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2025年9月18日木曜日

《創作》寝取られ幽霊 第7話 うっかりチンピラが深淵を見てしまいそうになった話

 



 さて、ひ孫が結構真面目にビルマ戦線ことを調べている頃、スチャラカ幽霊、もとい清彦は実体化して、新宿駅から3丁目の末廣亭を目指して、そりゃぁもう、ウッキウキで歩いてたわけです。

 生前、何か学校の試験で良い点数をとることが得意だったばかりに、成り行きで医者をやる羽目になってしまったが、実はお笑い、落語とか漫談とか喜劇が大好きで、芸人とまでは行かなくとも、そんな話を書く仕事をしたいと、少年の時一度は思ったものだ。
 何やら、ひ孫蓮は、清彦自身が実家に入れてもらえなかったとき、さして取り乱さなかったことを不思議に思っているらしい。これは蓮や、息子の清志郎にはとてもじゃないが言えたことではないが、母親に実家に戻ることを拒否されたとき、悲しくないわけではなかったが、とっさに、それならば少年の頃書きたかった喜劇の戯曲を描き散らしてやれと思ってしまい、益城の光照寺に向かう道すがら、何を書くかで頭の中がいっぱいで、割と悲しくなかった、と言うのがある。繰り返すが、こういうことは、とても蓮や清志郎には言えないのだが。ひでえ親父、曾祖父だ。

 ひ孫、蓮に呼ばれ、っていうか、息子清志郎の時もそうだったが、何やら、子孫が女性関係でひどく傷ついたときに呼ばれるらしい。自分でもよくわかってない。
 その割に、そう言えば、出征前、母親ツヤにちらっと聞かされた。清彦の祖父にあたる坂本清嘉、この人も女運は良くなかった。ツヤ自身は間違いなく清嘉の血を引いた娘であるが、ツヤの母、清嘉の妻、名前をタエというが、蓮から見れば祖母、不義密通を繰り返し、祖父清嘉はそれを黙認せざるを得なかった。ツヤ自身はそう言う自分の母が嫌いだったらしいが、その話を聞かされた折、祖父清嘉から、坂本家代々の嫡男は、どうにも、恋愛だの結婚だの、幸せな巡りに会えないと聞かされたらしい。その時は笑って聞き流していたが、僕もモロそうだったなぁ、と苦笑いが浮かぶ。

 それはそうと、清志郎の時もそうだった。今回も特に蓮を慰めるために何かをするなどと言う事は考えていない。せっかく呼ばれたのだから、今のこの世を楽しんでやれと、これがかなりのスチャラカ。

 とりあえず、寄席とかお笑いライブとかに生き倒してやろうと思ったわけなんだが、その軍資金のために、昨晩は、半グレ反社の牙狼會を襲撃して、数えてみたら570万円ほどあった。奪った現金はどうしているのか? そこはほら、よくある便利アイテム、言ってみればドラ●もんの異次元ポケットのようなところにしまってあるのだが、
 それにしても、ちょっと多すぎかもな、とも思う。70万円だけ持っていることにして、どこかに配って回ろうか、と思った時のことだ。

 ご存じのとおり、歌舞伎町、新宿2丁目3丁目界隈、メインストリートからはずれたら、道幅はそう広くはない。車2台すれ違うのに気を遣う通りも少なくない。そこを向こうから、・・・これは何と言ったらいいのか。着ているものの生地は結構よいものを使っているのに、仕上がりとして、何ともちぐはぐな、でも値だけは張りそうなスーツを着た若者。顔の造作は悪くない、寧ろイケメンの部類に入れていいと思うが、結果としてそこにあるのは何とも卑下た、品のない顔つきをした若者、蓮よりほんの少しだけ年上だろうか? が歩いてくる。結構子は強張って速足だ。
 清彦氏、本人曰く、霊格が高い特典として、瞬時に、その人物の思考や背景など人となりが分かってしまう。要するに、昨日襲撃した牙狼會、鷲塚の子分で、ホストをしている。今朝から鷲塚に集合かけられて、襲撃してきた奴(まぁ、清彦なんだが)について、何か手掛かりを探して来いと、昨日は、っていうか、今朝夜明けごろまで、川口くんだりからやってきている女の子とよろしくやっていたのだが、そんなわけでそこから呼び出さられ一睡もせず、こうやって歩き回っているというわけだ。
 本名は三浦ノブオ、栃木県小山市出身、ホストクラブの源氏名は聖夜。まぁ、箸にも棒にも引っかからない奴ですわ。察してください。

 ノブオは、とにかく鷲塚には絶対服従である。とはいえ、鷲塚も大概だ。ほぼほぼノーヒントで金を強奪していった奴を探せなんて、なんて無理ゲー?とか思いながらこうして歩き回ってるわけだ。あ~、帰って眠りてぇ。
 ふと、前の方に30代だろうか、何の変哲もない黒いスラックスに、白いシャツ、ノーネクタイの男がこちらを見ていた。清彦だ。

「あに見てんだよ?」
 オラついた口調ですごんでみる。
『アンタなんて見てないよ。看板を見てただけだ。』
 男はそう返事してくる。いつもなら、そこから更にウザ絡みするところだが、その瞬間、何も見えない暗闇、深淵に叩きこまれた錯覚がおそった。ほんの一瞬だが。ノブオが数瞬凍り付いている間に、男は歩いて行ってしまった。
「けっ!」
 お定まりのチンピラが吐くようなセリフを残して、ノブオも反対方向に歩いていく。意識に登ったわけではない。深層心理で、相手にしちゃいけない奴だと感じ取ったのかもしれない。


