developmental studies and pedagogy are not so rare. In fact, it seems that one senior ESS senior at a university from the Tokai region felt the same way.

From the shape of the tail light and front light, it seems that I was a child who could guess everything from "Sunny" and "Corolla" to "Alfa Romeo" and "Aston Martin".


The image above is Lorenzo Bandini's Ferrari in 1966, but this should have been Richie Ginther's RA273. Challenge the world, move forward. It wasn't that there were no contradictions, but it was an era in which we were able to see the direction we were heading in and move without hesitation.


"I think I was born when I was happy."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Même si elle est vieille et qu'elle oublie souvent ce qu'elle vient de dire cinq minutes plus tard, ma mère semble encore s'en souvenir vivement sans référence. Une fille du même âge qu'elle avec qui elle correspondait lorsqu'elle était au lycée y habitait. Je ne l'écrirai pas ici, mais elle se souvient de l'adresse. Une ville locale à environ 50 kilomètres de Liverpool et de Manchester. Bon, il paraît que ma mère était aussi une fille qui avait tendance à s'étirer un peu.

Elle apprend les noms des Beatles en 1960 par la fille avec qui elle est correspondante. "Ils seront certainement célèbres, alors souvenez-vous d'eux". Je me demande si la fille avec qui j'ai correspondu était plutôt fanboy ou était-elle une fille énervée ?


Love Me Do est une chanson de 1962. À ce moment-là, elle s'est dit : « Hé, ils sont sortis. Ma mère venait d'entrer dans la société à cette époque, et c'est quelque chose qu'elle a appris de son correspondant quand elle était au lycée, quand ils ont renommé les Quarrymen les Beatles. Sembler.



Malgré une telle mère, elle renonce à aller voir leur représentation au Japon en juin 1966. Car en avril, elle donne naissance à son premier fils. Autrement dit, c'est moi.


"Quand j'avais 5 ans." Elle a été hospitalisée pour une pneumonie à Fukui, laquelle était-elle à l'époque ? Il était probablement imprimé sur un sac en plastique enveloppé dans du papier épais imprimé d'un ensemble de peintures qui m'a probablement été offert par ma grand-mère du côté de ma mère pour une visite. C'est le Prince R380 qui a remporté la course. brun rougeâtre.


C'est l'oncle de mon père qui a dit que les nourrissons, les nourrissons qui viennent d'apprendre la langue, se font honte aux adultes, et associent la forme, les rétroviseurs, les feux arrière, etc. à une petite partie de la forme, et dans ce cas, le modèle de voiture. Autrement dit, les études développementales et la pédagogie ne sont pas si rares. En fait, il semble qu'un senior ESS d'une université de la région de Tokai ait ressenti la même chose.

D'après la forme du feu arrière et du feu avant, il semble que j'étais un enfant qui pouvait tout deviner, de "Sunny" et "Corolla" à "Alfa Romeo" et "Aston Martin".


L'image ci-dessus est la Ferrari de Lorenzo Bandini en 1966, mais cela aurait dû être la RA273 de Richie Ginther. Défiez le monde, avancez. Ce n'était pas qu'il n'y avait pas de contradictions, mais c'était une époque où nous pouvions voir la direction dans laquelle nous allions et avancer sans hésitation.


"Je pense que je suis né quand j'étais heureux."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Auch wenn sie alt ist und das, was sie gerade gesagt hat, oft fünf Minuten später vergisst, scheint sich meine Mutter immer noch lebhaft daran zu erinnern, ohne dass es darauf ankommt. Dort lebte ein gleichaltriges Mädchen, mit dem sie in der Oberschule korrespondierte. Ich werde es hier nicht schreiben, aber sie erinnert sich an die Adresse. Eine lokale Stadt etwa 50 Kilometer von Liverpool und Manchester entfernt. Nun, es scheint, dass meine Mutter auch ein Mädchen war, das dazu neigte, sich ein wenig zu strecken.

