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2022年11月27日日曜日

2022年11月13日日曜日

7678 KZ1000_40 & T1042「日本の思想」丸山真男 岩波新書 Note 5

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 若い時に読み切れなかった古典をしっかり読んでおこうと始めたことであるが、どうにも違和感を強く感じるようになっていく。

 丸山氏は、オレが今読んでいるあたりでは、明治維新開国以降の、伝統思想と外来思想の衝突について、迎え入れる日本の側にいろいろ問題があった、というような趣旨の事を書いておられるが、まぁ、ね、さすがに60年も経てばピントが外れてしまっているような気がして仕方ない。
 今は、開国時の伝統思想と外来思想の衝突や受容ではなく、今まであった思想が世界的なネットの広がりでどのように変容するか、それをどう受け入れるか、が、はるかに大きな問題であるはずだ。所謂「思想界」ではどうなのかは知らないが。

 丸山氏は60年前のリアルタイムの問題としてこの書を書かれているが、我々のこの書との付き合い方は、過去の出来事についてのケーススタディであり、今更、明治維新時の伝統思想と外来思想の衝突はそれ自体喫緊の問題ではない。

 それでも、古典の底力みたいものはあると思っているので、上記の事を念頭に読み進めることになる。


I started reading the classics that I couldn't read when I was young, but I started to feel a strong sense of incongruity.

Mr. Maruyama, as I am reading it now, writes to the effect that there were various problems on the part of Japan that welcomed the clash between traditional and foreign ideas after the Meiji Restoration. But, well, I can't help but feel that after 60 years, I've lost my focus.
Now, rather than the clash and acceptance of traditional thought and foreign thought at the time of the opening of the country, the far bigger problem is how the thought that has existed until now will be transformed by the spread of the global Internet, and how to accept it. should be. I don't know what it's like in the so-called "thought world".

Mr. Maruyama wrote this book as a real-time problem 60 years ago, but the way we relate to this book is a case study of past events, and it is now time to think about traditional thought and foreign affairs at the time of the Meiji Restoration. A clash of ideas is not, in itself, an urgent matter.

Even so, I think that there is something like the underlying strength of the classics, so I will continue reading with the above in mind.


J'ai commencé à lire les classiques que je ne pouvais pas lire quand j'étais jeune, mais j'ai commencé à ressentir un fort sentiment d'incongruité.

M. Maruyama, comme je le lis maintenant, écrit qu'il y avait divers problèmes de la part du Japon qui a accueilli le choc entre les idées traditionnelles et étrangères après la restauration Meiji. qu'après 60 ans, j'ai perdu mon objectif .
Maintenant, plutôt que le choc et l'acceptation de la pensée traditionnelle et de la pensée étrangère au moment de l'ouverture du pays, le problème bien plus important est de savoir comment la pensée qui a existé jusqu'à présent sera transformée par la propagation de l'Internet mondial, et comment l'accepter. devrait être. Je ne sais pas ce que c'est dans le soi-disant "monde de la pensée".

M. Maruyama a écrit ce livre comme un problème en temps réel il y a 60 ans, mais la façon dont nous nous rapportons à ce livre est une étude de cas d'événements passés, et il est maintenant temps de réfléchir à la pensée traditionnelle et aux affaires étrangères à l'époque du Restauration Meiji Un choc des idées n'est pas, en soi, une question urgente.

Même ainsi, je pense qu'il y a quelque chose comme la force sous-jacente des classiques, donc je vais continuer à lire en gardant ce qui précède à l'esprit.


Ich fing an, die Klassiker zu lesen, die ich nicht lesen konnte, als ich jung war, aber ich begann, ein starkes Gefühl der Inkongruenz zu verspüren.