 ふむ。昨日のクズな親玉の子分か。必死だな。ご苦労さん。鷲塚っていったな、昨日の男。昨日の事務所の他に何箇所か現金隠してるとこあるようだったな。この際、全部頂くか。
 これが、特殊詐欺でせしめた金だったら、だまし取られた人に返さなきゃと思うところだが、どういう訳か、男、女や、クスリで身を持ち崩した奴には、そう言う気持ちは働かなかった。そもそも、特殊詐欺のお金は銀行口座を通過する事が多く、現金として札束とかないだけ手出しするのが面倒だ。鷲塚も、クスリ、風俗関係の他に、特殊詐欺のグループも手下にいるが、奴から現金全部せしめた辺りで、警察に証拠になりそうな書類もせしめておいて、送りつけてやろうか。そんなことも考える。なんか、あの鷲塚って奴のやり方が気に入らないんだよねぇ。
 というなら、今すぐ、警察に通報してやれよ、と、突っ込む人間は此処にいない。

 んで、そのお金だ。・・・どうするかなぁ。子ども食堂にでも寄付するか。僕はお笑い見に行けるだけあればいいのだし。


 初めての末廣亭の昼間の寄席、大変楽しく堪能させていただきました。


 一週間後、都内の子ども食堂に、それぞれ50万ずつ入った匿名の封筒がポストに入れられていた。警察に届けられたが、送り主不詳ということで、時間が経てば子ども食堂の活動資金にいかされるだろう、と、蓮はネットニュースで読んだ。ちらっと、寄付したの誰なんだろうなと考えた。まさか、その横でラノベ読みながらゲラゲラ笑ってるスチャラカ幽霊がやったとは思わない。

 そして、報道されなかったこと。池袋、渋谷、千住の牙狼會の事務所が次々襲撃され現金を強奪される。3000万円近くにおよんだ。どこも、目立たない古ぼけたオフィステナントビルの一室だった。見張りを増やして警戒していたが、根こそぎ現金が強奪された。残るは六本木の事務所だけであった。


2025年9月17日水曜日

《創作》寝取られ幽霊 第6章 図書館にて

 

 朝の下落合は、まだ少し眠たげだ。アパートの外階段を降り、自転車にまたがると、湿ったアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。昨夜見た夢が頭から離れない。清彦は復員してきて、実家の玄関の前で足を止められていた。家に入れてもらえなくても、彼は不思議と怒るでもなく、穏やかな顔をしていた。夢の中の光景がやけに鮮明で、頭の中に残像のように漂っている。

 ペダルを踏み出し、聖母坂を下りる。坂道の途中、通学の小学生の列とすれ違い、自転車のハンドルを少し切る。新宿区立落合第四小学校の校庭から、朝のチャイムが鳴り響いてきた。子どもの声のざわめきに紛れて、蓮はふと考える。どうして清彦は、家に入れなくてもあんなに落ち着いていられたのだろう。自分だったらきっと焦ったり、不満をぶつけたりするはずなのに。

 山手通りに出る。車の流れはもう忙しない。ヘルメットをかぶったロードバイクの社会人が脇をすり抜けていく。蓮はスピードを緩め、大久保方面へと曲がった。目白通りに差しかかると、コンビニから出てきたサラリーマンが慌ただしくスマホを覗いている。どの人の顔にもそれぞれの予定と不安が張り付いていて、清彦のあの穏やかさとは正反対に思えた。

 「穏やかさ」とは何なのだろうか。諦めか、達観か、それとも……。軍服姿のまま、静かに家を見守る清彦の姿を思い出す。あれは敗戦をくぐり抜けた兵士だからこそ持てる余裕なのか。それとも、死者だからこその距離感なのか。ペダルを踏みながら、答えの出ない問いが頭の中を巡る。

 神田川沿いの道に入ると、少し風が軽くなる。川面に映る朝の光が、まだ眠気を抱えた瞼を刺激した。ここからは早稲田のキャンパスまで一本だ。桜並木の葉は濃く茂り、初夏の青さを強調している。対向車線を行く学生らしき自転車の列は、誰もがイヤホンを耳に差し込み、視線をスマホに落としたまま漕いでいる。

 蓮はスマホを取り出すこともなく、ただペダルを踏む。清彦が「家に入れないこと」を苦とも思わず受け止めていたのは、たぶん「自分の居場所はそこじゃない」と分かっていたからかもしれない、とふと思う。居場所を無理に求めず、ただ傍に立つ。それは弱さではなく、むしろ強さなのではないか。そんな風に考えながらも、やはり自分にはまだ早い気もする。

 早稲田通りに入り、正門前の学生でごった返す交差点に差し掛かる。講義に遅れそうな者、友達と笑い合いながら歩く者、みなそれぞれの世界を抱えている。蓮はブレーキをかけ、自転車を押しながら校門をくぐった。夢の余韻はまだ消えず、清彦の穏やかな横顔だけが胸の奥で反芻され続けていた。いや、そもそも、あの夢に出てきた親族一同や戦友達、報われなさすぎだろ。清彦だけが報われなかったわけじゃない。清司爺ちゃんも春江婆ちゃんも、・・・名前わかんねえわ、ひいひい爺ちゃん、ひいひい婆ちゃん、誰かいい思いしてたか? ずっと清司爺ちゃん、春江婆ちゃんのこと好きだったみたいけど、幸せそうじゃなかったぞ。あの、佐久間って人も、誰一人いい目にあってない。

 ってか、何のためにビルマくんだりまで行ってたんだ? まあ、彦爺こそ、膝撃たれてたけど、夢の中で死んでた人、皆んなマラリアか餓死だったろ? あ、多分あの司令の少将の人と最期だけはシブかった腰巾着の人は、ピストルで、自、殺って言っちゃいけないんだよね、自決してたなあ。

 何しに行ってたんだ?

