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2024年12月22日日曜日

8648 Alessandoro Nannini

 

8648 Alessandoro Nannini

Alessandoro Nannini
Benetton B188 Ford DFR V8
Monaco 1988

 何をいまさらと言われそうだが、オレの絵というのはほとんど、ネットで見かけた「お!」という絵を基にしている。この絵は金子博氏の写真を基にしているが、絵にすれば絵になるものが、金子氏のものは、絵にしても、金子氏の世界から逃れることが出来ない。大家の凄みをひたすら感じてしまった。


2024年9月16日月曜日

2024年8月14日水曜日

8443 Didier Pironi _3

 

8443 Didier Pironi _3

Didier Pironi 
Tyrrell 008 Ford-Cosworth DFV
Autódromo Oscar Alfredo Gálvez, Buenos Aires  1978


2024年8月4日日曜日

2024年7月30日火曜日

8395 Patrick Depailler _4

 

8395 Patrick Depailler _4

Patrick Depailler
Tyrrell P34/77 Ford-Cosworth DFV
Kyalami  1977


2024年7月24日水曜日

2024年7月20日土曜日

2024年6月30日日曜日

8283 Gilles Villeneuve _20

 

8283 Gilles Villeneuve _20

Gilles Villeneuve
Marlboro - McLaren M23 Ford-Cosworth
Silverstone  1977


2023年7月2日日曜日

2023年6月11日日曜日

2023年5月27日土曜日

2023年3月24日金曜日

2022年10月21日金曜日

2022年5月22日日曜日

2022年4月30日土曜日

7475 Ayrton Senna da Silva_26 & メメントモリモリ

 

7475 Ayrton Senna da Silva_26


 一個前のエントリを書いていて思い出した。そうだよ、5月1日じゃないか、と。セナの死から28年、もう28年だよ、え? 微妙にここ何本かのエントリとテーマが重なるので、画像、カワサキ空冷4発から離れて、5月1日恒例セナ画いきます。

 もうムリとわかっていたんだよ、あの頃、オレ。で、ぽっきり男根が中折れするがごとく、セナのウィリアムスはタンブレロの壁に激突し大破したのは、何かを暗示しているように思えた、とは、何度か書いた。ここは戦略的撤退をすべき局面であると強く感じるきっかけだったのだ、1994年5月1日にイモラサーキットで起きた出来事というのは。ここでこんな風に腐ってる場合じゃない、何かを練り直さねば、と思ったのだ。

 ここへきて、の一連のささやかな出来事は、神仏か、或いはセナかもしれないが、何かこの所ですることがあるのなら、ぼやぼやしてるんじゃない、と、そういったものが彼女を遣わしたのかもしれないな、とも思ったりもする。


 そんなことを思ったりもするのだが、だがしかし、だ、悪いものを抱えて死んで地獄に堕ちる人の骸は、黒ずんで重くなってしまうのだと、これは彼女の団体が言っていることなのだが、それを熱心にオレに言う彼女に、「あぁ、〇〇ちゃん、これ以上オレをがっかりさせにで!」と、内心思いながらも、かなりあいまいな表情をオレは浮かべていたことだろう。まぁ、これも書いた通り、翌日の職場での彼女はいつものようにカッコよかったからいいんだがな。
 死に際し、いよいよ魂魄が肉体から抜け落ちると、体重が何百グラムか落ちる、つまり、魂魄にも質量があるのではないか? という話はどこかで読んだことがある。死体になるとがおかしな具合に硬直し黒ずんでしまうというのはその人が地獄に堕ちたから、なんて初めて聞くが、どうやら彼女の団体の重要な教えでもあるらしい。

 言っちゃ悪いが、関係なくね? とか思ったが口には出さない。それは、多分生前摂取した化学物質のせいかもしれないし、オレみたいに心臓疾患を抱えて血の巡りが悪くなってりゃ、死んでしまうと早いうちにそうなってしまうこともあるかもな。逆に言うとオレが死ねばそうなってしまう可能性は結構ある。でも、そんなこと、多分自分の身に起こるであろうけれど、やはり、関係ないね、って。
 死ぬ時ゃ、そうだな、死期を悟ったら、南の島の人が来ないようなところの樹の根元に倒れ伏し、そのまま息を引き取って、ドロドロに溶けるように腐って土に還りたいものだと思っている。まぁ、その辺の野生動物とかに食い散らかされて、肉も骨もその辺に散らばって、そのままの形では土に還ることもかなわないのだろう。ただ、妙に黒ずんだシミを大地に残すのは一緒なのかもしれない。両親が死ねば、まぁ、妹はいるけれど他に係累がいない以上、そうなる自由もオレにはある。まぁ、日本国の領土の中でそれをすると関係諸方面に多大なるご迷惑をおかけすることになるかもしれないので、他所で。

 宗教にとって、死というのは重要なテーマだ。どの宗教にとっても。死んだら、今の思い、思うオレのこの心は、どこに行くのだろう? およそ意味消失というのが、言葉ではわかっても実感として想像できない。
 しかし、まぁ、前の職場で、山の中上司が目の下に延びる跡津川断層を見ながら言ったことが今でも忘れられなくて。このブログの前やってたウェブページにも書いたけど。

 「俺達ゃ、何千何万年の時間相手に商売してるようなもんだよな」

って。地質調査の仕事というのは、確かにそういう側面がある。地球誕生からの時間を24時間と見立てたら、人類がなんかもしゃもしゃやってる時間というのは、わずか0.2秒なんだそうで。そんなところで、自分の魂がどこに行くとか何とか、ひどく無意味に思える。少なくとも、死後の事について何か憂うるというのは、オレにはない、そんなヒマはないと認識している。何も残せないだろうけれど、残してもなんか無駄なような気がするけれど、オレの人生の勝利条件はそんなところにはないと思っている。

 でも、ま、それで、ちゃんと彼女はやっているのだから、彼女にとってこれは間違いではないのだ。それは尊重しよう。何事も相性なのだ。彼女とこの教えの相性はこの上のないものなのだろう。
 しかし、まぁ、困ったなぁ、彼女とその友人がオレに言ってること聞けば聞くほど、気持ちの乖離が止められない。