Sie erfährt die Namen der Beatles im Jahr 1960 von dem Mädchen, mit dem sie korrespondiert. "Sie werden definitiv berühmt sein, also erinnere dich an sie". Ich frage mich, ob das Mädchen, mit dem ich korrespondierte, ein ziemlicher Fanboy war, oder war sie ein nervöses Mädchen?


Love Me Do ist ein Song aus dem Jahr 1962. Damals dachte sie: „Hey, die sind raus.“ Meine Mutter war zu dieser Zeit gerade in die Gesellschaft eingetreten, und das hat sie von ihrer Korrespondentin gelernt, als sie in der High School war, als sie die Quarrymen in Beatles umbenannten. Erscheinen.



Trotz einer solchen Mutter verzichtete sie im Juni 1966 darauf, sich ihre Aufführung in Japan anzusehen. Denn im April brachte sie ihren ersten Sohn zur Welt. Mit anderen Worten, ich bin es.


"Als ich 5 war." Sie wurde wegen einer Lungenentzündung in Fukui ins Krankenhaus eingeliefert, wer war sie damals? Es war wahrscheinlich auf eine in dickes Papier eingewickelte Plastiktüte gedruckt, die mit einer Reihe von Gemälden bedruckt war, die mir wahrscheinlich meine Großmutter mütterlicherseits zu Besuch geschenkt hatte. Es war der Prince R380, der das Rennen gewann. rötlich-braun.


Es war der Onkel meines Vaters, der sagte, dass Säuglinge, Kleinkinder, die gerade die Sprache gelernt haben, sich von Erwachsenen beschämen und die Form, Spiegel, Rücklichter usw. nur mit einem kleinen Teil der Form in Verbindung bringen, und in diesem Fall das Automodell. Mit anderen Worten, Entwicklungsstudien und Pädagogik sind gar nicht so selten. Tatsächlich scheint es einem Senior ESS Senior an einer Universität aus der Region Tokai genauso zu gehen.

Von der Form des Rücklichts und des Frontlichts scheint es, dass ich ein Kind war, das alles von „Sunny“ und „Corolla“ bis zu „Alfa Romeo“ und „Aston Martin“ erraten konnte.


Das Bild oben ist Lorenzo Bandinis Ferrari von 1966, aber das hätte Richie Ginthers RA273 sein sollen. Fordern Sie die Welt heraus, bewegen Sie sich vorwärts. Es war nicht so, dass es keine Widersprüche gab, aber es war eine Zeit, in der wir die Richtung, in die wir gehen, sehen und uns ohne Zögern bewegen konnten.


"Ich glaube, ich wurde geboren, als ich glücklich war."



Milton, Stoke-on-Trent, Staffordshire, Milton, Staffordshire. Mesmo que ela seja velha e muitas vezes esqueça o que ela disse cinco minutos depois, minha mãe ainda parece se lembrar disso vividamente sem referência. Uma menina que tinha a mesma idade que ela, com quem ela se correspondia quando estava no ensino médio, morava lá. Não vou escrever aqui, mas ela se lembra do endereço. Uma cidade local a cerca de 50 quilômetros de Liverpool e Manchester. Bem, parece que minha mãe também era uma garota que tendia a se esticar um pouco.

Ela aprende os nomes dos Beatles em 1960 com a garota com quem ela é correspondente. "Eles definitivamente serão famosos, então lembre-se deles". Eu me pergunto se a garota com quem me correspondi era um fanboy, ou ela era uma garota nervosa?


Love Me Do é uma música de 1962. Naquela época, ela pensou: "Ei, eles estão fora". Minha mãe tinha acabado de entrar na sociedade nessa época, e é algo que ela aprendeu com seu correspondente quando estava no ensino médio, quando eles renomearam os Quarrymen de Beatles. Parecer.