 蓮は正門の前から自転車を降り、駐輪場に自転車を止めに行く間も、一講目のマクロ経済の教室に入って教授を待つ間も、ずっとそんな事を考えていた。篠原絢美とすれ違ったが、絢美こそ気まずそうに顔を逸らしていたが、蓮ときた日にゃ自分の思考に潜り込んでいて、絢美が足を引きずっていたことも含め気がつくことがなかった。まあ、連にしたって気がついていたなら、ほぼパニックに陥るくらい取り乱しただろう。


 今日のマクロ経済学は、LM曲線の導出だった。貨幣需要と貨幣供給の関係をグラフで描き、利子率が下がれば人々は貨幣を持ちたがるから投資に回らない、逆に利子率が上がると債券を買う方にシフトする……と教授は何度も強調していた。板書を写しながら、それなりに筋は追えた気がするのだが、「じゃあ現実の俺たちがどのくらい現金を持つかって、こんな数式で説明できるのか?」という引っかかりが残る。式の形は分かっても、生活実感とはどうも結びつかない。金融政策でマネーサプライが増えるとLM曲線が右にシフトする、という説明も「そういうもの」として覚えるしかなさそうだ。理解したというより、ただ納得したフリをしている感覚。

 なんだかなぁ、と、思いながらも、そんなもんか、とかとも思ったり。そんなことより、ビルマの問題だ。こんな事言うのもなんだが、特攻隊を犬死みたいに言う人がいて、それに対して烈火の如く反論する人もいる。でも、特攻隊は戦争に行って戦争で死んだ感じがまだするだけ、犬死度はマシな気がする。ろくに戦争らしいこともほとんどやらずに、マラリアやら飢え死にやら、挙句それに対して責任とって、なんだろうか、自決やら、なんなんだったんだ?


 商学部の学生としてはLM曲線をもっと理解するようにしなくてはいけないのだろうが、朝から、昨日からずっと、ビルマ戦線の事が頭から離れない。なぜ、あんなところまで出掛けて行って死にそうになったり死んだりしてたんだ? 清彦の表情以前にその事を知らねば、と取りつかれた。

 蓮は図書館の静まり返った一角で、厚い戦史の本を開いた。ページをめくる音が、あたりに小さく響く。見開きには、濃い緑のジャングルが描かれた地図。ビルマ。聞いたことはあるが、正確な位置は頭に浮かばない。地図の上で指を這わせる。タイの北部、インドの東、そして南シナ海へと続く。道なき道、密林の奥へと、戦争は押し進められた。

「ここか…」蓮は小声で呟く。列車の線路も、舗装された道路もほとんどなく、河が主要な移動経路だったらしい。水運の重要性、ジャングルの湿気、蚊の群れ、熱帯の雨、すべてが兵士を消耗させる。写真の中の兵士たちは、泥まみれで、荷物を背負い、川を渡る。蓮は息を呑む。戦争の地図だけではなく、環境そのものが敵だった。

 さらにページをめくる。年表が目に入る。1942年、日本軍はビルマを南から北へ侵攻した。戦略としては、イギリス植民地への圧力と、中国大陸への補給路確保が狙いだという。蓮は鉛筆で指をなぞる。マンダレー、ラングーン、アウンサンマーケット……聞き慣れない地名が続く。次々に都市や村、川が書かれ、侵攻の経路を示している。密林の間を縫うように進軍したことが、一目でわかる。

 戦線は長く、補給が困難だったらしい。蓮はメモを取る。食糧も水も足りず、病気が蔓延し、疲労で倒れる兵士も多かった。敵の砲火だけでなく、ジャングルの湿気、熱、マラリア、毒蛇、食料不足…想像するだけで息が詰まる。ページの端に小さく書かれた数字や統計は、数字としてではなく、苦しみの実感として蓮の頭に入ってくる。

 航空戦や補給線の破壊、激しい雨季による河の増水も目に入る。道路が寸断され、進軍が止まる。兵士たちは泥に足を取られ、川に流され、病床に伏す。戦略や計画だけでは片付けられない、人間の苦悩が書かれている。蓮は背筋を伸ばし、改めてページを見つめる。戦争とは、地図上の線や作戦だけでなく、自然や環境と絶えず闘うことでもあったのだ。

「なるほど…」蓮は声にならない声で言う。少しずつ、戦線の全体像が頭に浮かんでくる。南から北へ、湿地と密林を越え、川を渡り、都市を取り囲む長大な線。補給が途絶え、病気と戦い、敵と戦う。地図の中の点は、ただの場所ではなく、苦しむ人々の現場でもある。

 蓮はページを閉じ、深く息をつく。文字や図だけではなく、環境、地形、距離、気候……それらが一つに重なって、戦争の姿を形作っていることが、初めて少しわかった気がした。手元のノートに、地名と線を丁寧に書き写す。理解はまだ浅いが、確実に、頭の中で戦線の道筋が見え始めていた。

 まぁ、経過はそうだとして、なぜ日本軍はあんなところに手を出したのだろう?
 日本軍がビルマに進出した大きな目的は三つあった。第一に、当時ビルマを植民地支配していたイギリス軍を撃退し、英領インドへと圧力をかけること。第二に、中国へ送られる援蒋ルートの遮断である。ビルマ経由で供給される軍需物資や支援が止まれば、長期にわたる日中戦争での中国の抵抗力を削ぐことができる。第三に、資源確保の観点からも、南方作戦の一環としてビルマを押さえることには大きな意味があった。蓮はその記述を追いながら、「アジア解放」という耳触りのいい言葉よりも、現実の軍事的・経済的な打算のほうがはるかに前面にあったのだと理解した。

 行動は1942年初頭に始まる。日本軍はタイを経由し、ビルマへの侵攻を開始した。山岳地帯や密林を抜ける進軍は過酷を極めたが、当時のイギリス軍は戦力を十分に整えておらず、日本軍は驚異的な速さで首都ラングーンを攻略する。ラングーン陥落は、ビルマ戦線の転機として強調されていた。港を押さえたことにより、援蒋ルートの遮断はほぼ現実のものとなり、中国への物資輸送は大きな打撃を受ける。その意味で、日本軍は当初の目的を短期的には見事に達成したかに見えた。
 蓮はページをめくりながら、その「達成感」が一時的な幻にすぎなかったことを直感する。作戦序盤の成功の陰で、補給の問題はすでに兆候を見せていた。長大な補給路、未整備の道路、急造の兵站体制――勝利の報が届く裏側で、すでに次なる苦境の芽が育ち始めていたのだ。

