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2025年6月27日金曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義9 雑記3 その頃太宰治は

 


8816 ガンダムアンパンマン

 事実では、やなせたかし氏と奥さんの暢さんは、幼馴染ではなく、暢さんが最初の夫と死別後にふたりは出会っている。

 したがって、「あんぱん」のように、やなせ氏がBSS(クがきだったのに、のラノベ界隈で使われている言葉)に苛まれることは無かったと思う。脚本では、したがって、青年前期の未成熟な嵩に、実際にはなかった、そこそこの重石を一つ余計に背負わせることになる。あんぱんの嵩は、その辺に転がるラノベのように闇落ちも安易な大逆転も許されていない。うわ~、大変だな~。

 小さい絶望に大きな絶望を重ねていくことになる嵩。アンパンマン的な贈与行為に向かっていくというのは、とても深くてリアルな動機づけになる。単に「正しいから助ける」とか「ヒーローだからやる」ではなくて、自分の痛みを知っているから、他人の飢えや孤独にも応答せずにいられない。
 戦争体験や弟の戦死、苦労の末に「アンパンマン」を生んだことを公言している。つまりアンパンマンの贈与の背後にも、「人生の敗北」や「取り返しのつかない喪失」がある。

 「喪失を知っている人だけが、本当に他者を助けられるのではないか?」SNSで誰もが「傷ついてないふり」をしている今、与えることが「自己ブランディング」や「見返り目的」にすり替わっている今、あえて「絶望の記憶をもったまま贈与を行う人間」を描くことは、ものすごく誠実なヒーロー像になるように思う。

 今のラノベでタカシのような性格の男子が幼馴染が別の男とくっつくと、とんでもない闇落ちするか、あるいは、その後、すぐに、いとも簡単に立場が大逆転するとか。浅いな~と。今時のラノベは、「幼馴染が他の男とくっついた→はい復讐! or はい俺、最強で逆転!」っていうテンプレ展開が多すぎて、傷ついた心の描写が消費されてる感がある。
 多くのラノベは、「失恋=ストーリー開始の燃料」として使ってしまっていて、その苦しみの意味や余韻を大事にしない。
 結果として、登場人物の感情が「道具」になってしまっている。それが支持されてしまう、という文化的な底の浅さ。


 嵩は、一度絶望して、それでも贈与する道を選んだ。これは、単なる「癒やし」や「逆転勝利」ではなくて、失われたものは戻らない、けれど、その喪失を抱えたままでも、誰かを助けることはできる。それどころか、その傷があるからこそ、他人の痛みに本当に応答できる、という、人間の成熟した可能性を描いている。

 アンパンマンも、最初からあの形だったわけではない。やなせたかしは晩年まで、アンパンマンに「悲しみ」が宿っていることを語っておられたようだ。
 ラノベ的な闇落ちは、読者のカタルシスにはなるけど、「人間の救い」にはなかなか至らない。が、タカシのように、「もうダメだ」と思った先で、それでも何かを与えられる人間になっていく姿には、本当の意味での「回復」が描ける。

 やなせたかしが最初に描いた童話版アンパンマン(1973年の「詩とメルヘン」版)は、小太りで、疲れた中年男で、空腹の子にアンパンを配るだけ。しかも最期は、戦火の空に高射砲で撃ち落とされて死ぬ。
 全く子ども向けじゃない、むしろ「哀しい献身の寓話」だった。
 これは、実はやなせ自身の戦争体験と挫折、無力感が色濃く投影されていて、「正義とは空腹を救うこと」 「どんなに弱くても、やれることをやる」という、戦後の倫理的な問いかけが根底にある。