Apesar dessa mãe, ela desistiu de ir ver sua apresentação no Japão em junho de 1966. Porque em abril ela deu à luz seu primeiro filho. Em outras palavras, sou eu.


"Quando eu tinha 5 anos." Ela foi hospitalizada por pneumonia em Fukui, qual era ela naquela época? Provavelmente foi impresso em um saco plástico embrulhado em papel grosso impresso com um conjunto de pinturas que provavelmente me foi dado por minha avó por parte de minha mãe para uma visita. Foi o Prince R380 que venceu a corrida. marrom avermelhado.


Foi o tio do meu pai quem disse que os bebês, os bebês que acabaram de aprender a língua, se envergonham dos adultos e associam a forma, espelhos, lanternas traseiras etc. a apenas uma pequena parte da forma e, neste caso, o modelo do carro. Em outras palavras, estudos de desenvolvimento e pedagogia não são tão raros. Na verdade, parece que um sênior ESS sênior em uma universidade da região de Tokai sentiu o mesmo.

Pela forma da luz traseira e da luz dianteira, parece que eu era uma criança que conseguia adivinhar tudo, desde "Sunny" e "Corolla" até "Alfa Romeo" e "Aston Martin".


A imagem acima é a Ferrari de Lorenzo Bandini em 1966, mas deveria ser a RA273 de Richie Ginther. Desafie o mundo, avance. Não que não houvesse contradições, mas era uma época em que podíamos ver a direção em que estávamos indo e nos mover sem hesitação.


"Acho que nasci quando era feliz."



米尔顿,特伦特河畔斯托克,斯塔福德郡,米尔顿,斯塔福德郡。尽管她年纪大了,常常五分钟后就忘记了她刚刚说的话,但我妈妈似乎仍然记得很清楚,没有参考。一个和她高中时通信的同龄女孩住在那里。我不会在这里写,但她记得地址。距离利物浦和曼彻斯特约 50 公里的当地城市。嗯,看来我妈妈也是个有点伸长的女孩子。

1960 年,她从与她通讯的女孩那里得知披头士乐队的名字。 “他们肯定会出名,所以记住他们”。我不知道与我通信的那个女孩是一个相当狂热的女孩,还是一个前卫的女孩?


Love Me Do 是 1962 年的一首歌。当时,她想,“嘿,他们出去了。”我妈妈这个时候刚刚进入社会,这是她在高中时从她的记者那里学到的,当时他们把采石场改名为披头士。似乎。



尽管有这样的母亲,她还是放弃了在 1966 年 6 月去日本看他们的演出。因为 4 月份她生下了第一个儿子。换句话说,就是我。


“我五岁的时候。”她在福井因肺炎住院,那个时候的她是谁?大概是印在一个用厚纸包着的塑料袋上,上面印着一套画,大概是我妈那边的外婆送我去拜访的。赢得比赛的是Prince R380。红棕色。


是我爸爸的叔叔说的,婴儿,刚学语言的婴儿,被大人给羞辱,把造型、镜子、尾灯等都与造型的一小部分联系起来,而在这种情况下,汽车模型。换句话说,发展研究和教育学并不少见。事实上,似乎东海地区一所大学的一位资深 ESS 大四学生也有同样的感受。

从尾灯和前灯的造型看,从“阳光”、“卡罗拉”到“阿尔法罗密欧”、“阿斯顿马丁”,我仿佛是个什么都能猜到的孩子。


上图是 1966 年 Lorenzo Bandini 的法拉利,但这应该是 Richie Ginther 的 RA273。挑战世界,勇往直前。不是没有矛盾,而是在那个时代,我们能够看到前进的方向,毫不犹豫地前进。


“我想我是在快乐的时候出生的。”




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6398 Jacky Ickx_1 retake & ぷれーとてくとにくす