 読み進めていくと、日本軍の成功は長くは続かなかったことがはっきりと分かる。ラングーンを攻略した時点で勝敗は決したかのように見えたが、実際にはそこからが本当の試練だった。そもそもビルマという土地は、広大なジャングルと山岳地帯に覆われ、近代的な道路や鉄道は限られていた。物資の補給には膨大な労力が必要で、港を押さえても内陸にまで行き渡らせる術が十分ではなかった。つまり、勝利を確定づけるための兵站線が最初から脆弱だったのだ。

 さらに、英印軍は体勢を立て直し、インド東北部から反撃の準備を進めていた。日本軍は勢いに任せてさらに奥地へ進軍しようとしたが、それは補給線を無理に引き延ばす行為にほかならない。輸送トラックはぬかるみに足を取られ、荷駄を担ぐ兵士たちは飢えと病に苦しんだ。マラリアや赤痢といった熱帯特有の病が兵士を次々に倒し、戦闘に参加できる兵力は急速に減少していく。

 蓮は資料に並ぶ数字や証言を目で追いながら、戦術的な勝利と戦略的な失敗の落差に衝撃を受けた。短期的に目的を果たしたはずの作戦が、兵站の欠如によってじわじわと崩れていく。その姿は、勝利を急いだがゆえに自滅へと向かった悲劇にしか見えなかった。ページをめくる手を止めた蓮は、声にならないため息をつきながら思った。「勝つことより、持ちこたえることのほうが、どれだけ難しかったのだろう」と。

 やがて蓮は「インパール」という地名に行き当たった。資料の中では、ビルマ戦線における最大の作戦、そして最大の悲劇と記されていた。インパールはインド東北部の山間にある都市で、そこを攻略すれば英印軍の補給拠点を断ち、ビルマ全体の戦況を日本軍に有利にできる──そのように計算されていたという。目的は明快で、一撃で戦局を逆転させる夢のような作戦だった。

 しかし、蓮が目を凝らすほど、その無謀さが浮かび上がった。インパールへの道は、アラカン山脈を越える険しいジャングル地帯で、まともな道路はなく、補給の見通しは最初から絶望的だった。にもかかわらず、日本軍は「現地で調達できる」「敵の物資を奪えばよい」といった根拠の乏しい見込みに頼り、膨大な兵力を送り込んだ。結果、補給はまるで機能せず、兵士たちは飢餓と病に追い詰められていった。

 資料には、生き残った兵士の証言がいくつも並んでいた。餓死を避けるために木の根や草を食べ、衰弱の果てに動けなくなった仲間を置き去りにするしかなかったこと。マラリアや赤痢が広がり、銃を撃つ前に部隊が壊滅していったこと。戦闘よりも飢えと病に殺された兵士の数が圧倒的に多かったこと。蓮はページを追う手を止め、しばし視線を宙に漂わせた。戦争映画で見たような「激しい戦闘」よりも、もっと静かで、しかしはるかに苛烈な死の連鎖が、そこにはあった。

 結局、インパール作戦は何一つ成果を得られぬまま撤退となり、日本軍は二十万を超える兵を投入し、その半数近くを失ったという。蓮の胸の内に、重苦しいものが沈んでいった。清彦も、春江も、清司も──自分の親族たちが関わった戦場とは、こういう現実だったのか。戦って散ったというより、支えを失い、立つ場所すら奪われて消えていった。そんな無念の空気がページの隙間から立ちのぼるように感じられた。

 「勝利を夢見て突っ込んだはずが、結局は兵士を殺すための道だったのか」──蓮はそう呟きながら本を閉じ、胸の奥で答えのない問いを繰り返していた。

 ビルマ戦線での日本軍の目的は単純に「現地を支配すること」ではなく、もっと広く「戦争の主導権を握ること」と「連合軍の補給線を断つこと」にあったんもではないか。けれど、現場で実際に起こったことを見ると、それがどれほど達成できたのかは疑問だ。戦争が進むにつれて、補給は途絶え、病気や飢えに苦しむ兵士が増え、結局、戦果よりも犠牲のほうが大きくなったように見える。
 あの戦線で日本軍が抱えていた目標と、現実との間には大きなギャップがあったんじゃないかと思える。理想として掲げられた戦略や目的はあったかもしれないが、個々の兵士の視点からすれば、ただ生き延びることが精一杯の現実だったのではないだろう。

 日本軍の目的は単純だった。連合軍の補給線を絶ち、インドへの進撃を目指すことでアジアでの戦略的優位を確立することだったのだろう。だが現実は、目的に比べて成し遂げた段落もそう言っていた。

 夢の中のあの戦線は兵站が完全に崩壊してた。前線まで物資が届かず、食糧も弾薬もろくにない状態で兵士はひたすら死線をさまよっていた。戦略的には見込み、どう見間違えたかあると判断してしまったのだろう。それにしても、現場は常に飢えと疲労に苛まれ、勝利どころか生き延びることすら奇跡だったことだろう。

 目的と現実の差はあまりに大きく、無理な進軍計画が悲劇を生んだだけだったのだろう。結局、ビルマ戦線での日本軍の戦果は限定的で、前線の兵士たちが背負った苦難だけが歴史に刻まれたにちがいない。

 日本軍のほとんどの作戦立案から進行まで正しいことは存在しないように思えた。それが本当ならば、日本国民や、何より当時今よりもっと強烈に信仰していた天皇陛下に対する背信ではなかったか? そうは考えなかったのか?