 太宰治氏など、戦後の無力感、虚無感を文章で名声を得たようなものだが、同じころこんな風にやってた人もいたんだな。太宰氏が「負けた者の言い訳」や「敗者の自己美化」みたいな語りで読者を魅了していた一方で、やなせたかし氏は、それでも人にパンを分ける中年の背中を描いていた。
 つまり太宰治氏が「どうせ僕は駄目なんです。でも、あなたもそうでしょう? ね、分かってくださいよ……」と読者と共に無力感を共有して、生きる道を探った。そこには時に**“共依存”のような快楽**もある。
 一方でやなせたかし氏は「正義なんてものは、腹が減ってたら始まらない。だから今日も配る。顔が減ってもな」という行動の倫理であり、“小さな希望”の実践する。誰にも拍手されずとも、「やれることをやる」という姿勢がある。

 勿論、太宰の文学性は圧倒的に高いし、後世に与えた影響も絶大だが、「戦後の同じ時代に、こんなやり方で“正義”を問い直した人がいた」と知ると、やなせたかし氏の立ち位置がぐっと浮かび上がる。

 やなせたかし氏には、「生き残ってしまった者の責任」という強烈な意識が根付いていた。それは、太宰治のような戦争を“遠くから見つめる知識人”には、どうしても持ち得なかったものだ。

 太宰は、出征せずに済んだ世代の一人であり、心中未遂、薬物依存、自意識過剰、どこまでも内面の傷を凝視し続けることが彼の文学の源泉だった。それは「地獄を“想像する”ことで、地獄を描いた」 という側面も否めない。知的に敗戦後の無力感を表現し、文学に昇華した、と。

 やなせ氏は 「正義の味方なんて、どこにもいなかった」と地獄を見た人だった。
 あぁ、思い出した。仮面ライダーも最初期の企画はプロデューサーの平山亨氏が、子供の頃の戦後の焼け野原に現れるヒーローへの希求があったと聞いている。
 閑話休題。
 
 やなせ氏はこう語っている。「正義なんてものは、腹が減ってたら始まらない。まずパンが必要だ。」つまり、悲惨を見たからこそ、そこに“生きる価値”を置くという、極めて実存的な選択をした。

 やなせ氏は、おそらく、自分だけが生き残った罪悪感(=サバイバーズ・ギルト)、家族(特に弟)を失った喪失、戦中・戦後の無力さ、これらを抱えながらも、“死にたさ”に負けなかった人なのだろう。一種、それは「生きろ」という呪縛でもあったかもしれない。でもそれは、「義務」じゃなく、 “せめて何かを他人に残して死にたい”という希望に変換されていった。


 ポンと思った。なんか永劫回帰で超人だわ。
 永劫回帰とは、「この人生が何度でも繰り返されるとしても、**“然り”と言えるか?」 という問いだ。
 アンパンマンは、「パンを焼く(=日々生まれ変わる)」、「顔をちぎる(=自己犠牲の繰り返し)」「戦う(=バイキンマンとの果てなき闘争)」「また焼かれる(=顔を失えば、また新しくなる)」これら、延々と同じ輪廻を繰り返す存在だ。
 でも彼は、そのたびに「そう、これが俺の正義だ」 と言わんばかりに、顔を差し出す。

 ニーチェが言う「超人」とは、「道徳に振り回されず」「自らの価値を創造し」「苦悩すらも肯定できる者」である。
 アンパンマンは、「国家に命じられた戦争でも」「他者から押しつけられた正義でもなく」「「自分が信じた、他者を救う力」としての正義を選び続ける」。


 アンパンマンが我々に突きつけているのは「君は、この世界を何度繰り返しても、もう一度、同じように生きたいと思えるか?」と言う問で、それが「ノー」なら、「誰かのために何かを焼き直す」「顔を分け与える」「痛みにもう一度向き合う」、そうやって、肯定できる人生を自ら作れということ。

 つまりアンパンマン=“永劫回帰を肯定するヒーロー” =“超人(Übermensch)”、子ども向け作品の皮をかぶった、哲学の爆弾だった


 すんません。あんな間の抜けた造形だから、てっきり舐めてました、オレ。