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インサイドを仮に「フツーの」に置き換えてみる。
アウトサイダー、「こちら側」の人間から見たら、こう見える。
「フツーの」日本人は、皇族とは言え精々まだ30ぐらいの女の子の選んだ相手がちょっとアレだからと、ここぞと叩きまくった。このご時世、アラサーなど、まだまだ子供同然、勇み足もあろうし、地に足がついていないなんてよくあることだろうに、親の仇か人非人であるかのように、叩く叩く。
なのに「フツーの」日本人、巨悪にはとても甘い。
「フツーの」アメリカの白人のおっちゃんは、黒人のBlack Lives Matterデモに、家の窓から銃を向ける。でも、実際に発砲するのは、黒人たちが一人になってから。まるで、easy riderのラストみたいに、何の気負いもなく気に入らない奴を銃で撃つ。
いやいや、そんなの普通じゃないだろ! と即座に反論来るだろうが、では、上記日本人なりアメリカ人、本当にレアケースか? やはり、寧ろ「フツー」にちかいところにいるだろ。極端ではあっても普通の範囲内。
まぁ、普通の範囲内であっても極端なものであるとしよう。あくまで、あらかじめ疎外されたアウトサイダーからの視点では。そして、その視点からは、インサイダーは、言葉なり実際の行動なり、結構暴力的だ。
まあ、上の事柄はいろいろかけ違いも多いのだが、以下のようなことがある。
まあ、上の事柄はいろいろかけ違いも多いのだが、以下のようなことがある。
「更生したヤンキーが偉いみたいな言われ方するけど、ずっと普通にまじめにやってきたやつの方が偉いだろ」という、言説。まず、それをずっと埒も開けず普通にやるしかなかった奴本人がいったら終わりだろ、と。
別に更生したヤンキーが偉いわけではないが、なんか惰性でまじめにやってるふりしかできなかった奴より、見ていて面白いのである。一つには。
また、一般に酷い損害を与えるような犯罪行為ならばともかく、せいぜいヤンキー同士の喧嘩程度で、それでドロップアウトした後、それでもなんとか一廉の人物にまでなった、ということは、何も無理して普通というものにしがみついている必要もなく、そこから零れ落ちたって全然平気、というメッセージにもなる。
また、一般に酷い損害を与えるような犯罪行為ならばともかく、せいぜいヤンキー同士の喧嘩程度で、それでドロップアウトした後、それでもなんとか一廉の人物にまでなった、ということは、何も無理して普通というものにしがみついている必要もなく、そこから零れ落ちたって全然平気、というメッセージにもなる。
恵まれない、哀れな「フツーの」人は、絶えず、日々自分のテリトリーや分け前がじりじり削られていくような感覚があり、それを削っているのが「普通」外の奴らだと感じいている。だから、とりあえず、マウントとられるのを何よりも嫌う。学者が、小説家が、何か自分がわからないことを書いたり言ったりすると、意味も当然理解せず、目に付いたフレーズだけを取り上げて炎上大作戦。ちょっとでもヘマこいたやつはここぞとばかりに叩く叩く。
しかし、まぁ、ここまで書いて気が付いた、ここにいたり「アウトサイド」「インサイド」などと区別するのは、労力が必要な割にあまり意味がない。疎外感というのは、大多数が持っているものであり、それは「疎外感」と陳腐な言葉では扱いきれない面倒くさい感覚、感情だ。
では「アウトサイダー」という著作、現代的には意義のない作品なのか?
度々、このノートを続けながら問ていくようにする。