 図書館の静かなところにいながら、にわかに動悸が上がるような感覚があった。

 あらかじめ書架から選び抜き取ってきた本の中に、『ビルマ戦線を生きた兵士たち ― 証言から読み直す戦争体験』というものがあった。編者はこの大学の教授のようだった。

 パラパラと書き出しの所を読んでみる。
『本書は1970年代に本学の上條巌教授が行ったビルマ戦線従軍者へのインタビュー記録(未刊行部分を含む)を再編集し、現代の戦争史研究の視点から再検討したものである。』とある。
『従来は「補給の失敗による悲惨な戦場」という一般論で語られがちだったが、証言を精査すると、兵士たちの認識は「敗戦の中で、いかに人間らしくあろうとしたか」に集中していたことが明らかになった。』
『「戦った」というよりも「耐えた」という表現が繰り返され、食糧・薬・仲間の存在が「生きる意味」そのものになっていた。』
 耐えることが戦場ですることだったのか。印象に残ったのは、多くの証言者が「何のために戦ったのか分からない」と語りながらも、「帰れなかった者に恥じないように生きる」という言葉で体験を結んでいる点である、と言うあたりのくだりだ。

 編者・・・えっと、文学部史学科の成瀬正人教授、な。ノートの片隅にメモしておく。成瀬教授は、これを「戦争目的の空虚さと、個人としての生の尊厳の両立」と捉え、ビルマ戦線を「敗戦体験を通じた人間の生存倫理」の典型と位置付けている。

 正直、この時にはもう、おとといの晩の自分の失恋など取るに足りないような気がしていた。しかし、それでもあの時の自分の取り乱しようを思うと、夢の中の、曾祖父清彦のあの穏やかさの理由がわからない。理解のヒント、成瀬教授に話を聞いたら少しは分かることが出来るのだろうか。


 図書館を出たら、もう昼休みが終わりに近づく時間だった。ベンチに腰掛けて読書で張り詰めた脳みそを緩めていると、離れたところを篠原絢美が歩いているのが見えた。脚を引きずってるようだ。表情も何となく憂鬱気だ。蓮には気がついていない。
 あぁ、彦爺の呪い、効いてるんだなぁ。お気の毒に、と、もはや他人事だ。
 昨年、入学した蓮には、当時目の前を通り過ぎた絢美の颯爽と歩いていく姿が強烈に刻まれた。美少女から美女に移ろいゆく正にその途上、そう、カワイイというよりは美人タイプで、心をわしづかみにされたのだ。
 何とかお近づきになり、告白、何度かデートをし、キスまでいった。
 浮気とか二股かけるとかするタイプだとは思わなかった。それともキスくらい、彼女にとっては挨拶見たいものなんだろうか? 自分の独り相撲だった? うわぁ、それだったらイタすぎるなぁ・・・。
 思わず、「都会はなぁ、都会ん女の子は、こわかばい〜」という熊本弁が出てしまった。
 えっと、午後の3コマ目は、あ、一般教養の社会学か。だるいな。
 大あくびが出てしまった。

2025年9月8日月曜日

《創作》寝取られ幽霊 第5話 幽霊が非合法で儲けたお金を奪取するのは犯罪か否か?

 



 さて、蓮がゆるゆる清彦が辿った生前のことを悪夢として見ていた間、それは、別に清彦が意図して自分の体験を見せていたわけではなく、蓮の前に顕現した時に引っ張ってきてしまったのだが、ご本人、霊格高いとおっしゃってるが、幽霊は幽霊、別に付き合って寝る必要もなく、暇だからというわけではないが、歌舞伎町の片隅にある、一階は入り口が乱雑に合板が打ち付けられた潰れた飲食店という、雑居ビルを前の路地から見上げていた。
 裏通りの、業者しか使わないような路地である。人通りも、店が並ぶ通りほどにはない。元より、通行人には清彦は姿を見せないようにしているのだが。別に目当ての部屋まで瞬間移動してもいいのだが、そこはそういう気分だった、と、いうしかない。無様に合板が打ち付けられた店舗の横の入り口に清彦は足を踏み入れる。

 他にテナントがない、いつ解体され立て替えられてもおかしくないビルの4階だ。隅の方とはいえ歌舞伎町にそんな物件があること自体、この建物が訳ありなのは、何となく察せられるところだが、他に人気がない、このビルの中で4階の一室だけ、部屋の中に灯りが灯っていた。
 中には、30代くらいの男が一人、普段は目立たないようにしているのだろうか? 普通のサラリーマンのようなをしているのだが、この時の、顔つき、口調、醸し出す雰囲気が、とても堅気とは思わせない。名を鷲塚京介といい、牙狼會という半グレ組織の首領をやっている。この部屋は、牙狼會の中でも上部の何人しか知らないような、表には「スマイル企画」などとふざけた小さい手描きの看板がかけられているだけである。
 鷲塚は、普段、表の顔の時はおとなしそうな雰囲気でいるのだが、この時は、よく映画やドラマにあるように、机の縁に腰かけ、行儀悪く脚を組み、電話口に口汚い大声で怒鳴るように話をしていた。

「いつまでもモタモタ引っ張んてんじゃねぇよ。惚れちまったのかあんなブスに! とっとと風呂に沈めて上がりとっときやがれ!!」
 傘下のホストクラブのホストに違法営業についての指示を出したり
「草の上り、持ち逃げされたって?! ・・・あぁ、ちゃんと取っ捕まえたのか。きっちり締めとけ。指の何本かへし折ってな。殺すなよ。いろいろ面倒だし、従順になった売り手は必要だからな」
 など、覚せい剤取引の指示を出したり。まぁ、早い話、冷徹で頭はいいのだが、この鷲塚という男

『クズだな』

 この部屋、いやこの建物には自分一人しかいないはずだが、鷲塚には誰かの声が聞こえた。
「……誰だ?」あえて声を落とし冷静さを装って言い、耳を澄ませた。 と、次の瞬間電灯が切れる。わずかに鷲塚が身構えた次の瞬間には再び電灯はついたのだが