Während ich es jetzt lese, schreibt Herr Maruyama, dass es verschiedene Probleme seitens Japans gab, die den Konflikt zwischen traditionellen und fremden Ideen nach der Meiji-Restauration begrüßten, dass ich nach 60 Jahren meinen Fokus verloren habe .
Heute ist das viel größere Problem als das Aufeinanderprallen und Akzeptieren von traditionellem Denken und fremdem Denken zum Zeitpunkt der Öffnung des Landes, wie und wie das bisherige Denken durch die Verbreitung des globalen Internets transformiert wird zu akzeptieren, sollte sein, ich weiß nicht, wie es in der sogenannten "Gedankenwelt" ist.

Herr Maruyama schrieb dieses Buch vor 60 Jahren als Echtzeitproblem, aber die Art und Weise, wie wir uns auf dieses Buch beziehen, ist eine Fallstudie vergangener Ereignisse, und es ist jetzt an der Zeit, über traditionelles Denken und Außenpolitik in der Zeit nachzudenken Meiji-Restauration Ein Zusammenstoß von Ideen ist an sich keine dringende Angelegenheit.

Trotzdem denke ich, dass es so etwas wie die zugrunde liegende Stärke der Klassiker gibt, also werde ich mit dem oben Gesagten weiterlesen.


Empecé a leer los clásicos que no podía leer cuando era joven, pero empecé a sentir una fuerte sensación de incongruencia.

El Sr. Maruyama, mientras lo leo ahora, escribe en el sentido de que hubo varios problemas por parte de Japón que dieron la bienvenida al choque entre las ideas tradicionales y extranjeras después de la Restauración Meiji. Después de 60 años, he perdido mi enfoque. .
Ahora, más que el choque y la aceptación del pensamiento tradicional y el pensamiento extranjero en el momento de la apertura del país, el problema mucho mayor es cómo se transformará el pensamiento que ha existido hasta ahora por la expansión de Internet global, y cómo aceptarlo debería ser No sé cómo es en el llamado "mundo del pensamiento".

El Sr. Maruyama escribió este libro como un problema en tiempo real hace 60 años, pero la forma en que nos relacionamos con este libro es un estudio de caso de eventos pasados, y ahora es el momento de pensar en el pensamiento tradicional y los asuntos exteriores en el momento de la Restauración Meiji Un choque de ideas no es, en sí mismo, un asunto urgente.

Aun así, creo que hay algo así como la fuerza subyacente de los clásicos, así que seguiré leyendo teniendo en cuenta lo anterior.


我開始讀小時候看不懂的經典,但我開始感到強烈的不協調感。

我現在讀到的丸山先生寫道,日本在明治維新後歡迎傳統觀念與外國觀念的衝突,存在各種問題。60年後,我失去了注意力.
現在,與其說是開國時傳統思想與外來思想的碰撞和接受,更大的問題是至今存在的思想將如何被全球互聯網的傳播所改變,如何接受它。應該是。我不知道在所謂的“思想世界”裡是什麼樣的。

丸山先生在 60 年前將這本書寫成一個實時問題,但我們與這本書的聯繫方式是對過去事件的案例研究,現在是時候思考當時的傳統思想和外交事務了明治維新 思想衝突本身並不是一件緊迫的事情。

即便如此,我認為還是有一些經典的底蘊,所以我將繼續閱讀以上內容。

2022年9月24日土曜日

2022年5月1日日曜日

7478 toecutter replica & 世紀末なんたら伝説と末法 

 

7478 toecutter replica


 丁度「鎌倉殿の十三人」、大河ドラマでやってるが、鎌倉時代の武士なんて言うのは、まだまだ、野盗と区別がつかないならず者が多く、まぁ、言ってみれば某世紀末何たら伝説に出てくるようなヒャッハーな人たちがいっぱい? このあたりを末法の世とし、法然、日蓮、道元が現れた、なんて、昔歴史の授業で習ったこと、wikipediaで確かめながら進めていく。

 日蓮が今の関東、千葉鴨川のあたりのその辺の農民とかのリーダー的な家に生まれ幼少時を過ごし、仏門に入り、特定の人物に師事するということもなく、大体は独学でसद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra、即ち「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)にたどり着いたとあるが、多分その頃の関東と言えば、集落から一歩出たらヒャッハーの真っただ中で、幼少時から末法の世を皮膚感で感じていたのだろう。

