さて、蓮がゆるゆる清彦が辿った生前のことを悪夢として見ていた間、それは、別に清彦が意図して自分の体験を見せていたわけではなく、蓮の前に顕現した時に引っ張ってきてしまったのだが、ご本人、霊格高いとおっしゃってるが、幽霊は幽霊、別に付き合って寝る必要もなく、暇だからというわけではないが、歌舞伎町の片隅にある、一階は入り口が乱雑に合板が打ち付けられた潰れた飲食店という、雑居ビルを前の路地から見上げていた。
裏通りの、業者しか使わないような路地である。人通りも、店が並ぶ通りほどにはない。元より、通行人には清彦は姿を見せないようにしているのだが。別に目当ての部屋まで瞬間移動してもいいのだが、そこはそういう気分だった、と、いうしかない。無様に合板が打ち付けられた店舗の横の入り口に清彦は足を踏み入れる。
他にテナントがない、いつ解体され立て替えられてもおかしくないビルの4階だ。隅の方とはいえ歌舞伎町にそんな物件があること自体、この建物が訳ありなのは、何となく察せられるところだが、他に人気がない、このビルの中で4階の一室だけ、部屋の中に灯りが灯っていた。
中には、30代くらいの男が一人、普段は目立たないようにしているのだろうか? 普通のサラリーマンのようなをしているのだが、この時の、顔つき、口調、醸し出す雰囲気が、とても堅気とは思わせない。名を鷲塚京介といい、牙狼會という半グレ組織の首領をやっている。この部屋は、牙狼會の中でも上部の何人しか知らないような、表には「スマイル企画」などとふざけた小さい手描きの看板がかけられているだけである。
鷲塚は、普段、表の顔の時はおとなしそうな雰囲気でいるのだが、この時は、よく映画やドラマにあるように、机の縁に腰かけ、行儀悪く脚を組み、電話口に口汚い大声で怒鳴るように話をしていた。
「いつまでもモタモタ引っ張んてんじゃねぇよ。惚れちまったのかあんなブスに! とっとと風呂に沈めて上がりとっときやがれ!!」
傘下のホストクラブのホストに違法営業についての指示を出したり
「草の上り、持ち逃げされたって?! ・・・あぁ、ちゃんと取っ捕まえたのか。きっちり締めとけ。指の何本かへし折ってな。殺すなよ。いろいろ面倒だし、従順になった売り手は必要だからな」
など、覚せい剤取引の指示を出したり。まぁ、早い話、冷徹で頭はいいのだが、この鷲塚という男
『クズだな』
この部屋、いやこの建物には自分一人しかいないはずだが、鷲塚には誰かの声が聞こえた。
「……誰だ?」あえて声を落とし冷静さを装って言い、耳を澄ませた。 と、次の瞬間電灯が切れる。わずかに鷲塚が身構えた次の瞬間には再び電灯はついたのだが
『それじゃ、遠慮なくお金もらってくよ』
鷲塚には、声が空気の外から耳にねじ込まれてくるように聞こえた。慌てて、鷲塚は金庫のダイヤルを回す。つい数時間前、自分の手で札束の角を叩き揃えて収めたばかりの金庫が、ただの空気の箱になっていた。
それを確認して「どういうことだ?」と立ち尽くしたが、次に瞬間には思い切り机をけり飛ばす音が他に誰もいない雑居ビルに響いた。
☆
次の朝。
「ねぇ、彦爺」
などと、蓮は目の前の幽霊、見た目は死んだときと同じ大体30代なんだが、試しにそう呼んでみた。
『おぅ、目が覚めていきなり爺呼ばわりか』
「だって、俺にとっちゃ爺ちゃんと言えば清志郎爺ちゃんだもん。ひい爺さんだと思ってたのは、清司爺ちゃんだし。っていうか、そもそも、生きてる清司爺ちゃん知らないんだけど。彦爺は枠外。」
『孫に枠外呼ばわれされた件。・・・まぁ、いいや。僕をひい爺ちゃんと認めてくれるわけだな。』
清彦、「バカテス」の次は、「ティアムーン帝国物語」を読んでいたようだ。単行本を閉じて蓮の方を向く。
「長い夢見たんだ。疲れたよ。彦爺が昔の家の縁側で、小さい清志郎爺ちゃんと遊んでるところから、戦場で、脱出して脚撃たれて、死にかけて……。帰ってきたら、家の戸口の前から入れてもらえなくて。行き場をなくして寺に身を寄せて、そして、死んじゃって。そこから・・・、高校生の清志郎爺ちゃんが、寺の片隅で彦爺の墓に手を合わせているところまで――。」
清彦、一瞬天井を見上げて、ひと呼吸置いて言った。
『う~ん、まずだ、じゃ、僕も君を蓮と呼ぶことにする。蓮もその夢見ちゃったわけだな。』
「誰か他に見た人いるの?」
『清志郎だよ。女房に逃げられた時に、昨日と同じように僕は呼ばれたんだけど、・・・なんか、記憶というか、実際あった出来事を引っ張ってきちゃうみたいだな。僕が知らない場面も清志郎は知っていたりしたから、別に僕が見せたわけじゃないぞ。それだけは言っておく。」
蓮は、かの時代の苛烈な運命、曾祖父清彦だけじゃなく、佐久間秀幸や、戦場や復員船で死んだ人たち、空襲で家族を失った女性などの運命を思い出してしまい、しばし絶句する。
あと、清志郎爺ちゃんが女房に逃げられたって、いったい何?