『それじゃ、遠慮なくお金もらってくよ』

 鷲塚には、声が空気の外から耳にねじ込まれてくるように聞こえた。慌てて、鷲塚は金庫のダイヤルを回す。つい数時間前、自分の手で札束の角を叩き揃えて収めたばかりの金庫が、ただの空気の箱になっていた。
 それを確認して「どういうことだ?」と立ち尽くしたが、次に瞬間には思い切り机をけり飛ばす音が他に誰もいない雑居ビルに響いた。


 次の朝。

「ねぇ、彦爺」
などと、蓮は目の前の幽霊、見た目は死んだときと同じ大体30代なんだが、試しにそう呼んでみた。

『おぅ、目が覚めていきなり爺呼ばわりか』

「だって、俺にとっちゃ爺ちゃんと言えば清志郎爺ちゃんだもん。ひい爺さんだと思ってたのは、清司爺ちゃんだし。っていうか、そもそも、生きてる清司爺ちゃん知らないんだけど。彦爺は枠外。」

『孫に枠外呼ばわれされた件。・・・まぁ、いいや。僕をひい爺ちゃんと認めてくれるわけだな。』

 清彦、「バカテス」の次は、「ティアムーン帝国物語」を読んでいたようだ。単行本を閉じて蓮の方を向く。

「長い夢見たんだ。疲れたよ。彦爺が昔の家の縁側で、小さい清志郎爺ちゃんと遊んでるところから、戦場で、脱出して脚撃たれて、死にかけて……。帰ってきたら、家の戸口の前から入れてもらえなくて。行き場をなくして寺に身を寄せて、そして、死んじゃって。そこから・・・、高校生の清志郎爺ちゃんが、寺の片隅で彦爺の墓に手を合わせているところまで――。」

 清彦、一瞬天井を見上げて、ひと呼吸置いて言った。

『う~ん、まずだ、じゃ、僕も君を蓮と呼ぶことにする。蓮もその夢見ちゃったわけだな。』

「誰か他に見た人いるの?」

『清志郎だよ。女房に逃げられた時に、昨日と同じように僕は呼ばれたんだけど、・・・なんか、記憶というか、実際あった出来事を引っ張ってきちゃうみたいだな。僕が知らない場面も清志郎は知っていたりしたから、別に僕が見せたわけじゃないぞ。それだけは言っておく。」


 蓮は、かの時代の苛烈な運命、曾祖父清彦だけじゃなく、佐久間秀幸や、戦場や復員船で死んだ人たち、空襲で家族を失った女性などの運命を思い出してしまい、しばし絶句する。
 あと、清志郎爺ちゃんが女房に逃げられたって、いったい何?


「いろいろ訊きたいことがあるんだけど・・・」

『ん? なんだ? ひい爺ちゃんが教えて進ぜよう。わかる事だけだけどな。』

 蓮は、ちょっとの間、ためらったが、思い切って訊いてみた。

「彦爺が家に入れてもらえなかったときに、どうして、あんなに落ち着いていられたんだ?」


『あ~、それな・・・。うん、わからん。ただ喚いてもどうにもならんと思ってたのかもな。
 戦場ではな、怒鳴り散らしたところで、死んだ奴は誰も帰ってきやしないし、腹がふくれるわけでもない。喚いたやつから死ぬ。声をあげずに飲み込んだやつだけが、生き残れたりしてな。
 家の前に立ったときも同じだよ。僕が吠えたところで、親父も兄弟も、閉めた戸を開けはしない。だったら、静かに引き下がるしかなかった、みたいなこと考えてたのかもしれん。』

 蓮は二の句が継げない。

『あと、家族を、僕のお袋や親父、清司も春江も怨むという感覚は、全然なかったんだ。ただ、・・・なんだろうな? 日本に帰ってきて野宿かよ、とは思ってたかもしれん。』


 うん。その感覚、全然わからない。

『子供の時の清志郎と、もっと遊んでやれなかったのは残念だけど、出征する前から、清司の奴がな、清司の奴がな、春江の髪を直す仕草に、ふっと目をやるのを見たことがあった。ホント、淡~くだけど、兄嫁、春江の事、憧れみたいなものがあったんじゃないかと思っていた。脚無くした僕より、清司の方が春江や清志郎を幸せにしてくれると思ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。』


「・・・まぁいいや。全然わかんないけど、彦爺は彦爺だしな。あと、清志郎爺ちゃんがお、奥さん、まぁ、婆ちゃんだけど、逃げられたってどういうこと?」

 確か、朝、帰った来たときにも、その話聞いた。確か…坂本家の嫡男は、代々女が運が悪くって・・・って、いやぁぁぁぁぁぁぁ!

『奈穂子ちゃん、って君の母ちゃんな、が小さい時だよ。確か、他の男と駆け落ちしたんだ。詳しいことは清志郎に訊きな。』

 訊けるかよ。もう清志郎爺ちゃん、癌でいつ死んでもおかしくないのに。いつ「ジイチャン、キトク、スグカエレ」・・・って、電報の時代じゃないな。とにかく、そういう連絡が来るかもしれないってのに。

『あぁ、清志郎な。大丈夫。僕は霊格が高いから、清志郎の病気くらい、何とかなる。』

 このスチャラカ幽霊、何を言ってるのかよくわかりません。


 蓮は冷蔵庫から食パンを2枚取り出し、トースターで焼きもせず、そのまま、マーガリン塗りたくってモソモソ食べ出す。食べ出してから、あ、とか思って、清彦に訊ねる。

「まさかとは思うけど、幽霊はメシ、食わないよね?」

ちょっと困った顔をした清彦は答える。

『ああ、それはいいんだけど、蓮、そんなしょぼい朝飯か?』

「地方出身の学生なんて、金がないんだよ。ちゃんと朝飯食ってるだけ、褒めてくれよ。」

拗ねたように応じる蓮に、清彦はにんまりとして

『しょうがないなあ、我がひ孫は。これで何か美味いもの食え』
と、澁澤を一枚、蓮に差し出す。
『孫の奈緒子ちゃんにはそういう機会なかったけど、こうやって小遣い、渡してみたかったんだよねえ』