 ということは、来世以前、たった今、救済などとお高くも止まれない、正にわが身を守らなければいけない、魂の救済? そんなの後々、という現実も身に染みていたのだろう。仏様の話は今晩ゆっくりするとして、たった今だ、この酷い現実を何かしなければ、というところが、法華宗系が他の宗派に比して特に政治を志向する原因の一つなのかもしれない。或いは仏の教えと現実の乖離具合、そのギャップをいかに埋めるかで、終生頭がいっぱいだったのかもしれない。

 それにしても、日蓮正宗、創価学会と、妙信講則ち顕正会の人たち、正本堂の建立なんてことで対立するとか、っていうか、そこに、派閥同士のマウントの取り合いがあったんだろうが、それ自体、像法または末法の徒の所業と思わなかったのかしら? 日蓮がいたら実に下らん、と、三者まとめて一刀両断されるかも、とか思わなかったのかしら?

 まぁ、日蓮がそれをいかに思ったかなんて知るすべもないが、

 例えば、平安末期から鎌倉期の、特に治安の乱れを、現代の状況に類似する、という法華宗社会観、歴史観であるが、事此処にいたり、信心が無くなったからだ、などと言ったところで、現実の野党の主張並みに、抽象的過ぎて、お花畑で、却って、だから宗教は、となりかねない。っていうか、なってるし。そういう現実を、今の日本中が間違っている、などと繰り返してそれしか言わないのであれば、これまた無能な野党と同じなのである。
 せめて、信心によってどうなる? またはどうして信心を獲得できない? その辺を地道に探っていくところが見えればよいのだが、まぁ、大方の印象はそうじゃない。
 宗教法人は、自分たちに誤謬は一切なく間違っているのはこの世の方で、力ずくでそういう民心を変えなければならない、というのがまぁ、ほぼ100%で、これでは、彼らが忌み嫌う共産党員と全く同じなのである。
 まぁ、好きに言っててくれよ、ただしオレのいないところで、なんだが、

 一応オレも政治学科にいた人間で、とりあえず分かったのは、政治という如何に複雑怪奇で人心をまとめるなんていく困難も知っているし、っていうか習ったし、それに対するあらゆる処方も仮説の域を出ないことも習った。経済学、社会学、心理学、法律、それらの更に細かく分類分化されたものが、人数分の利害も絡んで、もうほっぽり出したくなるほど「面倒くさい」をはるかに通り越した複雑さで、それを何とか解明しようとする学問であったと思うが、それを「仏の教え」なんて、一言で何とかなると思われているとしたら、何とも舐められたものだ、と、苦笑いしか出てこない。仏の教え、それは結構。それを是非、膨大な個別の問題、恐らく全人類の人口以上の数がある、に生かして順に解決していってはくれまいか? おそらく、それは教義のお仕着せでは何一つ成せないはずだ。

 とりあえずはウクライナ問題だ。コロナ禍の事もある。それにして物流や経済が急激に悪化している。ウクライナ問題では、それこそヒャッハーなことをしでかすロシア兵がかなりいたそうである。国立戒壇の建立なんて言ってる場合じゃないぞ。今ある危機についてちゃんと彼なりに対処しようとしたのが日蓮ではなかったか?

 とはいえ、一介の田舎のおっさんにすぎないオレにしても、それについての処方など一切持っているわけではない。自分にできないこと人に求めるのも何なんだが。

 逆に言えば、日蓮聖人の教えは、「白蓮華のように最も優れた正しい教え」を唱える、それがすべてで、それ以外は一切要らないということもできる。一切の政治的活動もだ。

 まぁ、そういうわけで、摂受ならまだしも、つまりそういう考えの人も世の中に入るんだねぇ、と思えても、オレはそれを自分のものとすることはできない、オレを折伏弘通するなんて言うのはやめてください。たのんます。

 画像は、世紀末何たら伝説な漫画の世界観の元になった「Mad Max」に出てきた、トゥカッターの単車のレプリカ。