Jacky Ickx
Ferrari 312B
Osterreichring 1970

 以下の文章内容と、特に関連があるわけではないが、まぁ、「そのころレース場(敢えてサーキットとは書かない)では」ぐらいの意味合いで。

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 言葉を覚えた幼児とその親に待っているのはなぜなに期で、しかし、それくらいの子供の親の年代は、せいぜいアラサー、まあ、20代が多数派なのかもしれない。母親は、一種使命感を持って、それに真摯に向き合おうとするのかもしれないが、それを台無しにするのが父親で、結構テキトーな事を子供に教え込む、なんてことも少なくないはずだ。


 「『うらめしや』って何?」

という、幼児だったオレの問いに、ウチの父は

「それは、家の裏に飯屋があって、そこの飯が、酷く不味くてなあ」

などと言い、隣にいた、オレのイッコ下の娘(従妹)を持つ義叔父(母の妹の夫)は、

「飯粒をひっくり返すと、よく見ると一本筋があって、その両端が少し広がって、まるで弓矢の矢にみえるところが・・・」

などと、本当、アラサー(当時)の父親って仕方ない。


 かと思えば、幼稚園児だった頃の事だ。多分、関西に住む結婚前の父の弟である当時教員をしていた叔父が、ウチに泊まりに来た時の朝、「マントルって何?」という問いに、台所のさっき食べた朝食の味噌汁の残りが入った鍋がかかったコンロの前に連れていき、火をかけ、地球の中心はものすごく温度が高いマグマ(厳密にいえば違うが幼児にはあえてそう言ったのだろう)があって、それはちょうど、この鍋の下の火のようなもので、その上、この地面の下に、このマントルというみそ汁のようなものが、ちょうど、こんな感じでうねうね動いている。これが対流というやつ、みたいな感じで教えてくれた。

 いや、幼稚園児に言ってもわかんねーし、というようなことは実はなく、まぁ、マグマ大使は年代的にちょっと上の世代のもので、オレは「帰ってきたウルトラマン」ぐらいの世代で、それらに出てくる用語としてなじみがないわけではなく、まぁ、なんとなくは頭の中に思い浮かべることはできた。
 しかし、長らく、マントルというと味噌汁のような液体というイメージが抜けなかった。本当はそれはそれで高温高圧にさらされている岩質のものであるというのに。


 アニメ、特撮の影響もあったのだとは思う。それらのストーリーに合わせて虚構にすり替えられたものではないが、幼児、小学生ぐらいの子供に向けてかみ砕かれた内容ではあったとは思うが、しかし、そういう地面の下のこと、或いは宇宙の星のこと。そういうものは目にできる限りは一通りすべて目を通し見聞きする子供であったとは思う。

 学校で話を合わせるために、長嶋が引退して監督になった巨人の話、1番柴田、又は高田、2番土井、3番張本、4番王、とか、何しろ、当地、正力松太郎の生地が近所にあり読売の本貫地的なところがあるし(ついでに言うなら、角川源蔵、春樹親子も当地出身。KADOKAWAは体制、ずいぶん変わってしまったが)、阪神ファンとか中日ファンとか広島ファンということはあまりない。パリーグ、何それ?である。話を仕入れたりはしたけれど、本当のところ、あまりその辺には興味はなく、地面の下のこと、星のこと、あと、車とか飛行機のことの方により興味を持っていたお子様だった。


 ゴンドワナ大陸が、パンゲア大陸が・・・あまりの稀有壮大さに、それを思うと手が止まる。まれにだけどそんな感じでボーとしてたこともある子供ってどーよ?、て気もしないではない。


 高校では文系理科で地学を選択した。今はよく知らないが、昭和60年ごろ理系に進んでいれば受験科目の関係でそういう選択はありえず、文系理科でも大多数は生物を選択するような時代だった。

 今現在のオレの職業、かつては広告をやったりゲームの製作もをしたこともあったが、土木の、地耐力がうんたら、というようなことをやっている。フラグは幼児の時に立っていたのかな、とも思う。



 

2016年7月11日月曜日