 蓮は困惑する。
『どうした。どこぞのお笑いタレントみたいに、美味いもん食え、で、割り箸渡してるわけじゃないだろ?』
 そういう清彦に蓮は
「いや、どうして、幽霊がお金持ってるの?」

 清彦はそれには答えず、ニヤリと笑うだけ。もう、なんかね、嫌な予感しかしない。


「彦爺、さあ、大学ついてくるの?」

『何、うちのひ孫は付き添いして欲しいような甘えん坊さんかぁ?」揶揄ってきやがる。

「ちげーよ!」

『あはは、冗談。流石に四六時中憑いてまわられるのも嫌だろう。心配するな。よ!』

 掛け声ひとつで、それまで、国民服を着た半透明の幽霊が、現代のその辺にいる成人男性が普通に着ている服装に変わり、半透明じゃなくなった。ついでになくなったはずの脚もちゃんとついていた。

『僕ほど霊格が高いと、こういうふうに実体化もできたりするわけよ。これで、東京観光してくるわ。』

 付き纏われるわけではないことにホッとする蓮。

『ああ、この際言っとくけど、一度こうやって目の前に現れた以上、そこにいるのに完全に透明になって蓮から見えなくなる、ということはないみたい。清彦の時はそうだった。蓮の近くに僕がいないんなら、本当に僕は他所に行ってると思って。 まあ、余程の危機一髪の時は、飛んでいくよ。』


「っと、そうだ。昨日寝る間際、仇討つとか言ってたけど、何かした?」
 恐る恐る蓮は尋ねた。

「・・・あぁ、蓮を降った女のコな。相手の男と一緒に〈靴の中にずっと小石がある呪い〉と〈毎日身に付けてるものが2センチ破れる呪い〉かけといた。」
 とスチャラカ幽霊は答えた。

 うわぁ、なにその地味な嫌がらせ・・・。

2025年7月12日土曜日

《創作》寝取られ幽霊 第1話 守護霊登場

 


 「おい、坂本君。もう上がっていいぞ。時間だろ。」

 30代位だろうか、雇われ店長が、厨房の奥でひたすら丼ぶり、皿洗いをしていた蓮に声をかける。食洗器が壊れてしまったということで、修理が上がってくる2週間、臨時で雇われた終夜営業のうどん屋でのバイトのことだった。
 今日で蓮のバイトは終わる。

 「なぁ、バイト続けてくれること、考えてくれたか?」
 店長が問う。正直、いくら若いからと言って、ずっとほぼ徹夜のバイトをレギュラーで入れるのは、学生の身の蓮にはキツい。どうしても買いたいものがあったから、このバイトを入れたのだが、端から続ける気はなかった。
 「すみません。」


 分かってたよ、とでも言いたげに店長は右の掌をひらひら振った。他の店員が、店じまいや売り上げの計算を始めている。バイトの蓮にはそこまでは求められていない。午前5時まで。もう、5時10分だ。

 「給料は、明後日振り込まれるから。ご苦労さん」

 店長はそれでも気を悪くする風でもなく、蓮に言った。


 厨房着から私服に着替え、一言「お世話になりました~」と店内の誰に言うでもなく挨拶して店を出た。雨が降っていた

 厨房の熱気で毛穴がふさがったような感覚から雨がひんやりとした空気に触れる。決して厨房の中は快適ではなかったが、仕事が終わって外に出て外気に触れる、この解放されるような感覚が、結構気に入っていた。

 蓮がこのバイトに就いたのは、ガールフレンドの絢美に誕生日のプレゼントを買うためだった。とか言いながら、実はまだ何をプレゼントするか決めてはいなかったのだが。何を買うかは決めていなかったが、決めないまま渡しても絢美なら笑って受け取ってくれる。そう思っていた。
 バイト先の終夜営業のうどん屋から、下落合の蓮のアパートまで、自転車でもあればいいのだが、さしあたりそんなものは持っていない。JR等を使うのにも中途半端な位置関係だ。どうせ一駅。蓮は、何を買おうかな、と、小雨が降っているというのに傘もささず、少々浮かれ気味に、いつものようにラブホテル街を抜ける。

 角を曲がったところにあるラブホテルの出口から、一組カップルが出てきたところと鉢合わせしてしまった。いつもは気まずさがないようにせめて道路を挟んで反対側を歩く蓮だったが、その日に限ってそうしなかったために、カップルとはまさに、ばったり、だったわけで。

 カップルの女性の方が、蓮のガールフレンド、篠原絢美だった。蓮は、目の前で何が起きているのか理解できなかった。絢美は気まずそうに一瞥くれると、男と共に去っていく。
 何か言わないといけないのではないか? 何を言えばいいのだ? 言わない方がいいのか? それよりも膝から下、力が入らずにその場でへたり込みそうになる。
 状況を受け止めるまで何分、蓮はなんとかそこに立ち尽くしていたのだろう?