「いろいろ訊きたいことがあるんだけど・・・」
『ん? なんだ? ひい爺ちゃんが教えて進ぜよう。わかる事だけだけどな。』
蓮は、ちょっとの間、ためらったが、思い切って訊いてみた。
「彦爺が家に入れてもらえなかったときに、どうして、あんなに落ち着いていられたんだ?」
『あ~、それな・・・。うん、わからん。ただ喚いてもどうにもならんと思ってたのかもな。
戦場ではな、怒鳴り散らしたところで、死んだ奴は誰も帰ってきやしないし、腹がふくれるわけでもない。喚いたやつから死ぬ。声をあげずに飲み込んだやつだけが、生き残れたりしてな。
家の前に立ったときも同じだよ。僕が吠えたところで、親父も兄弟も、閉めた戸を開けはしない。だったら、静かに引き下がるしかなかった、みたいなこと考えてたのかもしれん。』
蓮は二の句が継げない。
『あと、家族を、僕のお袋や親父、清司も春江も怨むという感覚は、全然なかったんだ。ただ、・・・なんだろうな? 日本に帰ってきて野宿かよ、とは思ってたかもしれん。』
うん。その感覚、全然わからない。
『子供の時の清志郎と、もっと遊んでやれなかったのは残念だけど、出征する前から、清司の奴がな、清司の奴がな、春江の髪を直す仕草に、ふっと目をやるのを見たことがあった。ホント、淡~くだけど、兄嫁、春江の事、憧れみたいなものがあったんじゃないかと思っていた。脚無くした僕より、清司の方が春江や清志郎を幸せにしてくれると思ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。』
「・・・まぁいいや。全然わかんないけど、彦爺は彦爺だしな。あと、清志郎爺ちゃんがお、奥さん、まぁ、婆ちゃんだけど、逃げられたってどういうこと?」
確か、朝、帰った来たときにも、その話聞いた。確か…坂本家の嫡男は、代々女が運が悪くって・・・って、いやぁぁぁぁぁぁぁ!
『奈穂子ちゃん、って君の母ちゃんな、が小さい時だよ。確か、他の男と駆け落ちしたんだ。詳しいことは清志郎に訊きな。』
訊けるかよ。もう清志郎爺ちゃん、癌でいつ死んでもおかしくないのに。いつ「ジイチャン、キトク、スグカエレ」・・・って、電報の時代じゃないな。とにかく、そういう連絡が来るかもしれないってのに。
『あぁ、清志郎な。大丈夫。僕は霊格が高いから、清志郎の病気くらい、何とかなる。』
このスチャラカ幽霊、何を言ってるのかよくわかりません。
蓮は冷蔵庫から食パンを2枚取り出し、トースターで焼きもせず、そのまま、マーガリン塗りたくってモソモソ食べ出す。食べ出してから、あ、とか思って、清彦に訊ねる。
「まさかとは思うけど、幽霊はメシ、食わないよね?」
ちょっと困った顔をした清彦は答える。
『ああ、それはいいんだけど、蓮、そんなしょぼい朝飯か?』
「地方出身の学生なんて、金がないんだよ。ちゃんと朝飯食ってるだけ、褒めてくれよ。」
拗ねたように応じる蓮に、清彦はにんまりとして
『しょうがないなあ、我がひ孫は。これで何か美味いもの食え』
と、澁澤を一枚、蓮に差し出す。
『孫の奈緒子ちゃんにはそういう機会なかったけど、こうやって小遣い、渡してみたかったんだよねえ』
蓮は困惑する。
『どうした。どこぞのお笑いタレントみたいに、美味いもん食え、で、割り箸渡してるわけじゃないだろ?』
そういう清彦に蓮は
「いや、どうして、幽霊がお金持ってるの?」
清彦はそれには答えず、ニヤリと笑うだけ。もう、なんかね、嫌な予感しかしない。
「彦爺、さあ、大学ついてくるの?」
『何、うちのひ孫は付き添いして欲しいような甘えん坊さんかぁ?」揶揄ってきやがる。
「ちげーよ!」
『あはは、冗談。流石に四六時中憑いてまわられるのも嫌だろう。心配するな。よ!』
掛け声ひとつで、それまで、国民服を着た半透明の幽霊が、現代のその辺にいる成人男性が普通に着ている服装に変わり、半透明じゃなくなった。ついでになくなったはずの脚もちゃんとついていた。
『僕ほど霊格が高いと、こういうふうに実体化もできたりするわけよ。これで、東京観光してくるわ。』
付き纏われるわけではないことにホッとする蓮。
『ああ、この際言っとくけど、一度こうやって目の前に現れた以上、そこにいるのに完全に透明になって蓮から見えなくなる、ということはないみたい。清彦の時はそうだった。蓮の近くに僕がいないんなら、本当に僕は他所に行ってると思って。 まあ、余程の危機一髪の時は、飛んでいくよ。』
「っと、そうだ。昨日寝る間際、仇討つとか言ってたけど、何かした?」
恐る恐る蓮は尋ねた。
「・・・あぁ、蓮を降った女のコな。相手の男と一緒に〈靴の中にずっと小石がある呪い〉と〈毎日身に付けてるものが2センチ破れる呪い〉かけといた。」
とスチャラカ幽霊は答えた。
うわぁ、なにその地味な嫌がらせ・・・。
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