 小雨とは言え、もう、蓮はずぶぬれだ。帰らなきゃ、少し寝て大学に行かなきゃ、と、半ば機械的に思い、よろよろ歩き出す。


 帰り道、深夜から早朝にかけての時間、いくら交通量が少なかったとはいえ東京だ。よく事故に遭わなかったものだ、と言うくらいの夢遊病者のような足取りで、ようやく部屋に帰り、しばし呆然と入り口に立ち尽くしていたが、靴を蹴飛ばすように脱ぎ、部屋に上がり、Tシャツとジーンズを脱ぎ捨て、パンツ一枚で洗面所の前に立つ。
 鏡に映ったひどい顔。途端に吐き気が襲う。かといって、吐くようなものもそれほどない、唾液、いや胃液か、と鼻水と涙に塗れた、あぁ、なんてひどい顔だ。もう一度そう思った。

 ふと、横を見た。男が立っていた。蓮の目が慣れてくると、男の目だけが異様に光っているように見えた。
 蓮の、半ば朦朧としていた意識が一気に覚醒する。

 「どわ!」

 何と表記していいかわからぬ短い叫び声を蓮は上げ、反対側に横っ飛びするが、ユニットバスの縁に脚を引っかけ、倒れ込み頭をしこたま打つ。


 『おいおい、落ち着けよ、蓮君』

 人が発する声ではない、頭に直接響いてくる念のような声が聞こえる。痛みで頭を抑えながら男を見ると、果たして、向こう側が透けて見える。
 この年代の男の子、しかも、決して陽キャとは言えない青春を送っている蓮は、ラノベサイトを当然のようによく見ていて、NTRモノと言われるジャンルの中で語られる「脳破壊」と言う言葉を思い出してしまった。あぁ、これのことか、と、思ったが、

 『そんなんじゃないよ。君の目の前にいる僕は正真正銘、幽霊、っていうか、君の守護霊、実の曽祖父の清彦です。よろしく。』

 いや、ちょっと待て。熊本の実家に仏間に抱えられているひい爺さんの写真はこいつとは違うぞ?

 『あぁ、清司のことか。あれは僕の弟だ。まぁ、説明するから、まず服を着なよ』

 ??? もう何が何やら。それにしてもしこたま打ち付けた頭がじんじん痛い。


 『手間がかかるひ孫だな。これで治るだろ。』

 清彦と名乗る幽霊が手をかざすと、ぱたりと痛みが収まった。


 パンツ一枚だったが、とりあえず部屋着のスウェットを着込み、すでに座卓の向こう側に腰を下ろしている幽霊の差し向かいに座る。


 『初めまして。君の曾祖父の坂本清彦です。』
 幽霊はニコニコしながら名乗った。だから分らないって。ひい爺さんだとずっと思っていた、今も思っている清司じゃないのはどういうことだ? 今坂本姓を名乗ったよな、ってことは、婿養子に入った父方の曾祖父でもないという事だし。
 蓮は黙っている。何を言ったらいいのかわからない。

 『ガールフレンドに二股かけられていたことが分かっちゃった君に、何から言えばいいのか分らないが―――』

 いきなり核心ついてきやがりましたよ、この幽霊!

 『君の爺さんの清志郎の実の父は、紛れもなくこの僕だ。で、清志郎が女房に駆け落ちで逃げられた時も、僕はこんな感じで呼ばれてきた。』

 うん、爺ちゃんの名前は清志郎だ。確かに。って、衝撃の新事実! 若いうちに死んだと聞かされていた、ばあちゃん、他の男と駆け落ちしただってぇ!


 『坂本家の代々の嫡男は、どういう訳か女運が最悪でね。君はまだ、学生で結婚なんて程遠い所にいたから傷は全然浅いはずだ。』

 何、それ、ねぇ、ウチの家系呪われてんの? 嫌すぎるんですけど!

 『斯くいう僕は、ビルマ戦線で軍医として従軍したんだけど、戦闘員もやらなくちゃいけない場面があって、その時に右脚を失った。』

 そういって、蓮の目の前で、脚がある幽霊の右脚だけ、木の棒でできた義足に変わった。

 『撤退中、ロヒンギャ、ってわかるよな、大学生なんだし、そのロヒンギャに匿われていたんだが、そのせいで復員が特に僕だけ3年遅れてね。竹山道雄だっけ「ビルマの竪琴」みたいな、あんな感じ。いや、別に坊さんになって死者を弔うつもりはなかったんだけど、匿ってくれたロヒンギャの事情でね、帰ってくるのが遅くなってしまった。』

 蓮は、いつの間にか、清彦と名乗る幽霊の言葉に聞き入ってしまっていた。

 『まぁ、ね、人より復員が遅れたんだったら、戦死したと思われていたとしても仕方ない。僕の親父やお袋も坂本の家を繋げなくちゃいけない。僕の嫁だった春江と弟の清司が所帯を持つことになって、戦争に行く前、君の爺さんの清志郎は僕の実の子だけど、君にとっては大叔母にあたる3人は、春江と清司の子だ。』
 清司と春江、確かにひい爺ちゃんとひい婆ちゃんの名前だ。するってぇと、なんだ? 目の前のオレの実のひい爺ちゃんといってる清彦と名乗る幽霊は、戦争にいって、脚を亡くした挙句、帰る場所も弟に奪われて無くなったってことかっ!?
 強烈な怒りに似た気持ちで、思わす蓮は立ち上がってしまった。その割には、呟くような声で


 「なんなんだよ、それ?」

 落ち着いた感じで清彦は言う

 『別に、春江も清司も、親父やお袋も怨んじゃいないさ。彼らは悪くない。悪いのは・・・わかるだろ?』


 へなへな、と蓮は再び座り込む。

 途端に、急に眠気が襲ってきた。バイト明けでNTRかまされて、幽霊が出て来て、生まれてこの方一番のジェットコースターな日だった。NTRされた辛さとか、どこかに吹っ飛んでしまっていた。

 『もう寝なよ。少し寝て大学行くんだろ? ひい爺ちゃんが、君の仇を討ってきてやるから』

 「なん、だよ、そういうのやめて、くれよ。」
 蓮はもう限界だったが、一時期、ラノベのNTRものにハマったことはあったのだが、復讐がテンプレの展開に、裏切られたからと言って、ガラッと復讐に転じるなんて、尻軽に他の男に乗り換える女の子と同じレベルじゃないか、と、ある時思い至ってから、興味がなくなっていた。復讐って、なんか、みっともない、というか正直退く。

 って、本当にもうだめだ。おやすみなさい。布団もかけずに、蓮は座卓の横で沈没した。

 ―――雨の匂いが、まだ髪に残っていた。